- 生没
- 1450年~1515年8月2日
- 出身
- アメーリア
- 没地
- ローマ
- 父
- ベルナルディーノ・ゲラルディーニ
- 母
- ペルージア・クレスチオリーニ
概要
アガピート・ゲラルディーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、チェーザレ・ボルジアの第一秘書官。
ニッコロ・マキアヴェッリがフィレンツェの外交官としてチェーザレ・ボルジアのもとへ来ていた時、親しく言葉を交わしていた。
おじにセッサ司教アンジェロ・ゲラルディーニとカンタンツァーロ司教ジョヴァンニ・ゲラルディーニがいる。
在位
マンフレドーニア大司教 1500年5月4日~1506年
年表
1450年
アメーリアにて生。
1458年
父ベルナルディーノ・ゲラルディーニがナポリ王フェッランテ・ダラゴーナに仕える。
14??年
グリフォーネ・ディ・アメーリアに学ぶ。
14??年
ペルージア大学で学ぶ。
14??年
剃髪式。
1479年6月18日
シクストゥス4世により、司教座聖堂参事会員に任命される。
14??年
アメーリアの司教代理に就く。
14??年
ローマに行き、ポンポーニオ・レートの学校で学ぶ。
1480年
ナポリにいる父ベルナルディーノ・ゲラルディーニの働きにより、30歳で司教職に就く。
14??年
フィリベール・ウゴネ枢機卿の秘書官になる。
14??年
フィリベール・ウゴネ枢機卿により、リエージュ司教座聖堂参事会員に任命される。
1482年
この年から教皇勅書の草稿者、秘書官を務める。
パオロ・コルテージ、フアン・デ・ヴェラ、セラフィーノ・アクイラーノらと知り合い、ローマ・アッカデミアの文芸サークルの一員となる。
1494年
使節としてナポリへ派遣される。
1494年
フランス王シャルル8世侵攻の危険が迫ったとき、ローマへ戻る。
1494年
コロンナ家が公然と教皇アレクサンデル6世と敵対した時、同家に味方していたアガピート・ゲラルディーニはアメーリアに避難。
しかし、アメーリア市民はアレクサンデル6世を支援。ローマ貴族に仕え、テヴェレ川の谷の領土拡大を狙いウンブリアに被害を与えていたバルトロメオ・ダルヴィアーノへの憎悪によるものである。
1496年
アレクサンデル6世がオルシーニ家らローマ貴族制圧に乗り出し、コロンナ家派のアガピート・ゲラルディーニは教皇秘書官として残ることができる。
1497年5月22日
ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダ枢機卿が、枢機卿会議にて、ペルージアとウンブリアへの教皇特使として任命される。
ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダの秘書官として随行。
1498年7月
ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダの秘書官をB. Orsinoと代わり、チェーザレ・ボルジアの第一秘書官になる。
以後5年間にわたりチェーザレ・ボルジアに仕え、信頼厚い顧問としてどこへでも随行し、最も重要な書類全てに彼の署名がある。
1498年8月6日
長期間の仲裁と自身の家族の支援もあって、コロンナ家とオルシーニ家の和解に成功。アメーリアとバルトロメオ・ダルヴィアーノも含み、この日協定が結ばれる。
1498年8月16日
ルイ12世とジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻無効、ジョルジュ・ダンボワーズの枢機卿叙任、チェーザレ・ボルジアのフランス行きをまとめる。この日、ルイ12世とアレクサンデル6世の間で協定が結ばれる。
1498年10月1日
チェーザレ・ボルジアに従い、フランスへ向けローマ出発。
1499年5月12日
ブロワにてチェーザレ・ボルジアとシャルロット・ダルブレの結婚式が挙げられる(1499年5月10日)。この結婚の交渉をしたアガピート・ゲラルディーニが証人を務める。
1499年
チェーザレ・ボルジアの名において、C. Sexteを公爵のフランスでの領地の管理を担当する代官に任命。
1499年10月6日
チェーザレ・ボルジアとルイ12世のミラノ入城に随行。
1499年11月
チェーザレ・ボルジアのロマーニャ攻略に随行。
1500年1月23日
この日、チェーザレ・ボルジアにフォルリが降伏。
フォルリに官房を設置する。
1500年2月5日
この日、ルドヴィーコ・イル・モーロがミラノを奪還。
1500年
ルドヴィーコ・イル・モーロのミラノ奪還により、ヴァティカン宮殿からロマーニャ管理に従事せざるを得なくなる。
加えて、チェゼーナ代官ジョヴァンニ・オリヴィエーリのような、チェーザレ・ボルジアに従う聖職者たちの教区の管理をも行う。
1500年5月4日~1506年
マンフレドーニア大司教に任命される(1500年6月4日)。5百金フィオリーノでこの地位を手に入れる。
15??年
数人のアメーリアの学者を連れて、パオロ・コルテージ邸にて、アッカデミアに参加することを楽しみとする。フランシスコ会修道士エジーディオ・デルフィーノや医師C. Clementiniがいた。
ヴィンチェンツォ・コッリはアガピート・ゲラルディーニを「人として、学者として、現世の活動において尊敬すべき」と評している。
1500年夏
再びオルシーニ家とコロンナ家が対立し、争いの中きょうだいピエルジョヴァンニ・ゲラルディーニが殺される。
1501年5月15日
この日、チェーザレ・ボルジアがフィレンツェ共和国と同盟。
アガピート・ゲラルディーニがシニョーリアと交渉し、チェーザレ・ボルジアに傭兵契約という形で3万6千ドゥカートを支払うということで妥結。とにかくチェーザレ・ボルジア軍を追い払いたいフィレンツェ共和国の空約束で、このコンドッタが支払われることはなかった。共和国が支払い能力のないことを予期して、チェーザレ・ボルジアがこの材料を後で利用できるようにしたのである。
このように、あからさまな脅迫と金銭的譲歩の駆け引きが、アガピート・ゲラルディーニの外交官としての特徴である。
1501年
教皇により、フアン・デ・ヴェラ枢機卿がペーザロとファーノへ派遣され、これに随行。教会の代理として忠誠の誓いを受ける。
1501年7月24日
ルイ12世軍とチェーザレ・ボルジア、カプアを占領。
1501年
アレクサンデル6世がコロンナ家に報復、罰金を科す。中でもアメーリアには重い罰金が科される。アガピート・ゲラルディーニは教皇庁と交渉し、5千ドゥカートを3千ドゥカートに減額することに教皇の同意を得る。レオ10世の時代にようやく完済。
1501年9月
アメーリアは以前の同盟を取り消し、プロスペロ・コロンナとの関係を保ったまま、チェーザレ・ボルジアの保護を受ける。
1502年6月24日~1502年6月26日
ウルビーノにニッコロ・マキアヴェッリが派遣される。
1502年10月7日~1503年1月20日
チェーザレ・ボルジアのもとにニッコロ・マキアヴェッリが派遣される。
アガピート・ゲラルディーニはニッコロ・マキアヴェッリの友人となる。ニッコロ・マキアヴェッリは「このような幸運を念頭に置いておくべきでしょう」と報告する。
チェーザレ・ボルジアのフィレンツェ共和国に関わる政略のみならず、マジョーネの陰謀に対する様々な見解についても、ニッコロ・マキアヴェッリから質問される。和平については打ち明けるが、セニガッリアでの計画については話さず。
1502年10月29日
朝、ニッコロ・マキアヴェッリにマジョーネ連合との和睦の内容について質問され、笑って「彼らを食い止めるためだ」と答える。
条項を付け加えるため、パオロ・オルシーニがイーモラを出発した後を追う。このフランスに関する条項なしには、和平協定を長期間保持することをチェーザレ・ボルジアは欲せず。フランス王ルイ12世を防衛から除外するというもので、パオロ・オルシーニは初め拒絶し、到底他の者が受け入れるとは考えられないと言う。
1502年11月1日
ニッコロ・マキアヴェッリから再び質問され、「こんな条約は子供でも笑うべきだ」と答える。ニッコロ・マキアヴェッリはアガピート・ゲラルディーニがこのように話すのはコロンナ派のせいかもしれないと補足。
1503年1月
チェーザレ・ボルジアのコッミッサーリオとしてペルージアに派遣される。
1503年8月
オルシーニ家に対抗するためコロンナ家と和解するよう、チェーザレ・ボルジアに助言。
別表記
アガピート・ゲラルディ、Agapito Geraldi、Agapitus dei Gerardi、Agabito da Amelio、Agapitus of Emelia、Agabito Geraldino、Agabito Gerardino da Amelia
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
GCatholic.com
Key to Umbria
La famiglia Geraldini
La famiglia Geraldini
La famiglia Geraldini
Prosopografia dell'Università degli Studi di Perugia
Treccani
Treccani - GERALDINI, Bernardino
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月6日以前