——1467年1月4日の同盟——
記載日:2006年10月27日以前
更新日:2010年9月11日


概要
 1467年1月4日、フィレンツェ共和国、ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の対ヴェネツィア防衛同盟を結んだ。


発端
 1466年、フィレンツェ共和国の被追放者たちは、ヴェネツィアに結集。1434年の被追放者とも結び、ヴェネツィア共和国に反フィレンツェ軍事行動を強く勧奨し続ける。
 ヴェネツィア共和国は、自軍の指揮官バルトロメオ・コッレオーニを解任してフィレンツェ共和国の被追放者たちに与え、その下での軍の結集、強化を支援。


陣営
フィレンツェ共和国同盟軍
ウルビーノ
 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ・・・最高指揮官

フィレンツェ共和国(ピエロ・イル・ゴットーソ
 ロベルト・サンセヴェリーノ

ナポリフェッランテ・ダラゴーナ
 アルフォンソ2世・ダヴァーロス

ミラノ
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ自ら2千の騎兵を率い、その費用はフィレンツェ共和国が持つ

ヴェネツィア共和国を中心とする対同盟軍
ヴェネツィア共和国
 バルトロメオ・コッレオーニ・・・最高指揮官

フェッラーラボルソ・デステ
 エルコーレ1世・デステ

ペーザロ
 アレッサンドロ・スフォルツァ

ファエンツァ
 アストッレ2世・マンフレディ・・・途中でフィレンツェ共和国を裏切りヴェネツィア陣営へ

フィレンツェ共和国被追放者
 アニョロ・アッチャイウオリ
 ディエティサルヴィ・ネローニ
 ニッコロ・ソデリーニ


▼その他の国の対応
▽同盟側
 ボローニャジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
 イーモラ

▽中立
 リーミニシギスモンド・マラテスタ


会戦
 1467年5月10日、ヴェネツィア軍は、ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。
 1467年6月、同盟軍とヴェネツィア軍が、ファエンツァとフォルリの間で相対。余談だが、バルトロメオ・コッレオーニはこの時、イタリアの歴史では初めて、三十門の野砲を第一線に押し出している。戦場に混乱をもたらしたものの、実際にはそんなに被害が出るものではなかったらしい。
 この間、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、ピエロ・イル・ゴットーソに、戦争の展開を議論するべくフィレンツェに招かれている。
 1467年7月23日、両軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、戦闘が断続的に続く。
 1467年7月25日、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが戦場に戻る前に、ロマーニャのメッツォラーラに近いリッカルディーナで両軍が遭遇。正面切っての会戦となり、バルトロメオ・コッレオーニが敗退。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、兵の大部分を率い、ミラノへ帰還。


終息
 1468年2月2日、パウルス2世はミサでオスマン・トルコに対抗するためにイタリアの平和の必要性を訴える。
 その上で、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営の30日以内の和平、トルコ軍の脅威に曝されているアルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官としてバルトロメオ・コッレオーニのアルバニアへの派遣、彼への報酬年俸10万フィオリーノイタリア諸国による支払い、この間の戦闘で奪われたイーモラ及びフィレンツェ共和国の所領の返還を内容とする勅書を発する。
 これに対してフィレンツェ共和国、ナポリミラノは、和平には賛意を表しながら、バルトロメオ・コッレオーニへの報酬の負担を拒否。
 1468年4月25日、バルトロメオ・コッレオーニに関する条項を撤回した修正和平案をフィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営に提示。
 1468年5月8日、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営は共に、パウルス2世の修正和平案を受諾。フィレンツェ共和国の被追放者たちの企図は潰える。


関連項目
 ピッティ陰謀事件


外部リンク
 Wikipedia


参考文献
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
出来事
そこそこアレな感じで