その他人物

アグネス・フライ Agnes Frey

生没
1475年~1539年
デューラー
概要

 アグネス・フライは、15世紀~16世紀の女性。

外部リンク

 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ルネッサンス夜話』

アンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency

生没
1492年3月15日~1567年11月12日
概要

 アンヌ・ド・モンモランシーは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1536年7月25日
この日頃カール5世フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

バルバラ・フォン・ブランデンブルク Barbara von Brandenburg

生没
1422年9月30日~1481年11月7日
ヨハン・フォン・ブランデンブルク
バルバラ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要

 バルバラ・フォン・ブランデンブルクは、15世紀の女性。

年表

1478年3月24日
バルバーラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェチーリア・ゴンザーガの死を伝える。

肖像

別表記

 ブランデンブルグ、バルバラ・ディ・ブランデンブルゴ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Treccani.it

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

クリスティーヌ・ド・ロレーヌ Christine de Lorraine

生没
1565年8月16日~1637年12月19日
シャルル2世・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ヴァロワ
フェルディナンド1世・デ・メディチ
概要

 クリスティーヌ・ド・ロレーヌは、16世紀~17世紀の女性。

別表記

 マリア・クリスティーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 kleio.org

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

アンリ・ド・ギーズ Henri de Guise

生没
1550年1月31日?~1588年12月23日
フランソワ・ド・ギーズ
アンナ・デステ
概要

 アンリ・ド・ギーズは、16世紀の男性。

チェーザレ・ボルジア数

 母アンナ・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』

イヴ・ダレーグル Yves Tourzel d'Alègre

生没
1452年頃~1512年
ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
ヴィヴェロ領主ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
概要

 イヴ・ダレーグルは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1499年11月9日
チェーザレ・ボルジアのもとで槍騎兵3百を指揮し、ミラノ出発。
1500年1月19日
1500年
ノヴァーラへ向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1501年1月24日
騎兵500でモデナ到着。
1501年6月19日~1501年6月23日
ルイ12世軍は、まずイヴ・ダレーグル指揮の小隊、続いてロベール・スチュアート・ドオービニイの主力部隊の順でローマに入る。
1501年6月28日
ローマ出発。

別表記

 イーヴ・トゥルツェル・ダレグル、イヴ・ダレグレ、ディ・アレグリ、イーヴォ・ダレグリ、Ives d'AllégreIvo d'Allegre

外部リンク

 GeneaNet
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ Íñigo López de Mendoza

生没
1398年8月19日~1458年3月25日
出身
Carrión de los Condes
没地
グアダラハラ
ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ
概要

 イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサは、14世紀~15世紀の男性、人文主義者、詩人、サンティリャーナ侯爵。

在位

 第1代サンティリャーナ侯

年表

1398年
スペインのCarrión de los Condesにて、生。
1458年3月25日
スペイン中部グアダラハラにて、死。

別表記

 イニゴ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ウルグ・アリ 'Ulūg 'Alī

生没
1519年~1587年
出身
カステッラ
概要

 ウルグ・アリは、16世紀のオスマン・トルコの男性。

年表

1519年
カステッラにて、生(1520年)。名前は、ジョヴァンニ・ディオニジ・ガレーニ。
1560年6月
ニースの港を襲撃し、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア軍の守備を破り、貴族たちを捕虜にする。
多額の身代金で捕虜を返すことに同意し、マグリット・ド・ヴァロワに目通りする名誉を欲する。
しかし、ウルグ・アリが会ったのは、実際にはマグリット・ド・ヴァロワと偽ったパオラ・コスタである。
1574年8月
オスマン・トルコ水軍を指揮し、1573年10月フェリペ2世軍により奪還されたチュニスを再奪還。以後、オスマン・トルコのチュニス支配続く(~1881年)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

エティエンヌ・ド・ヴェスク Étienne de Vesc

生没
1445年頃~1501年10月6日
概要

 エティエンヌ・ド・ヴェスクは、15世紀~16世紀の男性。

別表記

 エチエンヌ、ヴェクス

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

エリザベス・ブラント Elizabeth Blount

生没
1502年頃~1540年
ジョン・ブラント
キャサリン・パーシャル
ヘンリー8世
ギルバート・タルボイズ
エドワード・クリントン
ヘンリー・フィッツロイ
エリザベス・タルボイズ
ジョージ・タルボイズ
ロバート・タルボイズ
ブリジット・クリントン
キャサリン・クリントン
マーガレット・クリントン
概要

 エリザベス・ブラントは、16世紀の女性。ヘンリー8世の愛妾。

年表

1519年6月5日
ヘンリー・フィッツロイを出産。

外部リンク

 Wikipedia

エルンスト・フォン・ヴェッティン Ernst von Wettin

生没
1441年3月24日~1486年8月26日
概要

 エルンスト・フォン・ヴェッティンは、15世紀の男性。

在位

 ザクセン選帝侯 1464年~1486年

年表

1480年3月22日
ブラウンシュヴァイク侯ヴィルヘルム1世とヴィルヘルム・フォン・ヘンネベルクと共に、2百の騎士を伴い、この日ローマに到着。パリオーネ地区の屋敷に宿泊し、教皇シクストゥス4世の歓待を受け、ジローラモ・リアリオからはマリアーナでの狩りが催される。
1480年4月14日
ローマ出発。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典

参考文献

 『Lucretia Borgia

オルソルヤ・カニッツァイ Kanizsai Orsolya

生没
1521年頃~1571年
トマ・ナダスディ
フェレンツ・ナダスディ
外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ Garcilaso de la Vega

生没
1503年頃~1536年10月13日
出身
トレード
没地
ニース
概要

 ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは、16世紀の男性、詩人。

年表

1503年
この年頃、スペイン、マドリード近郊トレードに生。
1536年10月13日
ニースで死(1536年10月14日)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ゴーティエ・ド・ブリエンヌ Gautier de Brienne

生没
1304年頃~1356年9月19日
ゴーティエ5世・ド・ブリエンヌ
ジャンヌ・ド・シャティヨン
概要

 ゴーティエ・ド・ブリエンヌは、14世紀の男性。

在位

 アテネ公 1311年~1356年

別表記

 ヴァルテル・ド・ブリエンヌ、グアルティエーリ・ディ・ブリアンヌ、ブリアンヌ伯ゴーティエ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

ジェイムス1世 James I

生没
1566年~1625年
メアリー・スチュアート
アン
エリザベス
チャールズ1世
概要

 ジェイムス1世は、16世紀~17世紀の男性。

年表

1566年6月19日
従弟で旧教徒ダーンリー卿Henry StewartStuart:1545年~1567年)と結婚していた(1565年7月~)メアリー・スチュアート、男子ジェイムス1世を出産(1566年~1625年)。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave

参考文献

 『オーランドー』
 『ルネサンス百科事典』
 『魔女狩り』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『西洋拷問刑罰史』

ジェーム Djem

生没
1459年12月22日~1495年2月25日
出身
エディルネ
没地
カプア
マホメッド2世
概要

 ジェームは、15世紀の男性。

年表

1495年1月28日
シャルル8世と共にローマを出発。
1495年2月25日
カプアにて、病死。

別表記

 ディエム、ジェム、GemGeminCemCemsidZizim

関連項目

 The Borgias: 103, 104, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャウフレ・リュデル Jaufré Rudel

概要

 ジャウフレ・リュデルは、12世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ジャン・ダルマニャック Jean V d'Armagnac

生没
1420年~1473年
ジャン4世・ダルマニャック
イザベル・ド・ナヴァール
概要

 ジャン・ダルマニャックは、15世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc

生没
1412年1月6日~1431年5月30日
概要

 ジャンヌ・ダルクは、15世紀の女性。

年表

1429年5月8日
アルマニャック派の支持によりロワール川以南を領有しフランス王を称するシャルル7世に対し、イングランド王をフランス王位継承者とするトロワの和約にもかかわらずシャルル7世こそ正統なフランス王位継承者だと提言してシャルル7世より小軍を与えられ、この日、オルレアンをイングランドから解放。
1429年7月17日
シャルル7世は、伝統に則りランス大聖堂でフランス王として戴冠式を実現。
1430年5月23日
イングランドと結ぶブルゴーニュ派軍にコンピエーニュで捕らえられてイングランド軍に引き渡され、以後ルーアンに幽閉される。
1431年5月30日
宗教裁判で有罪と宣告され、この日、ルーアンで火刑に処される。しかしこの悲劇を機にフランスのナショナリズム醸成される。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Préz

生没
1440年~1521年
出身
ピカルディ
概要

 ジョスカン・デ・プレは、15世紀~16世紀のフランドルの男性、作曲家。

年表

1440年
この年頃、フランス北部ピカルディに生(1445年頃、1450年頃)。
1494年
この年まで教皇アレクサンデル6世に仕える。ボルジア家の聖俗双方の行事に際しての音楽を受け持つが、さほどの報酬はもらっていなかったらしく、宮廷で粗末な身なりでいることにひどく苦しんだという。
1514年
「ミサ曲集」3巻(1502年)を、ヴェネツィアとフォッソンブローネのO. Petrucciのもとで刊行。

別表記

 Després
 

外部リンク

 ウィキペディア
 Temporum Stirpis Musica

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

ジョン・スチュアート John Stewart

生没
~1482年
ジョン・スチュアート
エリザベス・オブ・レノックス
概要

 ジョン・スチュアートは、15世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』

ジョージ・ヴィリアーズ George Villiers

生没
1592年8月28日~1628年8月23日
ジョージ・ヴィリアーズ
メアリー・ボーモント
概要

 バッキンガム公。ジェイムズ1世の側近として権力を振るったが、1628年暗殺された。

別表記

 ジョージ・ヴィラーズ

外部リンク

 ウィキペディア

ディアヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers

生没
1499年9月3日~1566年4月25日
ルイ・ド・ブレゼ
概要

 ディアヌ・ド・ポワチエは、15世紀~16世紀の女性。

別表記

 ディアーヌ・ド・ポアティエ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『ルネサンス百科事典』

ディエゴ・ロペス・デ・アロー Diego López de Haro

別表記

 ディエゴ・ロペツ・デ・ハロウ、デ・ハーロ

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

トマ・ナダスディ Tamás Nádasdy

生没
1498年~1562年6月2日
出身
エゲルヴァール
没地
エゲルヴァール
ナダーシュディ・フェレンツ1世
オルソルヤ・カニッツァイ
フェレンツ・ナダスディ
概要

 トマ・ナダスディは、15世紀~16世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

トマス・タリス Thomas Tallis

生没
1505年頃~1585年11月23日
概要

 トマス・タリスは、16世紀のイングランド王国の男性、作曲家、オルガン奏者。

年表

1536年頃~1540年
ウォルサム・アビー修道院のオルガン奏者。
1542年
王室礼拝堂のオルガン奏者。
1572年
弟子のウィリアム・バードも王室礼拝堂に着任。

外部リンク

 ウィキペディア

ピエール・テライユ Pierre Terrail

生没
1476年~1524年4月30日
出身
ポンシャラ
没地
ロマニャーノ・セージア
概要

 ピエール・テライユは、15世紀~16世紀の男性。騎士の権化として名高いフランス人。

年表

1476年
ポンシャラのベイヤール城に生。(1473年)
1500年2月
ビナスコガレアッツォ・サンセヴェリーノ配下の騎兵との小競り合いで捕虜となる。
ミラノルドヴィーコ・イル・モーロに会い、剣と馬を返され、リニー伯シャルル・ド・ブルボンにミラノ公が慇懃な紳士だったと話す。
1510年
この頃?、フェッラーラのフランス駐屯地の隊長に任命され、ルクレツィア・ボルジアと知り合う。
フェッラーラ軍と共にフランス軍が要塞を攻略してフェッラーラに凱旋し、ルクレツィア・ボルジアに関して記す。「フェッラーラ公夫人は真っ先にフランス軍を歓迎された。彼女はこの世の真珠である。イタリア式の素晴らしい祭典や宴を毎日のように開く。これ程輝かしい貴婦人は、当代はおろか過去にも稀だと私は言いたい。彼女は美しく善良で気品があり、何人に対しても気さくである。フェッラーラアルフォンソ1世・デステは勇敢で練達の君主であるが、夫人の内助の功がすこぶる大きかったことは、誰もが認めざるを得ない」
1524年4月30日
ロマニャーノ・セージアで死。

別表記

 シュヴァリエ・ドゥ・ベイヤール、バヤール、Pierre Terrail de Bayard

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

フアン・セルヴィロン Juan Cervillon

生没
~1499年12月22日
概要

 フアン・セルヴィロンは、アラゴン家に親しいスペイン人隊長。

性格

 思うところを率直に語ることを恐れない。気丈で勇敢。

年表

1499年
ボルジア家の内情に通暁しており、サンチャ・ダラゴーナの振る舞いを公然と非難し、チェーザレ・ボルジアとの醜聞にも言及したらしい。
1499年12月
ローマを去って、妻子の待つナポリへ帰り、フェデリーコ・ダラゴーナに仕えるようにしたいと、教皇アレクサンデル6世に願い出、不承不承許可される。
1499年12月22日
甥のテゼオ・ピニャテッリのところで夕食を終えた時に、自身は剣を抜く暇もなく、斬り殺される。
1499年12月23日
未明、死体の検分もされず、ボルゴ・ヌオーヴォのサンタ・マリア・イン・トラスポンティーナ教会の墓地に埋葬される。

別表記

 Giovanni

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

フィリベール・ドランジュ Philibert de Chalon

生没
1502年3月18日~1530年8月3日
概要

 フィリベール・ドランジュは、16世紀の男性。

別表記

 オラニエ公フィリベルト、オレンジ公フィリベルト

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの華』

フェレンツ・ナダスディ Ferenc Nádasdy

トマ・ナダスディ
オルソルヤ・カニッツァイ
エリザベート・バートリ
外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

フランシスカ・マルティ Francisca Marti

生没
~1370年頃
出身
ヴァレンシア
没地
ヴァレンシア
ドミンゴ・デ・ボルハ・イ・ドンセル
カリストゥス3世
イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ
カテリーナ・デ・ボルハ
概要

 フランシスカ・マルティは、14世紀頃のスペインの男性。

チェーザレ・ボルジア数

 子イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 Francisca Marti LlançolFrancina

外部リンク

 Famille de Carné
 JDA's Family Tree

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フランソワ1世・ド・ロレーヌ François I de Lorraine

生没
1519年2月17日~1563年2月24日
出身
バル=ル=デュック
クロード1世・ド・ロレーヌ
アントワネット・ド・ブルボン
アンナ・デステ
概要

 フランソワ1世・ド・ロレーヌは、16世紀の男性。

チェーザレ・ボルジア数

 妻アンナ・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 ド・ギーズ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『Lucretia Borgia

ペドロ・カルデロン Pedro Calderon

生没
~1498年2月
没地
ローマ
概要

 ペドロ・カルデロンは、15世紀の男性。

年表

1498年2月
テヴェレ川で溺死。

別表記

 カルデス、イル・ペロット、CaldesPerotto

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界悪女大全』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ペドロ・デ・アタレス Pedro de Atarés

生没
1083年頃~1151年2月21日
出身
ボルハ
ガルシア・サンチェス・デ・アタレス
テレサ・カハル
概要

 ペドロ・デ・アタレスは、11世紀~12世紀のスペインの男性。

外部リンク

 Wikipedia

ペドロ3世 Pedro III

生没
1239年~1285年11月11日
ハイメ1世
ヴィオランテ・デ・ウングリア
アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア
フェデリーコ2世
ヨランダ・ダラゴーナ
ペドロ・デ・アラゴン
概要

 ペドロ3世は、13世紀の男性。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

マルゲリータ・ディ・バヴィエラ Margherita di Baviera

生没
1442年~1479年
アルブレヒト3世
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
概要

 マルゲリータ・ディ・バヴィエラは、14世紀の女性。

別表記

 Margareta von Bayern、マルゲリータ・ディ・ヴィッテルスバハ、マルガレーテ・フォン・ヴィッテルスバッハ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

マンフレディ Manfredi di Hohenstaufen

生没
1232年~1266年2月26日
フリードリヒ2世
概要

 マンフレディは、13世紀の男性。

在位

 シチリア王 1258年~1266年
  次代:カルロ1世・ダンジオ

別表記

 マンフレーディ、マンフレド、Manfredo

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』

ヤーノシュ・ジグモンド János Zsigmond

生没
1540年7月18日~1571年3月14日
サポヤイ・ヤーノシュ
イザベラ
在位

 ハンガリーの対立王 1540年~1570年
 トランシルヴァニア公 1570年~1571年

別表記

 ヤーノシュ・シジスムンド

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ヨランダ・ダラゴーナ Jolanda d'Aragona

生没
1273年~1302年8月
ペドロ3世
コンスタンサ・デ・シシリア
ロベルト・ダンジオ
カルロ・ダンジオ
ルドヴィーコ・ダンジオ
概要

 ヨランダ・ダラゴーナは、13世紀~14世紀の女性。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ラウラ・ド・ノヴ Laura de Noves

生没
1310年~1348年4月6日
出身
アヴィニョン
オーディベール・ド・ノヴ
ユーグ2世・ド・サド
概要

 ラウラ・ド・ノヴは、14世紀頃の女性。フランチェスコ・ペトラルカに詩作の霊感を与えたラウラとは彼女ではないかと言われているが、確証はない。

年表

1325年1月16日
マルキ・ド・サドの先祖ユーグ2世・ド・サドと結婚。
1348年4月6日
死(1347年4月3日)。

別表記

 ラウラ・ド・サド、Laura de Sade

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ローマ教皇検死録』

ラヨシュ1世 Lajos I

生没
1326年3月5日~1382年9月10日
出身
ハンガリー王国ヴィシェグラード
没地
ハンガリー王国トルナヴァ
カーロイ1世
エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ
マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
エリザベタ・コトロマニッチ
カタリン
マーリア
ヤドヴィガ
概要

 ラヨシュ1世は、14世紀の男性。

在位

 ハンガリー王 1342年~1382年
 ポーランド王ルドヴィク1世 1370年~1382年

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界大百科事典』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

リチャード・サックヴィル Richard Sackville

生没
1507年頃~1566年4月21日
概要

 リチャード・サックヴィルは、16世紀頃の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『オーランドー』

ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ Louis II de La Trémoille

生没
1460年9月20日~1525年2月24日
出身
ボミエール
没地
パヴィア
ルイ1世・ド・ラ・トレモイユ
マルグリット・ダンボワーズ
ガブリエル・ド・ブルボン
ルイーズ・ボルジア
シャルル・ド・ラ・トレモイユ
概要

 ルイ2世・ド・ラ・トレモイユは、15世紀~16世紀のフランスの男性、軍人。

戦歴

 道化戦争 国王軍
 サン・トーバン・デュ・コルミエの戦い
 フォルノーヴォの戦い イタリア戦争 フランス
 アニャデッロの戦い イタリア戦争 フランス
 ノヴァーラの戦い カンブレー同盟戦争 フランス 司令官 敗北
 マリニャーノの戦い フランス 勝利
 パヴィアの戦い フランス 戦死

年表

1460年9月20日
ボミエールにて、生(1460年9月29日)。
1484年7月28日
ガブリエル・ド・ブルボンと結婚。
1500年
アスティからモルターラに向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1500年3月23日
ヴェルチェッリ到着。ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ軍と連携。
1517年4月7日

別表記

 ルイ2世・ド・ラ・トレムイユ、ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ、Louis de la Trémouille

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ルネ2世・ド・ロレーヌ René II de Lorraine

生没
1451年5月2日~1508年12月10日
フェリー2世・ド・ヴォーデモン
ヨランド・ダンジュー
概要

 ルネ2世・ド・ロレーヌは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ヴォーデモン伯 1470年~1508年
 ロレーヌ公 1473年~1508年
  先代:ヨランド・ダンジュー
 バル公 1483年~1508年

別表記

 レネ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ロベール・スチュアート・ドオービニイ 
Robert Stuart d'Aubigny

生没
1470年頃~1544年
概要

 ロベール・スチュアート・ドオービニイは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1499年7~8月
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とするルイ12世軍の実質上の指揮者として、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。
1501年6月1日
ルイ12世軍を指揮し、ナポリ攻略のためアルプスを越えてイタリアに侵攻。
1501年6月19日~1501年6月23日
まずイヴ・ダレーグル指揮のルイ12世軍小隊がローマに入り、それに続いて主力部隊を率いてローマに入る。
1501年6月28日
フランス軍を指揮しローマ出発。

別表記

 ドーヴィニ、エベラルド・ディ・オービニィ、ベロルド・ステュアート、Berold Stuart

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アンナ・バートリ Báthory Anna

生没
1539年~1570年
エリザベート・バートリ
概要

 アンナ・バートリは、16世紀の女性。

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

エリザベート・バートリ Báthory Erzsébet

生没
1561年~1614年8月21日
アンナ・バートリ
フェレンツ・ナダスディ
概要

 エリザベート・バートリは、16世紀~17世紀の女性。ハンガリーで1、2の大貴族の娘。自らの美と若さを守るためと信じて、600人余の娘たちを虐殺する。

別表記

 エルジェーベト・バートリ、チェイテの夫人、血の伯爵夫人、Elizabeth Bathori

外部リンク

 ウィキペディア
 IMDb

参考文献

 『世界悪女大全』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』

ステファヌ・バートリ Stefan Batóry

生没
1533年~1586年
概要

 ステファヌ・バートリは、16世紀の男性。

在位

 ポーランド王 1575年12月14日~1586年12月12日

年表

1574年5月30日
シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファヌ・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファヌ・バートリ:在位~1586年))。

別表記

 ステファン・バトーリ、Báthory István

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』

レオノール・デ・カストロ・イ・メロ Leonor de Castro

生没
1512年~1546年3月27日
出身
リスボン
没地
リスボン
アルヴァーロ・デ・カストロ
イザベル・デ・メロ
フランシスコ・デ・ボルハ
カルロス・デ・ボルハ
イザベル・デ・ボルハ
フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ
アルヴァロ・デ・ボルハ
フアナ・デ・ボルハ
フェルナンド・デ・ボルハ
概要

 レオノール・デ・カストロは、16世紀のスペインの女性。

チェーザレ・ボルジア数

 夫フランシスコ・デ・ボルハ→父フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→父フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 エレアノーラ

外部リンク

 Famille de Carné
 Généalogie Online
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

マリーア・フランシスカ・デ・カストロ 
María Francisca de Castro

生没
~1576年
没地
ヴァレンシア
フランシスコ・デ・カストロ
レオノール・デ・カストロ
フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
フェリペ・マヌエル・デ・ボルハ
概要

 マリーア・フランシスカ・デ・カストロは、16世紀頃の女性。

年表

1520年

チェーザレ・ボルジア数

 夫フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→父フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Famille de Carné

参考文献

 『Lucretia Borgia

メアリー・ブーリン Mary Boleyn

生没
1499年頃~1543年7月19日
トマス・ブーリン
概要

 メアリー・ブーリンは、15世紀~16世紀の女性。

外部リンク

 Find A Grave
 Wikipedia

トマス・ブーリン Thomas Boleyn

生没
1477年頃~1539年3月12日
ウィリアム・ブーリン
エリザベス・ハワード
メアリー・ブーリン
アン・ブーリン
概要

 トマス・ブーリンは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 オーモンド伯 1527年~
 初代ウィルトシャ伯 1529年12月8日~

外部リンク

 Find A Grave
 Wikipedia

アン・ブーリン Anne Boleyn

生没
1507年頃~1536年5月19日
トマス・ブーリン
ヘンリー8世
エリザベス1世
概要

 アン・ブーリンは、16世紀の女性。

年表

1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリンやトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世フランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1533年1月25日
この日頃ヘンリー8世は、かねて望んできたアン・ブーリンと秘密裡に結婚。
1533年5月28日
Thomas Crannerヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は完全に合法的な婚姻だと宣言。
1533年6月1日
アン・ブーリンのイングランド王妃戴冠式、ウェストミンスター修道院で行われる。
1533年7月11日
クレメンス7世ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1533年9月7日
アン・ブーリン、女子エリザベス(1533年~1603年:在位1558年~1603年)を出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。
1536年5月2日
幾重もの姦通と近親相姦が証明されたとして、ヘンリー8世により、ロンドン塔に幽閉される。
1536年5月18日
斬首される。

別表記

 アン・ブリン、アン・ブーレン、アンナ・ボレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Find A Grave

参考文献

 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』

マティアス・コルヴィヌス Matthias Corvinus

生没
1443年2月23日~1490年4月6日
フンヤディ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ
概要

 マティアス・コルヴィヌスは、15世紀の男性、ハンガリー王。

在位

 ハンガリー王 1458年~1490年
  先代:ラディスラウス・ポストゥムス
  次代:ウラースロー2世・ヤギェウォ

年表

1443年2月23日
生(1440年)。
1458年1月24日
フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。
1463年7月24日
ピウス2世、対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。
1469年5月3日
ハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、ボヘミア王Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族に推されてボヘミア王と宣言し、Jiřìz Podĕbradに対抗。両者の争い、後者の死まで続く(1469年~1471)。
1471年3月22日
Jiřìz Podĕbrad死(1420年~:在位1458年~)——1471年3月27日ポーランド王Kazimierz IVの長子Władysław、ボヘミア王Vladislav IIとして即位(在位~1516年)。
Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族によりボヘミア王に推され(1469年)て以来Jiřìz Podĕbradと争ってきたハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、以後、Vladislav IIと争いを続ける。
1478年12月7日
Vladislav IIとマティアス・コルヴィヌス、共にボヘミア王であることを認め合う和約をボヘミアのオロモウツで締結。マティアス・コルヴィヌスはモラヴァ、シレジア及びラウジッツを得る。
1485年6月1日
ハンガリー王・ボヘミア王マティアス・コルヴィヌス1477年から繰り返し攻撃してきたウィーンを含むオーストリアの大部分をついに攻略し、ハプスブルク家から奪ってハンガリーに併合。
1490年4月4/6日
マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死(1440/1443年~1490年:ハンガリー王在位1458年~1490年:ボヘミア(共同)王在位1469(1478年)年~1490年)。ボヘミア(共同)王Vladislav IIウラースロー2世・ヤギェウォとしてハンガリー王に即位。
1490年8月29日
マクシミリアン1世、前ハンガリー王マティアス・コルヴィヌスに奪われたオーストリアの領土を奪還。

別表記

 マーチャーシュ、Hunyadi MátyásMátyás I CorvinusMattia

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Genealogy.EU

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

サポヤイ・ヤーノシュ Szapolyai János

生没
1487年2月2日~1540年7月22日
概要

 サポヤイ・ヤーノシュは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1526年11月10日
ハンガリー最大の貴族ザポリア家のサポヤイ・ヤーノシュ(1487年~:ハンガリー王在位1526年~1540年)は、Tokayの国会で大多数の貴族の支持によりハンガリー王に選出される。
1527年9月26日
ハンガリーの貴族の大多数が王としてサポヤイ・ヤーノシュを推戴する中でウィーンの東に接する帯状地帯を支配するに留まっていたフェルディナンドは、Tokayでサポヤイ・ヤーノシュ軍を破る。サポヤイ・ヤーノシュはポーランドに逃げる。
1528年2月24日
サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。
1528年10月23日
サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュはフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。
1529年8月
サポヤイ・ヤーノシュ、ウィーンに向かって進軍するスレイマン1世をモハーチで迎えて会見し、彼よりハンガリー王位のシンボル聖イシトヴァン宝冠などを与えられる。
1533年6月22日
イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。
1540年7月22日
ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ死(1487年~:在位1526年~)。
1541年8月26日
大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。

別表記

 ザポリア、ヤノシュ・ザポヤイ、サーポヤイ=ヤーノシュ、János ZápolyaZápolya János

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコ Alonso Pimentel y Pacheco

生没
1470年頃~1530年
出身
ベナヴェンテ
ロドリゴ・アロンソ・ピメンテル
マリーア・パチェーコ・イ・ポルトカッレロ
イネス・エンリケス・デ・メンドーサ
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラ
マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサ
アントーニオ・アロンソ・ピメンテル・イ・ヴェラスコ
概要

 アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、15世紀~16世紀のスペインの男性。次男。

在位

 ベナヴェンテ公 1499年~

年表

1470年頃
ベナヴェンテにて、生。
14??年
領地を相続する予定ではなかったため、若年時は軍人としてイサベル1世・デ・カスティーリャに仕える。
1497年9月27日
長兄ルイス・ピメンテル、死。
1499年
アロンソ・ピメンテルがベナヴェンテの第5代伯爵、第2代公爵となる。
1???年
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの間にマリーア・ピメンテル・イ・メンドーサが生まれる。
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの結婚が無効となる。イネス・エンリケス・デ・メンドーサは娘マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサと共に実家に帰る。
1501年
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラと結婚。この結婚により、アロンソ・ピメンテルは最も裕福な貴族の1人となる。
1502年
フェリペ1世の城塞に居住。
1504年11月26日
1506年
フェリペ1世フアナ1世・デ・トラスタマラがアロンソ・ピメンテルの邸宅に滞在。
1506年9月
フェルナンド2世・デ・アラゴンが、ナポリへ向かいバルセロナ出発。
1506年
アロンソ・ピメンテルは、メディナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されているチェーザレ・ボルジアを訪問。
1506年9月25日

外部リンク

 世界帝王事典
 Cesar Borgia – – AUT CAESAR AUT NIHIL –
 Genealogy
 Geneanet
 Google Books
 Google Books
 Real Academia de la Historia
 Wikipedia - Ducado de Benavente

アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne

生没
1477年1月25日~1514年1月9日
フランソワ・ド・ブルターニュ
マクシミリアン1世(代理人誓約)
シャルル8世
ルイ12世
クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス
概要

 アンヌ・ド・ブルターニュは、15世紀~16世紀の女性。

在位

 ブルターニュ公 1488年~1514年

年表

1488年9月9日
フランソワ・ド・ブルターニュ死(1435年~:在位1458年~)。娘アンヌ・ド・ブルターニュ(1477年~1514年)、ブルターニュ公領を相続。
1490年12月19日
マクシミリアン1世、ブルターニュ公領を相続した(1488年)アンヌ・ド・ブルターニュと代理人誓約の形で結婚。
1491年12月6日
シャルル8世マクシミリアン1世の抗議にも拘らず、その娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄した上、1490年マクシミリアン1世が代理人誓約の形で結婚した相手のアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行し、ブルターニュ公領を事実上、併合。
しかしシャルル8世、この婚約破棄と結婚へのインノケンティウス8世の特別認可を得ることに難渋。但し、以後、姉アンヌ・ド・フランスの摂政(1483年~1491年)を排し親政を始める。
1499年1月7~8日
ルイ12世ジャンヌ・ド・ヴァロワとの婚姻を解消して故シャルル8世の妃アンヌ・ド・ブルターニュと再婚し、ブルターニュに対する権利を確保。
1514年1月9日
アンヌ・ド・ブルターニュ死。——クロード・ド・フランス、ブルターニュ公領を相続。
1514年5月18日

チェーザレ・ボルジア数

 子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Anne of Brittany

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『The Life of Cesare Borgia

フンヤディ Hunyadi János

生没
1387年頃~1456年
マティアス・コルヴィヌス
概要

 フンヤディは、14~15世紀の男性。

年表

1387年頃
生(1407年頃)。
1443年11月3日
エウゲニウス4世の提唱による対オスマン・トルコ新十字軍、フンヤディ指揮の下、セルビアの旧都Nish (Nis)近郊でオスマン・トルコ軍を撃破。
1444年11月10日
Władysław IIIとフンヤディの指揮するポーランド・ハンガリー連合軍、ドナウ河口近くのヴァルナでオスマン・トルコ軍を攻撃し、敗れる。Władysław IIIは戦死(1424年~:ポーランド王在位1434年~:ハンガリー王在位1440年~)。ポーランドは王空位状態に入る(~1447年)。
1446年6月
ハンガリー議会は、フンヤディをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。
1448年10月17~19日
Murat II指揮のオスマン・トルコ軍、ニコラウス5世の支援を得たフンヤディ指揮のハンガリー軍をセルビアのコソボで大破。
1450年
ハンガリー王摂政フンヤディ、Murat IIと休戦協定を結ぶ。
1456年7月14日~7月21/22日
ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノ(1386年~1456年)らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フンヤディ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。
しかしフンヤディ(1387年頃又は1407年頃~)は1456年8月11日、ジョヴァンニ・カピストラーノは1456年10月23日、それぞれペストで死。
1458年1月24日
故フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス(1440/1443年~1490年)、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。

別表記

 フニャディ

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ラディスラウス・ポストゥムス Ladislaus Postumus

生没
1440年2月22日~1457年11月23日
出身
コマーロム
没地
プラハ
アルブレヒト2世
エリザベート
概要

 ラディスラウス・ポストゥムスは、15世紀の男性。

在位

 ボヘミア王Ladislav 1453年~1457年
 ハンガリー王ラースロー5世(László V) 1445年~1457年
  次代:マティアス・コルヴィヌス

年表

1440年5月15日
故アルブレヒト2世の死後出生子でハンガリー・ボヘミアの王位の正統継承権者ラディスラウス・ポストゥムス(1440年~1457年)、Esztergom大司教よりハンガリー王冠を受ける。
しかしこの時すでに母后エリザベート及びハンガリーの反ハプスブルク系貴族は対オスマン・トルコ防衛のためポーランド王Władysław IIIに王位を継承させることに意を定める。
1440年7月17日
Władysław IIIは、ハンガリーの反ハプスブルク系貴族による親ハプスブルク系貴族を抑えての支持により、ハンガリー王位にも就き、Ulászló Iを名乗る。親ハプスブルク系貴族はラディスラウス・ポストゥムスと共にドイツ王フリードリヒ3世の庇護下に入る。
1445年
ラディスラウス・ポストゥムス、ハンガリー議会によりハンガリー王László Vとして承認される。但し、ラディスラウス・ポストゥムスを庇護下に置く(1440年~)フリードリヒ3世はこれを拒否。
1446年6月
ハンガリー議会は、フンヤディフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。
1451年
Jiřìz PodĕbradGeorg von Podebrad:1420年~)、ボヘミア王位継承権者ラディスラウス・ポストゥムスの摂政となる(在位~1457年)。
1453年10月
ラディスラウス・ポストゥムス、フリードリヒ3世からその庇護を解かれボヘミア王Ladislavとしての冠を受ける(在位1453年~1457年)。
この頃?ラディスラウス・ポストゥムス、ようやくハンガリー王László Vとしても実権を得る。
1457年11月23日
ラディスラウス・ポストゥムス、プラハで死。(1440年~1457年:ハンガリー王László V在位1445年~1457年:ボヘミア王Ladislav在位1453年~1457年)。フリードリヒ3世、両王位の継承を狙う。

別表記

 ラディスラウス遺腹王、Ladislaus V (Posthumus)

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『馬車の文化史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

エル・プレーテ El Prete

概要

 ニッコロ・ダ・コッレッジョに庇護を受ける。イザベッラ・デステの文通相手。

年表

1501年12月29日
ローマにて、マントヴァ候妃イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 ルクレツィア・ボルジアは公式の場の現れはしましたが、少しの間でした。出発の準備に忙しいからです。1501年12月26日サント・ステファノの日、日曜日の夜、私は知らせなく宮殿を訪れました。殿下はご自身の部屋の寝台の脇に腰かけていました。部屋の一角には20人ほどのローマ人女性がア・ラ・ロマネスカという格好をし、頭に布を被っていました。10人ほどの侍女たちもおりました。ヴァレンシア貴族とニッコラという次女が率先して踊り出し、続いてルクレツィア・ボルジアフェッランテ・デステと、極めて優雅に活発に踊りました。金で縁どられた黒ビロードに黒い袖のカモッラを着て、袖口は狭く、袖は肩のところで切込みが入っていて、金糸でできたベールで胸から首が覆われておりました。真珠の首飾りをつけ、緑のネットとルビーで髪を覆っています。毛皮で縁取られた黒いビロードのオーバースカートは彩られ、とても美しいものでした。婚姻時の侍女たちの衣装はまだ準備されてはいません。2、3人の女性が美しかったです。1人は、カタリーナといい、ヴァレンシア出身で、踊りが堪能です。もう1人は、アンジェラ・ランソルといい、魅力的です。本人に告げることなく、私は一番のお気に入りとして彼女を選びました。昨晩(1501年12月28日)、イッポーリト・デステ枢機卿、チェーザレ・ボルジア公爵とフェッランテ・デステが仮面を被って街へ繰り出した後、我々は舞踏が行われているルクレツィア・ボルジアの家に伺いました。ローマの至るところで、朝から晩まで、仮面を被った遊女ばかり目にします。24時以降は戸外に出ることを禁じられているからです。
1502年1月2日
ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。1502年1月1日、ローマの地区の多くがパレードを編成し、お囃子を伴って、それぞれのゴンファロニエーレや長官が13台の山車を率いて、ナヴォーナ広場からヴァティカンへと向かった。初めの山車はヘラクレスの凱旋を表し、他にガイウス・ユリウス・カエサルなど幾人かのローマの英雄たちを示していた。教皇アレクサンデル6世とその客人たちが、窓からその壮観な様子をよく眺められるよう、ヴァティカンの前で止まった。若い2人を祝う詩が読まれ、4時間が過ぎていった。続いて、ヴァティカン宮殿ボルジアの間の鸚鵡の間で喜劇が上演された。次に、モレスカ又はバレエが、インノケンティウス8世の注文によってかけられた美しいタペストリーで壁が飾られている教皇の間で踊られた。傍観者は長椅子や床に好きなように座っていた。短い牧歌の後に、ジョングルール(フランスにおける大道芸人のこと)が女装してタンバリンに合わせてモレスカを踊り、チェーザレ・ボルジアもそれに参加し、その変装にもかかわらず彼と気づかれていた。喇叭が次の劇を知らせ、1本の木が才人の上に現れ、彼は詩を朗誦すると、9本の絹のリボンの先を下に垂らし、木の周りで踊っていた9人の仮面をつけた者に取られた。このモレスカは大いに称賛された。最後に教皇アレクサンデル6世は娘ルクレツィア・ボルジアに舞踊を所望し、彼女はヴァレンシア人の侍女の1人と踊った。それに皆男も女も続いた。

外部リンク

 Internet Archive - Dukes & poets in Ferrara
 Cristo Raul - The History of the Popes, from the close of the Middle Ages.

参考文献

 『Lucretia Borgia

スカンデルベグ Scanderbeg

生没
1404年頃~1468年1月17日
没地
レジャ
ジョン・カストリオティ
ヴォイサヴァ
ドニカ・アリアニティ
概要

 スカンデルベグは、15世紀のアルバニア出身の男性、オスマン・トルコからアルバニアを独立させた国民的英雄。

在位

 アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官 1457年~1468年

年表

1404年頃
生(1403年、1405年)。
1451年4月26日
ドニカ・アリアニティと結婚。
1457年9月2日
アルバニア制圧を目指して襲撃してきたオスマン・トルコ軍に対し、1443年以来アルバニアの民衆を結集してオスマン・トルコの攻撃を退け民衆から英雄視されてきたスカンデルベグ、カリストゥス3世から資金を得て軍を率い、南部Tamoriza (Tomoriza)で勝利を収める。
1457年12月23日
スカンデルベグ、カリストゥス3世より対オスマン・トルコ戦の教皇軍最高指揮官に任命される。
1461年8月上旬
この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、ピウス2世の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。
1467年4月
スカンデルベグ指揮のアルバニア人民衆軍、オスマン・トルコ軍を撃退。しかしトルコ軍、間もなく攻撃を開始。
1468年1月17日
アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官スカンデルベグ、オスマン・トルコ軍のアルバニア攻撃が激化する中、熱病で死(1468年1月19日)。間もなくトルコ軍、アルバニアを蹂躙。

別表記

 スカンデルベッグ、ジェルジ・カストリオティ、SkanderbegGjergj KastriotiGjergy KastriotGiorgio Castriota Scanderbeg

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ガスパール・デ・プロイシタ Gaspár de Pròixita

生没
1476年~1533年
フアン・フランシスコ・デ・プロイシタ
カタリーナ・デル・ミラ
フェルナンド・デ・プロイシタ
ガスパール・デ・プロイシタ
概要

 ガスパール・デ・プロイシタは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 アルメナーラ伯

年表

1491年4月30日
ルクレツィア・ボルジアとの婚姻契約書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。代理人は、父方の従弟ホフレ・ランソル、ヤコポ・セラ、マッテオ・キュシア。父ロドリゴ・ボルジアの費用でヴァレンシアに向かう予定。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚約があるため、契約書のこの日付には疑問が残る。
1492年8月11日
婚約者の父ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。
1492年10月31日
1492年11月5日
この日までには、父フアン・フランシスコ・デ・プロイシタと共にローマに到着しており、アレクサンデル6世から婚約辞退を求められているが、二重婚約に激しく抗議。
1492年11月9日
1492年8月11日のルクレツィア・ボルジアとの婚約延期書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。
「状況が好適となった時に」ルクレツィア・ボルジアとの結婚式を挙げることができるように、向こう1年間は結婚しないこと。
1492年12月9日
マントヴァ大使Fioravante Brognoloがマントヴァ候妃イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「かの貴族ジョヴァンニ・スフォルツァの一件は、まだ落着しておりません。あのスペイン貴族は教皇の姪(ルクレツィア・ボルジアのこと)を諦めていないようです。彼はスペインで多くの支持者を持っており、したがって、教皇はこの事態をなるに任せ、強引に結論を押し付けはしない傾向にあります」
1493年2月2日
慰謝料として3千ドゥカートが支払われる。
1494年
1498年

別表記

 ガスパーレ・ダ・プロチダ、ガスパーレ・ダヴェルサ、Gaspare d'AversaGasparoGaspar de Pròixita y de Vives Boil

外部リンク

 Ajuntament d´Almenara
 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン Georgios Gemistos Plethon

生没
1355年?~1450年?
概要

 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、14世紀~15世紀の男性。

年表

1438年3月4日
ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、トレビゾント生まれの人文主義者・神学者ヨハネス・ベッサリオン(1403年~)、コンスタンティノポリス生まれの哲学者、人文主義者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1355年頃~1450/52年)ら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。4日後コンスタンティノポリス総主教Iosephフェッラーラに到着。東西両教会の合同の討議を行なう(~1439年)。
1439年7月6日
フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。
この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。
1440年
コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。
1450年
この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン、ペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。
この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シジスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。

別表記

 プリソン

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ Madeleine de La Tour d'Auvergne

生没
1501年~1519年4月28日
ジャン・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
ロレンツォ・デ・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス
概要

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュは、16世紀の女性。

年表

1518年1月28日
1518年4月28日
フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。
この結婚によりフランソワ1世メディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。
1518年9月7日
ロレンツォ・デ・メディチと共にフィレンツェ到着。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。
1519年4月13日
1519年4月28日
死。

別表記

 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、マドレーヌ・ド・ラトゥール、マッダレーナ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ハイメ1世 Jaime I

生没
1208年2月2日~1276年7月27日
ペドロ2世
マリーア
概要

 ハイメ1世は、13世紀の男性。

在位

 アラゴン王 1213年~1276年
 バルセロナ伯 1213年~1276年
 ヴァレンシア王 1238年~1276年
 マリョルカ王 1231年~1276年
 モンペリエ領主 1219年~1276年

別表記

 ジャウマ1世、Jaume I

外部リンク

 ウィキペディア
 Google Books

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2018年11月28日