——Alexander VI——
アレクサンデル6世
本名:ロドリゴ・ボルジア(Rodorigo Borgia
生没:1431年1月1日~1503年8月18日
出身:ハティバ
没地:ローマ
父:ホフレ・デ・ボルハ
母:イザベッラ・デ・ボルハ
女:ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
  ナキーネ
  ジューリア・ファルネーゼ
子:ペドロ・ルイス・デ・ボルハ
  ジロラーマ・ボルジア
  イザベッラ・ボルジア
  チェーザレ・ボルジア
  フアン・ボルジア
  ルクレツィア・ボルジア
  ホフレ・ボルジア
  インファンテ・ロマーノ
  ロドリゴ・ボルジア
記載日:2006年10月12日以前

概要
 アレクサンデル6世はスペイン人の第214代教皇

教養
 ローマで学ぶ。後ボローニャで義理の甥フアン・デル・ミラと共に、法を学ぶ。

年表
1431年1月1日
ハティバで生(1430年、1431年1月14日、1432年)。
1444年
聖職禄を受け取る。
1445年
バレンシア司教座聖堂聖歌隊員。
1445年
ヴァレンシアのSacrista又はchantre
1448年
ヴァレンシア、バルセロナ、セゴルベの司教座聖堂参事会員。
1449年
Culera司祭、Alziraの教区司教。ハティバのchantre
1455年5月10日
母方の伯父教皇カリストゥス3世により教皇秘書に任命される。
1455年6月3日
サンタ・マリア・デ・ハティバ修道院長。それと同時にヴァレンシアの聖職禄を受け取る。
1456年2月20日
カリストゥス3世により助祭枢機卿に叙任され、コンクラーヴェへの参加も認められる。
1456年8月21日
ヴェルチェッリのサンタンドレア修道院長。
1456年9月17日
枢機卿叙任が公表される。サン・ニコラ・イン・カルチェレ助祭枢機卿。
1456年10月18日
ボローニャに向け出発。
1456年11月16日
ボローニャから戻る。
1456年11月17日
赤い帽子が授与される。
1456年12月
マルケ・アンコニターナの教皇特使。
1457年1月19日
教皇特使として出発。
1457年5月1日
教皇庁副尚書院長に任命される。年俸8千フィオリーノ
1457年11月26日
教皇特使派遣から戻る。
1457年
イタリア領内教皇軍総司令官(generalissimo)。
1457年~1458年6月30日
ジェノヴァの教区長。
1457年
カスティーリャ、ヘローナ教区長。
1458年3月
カリストゥス3世ナポリアルフォンソ5世・ダラゴーナの仲裁に従事。
1458年6月30日
ヴァレンシア司教。
1458年6月
サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラタ助祭枢機卿として空位の聖職禄を受け取る。
同日、ヴァレンシア、Valldigneのシトー修道会の空位の聖職禄を受け取る。
1458年7月26日
瀕死のカリストゥス3世のため、ティヴォリからローマに戻る。
1458年8月6日
カリストゥス3世死。
ペドロ・ルイス・デ・ボルハと共に変装してローマから逃亡。
後年、サン・ピエトロ大聖堂に隣接するサンタンドレア教会にカリストゥス3世の霊廟を建てる。
1458年9月26日
ペドロ・ルイス・デ・ボルハ死(1458年12月)。
1458年
コンクラーヴェに参加。
1459年1月22日
新教皇ピウス2世に従いローマを出発。ペルージアシエナに行く。
1459年4月18日
この日にはシエナビーキ宮殿に滞在している。
1459年
フィレンツェマントヴァで、ピウス2世マントヴァ公会議を開いていたが、自身はシエナに残る。
1460年6月8日
シエナテリアッチ宮殿の庭園で、ヤコポ・アンマンナーティ司教と共に乱痴気騒ぎ。万人の噂の的になり、顰蹙を買う。
1460年6月11日
教皇ピウス2世がバーニ・ディ・ペトリオーロにて、彼の不品行を戒めるこの日付の手紙をしたためる。
1460年
マントヴァ公会議でヴァノッツァ・デイ・カッタネイと知りあう(1466年、1467年)。
1461年12月
ローマに戻る。
1462年4月12日
聖アンデレの頭部の聖骨がローマ市内に運ばれてきた機会に、自身の宮殿に装飾を施す。造幣局の跡で、伯父カリストゥス3世から、2千ドゥカートで購入したもので、現在はスフォルツァ・チェザリーニ宮殿の一部となっている。聖骨の運ばれる道筋は全て贅沢に飾り付けられたが、彼の宮殿は「豪華、創意、熱意」の3点で、他を圧倒した。高くそびえるその堂々とした建物は、つづれ織りで覆われ、前面の広場は巧妙な仕掛けで溢れていたから、あたかも「甘美な音色に満ちた大庭園、世に伝え聞くネロの黄金の館」のようだとピウス2世に評される。
1462年6月17日
ヴィテルボピウス2世が祝った聖体祭の、通りの演出を指揮。
1462年
この年?、ピウス2世の命により、ピエンツァヴェスコヴィーレ宮殿を建て、ファサードにボルジア家の紋章をつける。
1463年3月~1471年8月30日
首席助祭枢機卿。
1464年7月
テルニでピウス2世に加わり、アンコーナへ従う。
1464年8月初め
ピウス2世の死の前まで病気にかかる。
1464年8月14日
ピウス2世、アンコーナで死。
1464年
コンクラーヴェに参加。
1464年9月16日
まだ病気から立ち直っておらず、即位した新教皇パウルス2世に冠を被せられず。
1468年
助祭枢機卿に叙階される。
1469年1月9日
アンジェロ・カプラニカ枢機卿と共に、ローマからヴィテルボへ、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世に随行。
1470年5月~1470年10月
ローマを不在にする。
1471年
コンクラーヴェに参加。
1471年8月22日
首席助祭枢機卿として新教皇シクストゥス4世に冠を被せる。
1471年8月30日
司教枢機卿団とアルバーノ司教枢機卿を選び、助祭枢機卿を辞任。同時にスビアーコのベネディクト会修道院の聖職禄を受ける。
1471年10月30日
司祭枢機卿に叙階される。司祭に叙階され、司教に任じられる。
1471年12月23日
オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を説くため、シクストゥス4世よりスペイン王への教皇特使に任命される。
1472年1月8日
オスティアに出発する時、カメルレンゴに任命される。
1473年10月24日
カタロニアとスペインへの教皇特使派遣から戻る。スペイン王説得には失敗。地中海で強い嵐に遭遇し、3万フィオリーノ失う。
1473年10月25日
枢機卿会議で公けにシクストゥス4世に迎えられる。
1475年1月14日
ナポリフェッランテ・ダラゴーナに会うためテッラチーナに行き、ローマへ随行。
1475年1月28日
フェッランテ・ダラゴーナに随行し、ローマ到着。
1475年2月1日
フェッランテ・ダラゴーナに随行し、マリーノ到着。
1476年6月10日
ペストのため、シクストゥス4世に従いヴィテルボ到着。
1476年7月24日
ポルト・エ・サンタ・ルフィナ司教枢機卿を選び、ナルニにて枢機卿団で祝う。
1476年8月
フォリーニョに行く。
1477年6月25日
フェッランテ・ダラゴーナの妻で新女王フアナ・ダラゴーナ戴冠のための教皇特使に任命される。
1477年8月22日
ナポリへ出発。
1477年10月4日
ナポリから戻る。
1478年3月21日
聖霊協会に名前を刻む。
1482年1月
おそらく自分の宮殿の改築のため、この頃はステファノ・ナルディーニの宮殿(現ゴヴェルノ・ヴェッキオ宮殿)に住む。
1482年7月8日
スペイン、カルタヘナ教区長に任命される。
1483年1月22日
ギヨーム・デストゥトヴィル枢機卿、死。首席枢機卿になる。当時最も富裕な枢機卿で、贅沢な生活を送る。
1483年
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂首席司祭に任命される。
1484年
コンクラーヴェに参加。インノケンティウス8世が教皇に選ばれる。
1484年
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァが、現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿である彼の宮殿について詳細な記述を残す。巨大なつづれ織りには狩猟の場面が描かれ、絨毯は家具に調和し、天蓋のついた長椅子は真紅の繻子で覆われ、陳列棚には金銀の器が並べられていたという。
1485年8月26日
この日より少し前セビリア大司教に選ばれたが、大司教座を占めることなく、数日後辞退する。
1487年
スペイン、ナヘラのサンタ・マリア・ラ・レアル修道院長。
1489年10月9日
スペイン、マヨルカ島司教に選ばれ、聖職禄を受け取る。教皇に選出されるまで占有。
1489年11月18日
新教皇インノケンティウス8世に従い、オスティアに行く。
1490年12月20日
ヴィチェンツァ教区のサンタ・マリア・ディ・リヴォプッロ、ベネディクト会修道院の空位の聖職禄を辞退。
1491年7月8日
モンレアーレ大司教区のサンタ・マリア・ディ・モンテアグ、ベネディクト会修道院と、メッシーナ教区のサン・フィリッポ・ファルガーラ、バシリカ式修道院の空位の聖職禄を辞退。
1491年8月16日
スペイン、ウルジェイ教区のアゲレー修道院の空位の聖職禄を辞退。
1491年
ハンガリー、エゲル教区長。教皇に選出されるまで占有。
1492年1月2日
この日、スペイン両王がグラナダ王国を制圧。
ローマで、ローマ初の闘牛を開催。
1492年7月9日
ヴァレンシアの教区が大司教区に昇格したため、ヴァレンシア大司教となる。
1492年7月25日
深更、インノケンティウス8世死(1492年7月26日)。
1492年8月5日
この日まで9日間、インノケンティウス8世の葬儀が行われた。
1492年8月6日
サン・ピエトロ大聖堂に枢機卿たちが集まり、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が朗誦し、ロドリゴがPro eligendo Ponteficeを朗読。枢機卿たちが福音書に誓いを立てる。
コンクラーヴェ、開催。自派の枢機卿を動かして自派の者を教皇に立てようとするイタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者の政治的打算、思惑と動向に各枢機卿の個人的それらとが絡みながら、表裏両面での多数派工作、激烈に展開される。
1492年8月11日
空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る(1492年8月10日)。
ピエロ・イル・ファトゥオらフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、彼の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年8月26日
フランチェスコ・トデスキーニ枢機卿の手で戴冠される。
1492年8月31日
即位後初の枢機卿会議で、甥で親友のモンレアーレ大司教フアン・ランソル・イ・ボルハを枢機卿に叙任したのに加え、息子チェーザレ・ボルジアをスペインのヴァレンシアの大司教に叙任。
この後も、こうした閥族主義を赤裸々に繰り広げ、その関心はただ親族、ことにチェーザレ・ボルジア以下4名の庶子たちの繁栄と権勢の強大化にあると評される。
1493年
この頃までに、教皇選出過程以来の自分への執拗な敵対者であるローマの貴族勢力の掃蕩を決意。これに対しオルシーニ家コロンナ家、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ及びフェッランテ・ダラゴーナら、結束。
1493年4月25日
サン・マルコ同盟:ルドヴィーコ・イル・モーロヴェネツィア共和国と共に防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿の主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗す。ルドヴィーコ・イル・モーロヴェネツィア共和国はヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、教皇の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1493年5月4日
新発見地におけるスペイン、ポルトガル両国の境界を、専らスペインに有利に設定。教皇境界線、教皇子午線。
1493年5月23日
小勅書を発し、院長ジローラモ・サヴォナローラの人望、令名の下で入会者と喜捨が増大し大所帯となったフィレンツェのサン・マルコ修道院のロンバルディア修道会からの独立を渋々、承認。
1493年6月12日
フェッランテ・ダラゴーナに抗してルドヴィーコ・イル・モーロとの連携を強めるべく、娘ルクレツィア・ボルジアルドヴィーコ・イル・モーロの親族でペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚をまとめ、この日、ヴァティカン宮殿で自分や枢機卿たちの出席のもとで豪奢な式典を挙げ、夜を徹して享楽の宴を繰り広げる。
朝、招待された貴婦人たちが初めに入場したが、その多くは教皇の前に跪くことを忘れるほどに興奮。8人の枢機卿に取り巻かれて新郎の到着を待ち受ける。
披露宴で、女たちの開いた襟元へボンボンを投げ込む遊びに興じる。
1493年7月下旬
ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルディナンド・ダラゴーナからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。
これらにより、1493年4月の教皇、ミラノ及びヴェネツィアなどの対ナポリ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。
1493年8月5日
この日頃シャルル8世の特使Perron de Baschiから、シャルル8世ナポリ王叙任を求められるが、曖昧な返答に終始(1493年8月6日)。
1493年9月15日
女婿ジョヴァンニ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる(フィレンツェ古文書館所蔵羊皮紙)。「アスカーニオ・マリーア・スフォルツァと長い話し合った。寒いけれども空気が身体によくなる10月10日か15日以降、貴殿がローマに戻り、貴殿の妻との婚姻を成就するということで我々は一致した」。その時に、希望の5千ドゥカートだけでなく、持参金の3万ドゥカートも供与するであろうし、扶助料についても最善を尽くすであろう、即刻返事をせられんことを、と回答。
1493年9月18日(水)
枢機卿会議でチェーザレ・ボルジアの嫡出認知の案件をに承認させる。
1493年9月19日(木)
法的にはドメニコ・ダ・リニャーノが父親とされているチェーザレ・ボルジアが、特別な配慮によってボルジアの姓を名乗る権利を彼に認める勅書を発する。その一方で、自身が父親であることを認める勅書も発する。
1493年9月20日(金)
息子チェーザレ・ボルジアを枢機卿に叙任したのを初め、ドイツ神聖ローマ帝国からレイモンド・ペラウルド、フランス王国からジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ、スペイン王国からベルナルディーノ・カルバハル、イギリス王国からジョン・モートンヴェネツィア共和国からドメニコ・グリマーニミラノ公国からベルナルディーノ・ルナーティジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョローマからアレッサンドロ・ファルネーゼジュリアーノ・チェザリーニフェッラーラ公国からイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ、ハンガリア・ポーランド王国からフリデリク・ヤギェロンチクを任じる。
このようにイタリア及びヨーロッパの主要国、君主の配下の者がもれなく含まれていながら、フェッランテ・ダラゴーナの配下の者だけは含まれず。このため和解して2ヶ月足らずでフェッランテ・ダラゴーナとの関係、再び悪化の兆しを見せる。
1493年10月
チェーザレ・ボルジアを伴いオルヴィエートを訪れる。かつての繁栄を失いすさんだ町の復興をはかる。
1493年10月
カポディモンテの城で主催するファルネーゼ家の集まりに、チェーザレ・ボルジアと共に招かれる。実際にそれが行われたのか、招待を受けて行ったのかどうかは不明。
1493年10月30日
ヴィテルボにて、子フアン・ボルジア宛てに厳しい非難の手紙をしたためる。
1494年1月25日
フェッランテ・ダラゴーナ死。子アルフォンソ2世・ダラゴーナナポリ王に即位。
フェッランテ・ダラゴーナの死後ナポリ王位継承を承認するよう求めるシャルル8世に対して態度を保留していたが、この要求を退けアルフォンソ2世・ダラゴーナの継承を承認。
1494年2月3日
シャルル8世に宛て小勅書を発し、異教徒の侵略にキリスト教世界が団結して対処せねばならぬ今、イタリアの平和を乱すことは許されぬと警告。
1494年2月
フアン・ボルジアの子が誕生する予定であるとの知らせが届く。
1494年3月14日
ナポリアルフォンソ2世・ダラゴーナの大使から忠誠を誓いを受ける。
1494年3月22日
アルフォンソ2世・ダラゴーナと、1493年8月の前ナポリ王、故フェッランテ・ダラゴーナとの和解に基づき協定を締結。
1494年4月
この頃、教会領の小領主たちを潰す野心を見せ始める。
1494年6月7日
トルデシリャス条約:1493年5月の教皇境界線に不服のポルトガル、直接スペインと協議。両国、境界線を若干西方に移して海外領土の境界を確定。両国の紛争、終結。
1494年6月
ジューリア・ファルネーゼ宛てに手紙をしたためる。

 あなたは、あなたの靴の紐を解くにも値しないと思われる女性の美しさを、寛大にも褒め称えておられるが、それはあなたが大変に謙遜しておいでだからだと分かります。そして、私に手紙をくれる誰もが、あなたに比べればその女人の如きは太陽の傍らに置かれたランプの如きものだと書いていることを、あなたが知っておいでだからだ、と承知しています。あなたがその女人の美しさを語ると、私は、一度も疑問になど思ったことのないあなたの完璧な美しさを思うのです。そして、これは私にもはっきりと分かっているのですが、あなたをこの世の何よりも愛している人物にあなたが全くかつ完全に愛着せられんことを望むものです。そして、あなたがあの決心をなさった時には——まだしていないなら——、あなたを賢く立派な人と認めるのにやぶさかではありません。
1494年6月
ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 愛しい我が子、ルクレツィアよ、お前は余に、恐ろしい不満と苦悶に満ちた数日を送らしめた。お前が死んだとか、助かる望みの全くない重病にかかったと伝える残酷な噂がローマに流れたからである。これらの風聞の結果、この世のいかなる人物に対してよりもお前に対して大いなる愛を抱く余の魂がどのような苦しみを味わったか、お前は考えてみることができよう。お前の手によって書かれた手紙が届くまでは、悪しき風評がお前の重病を伝えたりして、余の心は片時も休まることがなかった。お前を危険から救い給うた神と栄えある聖母に感謝しよう。確かなことは、お前をこの目でじかに見る時までは、余の心は本当には休まらぬということである。
1494年7月8日
アドリアーナ・デル・ミラ宛てに手紙をしたためる。

 これまでジョヴァンニ・スフォルツァがその計画についてお前たちに何も語っていないのなら、アドリアーナ・デル・ミラフランチェスコ・ガセットがそのことを口にすべきである。ただし、十分な用心が肝要である。もし、ルクレツィア・ボルジアが一緒に発つことにジョヴァンニ・スフォルツァが同意し、彼自身はその部隊を指揮し、町と国を守るためにペーザロに居残るというなら(とりわけ、フランス軍が陸路と海路から侵入しようとしている時であるから)、私はお前たちのことでいっそう執拗に手紙を書こう。何しろ、現在、多くの兵士があの地方に結集するであろうという状況の下で、お前たちがペーザロにいるのは好ましいこととは思えないからである。
1494年7月14日
ティヴォリ近郊ヴィコヴァーロにて、チェーザレ・ボルジアを伴ってアルフォンソ2世・ダラゴーナと会見し、シャルル8世の侵攻に備えてナポリとの軍事的結束を強化(1494年7月15日)。
1494年7月18日
ヴィコヴァーロからローマに戻る。
1494年7月24日
サン・ピエトロ大聖堂にて娘ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。フアン・ロペスが代筆。

 最愛の娘ルクレツィアへ。数日間全く手紙が届いていない。あなたと愛する息子ジョヴァンニ・スフォルツァの様子を伝える手紙を、せっせと寄こさないとは驚きだ。これからはもっと気にかけ、熱心になりなさい。ジューリア・ファルネーゼの兄アンジェロ・ファルネーゼの死の知らせがあったために、アドリアーナ・デル・ミラジューリア・ファルネーゼカポディモンテに行ってしまった。彼の死はアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿とジューリア・ファルネーゼは悲嘆に暮れさせ、どちらも熱病にかかったくらいだ。ピエトロ・カランツァを世話にやり、医者や必要なものを届けさせた。すぐに健康を取り戻すように、神と聖母に祈っている。実のところ、アドリアーナ・デル・ミラジューリア・ファルネーゼの出立について、私の許可なしに行かせたことで、ジョヴァンニ・スフォルツァとあなたは、私を軽んじているところを見せた。知らされもせずにそのような突然の出立をされては私が不愉快になることを思い起こすべきだったし、それはあなたの責務だったのだよ。もしそれがアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の命によるものだったと言うのなら、教皇がどう思うのか考え及ぶべきだ。しかし、それは終わったことだけれども、次からはもっと注意深く、重要なことを見渡すようにするよ。私は、神と聖母のおかげで、いたって健康だ。アルフォンソ2世・ダラゴーナ王と会見を持ったが、まるで実の息子かのように好意と忠実を示してくれた。大きな満足と充実感を得て、我々は別れた。陛下が、臣下やその他全てのものを私に捧げてくれることに疑いはない。
 コロンナ家に対するあらゆる違いや不和が、3、4日休止になることを願うよ。健康に注意し、聖母にお祈りしなさいと、今あなたに言うことはそのくらいだ。
1494年10月
ジューリア・ファルネーゼ宛てに手紙をしたためる。

 恩知らずにして不実なジューリア・ファルネーゼ、ナヴァルリコが持ち帰った手紙の中で、汝は夫の許可なしにはこちらへ出てくるつもりがないと述べておられる。汝の魂と汝を唆せる者の魂を悪しきものと判断はしたが、汝があれほどしばしば余の命には忠実に、そしてオルシーノ・ミリオラーティには近づかぬと確言し誓ったのであってみれば、これほどに不実な汝の振る舞いは何とも納得いたしかねる。今突然に汝はこれまでと反対のことをしようとし、生命の危険を冒してもヴァザネッロに赴き、恐らくあの種馬に再度身を委ねんとしている。要するに余が願うのは、汝とあの不実なるアドリアーナ・デル・ミラが汝らの過誤に気づき、然るべき悔悛を行うことである。最後に、本書簡によって汝に命ずるのは、カポディモンテあるいはマルタを離れぬこと、いわんやヴァザネッロに赴かぬことである。
1494年12月1日
夜、4百名のフランス兵に護衛され、アドリアーナ・デル・ミラジローラマ・ファルネーゼと共にジューリア・ファルネーゼローマに帰還した際、金襴の縁取りをした黒ビロードの胴着を身につけ、スペイン風の見事な飾り帯に長剣と短剣を吊るし、ヴァレンシア風の細身の長靴を履き、ビロードの帽子を被って迎える。
1494年12月9日
フランス大使たちを謁見。教会領内自由通行を保障を求められるが拒否。
1494年12月18日
ヴァティカン、避難準備。
1494年12月24日
ナポリ軍の撤退を命じる。
1494年12月31日
シャルル8世は、シエナヴィテルボを経て、この日軍と共にローマに入る。
予想を超えたシャルル8世軍の威力と進撃の速さに怯え、サンタンジェロ城に逃げ込む。
1495年1月15日
シャルル8世と協定成立。彼にチェーザレ・ボルジアを人質として引き渡すこと、彼の軍の教会領内自由通行を保障すること、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレローマ近郊オスティアに復帰させることなどを約定。
但しシャルル8世、側近の判断と勧奨に従い、ジローラモ・サヴォナローラから説示された公会議開催、教会改革の要求を捨てて教皇への服従、恭順の意を公式に表明。
1495年1月16日
ヴァティカン宮殿にて、シャルル8世と会見。
1495年3月26日
ヴェネツィアのドージェに黄金の薔薇を授与。
1495年3月31日
ヴェネツィアミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国と共に、対シャルル8世、対フランス神聖同盟(ヴェネツィア同盟)を結成。フィレンツェ、フェッラーラは加盟を拒否。
1495年4月12日
枝の主日ヴェネツィア同盟成立を宣言。
1495年5月28日
チェーザレ・ボルジア、枢機卿団と、ヴェネツィア共和国から提供された武装兵2百、馬千頭、歩兵3千を伴い、シャルル8世を避けてオルヴィエートへ向けローマ出発(1495年5月27日、1495年5月31日)。
1495年6月1日
シャルル8世ローマに到着。
1495年6月3日
オルヴィエートにて、マクシミリアン1世の大使と会見。
1495年6月4日
フランス大使の引見を拒否。
1495年6月5日
ペルージアへ向かう。
1495年6月
チェーザレ・ボルジアを伴い、ペルージアのサン・ドメニコ教会にスオール・コロンバを訪れる。
1497年6月7日
フェデリゴ・ダラゴーナナポリ王として承認。
1495年7月初め
ルドヴィーコ・イル・モーロと共に、フィレンツェを対シャルル8世、対フランス同盟に引き入れるべく新たな策動を開始。
1495年7月21日
ジローラモ・サヴォナローラをフィレンツェの親フランス勢力の首領とみなし、彼を排するため、まず彼に対して小勅書を発し、君の見解の全てを知りたいからローマで自分に直接説明してくれと優しく命令。
1495年9月8日
フィレンツェで反ジローラモ・サヴォナローラ活動の中心をなしているサンタ・クローチェ聖堂に宛てた書簡で、ジローラモ・サヴォナローラを誤った教義を撒き散らす異端の伝道者と決め付け、彼の説教を禁止。同時にサン・マルコ修道会を旧に復してロンバルディア修道会に統合すると通告。これによってサン・マルコ修道会の長としてのジローラモ・サヴォナローラの地位と権威を奪おうと企図。
1495年10月16日
ジローラモ・サヴォナローラに宛て小勅書を発し、9月8日の小勅書での処分を保留しつつ彼の説教だけは改めて禁止。
1495年11月13日
シニョーリアは、アレクサンデル6世に書簡を送り、ジローラモ・サヴォナローラに説教を許可するよう懇請。
1496年6月1日
枢機卿会議で、ヴィルジーニオ・オルシーニジャン・ジョルダーノ・オルシーニパオロ・オルシーニバルトロメオ・ダルヴィアーノが、フランス軍と共同で教会に反逆した罪を宣告し、財産を没収する勅書を発する。
ローマ貴族の制圧に乗り出し、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロを雇ってオルシーニ家に公然と宣戦。バリオーニ家ローヴェレ家ヴィテッリ家オルシーニ家を、コロンナ家は教皇を支援。
1496年8月15日頃
ジローラモ・サヴォナローラのもとに密使を送り、説教の内容を穏やかにし、かつフィレンツェを対フランス神聖同盟に加わらせるならば、赤い帽子すなわち枢機卿の地位を与えるとの懐柔策を提起。
1496年11月7日
フィレンツェのサン・マルコ修道院に宛て小勅書を発し、新たに設立するTosco-Romana修道会に加わるよう指令すると共に、これに従わなければ破門すると威嚇。これによってサン・マルコ修道院の独立性を否定し、その長ジローラモ・サヴォナローラの地位と権威、権限を奪おうと再び企図。
1496年11月
サン・マルコ修道会、教皇のこの指令を拒否。結局この小勅書は当面、守られずに終わる。
1496年12月2日
この日?、イサベル1世・デ・トラスタマラ両王に異端審問の功によりel Católico, la Católica(カトリック両王)の称号を授与。
1496年12月30日
ジョヴァンニ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。1496年11月にオルシーニ家軍と戦っているフアン・ボルジア軍に合流するよう促したが、ペーザロを動かないジョヴァンニ・スフォルツァの説明と弁解を、了解した旨を回答。
1497年1月5日
ジョヴァンニ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。15日以内にローマへ出頭するようにと命令。
1497年1月26日~2月5日
教皇軍は、ソリアーノでオルシーニ家軍、ヴィテッリ家軍との決戦に敗れ、1497年2月5日、オルシーニ家などローマ貴族と和約。
1497年3月30日
ジョヴァンニ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。

 汝はあのローマからの出立がいかほど我々に不快であったかを自身で察し得るはずである。かかる行為については償いの道はただ一つしかあり得ない。したがって、もし汝が名誉を重んじるのであるならば、即刻この地に戻られるよう、心から勧告する。
1497年5月26日
マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノ修道士の紹介状と、2通ともジョヴァンニ・スフォルツァに宛てた離婚を命ずる書簡に署名。
1497年6月6日
枢機卿会議で、フアン・ボルジアとその子孫の領有すべき封土として、ベネヴェントに加えテッラチーナ、ポンテコルヴォとその全ての城塞その他一切を与えるという意思を明らかにする。フランチェスコ・トデスキーニ枢機卿以外全員がこれに同意。しかし、スペイン大使に教会の財産だけは委譲しないよう懇願される。この際大きな財産は関係がなく、しかも問題の土地はすでにニコラウス5世の時代に個人に売却されてしまっていると説明。スペイン大使がそういう行為によって「悪例」を残さないで欲しいと食い下がったので、教皇は怒りの色を見せて彼に、「立ちなさい」と言い、そこで討議を打ち切り、この無礼なスペイン人が出立する後まで延期することにする。
1497年6月12日
ルクレツィア・ボルジアサン・シスト教会から出させるために傭兵隊長指揮下の武装した一隊を派遣。ジローラマ・ピキー修道院長が談判し、ルクレツィア・ボルジアは修道院に居残る。
1497年6月15日
行方不明のフアン・ボルジアのため捜索隊を派遣し、瀕死の重傷を負って口もきけない馬丁が発見される。
1497年6月16日
ダルマチア人船頭ジョルジョがスキアヴォーニ病院辺りで死体がテヴェレ川に投げ込まれたことを目撃したと証言。しかしフアン・ボルジアの遺体が発見されたのは、ここよりも川上であるため、別の人物を目撃した模様。
正午、ポポロ広場近くのテヴェレ川からフアン・ボルジアの死体が引き上げられる。
夜、フアン・ボルジアの葬列がサンタンジェロ城の橋を渡る時、号泣。
1497年6月19日
枢機卿会議で、各国大使の面前で、息子フアン・ボルジアの死を悲しんで公然と啼泣。「いかなる打撃も我々をこれほどまでに打ちのめしはしなかった。我々はガンディア公を世界の全てよりも愛していたのである。・・・・彼をこの世に呼び戻せるのであれば、教皇の座を7度与えても惜しくはない。・・・・神は我々の罪を罰せられたのである。ガンディア公はあのようにひどい、謎めいた死に方をするはずはなかったのであるから。・・・・ジョヴァンニ・スフォルツァが張本人だとの噂が立ったが、それが無実であることを我々は確認した。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァウルビーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロについてはなおさらである・・・・」。悔いと、清らかな生活を送ると決意。ヴァティカンを徹底的に改革すると宣言し、聖務を細心入念に行い、世俗の事象が教皇庁の中に入り込まないように厳重に監視すると声明。「今後、聖職はそれに値する唯一のものにのみ与えられるであろう。我々は縁故主義を止め、改革を我々自身から始めることにするであろう」。
1497年
有徳の聖職者からなる委員会を任命して、その長にジョルジョ・コスタ枢機卿を据え、大掛かりな改革の全ての点について研究するよう指令。他にオリヴィエーロ・カラーファアントーニオ・ジェンティーレ・パッラヴィチーノジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョフランチェスコ・トデスキーニラッファエーレ・サンソーニ
後に改革案はまとめられたが発行せず。
1497年
ジローラモ・サヴォナローラから送られた叱責と悔やみの手紙を受納。
1497年6月21日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿に、息子フアン・ボルジアの死に熱い涙を流しながら、ジョヴァンニ・スフォルツァに対して早急に働きかけを開始して離婚を近々に実現させ、しかも醜聞を起こさないようにせよと指令し、さらに、法律上の措置の遅延も許さないが、和解が法律的解決よりも望ましい旨付け加える。
1497年7月5日
フアン・ボルジア暗殺事件の犯人捜査打ち切りを指令(1497年8月)。
1497年7月
スペイン王フェルディナンド・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。教皇の職を辞してどこかの僧院にこもりたい。
1497年8月末
改革の進捗が鈍る。
1497年12月下旬
ミラノとの結びつきを不要と考え、娘ルクレツィア・ボルジアの訴えに応じて、その夫、ペーザロの君主でルドヴィーコ・イル・モーロの縁戚のジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻を無効と宣言。両者離婚。
1498年2月26日
フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、「悪の子」ジローラモ・サヴォナローラを自分の元に護送するか、あるいは少なくとも彼を「腐敗分子」として監禁して説教できぬようにするかしなければ、フィレンツェでの聖務を禁止すると威嚇。
1498年2月26日
フィレンツェの大聖堂参事会に宛て小勅書を発する。(大聖堂でジローラモ・サヴォナローラに説教させぬよう指令か?)。
1498年3月7日
2月26日付の小勅書の指令拒否の回答を伝えたフィレンツェの特使ドメニコ・ボンシに怒りをあらわにし、ジローラモ・サヴォナローラの説教を全面的に禁止しなければフィレンツェでの聖務を禁止すると繰り返す。ジローラモ・サヴォナローラ自身の書簡にはさらに激しい怒りを爆発させる。
1498年3月9日
フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラの説教の禁止、身柄のローマへの護送ないしはフィレンツェでの監禁を再び命じ、これに従わなければフィレンツェでの聖務を禁止するかそれ以上の重大な処分を下すと威嚇。
1498年3月
この頃、在ローマフィレンツェ商人の身柄を拘束しその財産を差し押さえた上でフィレンツェにジローラモ・サヴォナローラの身柄を引き渡すよう迫り、それでもフィレンツェが従わなければ商人をサンタンジェロ城に投獄し財産を没収することを決める。(但しこの計画は実行されず)。
1498年3月23日
フィレンツェのシニョーリアの3月17日の回答を伝えた特使に、ジローラモ・サヴォナローラの代理の者が彼と同じことを説教し続けていると強く抗議。
1498年4月12日
フィレンツェ人の全贖宥を認める大勅書を発すると共に、フィレンツェのシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラの逮捕に祝意を表しながら、彼の身柄を引き渡すよう要求。
1498年5月12日
フィレンツェのシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラを審問するため教皇庁の審問官2名を派遣すると通告。しかし教皇庁内ではこの2名はジローラモ・サヴォナローラを処罰する任務を与えられていると信じられる。
1498年6月10日
ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァの結婚は不法であったとの小勅書を発する。
1498年6月20日
アレクサンデル6世は、娘ルクレツィア・ボルジアと元ナポリ王、故アルフォンソ2世・ダラゴーナの庶子ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナとの結婚を取り決め、ナポリとの関係を強化。
1498年7月
チェーザレ・ボルジアナポリの王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚についても画策を続ける。
1498年7月29日
ルイ12世ジャンヌ・ド・ヴァロワの結婚解消問題を検討し討議するための委員会を任命。
1498年8月16日
ルイ12世とアレクサンデル6世の秘密協定:ルイ12世チェーザレ・ボルジアにヴァレンティノワ領などを与え、彼を軍事的に支援し、彼とナポリの王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚の実現に配慮することなどを、教皇はルイ12世と妻ジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻の無効を承認し、ルーアンの大司教でルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズを枢機卿に叙任することなどを、それぞれ約束。
1499年初め
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァを知事に任命していたネピを、城主に強要して取り戻す。
1499年
ヤコポ・カエターニローマに召喚し、サンタンジェロ城に投獄。
1499年1月28日
女婿アルフォンソ・ダラゴーナフアン・ランソル・イ・モンカーダ枢機卿、フアン・ロペス枢機卿らと共に、オスティア地方や、カステル・ポルティアーノ周辺の野原で狩りをする。
1499年1月31日
ローマ到着(1499年2月1日)。
1499年2月
謝肉祭ルクレツィア・ボルジアと共に、仮面をつけた人々が通るのを眺め、彼らの戯言を楽しむために、サンタンジェロ城の、架橋に面したバルコニーに姿を現す。
1499年2月12日
告解火曜日
1499年3月9日
カエターニ家の財産をルクレツィア・ボルジアに8千ドゥカートで売るよう強要。
1499年5月16日
チェーザレ・ボルジアの使者ガルシアが早馬で駆けつけ、シャルロット・ダルブレとの結婚が遂行されたことを告げる。ガルシアは4日でローマに到着し、疲労のため教皇の前でも立っていることができず、全てを即刻しかも詳細に語るという条件で、座ることが許される。報告は6時間に及び、最初の交渉から6度にわたる結合の成就に至るまで、何1つ省かれることなく語られる。フランス王ルイ12世チェーザレ・ボルジアと共に淫らに笑いながら、この点では兜を脱いだと述べたこと。ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアによって、王、王妃、ロレーヌ公ルネ2世・ド・ロレーヌ、そしてフランス宮廷の全貴族に供された盛大な酒宴のこと。その他の人々は館の中に収容しきれないので、広い草原に食卓が設えられ、壁掛けが仕切り代わりに用いられたこと。
これによってルイ12世との関係はさらに固まる。
チェーザレ・ボルジアを用いてのロマーニャ制圧と教会国家再建に対するルイ12世の支援がより確実なものとなったと判断した教皇は、ルイ12世ヴェネツィアの対ミラノ同盟を強く支持し、かつミラノからのスフォルツァ家の完全放逐に全面的に同意することを表明。さらにルイ12世にミラノ攻撃を督促するため使節ラミロ・デ・ロルカを派遣するが、使節はミラノ側に捕らえられる。
1499年
この頃?、イーモラフォルリの君主カテリーナ・スフォルツァとその子オッタヴィアーノ・リアリオなどロマーニャの都市の君主たちを破門し、その教皇代理としての正統性を否認し、かつその追放を訴える小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアのロマーニャ攻略に名分を与え、正当化。
1499年8月8日
サン・ピエトロ大聖堂でスポレートの修道院長たち宛てに小勅書を発する。

 親愛なる息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。城主職並びに、スポレートとフォリーニョとその周辺の知事として、貴婦人、ビシェリエ公妃ルクレツィア・ボルジアを信任しました。公妃の、知性、忠誠心、誠実さに完全なる自信を持ち、先の書簡とまた、私と聖座に対するあなた方の常に変わらぬ忠実を熟考するに、義務として公妃ルクレツィア・ボルジアを受け入れ、知事と同じように名誉をもって、彼女への服従を示すだろうと信じます。誇りと敬意をもって彼女が受け入れられ、認められることを願います。私の不愉快を避け恩恵を尊ぶあなた方に、この書簡にて命ずるように、法と慣習の許す限り知事ルクレツィア・ボルジアが適切と考えることに、私に対するものと同じように皆が一致して厳格に従い、彼女の命令を勤勉かつ速やかに実行すれば、その献身は正当な評価を受けるでしょう。
1499年9月25日
4人の枢機卿を伴い、ネピに到着。ボルジア要塞にてルクレツィア・ボルジア、その夫アルフォンソ・ダラゴーナホフレ・ボルジアと会う。
1499年10月1日
ローマ到着。
1499年10月10日
ネピルクレツィア・ボルジアを君主として認めるよう、小勅書を発す。
1499年10月12日
ネピ市民の税を軽減する権限をルクレツィア・ボルジアに持たせる小勅書を発する。
1499年10月初旬
レイモンド・ペラウルド枢機卿を、ペルージアとトーディの総督に任命する。
1499年11月21日
フィレンツェ共和国宛に勅書を発する。フォルリの宮殿の侍従とカテリーナ・スフォルツァに仕える音楽家の2名、どちらもトンマーゾ名の男を逮捕。空洞のある杖の中に教皇宛の毒入りの手紙を所持していたというのを、教皇の召使トンマジーノ・コスピ・フォルリが発見。
1499年12月
ヴェネツィア共和国宛に勅書を発する。マラテスタ家を支援することをやめるよう要求。
これにより、ルイ12世リーミニ回復を支援する準備が整う。
しかしヴェネツィア共和国はこの要求を予見しており、ルイ12世の支援なしにはロマーニャ攻略を続けることができないチェーザレ・ボルジアを妨害するため工作。結果、ルイ12世は「教皇に敬意を払うことなく」ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオフォルリペーザロ攻略に送った軍をロンバルディアの宿営地に戻すよう命令。
1500年2月2日
聖燭祭を行う。ローマ訪問中のイーモラの外交官2人とフォルリの外交官2人が出席。
1500年2月3日
アストッレ3世・マンフレディの外交官ガブリエーレ・カルデローニが税を納めるために来るが、長期間支払われていなかったとして受け取りを拒絶。
1500年2月11日~1500年2月15日
聖座の名における最近の巨額の支出のため、教会財産の増加を目的とし、セルモネータ、バッシアーノ、ニンファとノルマ、ティヴェラ、チステルナ、サン・フェリーチェ、サン・ドナートのこれらコムーネをカエターニ家の反逆に負うものとし、押収することを宣言。18人の枢機卿が署名。
1500年2月26日(水)
12時にポポロ門でチェーザレ・ボルジアを迎えるよう、全枢機卿他、聖職者、外交官に指令。アレクサンデル6世自身は、ヴァティカン宮殿の門の上のロッジアで、フアン・ランソル・イ・ボルハジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョフアン・ロペスジュリアーノ・チェザリーニアレッサンドロ・ファルネーゼと共に立つ。チェーザレ・ボルジアが祭服の間に入った時、アレクサンデル6世は鸚鵡の間に金錦のクッションを5つ持っていき、1つは段になった席に置いて座り、1つは足の下に敷き、3つは足置きの前の床に配置する。扉が開かれ、家臣たちの後に枢機卿たちに挟まれてチェーザレ・ボルジアが入り、教皇の前に跪いてスペイン語で感謝を述べる。教皇が同じくスペイン語で答えると、チェーザレ・ボルジアは両足と右手と口に接吻する。それに続いて家臣たちが足に接吻する。サンタンジェロ城は豪華に飾り付けがされている。
1500年
チェーザレ・ボルジア帰還後すぐ、フォルリから4人の別の外交官が訪問し、すでに忠誠を誓っているチェーザレ・ボルジアへの降伏を承認するよう嘆願。
1500年3月4日(水)
灰の水曜日
1500年3月9日(月)
チェーザレ・ボルジアイーモラ及びフォルリを封与。
1500年3月29日(日)
四旬節第四主日。サン・ピエトロ大聖堂でのミサの後、チェーザレ・ボルジアに聖庁への特別功労賞黄金の薔薇を授け、彼を教会の旗手及び教会軍総司令官に任命。
1500年4月19日(日)
復活祭。アレクサンデル6世の祝福を受けるため、サン・ピエトロ大聖堂前の広場に20万人の信徒が集まる。膨大な金を取得。
1500年6月1日
キリスト教諸国、諸権力者に対し、共同の敵オスマン・トルコに団結して向かうよう訴える勅書を発する。しかし自身への諸国、諸権力の不信も手伝い、ほとんど何の反応、成果も得られずに終わる。
1500年6月29日
聖ペテロの祝日。不意に人事不省に陥ったりしたが、この日には回復。ヴァティカン宮殿ボルジアの間「教皇の間」で、天蓋の垂れた玉座に座り、子供たちの来訪を待つ。にわかに突風が巻き起こり、続いて「そら豆ほどの」大きさの雹の混じった驟雨となる。フアン・ロペス枢機卿と従僕のガスパーレが、庭に向かって開いている戸を閉めようとしている時、雷が落ち、留守だったチェーザレ・ボルジアの住んでいた上の住居を撃ち、3つの階の天井を貫く。壁と梁が崩れ落ち、窓際の壁の窪みに立っていた2人は難を逃れるが、玉座に座していた教皇は瓦礫に閉じ込められる(1500年6月27日)。
救出されると、かすり傷を負った顔と手に血が滲んでいるだけの軽傷だったが、看病の間発熱もあった。ルクレツィア・ボルジアだけに手当させ、フアン・ロペスチェーザレ・ボルジアの2人のみ見舞いを許す。やがて快癒。
1500年7月3日
この日には、ルクレツィア・ボルジアサンチャ・ダラゴーナホフレ・ボルジアローマにいる。
1500年7月5日
聖母マリアの礼拝を行う。
1500年7月
傷の回復に向かっている時、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会への行進を行って、3百ドゥカートの入ったゴブレットを聖母マリアに捧げ、フランチェスコ・トデスキーニ枢機卿が人々の前で祭壇に金貨をばら撒く。
1500年8月8日
リーミニの君主パンドルフォ4世・マラテスタペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァファエンツァの君主アストッレ3世・マンフレディを破門し、その教皇代理の職を奪う小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアのこれら各地の攻略に名分を与え、正統化。しかし、ファエンツァの市民はこの処置を無視してアストッレ3世・マンフレディ中心に結束。
1500年8月10日
フアン・ランソル・イ・モンカーダ枢機卿をスポレートの知事に任命する。但し、スポレートからの歳入はルクレツィア・ボルジアがその権限を持つ。
1500年8月18日
チェーザレ・ボルジアの攻撃を恐れるリーミニペーザロの支援依頼を拒絶したヴェネツィアは、教皇の求めに応じてチェーザレ・ボルジアヴェネツィアの貴族の列し、教皇とルイ12世の側につくことを公然と示す。
1500年9月28日
新たに枢機卿12名を任命。
1501年
検閲の布告を発す。
1501年2月26日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの従順を称え、チェーザレ・ボルジア軍のファエンツァ攻略への支援に感謝する小勅書を発する。
1501年4月末~5月初旬
この頃、チェーザレ・ボルジアにロマーニャ公の称号を与える。
チェーザレ・ボルジア、トスカーナに軍を進める。ルイ12世の思惑を懸念し、チェーザレ・ボルジアにトスカーナに入らず直接ローマに帰還するよう指示するが、無視される。
1501年5月8日
枢機卿会議で、フェッラーラが個人の封土であるとする。
1501年5月
秘書をフランスに送り、ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの結婚に反対のフランス王ルイ12世を説得しようとするが失敗。
1501年6月1日
禁書目録の発明:印刷機を悪用させないための勅書を発する。健全な教義、良い習慣、そして何よりもカトリック信仰に悪影響を与えるような、信仰を汚すようなあらゆることを印刷することに対し激しく抗議。不敬を働き続ける印刷業者は、破門すると威迫し、世俗の武器の力も借りることで聖俗にわたり罰する。信仰を脅かす内容を含む全ての印刷物の目録の準備を指示し、そうすることで精読すべき印刷物を禁書指定から保護することを言明。
この日までに、チェーザレ・ボルジアペーザロリーミニファエンツァを封与。
この日、チェーザレ・ボルジアカステル・ボロニェーゼを封与。
1501年6月25日
枢機卿会議にて、スペイン大使とフランス大使から正式にフェルディナンド・ダラゴーナルイ12世のグラナダ協定の報告を受け、これを承認。
教会への反逆、トルコに援軍を要請したなどとして、フェデリーコ・ダラゴーナナポリ王退位の勅書を発する。
1501年6月28日
サンタンジェロ城の下側の城壁の上に立って、ナポリ王国攻略に出発する軍に祝福を与える。
1501年6月29日
グラナダ協定、公表される。
1501年7月12日
ファエンツァ長老評議会とチェーザレ・ボルジアから嘆願されていた、ファエンツァの砲撃で破壊された修道院の再建を許可する小勅書を発する。
1501年7月13日
サン・ピエトロ大聖堂にて、フィレンツェ共和国シニョーリア宛てに手紙をしたためる。代筆はアドリアーノ。

 愛する息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。愛する娘、淑女カテリーナ・スフォルツァが、そちらに向かっています。気づいているように、当面彼女を捕虜として拘留しておかなければならない十分な理由がありましたが、再び寛大な措置の対象となりました。慣習と司祭の責務によって、ただカテリーナ・スフォルツァに対して情けをかけるだけでなく、神の助けのある限りにおいて、彼女の快適な生活への父の心遣いをしました。それ故、カテリーナ・スフォルツァをあなた方の保護の下に置くということを、手紙に書くことは適切とみなします。そうすれば、私があなた方に対して善意を持っていることに彼女が全幅の信頼を置けますし、いわば彼女自身の国に帰れるのです。期待や私の推薦に惑わされることもないでしょう。したがって、彼女が歓迎され好待遇を受けること、彼女があなた方の町に住むことを選んだこと、私へのあなた方の心遣いに感謝すべきでしょう。
1501年7月27日
ジョルジョ・コスタ枢機卿を補佐としてつけ、ルクレツィア・ボルジアに教皇代行を任せ、騎兵と歩兵を従えセルモネータへ行く。
1501年8月20日
教皇シクストゥス4世時代から教会に対する反抗を理由として、封建領主たち、サヴェッリ家コロンナ家を破門する勅書を発する。ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿も例外ではなかった。破門した家門の財産没収を命じる。
1501年9月1日
3歳のインファンテ・ロマーノチェーザレ・ボルジアと未婚女性との庶子であるとする勅書を発する。「Dilecto Filio Nobili Joanni de Borgia, Infanti Romano
チェーザレ・ボルジアではなく、私と未婚にして子を産むという汚点のついた女性のために、先の文書には記載する意思はなかった。子が後の懸念とならぬように、勅書が絶対に無効とされることのないようにするつもりである。そして、私の自由意思と権限のおかげで、これらの書類によって、先の文書に書いたように全ての完全な享受を確認するものである」と、インファンテ・ロマーノを自分の子として認知する小勅書を発する。
1501年9月4日
ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの署名された結婚契約書を持った使者がローマに到着。サンタンジェロ城の祝砲を撃たせる。「教皇選出の時のような祝砲と花火が打ち上げられた」
1501年9月
枢機卿会議で、エルコーレ1世・デステを称賛し、イタリアで最も素晴らしく賢明な君主と言う。アルフォンソ1世・デステチェーザレ・ボルジアよりも顔立ちのいい素晴らしい男で、前妻アンナ・マリーア・スフォルツァは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の義理の妹であったことも付け加える。フェッラーラは幸運な国で、エステ家は古い家柄である。君主たちの結婚の繋がりは、もうすぐローマへ来て花嫁を連れていき、エリザベッタ・ゴンザーガが付き添うことになる、と述べる。
1501年9月17日
枢機卿会議で、シクストゥス4世に義務付けられたフェッラーラの聖座の封土としての賦課金を4百ドゥカートから1百フィオリーノ(4千ドゥカートを3分の1)に減額する投票を行う。猛反対が予想されたが、女子修道会や教会を創建し、町を繁栄させ、それ故教皇領の砦となっていると、エルコーレ1世・デステフェッラーラのために行ったことを説明。フランチェスコ・ボルジアらの勧めもあって、認可される。枢機卿23名が署名。この譲歩はアルフォンソ・ダラゴーナルクレツィア・ボルジアの後裔のためと、アレクサンデル6世は明言。
ネピセルモネータの所有権をルクレツィア・ボルジアに放棄させ、破門した領主たちから取り上げた地域をネピ領とセルモネータ領に分け、ネピインファンテ・ロマーノに、セルモネータロドリゴ・ダラゴーナに与える勅書を発する。
1501年11月2日
万霊節。カタルにかかったことを理由としてサン・ピエトロ大聖堂に現れず。
1501年12月8日
イッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ枢機卿率いる花嫁ルクレツィア・ボルジア出迎えの一行が出発した知らせを受け、エルコーレ1世・デステ宛てとイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ宛ての、満足と祝賀の意を記した2通の勅書を発する。
1501年12月28日(火)
ローマにて、ネピの修道院長たち宛てに教皇書簡をしたためる。

 親愛なる息子たちよ。ごきげんよう、そして神の御恵みを。神に愛される娘、高貴な淑女である公爵ルクレツィア・ボルジアが、愛される息子でフェッラーラ公の長子アルフォンソ1世・デステとの結婚のために、次の月曜日にここを出発し、多くの貴族のお供と、2百の騎馬に伴われて、あなた方の地域を通過します。それ故、もし私の好意を尊び、不愉快を避けるならば、滞在する1日2晩の間彼らを歓迎することを望み、また命じます。そうすれば、あなた方全員が私の称賛を受けることになるでしょう。
1501年12月28日(火)
ローマにて、トレヴィの政府宛てに上記と同様の教皇書簡をしたためる。
1502年1月5日
ルクレツィア・ボルジアに、随員と、車馬のための金、グッビオで出会った後ウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガと共に旅をするための駕籠などの贈り物を与える。
1502年2月2?日
ピオンビーノ滞在中、聖アウグスチノ修道会のピオンビーノ大聖堂を聖別。
1502年4~5月
チェーザレ・ボルジアローマでマルケ及びトスカーナ攻略の態勢を公然と整え続ける。
チェーザレ・ボルジアの攻略の主目標はカメリーノだと公表し、カメリーノの君主ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの地位を否認。
1502年6月12日
勅書の中でインファンテ・ロマーノチェーザレ・ボルジアの子として記載。
1502年7月21日
税に関する勅書の中でインファンテ・ロマーノを自分の甥として記載。
1502年9月2日
インファンテ・ロマーノをカメリーノ公に封ずる。フランチェスコ・ボルジアを彼の代父とする。
1503年1月3日
ローマセニガッリアの罠を密かに伝えられ、オルシーニ家の中心人物ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿をヴァティカン宮殿内で逮捕し、投獄。
1503年1月下旬
オルシーニ家は、自領保全のため一族を挙げて決起。同家の宿敵コロンナ家サヴェッリ家も協調する動きを示し、ローマ周辺に不穏な動き強まる。これに対処するため、チェーザレ・ボルジアローマへの帰還を促す。
1503年2月7日
オルシーニ家を教会への反逆者と見なすと布告。
1503年2月22日
ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿、サンタンジェロ城内で獄死。教皇の指示による毒殺か?
1503年3月29日
パンドルフォ・ペトルッチは、ルイ12世を後ろ盾としてシエナに復辟。
教皇とチェーザレ・ボルジアの版図、権勢のこれ以上の拡大を警戒し、フィレンツェやシエナなどと秘密裡に交渉していたルイ12世は、これら諸国の保護とこれら諸国による自分のナポリ攻略の支援とについて合意し、シエナにパンドルフォ・ペトルッチを復辟させてチェーザレ・ボルジアを退ける。
教皇とチェーザレ・ボルジアは、とりわけ教皇はルイ12世から離反し、彼と対抗するフェルディナンド・ダラゴーナ及びヴェネツィアに傾倒し始める。
教皇庁に80の官職新設され、高額で売買される。
1503年4月10/11日
枢機卿ジョヴァンニ・ミキエル急死。直後、彼の巨額な遺産を接収する指令を発す。教皇指令による枢機卿毒殺の疑い広まる。
これらの聖職売買、遺産接収による収入はチェーザレ・ボルジアに軍資金として送られる。
1503年8月18日
病死。死因は卒中。
この時チェーザレ・ボルジアも同じ病(マラリア)の床にあって行動できず。
評判の悪かった教皇の遺体はサン・ピエトロ大聖堂の司祭たちに、教皇庁の役人に強要されるまで埋葬を拒否される。葬儀にはたった4人の高位聖職者が参列した。サンタ・マリア・デッレ・フェーブリ教会(現サン・ピエトロ大聖堂聖具室)に埋葬。
1610年1月30日
カリストゥス3世の遺骨と共に、サンタ・マリア・イン・モンセッラート・デリ・スパーニョリ教会に移される。
1889年8月21日
スペイン人彫刻家フェリペ・モラティーリャによって霊廟が完成。

在位
 サン・ニコラ・イン・カルチェレ助祭枢機卿 1456年9月17日~1471年8月30日
  任命した教皇:カリストゥス3世
 ヘローナ教区長 1457年~1458年6月30日
 教皇庁副尚書院長 1457年5月1日~1492年8月11日
 サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラタ助祭枢機卿 1458年6月~1492年8月
 ヴァレンシア司教 1458年6月30日~1492年7月9日
  先代:アロンソ・デ・ボルハ
 首席助祭枢機卿 1463年3月~1471年8月30日
 アルバーノ司教枢機卿 1471年8月30日~1476年7月24日
 カメルレンゴ 1472年1月8日~1472年5月15日
 ポルト・エ・サンタ・ルフィナ司教枢機卿 1476年7月24日~1492年8月11日
 カルタヘナ教区長 1482年7月8日~1492年8月11日
 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂首席司祭 1483年~1492年8月11日
 首席枢機卿 1483年1月22日~1492年8月11日
 マヨルカ島司教 1489年10月9日~1492年8月11日
 エゲル教区長 1491年~1492年8月11日
 ヴァレンシア大司教 1492年7月9日~1492年8月11日
    次代:チェーザレ・ボルジア
 第214代教皇 1492年8月11日~1503年8月18日
  先代:インノケンティウス8世
  次代:ピウス3世

肖像
 聖母の前に跪くアレクサンデル6世
 聖カタリナの議論
 ヤコポ・ペーザロの奉納画
 アレクサンデル6世の肖像
 教皇アレクサンデル6世
 カトリックの悪魔
 ボルジア家
 ボルジア家
 ルクレツィア・ボルジア

その他
 フェッラーラのサンタ・マリア・デッラ・ヴィーニャ修道院に対する贖宥状
 アレクサンデル6世のミサ典礼書

任命した枢機卿
1492年8月31日 フアン・ランソル・イ・ボルハ
1493年9月20日 ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ
ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョ
ベルナルディーノ・カルバハル
チェーザレ・ボルジア
ジュリアーノ・チェザリーニ
ドメニコ・グリマーニ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
ベルナルディーノ・ルナーティ
レイモンド・ペラウルド
ジョン・モートン
フリデリク・ヤギェロンチク
イッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ
1494年5月 ルドヴィーコ・ダラゴーナ
1495年1月16日 ギヨーム・ブリソンネ
1495年1月21日 Philippe de Luxembourg
1496年2月19日 フアン・ロペス
バルトロメ・マルティ
フアン・デ・カストロ
フアン・ランソル・イ・モンカーダ
1498年9月17日 ジョルジュ・ダンボワーズ
1500年3月20日 Diego Hurtado de Mendoza y Quiñones
アマニュー・ダルブレ
ペドロ・ルイス・ランソル
1500年9月28日 ハイメ・セッラ・イ・カウ
ピエトロ・イスアレス
フランチェスコ・ボルジア
フアン・デ・ヴェラ
ルドヴィーコ・ポドカタロ
Antonio Trivulzio
ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ
Tamás Bakócz
マルコ・コルナーロ
ジャンステファノ・フェッレーロ
1503年5月31日 フアン・カステリャール
フランシスコ・デ・レモリンス
フランチェスコ・ソデリーニ
Melchior von Meckau
Niccolò Fieschi
Francisco Desprats
アドリアーノ・ダ・カステッレジ
Jaime de Casanova
Francisco Lloris y de Borja


 黄色と黒。


別表記
 アレッサンドロ6世、ロドリーゴ、ロデリク・ランソル、ロドリゴ・ランツォル・イ・ボルジア、ドン・ロドリーゴ、ロデリーゴ・ボルジア、ボルジャ、Roderic LanzolRodrigo Lanzol-Borja y BorjaRodrigo de Borja y DomsRodrigo BorgiaRoderigo Borgia


関連項目
 The Borgias


外部リンク
 ウィキペディア
 世界帝王事典
 チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
 Catholic-Hierarchy
 Famille de Carné
 Find A Grave
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Google Books
 Google Books
 IDLE SPECULATIONS
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 RootsWeb.com
 THE BORGIAS wiki
 THE BORGIAS wiki
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikimedia Commons
 Wikisource

参考文献
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『性病の世界史』
 『世界悪女大全』
 『世界悪女物語』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンス夜話』
 『ローマ教皇検死録』
 『At the Court of the Borgia
 『Casa Cesarini. Ricerche e documenti
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia
ボルジア家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで