トリノ国立大学図書館 Biblioteca Nazionale Universitaria di Torino
- 所在地
- イタリア共和国ピエモンテ州トリノ県トリノ
概要
トリノ国立大学図書館は、トリノにある建物。
所蔵品
公式サイト
Biblioteca Nazionale Universitaria di Torino
外部リンク
アッカデミア・カッラーラ Accademia Carrara
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県ベルガモ
概要
アッカデミア・カッラーラは、ベルガモにある建物、美術館、美術学校。
所蔵品
別表記
アカデミア・カラーラ美術館、アッカデーミア・カッラーラ
公式サイト
外部リンク
アンブロジアーナ絵画館 Pinacoteca Ambrosiana
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
アンブロジアーナ絵画館は、ミラノにある建物。1618年にフェデリーコ・ボッロメオ枢機卿によって設立。ルクレツィア・ボルジアの髪と手紙(イタリア語7通、スペイン語2通)を所蔵。
所蔵品
公式サイト
Veneranda Biblioteca Ambrosiana
外部リンク
ティチネーゼ門 Porta Ticinese
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
ティチネーゼ門は、ミラノにある門。
別表記
ポルタ・ティチネーゼ
外部リンク
ヌオーヴァ門 Porta Nuova
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
ヌオーヴァ門は、ミラノにある門。
外部リンク
ブレラ絵画館 Pinacoteca di Brera
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
概要
ブレラ絵画館は、ミラノにある建物。
所蔵品
公式サイト
外部リンク
パヴィア修道院 Certosa di Pavia
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州パヴィア県チェルトーザ・ディ・パヴィア
概要
パヴィア修道院は、チェルトーザ・ディ・パヴィアにある建物。
所蔵品
被葬者
イザベッラ・ディ・ヴァロワ
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
別表記
チェルトーザ・ディ・パヴィア
外部リンク
コペルト橋 Ponte Coperto
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州パヴィア県パヴィア
外部リンク
フォンダコ・デイ・トゥルキ Fondaco dei Turchi
- 所在地
- イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア
- 建設
- 1225年頃
- 施主
- ヤコポ・パルミエーリ
概要
フォンダコ・デイ・トゥルキは、ヴェネツィアにある建物。
ヤコポ・パルミエーリの依頼により1225年頃に建てられた。1381年に、ヴェネツィア共和国元老院は、ジェノヴァ共和国と戦ったキオッジャの戦いにおける支援の報謝として、ニッコロ2世・デステに贈与する目的で所有者になった。しかし、海洋国家間の政治的力関係に応じて何度か取得と没収を繰り返されたため、建物のエステ家による所有は断続的であった。
当時の調度品などは残されておらず、現在は自然史博物館になっている。
別表記
Fontego dei Turchi
外部リンク
リアルト橋 Ponte di Rialto
- 所在地
- イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア
概要
リアルト橋は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4本の橋の1本。
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サン・パオロ修道院 Monastero di San Paolo
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州パルマ県パルマ
概要
サン・パオロ修道院は、パルマにある建物。
所蔵品
外部リンク
エステ図書館 Biblioteca Estense
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州モデナ県モデナ
概要
エステ図書館は、モデナにある建物。
所蔵品
外部リンク
カーサ・ロメイ Casa Romei
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
カーサ・ロメイは、フェッラーラにある建物。
ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの息子エルコーレ2世・デステの妻ルネ・ド・フランスの宮殿の前にカーサ・ロメイはある。
こじんまりとした回廊に囲まれた中庭が有名。2階にエステ家の鷲の紋章が見られる。巫女(シビラ)の間がルクレツィア・ボルジアのおこもり場所だったらしい。
別表記
ロメイ家の館
外部リンク
コルティーレ・ドゥカーレ Il Cortile Ducale
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
コルティーレ・ドゥカーレは、フェッラーラにある建物。
備考
アーチ状の入り口の左右の柱の上に、ニッコロ3世・デステとボルソ・デステの像があるが、元の像は1796年に破壊されている。
所蔵品
別表記
市役所、パラッツォ・デル・コルテ、Palazzo Municipale、Palazzo del Cortile
外部リンク
コルプス・ドミニ修道院 Monastero del Corpus Domini
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
コルプス・ドミニ修道院は、フェッラーラにある建物。エステ家の墓所がある。1406年に発足し、1407年から建設が開始され、1419年完成。その後も増築された。火災で焼失し、再建されたが、縮小された。
聖歌隊の部屋 Sala del Coro
エステ家の納骨堂。礼拝堂の祭壇と背中合わせになっていて、祭壇の裏が納骨堂の正面になる。
エステ家の墓 Tombe casata degli Estensi
ニッコロ3世・デステ、レオネッロ・デステ、リッチャルダ・デル・ヴァスト、エルコーレ1世・デステ、シジスモンド・デステ、フェッランテ・デステ、ジューリオ・デステの墓石。フェッラーラのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会がなくなったので遺骸がここに移設された。
エステ家の墓 Tombe casata degli Estensi
エレオノーラ・ダラゴーナ、ルクレツィア・ボルジア、アルフォンソ1世・デステの墓石。
エルコーレ2世・デステの墓
ルクレツィア・デ・メディチの墓
エレオノーラ・デステの墓
被葬者
ニッコロ3世・デステ
レオネッロ・デステ
リッチャルダ・デル・ヴァスト
エレオノーラ・ダラゴーナ
エルコーレ1世・デステ
シジスモンド・デステ
ルクレツィア・ボルジア
アルフォンソ1世・デステ
フェッランテ・デステ
エルコーレ2世・デステ
ジューリオ・デステ
ルクレツィア・デ・メディチ
エレオノーラ・デステ
アルフォンソ2世・デステ
外部リンク
フェッラーラ大聖堂 La Cattedrale di Ferrara
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
フェッラーラ大聖堂は、フェッラーラの中心にある、上部がゴシック様式、下部がロマネスク様式で建設された建物。
聖ゲオルギウスの聖遺物がもたらされ、これを奉じた大聖堂であり、1135年頃建立される。
大理石によって表面が覆われ、開廊の中央上部には「最後の審判」の見事な彫刻が施されている。そして、トレント・トリエステ広場に面した大聖堂の右側には、レオン・バッティスタ・アルベルティの作品と思われる、ルネサンス様式の鐘楼が聳え立つ。
正門
ロマネスク様式の彫刻の傑作。12世紀前半にイタリア北部で活躍したニッコロという芸術家によるもので、上部には聖ゲオルギウスと新約聖書の場面が、両側の縦枠にはイエス・キリストの到来を予告した4人の預言者エゼキエル、エレミア、ダニエル、イザヤが彫られており、手にした巻物で見る者に直接語り掛ける。
イザヤ書には第7章14節「Ecce virgo concipiet et pariet filium et vocabitur [nomen eius Emmanuel]」が刻まれており、これは初期のキリスト教以来イエス・キリストの処女降誕を予言するものとして解釈されてきた。
所蔵品 付属美術館
外部リンク
ベルフィオーレの別荘 Delizia di Belfiore
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
ベルフィオーレの別荘は、フェッラーラにある建物。
別表記
ヴィッラ・ベルフィオーレ
外部リンク
Delizia Verginese
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県フェッラーラ
概要
Delizia Vergineseは、フェッラーラにある建物。
外部リンク
ヴァスチェッロのメディチ邸 Villa Medici del Vascello
- 所在地
- イタリア共和国ロンバルディア州クレモーナ県サン・ジョヴァンニ・イン・クローチェ
外部リンク
ベルリグアルドの別荘 Delizia di Belriguardo
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フェッラーラ県ヴォギエーラ
- 建設
- 1435年
概要
ベルリグアルドの別荘は、エステ家の夏の離宮である。ニッコロ3世・デステ時代の1435年に建設された。
夏の6か月間、エステ全宮廷がフェッラーラから移ってきており、つまり半年間はここで政治が行われていたのである。
1682年建設のベルサイユ宮殿がよく引き合いに出されるほど見事な宮殿であり、1493年5月25日に訪れたルドヴィーコ・イル・モーロが妻への手紙で絶賛している。しかし、1598年にエステ家がフェッラーラから追放されてモデナに移る際に、この館の調度品一切は持ち出され、16世紀の巨匠によってフレスコ画が描かれた部屋は馬小屋や納屋などにされてしまい、荒れ果てた朽ち屋となってしまう。
正門 Ingresso principale
ここで有名なのは、1505年11月1日にイッポーリト・デステが義兄のジューリオ・デステを襲撃した事件だろう。悲劇は正面入り口向かって右手、フェッラーラ方面の50m先で起きたという。アンジェラ・ボルジアとの三角関係のもつれから、果ては兄アルフォンソ1世・デステまでを巻き込むエステ家お家騒動の発端ともなる事件でもあった。
庭から正門
ベルリグアルドの別荘には中庭が2つあり、これは最初の中庭から正面入り口を見たところ。
6月21日頃にここから日の出が見えるそうだ。そして反対側の庭に面している門からは12月頃には日没が見えるらしい。
状態から察するに右側は当時のものだが、左側は後から付け加えられたものらしく、しかもボロボロである。
Wikimedia Commonsを見ると、Torre(塔)に分類される模様。
ベルリグアルド市民博物館 Museo civico di Belriguardo
ベルリグアルドの別荘は博物館を内包しており、この地域からの考古学的発見や、ルネサンスと現代美術を展示している。
葡萄の間 Sala della Vigna
葡萄の間は当時食堂、昼食室だったらしく、現在はここだけが当時の面影を残している場所となっている。内部装飾はジローラモ・ダ・カルピ、ドッソ・ドッシ、バッティスタ・ドッシ兄弟、ガロファロの4人が行っている。遠近法を駆使した架空の風景、そしてその上には葡萄棚の描かれた情景が今でもかなり美しく残っている。
もしこのベルリグアルドの離宮が状態よく、調度品なども残され、庭も破壊されていなかったら、ヴォギエーラの一大観光地になっていただろうことは想像に難くない。ルドヴィーコ・イル・モーロが自分の城よりも素晴らしいと絶賛した宮殿の大部分が失われてしまったことが本当に悔やまれる。
ルネサンス時代の平面図
赤く囲ってあるところが現存部分。後ろの広大な土地は全て庭園で、エステのヴェルサイユと渾名されるのも納得できよう。四方八方から水が引かれていて、その様相はさながらティヴォリのヴィッラ・デステのようである。
別表記
ヴィッラ・ベルレグアルド、ベルリガルダ、Belriguarda
外部リンク
ボローニャ大学 Università di Bologna
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州ボローニャ県ボローニャ
概要
ボローニャ大学は、ボローニャにある建物。1088年に欧州では最初に創立され、現在も運営されている世界最古の大学である。
卒業生
ダンテ・アリギエーリ
フランチェスコ・ペトラルカ
ドメニコ・カプラーニカ
ニコラウス5世
ドメニコ・マルテッリ
レオン・バッティスタ・アルベルティ
リュイス・ジョアン・デル・ミラ
アレクサンデル6世
ジョヴァンニ・ピコ
ニコラウス・コペルニクス
アンドレア・アルチアーティ
グレゴリウス13世
エルコーレ・ゴンザーガ
カルロ・ボッロメオ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
レジナルド・ポール
スタニスワフ・ホジュシュ
教授
コルッチョ・サルターティ
ピエトロ・ポンポナッツィ
ジローラモ・カルダーノ
グレゴリウス13世
外部リンク
ファエンツァ絵画館 Pinacoteca Comunale di Faenza
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州ラヴェンナ県ファエンツァ
概要
ファエンツァ絵画館は、ファエンツァにある建物。
所蔵品
公式サイト
外部リンク
サン・メルクリアーレ修道院 Abbazia di San Mercuriale
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フォルリ・チェゼーナ県フォルリ
概要
サン・メルクリアーレ修道院は、フォルリにある建物。
1500年1月23日、出発前のチェーザレ・ボルジアがここでフォルリのアンツィアーニから忠誠の誓いを受けた。
バルダッサーレ・カッラーリ作 聖母の戴冠 1512年
所蔵品
外部リンク
スキアヴォーニア門 Porta Schiavonia
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フォルリ・チェゼーナ県フォルリ
概要
スキアヴォーニア門は、フォルリにある建物。モントーネ川を交差するエミリア通りに沿って、市の北入口に位置する。現存する門は1743年に再建されたものであるが、塔の跡が隣接している。フォルリの城郭にはかつてピエトロ門、ラヴァルディーノ門、コトーニ門が存在していたが、スキアヴォーニア門だけが唯一残った。
外部リンク
フォルリ市の塔 Torre civica di Forlì
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フォルリ・チェゼーナ県フォルリ
概要
フォルリ市の塔は、フォルリにある建物。ローマ時代にモントーネ川の土手に建っていた跡地にあり、基礎部分にはローマ時代やそれ以降のものが残存している。塔は時を経るにつれてだんだんと増築され、9~10世紀頃にはフォルリの象徴的建造物となる。時計は14世紀に付けられたことが複数の資料によって証明されている。
塔の機能はそれ故、時代を下るにつれて変化している。監視塔かつ防塁から、時計塔、緊急事態を知らせる鐘楼であり、牢獄でもあった。中世年代記によればこの塔の姿は恐怖を呼び起こしたという。実際、表向きには時計塔としての役割を担っていたわけだが、斬首された首を吊られることが度々あり、それは町の隅からでも視認された。
1466年にフランチェスコ4世・オルデラッフィが地下牢に投獄されて、ここで死亡している。1495年にジャナントーニオ・ゲッティらヤコポ・フェオの暗殺者たちの胴体は都市城壁の外に吊られ、塔には首が吊られ、この首は1497年2月17日まで嵐で落下してしまうまで放置されていた。
1818年
1818年のアンドレア・ゾーリによる設計図。右が以前の姿。
1944年
1944年11月9日、ナチスによって破壊される。現在の塔は1975年から1976年に建設されたものである。
外部リンク
フォルリ市立絵画館 Pinacoteca Civica di Forlì
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州フォルリ・チェゼーナ県フォルリ
概要
フォルリ市立絵画館は、フォルリにある建物。
所蔵品
外部リンク
テンピオ・マラスティアーノ Tempio Malatestiano
- 所在地
- イタリア共和国エミリア・ロマーニャ州リーミニ県リーミニ
概要
テンピオ・マラスティアーノは、リーミニにある建物。
Cappella degli Antenati
所蔵品
外部リンク
カファッジョーロのメディチ家別荘 Villa Medicea di Cafaggiolo
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県バルベリーノ・ディ・ムジェッロ
概要
カファッジョーロのメディチ家別荘は、バルベリーノ・ディ・ムジェッロにある建物。
別表記
カッファジャーロの別荘、カファジュオーロ
外部リンク
ヴァザーリの通廊 Corridoio Vasariano
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 設計
- ジョルジョ・ヴァザーリ
概要
ヴァザーリの通廊は、フィレンツェにある建物。
コジモ1世・デ・メディチがヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ宮殿、ピッティ宮殿を繋ぐために、ジョルジョ・ヴァザーリに作らせたもの。1565年の春から秋までのたった5ヶ月で完成。1565年12月に行われるフランチェスコ1世・デ・メディチとジョヴァンナ・ダズブルゴとの結婚式に間に合うように計画された。この空中回廊は、君主の政治を執り行う場所とその住居とを、安全に往来できるように作られた。さらに橋の上に店を出していた肉屋、八百屋、魚屋などを、現在のレプッブリカ広場にあった、メルカート・ヴェッキオへ移転させ、金銀細工の商店街にしたのもこの時。全長約1キロメートル。
所蔵品
外部リンク
Google Maps
The Museums of Florence
Wikipedia
参考文献
『メディチ家』
『ルネサンス宮廷大全』
捨て子養育院 Spedale degli Innocenti
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 設計
- フィリッポ・ブルネッレスキ
- 建設
- 1419年
概要
捨て子養育院は、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に面する回廊を持った建物。中の回廊は静かな空間で、柱の上にアンドレア・デッラ・ロッビアによる彩色陶板でできた子供のメダイオンが飾られている。隅には子供を捨てるための受付台があり、今もその跡が残っている。
受胎告知
- 作者
- アンドレア・デッラ・ロッビア
- 制作
- 1490年頃
- 媒材
- 彩色陶板
美術館
捨て子養育院の建物の中には小さな美術館がある。捨て子の衣装につけられていたリボンや半分に割ったメダルなども展示されている。やむを得ず我が子を捨てることになった母親が、将来再会する時の目印として捨て子たちにつけたものである。
所蔵品
別表記
捨子養育院、孤児養育院
外部リンク
ダンテの家 Casa di Dante
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
ダンテの家は、フィレンツェにある建物。ダンテ・アリギエーリのゆかりの品々を展示する博物館で、生家ではない。
外部リンク
トラットリア・デル・ペンネッロ Trattoria del Pennello
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
トラットリア・デル・ペンネッロは、フィレンツェのダンテの家の近くにある建物、レストラン。フィレンツェから追放処分後に破壊されて建物は現存していないが、ここがダンテ・アリギエーリ誕生の地であると言われている。
外部リンク
ブォナッロティ邸 Casa Buonarroti
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
ブォナッロティ邸は、フィレンツェにある建物。
ミケランジェロが、甥レオナルド・ブォナッロティと共に、1516年から1525年にかけてここに居住していた。
その後子孫たちが建物を建て直し、ミケランジェロのデッサンや模型などを収集して1859年に博物館として開館した。
所蔵品
公式サイト
外部リンク
マキアヴェッリ邸 Casa Machiavelli
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
マキアヴェッリ邸は、フィレンツェグイッチャルディーニ通り18番地にあった建物。1944年8月に撤退するドイツ軍が仕掛けた地雷によって破壊された。
マジョリカ焼きの土産物を売っている中庭に入る直前上方に、彼が住んでいた頃の家屋の唯一残された部分である梁が残っている。碑文には「1944年の破壊後、瓦礫の中から発見された、マキアヴェッリの住処に、元々あった梁の一部」とある。
外部リンク
ランツィの開廊 Loggia dei Lanzi
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 設計
- ヤコポ・ディ・チョーネ
- 建築
- ベンチ・ディ・チョーネ、フランチェスコ・タレンティ
- 建設
- 1376年~1382年
概要
ランツィの開廊は、フィレンツェにある建物。
ランツィとは16世紀、フィレンツェが君主国となった時、ランツィケネッキ(ランツクネヒト)と呼ばれる衛兵が駐屯したことから。
記念碑
ランツィの開廊の向かって右の壁には、2枚の記念碑がある。1つはイタリア統一運動での犠牲者を追悼するもの。もう1つは1749年にフィレンツェ歴が廃止されたことを記念したもの。
1750年から、フィレンツェの正月は1月1日になった。それまでは聖母の受胎告知の日3月25日が年初であった。これと同時に、日没を0時と定めていたイタリア時間も廃止され、1日は午前0時から始まることになった。
壁掛け
ランツィの開廊の後ろの壁に小さな釘のようなものが、ある高さを保って線状に付いている。これは昔、大きな壁掛けを引っ掛けた跡である。
この時代は定かではないが、ルネサンスの昔からフランドルの技術を使った綴れ織りは珍重されて、大きな式典が行なわれる時には、壁の臨時装飾に使われた。壁掛けの画稿は、ラッファエッロ、アニョーロ・ブロンズィーノ、ポントルモなどの優秀な画家が起用された。
題材作品
所蔵品
別表記
ロッジア・デイ・ランツィ、ロッジャ・ディ・ランツィ
外部リンク
カレッジのメディチ家別荘 Villa Medicea di Careggi
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 地区
- カレッジ
概要
カレッジのメディチ家別荘は、フィレンツェのカレッジにある建物。
外部リンク
ラウレンツィアーナ図書館 Biblioteca Medicea Laurenziana
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 着工
- 1524年
- 完成
- 1534年
- 設計
- ミケランジェロ
- 注文
- クレメンス7世
概要
ラウレンツィアーナ図書館は、フィレンツェにある建物。「ラウレンツィアーナ」とは「ロレンツォの」という意味。
蔵書の基礎を築いたのはコジモ・イル・ヴェッキオで、中世写本を初めとして初期の活版印刷による宗教書、哲学書、文学書などメディチ家の富と力によって代々集め続けられ、現在でも多くの歴史研究家などが利用している。
建築
サン・ロレンツォ教会の正面左手横にある小さな入り口をくぐると、美しい回廊に囲まれた中庭に出る。
ラウレンツィアーナ図書館の玄関はたかだが5メートル角の正方形で、日本の茶室空間にも通じる緊迫した空間である。ここは、内部空間でありながら彫刻的に処理された構造的には一見意味のない柱や窓が、あたかも仕組まれた屋外空間のようである。石の階段でありながら、ゆるやかで温かい感じの曲線が閲覧室へ誘い込むことを意図としているようだ。
ミケランジェロがメディチ家出身の教皇クレメンス7世の依頼で設計しているが、ローマにいるミケランジェロは設計図を送り、ジョルジョ・ヴァザーリ他が実際の建設を担当した。閲覧室では床・天井・壁の装飾をはじめ、書見机の意匠までミケランジェロの意図に忠実に造られたマ二エリスムの傑作である。
マニエリスムとは、盛期ルネサンス以降の16世紀イタリア美術のことを意味する。マニエリスムの様式的な特徴は、ルネサンス期に確立された人体の比例、遠近法を誇張した表現の中にあり、画面は動きのある劇的なもので非現実的な空間を構成した。
所蔵品
外部リンク
マキアヴェッリ邸 Casa Machiavelli
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザ、サンタンドレア・イン・ペルクッシーナ
概要
マキアヴェッリ邸は、サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザにある建物。ニッコロ・マキアヴェッリが1512年から隠遁生活をしていた家。
食器棚と石の水盤の後ろにある扉には、イエス・キリストの受難を表したマキアヴェッリ家の紋章が刻まれている。
外部リンク
Associazione Nazionale Case della Memoria
BBC News
Wikipedia
パンドルフィーニ塔 Torre Pandolfini
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県ラストラ・ア・シーニャ
- 建設
- 1380年~1385年
- 施主
- フィリッポ・パンドルフィーニ
概要
パンドルフィーニ塔は、ラストラ・ア・シーニャにある建物。
アルノ川に架かる橋を守衛することを目的とした古い塔の基礎の上に建てられた。その後、フィリッポ・パンドルフィーニが購入して増築し、居住地として利用。長方形のグエルフィの銃眼が載った壁をくぐる門の左側には旧塔の基礎部分があり、右側には中庭を作るためにおそらくパンドルフィーニによって拡張された翼棟がある。最も古い側面の外壁には、フィレンツェの百合が小さな窪みに描かれている。
フィリッポ・パンドルフィーニの息子アニョーロ・パンドルフィーニは、コジモ・イル・ヴェッキオの友人で、優れた教養人だった。彼はここでレオン・バッティスタ・アルベルティ、ベネデット・ダ・ロヴェッツァーノ、1434年にローマから逃れてフィレンツェに避難した教皇エウゲニウス4世、1435年にミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァ、1439年にフェッラーラ侯ニッコロ3世・デステ、1442年にアルフォンソ5世・デ・アラゴンにナポリを制圧され、支援を求めてエウゲニウス4世を訪問したルネ・ダンジューを迎えた。
アニョーロ・パンドルフィーニは晩年には経済的な困難からフィレンツェを離れてこの塔で余生を過ごした。
南に新たにパンドルフィーニ邸を建設したため、16世紀前半に塔を売却した。
現在、私有地のため立ち入りはできない。
外部リンク
パンドルフィーニ邸 Villa Pandolfini
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県ラストラ・ア・シーニャ
- 施主
- バッティスタ・パンドルフィーニ
- 建設
- 1485年~1488年
概要
パンドルフィーニ邸は、ラストラ・ア・シーニャにある建物。
この邸宅には、1494年11月にフランス王シャルル8世がフィレンツェに入る前に、バッティスタ・パンドルフィーニの賓客として訪れたことが記録されている。
現在、私有地のため立ち入りはできない。
外部リンク
ピサ洗礼堂 Battistero di Pisa
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州ピサ県ピサ
概要
ピサ洗礼堂は、ピサにある建物。
所蔵品
外部リンク
ピサのカンポサント Camposanto Monumentale
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州ピサ県ピサ
概要
ピサのカンポサントは、ピサにある建物。
所蔵品
外部リンク
シエナ国立絵画館 La Pinacoteca Nazionale di Siena
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州シエナ県シエナ
概要
シエナ国立絵画館は、シエナにある建物。
所蔵品
別表記
Palazzo Bichi-Tegliacci
公式サイト
外部リンク
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院 Abbazia di Monte Oliveto Maggiore
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州シエナ県アシャーノ
概要
モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院は、アシャーノにある建物。
所蔵品
外部リンク
サンガッロ要塞 Forte Sangallo
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県チヴィタ・カステッラーナ
概要
サンガッロ要塞は、チヴィタ・カステッラーナにある建物。
ボルジア家の紋章
外部リンク
ヴィッラ・ファルネジーナ Villa Farnesina
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- トラステヴェレ
- 建設
- 1506~1510年
- 施主
- アゴスティーノ・キージ
概要
ヴィッラ・ファルネジーナは、ローマにある建物。1580年、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿が購入。
ガラテイアの間 Sala di Galatea
プシュケの開廊 Loggia di Psiche
1518年頃にラッファエッロの工房によって描かれたアプレイウスの『黄金の驢馬』から取られたクピドとプシュケの物語のフレスコ画で飾られている。
カドゥケウスを持つアモリーノ Amorino con caduceo
別表記
ファルネジーナ宮、ファルネジーナ荘、ファルネジーナの別荘、パラッツォ・デラ・ファルネジーナ、パラッツォ・ファルネーゼ
外部リンク
サン・ジャコモ病院 Ospedale San Giacomo
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- カンポ・マルツィオ
- 設立
- 1339年
- 閉鎖
- 2008年10月
概要
サン・ジャコモ病院は、ローマにある建物。
フアン・ボルジアの行方捜索で、1497年6月15日に死体遺棄を目撃したという証人が現れる。そのジョルジョという名の船頭によれば、サン・ジャコモ病院付近からテヴェレ川に死体が投げ込まれたという。そしてテヴェレ川からフアン・ボルジアの死体が発見されるのだが、この病院は発見現場よりも川下であるため、ジョルジョの証言は教皇の息子の暗殺とは何ら関係がなかったことが分かる。
別表記
聖ジャコモ病院、聖ジャコモ教会、スキャボーニ、スキアヴォーニ病院、Hospital of Saint James
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
ボルジア解体新書
Google Maps
Wikipedia
参考文献
フィアンメッタ邸 Casa di Fiammetta
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ポンテ
概要
フィアンメッタ邸は、ローマのマスケラ・ドーロ通りのアックアスパルタ通りとの角にある建物。
1479年にヤコポ・アンマンナーティ枢機卿が亡くなると、フィアンメッタに遺贈されて住んでいた。そばのフィアンメッタ広場の名前の由来となっている。
彼女のもう1つの不動産であるコロナーリ通りの家も現存している。
外部リンク
ブルカルド小宮殿 Palazzetto del Burcardo
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- サンテウスタキオ
- 建設
- 1491~1500年
概要
ブルカルト小宮殿は、ローマのスダリオ通り44番地にある建物。後期ゴシック様式の建物で、ヨハン・ブルカルトの名前をイタリア語化したものからそう呼ばれている。
1491年、ヨハン・ブルカルトは、即位の際に教皇が豪華な行列を伴って辿る道ヴィア・パパリス近くのファルファ修道院から土地を借りている。中世の修道院が廃墟として残っていたこの土地に、塔を含む既存の建物の一部も組み入れて私邸を建てた。近くに銀鉱山があるためArgentoratumのラテン語名を持つストラスブールが出身地であることから、ヨハン・ブルカルトが署名に使用していたepiscopus argentinensis又はargentinusに由来して、組み込まれた塔はアルジェンティーナと名づけられる。2棟で構成されており、現在のスダリオ通りを見下ろす母屋と、厩舎と使用人を収容する副棟があった。当時の版画から分かるように、塔の頂上は本館の上にそびえ立っていた。
『ヨハン・ブルカルトの日記』の注釈には、1500年3月21日の聖ベネディクトゥスの祝日に塔の頂上で焚かれた松明について述べられている。したがって、ブルカルド小宮殿は1491年から1500年の間に建てられたのは確かである。
1503年、隣接する土地の所有者である有力なチェザリーニ家との間で紛争が始まった。ヨハン・ブルカルト自身、1503年1月31日付の『ヨハン・ブルカルトの日記』の中でこの出来事を次のように語っている。
同じ日、1月末に、私は教皇に苦情を申し立てた。なぜなら、昨日の夕方、ジュリアーノ・チェザリーニ枢機卿は従者セバスティアーノに、私が彼の庭の上に建てた家から私の持ち物を全て撤去するようにと通告させたからだ。そして今朝やって来て、彼の所有物として占有するつもりだった。
アレクサンデル6世はヨハン・ブルカルトを不当に遇すことも、チェザリーニ家を敵に回すことも望まず、ラグサ大司教ジョヴァンニ・サッコに事態の収拾を命じる。ヨハン・ブルカルトの死後にチェザリーニ家は邸宅の所有権を得るとの裁定を下した。
ヨハン・ブルカルトが1506年に亡くなった後、チェザリーニ家は建物を副次財産として放置した。アルジェンティーナ塔は、16世紀から17世紀の版画に残されている。
1730年アルジェンティーナ劇場の建設が開始され、ブルカルト小宮殿の一部は取り壊された。18世紀の終わりに塔の頂上は切り取られ、1781年のローマ地図にはもう登場しない。
1888年下水道の掘削作業中にグナエウス・ポンペイウスの劇場の遺跡が出現し、1892年にはモンテ・デッラ・ファリーナ通りとデイ・キオダローリ通りの間でその他の遺跡が発見された。
1908年、石に刻まれた紋章が発見され、星に向かって立ち上がる竜であることからヨハン・ブルカルトの邸宅であることが判明。
外部リンク
BAROQUE ROME IN THE ETCHINGS OF GIUSEPPE VASI
BAROQUE ROME IN THE ETCHINGS OF GIUSEPPE VASI
Deutsche Digitale Bibliothek
eBay
Flickr
MURO MAESTRO
Wikipedia
ペルトゥーザ門 Porta Pertusa
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
概要
ペルトゥーザ門は、ローマにある門。
外部リンク
参考文献
ボルジア階段 Salita dei Borgia
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- モンティ
概要
ボルジア階段は、ローマにある階段。
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
ボルジア解体新書
Awakr e il Cammino
Pro Loco di Roma
Roma, in particolare
Specchio Romano.it
the borgias ITALIA
Laboratorio Roma
Finnegan's Irish Bar
Zazzle
flickriver
Google Maps
Laboratorio Roma
Leggende Romane
Roma Sparita
宿屋ヴァッカ Albergo della Vacca
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- レーゴラ
概要
宿屋ヴァッカは、ローマのカンポ・デ・フィオーリの西端、ガッロ小路に面し、カッペッラーリ通りの角にある建物。ヴァッカとは牡牛という意味で、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の愛人ヴァノッツァ・デイ・カッタネイが経営する宿屋だった。今では1階にフォルノというパン屋が入っているようである。
紋章
ガッロ小路側の建物の正面には紋章が残っている。
紋章は4つに区切られている。左上の牡牛と右下の横帯はボルジア家の紋章。右上と左下で、片方の後ろ足で立ち上がり前足を揃えず前に出す獅子はヴァノッツァ・デイ・カッタネイの、獅子の半身とコンパスは夫のカルロ・カナーレのものである。
ロドリゴ・ボルジア枢機卿の後ろ盾があることを誇示するために、カルロ・カナーレが好んで作らせたのだとか。
別表記
Locanda del Gallo
外部リンク
ヴィッラ・デステ Villa d'Este
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ティヴォリ
概要
ヴィッラ・デステは、ティヴォリにある建物。元はサン・ヴェネディクト修道院だったが、1550年9月9日にティヴォリ知事に着任したイッポーリト・デステ枢機卿により、住み心地の良いように増改築された。イタリア屈指の見事な庭園を持ち、地上の楽園といった様相である。
このエステ家の別荘の工事と共に、ティヴォリも発展するが、統治しにくい土地柄で政治的な問題は解決されなかった。
紋章
百の噴水 Cento fontane
オヴァートの噴水 Fontana dell'Ovato
別表記
ヴィラ・デステ、ティヴォリのエステ家別荘
外部リンク
モンテカッシーノ修道院 Abbazia di Montecassino
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州フロジノーネ県カッシーノ
概要
モンテカッシーノ修道院は、カッシーノにある建物。
所蔵品
外部リンク
国立ヴィットーリオ・エマヌエレ3世図書館 Biblioteca Nazionale Vittorio Emanuele III
- 所在地
- イタリア共和国カンパーニア州ナポリ県ナポリ
概要
国立ヴィットーリオ・エマヌエレ3世図書館は、ナポリにある建物。
所蔵品
公式サイト
Biblioteca Nazionale di Napoli
外部リンク
ヴァレンシア大聖堂 Catedral de València
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県ヴァレンシア
概要
ヴァレンシア大聖堂は、ヴァレンシアにある建物。
使徒の門 Porta dels Apòstols
鉄の門 Porta dels Ferros
聖フランシスコ・デ・ボルハの礼拝堂 Capella de sant Francesc de Borja
所蔵品
別表記
バレンシア大聖堂
公式サイト
外部リンク
ガンディア大学 Universidad de Gandía
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県ガンディア
概要
ガンディア大学は、ガンディアにある建物。ガンディア公フランシスコ・デ・ボルハが1549年に創設したイエズス会の学校。1767年にイエズス会はスペインから追放され、1772年に閉鎖された。
チェーザレ・ボルジアなどの像がある。
別表記
Escuelas Pías、Antigua Universidad
外部リンク
Pinterest
Territorio Borgia
Turisteando por Gandia
Turismo de Gandia
Wikipedia
YouTube - Visit Gandia
アレクサンデル6世生誕地 Casa natal de Alejandro VI
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県シャティヴァ
概要
アレクサンデル6世生誕地は、シャティヴァのアレクサンデル6世誕生した場所で、扉周囲に元の建物のほんの一部が残存している。
外部リンク
サンタ・マリア・デ・シャティヴァ教会 Col·legiata de Santa Maria de Xàtiva
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県シャティヴァ
- 建設
- 1596年~
概要
サンタ・マリア・デ・シャティヴァ教会は、シャティヴァにある建物。
1244年のヴァレンシア王ハイメ1世によるシャティヴァの征服後、モスクの跡に建てられた教会。1413年、対立教皇ベネディクトゥス13世により、聖堂参事会教会(col·legiata)に昇格。1596年から再建が始められ、何度も中断されながら、ほぼ3百年間続いた。
フランチェスコ・ボルジアの碑文
サンタ・マリア・デッレ・フェッブレ教会に置かれていた、テアーノ司教フランセスク・デ・ボルジャの1497年の紋章と碑文。
聖堂参事会長 Degans en la col·legiata de Santa Maria de Xàtiva
ペレ・フィゲロラ 1413年~1440年
バルトメウ・ロビラ 1440年~1450年
ベレンゲル・デ・ソス ...1454年~1455年
ロドリゴ・ボルジア 1455年6月3日~1458年
リュイス・ジョアン・デル・ミラ (1458年)~1496年
アルフォンス・デル・ミラ 1496年/±1504年
リュイス・デル・ミラ 1504年/±1519年
ディエゴ・デル・ミラ 1519年~1524年
ニコラウ・セルダ 1525年~1549年
ベルナト・ガルシア 1550年~1574年
フランチェスク・セラ ...1583年...
ジェローニ・ソレール 1593年3月13日~1601年1月30日死
ミケル・ジョアン・ジル 1601年9月7日~1636年
アントニ・メノール 1636年2月2日~1653年11月26日死
ガブリエル・ユゲ 10月16日~1672年4月3日死
ヴィセント・ピケル 1673年3月25日~1712年4月12日死
別表記
コレヒアタ教会
外部リンク
サンタ・マリア・デ・ベルエラ修道院 Real Monasterio de Santa María de Veruela
- 所在地
- スペイン王国アラゴン州サラゴサ県ベラ・デ・モンカヨ
概要
サンタ・マリア・デ・ベルエラ修道院は、ベラ・デ・モンカヨにある建物。
ペドロ・デ・アタレスの墓 Sepulcro de Pedro de Atarés
被葬者
外部リンク
シャルトル大聖堂 Cathédrale Notre-Dame de Chartres
北袖廊 1220~1225年頃
関連項目
『イコノロジー研究』
外部リンク
ウィキペディア
chartres Cathedral of Notre-Dame - Image Collection
参考文献
『イコノロジー研究』
パリのノートルダム大聖堂 Cathédrale Notre-Dame de Paris
西正面
関連項目
『イコノロジー研究』
外部リンク
ウィキペディア
Les preferences de LUSILE
YouTube - ノートルダム寺院の秘密
参考文献
『イコノロジー研究』
ランスのノートルダム大聖堂 Cathédrale Notre-Dame de Reims
概要
ランスのノートルダム大聖堂は、フランスのランスにある建物。
御訪問
関連項目
『イコノロジー研究』
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
イスーダンの白塔 Tour blanche d'Issoudun
- 所在地
- フランス共和国サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル県イスーダン
概要
イスーダンの白塔は、イスーダンにある建物。
外部リンク
ラ・モット=フイユ城 Château de La Motte-Feuilly
- 所在地
- フランス共和国サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル県ラ・モット=フイユ
概要
ラ・モット=フイユ城は、ラ・モット=フイユにある建物。
塔の下層階。1514年にシャルロット・ダルブレが亡くなった後に作成された目録によると、この部屋はシャルロット・ダルブレの仕立て屋であるイヴォンヌ・ルアルガンの部屋。
公式サイト
外部リンク
サンティレール教会 Église Saint-Hilaire
- 所在地
- フランス共和国サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル県ラ・モット=フイユ
概要
サンティレール教会は、ラ・モット=フイユにある建物。シャルロット・ダルブレが建立。
シャルロット・ダルブレの墓
マルタン・クロワストル作の廟墓彫刻。高さ約91センチメートル。
雪花石膏でできたシャルロット・ダルブレの横臥像があり、その足元には犬がいる。
黒い大理石の台座側面には七つの美徳が彫られている。画像が見つからなかったため確実ではないが、最も重要視される対神徳の慈愛は横臥像の足下側面に刻まれているものと思われる。
対神徳の信仰(?)。慈愛の右1番目で、裏面は希望。欠けてしまっているため、持ち物は不明。
枢要徳の正義(?)。慈愛の右2番目で、裏面は剛毅。欠けてしまっているため、持ち物は不明。
枢要徳の節制。慈愛の右3番目で、裏面は賢明。TEMPERAREという銘があり、容器に注ぐような仕草は葡萄酒を水で割っている。
対神徳の希望(?)。慈愛の左1番目で、裏面は信仰。欠けてしまっているため、持ち物は不明。
枢要徳の剛毅。慈愛の左2番目で、裏面は正義。不屈を象徴する柱に寄りかかっている。
枢要徳の賢明。慈愛の左3番目で、裏面は節制。現実の自分を見る鏡と、聡い蛇を持っている。
フランス革命の時に、この墓は3人の暴徒によって60以上の破片に砕かれ、彫像は3つに割られ、顔と紋章は破壊された。1892年に歴史的記念物に指定され、復元された。2000年に修復された。再度の修復を必要としているが、60人の住民しかいない村にとっては、全ての補助金を受け取っても残りの費用は非常に高額である。
被葬者
外部リンク
Berry Province
Nous en Boischaut-sud
Sophie Swerts Knudsen
Wikimedia Commons
メアン=シュル=イェーヴル城 Château de Mehun-sur-Yèvre
- 所在地
- フランス共和国サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏シェール県メアン=シュル=イェーヴル
概要
メアン=シュル=イェーヴル城は、メアン=シュル=イェーヴルにある建物。現在、廃墟となっており、イェーヴル川とアナン川の合流地点を見下ろす岩場の高台に位置している。最初の要塞は9世紀に建設されたと推測されており、再建は12世紀から13世紀にかけて行われた。
1332年にロベール3世・ダルトワの財産没収により、フランス王室の所有となる。14世紀初頭、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに与えられる。ヨハン・フォン・ルクセンブルクの娘ユッタ・フォン・ルクセンブルクとフランス王ジャン2世の結婚後
城は再びヴァロワ家に戻る。
1360年ベリー公ジャン・ド・ヴァロワに親王采地として与えられ、彼の時代に大規模な改築が行われる。イギリスでの虜囚生活から戻ってすぐの1367年から開始され、50年に及んだ工事はギィ・ド・ダンマルタンに委嘱され、ゴシック様式に触発された豪華な装飾を施した贅沢な遊興用の宮殿に生まれ変わらせたが、ジャン・ド・ヴァロワ自身は完成を見ることなく1416年に亡くなっている。
シャルル・ド・ヴァロワは百年戦争中、オルレアン奪還を含む幾つかの重要な軍事戦略をここで指揮した。1429年にはジャンヌ・ダルクが滞在。その後、フランス王となったシャルル7世は1461年7月22日にここで死去。
兄ルイ11世に対し反乱したシャルル・ド・フランスや諸侯はここに避難している。
シャルル7世の治世が終わると、中世とルネサンスの過渡期を象徴するメン=シュル=イェーヴル城はロワール渓谷の城に取って代わられ、忘れ去られていった。
その後の数世紀にわたり、城は火災や破壊、略奪に晒され、16世紀には最初の火災で一部が崩壊。さらに、宗教戦争やフランス革命によりその大部分が破壊され、家屋建設のために石材が利用された。
外部リンク
記載日
2006年2月20日
更新日
2024年7月22日