その他人物

ラミロ1世・デ・アラゴン Ramiro I de Aragón

生没
1006年頃~1063年5月8日
没地
サラゴサ王国グラウサ
サンチョ・デ・アラゴン
サンチャ・デ・アイバル
エルメザンド・ド・フォワ
アニェス・ダキテーヌ
サンチョ1世・デ・アラゴン
サンチョ・ラミレス・ヒメネス
サンチャ・ヒメネス
ガルシア・ラミレス・ヒメネス
ウラカ・ヒメネス
テレサ・ヒメネス

概要

 ラミロ1世・デ・アラゴンは、11世紀のスペインの男性。

年表

1006年頃

生(1007年頃)。

埋葬地

 サンタ・クルス・デ・ラ・セロス、サン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院

外部リンク

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サンチョ1世・デ・アラゴン Sancho I de Aragón

生没
1042年頃~1094年6月4日
ラミロ1世・デ・アラゴン
エルメザンド・ド・フォワ
イザベル・ドゥルジェイ
フェリシー・ド・ルシー
ペドロ1世・デ・アラゴン
アルフォンソ1世・デ・アラゴン
ラミロ2世・デ・アラゴン

概要

 サンチョ1世・デ・アラゴンは、11世紀のスペインの男性。

別表記

 Sancho Ramírez de Aragón

外部リンク

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サンチョ・ラミレス・ヒメネス Sancho Ramírez Jiménez

生没
1043年~1110年11月
ラミロ1世・デ・アラゴン
アムニャ・デ・バルベヌータ
ベアトリス
ガルシア・サンチェス・ヒメネス
ペドロ・サンチェス・ヒメネス
テレサ・サンチェス・ヒメネス
ベアトリス・サンチェス・ヒメネス

概要

 サンチョ・ラミレス・ヒメネスは、11世紀から12世紀のスペインの男性。

年表

1110年11月

死(1105年)。

埋葬地

 サン・ペドロ・デ・ハカ大聖堂

外部リンク

 Wikipedia

ラミロ2世・デ・アラゴン Ramiro II de Aragón

生没
1086年4月24日~1157年8月16日
没地
アラゴン王国ウエスカ
サンチョ1世・デ・アラゴン
フェリシー・ド・ルシー
アニェス・ド・ポワティエ
ペトロニラ1世・デ・アラゴン

概要

 ラミロ2世・デ・アラゴンは、11世紀から12世紀のスペインの男性。

埋葬地

 ウエスカ、サン・ペドロ・エル・ビエホ修道院

外部リンク

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ペトロニラ1世・デ・アラゴン Petronila I de Aragón

生没
1136年6月29日~1173年10月15日
出身
アラゴン王国ウエスカ
没地
カタルーニャ君主国バルセロナ
ラミロ2世・デ・アラゴン
アニェス・ド・ポワティエ
ラモン・バランゲー4世・デ・バルセロナ
ペドロ・デ・バルセロナ
アルフォンソ2世・デ・アラゴン
ラモン・デ・バルセロナ
ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ
サンチョ・デ・バルセロナ

概要

 ペトロニラ1世・デ・アラゴンは、12世紀のスペインの女性、アラゴン系ヒメネス家最後の君主。

埋葬地

 サンタ・エウラリア大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア

アルフォンソ2世・デ・アラゴン Alfonso II de Aragón

生没
1157年~1196年4月25日
出身
アラゴン王国ウエスカ
没地
カタルーニャ君主国ペルピニャン
ラモン・バランゲー4世・デ・バルセロナ
ペトロニラ1世・デ・アラゴン
サンチャ・デ・カスティーリャ
ペドロ2世
コンスタンサ・デ・バルセロナ
アルフォンソ・デ・バルセロナ
レオノール・デ・バルセロナ
サンチャ・デ・バルセロナ
サンチョ・デ・バルセロナ
ラモン・バランゲー・デ・バルセロナ
フェルナンド・デ・バルセロナ
ドゥルセ・デ・バルセロナ

概要

 アルフォンソ2世・デ・アラゴンは、12世紀のスペインの男性。

埋葬地

 ポブレ修道院

外部リンク

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ガルシア・サンチェス・ヒメネス García Sánchez Jiménez

生没
10??年~11??年
サンチョ・ラミレス・ヒメネス
ベアトリス
テレサ・カハル
ペドロ・デ・アタレス

概要

 ガルシア・サンチェス・ヒメネスは、11世紀から12世紀のスペインの男性。

在位

 アイバル領主
 アタレス、ハビエルレラトレ領主 1111年~

ペドロ・デ・アタレス Pedro de Atarés

生没
1083年頃~1151年2月21日
出身
アタレス
没地
アラゴン王国ボルハ
ガルシア・サンチェス・ヒメネス
テレサ・カハル
ガルセンダ・デ・ベアルヌ

概要

 ペドロ・デ・アタレスは、11世紀から12世紀のスペインの男性。

年表

1141年

ペドロ・デ・アタレスとテレサ・カハルは、ベルエラとマデルエラの渓谷を、エスカラデュー修道院のフランス人修道士たちに寄付。

1146年

サンタ・マリア・デ・ベルエラ修道院の建設開始。

埋葬地

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『The Aragonese Double Crown & the Borja or Borgia Device

アリエノール・ダキテーヌ Aliénor d'Aquitaine

生没
1122年~1204年4月1日
出身
アキテーヌ公国ポワチエ
没地
アキテーヌ公国フォントヴロー
アキテーヌ公ギヨーム10世
アエノール・ド・シャテルロー
フランス王ルイ7世
イングランド王ヘンリー2世
マリー
アリックス
ウィリアム
ヘンリー
マティルダ
リチャード
ジェフリー
エレノア
ジョーン
ジョン

概要

 アリエノール・ダキテーヌは、12世紀~13世紀のフランス王国の女性、アキテーヌ公、フランス王妃、イングランド王妃。子孫が各地の君主及び妃となったことから「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。

在位

 アキテーヌ公 1137年~1204年

埋葬地

 フォントヴロー修道院

外部リンク

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ペドロ2世 Pedro II

生没
1174年7月~1213年9月12日
出身
アラゴン王国ウエスカ
没地
フランス王国ミュレ
アルフォンソ2世・デ・アラゴン
サンチャ・デ・カスティーリャ
マリー・ド・モンペリエ
ハイメ1世

概要

 ペドロ2世は、12世紀から13世紀の男性。

在位

 アラゴン王、バルセロナ伯 1196年~1213年

埋葬地

 シヘーナ修道院

外部リンク

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ハイメ1世 Jaime I

生没
1208年2月2日~1276年7月27日
出身
モンペリエ
没地
バレンシア王国アルシラ
ペドロ2世
マリー・ド・モンペリエ
レオノール・デ・カスティーリャ・イ・プランタヘネト
ビオランテ・デ・ウングリア
テレサ・ヒル・デ・ビダウレ
アルフォンソ
ビオランテ
コンスタンサ
ペドロ3世
ハイメ
フェルナンド
サンチャ
イサベル
マリア
サンチョ
ハイメ・デ・ヘリカ
ペドロ・デ・アイェルベ
フェルナンド・サンチェス・デ・カストロ
ペドロ・フェルナンデス・デ・イハル
ハイメ・サッロカ

概要

 ハイメ1世は、13世紀の男性。

在位

 アラゴン王 1213年~1276年
 バルセロナ伯 1213年~1276年
 バレンシア王 1238年~1276年
 マリョルカ王 1231年~1276年
 モンペリエ領主 1219年~1276年

埋葬地

 ポブレ修道院

別表記

 ジャウマ1世、Jaume I

外部リンク

 ウィキペディア
 Google Books

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

マンフレディ Manfredi di Hohenstaufen

生没
1232年~1266年2月26日
出身
シチリア王国ヴェノーザ
没地
シチリア王国ベネヴェント
フリードリヒ2世
ビアンカ・ランチア
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ
コスタンツァ・ディ・シチリア
ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン
フェデリーコ・ディ・ホーエンシュタウフェン
エンリコ・ディ・ホーエンシュタウフェン
エンツォ・ディ・ホーエンシュタウフェン
フロルデリ・ディ・ホーエンシュタウフェン

概要

 マンフレディは、13世紀の男性。

在位

 シチリア王 1258年~1266年
  次代:カルロ1世・ダンジオ

別表記

 マンフレーディ、マンフレド、Manfredo

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』

コスタンツァ・ディ・シチリア Costanza di Sicilia

生没
1249年~1302年4月9日
出身
シチリア王国カターニア
没地
アラゴン連合王国バルセロナ
マンフレディ
ベアトリーチェ・デ・サヴォイア
ペドロ3世
アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア
フェデリーコ2世
ヨランダ・ダラゴーナ
ペドロ・デ・アラゴン

概要

 コスタンツァ・ディ・シチリアは、13世紀から14世紀の女性。

年表

1262年7月5日

モンペリエにて、ペドロ3世と結婚。

埋葬地

 バルセロナ、サンタ・エウラリア大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア

ペドロ3世 Pedro III

生没
1239年~1285年11月11日
ハイメ1世
ヴィオランテ・デ・ウングリア
コスタンツァ・ディ・シチリア
アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア
フェデリーコ2世
ヨランダ・ダラゴーナ
ペドロ・デ・アラゴン

概要

 ペドロ3世は、13世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

ハイメ2世 Jaime II

生没
1267年8月10日~1327年11月2日
出身
カタルーニャ君主国バレンシア
没地
カタルーニャ君主国バルセロナ
ペドロ3世
コスタンツァ・ディ・シチリア
イサベル・デ・カスティーリャ
ブランカ・デ・ナポレス
マリー・ド・リュジニャン
アリゼンダ・デ・ムンカーダ
ハイメ
アルフォンソ4世・デ・アラゴン
マリア
フアン
ペドロ
イサベル
レモン・ベレンゲール

概要

 ハイメ2世は、13世紀から14世紀のスペインの男性。

在位

 アラゴン王 1291年~1327年
 シチリア王 1285年~1296年

埋葬地

 アイグアムルシア、サンタス・クレウス修道院

外部リンク

 ウィキペディア

アルフォンソ4世・デ・アラゴン Alfonso IV de Aragón

生没
1299年11月2日~1336年1月24日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
カタルーニャ君主国バルセロナ
ハイメ2世
ブランカ・デ・ナポレス
ウルジェイ女伯テレサ・デ・エンテンサ
レオノール・デ・カスティーリャ
コンスタンサ
ペドロ4世・デ・アラゴン
ハイメ
フェルナンド
フアン

概要

 アルフォンソ4世・デ・アラゴンは、13世紀から14世紀のスペインの男性。

在位

 アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯 1327年~1336年

埋葬地

 リェイダ旧大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア

ペドロ4世・デ・アラゴン Pedro IV de Aragón

生没
1319年9月5日~1387年1月6日
出身
カタルーニャ君主国ペルピニャン
没地
カタルーニャ君主国バルセロナ
アルフォンソ4世・デ・アラゴン
テレサ・デ・エンテンサ
マリア・デ・ナバラ
レオノール・デ・ポルトゥガル
レオノール・デ・シシリア
シビラ・デ・フォルティア
マリア
コンスタンサ
フアナ
ペドロ
フアン1世
マルティン1世
レオノール・デ・アラゴン
アルフォンソ
イサベル

概要

 ペドロ4世・デ・アラゴンは、14世紀のスペインの男性。

在位

 アラゴン王 1336年~1387年
 マヨルカ王 1349年~1387年

埋葬地

 ポブレ修道院

外部リンク

 ウィキペディア

レオノール・デ・アラゴン Leonor de Aragón

生没
1358年2月20日~1382年8月13日
出身
アラゴン王国エル・プイグ
没地
カスティーリャ王国クエリャル
ペドロ4世・デ・アラゴン
レオノール・デ・シシリア
フアン1世・デ・カスティーリャ
エンリケ3世・デ・カスティーリャ
フェルナンド1世・デ・アラゴン
レオノール・デ・カスティーリャ

概要

 レオノール・デ・アラゴンは、14世紀の女性。

年表

1375年6月18日

ソリアにて、フアン1世・デ・カスティーリャと結婚。

埋葬地

 トレド大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア

ヨランダ・ダラゴーナ Jolanda d'Aragona

生没
1273年~1302年8月
ペドロ3世
コスタンツァ・ディ・シチリア
ロベルト・ダンジオ
カルロ・ダンジオ
ルドヴィーコ・ダンジオ

概要

 ヨランダ・ダラゴーナは、13世紀から14世紀の女性。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ゴーティエ6世・ド・ブリエンヌ Gautier VI de Brienne

生没
1304年頃~1356年9月19日
ゴーティエ5世・ド・ブリエンヌ
ジャンヌ・ド・シャティヨン

概要

 ゴーティエ6世・ド・ブリエンヌは、14世紀の男性。

在位

 アテネ公 1311年~1356年

年表

1342年

フィレンツェに呼ばれ1年間、市の全権を与えられる。

パルラメントを召集し、終身の権力を手にして圧政を敷く。

1343年

フィレンツェを追放される。

別表記

 ヴァルテル・ド・ブリエンヌ、グアルティエーリ・ディ・ブリアンヌ、ブリアンヌ伯ゴーティエ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

ラウラ・ド・ノヴ Laura de Noves

生没
1310年~1348年4月6日
出身
アヴィニョン
オーディベール・ド・ノヴ
ユーグ2世・ド・サド

概要

 ラウラ・ド・ノヴは、14世紀頃の女性。フランチェスコ・ペトラルカに詩作の霊感を与えたラウラとは彼女ではないかと言われているが、確証はない。

年表

1325年1月16日

マルキ・ド・サドの先祖ユーグ2世・ド・サドと結婚。

1348年4月6日

死(1347年4月3日)。

別表記

 ラウラ・ド・サド、Laura de Sade

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ローマ教皇検死録』

ラヨシュ1世 Lajos I

生没
1326年3月5日~1382年9月10日
出身
ハンガリー王国ヴィシェグラード
没地
ハンガリー王国トルナヴァ
カーロイ1世
エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ
マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
エリザベタ・コトロマニッチ
カタリン
マーリア
ヤドヴィガ

概要

 ラヨシュ1世は、14世紀の男性。

在位

 ハンガリー王 1342年~1382年
 ポーランド王ルドヴィク1世 1370年~1382年

年表

1348年

クレメンス6世から黄金の薔薇を拝受。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界大百科事典』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン Georgios Gemistos Plethon

生没
1355年?~1450年?

概要

 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、14世紀から15世紀の男性。

年表

1438年3月4日

ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、トレビゾント生まれの人文主義者・神学者ヨハネス・ベッサリオン(1403年~)、コンスタンティノポリス生まれの哲学者、人文主義者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1355年頃~1450/52年)ら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。4日後コンスタンティノポリス総主教Iosephフェッラーラに到着。東西両教会の合同の討議を行なう(~1439年)。

1439年7月6日

フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。

この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。

1440年

コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。

1450年

この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン、ペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。

この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シジスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。

別表記

 プリソン

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

マリーア・デンギエン Maria d'Enghien

生没
1367年~1446年5月9日
出身
レッチェ
ジョヴァンニ・デンギエン
サンチャ・デル・バルツォ
ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォ
ラディスラオ1世・ダンジオ
ジャナントーニオ・オルシーニ・デル・バルツォ
マリーア・オルシーニ・デル・バルツォ
カテリーナ・オルシーニ・デル・バルツォ
ガブリエーレ・オルシーニ・デル・バルツォ

概要

 マリーア・デンギエンは、14世紀から15世紀のイタリアのフランス系貴族の女性。

在位

 レッチェ伯爵 1384年3月28日~1384年7月27日
 アクアリカ・デル・カーポ、カロヴィーニョ、カストロ、コリリアーノ・ドトラント、ガリアーノ・デル・カーポ、メサーニュ、ロカ領主 1384年3月28日~1384年7月27日

年表

1385年8月24日~1385年10月29日

ウルバヌス6世ジェノヴァへ出発した後、ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォと結婚(1384年頃)。

埋葬地

 レッチェ、サンタ・クローチェ聖堂

別表記

 マリー・ダンギャン

外部リンク

 ウィキペディア

フンヤディ Hunyadi János

生没
1387年頃~1456年
マティアス・コルヴィヌス

概要

 フンヤディは、14~15世紀の男性。

年表

1387年頃

生(1407年頃)。

1443年11月3日

エウゲニウス4世の提唱による対オスマン・トルコ新十字軍、フンヤディ指揮の下、セルビアの旧都Nish (Nis)近郊でオスマン・トルコ軍を撃破。

1444年11月10日

Władysław IIIとフンヤディの指揮するポーランド・ハンガリー連合軍、ドナウ河口近くのヴァルナでオスマン・トルコ軍を攻撃し、敗れる。Władysław IIIは戦死(1424年~:ポーランド王在位1434年~:ハンガリー王在位1440年~)。ポーランドは王空位状態に入る(~1447年)。

1446年6月

ハンガリー議会は、フンヤディをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。

1448年10月17~19日

Murat II指揮のオスマン・トルコ軍、ニコラウス5世の支援を得たフンヤディ指揮のハンガリー軍をセルビアのコソボで大破。

1450年

ハンガリー王摂政フンヤディ、Murat IIと休戦協定を結ぶ。

1456年7月14日~7月21/22日

ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノ(1386年~1456年)らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フンヤディ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。

しかしフンヤディ(1387年頃又は1407年頃~)は1456年8月11日、ジョヴァンニ・カピストラーノは1456年10月23日、それぞれペストで死。

1458年1月24日

故フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス(1440/1443年~1490年)、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。

別表記

 フニャディ

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ Íñigo López de Mendoza

生没
1398年8月19日~1458年3月25日
出身
Carrión de los Condes
没地
グアダラハラ
ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ

概要

 イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサは、14世紀から15世紀の男性、人文主義者、詩人、サンティリャーナ侯爵。

在位

 第1代サンティリャーナ侯

年表

1398年

スペインのCarrión de los Condesにて、生。

1458年3月25日

スペイン中部グアダラハラにて、死。

別表記

 イニゴ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハ Albrecht III von Wittelsbach

生没
1401年3月27日~1460年2月29日
出身
神聖ローマ帝国バイエルン・ミュンヘン公国ヴォルフラーツハウゼン
没地
神聖ローマ帝国バイエルン・ミュンヘン公国ミュンヘン
エルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハ
エリザベッタ・ヴィスコンティ
アグネス・ベルナウアー
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン
ヨハン4世・フォン・ヴィッテルスバッハ
エルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハ
ジギスムント・フォン・ヴィッテルスバッハ
アルブレヒト・フォン・ヴィッテルスバッハ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
エリーザベト・フォン・ヴィッテルスバッハ
アルブレヒト4世・フォン・ヴィッテルスバッハ
クリストフ・フォン・ヴィッテルスバッハ
ヴォルフガング・フォン・ヴィッテルスバッハ
バーバラ・フォン・ヴィッテルスバッハ

概要

 アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハは、15世紀のバイエルンの男性。

在位

 バイエルン・ミュンヘン公爵 1438年~1460年

外部リンク

 ウィキペディア

スカンデルベグ Scanderbeg

生没
1404年頃~1468年1月17日
没地
レジャ
ジョン・カストリオティ
ヴォイサヴァ
ドニカ・アリアニティ
ジョン2世・カストリオティ

概要

 スカンデルベグは、15世紀のアルバニア出身の男性、オスマン・トルコからアルバニアを独立させた国民的英雄。

在位

 アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官 1457年~1468年

年表

1404年頃

生(1403年、1405年)。

1451年4月26日

ドニカ・アリアニティと結婚。

1457年9月2日

アルバニア制圧を目指して襲撃してきたオスマン・トルコ軍に対し、1443年以来アルバニアの民衆を結集してオスマン・トルコの攻撃を退け民衆から英雄視されてきたスカンデルベグ、カリストゥス3世から資金を得て軍を率い、南部Tamoriza (Tomoriza)で勝利を収める。

1457年12月23日

スカンデルベグ、カリストゥス3世より対オスマン・トルコ戦の教皇軍最高指揮官に任命される。

1461年8月上旬

この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、ピウス2世の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。

1466年

パウルス2世から祝福された剣を拝受。

1467年4月

スカンデルベグ指揮のアルバニア人民衆軍、オスマン・トルコ軍を撃退。しかしトルコ軍、間もなく攻撃を開始。

1468年1月17日

アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官スカンデルベグ、オスマン・トルコ軍のアルバニア攻撃が激化する中、熱病で死(1468年1月19日)。間もなくトルコ軍、アルバニアを蹂躙。

別表記

 スカンデルベッグ、ジェルジ・カストリオティ、SkanderbegGjergj KastriotiGjergy KastriotGiorgio Castriota Scanderbeg

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc

生没
1412年1月6日~1431年5月30日

概要

 ジャンヌ・ダルクは、15世紀の女性。

年表

1429年5月8日

アルマニャック派の支持によりロワール川以南を領有しフランス王を称するシャルル7世に対し、イングランド王をフランス王位継承者とするトロワの和約にもかかわらずシャルル7世こそ正統なフランス王位継承者だと提言してシャルル7世より小軍を与えられ、この日、オルレアンをイングランドから解放。

1429年7月17日

シャルル7世は、伝統に則りランス大聖堂でフランス王として戴冠式を実現。

1430年5月23日

イングランドと結ぶブルゴーニュ派軍にコンピエーニュで捕らえられてイングランド軍に引き渡され、以後ルーアンに幽閉される。

1431年5月30日

宗教裁判で有罪と宣告され、この日、ルーアンで火刑に処される。しかしこの悲劇を機にフランスのナショナリズム醸成される。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャン・ダルマニャック Jean V d'Armagnac

生没
1420年~1473年
ジャン4世・ダルマニャック
イザベル・ド・ナヴァール

概要

 ジャン・ダルマニャックは、15世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

バルバラ・フォン・ブランデンブルク Barbara von Brandenburg

生没
1422年9月30日~1481年11月7日
ヨハン・フォン・ブランデンブルク
バルバラ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 バルバラ・フォン・ブランデンブルクは、15世紀の女性。

年表

1478年3月24日

バルバーラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェチーリア・ゴンザーガの死を伝える。

肖像

別表記

 ブランデンブルグ、バルバラ・ディ・ブランデンブルゴ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Treccani.it

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ドニカ・アリアニティ Donika Arianiti

生没
1428年~1506年
出身
オスマン帝国カニナ
没地
バレンシア王国バレンシア
ジェルジ・アリアニティ
マリア・ムザカ
スカンデルベグ
ジョン2世・カストリオティ

概要

 ドニカ・アリアニティは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1451年4月26日

スカンデルベグと結婚。

1456年

ジョン2世・カストリオティを出産。

外部リンク

 Wikipedia

ディエゴ・ロペス・デ・アロー Diego López de Haro

生没
1438年頃~1525年12月18日
没地
コルドバ?
フアン・アロンソ・デ・アロー
アルドンサ・デ・メンドーサ
ジネブラ・アクーニャ

概要

 ディエゴ・ロペス・デ・アローは、15世紀頃のスペインの男性。

年表

1438~1449年

生。

1493年6月15日

スペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンの特使としてローマ到着。

別表記

 ディエゴ・ロペツ・デ・ハロウ、デ・ハーロ

外部リンク

 Real Academia de la Historia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ラディスラウス・ポストゥムス Ladislaus Postumus

生没
1440年2月22日~1457年11月23日
出身
コマーロム
没地
プラハ
アルブレヒト2世
エリザベート

概要

 ラディスラウス・ポストゥムスは、15世紀の男性。

在位

 ボヘミア王Ladislav 1453年~1457年
 ハンガリー王ラースロー5世(László V) 1445年~1457年
  次代:マティアス・コルヴィヌス

年表

1440年5月15日

故アルブレヒト2世の死後出生子でハンガリー・ボヘミアの王位の正統継承権者ラディスラウス・ポストゥムス(1440年~1457年)、Esztergom大司教よりハンガリー王冠を受ける。

しかしこの時すでに母后エリザベート及びハンガリーの反ハプスブルク系貴族は対オスマン・トルコ防衛のためポーランド王Władysław IIIに王位を継承させることに意を定める。

1440年7月17日

Władysław IIIは、ハンガリーの反ハプスブルク系貴族による親ハプスブルク系貴族を抑えての支持により、ハンガリー王位にも就き、Ulászló Iを名乗る。親ハプスブルク系貴族はラディスラウス・ポストゥムスと共にドイツ王フリードリヒ3世の庇護下に入る。

1445年

ラディスラウス・ポストゥムス、ハンガリー議会によりハンガリー王László Vとして承認される。但し、ラディスラウス・ポストゥムスを庇護下に置く(1440年~)フリードリヒ3世はこれを拒否。

1446年6月

ハンガリー議会は、フンヤディフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。

1451年

Jiřìz PodĕbradGeorg von Podebrad:1420年~)、ボヘミア王位継承権者ラディスラウス・ポストゥムスの摂政となる(在位~1457年)。

1453年10月

ラディスラウス・ポストゥムス、フリードリヒ3世からその庇護を解かれボヘミア王Ladislavとしての冠を受ける(在位1453年~1457年)。

この頃?ラディスラウス・ポストゥムス、ようやくハンガリー王László Vとしても実権を得る。

1457年11月23日

ラディスラウス・ポストゥムス、プラハで死。(1440年~1457年:ハンガリー王László V在位1445年~1457年:ボヘミア王Ladislav在位1453年~1457年)。フリードリヒ3世、両王位の継承を狙う。

別表記

 ラディスラウス遺腹王、Ladislaus V (Posthumus

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『馬車の文化史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Préz

生没
1440年~1521年
出身
ピカルディ

概要

 ジョスカン・デ・プレは、15世紀から16世紀のフランドルの男性、作曲家。

年表

1440年

この年頃、フランス北部ピカルディに生(1445年頃、1450年頃)。

1494年

この年まで教皇アレクサンデル6世に仕える。ボルジア家の聖俗双方の行事に際しての音楽を受け持つが、さほどの報酬はもらっていなかったらしく、宮廷で粗末な身なりでいることにひどく苦しんだという。

1514年

「ミサ曲集」3巻(1502年)を、ヴェネツィアとフォッソンブローネのO. Petrucciのもとで刊行。

別表記

 Després
 

外部リンク

 ウィキペディア
 Temporum Stirpis Musica

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

エルンスト・フォン・ヴェッティン Ernst von Wettin

生没
1441年3月24日~1486年8月26日

概要

 エルンスト・フォン・ヴェッティンは、15世紀の男性。

在位

 ザクセン選帝侯 1464年~1486年

年表

1480年3月22日

ブラウンシュヴァイク侯ヴィルヘルム1世とヴィルヘルム・フォン・ヘンネベルクと共に、2百の騎士を伴い、この日ローマに到着。パリオーネ地区の屋敷に宿泊し、教皇シクストゥス4世の歓待を受け、ジローラモ・リアリオからはマリアーナでの狩りが催される。

1480年4月14日

ローマ出発。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典

参考文献

 『Lucretia Borgia

マルゲリータ・ディ・バヴィエラ Margherita di Baviera

生没
1442年1月1日~1479年10月14日
出身
神聖ローマ帝国バイエルン公領ミュンヘン
没地
マントヴァ侯国マントヴァ
アルブレヒト3世・フォン・ヴィッテルスバッハ
アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ

概要

 マルゲリータ・ディ・バヴィエラは、14世紀の女性。

年表

1463年5月10日

マントヴァにて、フェデリーコ1世・ゴンザーガと結婚。

1464年7月1日

キアラ・ゴンザーガを出産。

1466年8月10日

フランチェスコ2世・ゴンザーガを出産。

1469年

シジスモンド・ゴンザーガを出産。

1471年2月9日

エリザベッタ・ゴンザーガを出産。

1472年7月10日

マッダレーナ・ゴンザーガを出産。

1474年

ジョヴァンニ・ゴンザーガを出産。

埋葬地

別表記

 Margareta von Bayern、マルゲリータ・ディ・ヴィッテルスバハ、マルガレーテ・フォン・ヴィッテルスバッハ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

マティアス・コルヴィヌス Matthias Corvinus

生没
1443年2月23日~1490年4月6日
フンヤディ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ

概要

 マティアス・コルヴィヌスは、15世紀の男性、ハンガリー王。

在位

 ハンガリー王 1458年~1490年
  先代:ラディスラウス・ポストゥムス
  次代:ウラースロー2世・ヤギェウォ

年表

1443年2月23日

生(1440年)。

1458年1月24日

フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。

1463年7月24日

ピウス2世、対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。

1469年5月3日

ハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、ボヘミア王Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族に推されてボヘミア王と宣言し、Jiřìz Podĕbradに対抗。両者の争い、後者の死まで続く(1469年~1471)。

1471年3月22日

Jiřìz Podĕbrad死(1420年~:在位1458年~)——1471年3月27日ポーランド王Kazimierz IVの長子Władysław、ボヘミア王Vladislav IIとして即位(在位~1516年)。

Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族によりボヘミア王に推され(1469年)て以来Jiřìz Podĕbradと争ってきたハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、以後、Vladislav IIと争いを続ける。

1471年

シクストゥス4世から祝福された剣を拝受。

1478年12月7日

Vladislav IIとマティアス・コルヴィヌス、共にボヘミア王であることを認め合う和約をボヘミアのオロモウツで締結。マティアス・コルヴィヌスはモラヴァ、シレジア及びラウジッツを得る。

1485年6月1日

ハンガリー王・ボヘミア王マティアス・コルヴィヌス1477年から繰り返し攻撃してきたウィーンを含むオーストリアの大部分をついに攻略し、ハプスブルク家から奪ってハンガリーに併合。

1490年4月4/6日

マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死(1440/1443年~1490年:ハンガリー王在位1458年~1490年:ボヘミア(共同)王在位1469(1478年)年~1490年)。ボヘミア(共同)王Vladislav IIウラースロー2世・ヤギェウォとしてハンガリー王に即位。

1490年8月29日

マクシミリアン1世、前ハンガリー王マティアス・コルヴィヌスに奪われたオーストリアの領土を奪還。

別表記

 マーチャーシュ、Hunyadi MátyásMátyás I CorvinusMattia

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Genealogy.EU

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

エティエンヌ・ド・ヴェスク Étienne de Vesc

生没
1445年頃~1501年10月6日

概要

 エティエンヌ・ド・ヴェスクは、15世紀から16世紀の男性。

別表記

 エチエンヌ、ヴェクス

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ルネ2世・ド・ロレーヌ René II de Lorraine

生没
1451年5月2日~1508年12月10日
フェリー2世・ド・ヴォーデモン
ヨランド・ダンジュー

概要

 ルネ2世・ド・ロレーヌは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ヴォーデモン伯 1470年~1508年
 ロレーヌ公 1473年~1508年
  先代:ヨランド・ダンジュー
 バル公 1483年~1508年

別表記

 レネ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ルイ・ド・ヴィルヌーヴ Louis de Villeneuve

生没
1451年頃~1516年
没地
フランス王国ディーニュ

概要

 ルイ・ド・ヴィルヌーヴは、15世紀から16世紀のフランスの男性。

在位

 トラン男爵
 トラン侯爵 1505年~

年表

1498年8月17日(金)

フランス王国大使として、ローマ到着。教皇アレクサンデル6世、枢機卿たちに拝謁。

外部リンク

 Wikipédia

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

イヴ・ダレーグル Yves Tourzel d'Alègre

生没
1452年頃~1512年
ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
ヴィヴェロ領主ジャック・トゥルツェル・ダレーグル

概要

 イヴ・ダレーグルは、15世紀から16世紀の男性。

戦歴

 ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北

年表

1499年11月9日

チェーザレ・ボルジアのもとで槍騎兵3百を指揮し、ミラノ出発。

1500年1月19日

チェーザレ・ボルジアの命により、フォルリンポーポリ制圧。

1500年

ノヴァーラへ向かう。

1500年3月21日

ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。

1501年1月24日

騎兵500でモデナ到着。

1501年6月19日~1501年6月23日

ルイ12世軍は、まずイヴ・ダレーグル指揮の小隊、続いてロベール・スチュアート・ドオービニイの主力部隊の順でローマに入る。

1501年6月28日

ローマ出発。

別表記

 イーヴ・トゥルツェル・ダレグル、イヴ・ダレグレ、ディ・アレグリ、イーヴォ・ダレグリ、Ives d'AllégreIvo d'Allegre

外部リンク

 GeneaNet
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ゴンザロ・デ・コルドバ Gonzalo de Córdoba

生没
1453年9月1日~1515年12月2日
出身
モンティーリャ
ペドロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
エルビラ・デ・エレーラ
イサベル・デ・モンテマヨール
マリア・マンリケ・デ・ララ
ベアトリス・フェルナンデス・デ・コルドバ
エルビラ・フェルナンデス・デ・コルドバ
フィゲロア・フェルナンデス・デ・コルドバ

概要

 ゴンザロ・デ・コルドバは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 第1代セッサ公 1507年~1515年
  先代:フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→スペイン領

戦歴

 ガリリャーノの戦い:スペイン王国、勝利

年表

1492年1月2日

フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャは、スペインにおけるイスラム教徒の拠点グラナダ王国を、ゴンザロ・デ・コルドバ指揮の軍を用いて制圧。イスラム勢力の攻撃による西ゴート王国の滅亡(711年)以来の国土回復運動、レコンキスタ完了。

1495年5月

スペインのフェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャ両王の命により、スペイン軍を指揮しフェッランディーノ・ダラゴーナのためナポリ奪回の戦いを開始。

1495年5月26日

セミナラの戦い:スペイン・ナポリ連合軍を指揮し、フランス軍とセミナラで交戦。

1496年春

カラブリア到着。

1496年7月20/21日

シャルル8世のナポリ総督モンパンシエ公ジルベール・ド・ブルボンは、アテッラでゴンザロ・デ・コルドバに降伏し、シャルル8世の残留軍はナポリより撤退。フェッランディーノ・ダラゴーナは、スペイン軍やヴェネツィア艦隊の支援を得てナポリ全土をほぼ回復。但しナポリ奪還の戦いに加わったヴェネツィアは、アドリア海沿岸のナポリ領5都市を占拠し続ける。

1497年

アレクサンデル6世から黄金の薔薇を拝受。

1501年7月5日?~9月初旬

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍、カラブリアのトロペーアに上陸。ナポリ分割のグラナダ条約の存在を知らなかったナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは、カラブリアの城塞を開けさせ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍を歓迎させる。フェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、2ヶ月足らずでカラブリアを制圧。フェデリーコ・ダラゴーナの長子でカラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナ(1488年~1559年)は捕らえられてスペインに送られる。

1503年4月28日

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、チェリニョーラでルイ12世軍に完勝。ルイ12世軍は完全に孤立。

1503年5月13日

ナポリに入城(1503年5月14日、1503年5月16日)。

この頃、ルイ12世は、ナポリ奪回のため新たな侵攻軍を準備。

1503年12月28日

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ガリリャーノの戦いルイ12世に完勝。

1504年1月1日

すでにガエタニ押し込まれていたルイ12世軍は、ゴンザロ・デ・コルドバから帰国の安全を保障するとの撤退条件を提示されて受諾し、ナポリにおける最後の拠点であるこの力惨憺たる状態で帰国の途につく。ナポリは事実上、フェルナンド2世・デ・アラゴンの手に入る。

1504年4月28日

ナポリに着いたチェーザレ・ボルジアを歓迎する。

1504年5月25日

チェーザレ・ボルジアを逮捕、監禁する。

1505年春

この頃?、フェルナンド2世・デ・アラゴンの指示によると称してゴンザロ・デ・コルドバがピサ支援のため派遣した軍隊、ピオンビーノに上陸。

1505年5月4日

フィレンツェは、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく侯のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。

この頃?、ロベルト・アッチャイウオリ(1467年~1547年)をナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。

1506年9月4日

この日?、フェルナンド2世・デ・アラゴン、ゴンザロ・デ・コルドバの国際的名声と威信に懸念と嫉妬を抱き、その動向に疑いありとしてバルセロナから海路ナポリの彼のもとに向かう。

1506年10月末

フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリに到着し、ゴンザロ・デ・コルドバの軍指揮権を、スペインで重職を与えることを約しつつ取り上げる。

1507年6月4日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、ゴンザロ・デ・コルドバを同道してナポリを出発し、海路帰国の途につく。会見を希望してオスティアで待機していたユリウス2世を無視し、ジェノヴァを経てサヴォーナに向かう。

1515年12月2日

グラナダで死。

別表記

 ゴンサルヴォ・コルドヴァ、ゴンサルヴェ・デ・コルドヴァ、ゴンザーロ・フェルナンデス・ダ・コルドーバ、コンサルヴォ・エルナンデス・アヒラール・ダ・コルドヴァ、コンサルヴォ・ディ・コルドヴァ、フェルナンデス・デ・アグイラル・コンサロ、コンサロ・フェルナンデス・デ・アグイラル、ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバ、Consalvo HernandezConsalvo di CordovaFérnandez de Aguilar ConsalvoConsalo Fernandez de AguilarGonzalo Fernándes de CórdobaGonzalo Fernández de Córdobael Gran Capitánde Cordoba

外部リンク

 ウィキペディア
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Google Books

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジェーム Djem

生没
1459年12月22日~1495年2月25日
出身
エディルネ
没地
カプア
マホメッド2世

概要

 ジェームは、15世紀の男性。

年表

1495年1月28日

シャルル8世と共にローマを出発。

1495年2月25日

カプアにて、病死。

別表記

 ディエム、ジェム、GemGeminCemCemsidZizim

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ Louis II de La Trémoille

生没
1460年9月20日~1525年2月24日
出身
ボミエール
没地
パヴィア
ルイ1世・ド・ラ・トレモイユ
マルグリット・ダンボワーズ
ガブリエル・ド・ブルボン
ルイーズ・ボルジア
シャルル・ド・ラ・トレモイユ

概要

 ルイ2世・ド・ラ・トレモイユは、15世紀から16世紀のフランスの男性、軍人。

戦歴

 道化戦争 国王軍
 サン・トーバン・デュ・コルミエの戦い
 フォルノーヴォの戦い:フランス王国
 ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北
 アニャデッロの戦い イタリア戦争 フランス
 ノヴァーラの戦い カンブレー同盟戦争 フランス 司令官 敗北
 マリニャーノの戦い フランス 勝利
 パヴィアの戦い フランス 戦死

年表

1460年9月20日

ボミエールにて、生(1460年9月29日)。

1484年7月28日

ガブリエル・ド・ブルボンと結婚。

1500年

アスティからモルターラに向かう。

1500年3月21日

ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。

1500年3月23日

ヴェルチェッリ到着。ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ軍と連携。

1517年4月7日

ルイーズ・ボルジアと結婚。

別表記

 ルイ2世・ド・ラ・トレムイユ、ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ、Louis de la Trémouille

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ライモンド・ディ・カルドーナ Raimondo di Cardona

生没
1467年~1523年3月10日

概要

 ライモンド・ディ・カルドーナは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 シチリア総督 1507年~1509年
 ナポリ総督 1509年~1522年

年表

1511年10月4日

対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。

フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ライモンド・ディ・カルドーナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。

1511年12月半ば

この頃、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の軍、フォルリに到着し、ユリウス2世軍と合流してボローニャ及びフェッラーラの包囲を目指す。

1512年1月26日

ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ1世・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。

1512年4月11日

ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。

完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。

ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。

ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

1513年2月20~21日

数日前から病床についていたユリウス2世、死。

フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたライモンド・ディ・カルドーナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。

アルフォンソ1世・デステユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。

1513年

この頃?、レオ10世ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ライモンド・ディ・カルドーナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。

1513年6月6日

ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もローディでライモンド・ディ・カルドーナ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。

1513年6月17日

オッタヴィアーノ・フレゴーソ(1470年~1524年)、ライモンド・ディ・カルドーナから与えられた軍を率いてジェノヴァに入り、ルイ12世の総督Antoniotto Adornoを追放してドージェに就任。

1513年9月17日

ライモンド・ディ・カルドーナ、ヴェネツィアを全面的に屈服させるべく神聖同盟軍を率いてヴェローナを出、パドヴァを攻撃し、その周辺地域で略奪、放火を欲しいままにすると共にヴェネツィア市内をも砲撃するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に阻まれて撤退。

1513年10月7日

ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍が、ヴィチェンツァ近郊Olmoでバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を大激戦の末、破る。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。

ライモンド・ディ・カルドーナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。

1515年10月13日

マリニャーノの戦におけるフランソワ1世の勝利後直ちにカルロ・ディ・サヴォイアを介してフランソワ1世との和平協定締結を策していたレオ10世、彼と、メディチ家のフィレンツェ支配の承認、ウルビーノなど教会領の奪回に際しての彼の中立、自ら制圧しているパルマ、ピアチェンツァの彼への返還などを協定。

ライモンド・ディ・カルドーナ、レオ10世にこの協定について異議を述べるが無視される。

1522年3月10日

ライモンド・ディ・カルドーナ、死。彼に代わってCharles de Lannoy(1488年?~)、カール5世のナポリ総督となる。

1512年8月下旬

ボローニャに結集していたライモンド・ディ・カルドーナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。

1512年8月26日

領内に侵攻してきたライモンド・ディ・カルドーナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしライモンド・ディ・カルドーナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。

1512年9月3日

ライモンド・ディ・カルドーナのもとへBaldassarre Carducci(1456年~)、Ormannozzo Deti(1464年~1531年以降)、Niccolò del Neroニッコロ・ヴァローリコジモ・デ・パッツィヤコポ・サルヴィアーティパオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びライモンド・ディ・カルドーナへの献金、ライモンド・ディ・カルドーナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。

1512年9月14日

ジョヴァンニ・デ・メディチ、ライモンド・ディ・カルドーナの指揮するフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に守られて市内に入る。メディチ家は、他の市民と同等の政治的権利を有する私人として公式に復帰。

1512年9月19日

軍資金を受け取ったライモンド・ディ・カルドーナは、軍を従えてフィレンツェを離れ、ロンバルディアに向かう。

別表記

 ライモンド・ダ・コルドーナ、Ramón Folch de Cardona

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコ Alonso Pimentel y Pacheco

生没
1470年頃~1530年
出身
ベナヴェンテ
ロドリゴ・アロンソ・ピメンテル
マリーア・パチェーコ・イ・ポルトカッレロ
イネス・エンリケス・デ・メンドーサ
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラ
マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサ
アントーニオ・アロンソ・ピメンテル・イ・ヴェラスコ

概要

 アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、15世紀から16世紀のスペインの男性。次男。

在位

 ベナヴェンテ公 1499年~

年表

1470年頃

ベナヴェンテにて、生。

14??年

領地を相続する予定ではなかったため、若年時は軍人としてイサベル1世・デ・カスティーリャに仕える。

1497年9月27日

長兄ルイス・ピメンテル、死。

1499年

アロンソ・ピメンテルがベナヴェンテの第5代伯爵、第2代公爵となる。

1???年

イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの間にマリーア・ピメンテル・イ・メンドーサが生まれる。

イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの結婚が無効となる。イネス・エンリケス・デ・メンドーサは娘マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサと共に実家に帰る。

1501年

アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラと結婚。この結婚により、アロンソ・ピメンテルは最も裕福な貴族の1人となる。

1502年

フェリペ1世の城塞に居住。

1504年11月26日

イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。

1506年

フェリペ1世フアナ1世・デ・トラスタマラがアロンソ・ピメンテルの邸宅に滞在。

1506年9月

フェルナンド2世・デ・アラゴンが、ナポリへ向かいバルセロナ出発。

1506年

アロンソ・ピメンテルは、メディナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されているチェーザレ・ボルジアを訪問。

1506年9月25日

フェリペ1世、死。

外部リンク

 世界帝王事典
 Cesar Borgia – – AUT CAESAR AUT NIHIL –
 Genealogy
 Geneanet
 Google Books
 Google Books
 Real Academia de la Historia
 Wikipedia - Ducado de Benavente

ロベール・スチュアート・ドオービニイ Robert Stuart d'Aubigny

生没
1470年頃~1544年

概要

 ロベール・スチュアート・ドオービニイは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1499年7~8月

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とするルイ12世軍の実質上の指揮者として、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。

1501年6月1日

ルイ12世軍を指揮し、ナポリ攻略のためアルプスを越えてイタリアに侵攻。

1501年6月19日~1501年6月23日

まずイヴ・ダレーグル指揮のルイ12世軍小隊がローマに入り、それに続いて主力部隊を率いてローマに入る。

1501年6月28日

フランス軍を指揮しローマ出発。

別表記

 ドーヴィニ、エベラルド・ディ・オービニィ、ベロルド・ステュアート、Berold Stuart

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

シャルル・ダンボワーズ Charles d'Amboise

生没
1473年~1511年2月11日
出身
フランス王国ショーモン=シュル=ロワール
没地
コッレッジョ
シャルル1世・ダンボワーズ

概要

 シャルル・ダンボワーズは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ミラノ総督 1500年~1511年
 フランス元帥 1506年~1511年

年表

1500年4月初旬

ルイ12世軍は、ミラノを奪還。その他のロンバルディアの諸都市も次々にフランスの軍門に下る。

ルイ12世により、シャルル・ダンボワーズがミラノ総督に任命される。

1502年6月半ば

リヨンでチェーザレ・ボルジアとその傭兵隊長たちによるフィレンツェへの敵対行動を知ったルイ12世から、援軍をトスカーナに送るよう指令を受ける。

1506年5~6月

レオナルド・ダ・ヴィンチミラノに招待。

1506年10月20日

ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。

すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。

1506年10月25日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ放棄を督促。

1506年11月1/2日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ボローニャを逃亡。シャルル・ダンボワーズは彼の身の安全を保障しミラノに亡命させる。

1508年2月下旬~3月

マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。

ルイ12世は、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに、ヴェネツィアを支持し、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ指揮の軍を用いてマクシミリアン1世からミラノを防衛せよと指令。

1509年4月15~16日

ミラノに結集したシャルル・ダンボワーズ指揮のルイ12世軍は、ルイ12世の命を受けて出撃。ルイ12世も自ら軍を率いてアルプスを越え、またイタリアに侵入。

1509年5月8~10日

ルイ12世は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオとシャルル・ダンボワーズ指揮の全軍を率いて改めてミラノから出撃。

1510年4~5月

シャルル・ダンボワーズとジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。

1510年5月24日

フランス軍、ヴィチェンツァも奪回。

1510年8月9日

ユリウス2世は、アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。

シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。

1510年8~9月上旬

シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステの撤退で孤立化したマクシミリアン1世、ヴィチェンツァを捨てヴェローナに撤退。ヴェネツィアはヴィチェンツァを奪い、ヴェローナを攻撃。

1510年10月14日

ユリウス2世、シャルル・ダンボワーズ破門の勅書を発する。

1510年10月18日~下旬

ミラノ及びフェッラーラの防衛に目途をつけたシャルル・ダンボワーズ、ユリウス2世の滞在するボローニャに軍を率いて迫り、攻撃態勢を取るが極度の疲労と熱病で倒れていたユリウス2世の策略に阻まれて攻撃できず、撤退。

1511年2月11日

コッレッジョにて、死。

肖像

別表記

 シャルル・ショモン・ダンボワーズ、Charles Ciamonte d'Amboise

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

アグネス・フライ Agnes Frey

生没
1475年~1539年
デューラー

概要

 アグネス・フライは、15世紀から16世紀の女性。

外部リンク

 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ルネッサンス夜話』

ガスパール・デ・プロイシタ Gaspár de Pròixita

生没
1476年~1533年
フアン・フランシスコ・デ・プロイシタ
カタリーナ・デル・ミラ
フェルナンド・デ・プロイシタ
ガスパール・デ・プロイシタ

概要

 ガスパール・デ・プロイシタは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 アルメナーラ伯

年表

1491年4月30日

ルクレツィア・ボルジアとの婚姻契約書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。代理人は、父方の従弟ホフレ・ランソル、ヤコポ・セラ、マッテオ・キュシア。父ロドリゴ・ボルジアの費用でバレンシアに向かう予定。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚約があるため、契約書のこの日付には疑問が残る。

1492年8月11日

婚約者の父ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。

1492年10月31日

ジョヴァンニ・スフォルツァローマに到着。

1492年11月5日

この日までには、父フアン・フランシスコ・デ・プロイシタと共にローマに到着しており、アレクサンデル6世から婚約辞退を求められているが、二重婚約に激しく抗議。

1492年11月9日

1492年8月11日のルクレツィア・ボルジアとの婚約延期書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。

「状況が好適となった時に」ルクレツィア・ボルジアとの結婚式を挙げることができるように、向こう1年間は結婚しないこと。

1492年12月9日

マントヴァ大使Fioravante Brognoloマントヴァ侯イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「かの貴族ジョヴァンニ・スフォルツァの一件は、まだ落着しておりません。あのスペイン貴族は教皇の姪(ルクレツィア・ボルジアのこと)を諦めていないようです。彼はスペインで多くの支持者を持っており、したがって、教皇はこの事態をなるに任せ、強引に結論を押し付けはしない傾向にあります」

1493年2月2日

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァと婚約。

慰謝料として3千ドゥカートが支払われる。

1494年

カタリーナ・デル・ミラと結婚。

1498年

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァと離婚したため、再び求婚。

別表記

 ガスパーレ・ダ・プロチダ、ガスパーレ・ダヴェルサ、Gaspare d'AversaGasparoGaspar de Pròixita y de Vives Boil

外部リンク

 Ajuntament d´Almenara
 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ピエール・テライユ Pierre Terrail

生没
1476年~1524年4月30日
出身
ポンシャラ
没地
ロマニャーノ・セージア

概要

 ピエール・テライユは、15世紀から16世紀の男性。騎士の権化として名高いフランス人。

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:フランス王国
 ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北

年表

1476年

ポンシャラのベイヤール城に生。(1473年)

1500年2月

ビナスコガレアッツォ・サンセヴェリーノ配下の騎兵との小競り合いで捕虜となる。

ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロに会い、剣と馬を返され、リニー伯シャルル・ド・ブルボンにミラノ公が慇懃な紳士だったと話す。

1510年

この頃?、フェッラーラのフランス駐屯地の隊長に任命され、ルクレツィア・ボルジアと知り合う。

フェッラーラ軍と共にフランス軍が要塞を攻略してフェッラーラに凱旋し、ルクレツィア・ボルジアに関して記す。「フェッラーラ公夫人は真っ先にフランス軍を歓迎された。彼女はこの世の真珠である。イタリア式の素晴らしい祭典や宴を毎日のように開く。これ程輝かしい貴婦人は、当代はおろか過去にも稀だと私は言いたい。彼女は美しく善良で気品があり、何人に対しても気さくである。フェッラーラアルフォンソ1世・デステは勇敢で練達の君主であるが、夫人の内助の功がすこぶる大きかったことは、誰もが認めざるを得ない」

1524年4月30日

ロマニャーノ・セージアで死。

別表記

 シュヴァリエ・ドゥ・ベイヤール、バヤール、Pierre Terrail de Bayard

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

フランソワ2世・ド・ブルターニュ François II de Bretagne

生没
1435年6月23日~1488年9月9日
出身
ブルターニュ公国クリソン
没地
ブルターニュ公国クエロン
リシャール・ド・ブルターニュ
マルグリット・ドルレアン
マルグリット・ド・ブルターニュ
ルグリット・ド・フォワ
ジャン・ド・ブルターニュ
アンヌ・ド・ブルターニュ イザボー・ド・ブルターニュ フランソワ・ド・ブルターニュ
アントワーヌ・ド・ブルターニュ
フランソワ・ド・ブルターニュ
フランソワ・ド・ブルターニュ
フランソワーズ・ド・ブルターニュ

概要

 フランソワ2世・ド・ブルターニュは、15世紀のフランス王国の男性。

在位

 ブルターニュ公 1458年~1488年

埋葬

 ナント大聖堂

外部リンク

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アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne

生没
1477年1月25日~1514年1月9日
フランソワ2世・ド・ブルターニュ
シャルル8世
ルイ12世
クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス

概要

 アンヌ・ド・ブルターニュは、15世紀から16世紀のフランス王国の女性。

在位

 ブルターニュ公 1488年~1514年

年表

1488年9月9日

フランソワ2世・ド・ブルターニュ死。ブルターニュ公領を相続。

1490年12月19日

マクシミリアン1世と代理人誓約の形で結婚。

1491年12月6日

シャルル8世との結婚が強行される。

1492年2月8日

サン=ドニ大聖堂でフランス王妃として戴冠。

1499年1月7~8日

ルイ12世と再婚。

1514年1月9日

死。

別表記

 Anne of Brittany

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『The Life of Cesare Borgia

トマス・ブーリン Thomas Boleyn

生没
1477年頃~1539年3月12日
ウィリアム・ブーリン
エリザベス・ハワード
メアリー・ブーリン
アン・ブーリン

概要

 トマス・ブーリンは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 オーモンド伯 1527年~
 初代ウィルトシャ伯 1529年12月8日~

外部リンク

 Find A Grave
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トマス・モア Thomas More

生没
1478年2月7日~1535年7月6日
出身
ロンドン
ジェーン・コルト
アリス・ミドルトン
マーガレット・モア
エリザベス・モア
シスリー・モア
ジョン・モア

概要

 トマス・モアは、15世紀から16世紀の男性、思想家、政治家。

年表

1477年2月6/7日

ロンドンに生(1478年)。

1509年8月

エラスムスEncomium moriae(痴愚神礼讃)の稿をトマス・モアに献呈。

1516年6月

Utopia(ユートピア)を完成し、1516年12月ネーデルランド・ブラバントのブリュッセル近郊ルーヴェンで刊行。

1520年6月7日~1520年6月24日

フランソワ1世カール5世に対抗する同盟者を得るべく、Calais近郊Ardresの豪華な装飾を施した陣屋(「金襴の陣屋」)に参議会員トマス・モアらを従えたヘンリー8世を招いて会見し、盟約を求めるが合意に達せずに終わる。

1523年5月

ヘンリー8世Assertio septem sacramentorum(1521年)を擁護すべく匿名の論文Responsio da Lutherum(ルター駁論)をロンドンで刊行。

1529年6月

1528年執筆したA dialogue concerning hercies and matters of religion, against Tyndale(異端に着いたの対話、ティンダル駁論)をロンドンで刊行。この中でW. Tyndaleの英語訳聖書(1525年)やマルティン・ルターの福音主義的信仰を異端と批判。

1529年10月26日

ヘンリー8世より、貴族でも聖職者でもないものとしては初めて大法官に任命される。(在位~1532年)。

1529年11月3/4日

宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。

1532年5月16日

トマス・モア、「聖職者の服従」がカンタベリー大司教Wiliam Warhamからヘンリー8世に報告されたこの日、これを首肯できず健康状態が思わしくないとの理由を挙げて大法官を辞任(1529年~)。

1534年4月13日

王位継承法の「内容と効果を支持する」誓約を行なうよう求められたトマス・モアとCambridge大学総長・Rochesterの司教John Fisher、誓約は教皇至上権を否定することになると考え、拒否。

1534年4月17日

王位継承法支持の誓約を改めて拒否したトマス・モアとJohn Fisherヘンリー8世の命によりロンドン塔に投獄される。

1534年11月18日

イングランド国教会成立:宗教改革議会、王及びその継承者を「Anglicana Ecclesiaと呼ばれるイングランドの教会の地上における唯一最高の首長と解し、認め、かつみなす」とする国王至上法(首長令)を承認。これによりAnglicana Ecclesiaローマ教会から分離し、王を首長とするイングランド国教会として独立。教皇の一切の支配権を一掃してイングランドを王が聖俗両界で一元的に支配する完全な主権国家(empire)としようとするThomas Cromwellの意志、実現される。

さらに宗教改革議会、国王至上法に反する言行を処罰する反逆法と、「不忠者」トマス・モア及びJohn Fisherの私権剥奪法を承認。

1535年7月1日

イングランド国教会における王の至上権を否認し反逆法に違反したとして有罪判決を受ける。

1535年7月6日

ヘンリー8世の命により斬首される。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

サポヤイ・ヤーノシュ Szapolyai János

生没
1487年2月2日~1540年7月22日

概要

 サポヤイ・ヤーノシュは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1526年11月10日

ハンガリー最大の貴族ザポリア家のサポヤイ・ヤーノシュ(1487年~:ハンガリー王在位1526年~1540年)は、Tokayの国会で大多数の貴族の支持によりハンガリー王に選出される。

1527年9月26日

ハンガリーの貴族の大多数が王としてサポヤイ・ヤーノシュを推戴する中でウィーンの東に接する帯状地帯を支配するに留まっていたフェルディナンドは、Tokayでサポヤイ・ヤーノシュ軍を破る。サポヤイ・ヤーノシュはポーランドに逃げる。

1528年2月24日

サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。

1528年10月23日

サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュはフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。

1529年8月

サポヤイ・ヤーノシュ、ウィーンに向かって進軍するスレイマン1世をモハーチで迎えて会見し、彼よりハンガリー王位のシンボル聖イシトヴァン宝冠などを与えられる。

1533年6月22日

イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。

1540年7月22日

ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ死(1487年~:在位1526年~)。

1541年8月26日

大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。

別表記

 ザポリア、ヤノシュ・ザポヤイ、サーポヤイ=ヤーノシュ、János ZápolyaZápolya János

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency

生没
1492年3月15日~1567年11月12日

概要

 アンヌ・ド・モンモランシーは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1536年7月25日

この日頃カール5世フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。

1557年8月10日

フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

トマ・ナダスディ Tamás Nádasdy

生没
1498年~1562年6月2日
出身
エゲルヴァール
没地
エゲルヴァール
ナダーシュディ・フェレンツ1世
オルソルヤ・カニッツァイ
フェレンツ・ナダスディ

概要

 トマ・ナダスディは、15世紀から16世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ディアヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers

生没
1499年9月3日~1566年4月25日
ルイ・ド・ブレゼ

概要

 ディアヌ・ド・ポワチエは、15世紀から16世紀の女性。

別表記

 ディアーヌ・ド・ポアティエ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『ルネサンス百科事典』

メアリー・ブーリン Mary Boleyn

生没
1499年頃~1543年7月19日
トマス・ブーリン

概要

 メアリー・ブーリンは、15世紀から16世紀の女性。

外部リンク

 Find A Grave
 Wikipedia

マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ Madeleine de La Tour d'Auvergne

生没
1501年~1519年4月28日
ジャン・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
ロレンツォ・デ・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュは、16世紀の女性。

年表

1518年1月28日

ロレンツォ・デ・メディチと婚約。

1518年4月28日

フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。

この結婚によりフランソワ1世メディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。

1518年9月7日

ロレンツォ・デ・メディチと共にフィレンツェ到着。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。

1519年4月13日

カトリーヌ・ド・メディシスを出産。

1519年4月28日

死。

別表記

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、マドレーヌ・ド・ラトゥール、マッダレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フィリベール・ド・シャロン Philibert de Chalon

生没
1502年3月18日~1530年8月3日

概要

 フィリベール・ド・シャロンは、16世紀の男性。

年表

1528年2月17日

フィリベール・ド・シャロン指揮のローマ占領カール5世軍は、荒廃したローマを撤収し、ナポリ方面に向かう。

直後、ナポレオーネ・オルシーニらの率いるオルシーニ家の軍や領民らがローマに入り、カール5世軍の傷病兵などを殺害すると共に市街をさらに略奪、破壊。

1528年3月半ば

この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。

1528年8月末

すでにそのナポリ包囲態勢が大きく崩れていたMichele Antonio指揮のフランソワ1世軍、市の前から近郊Aversaに撤退。これをフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍が追撃し、Aversaを急襲。フランソワ1世軍、ほとんど壊滅し降伏。フランソワ1世主導によるナポリ奪還戦、完敗に終わる。

1529年8月24日

クレメンス7世の使節団の強い要求に従って一旦はフィレンツェ使節団の接見を拒否したカール5世アンドレア・ドーリアの要請をいれ、クレメンス7世の使節の一人の同席の下でようやく接見。これまでの誠意と今後の恭順、協調を言上した上、クレメンス7世こそフィレンツェの自由とカール5世自身にとって最大の敵であると力説し、フィリベール・ド・シャロン指揮のフィレンツェ攻略軍の進撃を止めるよう懇請する使節団に対し、クレメンス7世の名誉を認めぬ限り交渉の余地はないと断言し、仲介するから直ちにクレメンス7世と和解交渉を開始せよと命ずる。

1529年8月末~9月初旬

フィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍は、ペルージア領内に進撃して各地を次々と占領し、ペルージア市街を孤立させる。

1529年9月9日

ペルージアを支配していた(1522年~)マラテスタ・バリオーニは、フィリベール・ド・シャロンに降伏の意を伝える。

1529年9月11~12日

マラテスタ・バリオーニ、自軍と共に安全に退出することを保障され、フィレンツェとの傭兵契約の継続を許されてペルージアを去る。フィレンツェ軍もペルージアを撤退。

これによりフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍の攻撃目標はいよいよフィレンツェ領に絞られる。

1529年11月9/10日

カール5世軍は、総力を挙げてフィレンツェ市街を夜襲するが予想に反して激しく抵抗され、指揮官フィリベール・ド・シャロンはやむなく撤退を指令。

1529年11月11日

フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻撃への支援強化を求めるため、ボローニャに向かう。

1529年11月29日

フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。

1530年1月下旬~末

フィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍は、全面的にフィレンツェを包囲し、全軍を挙げて市壁下に迫る。フィレンツェ市内と市外の交通、通信はほとんど途絶し、食糧の搬入も不可能となる。

1530年6月21日

フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo GherardiAndrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニカール5世軍陣営に通報。

ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。

1530年7月半ば~下旬

フィリベール・ド・シャロン、マラテスタ・バリオーニの勧奨に従ってフィレンツェに使者を送り、メディチ家復辟を条件とする和議を提案するがフィレンツェは依然この条件を拒否。両者の裏面での接触、最終的に途絶。

1530年7月末

この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベール・ド・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニカール5世クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。

1530年8月3日

Francesco Ferrucci指揮のフィレンツェ軍とフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍、ピストイア近郊の山中Gavinanaで決戦。フィリベール・ド・シャロン戦死し(1502年~)、カール5世軍は一時撤退。しかしすぐ援軍が到着したカール5世軍、逆にフィレンツェ軍を撃破。捕虜となったFrancesco Ferrucciはすぐに虐殺される(1489年~)。

別表記

 フィリベルト・デ・シャロン、フィリベール・ドランジュ、オラニエ公フィリベルト、オレンジ公フィリベルト

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの華』

エリザベス・ブラント Elizabeth Blount

生没
1502年頃~1540年
ジョン・ブラント
キャサリン・パーシャル
ヘンリー8世
ギルバート・タルボイズ
エドワード・クリントン
ヘンリー・フィッツロイ
エリザベス・タルボイズ
ジョージ・タルボイズ
ロバート・タルボイズ
ブリジット・クリントン
キャサリン・クリントン
マーガレット・クリントン

概要

 エリザベス・ブラントは、16世紀の女性。ヘンリー8世の愛妾。

年表

1519年6月5日

ヘンリー・フィッツロイを出産。

外部リンク

 Wikipedia

ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ Garcilaso de la Vega

生没
1503年頃~1536年10月13日
出身
トレード
没地
ニース

概要

 ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは、16世紀の男性、詩人。

年表

1503年

この年頃、スペイン、マドリード近郊トレードに生。

1536年10月13日

ニースで死(1536年10月14日)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

トマス・タリス Thomas Tallis

生没
1505年頃~1585年11月23日

概要

 トマス・タリスは、16世紀のイングランド王国の男性、作曲家、オルガン奏者。

年表

1536年頃~1540年

ウォルサム・アビー修道院のオルガン奏者。

1542年

王室礼拝堂のオルガン奏者。

1572年

弟子のウィリアム・バードも王室礼拝堂に着任。

外部リンク

 ウィキペディア

アン・ブーリン Anne Boleyn

生没
1507年頃~1536年5月19日
トマス・ブーリン
ヘンリー8世
エリザベス1世

概要

 アン・ブーリンは、16世紀の女性。

年表

1532年10月20日~10月29日

アン・ブーリンやトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世フランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。

1533年1月25日

この日頃ヘンリー8世は、かねて望んできたアン・ブーリンと秘密裡に結婚。

1533年5月28日

Thomas Crannerヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は完全に合法的な婚姻だと宣言。

1533年6月1日

アン・ブーリンのイングランド王妃戴冠式、ウェストミンスター修道院で行われる。

1533年7月11日

クレメンス7世ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。

1533年9月7日

アン・ブーリン、女子エリザベス(1533年~1603年:在位1558年~1603年)を出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。

1534年3月23日

「宗教改革議会」、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。

1536年1月7日

婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。

これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。

1536年5月2日

幾重もの姦通と近親相姦が証明されたとして、ヘンリー8世により、ロンドン塔に幽閉される。

1536年5月18日

斬首される。

別表記

 アン・ブリン、アン・ブーレン、アンナ・ボレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Find A Grave

参考文献

 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』

リチャード・サックヴィル Richard Sackville

生没
1507年頃~1566年4月21日

概要

 リチャード・サックヴィルは、16世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『オーランドー』

レオノール・デ・カストロ・イ・メロ Leonor de Castro

生没
1512年~1546年3月27日
出身
リスボン
没地
リスボン
アルヴァーロ・デ・カストロ
イザベル・デ・メロ
フランシスコ・デ・ボルハ
カルロス・デ・ボルハ
イザベル・デ・ボルハ
フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ
アルヴァロ・デ・ボルハ
フアナ・デ・ボルハ
フェルナンド・デ・ボルハ

概要

 レオノール・デ・カストロは、16世紀のスペインの女性。

別表記

 エレアノーラ

外部リンク

 Famille de Carné
 Généalogie Online
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

フランソワ1世・ド・ロレーヌ François I de Lorraine

生没
1519年2月17日~1563年2月24日
出身
バル=ル=デュック
クロード1世・ド・ロレーヌ
アントワネット・ド・ブルボン
アンナ・デステ

概要

 フランソワ1世・ド・ロレーヌは、16世紀の男性。

別表記

 ド・ギーズ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『Lucretia Borgia

ウルグ・アリ 'Ulūg 'Alī

生没
1519年~1587年
出身
カステッラ

概要

 ウルグ・アリは、16世紀のオスマン・トルコの男性。

年表

1519年

カステッラにて、生(1520年)。名前は、ジョヴァンニ・ディオニジ・ガレーニ。

1560年6月

ニースの港を襲撃し、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア軍の守備を破り、貴族たちを捕虜にする。

多額の身代金で捕虜を返すことに同意し、マグリット・ド・ヴァロワに目通りする名誉を欲する。

しかし、ウルグ・アリが会ったのは、実際にはマグリット・ド・ヴァロワと偽ったパオラ・コスタである。

1574年8月

オスマン・トルコ水軍を指揮し、1573年10月フェリペ2世軍により奪還されたチュニスを再奪還。以後、オスマン・トルコのチュニス支配続く(~1881年)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

オルソルヤ・カニッツァイ Kanizsai Orsolya

生没
1521年頃~1571年
トマ・ナダスディ
フェレンツ・ナダスディ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ステファン・バートリ Stefan Batory

生没
1533年9月27日~1586年12月12日
出身
トランシルヴァニア、ソムリヨ
没地
リトアニア大公国フロドナ
バートリ・イシュトヴァーン8世
テレグディ・カタリン
アンナ・ヤギェロンカ
クネボフスキ

概要

 バートリ・イシュトヴァーンは、16世紀の男性。

在位

 ポーランド王ステファン・バートリ 1575年12月14日~1586年12月12日

年表

1574年5月30日

シャルル9世死。

アンリ3世、ポーランド王位を捨ててフランス王に即位。

1575年12月12日

ポーランド王に選出される。

1576年5月1日

クラクフで戴冠。

1580年

グレゴリウス13世から祝福された剣を拝受。

1588年5月

クラクフのヴァヴェル大聖堂内シフィエンタ・マリア地下聖堂に埋葬される。

別表記

 ステファヌ・バートリ、ステファン・バトーリ、Stefan BatóryBáthory István

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』

アンナ・バートリ Báthory Anna

生没
1539年~1570年
エリザベート・バートリ

概要

 アンナ・バートリは、16世紀の女性。

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ヤーノシュ・ジグモンド János Zsigmond

生没
1540年7月18日~1571年3月14日
サポヤイ・ヤーノシュ
イザベラ

在位

 ハンガリーの対立王 1540年~1570年
 トランシルヴァニア公 1570年~1571年

別表記

 ヤーノシュ・シジスムンド

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』

メアリー・スチュアート Mary Stuart

生没
1542年12月8日~1587年2月8日
スコットランド王ジェームズ5世
メアリー
フランソワ2世
ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
ボズウェル伯
ジェイムス1世

概要

 メアリー・スチュアートは、16世紀のスコットランドの女性、スコットランド女王。

在位

 スコットランド王 1542年~1567年

年表

1542年12月7/8日

失意の病床にあるJames Vに長女メアリー・スチュアート誕生(1542年~1587年:スコットランド女王在位1542年~1567年)。

1542年12月14日

ジェイムス5世死(1512年~:在位1513年~)——生まれたばかりの娘メアリー・スチュアート、スコットランド女王となる。

1543年3月

スコットランドの併合・吸収を企図しその貴族に資金を提供するなど工作を続けてきたヘンリー8世の最初の策、イングランド王太子Edward(1537年~)とメアリー・スチュアートの結婚がスコットランド議会で承認される。

しかし以後ヘンリー8世、本来の企図を露わにし、スコットランド内部に反発、高まる。

1543年7月1日

スコットランドにおける独立・自由への志向の強さに押されてヘンリー8世Edwardとメアリー・スチュアートの結婚はイングランドによるスコットランドの併合・吸収を意味せず、スコットランドは以後も個別の独立した王国として留まることなどを認めた上、メアリー・スチュアートが10歳になる以前に結婚契約を結び10歳になった時点で彼女がイングランドに赴くこと、などをメアリー・スチュアートの後見人・摂政ArranJames Hamilton(1515年?~1575年:摂政在位1543年1月~1554年)と協定(グリニッジ協定)。これを屈辱的協定とする不満・怒り、スコットランド内部に募る。

1547年9月10日

ヘンリー8世にもましてスコットランド支配の野望を抱くEdward VIの摂政Edward SeymourEdward VIとメアリー・スチュアートの結婚を迫るべく大軍を指揮して領境を越え、この日Pinkieでスコットランド軍を大破。

1548年7月7日

結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世(1544年~1560年:フランス王1559年~1560年)とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。

1558年4月24日

アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。

1558年11月17日

メアリー1世死(1516年~:在位1553年~)。

エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る(在位~1603年)。

これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。

1558年11月29日

スコットランド議会、メアリー・スチュアートの夫フランソワ2世に配偶者王位継承権を認める。

1559年6月30日

アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de France、メアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。

1559年7月10日

アンリ2世死(1519年~:在位1547年~)——王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る(在位~1560年)。

15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。

1560年

ピウス4世から黄金の薔薇を拝受。

1560年12月5日

フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。

これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。

1561年8月19日

フランスで前王妃の名称以外全ての地位・実力を失い、スコットランド女王の地位を残すのみとなったメアリー・スチュアート、去り難いフランスを去り、この日リースに上陸しスコットランドに帰る。

1566年6月19日

従弟で旧教徒ダーンリー卿Henry StewartStuart:1545年~1567年)と結婚していた(1565年7月~)メアリー・スチュアート、男子ジェイムス1世を出産(1566年~1625年)。

1568年5月2日

夕刻メアリー・スチュアート、幽閉されていた(1567年~)Lochleven城塞から監視人を含む数名を従者として逃亡。

1568年5月13日

逃亡中のメアリー・スチュアート、グラスゴー近郊ラングサイドで、急ぎ結集した新教徒派政府軍を破り活路を開こうとするが完敗。2日後エリザベス1世に書簡を送って保護を求め、その翌1568年5月16日西部領国境界の川を釣りボートで越えてイングランドに入る。

1568年5月19日

1568年5月18日メアリー・スチュアートをイングランド中部カーライル城に移させたエリザベス1世、この日、彼女を満腔の敬意を込めて、しかし決して逃亡されぬよう遇せよと指令。メアリー・スチュアートの軟禁・幽閉生活、始まる(~1587年:1587年3月8日エリザベス1世暗殺を謀ったAnthony Babington——(メアリー・スチュアートの近習、1561年~1586年)——陰謀事件への参画により処刑される)。

別表記

 メアリースチュアート、メアリー・ステュアート、メアリーステュアート、スコットランド女王メアリー

外部リンク

 ウィキペディア
 fabcross for エンジニア
 Find A Grave
 Find A Grave
 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『服飾の中世』
 『魔女狩り』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの歴史』

アンリ・ド・ギーズ Henri de Guise

生没
1550年1月31日?~1588年12月23日
フランソワ・ド・ギーズ
アンナ・デステ

概要

 アンリ・ド・ギーズは、16世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』

エリザベート・バートリ Báthory Erzsébet

生没
1561年~1614年8月21日
アンナ・バートリ
フェレンツ・ナダスディ

概要

 エリザベート・バートリは、16世紀から17世紀の女性。ハンガリーで1、2の大貴族の娘。自らの美と若さを守るためと信じて、600人余の娘たちを虐殺する。

別表記

 エルジェーベト・バートリ、チェイテの夫人、血の伯爵夫人、Elizabeth Bathori

外部リンク

 ウィキペディア
 IMDb

参考文献

 『世界悪女大全』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

クリスティーヌ・ド・ロレーヌ Christine de Lorraine

生没
1565年8月16日~1637年12月19日
シャルル2世・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ヴァロワ
フェルディナンド1世・デ・メディチ

概要

 クリスティーヌ・ド・ロレーヌは、16世紀から17世紀の女性。

別表記

 マリア・クリスティーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 kleio.org

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ジェイムス1世 James I

生没
1566年6月19日~1625年3月27日
出身
スコットランド王国エディンバラ城
没地
イングランド王国シーアボールズ宮殿
ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
メアリー・スチュアート
アン・オブ・デンマーク
ヘンリー・フレデリック・スチュアート
エリザベス・スチュアート
マーガレット・スチュアート
チャールズ1世・スチュアート
ロバート・スチュアート
メアリー・スチュアート
ソフィア・スチュアート

概要

 ジェイムス1世は、16世紀から17世紀の男性。

年表

1625年5月7日

ウェストミンスター寺院に埋葬される。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave

参考文献

 『オーランドー』
 『ルネサンス百科事典』
 『魔女狩り』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『西洋拷問刑罰史』

ジョージ・ヴィリアーズ George Villiers

生没
1592年8月28日~1628年8月23日
ジョージ・ヴィリアーズ
メアリー・ボーモント

概要

 バッキンガム公。ジェイムズ1世の側近として権力を振るったが、1628年暗殺された。

別表記

 ジョージ・ヴィラーズ

外部リンク

 ウィキペディア

ジャウフレ・リュデル Jaufré Rudel

概要

 ジャウフレ・リュデルは、12世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ジョン・スチュアート John Stewart

生没
~1482年
ジョン・スチュアート
エリザベス・オブ・レノックス

概要

 ジョン・スチュアートは、15世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』

フアン・セルヴィロン Juan Cervillon

生没
~1499年12月22日

概要

 フアン・セルヴィロンは、アラゴン家に親しいスペイン人隊長。

性格

 思うところを率直に語ることを恐れない。気丈で勇敢。

年表

1499年

ボルジア家の内情に通暁しており、サンチャ・ダラゴーナの振る舞いを公然と非難し、チェーザレ・ボルジアとの醜聞にも言及したらしい。

1499年12月

ローマを去って、妻子の待つナポリへ帰り、フェデリーコ・ダラゴーナに仕えるようにしたいと、教皇アレクサンデル6世に願い出、不承不承許可される。

1499年12月22日

甥のテゼオ・ピニャテッリのところで夕食を終えた時に、自身は剣を抜く暇もなく、斬り殺される。

1499年12月23日

未明、死体の検分もされず、ボルゴ・ヌオーヴォのサンタ・マリア・イン・トラスポンティーナ教会の墓地に埋葬される。

別表記

 Giovanni

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

フェレンツ・ナダスディ Ferenc Nádasdy

トマ・ナダスディ
オルソルヤ・カニッツァイ
エリザベート・バートリ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

フランシスカ・マルティ Francisca Marti

生没
~1370年頃
出身
バレンシア
没地
バレンシア
ドミンゴ・デ・ボルハ・イ・ドンセル
カリストゥス3世
イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ
カテリーナ・デ・ボルハ

概要

 フランシスカ・マルティは、14世紀頃のスペインの男性。

別表記

 Francisca Marti LlançolFrancina

外部リンク

 Famille de Carné
 JDA's Family Tree

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ペドロ・カルデロン Pedro Calderon

生没
14??年~1498年2月
没地
ローマ

概要

 ペドロ・カルデロンは、15世紀の男性。

年表

1498年2月

テヴェレ川で溺死。

別表記

 カルデス、イル・ペロット、CaldesPerotto

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界悪女大全』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

マリーア・フランシスカ・デ・カストロ María Francisca de Castro

生没
~1576年
没地
バレンシア
フランシスコ・デ・カストロ
レオノール・デ・カストロ
フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
フェリペ・マヌエル・デ・ボルハ

概要

 マリーア・フランシスカ・デ・カストロは、16世紀頃の女性。

年表

外部リンク

 Famille de Carné

参考文献

 『Lucretia Borgia

エル・プレーテ El Prete

生没
14??年~15??年

概要

 ニッコロ・ダ・コッレッジョに庇護を受ける。イザベッラ・デステの文通相手。

年表

1501年12月29日

ローマにて、マントヴァ侯イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 ルクレツィア・ボルジアは公式の場の現れはしましたが、少しの間でした。出発の準備に忙しいからです。1501年12月26日サント・ステファノの日、日曜日の夜、私は知らせなく宮殿を訪れました。殿下はご自身の部屋の寝台の脇に腰かけていました。部屋の一角には20人ほどのローマ人女性がア・ラ・ロマネスカという格好をし、頭に布を被っていました。10人ほどの侍女たちもおりました。バレンシア貴族とニッコラという次女が率先して踊り出し、続いてルクレツィア・ボルジアフェッランテ・デステと、極めて優雅に活発に踊りました。金で縁どられた黒ビロードに黒い袖のカモッラを着て、袖口は狭く、袖は肩のところで切込みが入っていて、金糸でできたベールで胸から首が覆われておりました。真珠の首飾りをつけ、緑のネットとルビーで髪を覆っています。毛皮で縁取られた黒いビロードのオーバースカートは彩られ、とても美しいものでした。婚姻時の侍女たちの衣装はまだ準備されてはいません。2、3人の女性が美しかったです。1人は、カタリーナといい、バレンシア出身で、踊りが堪能です。もう1人は、アンジェラ・ランソルといい、魅力的です。本人に告げることなく、私は一番のお気に入りとして彼女を選びました。昨晩(1501年12月28日)、イッポーリト・デステ枢機卿、チェーザレ・ボルジア公爵とフェッランテ・デステが仮面を被って街へ繰り出した後、我々は舞踏が行われているルクレツィア・ボルジアの家に伺いました。ローマの至るところで、朝から晩まで、仮面を被った遊女ばかり目にします。24時以降は戸外に出ることを禁じられているからです。

1502年1月2日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。1502年1月1日、ローマの地区の多くがパレードを編成し、お囃子を伴って、それぞれのゴンファロニエーレや長官が13台の山車を率いて、ナヴォーナ広場からヴァティカンへと向かった。初めの山車はヘラクレスの凱旋を表し、他にユリウス・カエサルなど幾人かのローマの英雄たちを示していた。教皇アレクサンデル6世とその客人たちが、窓からその壮観な様子をよく眺められるよう、ヴァティカンの前で止まった。若い2人を祝う詩が読まれ、4時間が過ぎていった。続いて、ヴァティカン宮殿ボルジアの間の鸚鵡の間で喜劇が上演された。次に、モレスカ又はバレエが、インノケンティウス8世の注文によってかけられた美しいタペストリーで壁が飾られている教皇の間で踊られた。傍観者は長椅子や床に好きなように座っていた。短い牧歌の後に、ジョングルール(フランスにおける大道芸人のこと)が女装してタンバリンに合わせてモレスカを踊り、チェーザレ・ボルジアもそれに参加し、その変装にもかかわらず彼と気づかれていた。喇叭が次の劇を知らせ、1本の木が才人の上に現れ、彼は詩を朗誦すると、9本の絹のリボンの先を下に垂らし、木の周りで踊っていた9人の仮面をつけた者に取られた。このモレスカは大いに称賛された。最後に教皇アレクサンデル6世は娘ルクレツィア・ボルジアに舞踊を所望し、彼女はバレンシア人の侍女の1人と踊った。それに皆男も女も続いた。

外部リンク

 Internet Archive - Dukes & poets in Ferrara
 Cristo Raul - The History of the Popes, from the close of the Middle Ages.

参考文献

 『Lucretia Borgia

カタリナ・デ・ロリス Catalina Jáfer de Lloris

生没
1???年~15??年
ペドロ・デ・ロリス
イサベル・デ・ボルハ・イ・ナヴァッロ
ガルセラン・デ・ボルハ

概要

 カタリナ・デ・ロリスは、16世紀頃のスペインの女性。

年表

1518年

母方のいとこガルセラン・デ・ボルハと結婚。

エルビラ・デ・エレーラ Elvira de Herrera

生没
14??年~1???年
ペドロ・ヌニェス・デ・エレーラ
ブランカ・エンリケス
ペドロ・フェルナンデス・デ・コルドバ
ゴンザロ・デ・コルドバ

概要

 エルビラ・デ・エレーラは、15世紀頃のスペインの女性。

年表

1453年9月1日

モンティーリャにて、ゴンザロ・デ・コルドバを出産。

記載日

更新日

 2023年11月7日