Alfonso I d'Este

アルフォンソ1世・デステ

生没
1476年7月21日~1534年10月31日
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ
エルコーレ1世・デステ
エレオノーラ・ダラゴーナ
アンナ・マリーア・スフォルツァ
ルクレツィア・ボルジア
ラウラ・エウストキア・ディアンティ
アレッサンドロ・デステ
エルコーレ2世・デステ
イッポーリト・デステ
エレオノーラ・デステ
アレッサンドロ・デステ
フランチェスコ・デステ
アレッサンドロ・デステ
イザベッラ・マリーア・デステ
アルフォンソ・デステ
アルフォンシーノ・デステ

概要

 アルフォンソ1世・デステは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フェッラーラ公。

在位

 フェッラーラ公 1505年~1534年
 レッジョ公 1505年~1512年、1523年~1534年
  先代:エルコーレ1世・デステ
  次代:エルコーレ2世・デステ
 モデナ公 1505年~1510年、1527年~1534年
  先代:エルコーレ1世・デステ
  次代:エルコーレ2世・デステ
 教会の旗手 1509年4月19日~1510年

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍

年表

1476年7月21日

フェッラーラにて、生。

ロドリゴ・ボルジア枢機卿が、洗礼の代父を務める。

1477年5月20日

アンナ・マリーア・スフォルツァと婚約。

1490年12月29日

ミラノへ向けフェッラーラ出発。ポー川が凍っているため、そりで移動。

1491年1月23日

パヴィアにて、アンナ・マリーア・スフォルツァとの結婚を誓約。

1491年2月12日

アンナ・マリーア・スフォルツァと結婚(1491年1月30日)。

1492年11月

エルコーレ1世・デステの命により、教皇アレクサンデル6世フェッラーラへの歓心を買うため、ローマに来てヴァティカン宮殿に数週間滞在。滞在中、教皇の娘ルクレツィア・ボルジアへも表敬に訪れる。

1495年7月6日

フォルノーヴォの戦いで、ルドヴィーコ・イル・モーロのもとに派遣され、兵5百を率いて戦う。

1497年6月

アンナ・マリーア・スフォルツァと共にミラノスフォルツェスコ城に滞在。

ガレアッツォ・サンセヴェリーノに付き添われ、甲冑を注文するためミッサーリアの店に行く。

1497年11月30日

アンナ・マリーア・スフォルツァ、死。

1501年8月16日

ヴァティカン宮殿ルクレツィア・ボルジアとの結婚契約が結ばれる。結婚契約書をフランシスコ・デ・レモリンスベルフィオーレの別荘にいるエルコーレ1世・デステに届ける。

1501年9月1日

ベルフィオーレの別荘にて、教皇使節が結婚契約を結ぶ。

1501年12月30日

ルクレツィア・ボルジアとの教会結婚式がヴァチカンで執り行なわれる。代理人はフェッランテ・デステ

これによってチェーザレ・ボルジアは支配領ロマーニャと隣接するフェッラーラと提携して自領を固め、フェッラーラチェーザレ・ボルジアの攻撃に対する自領防衛の保証を得る。

1502年2月5日(土)

フランス王ルイ12世の名代として、フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティから、マグダラのマリアの絵の入った盾を贈られ、彼女に性格の似た妻を選んだ、との言葉を添えられる。大砲の鋳造の仕方が書かれた文書も贈られる。

1502年2月6日(日)

教会で儀式。アレクサンデル6世の名代から、帽子と教皇の祝福を受けた剣が贈られ、祭壇で司教に授与される。

1502年2月8日(火)

告解火曜日。夜、ロンボンツィーノ作曲の音楽が演奏され、プラウトゥスの『Casina』が上演される。幕間に他の5人と共にヴァイオリンを演奏。

1502年10月8日

ルクレツィア・ボルジアの回復のための誓いを成就するため、ロレットに行く。

1504年

イギリス旅行に出る。

1504年10月10日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリを呼び出し、他の仕事を全て止めてイザベッラ・デステの腕輪に専念するよう命令。他の宝飾品に取り組んでいることを発見すれば、それらを鎚で打ち砕くと宣言。11月中旬までに完成させると約束させ、それまで監視を続ける。完成を早めるために、パリで手に入れた染料ロシエーロを提供する。

1505年1月25日

エルコーレ1世・デステ死。フェッラーラ公となる。

1505年1月30日

フェッラーラ公爵冠を受ける

1505年5月初旬

フェッラーラでペスト発生。

1505年11月1日

イッポーリト・デステジューリオ・デステを傷害。

1506年7月2日

ルーゴにて、イッポーリト・デステと密談。

1506年7月

エステ家の内紛:イッポーリト・デステによるジューリオ・デステの傷害事件に端を発して、ジューリオ・デステフェッランテ・デステがアルフォンソ1世・デステとイッポーリト・デステの殺害を企んだが発覚。両名、死刑の宣告を受けるがアルフォンソ1世・デステの取り成しにより終身刑に処される。

1507年

フェッラーラモンテ・ディ・ピエタの設立を認可。

1508年

ベンティヴォーリオ家に対する軍事作戦支援の報酬として、黄金の薔薇を拝受。

1508年12月10日

カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。

後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。

1509年11月下旬~12月

フェッラーラヴェネツィア共和国軍に再三攻撃される。

1509年12月21日

ポー河から攻撃していたヴェネツィア共和国の艦隊を砲兵隊で撃破し、後退させる。

1510年2月24日

ユリウス2世、ヴェネツィアと和解。教皇はヴェネツィアに対する破門及び聖務の禁止処分を解除し、ヴェネツィアは教皇の至上権及びフェッラーラ攻撃を承認。

カンブレー同盟陣営、とりわけルイ12世は、教皇の方針変更に気づき、大いに不満を覚える。

ユリウス2世、教会領の完全な回復を目指し、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステにルイ12世からの離反、ヴェネツィアへの敵対の中止を指示。しかし、アルフォンソ1世・デステは依然ルイ12世と協同歩調をとってヴェネツィアに敵対。

1510年4~5月

シャルル・ダンボワーズジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。1510年5月24日ヴィチェンツァも奪回。

1510年6月

ルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍のヴェネツィア領攻撃、奪還続く。

ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。

すでに実質上カンブレー同盟を破棄しているユリウス2世ルイ12世の孤立化を図ってアルフォンソ1世・デステにルイ12世からの離反を指令すると共に、マクシミリアン1世ヘンリー8世及びジェノヴァに反ルイ12世の行動を取らせるべく画策。

1510年8月9日

ユリウス2世は、アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。

シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。

1510年8月18/19日

ユリウス2世軍は、アルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを平穏裡に制圧し入城。

1510年8~9月上旬

シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステの撤退で孤立化したマクシミリアン1世、ヴィチェンツァを捨てヴェローナに撤退。ヴェネツィアはヴィチェンツァを奪い、ヴェローナを攻撃。

1510年9月28日

ヴェネツィア軍が二方面からフェッラーラを攻撃するがフェッラーラ軍に撃退される。

1510年

この頃、シャルル・ダンボワーズと共に、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。

1511年1月31日

ユリウス2世、前年8月に制圧したモデナを、決してアルフォンソ1世・デステに譲らぬとの条件付でマクシミリアン1世に封与。

1511年3月25日

ヴェネツィアの艦隊がポー河を上ってフェッラーラに接近し攻撃するがフェッラーラ軍に撃退される。

1511年5月21~23日

ボローニャでアルフォンソ1世・デステとも通じた市民の反乱生じ、教皇代理フランチェスコ・アリドージ逃亡。ベンティヴォーリオ家は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ率いるフランス軍と共にボローニャに入り、市民の大歓迎を受ける。

1512年4月11日

ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍と自身の指揮するフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍を破る。

1512年4月12日

ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。

完敗した同盟軍はラモン・デ・カルドナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた他、軍に多大の損失を被る。

ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。

ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

1512年6月24日

ルイ12世軍の敗退で孤立し、姉イザベッラ・デステの夫フランチェスコ2世・ゴンザーガや自分が捕らえていたファブリツィオ1世・コロンナらの仲介で、ユリウス2世から自身及び領国の安全を保証され、ローマに向かう。

1512年7月4日

ローマ着。ユリウス2世に拝謁を許され、ルイ12世との同盟について許しを乞う。後、ユリウス2世からフェッラーラの放棄、譲渡を求められるがこれを拒絶して怒りを買う。

1512年7月19日

ファブリツィオ1世・コロンナマルカントーニオ・コロンナ兄弟らの協力により変装して、この日ローマを逃亡、マリーノを経由してフェッラーラに向かう。

ユリウス2世は、すでに領国の一つレッジョを占領。

1513年2月21日

ユリウス2世、死。

1513年

ユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。

1513年4月11日

レオ10世の戴冠式が、ローマで盛大に挙行される。前教皇ユリウス2世と対立してきた彼は主賓として出席。ユリウス2世の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレも出席。

1514年6月半ば

レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。

1515年12月11日~1515年12月14日

レオ10世フランソワ1世、ボローニャで政教協約などにつき会談。この年10月の協定を共に確認した上、モデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還を求めるフランソワ1世に対し、両地を2ヶ月以内に割譲すると約束。しかし、アルフォンソ1世・デステから所定の金を得ながら期限後も両地を手放さず。

1517年

この頃?、レオ10世からフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ奪還戦を秘密裡に支援していると思われていたフランソワ1世は、レオ10世のもとに使節を送り、その事実はないと弁明すると共にボローニャ会談(1515年12月)でのモデナ、レッジョのアルフォンソ1世・デステへの返還に関する約束を履行するよう迫る。これに対しレオ10世は、7ヶ月以内に履行するとの勅書を発するが、以後も依然として履行の姿勢を示さず。

1518年11月14日

モデナ・レッジョの返還に関する1517年の勅書の履行を求めてきたが、レオ10世にその意のないことを確認させられ、フランソワ1世に助力を求めるべく自らパリへ赴くことを決意。

しかし、パリでは再三の懇願にも拘らず、すでにレオ10世との協調を最重視していたフランソワ1世から誠意ある回答を得られず。

1519年2月

帰国。

1519年6月24日

夜、自分が見守る中、ルクレツィア・ボルジア死。

夜の5時、フェッラーラにて、甥フェデリーコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 閣下、誉れある兄弟にして甥へ。我々の主が公妃、我が愛する妻の魂を召し出されました。一方の幸不幸が他方の幸不幸に通ずると、お互いへの愛が私に信じさせたという事実を、急ぎお知らせいたします。愛しく優しい伴侶が奪われてしまったことを分かっていながら、涙なしでは書くことができません。彼女の模範的な品行と我々の間に存在した慈愛が、私のもとへ彼女を運んだのです。この悲しみの時に、まさに閣下からの慰めを求めるでしょうが、私の悲嘆を共有しているのだとも分かっておりますし、慰めようとしてくださるより涙を分かち合う方が好ましい。閣下に忠誠を。

1519年末

この頃?、レオ10世が、かねてから抱いていてフェッラーラ奪取の意を実現すべく、彼が病床に臥したのを機にVentimigliaの司教アレッサンドロ・フレゴーソ指揮の軍にフェッラーラを急襲させるが失敗に終わる。

1520年

フェッラーラ制圧に意を燃やすレオ10世、アルフォンソ1世・デステの守備隊長を買収して自軍のフェッラーラへの自由入城を保証させた上グイド・ランゴーニ(1485年~1539年)指揮の軍を派遣するが、その直前に買収、攻撃計画発覚し、失敗に終わる。

1521年12月上旬~下旬

レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

1522年9月半ば~10月半ば

ハドリアヌス6世、恭順の意を表し忠誠を誓ってきたアルフォンソ1世・デステとフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに対し、アルフォンソ1世・デステにはフェッラーラの支配を認めると共にモデナ、レッジョの返還を約束し、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレにはウルビーノの支配を認める(翌1523年3月27日、正式に叙任)。

1522年11月29日

フランソワ1世を孤立させ、その新たなイタリア侵攻を阻止することを狙うカール5世、使節ジローラモ・アドルノをアルフォンソ1世・デステのもとへ送って折衝し、彼の領国支配の商人及びモデナ・レッジョの彼への返還を約束する代償に彼から巨額の軍資金を得ることを協定。

1523年9月29日

ハドリアヌス6世からモデナ、レッジョの返還を約されていたアルフォンソ1世・デステ、彼の死により約束の実現の望みが断たれたことを知り、レッジョを急襲し占領、奪還。

1524年12月初旬

この頃までにクレメンス7世カール5世陣営にあったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。

1526年9月30日

カール5世とアルフォンソ1世・デステ、カール5世はアルフォンソ1世・デステの駐イタリア軍の総指揮官となること、カール5世はアルフォンソ1世・デステから資金を得て彼にモデナなどを封与し保護することなどを協定。

1526年12月上旬

この頃?、クレメンス7世カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グイッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。

1527年3月5日

シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍、モデナ領Buonportoに到着。シャルル・ド・ブルボンはアルフォンソ1世・デステと会見し、食糧や軍用品を得る。

1527年4月26/27日

シャルル・ド・ブルボン、コニャック同盟軍によるフィレンツェ防衛が堅固なこと、フィレンツェ市民による支持、歓迎が期待できないこと、アルフォンソ1世・デステにかねてからフィレンツェ劫掠を止められていたこと、自軍の多数のルター派兵士からローマ劫掠を急ぐ声が強く上がったことなどによりフィレンツェ攻撃、侵入を断念し、急遽ローマを目指して軍をシエナ方面に転進させる。

1527年6月5~6日

アルフォンソ1世・デステ、モデナを攻撃、制圧し、積年の宿願であった領地回復を達成。モデナに入城して市民の大歓迎を受け、以後3日間、モデナ、フェッラーラ、レッジョを中心に祝賀行事を繰り広げる。

1527年11月15日

アルフォンソ1世・デステ、オデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。

1528年6月28日

アルフォンソ1世・デステの子エルコーレ2世・デステは、協定に基づきパリでルネ・ド・フランスと結婚。

1528年10月6日

クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。

以後、クレメンス7世、アルフォンソ1世・デステへの復讐、フェッラーラ、モデナ、レッジョの奪還を策すと共に、フランソワ1世に対してイタリアで圧倒的な優位を占めつつあるカール5世との和解の方途を探り始める。

1529年8月5日

カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世フランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世ナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、TournayArrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。

これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。

1529年10月下旬~11月初頭

この頃?、アルフォンソ1世・デステ、自らカール5世のもとに赴いて懸命に恭順、忠節の意を表し、受け入れられる。フェッラーラ、モデナ、レッジョの領有を巡るクレメンス7世のアルフォンソ1世・デステに対する敵意も考慮して彼を回避していたクレメンス7世は、旅程を変えてモデナに入る。

1529年11月5日

ボローニャ会談:カール5世クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。

この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。

1529年

クレメンス7世カール5世、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟について確認し、ロンバルディアで和平がなればその地のカール5世の軍をフィレンツェ攻撃に投入することで合意。(2)フェッラーラ、モデナ、レッジョ問題についてはすでに内心でこれをアルフォンソ1世・デステに与えることを決意しているカール5世が巧みにクレメンス7世を説得し、カール5世の検討に委ねることに決める。

1529年12月23日

永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァカルロ3世・ディ・サヴォイアフェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステはカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。

これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。

1530年3月2日

クレメンス7世に強く拒絶されてボローニャを訪ねられなかったアルフォンソ1世・デステ、カール5世の仲介により、ようやくクレメンス7世からフェッラーラ~ボローニャ間の通行の安全を保障される。1530年3月7日ボローニャに着く。

1530年3月21日

帰国する前にイタリアにおける争乱の芽を摘み取りたいカール5世フェッラーラ、モデナ、レッジョの帰属問題につき、近く自身が裁定を下すこと、その時までこれらの地を自身ないし自身の配下の者の管轄下に置くことをクレメンス7世とアルフォンソ1世・デステに同意させる。

1533年2月24日

クレメンス7世カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。

1534年10月17日~10月18日

カール5世への対抗上、教皇とシュマルカルデン同盟諸侯の双方に宥和策をとるフランソワ1世に新教徒側内部でも幻想的な期待が生じていたフランスで、ローマ教会のミサを罵倒し、教皇との妥協に傾くルター派を叱咤し、新教の信仰原理を真正面から対置する激越なビラがパリ、ブロワ、ルーアンなど各都市で、深夜、一斉に貼り付け・撒布され、アンボワーズ城フランソワ1世の寝室の前にまで置かれる。(檄文事件)

パリ高等法院、パリ大学神学部及びフランソワ1世、直ちに異端撲滅に動き出し、異端容疑者を次々に検挙。

1534年10月31日

フェッラーラにて、死。

肖像

持病

 梅毒。

別表記

 アルフォンソ・ダ・エスティ

外部リンク

 アルフォンソ・デステの優雅(?)な生活
 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『愛の年代記』
 『イコノロジー研究
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界悪女大全』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月27日以前

更新日

 2023年5月18日