——Alessandro de' Medici——
アレッサンドロ・デ・メディチ
生没年:1510年7月22日~1537年1月6日
出身・没地:フィレンツェ
在位:フィレンツェ公
父:ロレンツォ・デ・メディチクレメンス7世
妻:Taddea Malaspina
  マルゲリータ・ディ・パルマ
女:アンナ・ダ・マッサ
子:ジューリオ・デ・メディチ
  ジューリア・デ・メディチ
  ポルツィア・デ・メディチ
記載日:2006年10月27日以前

年表
 1521年5月8日 レオ10世フランソワ1世との1月末の協定に対する批准が遅れる間にその意図に不信を強め、一転してカール5世と、そのナポリ領有を改めて認めること、メディチ家のトスカーナにおける支配領を含めて相互に領国を防衛し合うこと、フランソワ1世からパルマ、ピアチェンツァを奪還して教会領に併合し、同じくミラノを奪還してルドヴィーコ・イル・モーロの子フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ(1495年~1535年:ミラノ公在位1521年~1524年、1525年、1529年~1535年)に統合させること、自身のフェッラーラ攻撃、奪還及びナポリ領内の一部領地のアレッサンドロ・デ・メディチ(1511年~1537年:メディチ家当主1529年~1537年:フィレンツェ元首1531年~1532年:フィレンツェ公1532年~1537年)への封与をカール5世が支持すること、などにつき秘密裡に協定し、1521年5月28/29日批准。
 1527年10月30日 カール5世の総督ウーゴ・デ・モンカーダは、ローマでクレメンス7世と、クレメンス7世カール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
 1527年5月17日 メディチ家支配体制再崩壊:クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
 1529年1月10日 重病のクレメンス7世イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
 1529年6月29日 バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世メディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世Cervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世クレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
 1531年2月17日 バーリアは、クレメンス7世の全権代理Nikolaus von Schönbergの強い支持により、アレッサンドロ・デ・メディチを自らの一員として加えると共に、彼の全官職への就任権、全官職人事への介入権及びSua Eccelenza(陛下)の呼称を承認。
 1531年5月 メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
 1531年7月5日 カール5世の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマの婚約者としてカール5世と共にブリュッセルにあったアレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェに帰着。
 1531年7月6日 アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿で全官職者を前に、1530年10月28日付のカール5世の勅書——アレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのCapo(元首)とし、彼に後継男子なき時はその地位をカール5世自身が継ぐものとする、フィレンツェのこれまでの反抗を許し、その自由と特権とを再び認める、フィレンツェの全官職は1527年以前と同様に選出される——を読み上げる。
 1532年4月27日 君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentinaフィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリPrinzivalle della Stufaフィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。
            コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。
            以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。
 1534年6月27日 アレッサンドロ・デ・メディチルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
 1534年6月29日 フランチェスコ・グィッチャルディーニアレッサンドロ・デ・メディチに、敵対派の動きは激化してもその支配権は揺らぐまいと楽観的予測を伝えると共に、カール5世による支持・保護を力説し公知させることが肝心だと勧告。
 1534年10月 共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
 1534年 アレッサンドロ・デ・メディチクレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
 1534年 この頃から1535年にかけてアレッサンドロ・デ・メディチに対する貴族・上層有産層の抵抗次第に強まり、アレッサンドロ・デ・メディチによる彼らの追放・財産没収、続く。
 1535年3~5月半ば 亡命者たち(貴族・枢機卿と共和政派)、アレッサンドロ・デ・メディチに代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立することで一致し、使者を次々とバルセロナのカール5世のもとに派遣。アレッサンドロ・デ・メディチは「降伏協定」(1530年)を遵守せず、パルラメントを悪用して「自由」を抑圧し専横を欲しいままにしている。このような「暴政」は支持するに値しないとそれぞれカール5世ないしその側近に訴える。
            1534年バルバロッサに奪われたチュニスの攻略問題に専心しているカール5世は、フィレンツェ問題については亡命者たちの訴えを聞きおくに留める一方、アレッサンドロ・デ・メディチに後日ナポリに来て亡命者たちの主張について自分に直接、弁明せよとの指示を送る。
            アレッサンドロ・デ・メディチは、亡命貴族(ストロッツィ家サルヴィアーティ家)やロレンツォ・リドルフィ(1503年~1576年)などを次々に反逆者と宣告しその財産の没収を宣言。
 1535年8月10日 亡命者たちがイッポーリト・デ・メディチ自身をチュニスのカール5世のもとに送ってアレッサンドロ・デ・メディチの専横を訴えイッポーリト・デ・メディチ擁立を支持するよう求めることに決めたのに従い、カール5世のもとに旅立とうとしていたイッポーリト・デ・メディチ、この日、ラツィオのフォンディ近在Itriジューリア・ゴンザーガのもとで死(1511年~)。アレッサンドロ・デ・メディチの指示による毒殺との噂が流れる。
 1535年9月10日 ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。
 1535年 亡命者たち、ナポリカール5世のもとに行きアレッサンドロ・デ・メディチの暴政を訴えるが、共和政とその下での自由を標榜する共和制派と、貴族寡頭政とその下での自らの地位・特権の保全を目指す貴族・枢機卿の主張の対立が顕著になる。
      彼らをフランソワ1世のもとに走らせたくないカール5世、彼らを留めながらアレッサンドロ・デ・メディチを通しての自身によるフィレンツェ支配を強化する方途を探る。
 1535年12月11日 マルゲリータ・ディ・パルマと結婚。
 1535年12月21日 アレッサンドロ・デ・メディチフィレンツェを発ってナポリに向かう。
 1536年1月3日 アレッサンドロ・デ・メディチ、騎兵3百と共にフランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、Robert Pucciら腹心を従えてナポリに入り、カール5世の歓迎を受ける。
            以後アレッサンドロ・デ・メディチカール5世とその幕閣に多大の金品を供与して歓心を買いながら、パルラメントの召集・バーリアの設置はフィレンツェの伝統に従っていること、一部貴族の処断はフィレンツェ防衛上当然必要な措置であること、などを彼らに力説し、自分の施政に関する亡命者たちのカール5世への訴えの不当性を強調。
 1536年2月 カール5世アレッサンドロ・デ・メディチカール5世アレッサンドロ・デ・メディチフィレンツェSignore(統治者)として公認し、アレッサンドロ・デ・メディチに自分の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)を嫁がせ、アレッサンドロ・デ・メディチカール5世に巨額の軍資金を供与することで合意。
         他方カール5世、亡命者たちにフィレンツェへの帰国の安全、没収財産の返還、通常の市民と同等の公職の享受、を保証すると明言するが、亡命者たちはこれに応じずに終わる。
 1536年2月29日 アレッサンドロ・デ・メディチカール5世自身の出席も得てマルゲリータ・ディ・パルマとの盛大な結婚式を挙げる。数日後アレッサンドロ・デ・メディチナポリを発って揚々とフィレンツェへの帰途に着く。
 1536年6月13日 アレッサンドロ・デ・メディチマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式、続いてその祝賀行事、壮大華麗に繰り広げられる。
 1537年1月6日 深夜、アレッサンドロ・デ・メディチは、傍系一族で日頃の放蕩仲間ロレンツィーノ・デ・メディチ(1513/1514年~1548年)から、思いを寄せている女性と彼の自室で合わせてやると巧みに誘い入れられ、彼とその従者に刺殺される。
 1537年1月6日 深夜、暗殺される。
 1537年1月7日 早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。
           夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。
           直ちにインノチェンツォ・チーボチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。
           夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。
 1537年3月13日 アレッサンドロ・デ・メディチの葬儀、サン・ロレンツォ教会コジモ1世・デ・メディチも出席して執り行われる。
 1538年6月22日 パウルス3世カール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
 1538年6月28日 パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
            フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。

肖像
 アレッサンドロ・デ・メディチの肖像

外部リンク
 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU

参考文献
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『銀色のフィレンツェ』
 『世界大百科事典』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls
メディチ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで