バルトロメオ・ボナット Bartolomeo Bonatto
- 生没
- 14??年~1477年4月27日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- マッテオ・ボナット
概要
バルトロメオ・ボナットは、15世紀のイタリアの男性、マントヴァの外交官。
年表
14??年
マントヴァにて、生。
1460年7月
今日ここで洗礼が執り行われたこと以外には、猊下に報告いたすべきことは何もありません。・・・・この町のさる貴族邸で、ロアン閣下(ギヨーム・デストゥトヴィル?)と教皇庁副尚書院長ロドリゴ・ボルジアが代父を勤められたのです。代父の庭園に招かれ、一同はそこへ赴き、名づけ子の娘も一緒に伴いました。大地の生み出すよきもの全てがそこにあり、見事な祝典でした。しかし、聖職者でない者は誰一人そこへ入ることはできませんでした。・・・・そこに入れなかったシエナの男は、各地で経験を積んだ、おどけた人物でしたが、次のように申しました。全く、1年後に生まれる子供たちが、その父親たちのような身なりでこの世に現れるのだったら、全部が僧侶になり、枢機卿になるだろうに。
1477年4月27日
マントヴァにて、死。
サンタンドレア聖堂に埋葬される。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ボンフランチェスコ・アルロッティ Bonfrancesco Arlotti
- 生没
- 1422年~1508年1月7日
- 出身
- レッジョ・エミリア
概要
ボンフランチェスコ・アルロッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、学者、ローマ駐在フェッラーラ大使。
年表
1422年
レッジョ・エミリアにて、生。
14??年
ボローニャで哲学、神学、法学を学び、芸術と医学の博士号を取得。
1450年~1470年
フェッラーラ大学で哲学を教える。
1473年~1490年
エルコーレ1世・デステにより、ローマに大使として派遣される。
1488年4月30日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。教皇インノケンティウス8世はカテリーナ・スフォルツァと彼女の子どもたちを「彼女ら自身のために」チェゼーナに送ることを提案。ミラノ大使たちはこれに対し、カテリーナ・スフォルツァが籠城しており退去するならイーモラであること、教皇が反乱や暗殺を支援すれば他の街もこの例に倣う可能性があることを主張し反論。ミラノ軍がすでに送られていることを知った教皇は、ミラノとの対立を避け派兵せず。
埋葬地
レッジョ・エミリア大聖堂
外部リンク
ドメニコ・ボンシ Domenico Bonsi
- 生没
- 1430年~1501年6月16日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- バルダッサーレ・ボンシ
- 妻
- バルトロメア・ナージ
ルクレツィア・スピネッリ - 子
- ロベルト・ボンシ
アレッサンドラ・ボンシ
概要
ドメニコ・ボンシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1468年
バルトロメア・ナージと結婚(1464年)。
1497年
ルクレツィア・スピネッリと結婚。
1498年2月10/11日
1498年初め教皇庁に派遣した特使ドメニコ・ボンシから、この日頃、アレクサンデル6世との会見の2月8日付報告書簡が届く。この中でドメニコ・ボンシ、アレクサンデル6世はフィレンツェが「良きイタリア人」として反フランス神聖同盟に加盟すればジローラモ・サヴォナローラ破門の撤回を含む一切のことをフィレンツェの望み通りに処置するだろうと報告。
1498年3月3日
フィレンツェの自由と平和の十人委員会は、シニョーリアにも勝って、2月26日付の小勅書への明確な拒絶の意をアレクサンデル6世に伝える書簡を特使ドメニコ・ボンシに送る。
1498年3月7日
アレクサンデル6世、2月26日付の小勅書の指令拒否の回答を伝えたフィレンツェの特使ドメニコ・ボンシに怒りをあらわにし、ジローラモ・サヴォナローラの説教を全面的に禁止しなければフィレンツェでの聖務を禁止すると繰り返す。ジローラモ・サヴォナローラ自身の書簡にはさらに激しい怒りを爆発させる。
1498年3月18日
シニョーリア、この答申に沿った回答をアレクサンデル6世に口頭で伝えるよう特使ドメニコ・ボンシに指令。
1498年4月9日
シニョーリア、プラティカを召集しジローラモ・サヴォナローラ及びジローラモ・サヴォナローラ派が委員の多数を占める機関、自由と平和の十人委員会及び治安八人委員会の取り扱いについて諮問。
プラティカ、満場一致で、諸機関からのジローラモ・サヴォナローラ派の追放とそれによって空席になった委員の新たな選出、及びジローラモ・サヴォナローラ自身の厳密な取調べを答申。
以後、瞬く間に各機関が反ジローラモ・サヴォナローラ派の委員で締められ、サヴォナローラ共和政、終焉(1494年~1498年)。
シニョーリアは、アレクサンデル6世にジローラモ・サヴォナローラの逮捕を報せるよう、特使ドメニコ・ボンシに書簡を送る。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスコ・トランケディーニ Francesco Tranchedini
- 生没
- 1439年頃~1504年
- 父
- ニコデモ・トランケディーニ
- 母
- アッレグレッツァ・モナルディ
- 妻
- カテリーナ・サルヴァーティコ
概要
フランチェスコ・トランケディーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、外交官、詩人。
年表
1471年
カテリーナ・サルヴァーティコと結婚。
1490年
1495年9月4日
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァは「司祭に対し極度な残酷さを用い、それが最も忌まわしいことと思われたが、ゲッティ兄弟の妻たち、3か月と9か月の幼い息子、乳母さえも殺しました。全ロマーニャが天に向かって泣いております。」「ヤコポ・フェオを暗殺した2人の共犯者として、伯爵夫人は捕らえた者を誰でも残酷に処罰しました。」
1496年3月17日
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァの告発に対するジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの反応。したがって、彼女は彼をヤコポ・フェオ暗殺の計画者又は共犯者として疑っていることが判明。
1496年7月26日
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァがジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの敵マルヴェッツィ家に避難先を与えると脅す。
外部リンク
Google Books - Caterina Sforza Volume III
Google Books - The Tigress of Forlì
Treccani
アントーニオ・マレゴンネッレ Antonio Malegonnelle
- 生没
- 1451年~1506年
概要
アントーニオ・マレゴンネッレは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官。
年表
1501年10月
この頃、フィレンツェ共和国は、マクシミリアン1世と協定を結んでミラノに帰ったジョルジュ・ダンボワーズのもとにアントーニオ・マレゴンネッレとベネデット・デ・ネルリを派遣し、フィレンツェの防衛、保護を要請するが、何らの言質も与えられずに終わる。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスコ・グァルテロッティ Francesco Gualterotti
- 生没
- 1456年~1509年
概要
フランチェスコ・グァルテロッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官。
年表
1499年10月12日
アラマンノ・サルヴィアーティ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ロレンツォ・レンツィの3名は、使節としてミラノでルイ12世と折衝し、フィレンツェが彼にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。
1502年7月
ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ルイジ・デッラ・ストゥファの3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。
1506年10月末
ナポリのフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに、ピサ制圧の支持を取り付けるため使節フランチェスコ・グァルテロッティ、ヤコポ・サルヴィアーティを派遣。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ベネデット・カピルーピ Benedetto Capilupi
- 生没
- 1461年~1518年
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ジャンフランチェスコ・カピルーピ
- 母
- アントーニア・フォレンゴ
- 妻
- タッデア・デ・グロッティ
- 子
- ジャンフランチェスコ・カピルーピ
レ-リオ・カピルーピ
アルフォンソ・カピルーピ
フェデリーコ・カピルーピ
カミッロ・カピルーピ
フラヴィア・カピルーピ
ジローラモ・カピルーピ
イッポーリト・カピルーピ
アスカーニオ・カピルーピ
概要
ベネデット・カピルーピは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、マントヴァ侯国の外交官。
年表
1494年7月23日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。
ルイ2世・ドルレアン公がここにおいでになれば喪明けして踊らねばならず、接吻を受けることになるとベアトリーチェ・デステ公妃は仰っています。公はフランス式に全女官と宮廷の婦人全員に接吻なさるでしょうとのことです。道化師のバローネによれば、ポリッセーナ・デステ様に接吻したところで飽きてお止めになるだろう、と。いずれ海豚伯(王位継承者)や他王族がお越しになる時には、殿下もおいでになって接吻を受けてくださいと公妃は仰っています。
外部リンク
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
アントーニオ・ジュスティニアーニ Antonio Giustiniani
- 生没
- 1466年頃~1524年9月25日
- 父
- ポーロ・ジュスティニアーニ
- 妻
- エリザベッタ・ダ・ムーラ
- 子
- フランチェスコ・ジュスティニアーニ
マルコ・ジュスティニアーニ
フェッランディーナ・ジュスティニアーニ
概要
アントーニオ・ジュスティニアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使。
年表
1502年~1505年
1502年6月10日
ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。「20刻頃、ピサのコムーニタからの書簡を携えた使者がチェーザレ・ボルジアのもとに到着。これは、ピサが彼の旗を掲げ、彼を主君と呼んでいることを意味する。」
1502年9月18日
手紙を書く。チェーザレ・ボルジアがローマにいると書いているが、これは誤りである。
1502年9月28日
ボローニャの外交官から、オルシーニは支援を期待していると聞く。
1502年10月2日
手紙を書く。ローマでオルシーニの不在に人々は気づいている。アレクサンデル6世は、ボローニャ攻略はオルシーニがいなくても成し遂げられるだろうと、アントーニオ・ジュスティニアーニに話す。フランス王ルイ12世が教皇がオルシーニ征討を目論んでいると言ったことに対して否定し、フランスに抗議文を送付済みだと言う。前回の合意からオルシーニとの関係は良好だと思っており、チェーザレ・ボルジアは「ボルジアというよりむしろオルシーニだ」と発言。
1502年10月11日
手紙を書く。ローマにてサン・レオ要塞落城の報を聞く。「教皇軍の兵士であるし、教皇の意思に背くことはしたくない」とジューリオ・オルシーニがアレクサンデル6世と協定を結ぶ。
1503年11月6日
ベルヴェデーレ小宮殿に居住しているチェーザレ・ボルジアから呼び出されるが、これを拒絶。
1503年11月11日
ユリウス2世と会見。
1503年11月22~30日
教皇ユリウス2世から繰り返し呼びつけられ、中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃の中止と占領地の教会への返還を求められる。
1503年12月25日
ユリウス2世から中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃に改めて抗議される。
1504年5月
ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。サンタンジェロ城に投獄中のミケーレ・ダ・コレーリアが、ガンディア公フアン・ボルジア、ヴァラーノ家の者たち、アストッレ3世・マンフレディ、オッタヴィオ・マンフレディ兄弟、ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ、ベルナルディーノ・カエターニ、カーリ司教などの殺人で告発される。
下位項目
『Dispacci di Antonio Giustinian – I』
『Dispacci di Antonio Giustinian – II』
別表記
ジュスティニアン、Antonio Giustinian
外部リンク
Google Books
Google Books - Dispacci di Antonio Giustinian
Treccani
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
リチャード・ペイス Richard Pace
- 生没
- 1482頃~1536年6月28日
概要
リチャード・ペイスは、15世紀から16世紀の男性、イングランドの外交官。
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの華』
エットーレ・ベリンジェーリ Ettore Bellingeri
- 生没
- 14??年~15??年
概要
エットーレ・ベリンジェーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フェッラーラ公国の外交官。
年表
別表記
エットレ
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
バルトロメオ・デ・カヴァリエリ Bartolomeo de' Cavalieri
- 生没
- 14??年~15??年
概要
バルトロメオ・デ・カヴァリエリは、15世紀から16世紀の男性、フランス駐在フェッラーラ公国大使。
年表
1501年5月26日
シャロンにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。フランス王ルイ12世がルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの結婚に反対し、代わりにルクレツィア・ボルジアとフェッランテ・デステを結婚させ、ピオンビーノを与えようとしていること。
1501年6月22日
リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ1世・デステが教皇アレクサンデル6世に結婚を認めなければフェッラーラ公国を剥奪すると脅かされていると告げると、ルイ12世はフェッラーラは彼の保護下にありフランスが破滅しない限り無事であると答えた。
1501年7月10日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世が死んだ時、もはや誰と同盟を結べばいいのか分からなくなり、アルフォンソ1世・デステの立場は不確かなものとなろうことから、エルコーレ1世・デステがもし教皇の娘との結婚を認めるなら思慮が足りないと思うだろうと、ルイ12世が言った。
1501年7月14日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1501年7月21日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1501年8月7日
リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
閣下が使者を送られて、20万ドゥカート、賦課金の軽減、フェッラーラ司教叙任権の許可とその枢機卿会議での布告、その他特権を要求したことを、聖下が手紙にお書きになっていたと、昨日教皇アレクサンデル6世の特使が申しておりました。教皇は10万ドゥカートとその他を提示したそうです。教皇がゆくゆくはお与えになるつもりであり、エステ家の利益を増すことによって、どれほど大変気に入られているか示すことになるのですから、閣下は教皇をお信じになるべきです。加えて、閣下に助言を与えるようにイッポーリト・デステ枢機卿へ手紙をお書きくださるようルイ12世陛下にお願い申し上げるように指示されたそうです。閣下に献身的な使用人として申し上げますが、もっとも余計なことではありますが、もしこの結婚が実現されるならば、「多くの約束と少ない履行」という風になされば、後悔されるようなことはありますまい。先の手紙に書きましたが、陛下は閣下と同じように願っておられ、もし結婚を成就するなら閣下ができる限りたくさんの利益を引き出されるだろうし、もし結婚を成就しなければアルフォンソ1世・デステに閣下がお選びになるフランスの淑女を与える用意があると、申されておりました。
1501年8月8日
リヨンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。自身とチェーザレ・ボルジアにとって並々ならぬ利点のある結婚を成立させるために、エルコーレ1世・デステの要求に応じたと、アレクサンデル6世が教皇使節へ書いた。
1503年9月8日
マコンにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアがアレクサンデル6世の死をどう受け止めたか、ルイ12世に聞かれ、分からないと答えると、「この結婚に満足することはないと考えていたよ。ルクレツィア・ボルジアはアルフォンソ1世・デステの本当の妻ではない」と言った。
別表記
Cavalleri、Cavaleri、de Cavaleriis
外部リンク
参考文献
ベルトランド・コスタビリ Beltrando Costabili
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ベルトランド・コスタビリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、ローマ駐在フェッラーラ公国大使。
在位
教会首席書記官
アドリア司教 1508年~1519年
年表
1502年1月6日
ローマの郊外数キロの地点までルクレツィア・ボルジアに同行し、引き返す前にじかに彼女に挨拶をする。
ローマにてフェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ヴァティカン宮殿ボルジアの間の鸚鵡の間でルクレツィア・ボルジアは父教皇アレクサンデル6世に別れを告げた。父と少しの間過ごした後、チェーザレ・ボルジアが入ってきたのと入れ替わりに出ていく時、アレクサンデル6世が大きな声で呼びかけた。元気で過ごし、何か欲しいものがあればいつでも手紙を書きなさい。ローマにいた頃よりも、彼のもとを去った今、もっと多くのことを彼女のためにするだろう、と言った。アレクサンデル6世はルクレツィア・ボルジアの随行員たちが見えなくなるまで、場所を変えながら見送った。
1502年1月7日
ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、教皇庁の役人たちは勅書を作成するだけで5から6千ドゥカートを要求しているだけに、フェッラーラの減税のために、金で払うなら少なくとも20万ドゥカートが要求されただろうと言った。フランスとスペインはチェーザレ・ボルジアに、たった1頭の白馬の支払いの形で、ナポリの減税のために2万ドゥカートの賦課金を納めている。しかし、フェッラーラは全てから免除される。
1502年1月
1502年1月28日のアレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアを誹謗中傷したものをギリシア語からラテン語に訳しヴェネツィアに送ったとして、ヴェネツィア人が逮捕され、処刑されたことについて。アレクサンデル6世はチェーザレ・ボルジアに、ローマは誰もが思うまま話し書く自由な街なのだ。自身もさんざん悪く言われたが一顧だにしていないと1度ならず言って聞かせたと話す。「公は気立てはよいが、侮辱に耐えることを学ばなければならない」と教皇は話すが、それに対しチェーザレ・ボルジアは「ローマに自由に話し書く習慣があろうとも、私としては誹毀文書を書く者にはよい教訓を与えてやるつもりだ」と苛立って反論。
1502年4月1日
ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、アルフォンソ1世・デステが夜はルクレツィア・ボルジアと過ごしていることを聞いて喜び、「日中は好きなところに行けばいい。お若いのだし、そうする権利がある」と言っていた。
1503年8月14日
ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「教皇聖下とチェーザレ・ボルジア閣下が病床に伏されたのは意外のことではない。この宮廷の高官全てが病にかかり苦しんでおり、とりわけ教皇館の人々にそれが著しい。原因は悪い空気である」。
1504年3月7日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。1504年3月6日、毒殺されたジョヴァンニ・ミキエルの執事が死刑に処され、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアの明白な命令の下だったと告白。
1504年10月27日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの状況はそう言われているほど絶望的ではありません。サレルノの枢機卿フアン・デ・ヴェラが、公がスペインに辿り着くまでに出したものである公の家令のハイメ・デ・レクェゼンツからの3番目の速達と、枢機卿たちからスペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンへ送られた手紙をお持ちです。公は強固ではあるが広々としたセビリアの城に1人の召使いと共に幽閉されていると、ハイメ・デ・レクェゼンツは書いております。すぐに8人の召使いが与えられるそうです。ハイメ・デ・レクェゼンツがチェーザレ・ボルジアの自由のためにスペイン王へ嘆願すると、陛下は公を監禁することを命令していなかったが、ゴンザロ・デ・コルドバの彼に対する告訴によりスペインに護送するようには指示したと仰っております。もし真実でないことが分かれば、チェーザレ・ボルジアのための枢機卿の嘆願に従う。しかしながら、女王イサベル1世・デ・カスティーリャが回復するまでは、何もできないとのこと。公の釈放に尽力している、ナヴァーラ王ジャン・ダルブレと女王の大使にも同じ返答をなさり、そのような次第で、ハイメ・デ・レクェゼンツは公がすぐ釈放されることを期待しております。
1507年5月6日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世が、フランシスコ・デ・レモリンスの家の12の櫃、84の包まれたタペストリー、高価なもの、チェーザレ・ボルジアの所有物を押収した。
別表記
Constabili、Beltrame Costabili
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『Memorie per la storia di Ferrara』
『The Life of Cesare Borgia』
ザッカーリア・サッジ Zaccaria Saggi
- 生没
- 14??年~
概要
教養
ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校に学ぶ。
年表
1471年8月21日
クレモーナでルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが公爵だった間、チッコ・シモネッタは公の衝動的な性格に対する非常に優れた盾となっていたという。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。スフォルツェスコ城をガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと共に出発。
サント・ステファノ教会で、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが短剣で刺された時、その暗殺者ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニを払いのけようとした。しかし、D'Adda, "La morte di Galeazzo"によると、彼は恐怖のあまり逃げ出したという。
ミラノでルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの暗殺について。
1477年1月31日(金)
ミラノでルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタがガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの私室に移り住んでいること。
1477年5月26日
ミラノでルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ドナート・デル・コンテの逮捕について。
1478年8月9日
ミラノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ロベルト・サンセヴェリーノがジェノヴァのミラノに対する2度目の反乱に手を貸し、勝利を収めたことについて。
1479年9月7日
ミラノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。信じがたいほどの肥満による、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァの死について。
1479年9月28日
ミラノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ボーナ・ディ・サヴォイアが何の心配もなく生きることしか望んでいなかったことについて。
1479年9月29日
ミラノでマルシリオ・アンドレアージ宛書簡をしたためる。ルドヴィーコ・イル・モーロに朗読されたジョヴァンニ・シモネッタの著作に関して。
別表記
ザッカリーア・サッジ
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
アルベルト・デッラ・ピーニャ Alberto della Pigna
- 生没
- 14??年~15??年
概要
アルベルト・デッラ・ピーニャはヴェネツィア駐在フェッラーラ公国大使。
年表
1498年2月22日
ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアがフアン・ボルジアを殺害したこと。「ガンディア公の死因はその兄枢機卿にあることを再度知りました。・・・・問題の死についてのこの情報は確かな筋から入手したものです」
1498年3月15日
ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアがフアン・ボルジアを殺害したこと。
1504年6月18日
ヴェネツィアにて、エルコーレ1世・デステに手紙を書く。夫フアン・ボルジアをチェーザレ・ボルジアに殺害されたマリーア・エンリケスが、スペイン宮廷にチェーザレ・ボルジアを逮捕するよう訴え出た。
別表記
ジョヴァンニ・アルベルト・デッラ・ピーニャ、Giovanni Alberto della Pigna
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
アントーニオ・コスタビリ Antonio Costabili
- 生没
- 14??年~1527年
概要
アントーニオ・コスタビリは、15世紀から16世紀の男性、ミラノ駐在フェッラーラ公国大使。
在職
フェッラーラ公国執事長 1491年頃~
ミラノ駐在フェッラーラ公国大使 1496年~
年表
1497年1月3日
昼4刻、ルドヴィーコ・イル・モーロによりスフォルツェスコ城の塔の間へ呼び出されると、大臣や他国の外交官も集められており、寝台に横たわるミラノ公から直接ベアトリーチェ・デステの死を知らされる。
夕刻、ミラノにてフェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ベアトリーチェ・デステの死と、悲嘆するルドヴィーコ・イル・モーロの様子を伝える。
1497年4月1日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1497年6月23日
ミラノにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。性的不能を理由に離婚を迫られているジョヴァンニ・スフォルツァに対し、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロは、信頼できる証人の前で男性能力を証明してはどうかと提案。ジョヴァンニ・スフォルツァは拒絶。また、ジョヴァンニ・スフォルツァはローマで囁かれている噂について口にした。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ヴィンチェンツォ・デッラ・スカローナ Vincenzo della Scalona
- 生没
- 14??年~
概要
ヴィンチェンツォ・デッラ・スカローナは、15世紀頃のイタリアの男性、マントヴァ侯国の駐ミラノ外交官。
年表
1460年4月17日
ミラノにて、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ宛を書く。
別表記
Vincenzo Scalona、Vincenzo da Scalona
外部リンク
ジャン・カルロ・スカローナ Gian Carlo Scalona
- 生没
- 14??年~
概要
ジャン・カルロ・スカローナはマントヴァ侯国大使。1495年から1497年までローマ駐在。
性格
見解の表明に極めて慎重。
年表
1496年4月28日
手紙を書く。「ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァは恐らく郷国に、他人の思いの及ばない何かを持っている」。
1496年5月2日
手紙を書く。ジョヴァンニ・スフォルツァが「絶望の内に」再び去り、その妻ルクレツィア・ボルジアを「教皇アレクサンデル6世のマントの中に」残して、自分はもはや2度とローマへは帰らないと仄めかしていった。
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ジャン・ルーチド・カッタネイ Gian Lucido Cattanei
- 生没
- 1462年~1505年
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ジョヴァンニ・カッタネイ
概要
ジャン・ルーチド・カッタネイは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、雄弁家、マントヴァ外交官。アレクサンデル6世治世中のローマを記録する彼の報告書は貴重だが、自身も認めるほどの悪筆のため解読が困難である点が残念である。1499年にイザベッラ・デステに古代の貨幣を提供するだけでなく、「眠れるクピド」の返還の件でグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの仲介者も務めた。フランチェスコ2世・ゴンザーガから1503年に贈られたフェデリーコ2世・ゴンザーガの肖像画は、死後ユリウス2世の手に渡った。
在職
教会首席書記官
年表
14??年
法律を学び、聖職に就くが、若い頃からマントヴァ侯に仕えることを選択。
1485年
ローマに移住。
1487年~1505年
マントヴァの常駐外交官として滞在。時折、不在。実際は外交官というよりも情報提供者。
1492年9月18日
シジスモンド・ゴンザーガの枢機卿への任命を交渉。
フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙を書く。「1ヶ月以上前に全てを送るべきだった」とジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ枢機卿から約束の不履行が指摘された際、「閣下が送ってくださるまで、枢機卿又は教皇の人質として自らを差し出す所存です」と答えました。
1492年
マントヴァから派遣された他の外交官も参加したが、資金不足などのため、ジャン・ルーチド・カッタネイの熱意にもかかわらず、果たされず。
教皇の娘であるルクレツィア・ボルジアの歓心を得ることをフランチェスコ2世・ゴンザーガに勧める。
1492年11月5日
アレクサンデル6世の教皇就任をラテン語の演説で称賛。
1493年7月28日
手紙を書く。
1493年8月3日
手紙を書く。「これが今の真実であり、偽りではありません。」
1493年8月6日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。フアン・ボルジアが、マリーア・エンリケスとの結婚式を祝うためにバルセロナに向かう際、「多くの宝石、金銭、その他の貴重な動産と銀」を持参し、「1年以内に戻るが、これらの貴重品はスペインに残して別の収穫をするつもりだと述べていました。」
1493年9月23日
チェーザレ・ボルジアを枢機卿団に迎えることに消極的な古参の枢機卿たちに対し、教皇は「彼を貶め困らせようとする者たちには、執拗ならば教皇アレクサンデル6世とは誰なのか思い知らせてやろう。そしてローマから逃げ出すまで追い込んでやろうと述べました。実際、教皇が望むだけ何度でもそうするだろうことは今や明白です。」
1493年
パルマのウゴレット出版社から、修辞的作品を幾つか収めた小冊子を出版。バルバラ・フォン・ブランデンブルク、フェデリーコ1世・ゴンザーガ、フランチェスコ・ゴンザーガへ捧げた葬儀の演説、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ即位のための演説、1492年にアレクサンデル6世の前でした演説を収録。
1498年6月7日
手紙を書く。
1498年6月16日
手紙を書く。
1498年7月20日
手紙を書く。アレクサンデル6世は、モンパンシェ伯の未亡人キアラ・ゴンザーガの娘をチェーザレ・ボルジアの妻に望んでいると、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァから聞いた。
1498年8月8日
手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ・ダラゴーナの結婚式で起きた騒動について。2人の司教が殴り合い、アレクサンデル6世も不敬な態度を取る者たちが抜いた「剣の間で」命の危険に晒された。
1498年8月12日
手紙を書く。
1498年8月18日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。今やガンディア公フアン・ボルジアの死と、スペイン王に保護を任せた遺児たちは忘れ去られた。
全てを詳細に記録するために書き留めておきました。チェーザレ・ボルジアは決して聖職者になりたいと思ったことがなく、聖職と司祭枢機卿職を辞す思いに駆られ、僧服では自分の良心や魂を救うことができないと感じた。しかし、どんな立場に就くのか、将来の自己の状態や生き方を完全に確信していない限り、彼が多くの聖職禄を放棄することに何の益もないでしょう。
1498年8月29日
手紙を書く。アレクサンデル6世がフアン・ボルジア殺害犯としてコロンナ家を疑う。アレクサンデル6世はチェーザレ・ボルジアには何でも許し、「闘牛士」としての偉業を喜び称賛した。こういった激しい運動には危険がつきもので、実際何度か落ちて、父親と支持者に不安を引き起こした。しかし、数日の病床生活だけで回復。「偉大なことを成し遂げ、敵を征伐するでしょう。」
1498年8月31日
手紙を書く。チェーザレ・ボルジアは キアラ・ゴンザーガの 娘との結婚計画についてマントヴァ宮廷の支持を得ることを、単なる馬の贈り物よりも重視。 しかし、 キアラ・ゴンザーガの 貴族の威厳と ルドヴィーコ・イル・モーロ への愛情からくる断固たる拒絶は ローマ でも広く知られており、どんな介入も不可能。
1498年10月1日以降
チェーザレ・ボルジアは確かに平服で出発し、公爵としての準備を整えたにもかかわらず、最後の瞬間までヴァレンティーノ枢機卿チェーザレと署名した。これはおそらく物事が彼の望み通りに進まなかった場合、あるいはフランス病で台無しになった顔のせいで、妻に拒否された時の予防策でした。
1499年6月30日
手紙を書く。アレクサンデル6世はホフレ・ボルジアが自分の実子か疑っており、ヴァノッツァ・デイ・カッタネイの夫又は他の男性との浮気を責めたという。
1500年1月15日
毎夜、警官が互いを殺し合う。これは逆の良い手本を示している。なぜなら、彼らはイタリア人に、教皇の死後に何をすべきかを教えているからであり、その際彼らは友人や安全な場所に欠くことになるだろう。
1500年8月19日
ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナは快方に向かっていました。ナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは彼を連れ戻そうと考えていましたが、教皇の寝室近くの塔で負傷した際抑留されたため、容易に動けずにいました。ナポリから送られた医師だけが治療を行い、妻ルクレツィア・ボルジアが食事を窒息させないよう食べさせました。結局、昨晩完復前に亡くなり、自宅でヴァレンティノワ公チェーザレ・ボルジアを殺そうとしたとして、側近のナポリ人たちと女中が逮捕されました。教皇アレクサンデル6世はこの事件の性質やナポリ王、娘の絶望に悩まされています。
1500年9月6日
手紙を書く。「一部の人が言うような作り話ではなく、真実を知るため」の努力を惜しまないと断言。
1501年7月8日
手紙を書く。「ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアはどんなに不満か知れない。他の人々の上に立つ地位も位も与えられず、さらに、自分を人質だと考えているからである・・・・」
1501年12月
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアは1着で2万ドゥカートするドレス、1万に値する帽子を所持している。「ここナポリにて従来2年間に消費されていたよりも多くの金が半年間で準備され売られたと言われています。別に1万ドゥカート、ピエーヴェ・ディ・チェントの城の価値と、フェッラーラの減税の確約を夫にもたらしました。教皇が娘の配下につける馬と臣下は、合計1千になります。もし間に合えばフランス製のも含まれる2百の四輪馬車と共に、彼女を連れていく護衛がやって参ります」
1503年2月21日
手紙を書く。アレクサンデル6世はフアン・ボルジア殺害犯がオルシーニ家であるとルイ12世に明言。フランス王はオルシーニ家を保護下に置こうとしていた。しかし教皇は「初めにオルシーニ家がボルジア家の、次にボルジア家がオルシーニ家の血を流させた。」敵の本拠地が「目前に」あるのは「都合が悪く、誠実」でないと力強く反対した。
1503年8月5日
手紙を書く。「多くの人が病にかかっている。しかし、ペストではない。すぐに治る熱にすぎない」。
1503年10月
教皇ピウス3世により、サン・ピエトロ財産管理者に指名される。
1503年11月10日
ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世の戴冠式は6万ドゥカート掛かったと噂される。
1503年
ユリウス2世により、サン・ピエトロ財産管理者として承認される。
別表記
Giovanni Lucido Cattaneo
埋葬地
外部リンク
Google Books
Google Books
L'Emeroteca Digitale
Treccani
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『Mantova e Urbino: Isabella d'Este ed Elisabetta Gonzaga nelle relazioni famigliari』
ジョルジョ・ブロニョーロ Giorgio Brognolo
- 生没
- 14??年~
概要
ジョルジョ・ブロニョーロはマントヴァ侯国大使。
年表
1494年5月6日(火)
マントヴァ侯妃イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。「ジョヴァンニ・スフォルツァ殿は月曜日か火曜日に3人の婦人を伴って出立されます。3人の婦人は、教皇の命により、8月に戻られるまでペーザロにご滞在されます」
1494年5月15日(木)
1494年11月29日
手紙を書く。「教皇への侮辱ともなる災難が起こりました。一昨日、ヴィテルボにいるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に会うため、カポディモンテの城を出発したアドリアーナ・デル・ミラ、ジューリア・ファルネーゼとジローラマ・ファルネーゼが、少し行ったところでフランス騎兵隊と出くわし、25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれました」。イヴ・ダレーグル「が美しい婦人たちが何者であるかを知ると、3千ドゥカートを身代金として要求しました。誰を捕らえたのかシャルル8世に手紙で報告がいったのですが、王は彼女たちと会うことは拒否されました。ジューリア・ファルネーゼは、好待遇を受けていること、身代金を送って欲しいという内容でローマに手紙を書きました」
外部リンク
参考文献
フィリッポ・サクラモロ Filippo Sacramoro
- 生没
- 14??年~
概要
年表
1474年10月10日
フィレンツェでガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛書簡をしたためる。ピエロ・フェリーチのフィレンツェでの最後の任務に関して。
1477年9月13日
フィレンツェでミラノ公宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコの身が危険であるという警告。
1478年4月27日
フィレンツェでチッコ・シモネッタ宛書簡を2通したためる。パッツィ家の陰謀直後の大混乱の様子。
1478年4月28日
フィレンツェでチッコ・シモネッタ宛書簡をしたためる。パッツィ家の陰謀直後の大混乱の様子。
1478年5月3日
フィレンツェでチッコ・シモネッタ宛書簡をしたためる。アントーニオ・ダ・モンテフェルトロはフィレンツェと戦うためにシエナに呼ばれたらしいこと。
1478年5月12日
フィレンツェでミラノ公宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタはフィレンツェに代わってフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ宛ての書簡の見本を自分で書いてロレンツォ・イル・マニーフィコに送っていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコはそれを一言一句そのまま書き写させると、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの俸給を巡る全ての交渉を即座に中止させるためにローマとウルビーノに送付したこと。
1478年6月25日
フィレンツェでジョヴァンニ・アンジェロ・タレンティと連名でミラノ公宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの足はまだ癒えておらず、独創的な乗馬用椅子を作らせて、怪我をした足を馬の首に回して乗ることができるようにしたことを伝えている。
1481年7月12日
フィレンツェにて、ミラノ公宛に手紙を書く。ジローラモ・リアリオがペルージアに到着。旅程はグッビオ、カーリ、ウルビーノ、チェゼーナなどだと考えられている。
参考文献
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ピエロ・フェリーチ Piero Felici
- 生没
- 14??年~
概要
ピエロ・フェリーチは、15世紀頃のイタリアの男性、ウルビーノ公国書記官、大使。
性格
老練、悪賢い。
年表
1474年10月
フィレンツェ共和国へ使節。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの軍事行動への寄付をロレンツォ・イル・マニーフィコに要求。フィレンツェ共和国はいかなる支払いも拒否。
1477年
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナのもとへ使節。
1478年1月
この頃にはジローラモ・リアリオから教皇庁に呼び出され、ウルビーノ公国ローマ駐在大使アゴスティーノ・スタッコーリと同席していた。
1478年3月27日
ヴァティカン宮殿で会合。出席者はジローラモ・リアリオ、ロレンツォ・ジュスティーニ、ナポリ大使アネッロ・アルカモーネ、ウルビーノ公使アゴスティーノ・スタッコーリ。ピエロ・フェリーチは自ら合意書を作成して出席者全員に署名させ、それをナポリに送ってフェッランテ・ダラゴーナに調印してもらうことにした。
1482年3月7日
シクストゥス4世及びジローラモ・リアリオの邸宅から追い出される。
ローマで面目を潰され、動揺した彼は、屈辱を受けたことをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに伝えた。
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロはその知らせを読んだ途端怒りを爆発させたという。
参考文献
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フィオラモンテ・ブロニョーロ Fioramonte Brognolo
- 生没
- 14??年~1514年12月19日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ローマ
概要
フィオラモンテ・ブロニョーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、マントヴァ公国大使。
別表記
Fioravante
外部リンク
参考文献
ピエルフランチェスコ・トシンギ Pierfrancesco Tosinghi
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ピエルフランチェスコ・トシンギは、フィレンツェ共和国の外交官。
年表
1499年
ピサ戦線におけるコッミッサーリオ。
1500年10月3日頃
ピエルフランチェスコ・トシンギがフランス大使として任命され、10日か12日に着任することが決定。
1502年
十人委員会委員。
1503年6月21日
フィレンツェ共和国宛に手紙を書く。ピサから約3マイルにあるヴェッルカーノ山頂のヴェッルーカ要塞へレオナルド・ダ・ヴィンチが訪問したことを報告。「レオナルド・ダ・ヴィンチ一行がここへいらっしゃり、我々は彼らを案内しました。ヴェッルーカをとても好まれ、趣味に合致したようです。そして、難攻不落にしようと考えているとおっしゃいました。しかし、今は取り掛かることはできません。小さな事業ではない、軽んじられてはならないリブラファッタの方が重要であるからでございます。ヴェッルーカは差し当たり十分な防御を固められるよう修繕しておき、そうしておけば後に完成させることができましょう。」
1505年
フランチェスコ・ペピと共に、ピサ前線への特使。
1507年4月
フィレンツェ共和国、ジェノヴァ平定のためイタリアに侵攻してきたルイ12世のもとに使節ピエルフランチェスコ・トッシンギとジョヴァンニ・リドルフィを派遣。
1507年6月27日
ピサ獲得のため、サヴォーナで会見しているフェルナンド2世・デ・アラゴンとルイ12世のもとに使節ピエルフランチェスコ・トッシンギとジョヴァンニ・リドルフィを派遣。
別表記
ピエルフランチェスコ・トッシンギ、Pier Francesco Tosinghi
外部リンク
Google Books - Machiavelli and Empire
Google Books
JSTOR - La Verruca
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2024年5月3日