——Antonio Maria Ciocchi del Monte——
アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ
生没:1462年~1533年9月20日
出身:モンテ・サン・サヴィーノ
父:ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテ

概要
 アントーニオ・チョッキ・デル・モンテは、チェーザレ・ボルジアロマーニャ・ロータ長官、ロマーニャ総督を兼任。

年表
1462年
法律家ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテの長男としてモンテ・サン・サヴィーノに、生(1461年)。
14??年
法律を修了後、聖職者となる。
1492年
インノケンティウス8世により、preposituraに任命される。
アレッツォ、モンテプルチアーノ、モンテ・サン・サヴィーノなどの教会から聖職禄を少しずつ蓄え始める。
1493年3月27日
ロータの監査官に就任。
1498年
アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教とローマのロータ長官を約束される。
1502年7月末
枢機卿会議で、チェゼーナを拠点としたチェーザレ・ボルジアの領土のロータ司法・治安機関が設置されることになり、その長官にアントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。
教会首席書記官に任命される。
1502年9月上旬~1502年10月
この頃、チェーザレ・ボルジア、統一的司法組織ロータを設置。その長官に、ロマーニャで人望を集めていた法律家<アントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。さらに行政上の最高権限をも与えられ、ロマーニャ総督に就任。
1502年11月26日
イーモラ到着。パオロ・オルシーニと会う。
1502年11月29日
反乱者を免じる手紙を持ち、再征服地の占有を委任されて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの降伏を話し合うため、パオロ・オルシーニと共に、ウルビーノへ向けイーモラ出発。
1502年12月6日
ウルビーノ到着。
1502年12月8日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが降伏し、アントーニオ・チョッキ・デル・モンテに地位を譲ってウルビーノを去る(1502年12月9日)。
1502年12月
この月中、ウルビーノに滞在。
1503年2月
サン・マリーノ共和国軍を強化。
1503年2月
マイオーロとサン・レオを降伏させる。
1503年7月24日
チェーザレ・ボルジアが前年ロマーニャ全域の統一的支配のため設置したRotaチェゼーナを中心にファーノペーザロリーミニファエンツァフォルリイーモラに開設され、その開設式が長官アントーニオ・チョッキ・デル・モンテの出席のもとチェゼーナで盛大に行われる。
1503年8月4日
アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教に任命される。
1503年11月
チェゼーナにいる。
1504年1月
ユリウス2世により、チェゼーナの行政長官に任命される。

肖像
 アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ枢機卿の肖像

在位
 チッタ・ディ・カステッロ司教 1503年8月4日~1506年2月6日
 枢機卿 1511年3月10日~1533年9月20日

別表記
 アントーニオ・チョッキ・ダル・モンテ、Antonio da Monte San SavinoAntonio dal MonteAntonio di Monte Sansovino

外部リンク
 GCatholic.org
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献
 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日
 2006年10月27日以前
枢機卿
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで