
- 生没
- 1431年1月1日~1503年8月18日
- 出身
- ハティバ
- 没地
- ローマ
- 父
- ホフレ・デ・ボルハ
- 母
- イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ
- 女
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
ナキーネ
ジューリア・ファルネーゼ - 子
- ペドロ・ルイス・デ・ボルハ
ジローラマ・ボルジア
イザベッラ・ボルジア
チェーザレ・ボルジア
フアン・ボルジア
ルクレツィア・ボルジア
ホフレ・ボルジア
インファンテ・ロマーノ
ロドリゴ・ボルジア
概要
ロドリゴ・ボルジアは、15世紀~16世紀のスペイン人の男性。第214代教皇アレクサンデル6世。この時代の他の教皇と同様、聖職者というよりも政治家だった。
在位
サン・ニコラ・イン・カルチェレ助祭枢機卿 1456年9月17日~1471年8月30日
任命した教皇:カリストゥス3世
ヘローナ教区長 1457年~1458年6月30日
教皇庁副尚書院長 1457年5月1日~1492年8月11日
サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラタ助祭枢機卿 1458年6月~1492年8月
ヴァレンシア司教 1458年6月30日~1492年7月9日
先代:アロンソ・デ・ボルハ
首席助祭枢機卿 1463年3月~1471年8月30日
アルバーノ司教枢機卿 1471年8月30日~1476年7月24日
カメルレンゴ 1472年1月8日~1472年5月15日
ポルト・エ・サンタ・ルフィナ司教枢機卿 1476年7月24日~1492年8月11日
カルタヘナ教区長 1482年7月8日~1492年8月11日
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂首席司祭 1483年~1492年8月11日
首席枢機卿 1483年1月22日~1492年8月11日
マヨルカ島司教 1489年10月9日~1492年8月11日
エゲル教区長 1491年~1492年8月11日
ヴァレンシア大司教 1492年7月9日~1492年8月11日
次代:チェーザレ・ボルジア
第214代教皇 1492年8月11日~1503年8月18日
先代:インノケンティウス8世
次代:ピウス3世
教養
ローマで学ぶ。後ボローニャ大学で義理の甥フアン・デル・ミラと共に、法を学ぶ。
年表
あなたは、あなたの靴の紐を解くにも値しないと思われる女性の美しさを、寛大にも褒め称えておられるが、それはあなたが大変に謙遜しておいでだからだと分かります。そして、私に手紙をくれる誰もが、あなたに比べればその女人の如きは太陽の傍らに置かれたランプの如きものだと書いていることを、あなたが知っておいでだからだ、と承知しています。あなたがその女人の美しさを語ると、私は、一度も疑問になど思ったことのないあなたの完璧な美しさを思うのです。そして、これは私にもはっきりと分かっているのですが、あなたをこの世の何よりも愛している人物にあなたが全くかつ完全に愛着せられんことを望むものです。そして、あなたがあの決心をなさった時には——まだしていないなら——、あなたを賢く立派な人と認めるのにやぶさかではありません。
愛しい我が子、ルクレツィアよ、お前は余に、恐ろしい不満と苦悶に満ちた数日を送らしめた。お前が死んだとか、助かる望みの全くない重病にかかったと伝える残酷な噂がローマに流れたからである。これらの風聞の結果、この世のいかなる人物に対してよりもお前に対して大いなる愛を抱く余の魂がどのような苦しみを味わったか、お前は考えてみることができよう。お前の手によって書かれた手紙が届くまでは、悪しき風評がお前の重病を伝えたりして、余の心は片時も休まることがなかった。お前を危険から救い給うた神と栄えある聖母に感謝しよう。確かなことは、お前をこの目でじかに見る時までは、余の心は本当には休まらぬということである。
これまでジョヴァンニ・スフォルツァがその計画についてお前たちに何も語っていないのなら、アドリアーナ・デル・ミラとフランチェスコ・ガセットがそのことを口にすべきである。ただし、十分な用心が肝要である。もし、ルクレツィア・ボルジアが一緒に発つことにジョヴァンニ・スフォルツァが同意し、彼自身はその部隊を指揮し、町と国を守るためにペーザロに居残るというなら(とりわけ、フランス軍が陸路と海路から侵入しようとしている時であるから)、私はお前たちのことでいっそう執拗に手紙を書こう。何しろ、現在、多くの兵士があの地方に結集するであろうという状況の下で、お前たちがペーザロにいるのは好ましいこととは思えないからである。
最愛の娘ルクレツィアへ。数日間全く手紙が届いていない。あなたと愛する息子ジョヴァンニ・スフォルツァの様子を伝える手紙を、せっせと寄こさないとは驚きだ。これからはもっと気にかけ、熱心になりなさい。ジューリア・ファルネーゼの兄アンジェロ・ファルネーゼの死の知らせがあったために、アドリアーナ・デル・ミラとジューリア・ファルネーゼはカポディモンテに行ってしまった。彼の死はアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿とジューリア・ファルネーゼは悲嘆に暮れさせ、どちらも熱病にかかったくらいだ。ピエトロ・カランツァを世話にやり、医者や必要なものを届けさせた。すぐに健康を取り戻すように、神と聖母に祈っている。実のところ、アドリアーナ・デル・ミラとジューリア・ファルネーゼの出立について、私の許可なしに行かせたことで、ジョヴァンニ・スフォルツァとあなたは、私を軽んじているところを見せた。知らされもせずにそのような突然の出立をされては私が不愉快になることを思い起こすべきだったし、それはあなたの責務だったのだよ。もしそれがアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の命によるものだったと言うのなら、教皇がどう思うのか考え及ぶべきだ。しかし、それは終わったことだけれども、次からはもっと注意深く、重要なことを見渡すようにするよ。私は、神と聖母のおかげで、いたって健康だ。アルフォンソ2世・ダラゴーナ王と会見を持ったが、まるで実の息子かのように好意と忠実を示してくれた。大きな満足と充実感を得て、我々は別れた。陛下が、臣下やその他全てのものを私に捧げてくれることに疑いはない。
恩知らずにして不実なジューリア・ファルネーゼ、ナヴァルリコが持ち帰った手紙の中で、汝は夫の許可なしにはこちらへ出てくるつもりがないと述べておられる。汝の魂と汝を唆せる者の魂を悪しきものと判断はしたが、汝があれほどしばしば余の命には忠実に、そしてオルシーノ・ミリオラーティには近づかぬと確言し誓ったのであってみれば、これほどに不実な汝の振る舞いは何とも納得いたしかねる。今突然に汝はこれまでと反対のことをしようとし、生命の危険を冒してもヴァザネッロに赴き、恐らくあの種馬に再度身を委ねんとしている。要するに余が願うのは、汝とあの不実なるアドリアーナ・デル・ミラが汝らの過誤に気づき、然るべき悔悛を行うことである。最後に、本書簡によって汝に命ずるのは、カポディモンテあるいはマルタを離れぬこと、いわんやヴァザネッロに赴かぬことである。
汝はあのローマからの出立がいかほど我々に不快であったかを自身で察し得るはずである。かかる行為については償いの道はただ一つしかあり得ない。したがって、もし汝が名誉を重んじるのであるならば、即刻この地に戻られるよう、心から勧告する。
親愛なる息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。城主職並びに、スポレートとフォリーニョとその周辺の知事として、貴婦人、ビシェリエ公妃ルクレツィア・ボルジアを信任しました。公妃の、知性、忠誠心、誠実さに完全なる自信を持ち、先の書簡とまた、私と聖座に対するあなた方の常に変わらぬ忠実を熟考するに、義務として公妃ルクレツィア・ボルジアを受け入れ、知事と同じように名誉をもって、彼女への服従を示すだろうと信じます。誇りと敬意をもって彼女が受け入れられ、認められることを願います。私の不愉快を避け恩恵を尊ぶあなた方に、この書簡にて命ずるように、法と慣習の許す限り知事ルクレツィア・ボルジアが適切と考えることに、私に対するものと同じように皆が一致して厳格に従い、彼女の命令を勤勉かつ速やかに実行すれば、その献身は正当な評価を受けるでしょう。
愛する息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。愛する娘、淑女カテリーナ・スフォルツァが、そちらに向かっています。気づいているように、当面彼女を捕虜として拘留しておかなければならない十分な理由がありましたが、再び寛大な措置の対象となりました。慣習と司祭の責務によって、ただカテリーナ・スフォルツァに対して情けをかけるだけでなく、神の助けのある限りにおいて、彼女の快適な生活への父の心遣いをしました。それ故、カテリーナ・スフォルツァをあなた方の保護の下に置くということを、手紙に書くことは適切とみなします。そうすれば、私があなた方に対して善意を持っていることに彼女が全幅の信頼を置けますし、いわば彼女自身の国に帰れるのです。期待や私の推薦に惑わされることもないでしょう。したがって、彼女が歓迎され好待遇を受けること、彼女があなた方の町に住むことを選んだこと、私へのあなた方の心遣いに感謝すべきでしょう。
親愛なる息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。神に愛される娘、高貴な淑女である公爵ルクレツィア・ボルジアが、愛される息子でフェッラーラ公の長子アルフォンソ1世・デステとの結婚のために、次の月曜日にここを出発し、多くの貴族のお供と、2百の騎馬に伴われて、あなた方の地域を通過します。それ故、もし私の好意を尊び、不愉快を避けるならば、滞在する1日2晩の間彼らを歓迎することを望み、また命じます。そうすれば、あなた方全員が私の称賛を受けることになるでしょう。
肖像
注文
その他
任命した枢機卿
1492年8月31日 | フアン・ランソル・イ・ボルハ |
1493年9月20日 |
ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョ ベルナルディーノ・カルバハル チェーザレ・ボルジア ジュリアーノ・チェザリーニ ドメニコ・グリマーニ アレッサンドロ・ファルネーゼ ベルナルディーノ・ルナーティ レイモンド・ペラウルド ジョン・モートン フリデリク・ヤギェロンチク イッポーリト・デステ |
1494年5月 | ルドヴィーコ・ダラゴーナ |
1495年1月16日 | ギヨーム・ブリソンネ |
1495年1月21日 | Philippe de Luxembourg |
1496年2月19日 |
フアン・ロペス バルトロメ・マルティ フアン・デ・カストロ フアン・ランソル・イ・モンカーダ |
1498年9月17日 | ジョルジュ・ダンボワーズ |
1500年3月20日 |
Diego Hurtado de Mendoza y Quiñones アマニュー・ダルブレ ペドロ・ルイス・ランソル |
1500年9月28日 |
ハイメ・セッラ・イ・カウ ピエトロ・イスアレス フランチェスコ・ボルジア フアン・デ・ヴェラ ルドヴィーコ・ポドカタロ アントーニオ・トリヴルツィオ ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ Tamás Bakócz マルコ・コルナーロ ジャンステファノ・フェッレーロ |
1503年5月31日 |
フアン・カステリャール フランシスコ・デ・レモリンス フランチェスコ・ソデリーニ メルヒオール・フォン・メッカウ Niccolò Fieschi Francisco Desprats アドリアーノ・ダ・カステッレジ Jaime de Casanova フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス |
色
黄色と黒。
本名
ロドリゴ・ボルジア、Rodorigo Borgia
別表記
アレッサンドロ6世、ロドリーゴ、ロデリク・ランソル、ロドリゴ・ランツォル・イ・ボルジア、ドン・ロドリーゴ、ロデリーゴ・ボルジア、ボルジャ、Roderic Lanzol、Rodrigo Lanzol-Borja y Borja、Rodrigo de Borja y Doms、Rodrigo Borgia、Roderigo Borgia
関連項目
外部リンク
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チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
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THE BORGIAS wiki
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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Wikisource
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『サイレント・マイノリティ』
『性病の世界史』
『世界悪女大全』
『世界悪女物語』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネッサンス夜話』
『ローマ教皇検死録』
『At the Court of the Borgia』
『Casa Cesarini. Ricerche e documenti』
『Lost Girls』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月12日以前