——Alessandro Sforza——
アレッサンドロ・スフォルツァ

生没年:1409年10月21日~1473年4月3日
出身:コティニョーラ
没地:フォッサ
在位:ペーザロの領主 1445年3月~1473年
    次代:コスタンツォ1世・スフォルツァ
父:ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
妻:コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
  スヴェヴァ・ダ・モンテフェルトロ
子:バッティスタ・スフォルツァ
  コスタンツォ1世・スフォルツァ
  ジネヴラ・スフォルツァ
記載日:2006年10月27日以前

年表
 1409年10月21日 コティニョーラで生。
             グレゴーリオとして洗礼されるが、父ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァの対立教皇アレクサンデル5世への親愛のため、後にアレッサンドロと改名され、僧職に就くことを期待されていた。

 1415年3月 人質として、ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァからパンドルフォ・アロポに、兄弟従兄弟と共に預けられる。
 1415年8月 ナポリ軍がジャック2世・ド・ブルボン軍に優勢だった時、兄弟たちと共に投獄される。

 1420年 フェッラーラに住んでいたが、教皇の人質としてローマに向かう。
 この頃 ミケーレ・アッテンドロの下で初の軍事経験。

 1430年 ミラノ征服まで兄フランチェスコ1世・スフォルツァの全ての軍事行動に従う。
 1430年8月 領主パオロ・グイニジに退陣させられたルッカの反乱者たちに人質として取られていたが、1万2千フィオリーノで兄に引き渡される。

 1433年11月 フランチェスコ1世・スフォルツァに従い、アンコーナへ進軍。
 1433年12月 フェルモ占領。要塞都市ジリファルコを与えられる。

 1434年2月 ウンブリアのフランチェスコ1世・スフォルツァに従い、ローマ近郊に進軍。
 1434年5月 軍2千を率いてセルヴィリアーノを攻撃。ヴァラーノ家に反抗するアマンドラに入り、月末にはペンナ・サン・ジョヴァンニも降伏。
 1434年6月 アマンドラを突然クリストフォロ・ダ・トレンティーノに6百騎で攻撃され、急ぎ退却を余儀なくされる。町は略奪される。
 1434年12月 冬、対ニッコロ・フォルテブラッチョの教皇軍として、ヴィテルボに1百50騎を率いる。

 1435年 80騎を与えて、ヤコポ・ディ・ヴィーコがヴェトラッラに戻ることを許す。
 1435年4月 モンテフィアスコーネ占領に参加。
 1435年7月 アルチェーヴィアのコントラーダ要塞に待機。
 1435年8月 モンテファルコでニッコロ・フォルテブラッチョに捕らえてしまった兄弟レオーネ・スフォルツァ救出のため、フランチェスコ1世・スフォルツァより副官に任じられ、アンコーナの総督に信任される。それに関与するタリアーノ・フルラーノとマンノ・バリーレがアルチェーヴィアにいるため、セッラ・デイ・コンティへ進軍して敵の襲撃からカメリーノを守り、フィオルディモンテで敵の傭兵隊長と対峙。荷馬車と略奪品を奪い取る。
 1435年9月 タリアーノ・フルラーノがレオーネ・スフォルツァを捕らえている要塞のあるアッシジへ向かう。
 1435年10月 アッシジは市民たちにより連合から解放され、アンコーナからサン・ジュストに属す。
 1435年10月 サン・ジネージオ。
 1435年11月 モンテ・サン・ピエトランジェリ。
 1435年12月 サン・セヴェリーノ・マルケ。

 1436年3月 フランチェスコ1世・スフォルツァ不在時のフェルモ総督に任命される。
 1436年4月 オージモにて、マルケを通過するフェッラーラニッコロ3世・デステを表敬。
 1436年8月 フランチェスコ・ピッチニーノがアスコリ・ピチェーノに進軍したため、急ぎ町を出発しフェルモに戻る。
 1436年10月 教皇軍として、フランチェスコ1世・スフォルツァシギスモンド・マラテスタと共にボローニャに駐屯。
 1436年11月 ファブリアーノ。

 1437年2月 2か月フェルモに滞在。
 1437年5月 オージモ。
 1437年6月~1437年9月 フランチェスコ・ピッチニーノを支援するマルケの亡命者たちと戦う。亡命者たちにアブルッツィを急襲され、アスコリ・ピチェーノを攻撃される。アスコリ・ピチェーノに立てこもる間、敵の傭兵隊長がファブリアーノとフェルモの領内を出て、マルケから弓兵と槍歩兵を募集した後、ウルビザーリアとトレンティーノ方面に向かっているとの情報を得る。サン・セヴェリーノ・マルケ到着。ファブリアーノに兄弟ジョヴァンニ・スフォルツァとニッコロ・ダ・ピサを残し、フェルモに戻る。ここからアブルッツィに反撃し、チヴィテッラ・デル・トロントを占領。9月、フランチェスコ・ピッチニーノに包囲されていたアスコリ・ピチェーノを、ジョヴァンニ・スフォルツァとニッコロ・ダ・ピサと共に解放。敵をアブルッツィまで押し戻す。
 1437年12月 アッピニャーノにて、15日間の休戦協定をジョージア・アクァヴィーヴァ、アルディッツォーネ・ダ・カッラーラと結ぶ。マルケでは降誕祭の時期で、フェルモに入るや、副官及び地方総督である彼に習慣的な贈り物をされる。

 1438年1月 フランチェスコ1世・スフォルツァはタリアーノ・フルラーノを捕らえるため彼宛てに手紙を書くが、その手紙はタリアーノ・フルラーノが妨害し、そのため逃亡に成功する。この状況の推移を近くで監視するため、フェルモを離れサン・セヴェリーノ・マルケ到着。
 1438年2月~1438年3月 フランチェスコ・ピッチニーノとタリアーノ・フルラーノがアスコリ・ピチェーノを脅かす。サルマーノに急進するが、フランチェスコ1世・スフォルツァミラノフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの間で結ばれた和平の知らせにより、すぐさま戦闘行為停止。マチェラータとサン・セヴェリーノ・マルケに向かい、フランチェスコ1世・スフォルツァと共にトレンティーノを訪れ、タリアーノ・フルラーノがいるところへとフランチェスコ・ピッチニーノがいるところへの道であるサルナーノを遮断。
 1438年6月 対ミラノ軍の教皇軍として、サン・セヴェリーノ・マルケを離れ、フォッサート・ディ・ヴィーコ、シジッロ(ノチェーラ・ウンブラ)とグアルド・タディーノの間に到着すると、ジョヴァンニ・スフォルツァをフォッサート・ディ・ヴィーコに残して、サンタ・マリア・デリ・アンジェリとピアネッロを経てグッビオのブランカに到着。
 1438年7月 包囲してノルチャを降伏させる。

 1439年11月 対ミラノ軍のヴェネツィア軍として、フランチェスコ1世・スフォルツァのヴェローナ奪還を補佐、3日間占領。ガッタメラータと共にゴンザーガの騎兵に守備されていたオリエッロ門を占拠し、ヴェスコヴォ門を守備していたヴェローナ人を降伏させる。
 1439年12月 歩兵2千を率いアンコーナ地方の海に到着。まだミケーレ・アッテンドロの代わりに、副官及び地方総督に任命されている。

 1440年3月 まずリーミニへ、続いてマルチェラータ、フェルモ。スフォルツァ軍視察のため各地へ赴く。
 1440年4月 対ミラノ軍のフィレンツェ軍として、トレンティーノ、サン・セヴェリーノ・マルケからアッシジへ。フランチェスコ・ピッチニーノの騎兵に対抗するため、すぐさまトスカーナへ向かう。
 1440年5月 オージモ。マルケの守護を固めため、オージモ人ゴッツォーネ・ゴッツォーニをサン・セヴェリーノ・マルケのポデスタとして据える。
 1440年6月~1440年7月 ファブリアーノ。
 1440年8月~1440年9月 対アラゴーナ軍のスフォルツァ軍として、アブルッツィでジョージア・アクァヴィーヴァ、ライモンド・ディ・カルドーナ、リッチョ・ダ・モンテキアーロと戦闘。敵が唯一占拠する要塞のあるチェッリーノ・アッタナージオとモンテセッコ攻略の準備のため、フォルチェッラに野営。領内を選ぶ代わりに、マチェラータ人にデナーロ銀貨での部下に支払う金を要求。スフォルツァの重装騎兵がマルケで冬越しするのに十分な藁と干し草を集める。

 1441年1月 サン・セヴェリーノ・マルケに移動。マルケ民から重税と兵士の食糧を要求。
 1441年7月 マルケから騎兵1千5百でアントーニオ・カルドーラの支配するロレート・アプルティーノを襲撃。ペスカーラでの協定に加入し、オルトーナで勝利し、ジョージア・アックアヴィーヴァとリッチョ・ダ・モンテキアーロを退却させる。騎兵5百と共にライモンド・カルドーラを捕らえ、騎兵5百はジリファルコで拘束。名誉ある待遇をし、8千スクードの支払いで解放。モンテ・コルヴィーノで野営。知らなかったものの、勝利に乗じて敵に回復の時間を与えてしまう。チッタ・サンタンジェロでアントーニオ・カルドーラと対峙し、退却する。
 1441年11月 シギスモンド・マラテスタフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの紛争の仲介を務める。
 1441年12月 モンテルッビアーノ。

 1442年1月~1442年5月 モンテルッビアーノに戻る。フェルモとモンテルッビアーノの間で住まいを移っても、より多くのまた新しい税の取り立ては止めず。
 1442年5月31日 フィレンツェ軍として、幾つかの部隊をフォルリの守備に回す。
 1442年6月 フェルモで兄弟とその妻を歓迎。その機会に、サン・マルティーノ広場を整備。
 1442年7月 モンテ・サン・マルティーノでフランチェスコ1世・スフォルツァに合流。
 1442年8月 アマンドラの戦いに参加。
 1442年11月 ニッコロ・ピッチニーノからアッシジを守り切れず。襲撃は月のない夜で激しい雨の降る中に行われる。ブラッチェスキ家の者たちが略奪のために道を占領。騎兵8百でカルロ・ダ・モントーネが襲撃し、最も富裕な市民たちは要塞に避難。
 1442年12月1日 夜、グイド・ダ・スキーファと共に出撃。マチェラータとサン・セヴェリーノ・マルケを回復。

 1443年3月 モンテッキオ(トレイア)。
 1443年6月 マチェラータのモリーネでフランチェスコ1世・スフォルツァと共に野営。疲弊したエザナトーリア攻略に参加。
 1443年7月 トレンティーノを包囲し、征服して守備隊を残す。
 1443年8月~1443年9月 キエンティの谷とマチェラータ近郊であるサンロッキアーノで留まり、騎兵の食糧を徴発。そこから歩兵と騎兵併せて3千でフェルモ境界に向かう。市壁は内と外に堀と土手を築いている。いつでも守備を固めることができるように、広場の中央には櫓を備えている。フェルモで1万のアラゴン軍を攻撃。彼に対する陰謀を嗅ぎ取り、多くの市民を逮捕。ジリファルコの幾人かの囚人を釈放することになり、その他はファーノ及びアスコリ・ピチェーノとオッフィダの要塞へ送られる。敵の後衛を攻撃し、急ぎフェルモに退却させる。
 
 1444年12月8日 コスタンツァ・ダ・ヴァラーノと結婚(1440年12月)。

 1445年3月 フランチェスコ1世・スフォルツァからペーザロを与えられる。

 1447年 ペーザロを教皇から封土される。

 1448年1月9日 スヴェヴァ・ダ・モンテフェルトロと代理結婚。

 1450年3月25日 兄フランチェスコ1世・スフォルツァミラノ入城に伴う。

 1460年7月22日 この日頃、ウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと共にフェッランテ・ダラゴーナ軍を指揮し、傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍と、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却(1460年7月27日)。
            間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。

 1461年7月2日 フェッランテ・ダラゴーナ軍、シギスモンド・マラテスタ指揮の軍とジャン・ダンジュー軍に敗れる。
           この後も劣勢が続くフェッランテ・ダラゴーナ軍に、援軍を指揮し、到着。

 1462年8月18日 フェッランテ・ダラゴーナと共に軍を指揮し、フォッジャ近郊トローイアでジャン・ダンジュー軍を撃破。

 1467年5月10日 バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍に加わり、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。

 1469年5月28日 ロベルト・マラテスタフェッランテ・ダラゴーナの密謀が明らかとなって驚愕したパウルス2世とヴェネツィアが攻守同盟を結び、その軍の最高指揮官に任じられる。
 1469年7月 教皇軍・ヴェネツィア軍を指揮し、リーミニ周辺に進撃。
         これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロガレアッツォ・マリーア・スフォルツァフェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。
 1469年8月下旬 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ率いるロベルト・マラテスタ陣営軍に、リーミニ近郊で教皇軍・ヴェネツィア軍敗退。

 1473年4月3日 フォッサで死。

関連項目
 1467年1月4日の同盟
 リーミニの戦い

外部リンク
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia
スフォルツァ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで