Antonio Giustiniani

アントーニオ・ジュスティニアーニ

生没:1466年頃~1524年9月25日
父:ポーロ・ジュスティニアーニ
妻:エリザベッタ・ダ・ムーラ
子:フランチェスコ・ジュスティニアーニ
  マルコ・ジュスティニアーニ
  フェッランディーナ・ジュスティニアーニ

概要

 アントーニオ・ジュスティニアーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使。

年表

1502年~1505年
教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使。
1502年6月10日
ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。「20刻頃、ピサのコムーニタからの書簡を携えた使者がチェーザレ・ボルジアのもとに到着。これは、ピサが彼の旗を掲げ、彼を主君と呼んでいることを意味する。」
1502年9月18日
手紙を書く。チェーザレ・ボルジアローマにいると書いているが、これは誤りである。
1502年9月28日
ボローニャの外交官から、オルシーニは支援を期待していると聞く。
1502年10月2日
手紙を書く。ローマでオルシーニの不在に人々は気づいている。アレクサンデル6世は、ボローニャ攻略はオルシーニがいなくても成し遂げられるだろうと、アントーニオ・ジュスティニアーニに話す。フランス王ルイ12世が教皇がオルシーニ征討を目論んでいると言ったことに対して否定し、フランスに抗議文を送付済みだと言う。前回の合意からオルシーニとの関係は良好だと思っており、チェーザレ・ボルジアは「ボルジアというよりむしろオルシーニだ」と発言。
1502年10月11日
手紙を書く。ローマにてサン・レオ要塞落城の報を聞く。「教皇軍の兵士であるし、教皇の意思に背くことはしたくない」とジューリオ・オルシーニアレクサンデル6世と協定を結ぶ。
1503年11月22~30日
教皇ユリウス2世から繰り返し呼びつけられ、中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃の中止と占領地の教会への返還を求められる。
1503年12月25日
ユリウス2世から中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃に改めて抗議される。
1504年5月
ヴェネツィア共和国政府宛てに手紙を書く。サンタンジェロ城に投獄中のミケーレ・ダ・コレーリアが、ガンディア公フアン・ボルジアヴァラーノ家の者たち、アストッレ3世・マンフレディオッタヴィオ・マンフレディ兄弟、ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナベルナルディーノ・カエターニ、カーリ司教などの殺人で告発される。

下位項目

 『Dispacci di Antonio Giustinian – I
 『Dispacci di Antonio Giustinian – II

別表記

 ジュスティニアン、Antonio Giustinian

外部リンク

 Google Books
 Google Books - Dispacci di Antonio Giustinian
 Treccani

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2006年10月27日以前
外交官
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで