Agnolo Acciaiuoli

アニョーロ・アッチャイウオリ

生没年:?~1467年以降
在位:カッサーノ男爵 ~1467年
    先代:ヤコポ・アッチャイウオリ
   正義の旗手 1448年11月~12月、1454年
父:ヤコポ・アッチャイウオリ
妻:サラチーナ・ジャコミーニ・テバルドゥッチ
子:ヤコポ・アッチャイウオリ
  ロレンツォ・アッチャイウオリ
  ニッコロ・アッチャイウオリ
  ヤコポ・アッチャイウオリ
  ネリ・アッチャイウオリ
  ヤコポ・アッチャイウオリ
  ラッファエーレ・アッチャイウオリ
  タンチア・アッチャイウオリ
  ラウドミア・アッチャイウオリ

概要

 アニョーロ・アッチャイウオリは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
 祖父のドナート・アッチャイウオリよりカッサーノ男爵位を相続するが、ナポリ王国内の彼の領地は1467年に没収される。
 外交官としての経歴はナポリより始まり、1415年、ジョヴァンナ2世・ダンジオより騎士の称号を授与される。
 その後、先祖代々の地であるフィレンツェに引っ越し、フィレンツェにおいても騎士の称号を授与される。ヴェネツィア、ルッカ、フェッラーラ、教皇庁などの地へ派遣される。
 1451年5月初め頃に発足した、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・ダラゴーナらの同盟に対抗するための十人委員会に、コシモ・イル・ヴェッキオネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニルカ・ディ・マーゾ・デリ・アルビッツィらと共に選ばれる。
 1452年10月、フィレンツェは、使節として彼をシャルル7世の元に送り、ルネ・ダンジュー軍のイタリア派遣を要請して受諾される。
 このようにメディチ支配下で指導的地位を占めていたフィレンツェの有力者であったが、ルカ・ピッティディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニらと共に、ピッティ陰謀事件に加担したことにより、失脚。息子たちと共にバーリ近郊Barlettaへ、20年間追放の処分を受ける。

年表

1415年
ナポリジョヴァンナ2世・ダンジオより騎士の称号を授与される。
1415年
armato Cavaliere di Popolo dalla Signoria di Firenze
1415年
フィレンツェ共和国外交官としてGiacomo di Borbone di la Marcheの元へ。
1420年5月23日
サラチーナ・ジャコミーニ・テバルドゥッチと結婚。
1422年
フィレンツェ共和国外交官としてヴェネツィアへ。
1438年
フィレンツェ共和国外交官としてルッカへ。
1438年
Membro della Magistratura dei Dieci di Balia
1440年
Membro della Magistratura dei Dieci di Balia
1440年
フィレンツェ共和国外交官としてフェッラーラへ。
1441年
Membro della Magistratura dei Dieci di Balia
1441年
フィレンツェ共和国外交官としてフェッラーラへ。
1447年
Oratore della Repubblica di Firenze al Sommo Pontefice
1448年11月~12月
正義の旗手
1449年
フィレンツェ共和国外交官としてフランチェスコ1世・スフォルツァの元へ。
1450年
フィレンツェ共和国外交官としてフランチェスコ1世・スフォルツァの元へ。
1451年
Oratore della Repubblica di Firenze al Re di Francia
1451年5月初め
ヴェネツィアとアルフォンソ5世・ダラゴーナらの同盟に対抗すべく、この頃?、コジモ・イル・ヴェッキオネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニアニョーロ・アッチャイウオリ(?~1467年)、ルカ・デリ・アルビッツィ(1382年~1458年)らを委員とする新十人委員会を編成。
1452年10月
フィレンツェは、使節としてアニョーロ・アッチャイウオリシャルル7世の元に送り、ルネ・ダンジュー軍のイタリア派遣を要請して受諾される。
1453年11月5日
イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティコジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。
このバーリア、アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。
1454年
正義の旗手
1458年
Barone di Cassano e del Castagno, Signore di Corato (Quarata) in Terra di Bari, investito dal Re di Napoli
1466年
per aver tramato contro i Medici fu esiliato a Barletta
1466年5月27日
コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティManno Temperaniアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年9月11日
バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:アニョーロ・アッチャイウオリは息子たちと共にバーリ近郊バルレッタへ、ディエティサルヴィ・ネローニは兄弟と共にシチリアへ、ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ、それぞれ20年追放する他、関係者をことごとく追放や罰金刑に処する。しかし中心メンバーのルカ・ピッティのみは処罰せず放置。
以後ルカ・ピッティ、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。
1467年5月10日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍、エルコーレ1世・デステ及びアレッサンドロ・スフォルツァらの軍も加え、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。
1467年
patì la confisca di tutti i feudi napoletani
1467年6月13日
bandito il 13-VI-1467 per aver rotto il confino, ebbe nel 1415 il privilegio della Corona di Palme dalla Regina Giovanna II di Napoli e dalla Signoria di Firenze il privilegio della Croce sulla Targa in Capo allo Stemma (+post 1467)

別表記

 アニョロ・アッチャイウオリ、アニョーロ・アッチァイウォーリ、Angelo Acciaioli di Cassano

関連項目

 ピッティ陰謀事件

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年9月12日以前
アッチャイウオリ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで