アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティ

Alamanno Salviati

アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティ

生没年:1459年~1510年以降
父:アヴェラルド・サルヴィアーティ
母:マッダレーナ・ネローニ
妻:ルクレツィア・カッポーニ
子:マリーア・ディ・アラマンノ・サルヴィアーティ
  アヴェラルド・サルヴィアーティ
  マッダレーナ・サルヴィアーティ
  マルゲリータ・サルヴィアーティ

概要

 アラマンノ・サルヴィアーティは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1499年10月12日
アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティ(?~1509年)、フランチェスコ・グァルテロッティ(1456年~1509年)、ロレンツォ・レンツィの3名は、使節としてミラノでルイ12世と折衝し、フィレンツェが彼にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。
1501年
シニョーリアは、急ぎ使節ピエロ・ソデリーニアラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティヤコポ・デ・ネルリSieveの近くのチェーザレ・ボルジアのもとに派遣し彼の要求を聞く。
チェーザレ・ボルジアは、フィレンツェ領内自由通行の承認、自らをフィレンツェの傭兵隊長に雇う契約の締結、フィレンツェの政体の変更を要求。
1506年9月11日
ナポリに向かう途上ピオンビーノに立ち寄ったフェルディナンド・ダラゴーナのもとに表敬使節としてピエロ・ソデリーニの弟Giovanvittorio Soderini(1460年~1527年)、Niccolè del Nero(1447年~1518年)、アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティを送る。
1506年12月6日
市民軍の創設がコンシーリオ・マッジョーレで正式に承認され、Nove Ufficiali dell' Ordinanza(フィレンツェ市民軍九人委員会)、通称Nove Ufficiali di Miliziaが設置される。
ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィアラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティを初めとする有力貴族のピエロ・ソデリーニに対する反発、憎悪、抵抗、一段と強まる。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチ(1493年~1528年)と有力貴族ストロッツィ家フィリッポ・ストロッツィ(1489年~1538)との婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1470年~1551年頃)と有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティの甥ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1509年3月7日
ピサ戦線の前線総監としてアラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティAntonio da Filicaia(1455年~1526年)を派遣。
1510年以降
死(1509年)。

外部リンク

 Geneanet
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年10月26日以前
サルヴィアーティ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで