アルフォンソ3世・ダヴァーロス

Alfonso III d'Avalos

アルフォンソ3世・ダヴァーロス

生没年:1502年~1546年3月31日
父:イニーゴ2世・ダヴァーロス

概要

 アルフォンソ3世・ダヴァーロスは、16世紀の男性。

年表

1541年7月2/3日
フランソワ1世スレイマン1世への使節Antonio Rincone(?~)とCesare Fregoso(1502年?~)、ミラノパヴィア近郊ティチーノのポー河口で何者かに暗殺される。
フランソワ1世、この暗殺はカール5世とそのミラノ総督・ペスカーラ侯・ヴァスト侯アルフォンソ3世・ダヴァーロス(1502年~:総督在位1538年~:侯在位1525年~)の指示によるものだと激怒し、これによってカール5世との和(1538年6月7日)は破られたと主張。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラエルコーレ2世・デステフィレンツェコジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1542年夏~秋
カール5世ミラノ総督アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエモンテに出撃し、全戦線にわたってフランソワ1世軍を撃退。
1543年6月12日
フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1543年8月10日~1543年8月22日
フランソワ1世水軍とBarbarossa指揮の艦隊、ニースを攻撃。激しい抵抗を受けながらも市街を占領し略奪・破壊・砲火を行うが、領主Carlo II (il Buono)の要請によりアルフォンソ3世・ダヴァーロス指揮のカール5世軍進撃との報に、城塞は攻略できないまま撤退。
1544年4月13日~1544年4月14日
フランソワ1世のピエモンテ総督・アンギャン公François de Bourbon(1519年~1546年:総督在位1543年~1546年)指揮の軍、チェレゾーレでカール5世軍を指揮官アルフォンソ3世・ダヴァーロスに負傷を負わせるなど撃破し、ピエモンテの戦況を逆転させるが、自身も少なからぬ損害を被る。
1546年3月31日
アルフォンソ3世・ダヴァーロス死(1502年~:ミラノ総督在位:1525年~:ペスカーラ侯・ヴァスト侯在位1525年~)。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2010年10月15日
アヴァーロス家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで