アグネス・フライ Agnes Frey
- 生没
- 1475年~1539年
- 夫
- デューラー
概要
アグネス・フライは、15世紀~16世紀の女性。
外部リンク
参考文献
『ルネッサンス夜話』
アンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency
- 生没
- 1492年3月15日~1567年11月12日
概要
アンヌ・ド・モンモランシーは、15世紀~16世紀の男性。
年表
1536年7月25日
この日頃カール5世、フランソワ1世に反撃すべく大軍を3隊に分け三方からプロヴァンスに入り各地を攻撃させるが、折からの暑さ、フランソワ1世の総督アンヌ・ド・モンモランシー(1493年~1567年)の焦土化作戦による食糧調達の困難化、ペストの発生、などにより進軍に難渋し停滞。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
バルバラ・フォン・ブランデンブルク Barbara von Brandenburg
- 生没
- 1422年9月30日~1481年11月7日
- 父
- ヨハン・フォン・ブランデンブルク
- 母
- バルバラ・フォン・ザクセン=ヴィッテンベルク
- 夫
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 子
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要
バルバラ・フォン・ブランデンブルクは、15世紀の女性。
年表
1478年3月24日
バルバーラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェチーリア・ゴンザーガの死を伝える。
肖像
別表記
ブランデンブルグ、バルバラ・ディ・ブランデンブルゴ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
クリスティーヌ・ド・ロレーヌ Christine de Lorraine
- 生没
- 1565年8月16日~1637年12月19日
- 父
- シャルル2世・ド・ロレーヌ
- 母
- クロード・ド・ヴァロワ
- 夫
- フェルディナンド1世・デ・メディチ
概要
クリスティーヌ・ド・ロレーヌは、16世紀~17世紀の女性。
別表記
マリア・クリスティーナ
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
アンリ・ド・ギーズ Henri de Guise
- 生没
- 1550年1月31日?~1588年12月23日
- 父
- フランソワ・ド・ギーズ
- 母
- アンナ・デステ
概要
アンリ・ド・ギーズは、16世紀の男性。
チェーザレ・ボルジア数
母アンナ・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
イヴ・ダレーグル Yves Tourzel d'Alègre
- 生没
- 1452年頃~1512年
- 父
- ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
- 子
- ヴィヴェロ領主ジャック・トゥルツェル・ダレーグル
概要
イヴ・ダレーグルは、15世紀~16世紀の男性。
年表
1499年11月9日
チェーザレ・ボルジアのもとで槍騎兵3百を指揮し、ミラノ出発。
1500年1月19日
チェーザレ・ボルジアの命により、フォルリンポーポリ制圧。
1500年
ノヴァーラへ向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1501年1月24日
騎兵500でモデナ到着。
1501年6月19日~1501年6月23日
ルイ12世軍は、まずイヴ・ダレーグル指揮の小隊、続いてロベール・スチュアート・ドオービニイの主力部隊の順でローマに入る。
1501年6月28日
ローマ出発。
別表記
イーヴ・トゥルツェル・ダレグル、イヴ・ダレグレ、ディ・アレグリ、イーヴォ・ダレグリ、Ives d'Allégre、Ivo d'Allegre
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ Íñigo López de Mendoza
- 生没
- 1398年8月19日~1458年3月25日
- 出身
- Carrión de los Condes
- 没地
- グアダラハラ
- 子
- ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ
概要
イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサは、14世紀~15世紀の男性、人文主義者、詩人、サンティリャーナ侯爵。
在位
第1代サンティリャーナ侯
年表
1398年
スペインのCarrión de los Condesにて、生。
1458年3月25日
スペイン中部グアダラハラにて、死。
別表記
イニゴ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ウルグ・アリ 'Ulūg 'Alī
- 生没
- 1519年~1587年
- 出身
- カステッラ
概要
ウルグ・アリは、16世紀のオスマン・トルコの男性。
年表
1519年
カステッラにて、生(1520年)。名前は、ジョヴァンニ・ディオニジ・ガレーニ。
1560年6月
ニースの港を襲撃し、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア軍の守備を破り、貴族たちを捕虜にする。
多額の身代金で捕虜を返すことに同意し、マグリット・ド・ヴァロワに目通りする名誉を欲する。
しかし、ウルグ・アリが会ったのは、実際にはマグリット・ド・ヴァロワと偽ったパオラ・コスタである。
1574年8月
オスマン・トルコ水軍を指揮し、1573年10月フェリペ2世軍により奪還されたチュニスを再奪還。以後、オスマン・トルコのチュニス支配続く(~1881年)。
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
エティエンヌ・ド・ヴェスク Étienne de Vesc
- 生没
- 1445年頃~1501年10月6日
概要
エティエンヌ・ド・ヴェスクは、15世紀~16世紀の男性。
別表記
エチエンヌ、ヴェクス
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
エリザベス・ブラント Elizabeth Blount
- 生没
- 1502年頃~1540年
- 父
- ジョン・ブラント
- 母
- キャサリン・パーシャル
- 男
- ヘンリー8世
- 夫
- ギルバート・タルボイズ
エドワード・クリントン - 子
- ヘンリー・フィッツロイ
エリザベス・タルボイズ
ジョージ・タルボイズ
ロバート・タルボイズ
ブリジット・クリントン
キャサリン・クリントン
マーガレット・クリントン
概要
エリザベス・ブラントは、16世紀の女性。ヘンリー8世の愛妾。
年表
1519年6月5日
ヘンリー・フィッツロイを出産。
外部リンク
エルンスト・フォン・ヴェッティン Ernst von Wettin
- 生没
- 1441年3月24日~1486年8月26日
概要
エルンスト・フォン・ヴェッティンは、15世紀の男性。
在位
ザクセン選帝侯 1464年~1486年
年表
1480年3月22日
ブラウンシュヴァイク侯ヴィルヘルム1世とヴィルヘルム・フォン・ヘンネベルクと共に、2百の騎士を伴い、この日ローマに到着。パリオーネ地区の屋敷に宿泊し、教皇シクストゥス4世の歓待を受け、ジローラモ・リアリオからはマリアーナでの狩りが催される。
1480年4月14日
ローマ出発。
外部リンク
参考文献
オルソルヤ・カニッツァイ Kanizsai Orsolya

- 生没
- 1521年頃~1571年
- 夫
- トマ・ナダスディ
- 子
- フェレンツ・ナダスディ
外部リンク
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ Garcilaso de la Vega
- 生没
- 1503年頃~1536年10月13日
- 出身
- トレード
- 没地
- ニース
概要
ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは、16世紀の男性、詩人。
年表
1503年
この年頃、スペイン、マドリード近郊トレードに生。
1536年10月13日
ニースで死(1536年10月14日)。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ゴーティエ・ド・ブリエンヌ Gautier de Brienne

- 生没
- 1304年頃~1356年9月19日
- 父
- ゴーティエ5世・ド・ブリエンヌ
- 母
- ジャンヌ・ド・シャティヨン
概要
ゴーティエ・ド・ブリエンヌは、14世紀の男性。
在位
アテネ公 1311年~1356年
別表記
ヴァルテル・ド・ブリエンヌ、グアルティエーリ・ディ・ブリアンヌ、ブリアンヌ伯ゴーティエ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ジェイムス1世 James I
- 生没
- 1566年~1625年
- 母
- メアリー・スチュアート
- 妻
- アン
- 子
- エリザベス
チャールズ1世
概要
ジェイムス1世は、16世紀~17世紀の男性。
年表
1566年6月19日
従弟で旧教徒ダーンリー卿Henry Stewart(Stuart:1545年~1567年)と結婚していた(1565年7月~)メアリー・スチュアート、男子ジェイムス1世を出産(1566年~1625年)。
外部リンク
参考文献
『オーランドー』
『ルネサンス百科事典』
『魔女狩り』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『西洋拷問刑罰史』
ジェーム Djem

- 生没
- 1459年12月22日~1495年2月25日
- 出身
- エディルネ
- 没地
- カプア
- 父
- マホメッド2世
概要
ジェームは、15世紀の男性。
年表
別表記
ディエム、ジェム、Gem、Gemin、Cem、Cemsid、Zizim
関連項目
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジャウフレ・リュデル Jaufré Rudel

概要
ジャウフレ・リュデルは、12世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ジャン・ダルマニャック Jean V d'Armagnac

- 生没
- 1420年~1473年
- 父
- ジャン4世・ダルマニャック
- 母
- イザベル・ド・ナヴァール
概要
ジャン・ダルマニャックは、15世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arc
- 生没
- 1412年1月6日~1431年5月30日
概要
ジャンヌ・ダルクは、15世紀の女性。
年表
1429年5月8日
アルマニャック派の支持によりロワール川以南を領有しフランス王を称するシャルル7世に対し、イングランド王をフランス王位継承者とするトロワの和約にもかかわらずシャルル7世こそ正統なフランス王位継承者だと提言してシャルル7世より小軍を与えられ、この日、オルレアンをイングランドから解放。
1429年7月17日
シャルル7世は、伝統に則りランス大聖堂でフランス王として戴冠式を実現。
1430年5月23日
イングランドと結ぶブルゴーニュ派軍にコンピエーニュで捕らえられてイングランド軍に引き渡され、以後ルーアンに幽閉される。
1431年5月30日
宗教裁判で有罪と宣告され、この日、ルーアンで火刑に処される。しかしこの悲劇を機にフランスのナショナリズム醸成される。
外部リンク
参考文献
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Préz

- 生没
- 1440年~1521年
- 出身
- ピカルディ
概要
ジョスカン・デ・プレは、15世紀~16世紀のフランドルの男性、作曲家。
年表
1440年
この年頃、フランス北部ピカルディに生(1445年頃、1450年頃)。
1494年
この年まで教皇アレクサンデル6世に仕える。ボルジア家の聖俗双方の行事に際しての音楽を受け持つが、さほどの報酬はもらっていなかったらしく、宮廷で粗末な身なりでいることにひどく苦しんだという。
1514年
「ミサ曲集」3巻(1502年)を、ヴェネツィアとフォッソンブローネのO. Petrucciのもとで刊行。
別表記
Després
外部リンク
ウィキペディア
Temporum Stirpis Musica
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
ジョン・スチュアート John Stewart
- 生没
- ~1482年
- 父
- ジョン・スチュアート
- 母
- エリザベス・オブ・レノックス
概要
ジョン・スチュアートは、15世紀頃の男性。
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
ジョージ・ヴィリアーズ George Villiers

- 生没
- 1592年8月28日~1628年8月23日
- 父
- ジョージ・ヴィリアーズ
- 母
- メアリー・ボーモント
概要
バッキンガム公。ジェイムズ1世の側近として権力を振るったが、1628年暗殺された。
別表記
ジョージ・ヴィラーズ
外部リンク
ディアヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers

- 生没
- 1499年9月3日~1566年4月25日
- 夫
- ルイ・ド・ブレゼ
概要
ディアヌ・ド・ポワチエは、15世紀~16世紀の女性。
別表記
ディアーヌ・ド・ポアティエ
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『メディチ家』
『ルネサンス百科事典』
ディエゴ・ロペス・デ・アロー Diego López de Haro
別表記
ディエゴ・ロペツ・デ・ハロウ、デ・ハーロ
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
トマ・ナダスディ Tamás Nádasdy

- 生没
- 1498年~1562年6月2日
- 出身
- エゲルヴァール
- 没地
- エゲルヴァール
- 父
- ナダーシュディ・フェレンツ1世
- 妻
- オルソルヤ・カニッツァイ
- 子
- フェレンツ・ナダスディ
概要
トマ・ナダスディは、15世紀~16世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
トマス・タリス Thomas Tallis

- 生没
- 1505年頃~1585年11月23日
概要
トマス・タリスは、16世紀のイングランド王国の男性、作曲家、オルガン奏者。
年表
1536年頃~1540年
ウォルサム・アビー修道院のオルガン奏者。
1542年
王室礼拝堂のオルガン奏者。
1572年
弟子のウィリアム・バードも王室礼拝堂に着任。
外部リンク
ピエール・テライユ Pierre Terrail
- 生没
- 1476年~1524年4月30日
- 出身
- ポンシャラ
- 没地
- ロマニャーノ・セージア
概要
ピエール・テライユは、15世紀~16世紀の男性。騎士の権化として名高いフランス人。
年表
1476年
ポンシャラのベイヤール城に生。(1473年)
1500年2月
ビナスコでガレアッツォ・サンセヴェリーノ配下の騎兵との小競り合いで捕虜となる。
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロに会い、剣と馬を返され、リニー伯シャルル・ド・ブルボンにミラノ公が慇懃な紳士だったと話す。
1510年
この頃?、フェッラーラのフランス駐屯地の隊長に任命され、ルクレツィア・ボルジアと知り合う。
フェッラーラ軍と共にフランス軍が要塞を攻略してフェッラーラに凱旋し、ルクレツィア・ボルジアに関して記す。「フェッラーラ公夫人は真っ先にフランス軍を歓迎された。彼女はこの世の真珠である。イタリア式の素晴らしい祭典や宴を毎日のように開く。これ程輝かしい貴婦人は、当代はおろか過去にも稀だと私は言いたい。彼女は美しく善良で気品があり、何人に対しても気さくである。フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステは勇敢で練達の君主であるが、夫人の内助の功がすこぶる大きかったことは、誰もが認めざるを得ない」
1524年4月30日
ロマニャーノ・セージアで死。
別表記
シュヴァリエ・ドゥ・ベイヤール、バヤール、Pierre Terrail de Bayard
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
フアン・セルヴィロン Juan Cervillon
- 生没
- ~1499年12月22日
概要
フアン・セルヴィロンは、アラゴン家に親しいスペイン人隊長。
性格
思うところを率直に語ることを恐れない。気丈で勇敢。
年表
1499年
ボルジア家の内情に通暁しており、サンチャ・ダラゴーナの振る舞いを公然と非難し、チェーザレ・ボルジアとの醜聞にも言及したらしい。
1499年12月
ローマを去って、妻子の待つナポリへ帰り、フェデリーコ・ダラゴーナに仕えるようにしたいと、教皇アレクサンデル6世に願い出、不承不承許可される。
1499年12月22日
甥のテゼオ・ピニャテッリのところで夕食を終えた時に、自身は剣を抜く暇もなく、斬り殺される。
1499年12月23日
未明、死体の検分もされず、ボルゴ・ヌオーヴォのサンタ・マリア・イン・トラスポンティーナ教会の墓地に埋葬される。
別表記
Giovanni
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
フィリベール・ドランジュ Philibert de Chalon
- 生没
- 1502年3月18日~1530年8月3日
概要
フィリベール・ドランジュは、16世紀の男性。
別表記
オラニエ公フィリベルト、オレンジ公フィリベルト
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンスの華』
フェレンツ・ナダスディ Ferenc Nádasdy
- 父
- トマ・ナダスディ
- 母
- オルソルヤ・カニッツァイ
- 妻
- エリザベート・バートリ
外部リンク
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
フランシスカ・マルティ Francisca Marti
- 生没
- ~1370年頃
- 出身
- バレンシア
- 没地
- バレンシア
- 夫
- ドミンゴ・デ・ボルハ・イ・ドンセル
- 子
- カリストゥス3世
イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ
カテリーナ・デ・ボルハ
概要
フランシスカ・マルティは、14世紀頃のスペインの男性。
チェーザレ・ボルジア数
子イサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア
別表記
Francisca Marti Llançol、Francina
外部リンク
Famille de Carné
JDA's Family Tree
参考文献
フランソワ1世・ド・ロレーヌ François I de Lorraine
- 生没
- 1519年2月17日~1563年2月24日
- 出身
- バル=ル=デュック
- 父
- クロード1世・ド・ロレーヌ
- 母
- アントワネット・ド・ブルボン
- 妻
- アンナ・デステ
概要
フランソワ1世・ド・ロレーヌは、16世紀の男性。
チェーザレ・ボルジア数
妻アンナ・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
ド・ギーズ
外部リンク
参考文献
ペドロ・カルデロン Pedro Calderon
- 生没
- ~1498年2月
- 没地
- ローマ
概要
ペドロ・カルデロンは、15世紀の男性。
年表
1498年2月
テヴェレ川で溺死。
別表記
カルデス、イル・ペロット、Caldes、Perotto
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ペドロ・デ・アタレス Pedro de Atarés

- 生没
- 1083年頃~1151年2月21日
- 出身
- ボルハ
- 父
- ガルシア・サンチェス・デ・アタレス
- 母
- テレサ・カハル
概要
ペドロ・デ・アタレスは、11世紀~12世紀のスペインの男性。
外部リンク
ペドロ3世 Pedro III
- 生没
- 1239年~1285年11月11日
- 父
- ハイメ1世
- 母
- ヴィオランテ・デ・ウングリア
- 子
- アルフォンソ3世
ハイメ2世
イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア
フェデリーコ2世
ヨランダ・ダラゴーナ
ペドロ・デ・アラゴン
概要
ペドロ3世は、13世紀の男性。
外部リンク
ウィキペディア
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ Margherita di Baviera
- 生没
- 1442年~1479年
- 父
- アルブレヒト3世
- 夫
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 子
- キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
概要
マルゲリータ・ディ・バヴィエラは、14世紀の女性。
別表記
Margareta von Bayern、マルゲリータ・ディ・ヴィッテルスバハ、マルガレーテ・フォン・ヴィッテルスバッハ
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
マンフレディ Manfredi di Hohenstaufen
- 生没
- 1232年~1266年2月26日
- 父
- フリードリヒ2世
概要
マンフレディは、13世紀の男性。
在位
シチリア王 1258年~1266年
次代:カルロ1世・ダンジオ
別表記
マンフレーディ、マンフレド、Manfredo
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネサンス宮廷大全』
ヤーノシュ・ジグモンド János Zsigmond

- 生没
- 1540年7月18日~1571年3月14日
- 父
- サポヤイ・ヤーノシュ
- 母
- イザベラ
在位
ハンガリーの対立王 1540年~1570年
トランシルヴァニア公 1570年~1571年
別表記
ヤーノシュ・シジスムンド
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
ヨランダ・ダラゴーナ Jolanda d'Aragona
- 生没
- 1273年~1302年8月
- 父
- ペドロ3世
- 母
- コンスタンサ・デ・シシリア
- 夫
- ロベルト・ダンジオ
- 子
- カルロ・ダンジオ
ルドヴィーコ・ダンジオ
概要
ヨランダ・ダラゴーナは、13世紀~14世紀の女性。
外部リンク
ラウラ・ド・ノヴ Laura de Noves

- 生没
- 1310年~1348年4月6日
- 出身
- アヴィニョン
- 父
- オーディベール・ド・ノヴ
- 夫
- ユーグ2世・ド・サド
概要
ラウラ・ド・ノヴは、14世紀頃の女性。フランチェスコ・ペトラルカに詩作の霊感を与えたラウラとは彼女ではないかと言われているが、確証はない。
年表
1325年1月16日
マルキ・ド・サドの先祖ユーグ2世・ド・サドと結婚。
1348年4月6日
死(1347年4月3日)。
別表記
ラウラ・ド・サド、Laura de Sade
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ローマ教皇検死録』
ラヨシュ1世 Lajos I

- 生没
- 1326年3月5日~1382年9月10日
- 出身
- ハンガリー王国ヴィシェグラード
- 没地
- ハンガリー王国トルナヴァ
- 父
- カーロイ1世
- 母
- エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ
- 妻
- マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
エリザベタ・コトロマニッチ - 子
- カタリン
マーリア
ヤドヴィガ
概要
ラヨシュ1世は、14世紀の男性。
在位

ハンガリー王 1342年~1382年
ポーランド王ルドヴィク1世 1370年~1382年
外部リンク
参考文献
『世界大百科事典』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
リチャード・サックヴィル Richard Sackville
- 生没
- 1507年頃~1566年4月21日
概要
リチャード・サックヴィルは、16世紀頃の男性。
外部リンク
参考文献
『オーランドー』
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ Louis II de La Trémoille

- 生没
- 1460年9月20日~1525年2月24日
- 出身
- ボミエール
- 没地
- パヴィア
- 父
- ルイ1世・ド・ラ・トレモイユ
- 母
- マルグリット・ダンボワーズ
- 妻
- ガブリエル・ド・ブルボン
ルイーズ・ボルジア - 子
- シャルル・ド・ラ・トレモイユ
概要
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユは、15世紀~16世紀のフランスの男性、軍人。
戦歴
道化戦争 国王軍
サン・トーバン・デュ・コルミエの戦い
フォルノーヴォの戦い イタリア戦争 フランス
アニャデッロの戦い イタリア戦争 フランス
ノヴァーラの戦い カンブレー同盟戦争 フランス 司令官 敗北
マリニャーノの戦い フランス 勝利
パヴィアの戦い フランス 戦死
年表
1460年9月20日
ボミエールにて、生(1460年9月29日)。
1484年7月28日
ガブリエル・ド・ブルボンと結婚。
1500年
アスティからモルターラに向かう。
1500年3月21日
ノヴァーラ、ミラノ軍に降伏。
1500年3月23日
ヴェルチェッリ到着。ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ軍と連携。
1517年4月7日
ルイーズ・ボルジアと結婚。
別表記
ルイ2世・ド・ラ・トレムイユ、ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ、Louis de la Trémouille
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ルネ2世・ド・ロレーヌ René II de Lorraine
- 生没
- 1451年5月2日~1508年12月10日
- 父
- フェリー2世・ド・ヴォーデモン
- 母
- ヨランド・ダンジュー
概要
ルネ2世・ド・ロレーヌは、15世紀~16世紀の男性。
在位
ヴォーデモン伯 1470年~1508年
ロレーヌ公 1473年~1508年
先代:ヨランド・ダンジュー
バル公 1483年~1508年
別表記
レネ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ロベール・スチュアート・ドオービニイ Robert Stuart d'Aubigny

- 生没
- 1470年頃~1544年
概要
ロベール・スチュアート・ドオービニイは、15世紀~16世紀の男性。
年表
1499年7~8月
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とするルイ12世軍の実質上の指揮者として、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。
1501年6月1日
ルイ12世軍を指揮し、ナポリ攻略のためアルプスを越えてイタリアに侵攻。
1501年6月19日~1501年6月23日
まずイヴ・ダレーグル指揮のルイ12世軍小隊がローマに入り、それに続いて主力部隊を率いてローマに入る。
1501年6月28日
フランス軍を指揮しローマ出発。
別表記
ドーヴィニ、エベラルド・ディ・オービニィ、ベロルド・ステュアート、Berold Stuart
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アンナ・バートリ Báthory Anna
- 生没
- 1539年~1570年
- 子
- エリザベート・バートリ
概要
アンナ・バートリは、16世紀の女性。
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
エリザベート・バートリ Báthory Erzsébet
- 生没
- 1561年~1614年8月21日
- 母
- アンナ・バートリ
- 夫
- フェレンツ・ナダスディ
概要
エリザベート・バートリは、16世紀~17世紀の女性。ハンガリーで1、2の大貴族の娘。自らの美と若さを守るためと信じて、600人余の娘たちを虐殺する。
別表記
エルジェーベト・バートリ、チェイテの夫人、血の伯爵夫人、Elizabeth Bathori
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
ステファヌ・バートリ Stefan Batóry
- 生没
- 1533年~1586年
概要
ステファヌ・バートリは、16世紀の男性。
在位
ポーランド王 1575年12月14日~1586年12月12日
年表
1574年5月30日
シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファヌ・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファヌ・バートリ:在位~1586年))。
別表記
ステファン・バトーリ、Báthory István
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
レオノール・デ・カストロ・イ・メロ Leonor de Castro
- 生没
- 1512年~1546年3月27日
- 出身
- リスボン
- 没地
- リスボン
- 父
- アルヴァーロ・デ・カストロ
- 母
- イザベル・デ・メロ
- 夫
- フランシスコ・デ・ボルハ
- 子
- カルロス・デ・ボルハ
イザベル・デ・ボルハ
フアン・デ・ボルハ・イ・カストロ
アルヴァロ・デ・ボルハ
フアナ・デ・ボルハ
フェルナンド・デ・ボルハ
概要
レオノール・デ・カストロは、16世紀のスペインの女性。
チェーザレ・ボルジア数
夫フランシスコ・デ・ボルハ→父フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→父フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
エレアノーラ
外部リンク
Famille de Carné
Généalogie Online
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
マリーア・フランシスカ・デ・カストロ María Francisca de Castro
- 生没
- ~1576年
- 没地
- バレンシア
- 父
- フランシスコ・デ・カストロ
- 母
- レオノール・デ・カストロ
- 夫
- フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
- 子
- フェリペ・マヌエル・デ・ボルハ
概要
マリーア・フランシスカ・デ・カストロは、16世紀頃の女性。
年表
1520年
チェーザレ・ボルジア数
夫フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス→父フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
外部リンク
参考文献
メアリー・ブーリン Mary Boleyn

- 生没
- 1499年頃~1543年7月19日
- 父
- トマス・ブーリン
概要
メアリー・ブーリンは、15世紀~16世紀の女性。
外部リンク
トマス・ブーリン Thomas Boleyn

- 生没
- 1477年頃~1539年3月12日
- 父
- ウィリアム・ブーリン
- 妻
- エリザベス・ハワード
- 子
- メアリー・ブーリン
アン・ブーリン
概要
トマス・ブーリンは、15世紀~16世紀の男性。
在位
オーモンド伯 1527年~
初代ウィルトシャ伯 1529年12月8日~
外部リンク
アン・ブーリン Anne Boleyn

- 生没
- 1507年頃~1536年5月19日
- 父
- トマス・ブーリン
- 夫
- ヘンリー8世
- 子
- エリザベス1世
概要
アン・ブーリンは、16世紀の女性。
年表
1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリンやトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世とフランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1533年1月25日
この日頃ヘンリー8世は、かねて望んできたアン・ブーリンと秘密裡に結婚。
1533年5月28日
Thomas Cranner、ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は完全に合法的な婚姻だと宣言。
1533年6月1日
アン・ブーリンのイングランド王妃戴冠式、ウェストミンスター修道院で行われる。
1533年7月11日
クレメンス7世、ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1533年9月7日
アン・ブーリン、女子エリザベス(1533年~1603年:在位1558年~1603年)を出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。
1536年5月2日
幾重もの姦通と近親相姦が証明されたとして、ヘンリー8世により、ロンドン塔に幽閉される。
1536年5月18日
斬首される。
別表記
アン・ブリン、アン・ブーレン、アンナ・ボレーナ
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Find A Grave
参考文献
『新世紀ビジュアル大辞典』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『西洋拷問刑罰史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
マティアス・コルヴィヌス Matthias Corvinus
- 生没
- 1443年2月23日~1490年4月6日
- 父
- フンヤディ
- 妻
- ベアトリーチェ・ダラゴーナ
概要
マティアス・コルヴィヌスは、15世紀の男性、ハンガリー王。
在位
ハンガリー王 1458年~1490年
先代:ラディスラウス・ポストゥムス
次代:ウラースロー2世・ヤギェウォ
年表
1443年2月23日
生(1440年)。
1458年1月24日
故フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。
1463年7月24日
ピウス2世、対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。
1469年5月3日
ハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、ボヘミア王Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族に推されてボヘミア王と宣言し、Jiřìz Podĕbradに対抗。両者の争い、後者の死まで続く(1469年~1471)。
1471年3月22日
Jiřìz Podĕbrad死(1420年~:在位1458年~)——1471年3月27日ポーランド王Kazimierz IVの長子Władysław、ボヘミア王Vladislav IIとして即位(在位~1516年)。
Jiřìz Podĕbradに反抗する大領主、カトリック貴族によりボヘミア王に推され(1469年)て以来Jiřìz Podĕbradと争ってきたハンガリー王マティアス・コルヴィヌス、以後、Vladislav IIと争いを続ける。
1478年12月7日
Vladislav IIとマティアス・コルヴィヌス、共にボヘミア王であることを認め合う和約をボヘミアのオロモウツで締結。マティアス・コルヴィヌスはモラヴァ、シレジア及びラウジッツを得る。
1485年6月1日
ハンガリー王・ボヘミア王マティアス・コルヴィヌス1477年から繰り返し攻撃してきたウィーンを含むオーストリアの大部分をついに攻略し、ハプスブルク家から奪ってハンガリーに併合。
1490年4月4/6日
マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死(1440/1443年~1490年:ハンガリー王在位1458年~1490年:ボヘミア(共同)王在位1469(1478年)年~1490年)。ボヘミア(共同)王Vladislav II、ウラースロー2世・ヤギェウォとしてハンガリー王に即位。
1490年8月29日
マクシミリアン1世、前ハンガリー王マティアス・コルヴィヌスに奪われたオーストリアの領土を奪還。
別表記
マーチャーシュ、Hunyadi Mátyás、Mátyás I Corvinus、Mattia
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンス百科事典』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
サポヤイ・ヤーノシュ Szapolyai János
- 生没
- 1487年2月2日~1540年7月22日
概要
サポヤイ・ヤーノシュは、15世紀~16世紀の男性。
年表
1526年11月10日
ハンガリー最大の貴族ザポリア家のサポヤイ・ヤーノシュ(1487年~:ハンガリー王在位1526年~1540年)は、Tokayの国会で大多数の貴族の支持によりハンガリー王に選出される。
1527年9月26日
ハンガリーの貴族の大多数が王としてサポヤイ・ヤーノシュを推戴する中でウィーンの東に接する帯状地帯を支配するに留まっていたフェルディナンドは、Tokayでサポヤイ・ヤーノシュ軍を破る。サポヤイ・ヤーノシュはポーランドに逃げる。
1528年2月24日
サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。
1528年10月23日
サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュはフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。
1529年8月
サポヤイ・ヤーノシュ、ウィーンに向かって進軍するスレイマン1世をモハーチで迎えて会見し、彼よりハンガリー王位のシンボル聖イシトヴァン宝冠などを与えられる。
1533年6月22日
イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。
1540年7月22日
ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ死(1487年~:在位1526年~)。
1541年8月26日
大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。
別表記
ザポリア、ヤノシュ・ザポヤイ、サーポヤイ=ヤーノシュ、János Zápolya、Zápolya János
外部リンク
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコ Alonso Pimentel y Pacheco
- 生没
- 1470年頃~1530年
- 出身
- ベナヴェンテ
- 父
- ロドリゴ・アロンソ・ピメンテル
- 母
- マリーア・パチェーコ・イ・ポルトカッレロ
- 妻
- イネス・エンリケス・デ・メンドーサ
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラ - 子
- マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサ
アントーニオ・アロンソ・ピメンテル・イ・ヴェラスコ
概要
アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、15世紀~16世紀のスペインの男性。次男。
在位
ベナヴェンテ公 1499年~
年表
1470年頃
ベナヴェンテにて、生。
14??年
領地を相続する予定ではなかったため、若年時は軍人としてイサベル1世・デ・カスティーリャに仕える。
1497年9月27日
長兄ルイス・ピメンテル、死。
1499年
アロンソ・ピメンテルがベナヴェンテの第5代伯爵、第2代公爵となる。
1???年
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの間にマリーア・ピメンテル・イ・メンドーサが生まれる。
イネス・エンリケス・デ・メンドーサとの結婚が無効となる。イネス・エンリケス・デ・メンドーサは娘マリーア・ピメンテル・イ・メンドーサと共に実家に帰る。
1501年
アナ・デ・ヴェラスコ・イ・エッレーラと結婚。この結婚により、アロンソ・ピメンテルは最も裕福な貴族の1人となる。
1502年
フェリペ1世の城塞に居住。
1504年11月26日
1506年
フェリペ1世とフアナ1世・デ・トラスタマラがアロンソ・ピメンテルの邸宅に滞在。
1506年9月
フェルナンド2世・デ・アラゴンが、ナポリへ向かいバルセロナ出発。
1506年
アロンソ・ピメンテルは、メディナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されているチェーザレ・ボルジアを訪問。
1506年9月25日
フェリペ1世、死。
外部リンク
世界帝王事典
Cesar Borgia – – AUT CAESAR AUT NIHIL –
Genealogy
Geneanet
Google Books
Google Books
Real Academia de la Historia
Wikipedia - Ducado de Benavente
アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne

- 生没
- 1477年1月25日~1514年1月9日
- 父
- フランソワ・ド・ブルターニュ
- 夫
- マクシミリアン1世(代理人誓約)
シャルル8世
ルイ12世 - 子
- クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス
概要
アンヌ・ド・ブルターニュは、15世紀~16世紀の女性。
在位
ブルターニュ公 1488年~1514年
年表
1488年9月9日
フランソワ・ド・ブルターニュ死(1435年~:在位1458年~)。娘アンヌ・ド・ブルターニュ(1477年~1514年)、ブルターニュ公領を相続。
1490年12月19日
マクシミリアン1世、ブルターニュ公領を相続した(1488年)アンヌ・ド・ブルターニュと代理人誓約の形で結婚。
1491年12月6日
シャルル8世、マクシミリアン1世の抗議にも拘らず、その娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄した上、1490年マクシミリアン1世が代理人誓約の形で結婚した相手のアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行し、ブルターニュ公領を事実上、併合。
しかしシャルル8世、この婚約破棄と結婚へのインノケンティウス8世の特別認可を得ることに難渋。但し、以後、姉アンヌ・ド・フランスの摂政(1483年~1491年)を排し親政を始める。
1499年1月7~8日
ルイ12世妻ジャンヌ・ド・ヴァロワとの婚姻を解消して故シャルル8世の妃アンヌ・ド・ブルターニュと再婚し、ブルターニュに対する権利を確保。
1514年1月9日
アンヌ・ド・ブルターニュ死。——娘クロード・ド・フランス、ブルターニュ公領を相続。
1514年5月18日
ルイ12世と故アンヌ・ド・ブルターニュの娘クロード・ド・フランス、ルイ12世の親族フランソワ・ダングレームと結婚。
チェーザレ・ボルジア数
子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
Anne of Brittany
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『The Life of Cesare Borgia』
フンヤディ Hunyadi János
- 生没
- 1387年頃~1456年
- 子
- マティアス・コルヴィヌス
概要
フンヤディは、14~15世紀の男性。
年表
1387年頃
生(1407年頃)。
1443年11月3日
エウゲニウス4世の提唱による対オスマン・トルコ新十字軍、フンヤディ指揮の下、セルビアの旧都Nish (Nis)近郊でオスマン・トルコ軍を撃破。
1444年11月10日
Władysław IIIとフンヤディの指揮するポーランド・ハンガリー連合軍、ドナウ河口近くのヴァルナでオスマン・トルコ軍を攻撃し、敗れる。Władysław IIIは戦死(1424年~:ポーランド王在位1434年~:ハンガリー王在位1440年~)。ポーランドは王空位状態に入る(~1447年)。
1446年6月
ハンガリー議会は、フンヤディをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。
1448年10月17~19日
Murat II指揮のオスマン・トルコ軍、ニコラウス5世の支援を得たフンヤディ指揮のハンガリー軍をセルビアのコソボで大破。
1450年
ハンガリー王摂政フンヤディ、Murat IIと休戦協定を結ぶ。
1456年7月14日~7月21/22日
ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノ(1386年~1456年)らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フンヤディ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。
しかしフンヤディ(1387年頃又は1407年頃~)は1456年8月11日、ジョヴァンニ・カピストラーノは1456年10月23日、それぞれペストで死。
1458年1月24日
故フンヤディの次男マティアス・コルヴィヌス(1440/1443年~1490年)、ハンガリー議会によりハンガリー王に選出される(在位1458年~1490年)。
別表記
フニャディ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ラディスラウス・ポストゥムス Ladislaus Postumus
- 生没
- 1440年2月22日~1457年11月23日
- 出身
- コマーロム
- 没地
- プラハ
- 父
- アルブレヒト2世
- 母
- エリザベート
概要
ラディスラウス・ポストゥムスは、15世紀の男性。
在位
ボヘミア王Ladislav 1453年~1457年
ハンガリー王ラースロー5世(László V) 1445年~1457年
次代:マティアス・コルヴィヌス
年表
1440年5月15日
故アルブレヒト2世の死後出生子でハンガリー・ボヘミアの王位の正統継承権者ラディスラウス・ポストゥムス(1440年~1457年)、Esztergom大司教よりハンガリー王冠を受ける。
しかしこの時すでに母后エリザベート及びハンガリーの反ハプスブルク系貴族は対オスマン・トルコ防衛のためポーランド王Władysław IIIに王位を継承させることに意を定める。
1440年7月17日
Władysław IIIは、ハンガリーの反ハプスブルク系貴族による親ハプスブルク系貴族を抑えての支持により、ハンガリー王位にも就き、Ulászló Iを名乗る。親ハプスブルク系貴族はラディスラウス・ポストゥムスと共にドイツ王フリードリヒ3世の庇護下に入る。
1445年
ラディスラウス・ポストゥムス、ハンガリー議会によりハンガリー王László Vとして承認される。但し、ラディスラウス・ポストゥムスを庇護下に置く(1440年~)フリードリヒ3世はこれを拒否。
1446年6月
ハンガリー議会は、フンヤディをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。
1451年
Jiřìz Podĕbrad(Georg von Podebrad:1420年~)、ボヘミア王位継承権者ラディスラウス・ポストゥムスの摂政となる(在位~1457年)。
1453年10月
ラディスラウス・ポストゥムス、フリードリヒ3世からその庇護を解かれボヘミア王Ladislavとしての冠を受ける(在位1453年~1457年)。
この頃?ラディスラウス・ポストゥムス、ようやくハンガリー王László Vとしても実権を得る。
1457年11月23日
ラディスラウス・ポストゥムス、プラハで死。(1440年~1457年:ハンガリー王László V在位1445年~1457年:ボヘミア王Ladislav在位1453年~1457年)。フリードリヒ3世、両王位の継承を狙う。
別表記
ラディスラウス遺腹王、Ladislaus V (Posthumus)
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『馬車の文化史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
エル・プレーテ El Prete
概要
ニッコロ・ダ・コッレッジョに庇護を受ける。イザベッラ・デステの文通相手。
年表
1501年12月29日
ローマにて、マントヴァ候妃イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
ルクレツィア・ボルジアは公式の場の現れはしましたが、少しの間でした。出発の準備に忙しいからです。1501年12月26日サント・ステファノの日、日曜日の夜、私は知らせなく宮殿を訪れました。殿下はご自身の部屋の寝台の脇に腰かけていました。部屋の一角には20人ほどのローマ人女性がア・ラ・ロマネスカという格好をし、頭に布を被っていました。10人ほどの侍女たちもおりました。バレンシア貴族とニッコラという次女が率先して踊り出し、続いてルクレツィア・ボルジアがフェッランテ・デステと、極めて優雅に活発に踊りました。金で縁どられた黒ビロードに黒い袖のカモッラを着て、袖口は狭く、袖は肩のところで切込みが入っていて、金糸でできたベールで胸から首が覆われておりました。真珠の首飾りをつけ、緑のネットとルビーで髪を覆っています。毛皮で縁取られた黒いビロードのオーバースカートは彩られ、とても美しいものでした。婚姻時の侍女たちの衣装はまだ準備されてはいません。2、3人の女性が美しかったです。1人は、カタリーナといい、バレンシア出身で、踊りが堪能です。もう1人は、アンジェラ・ランソルといい、魅力的です。本人に告げることなく、私は一番のお気に入りとして彼女を選びました。昨晩(1501年12月28日)、イッポーリト・デステ枢機卿、チェーザレ・ボルジア公爵とフェッランテ・デステが仮面を被って街へ繰り出した後、我々は舞踏が行われているルクレツィア・ボルジアの家に伺いました。ローマの至るところで、朝から晩まで、仮面を被った遊女ばかり目にします。24時以降は戸外に出ることを禁じられているからです。
1502年1月2日
ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。1502年1月1日、ローマの地区の多くがパレードを編成し、お囃子を伴って、それぞれのゴンファロニエーレや長官が13台の山車を率いて、ナヴォーナ広場からヴァティカンへと向かった。初めの山車はヘラクレスの凱旋を表し、他にガイウス・ユリウス・カエサルなど幾人かのローマの英雄たちを示していた。教皇アレクサンデル6世とその客人たちが、窓からその壮観な様子をよく眺められるよう、ヴァティカンの前で止まった。若い2人を祝う詩が読まれ、4時間が過ぎていった。続いて、ヴァティカン宮殿ボルジアの間の鸚鵡の間で喜劇が上演された。次に、モレスカ又はバレエが、インノケンティウス8世の注文によってかけられた美しいタペストリーで壁が飾られている教皇の間で踊られた。傍観者は長椅子や床に好きなように座っていた。短い牧歌の後に、ジョングルール(フランスにおける大道芸人のこと)が女装してタンバリンに合わせてモレスカを踊り、チェーザレ・ボルジアもそれに参加し、その変装にもかかわらず彼と気づかれていた。喇叭が次の劇を知らせ、1本の木が才人の上に現れ、彼は詩を朗誦すると、9本の絹のリボンの先を下に垂らし、木の周りで踊っていた9人の仮面をつけた者に取られた。このモレスカは大いに称賛された。最後に教皇アレクサンデル6世は娘ルクレツィア・ボルジアに舞踊を所望し、彼女はバレンシア人の侍女の1人と踊った。それに皆男も女も続いた。
外部リンク
Internet Archive - Dukes & poets in Ferrara
Cristo Raul - The History of the Popes, from the close of the Middle Ages.
参考文献
スカンデルベグ Scanderbeg
- 生没
- 1404年頃~1468年1月17日
- 没地
- レジャ
- 父
- ジョン・カストリオティ
- 母
- ヴォイサヴァ
- 妻
- ドニカ・アリアニティ
概要
スカンデルベグは、15世紀のアルバニア出身の男性、オスマン・トルコからアルバニアを独立させた国民的英雄。
在位
アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官 1457年~1468年
年表
1404年頃
生(1403年、1405年)。
1451年4月26日
ドニカ・アリアニティと結婚。
1457年9月2日
アルバニア制圧を目指して襲撃してきたオスマン・トルコ軍に対し、1443年以来アルバニアの民衆を結集してオスマン・トルコの攻撃を退け民衆から英雄視されてきたスカンデルベグ、カリストゥス3世から資金を得て軍を率い、南部Tamoriza (Tomoriza)で勝利を収める。
1457年12月23日
スカンデルベグ、カリストゥス3世より対オスマン・トルコ戦の教皇軍最高指揮官に任命される。
1461年8月上旬
この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、ピウス2世の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。
1467年4月
スカンデルベグ指揮のアルバニア人民衆軍、オスマン・トルコ軍を撃退。しかしトルコ軍、間もなく攻撃を開始。
1468年1月17日
アルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官スカンデルベグ、オスマン・トルコ軍のアルバニア攻撃が激化する中、熱病で死(1468年1月19日)。間もなくトルコ軍、アルバニアを蹂躙。
別表記
スカンデルベッグ、ジェルジ・カストリオティ、Skanderbeg、Gjergj Kastrioti、Gjergy Kastriot、Giorgio Castriota Scanderbeg
外部リンク
ウィキペディア
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ガスパール・デ・プロイシタ Gaspár de Pròixita
- 生没
- 1476年~1533年
- 父
- フアン・フランシスコ・デ・プロイシタ
- 妻
- カタリーナ・デル・ミラ
- 子
- フェルナンド・デ・プロイシタ
ガスパール・デ・プロイシタ
概要
ガスパール・デ・プロイシタは、15世紀~16世紀の男性。
在位
アルメナーラ伯
年表
1491年4月30日
ルクレツィア・ボルジアとの婚姻契約書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。代理人は、父方の従弟ホフレ・ランソル、ヤコポ・セラ、マッテオ・キュシア。父ロドリゴ・ボルジアの費用でバレンシアに向かう予定。ケルビ・フアン・デ・サンテーリャスとの婚約があるため、契約書のこの日付には疑問が残る。
1492年8月11日
婚約者の父ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。
1492年10月31日
ジョヴァンニ・スフォルツァがローマに到着。
1492年11月5日
この日までには、父フアン・フランシスコ・デ・プロイシタと共にローマに到着しており、アレクサンデル6世から婚約辞退を求められているが、二重婚約に激しく抗議。
1492年11月9日
1492年8月11日のルクレツィア・ボルジアとの婚約延期書が、カミッロ・ベネイムベネの手で作成される。
「状況が好適となった時に」ルクレツィア・ボルジアとの結婚式を挙げることができるように、向こう1年間は結婚しないこと。
1492年12月9日
マントヴァ大使Fioravante Brognoloがマントヴァ候妃イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「かの貴族ジョヴァンニ・スフォルツァの一件は、まだ落着しておりません。あのスペイン貴族は教皇の姪(ルクレツィア・ボルジアのこと)を諦めていないようです。彼はスペインで多くの支持者を持っており、したがって、教皇はこの事態をなるに任せ、強引に結論を押し付けはしない傾向にあります」
1493年2月2日
慰謝料として3千ドゥカートが支払われる。
1494年
カタリーナ・デル・ミラと結婚。
1498年
ルクレツィア・ボルジアがジョヴァンニ・スフォルツァと離婚したため、再び求婚。
別表記
ガスパーレ・ダ・プロチダ、ガスパーレ・ダヴェルサ、Gaspare d'Aversa、Gasparo、Gaspar de Pròixita y de Vives Boil
外部リンク
Ajuntament d´Almenara
Google Books
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン Georgios Gemistos Plethon
- 生没
- 1355年?~1450年?
概要
ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンは、14世紀~15世紀の男性。
年表
1438年3月4日
ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、トレビゾント生まれの人文主義者・神学者ヨハネス・ベッサリオン(1403年~)、コンスタンティノポリス生まれの哲学者、人文主義者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1355年頃~1450/52年)ら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。4日後コンスタンティノポリス総主教Iosephもフェッラーラに到着。東西両教会の合同の討議を行なう(~1439年)。
1439年7月6日
フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。
この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。
1440年
コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。
1450年
この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン、ペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。
この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シジスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。
別表記
プリソン
外部リンク
参考文献
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス精神の深層』
マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ Madeleine de La Tour d'Auvergne
- 生没
- 1501年~1519年4月28日
- 父
- ジャン・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
- 夫
- ロレンツォ・デ・メディチ
- 子
- カトリーヌ・ド・メディシス
概要
マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュは、16世紀の女性。
年表
1518年1月28日
ロレンツォ・デ・メディチと婚約。
1518年4月28日
フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。
この結婚によりフランソワ1世はメディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。
1518年9月7日
夫ロレンツォ・デ・メディチと共にフィレンツェ到着。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。
1519年4月13日
娘カトリーヌ・ド・メディシスを出産。
1519年4月28日
死。
別表記
マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、マドレーヌ・ド・ラトゥール、マッダレーナ
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ハイメ1世 Jaime I

- 生没
- 1208年2月2日~1276年7月27日
- 父
- ペドロ2世
- 母
- マリーア
概要
ハイメ1世は、13世紀の男性。
在位
アラゴン王 1213年~1276年
バルセロナ伯 1213年~1276年
バレンシア王 1238年~1276年
マリョルカ王 1231年~1276年
モンペリエ領主 1219年~1276年
別表記
ジャウマ1世、Jaume I
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2018年11月28日