- 生没
- 1476年7月21日~1534年10月31日
- 出身
- フェッラーラ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- エルコーレ1世・デステ
- 母
- エレオノーラ・ダラゴーナ
- 妻
- アンナ・マリーア・スフォルツァ
ルクレツィア・ボルジア
- 女
- ラウラ・エウストキア・ディアンティ
- 子
- アレッサンドロ・デステ
エルコーレ2世・デステ
イッポーリト・デステ
エレオノーラ・デステ
アレッサンドロ・デステ
フランチェスコ・デステ
アレッサンドロ・デステ
イザベッラ・マリーア・デステ
アルフォンソ・デステ
アルフォンシーノ・デステ
概要
アルフォンソ1世・デステは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、フェッラーラ公。
在位
フェッラーラ公 1505年~1534年
レッジョ公 1505年~1512年、1523年~1534年
先代:エルコーレ1世・デステ
次代:エルコーレ2世・デステ
モデナ公 1505年~1510年、1527年~1534年
先代:エルコーレ1世・デステ
次代:エルコーレ2世・デステ
教会の旗手 1509年4月19日~1510年
年表
1476年7月21日
1477年5月20日
1490年12月29日
1491年1月23日
1491年2月12日
1492年11月
1497年6月
1497年11月30日
1501年8月16日
1501年9月1日
1501年12月30日
1502年2月5日(土)
フランス王
ルイ12世の名代として、フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティから、
マグダラのマリアの絵の入った盾を贈られ、彼女に性格の似た妻を選んだ、との言葉を添えられる。大砲の鋳造の仕方が書かれた文書も贈られる。
1502年2月6日(日)
教会で儀式。
アレクサンデル6世の名代から、帽子と教皇の祝福を受けた剣が贈られ、祭壇で司教に授与される。
1502年2月8日(火)
告解火曜日。夜、ロンボンツィーノ作曲の音楽が演奏され、
プラウトゥスの『
Casina』が上演される。幕間に他の5人と共にヴァイオリンを演奏。
1502年10月8日
1504年
イギリス旅行に出る。
1505年1月25日
1505年1月30日
1505年11月1日
1506年7月2日
1506年7月
1508年12月10日
1509年11月下旬~12月21日
ヴェネツィア軍、再三
フェッラーラを攻撃。1509年12月21日、ポー河から攻撃していた艦隊は、アルフォンソ1世・デステの砲兵隊に撃破され、後退。
1510年2月24日
ユリウス2世、ヴェネツィアと和解。教皇はヴェネツィアに対する破門及び聖務の禁止処分を解除し、ヴェネツィアは教皇の至上権及び
フェッラーラ攻撃を承認。
カンブレー同盟陣営、とりわけ
ルイ12世は、教皇の方針変更に気づき、大いに不満を覚える。
ユリウス2世、教会領の完全な回復を目指し、
フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステに
ルイ12世からの離反、ヴェネツィアへの敵対の中止を指示。しかし、アルフォンソ1世・デステは依然
ルイ12世と協同歩調をとってヴェネツィアに敵対。
1510年4~5月
1510年6月
ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。
1510年8月9日
1510年8月18/19日
ユリウス2世軍は、アルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを平穏裡に制圧し入城。
1510年8~9月上旬
1510年9月28日
1510年
1511年1月31日
1511年3月25日
1511年5月21~23日
1512年4月11日
1512年4月12日
ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
ラヴェンナ占領における
ルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、
フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々に
ルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
1512年6月下旬
1512年6月24日
1512年7月4日
1512年7月19日
1513年2月21日
数日前から病床についていた
ユリウス2世、死(1513年2月20日)。
アルフォンソ1世・デステ、
ユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。
1513年4月11日
1514年6月半ば
1515年12月11日~1515年12月14日
レオ10世と
フランソワ1世、ボローニャで政教協約などにつき会談。この年10月の協定を共に確認した上、モデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還を求める
フランソワ1世に対し、両地を2ヶ月以内に割譲すると約束。しかし、アルフォンソ1世・デステから所定の金を得ながら期限後も両地を手放さず。
1517年
1518年11月14日
モデナ・レッジョの返還に関する1517年の勅書の履行を求めてきたが、
レオ10世にその意のないことを確認させられ、
フランソワ1世に助力を求めるべく自らパリへ赴くことを決意。
しかし、パリでは再三の懇願にも拘らず、すでに
レオ10世との協調を最重視していた
フランソワ1世から誠意ある回答を得られず。
1519年2月
帰国。
1519年6月24日
夜の5時、
フェッラーラにて、甥
フェデリーコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
閣下、誉れある兄弟にして甥へ。我々の主が公妃、我が愛する妻の魂を召し出されました。一方の幸不幸が他方の幸不幸に通ずると、お互いへの愛が私に信じさせたという事実を、急ぎお知らせいたします。愛しく優しい伴侶が奪われてしまったことを分かっていながら、涙なしでは書くことができません。彼女の模範的な品行と我々の間に存在した慈愛が、私のもとへ彼女を運んだのです。この悲しみの時に、まさに閣下からの慰めを求めるでしょうが、私の悲嘆を共有しているのだとも分かっておりますし、慰めようとしてくださるより涙を分かち合う方が好ましい。閣下に忠誠を。
1519年末
この頃?、
レオ10世が、かねてから抱いていて
フェッラーラ奪取の意を実現すべく、彼が病床に臥したのを機に
Ventimigliaの司教アレッサンドロ・フレゴーソ指揮の軍に
フェッラーラを急襲させるが失敗に終わる。
1520年
フェッラーラ制圧に意を燃やす
レオ10世、アルフォンソ1世・デステの守備隊長を買収して自軍の
フェッラーラへの自由入城を保証させた上グイド・ランゴーニ(1485年~1539年)指揮の軍を派遣するが、その直前に買収、攻撃計画発覚し、失敗に終わる。
1521年12月上旬~下旬
1522年9月半ば~10月半ば
1522年11月29日
フランソワ1世を孤立させ、その新たなイタリア侵攻を阻止することを狙う
カール5世、使節ジローラモ・アドルノをアルフォンソ1世・デステのもとへ送って折衝し、彼の領国支配の商人及びモデナ・レッジョの彼への返還を約束する代償に彼から巨額の軍資金を得ることを協定。
1523年9月29日
ハドリアヌス6世からモデナ、レッジョの返還を約されていたアルフォンソ1世・デステ、彼の死により約束の実現の望みが断たれたことを知り、レッジョを急襲し占領、奪還。
1524年12月初旬
1526年9月30日
カール5世とアルフォンソ1世・デステ、
カール5世はアルフォンソ1世・デステの駐イタリア軍の総指揮官となること、
カール5世はアルフォンソ1世・デステから資金を得て彼にモデナなどを封与し保護することなどを協定。
1526年12月上旬
1527年3月5日
1527年4月26/27日
シャルル・ド・ブルボン、コニャック同盟軍によるフィレンツェ防衛が堅固なこと、フィレンツェ市民による支持、歓迎が期待できないこと、アルフォンソ1世・デステにかねてからフィレンツェ劫掠を止められていたこと、自軍の多数のルター派兵士からローマ劫掠を急ぐ声が強く上がったことなどによりフィレンツェ攻撃、侵入を断念し、急遽ローマを目指して軍をシエナ方面に転進させる。
1527年6月5~6日
アルフォンソ1世・デステ、モデナを攻撃、制圧し、積年の宿願であった領地回復を達成。モデナに入城して市民の大歓迎を受け、以後3日間、モデナ、
フェッラーラ、レッジョを中心に祝賀行事を繰り広げる。
1527年11月15日
1528年6月28日
1528年10月6日
クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。
1529年8月5日
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1529年10月下旬~11月初頭
この頃?、アルフォンソ1世・デステ、自ら
カール5世のもとに赴いて懸命に恭順、忠節の意を表し、受け入れられる。
フェッラーラ、モデナ、レッジョの領有を巡る
クレメンス7世のアルフォンソ1世・デステに対する敵意も考慮して彼を回避していた
クレメンス7世は、旅程を変えてモデナに入る。
1529年11月5日
この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。
1529年
1529年12月23日
これらの協定により、イタリアにおける
カール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおも
フランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1530年3月2日
1530年3月21日
帰国する前にイタリアにおける争乱の芽を摘み取りたい
カール5世、
フェッラーラ、モデナ、レッジョの帰属問題につき、近く自身が裁定を下すこと、その時までこれらの地を自身ないし自身の配下の者の管轄下に置くことを
クレメンス7世とアルフォンソ1世・デステに同意させる。
1533年2月24日
1534年10月17日~10月18日
カール5世への対抗上、教皇とシュマルカルデン同盟諸侯の双方に宥和策をとる
フランソワ1世に新教徒側内部でも幻想的な期待が生じていたフランスで、
ローマ教会のミサを罵倒し、教皇との妥協に傾くルター派を叱咤し、新教の信仰原理を真正面から対置する激越なビラがパリ、ブロワ、ルーアンなど各都市で、深夜、一斉に貼り付け・撒布され、アンボワーズ城の
フランソワ1世の寝室の前にまで置かれる。(檄文事件)
パリ高等法院、パリ大学神学部及び
フランソワ1世、直ちに異端撲滅に動き出し、異端容疑者を次々に検挙。
1534年10月31日
肖像
持病
梅毒。
墓
埋葬地
コルプス・ドミニ修道院
チェーザレ・ボルジア数
妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
アルフォンソ・ダ・エスティ
外部リンク
アルフォンソ・デステの優雅(?)な生活
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Genealogy.EU
kleio.org
THE BORGIAS wiki
Treccani
『愛の年代記』
『イコノロジー研究』
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界悪女大全』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンスの光と闇』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2019年12月11日