——Angelo Poliziano——
アンジェロ・ポリツィアーノ
生没年:1454年7月14日〜1494年
出身:モンテプルチャーノ
没地:フィレンツェ
著作:オルフェオ
   ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩
   詩森
   雑俎
記載日:2006年10月27日以前

概要
 詩人、人文主義者、古典学者、教育者。

年表
 1454年7月14日 シエナ近郊モンテプルチャーノに生。
 1478年4月26日 パッツィ家の陰謀決起:
            シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?〜1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチは殺され(1453年〜)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
            同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
            同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年〜)。
            間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
            自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
            ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
 1478年 アンジェロ・ポリツィアーノDe conuratione pactiana commetarii(パッツィ家の陰謀)においてメディチ家を擁護し、パッツィ家の陰謀・決起を非難。
 1478年 アンジェロ・ポリツィアーノ、『ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩』、ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチが殺害されたため未完に終わる。
 1480年6月 アンジェロ・ポリツィアーノ、演劇Favola d'Orfeo(オルフェウス物語)を執筆。
 1485年 レオン・バッティスタ・アルベルティの遺作De re aedificatoria(建築論)、アンジェロ・ポリツィアーノの序文を付してフィレンツェで初めて刊行され、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈される。
 1489年 アンジェロ・ポリツィアーノ、古典言語100の注釈Miscellaneorum centuria prima(雑録)をフィレンツェで(?)刊行。
 1494年9月28日 フィレンツェで死(1494年9月29日)。

肖像
 洗礼者ヨハネの生涯

本名
 Angiolo Ambrosini

別表記
 アニョーロ・ポリツィアーノ、Angolo PolizianoAngelus Politianus

外部リンク
 ウィキペディア
 紀伊國屋書店
 Treccani.it

参考文献
 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
文筆家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで