Artista

美術家 16世紀前半

スペランディオ Sperandio

生没
1425年頃~1504年
出身
マントヴァ
没地
ヴェネツィア

概要

 スペランディオは、イタリアの彫刻家、メダル作家。

作品

年表

1425年頃

マントヴァにて、生(1428年、1431年)。

別表記

 Sperandio Savelli

外部リンク

 Art cyclopedia
 National Gallery of Art
 Treccani
 Wikipedia

ジェンティーレ・ベッリーニ Gentile Bellini

生没
1429年~1507年2月23日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
ヤコポ・ベッリーニ
弟子
ティツィアーノ

概要

 ジェンティーレ・ベッリーニは、15世紀から16世紀の男性、画家。

作品

年表

1429年

この年頃、ヴェネツィアに生。

1479年1月

ヴェネツィアとの和約後マホメッド2世、ヴェネツィアに画家派遣を要請。

1479年8月1日

マホメッド2世の要請に応じて派遣され、コンスタンティノポリスで「スルタン・メフメト2世の肖像」を描く。1480年頃完成。

1507年2月23日

ジェンティーレ・ベッリーニ、ヴェネツィアで死。

別表記

 ベリーニ

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』

ジョヴァンニ・ベッリーニ Giovanni Bellini

生没
1430年~1516年11月29日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
ヤコポ・ベッリーニ
弟子
ジョルジョーネ
セバスティアーノ・デル・ピオンボ
ティツィアーノ

概要

 ジョヴァンニ・ベッリーニはイタリアの画家。

作品

別表記

 ベリーニ、ベルリーニ

外部リンク

 アート at ドリアン
 ウィキペディア
 サルヴァスタイル美術館
 Art cyclopedia
 SETTEMUSE
 Web Gallery of Art

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』

フランチェスコ・ラウラーナ Francesco Laurana

生没
1430年頃~1502年3月12日以前
出身
ヴラナ
没地
アヴィニョン

概要

 フランチェスコ・ラウラーナは、イタリアの彫刻家、メダル作家。

作品

年表

1471年

ナポリに行く。

1474年~1477年

ウルビーノ公宮廷に仕える。

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アントニアッツォ・ロマーノ Antoniazzo Romano

生没
1430年頃~1508年4月17日
出身
ローマ

概要

 アントニアッツォ・ロマーノは、15世紀から16世紀のイタリアの画家。

作品

年表

1430~1435年頃

ローマにて、生。

外部リンク

 ウィキペディア

ジャンフランチェスコ・エンツォーラ Gianfrancesco Enzola

生没
1430年頃~1513年頃
出身
パルマ

概要

 ジャンフランチェスコ・エンツォーラは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、メダル作家。

作品

別表記

 il Parmense

外部リンク

 Wikipedia

フランチェスコ・マルティーニ Francesco di Giorgio Martini

生没
1439年9月23日~1501年11月29日
出身
シエナ
没地
シエナ

概要

 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、彫刻家、建築家。

設計

作品

年表

1439年9月23日

シエナに生。

1501年6月

セニガッリアの要塞を訪れる。

1501年11月29日

シエナで死(1502年2月9日以前)。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

コジモ・ロッセッリ Cosimo Rosselli

生没
1439年~1507年1月7日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
師匠
ネリ・ディ・ビッチ
弟子
ピエロ・ディ・コジモ
フラ・バルトロメオ

概要

 コジモ・ロッセッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。

年表

1439年

フィレンツェに生。

1481年夏

この頃?、完成したシスティーナ礼拝堂の壁画製作の契約をシクストゥス4世と結ぶ。他に、ボッティチェッリドメニコ・ギルランダイオルカ・シニョレッリピントゥリッキオら。

1507年1月7日

フィレンツェで死。

別表記

 コジモ・ロッセリ、コジモロッセリ、コシモ・ロッセッリ

外部リンク

 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ブラマンテ Bramante

生没
1444年~1514年3月11日
出身
モンテ・アズドルアルド(現フェルミニャーノ)
没地
ローマ

概要

 ブラマンテは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、建築家。

設計

年表

1444年

ウルビーノ近郊Monte Asdrualdo(現Fermignano)に生。

1477年

ベルガモポデスタ宮殿に壁画を描く。

1478年

ミラノに行く。

1492年

ヴィジェヴァーノで制作。

1494年~1496年

ヴィジェヴァーノで制作。

1496年

ブラマンテの塔の設計に取り掛かる。

1499年

ローマ到着。

1506年4月18日

この日ユリウス2世、ブラマンテの設計によるサン・ピエトロ大聖堂の改築工事に着手。その資金確保のため贖宥状を発売。

1508年

ユリウス2世によりラッファエッロがローマに招かれることを仲介。

1514年3月11日

ローマで死(1514年4月11日)。

以後ラッファエッロサン・ピエトロ大聖堂の改築主任になる。

肖像

本名

 Donato di Pascuccio d'Antonio

別表記

 Donato Bramante

関連項目

 The Borgias: 201

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Art Renewal Center Museum
 Web Gallery of Art

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジュリアーノ・ダ・サンガッロ Giuliano da Sangallo

生没
1445年~1516年10月20日
出身
フィレンツェ
没地
ファエンツァ
フランチェスコ・ジャンベルティ
フランチェスコ・ダ・サンガッロ

概要

 ジュリアーノ・ダ・サンガッロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、建築家、彫刻家。

ダ・サンガッロ

 ロレンツォ・イル・マニーフィコに依頼され、サン・ガッロ教会の増築と修道院を建設。素晴らしい出来だったために、以降一家の芸術家はダ・サンガッロの名で呼ばれるようになる。サン・ガッロ教会は1529年のフィレンツェ攻囲戦で破壊され、現存せず。

年表

1445年

この年頃、フィレンツェに生。

1504年1月25日

ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し、この日、その設置場所を決定するため、ボッティチェッリレオナルド・ダ・ヴィンチペルジーノフィリッピーノ・リッピ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。

1516年10月20日

ファエンツァで死。

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの華』

フランチェスコ・ロッセッリ Francesco Rosselli

生没
1445年~1513年以前
出身
フィレンツェ

概要

 フランチェスコ・ロッセッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、細密画家、地図銅版画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ビアージオ・ダントーニオ・トゥッチ Biagio d'Antonio Tucci

生没
1445年頃~1516年6月1日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 ビアージオ・ダントーニオ・トゥッチは、15世紀から16世紀のイタリアの画家。

作品

年表

1445年頃

フィレンツェにて、生(1446年)。

1516年6月1日

フィレンツェにて、死(1510年頃)。

外部リンク

 Web Gallery of Art
 Wikipedia

ビアージオ・ロッセッティ Biagio Rossetti

生没
1447年頃~1516年
出身
フェッラーラ

概要

 ビアージオ・ロッセッティは、イタリアの建築家、軍事技師。

設計

別表記

 ビアージョ、ビアジョ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

バルトロメオ・メリオーリ Bartolomeo Melioli

生没
1448年~1514年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ

概要

 バルトロメオ・メリオーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、銅版画家、金細工師。

作品

外部リンク

 Wikipedia

バルトロメオ・デッラ・ガッタ Bartolomeo della Gatta

生没
1448年~1502年

概要

 バルトロメオ・デッラ・ガッタは、イタリアの画家、写本彩飾師、建築家。

作品

外部リンク

 オールポスターズ
 Wikipedia

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

グイド・マッツォーニ Guido Mazzoni

生没
1450年~1518年
出身
モデナ

概要

 グイド・マッツォーニは、イタリアの彫刻家、画家。

作品

外部リンク

 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch

生没
1450年頃~1516年8月9日
出身
ネーデルランド、ス・ヘルトーヘンボス
没地
ネーデルランド・ブラバント、スヘルトーヘンボス(現オランダ)

概要

 ヒエロニムス・ボスは、画家。

本名

 Hieronymus van Aeken

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランチェスコ・フランチア Francesco Francia

生没
1450年頃~1517年1月5日
出身
ボローニャ
没地
ボローニャ

概要

 フランチェスコ・フランチアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、彫金家。

作品

年表

1450年

この年頃、ボローニャに生(1460年)。

1517年1月5日

ボローニャで死。

本名

 フランチェスコ・ライボリーニ(Francesco di Marco di Giacomo Raibolini

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネサンスの華』

ペドロ・ベッルグエーテ Pedro Berruguete

生没
1450年頃~1504年
出身
カスティーリャ王国パレーデス・デ・ナバ
没地
アビラ

概要

 ペドロ・ベッルグエーテは、15世紀から16世紀のスペイン出身の男性、画家。

作品

年表

1474年~1482年

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに仕える。

別表記

 ベルグエーテ、ベルゲテ

外部リンク

 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ダヴィデ・ギルランダイオ Davide Ghirlandaio

生没
1452年3月14日~1525年4月10日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
トンマーゾ・ビゴルディ

概要

 ダヴィデ・ギルランダイオは、15世紀から16世紀のイタリアの画家。

作品

別表記

 David Ghirlandaio

外部リンク

 Wikipedia

ピエトロ・デル・ドンゼッロ Pietro del Donzello

生没
1452年~1509年2月24日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ドンゼッロ・デッラ・シニョーリア

概要

 ピエトロ・デル・ドンゼッロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、建築家。

外部リンク

 Wikipedia

アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ Antonio da Sangallo il Vecchio

生没
1453年頃~1534年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ

概要

 アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオは建築家、軍事技師。

年表

1453年

この年頃、フィレンツェに生(1455年)。

1504年1月25日

ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し、この日、その設置場所を決定するため、ボッティチェッリレオナルド・ダ・ヴィンチペルジーノフィリッピーノ・リッピジュリアーノ・ダ・サンガッロ、アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。

1534年12月7日

フィレンツェで死。

本名

 Antonio Giamberti

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

ジャン・ペレアル Jean Perréal

生没
1455年~1528年
出身
リヨン又はパリ
没地
パリ

概要

 ジャン・ペレアルは、15世紀から16世紀のフランスの画家。

作品

年表

1455~1460年

リヨン又はパリにて、生。

1528~1530年

パリにて、死。

外部リンク

 Wikipedia

トゥッリオ・ロンバルド Tullio Lombardo

生没
1455年頃~1532年11月17日
没地
ヴェネツィア
ピエトロ・ロンバルド

概要

 トゥッリオ・ロンバルドは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、彫刻家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ヴィットーレ・ベルリニアーノ Vittore Belliniano

生没
1456年頃~1529年

概要

 ヴィットーレ・ベルリニアーノは、ルネサンス期のイタリアの画家。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

フィリッピーノ・リッピ Filippino Lippi

生没
1457年~1504年4月18日
没地
フィレンツェ
フィリッポ・リッピ
ルクレツィア・ブーティ
師匠
ヴェロッキオ

概要

 フィリッピーノ・リッピは、イタリアの画家。

作品

年表

1504年1月25日

ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し、この日、その設置場所を決定するため、自身を含む、ボッティチェッリレオナルド・ダ・ヴィンチペルジーノジュリアーノ・ダ・サンガッロアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Treccani.it

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

アントーニオ・ロンバルド Antonio Lombardo

生没
1458年~1516年
出身
パドヴァ
没地
ヴェネツィア

概要

 アントーニオ・ロンバルドは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、彫刻家。

作品

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニ Bartolomeo di Giovanni

生没
1458年~1501年頃
出身
フィレンツェ

概要

 バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニは、イタリアの画家。

外部リンク

 Wikipedia

マルコ・パルメッツァーノ Marco Palmezzano

生没
1459年~1539年
出身
フォルリ
没地
フォルリ
師匠
メロッツォ・ダ・フォルリ

概要

 マルコ・パルメッツァーノは、15世紀から16世紀のイタリアの画家、建築家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ロレンツォ・ディ・クレディ Lorenzo di Credi

Ritratto di Lorenzo di Credi Perugino
生没
1459年頃~1537年1月12日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
師匠
ヴェロッキオ

概要

 ロレンツォ・ディ・クレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、彫刻家。

作品

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 ロレンツォ・ディ・クレーディ、Lorenzo Sciarpelloni

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

ロレンツォ・コスタ Lorenzo Costa

生没
1460年~1535年3月5日

概要

 ロレンツォ・コスタは、イタリアの画家。

作品

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani
 Treccani
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンスの光と闇』

アンドレア・サンソヴィーノ Andrea Sansovino

生没
1460年~1529年
出身
Monte San Sovino (Savino
没地
Monte San Sovino (Savino

概要

 アンドレア・サンソヴィーノは建築家・彫刻家。

作品

年表

1460年

この年頃、アレッツォ近郊Monte San Sovino (Savino)に生(1467年頃)。

1529年

アレッツォ近郊Monte San Sovino (Savino)で死。

外部リンク

 Art cyclopedia
 Treccani.it
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ハンス・ホルバイン Hans Holbein

生没
1460年~1524年
出身
ドイツ・バイエルン、アウグスブルク
没地
ドイツ・Elsaß(現フランス・Alsace)、Issenheim

概要

 ハンス・ホルバインは、画家。

年表

1460年

この年頃、ドイツ・バイエルンのアウグスブルクに生(1465年頃)。

1524年

ドイツ・Elsaß(現フランス・Alsace)のIssenheimで死。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

バルダッサーレ・カッラーリ Baldassarre Carrari il Giovane

生没
1460年頃~1516年
出身
フォルリ
没地
ラヴェンナ

概要

 バルダッサーレ・カッラーリは、15世紀から16世紀のイタリアの画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

クリストファノ・ロベッタ Cristofano Robetta

生没
1462年11月17日~1535年
出身
フィレンツェ共和国フィレンツェ

概要

 クリストファノ・ロベッタは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、金細工師、銅版画家。

作品

別表記

 クリストフォロ

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

アンドレア・フェルッチ Andrea Ferrucci

生没
1465年~1526年
出身
フィエーゾレ
没地
フィレンツェ

概要

 アンドレア・フェルッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、彫刻家。従兄弟にフランチェスコ・フェルッチがいる。

作品

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

エルコーレ・デイ・フェデーリ Ercole dei Fedeli

生没
1452年頃~1521年以降
出身
フィレンツェ
メレ・ダ・セッソ
リッカ・フィンツィ
エレオノーラ・フィンツィ
カテリーナ・デイ・フェデーリ
アンナ・デイ・フェデーリ
エレオノーラ・デイ・フェデーリ
アルフォンソ・デイ・フェデーリ
フェッランテ・デイ・フェデーリ

概要

 エルコーレ・デイ・フェデーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、金細工師。父は銀行家で、先祖に1人も金細工に従事した者はいなかった。エレオノーラ・ダラゴーナイザベッラ・デステの装身具を作り、高い評価を受ける。

作品

年表

1452年頃

フィレンツェにて、生(1457年、1465年)。

1460年1月

父メレ・ダ・セッソ、死。

1461年5月以降

ボローニャに移住。

1478年頃

エレオノーラ・フィンツィと結婚。

1479年

長女カテリーナ・デイ・フェデーリ、生。

1483年後半

マントヴァ司教ルドヴィーコ・ゴンザーガへの融資に対して質入れされる貴重品の価値を見積もるためにパドヴァの金細工師エルメス・フラビオ・デ・ボニスと共にカステル・ゴッフレードに派遣される。

1483年12月30日

ルドヴィーコ・ゴンザーガの貴重品の目録を完成。

1485年

この年までに多額の借金を抱える。

1485年9月15日

母リッカ・フィンツィが遺言書を作成。

1487年

フランチェスコ2世・ゴンザーガに仕える。

1487年11月

エレオノーラ・ダラゴーナのために作品を制作。

1487年12月4日

マントヴァ侯のユダヤ人金細工師サロモーネのために、ユダヤ人レオーネが経営する宿での食事3ソルドを48度と滞在費2リラソルドの計8リラソルドフェッラーラ公の役人が支払う。

1489年3月31日

故ピンタの息子で、サン・フェリーチェの金貸しである甥ムゼートから、無利子で23ドゥカート借り、要請があれば返金することを約束。

1489年8月21日

公文書で、フェッラーラに一時的に滞在するボローニャの居住者であると記載される。

母リッカの遺言書で相続人と指定された長男グラツィアディオと幼子の次男ジョゼフの代理として、遺産を手に入れようとする。リッカがボローニャに移住した後も代理人を務めた、彼の義兄弟アンジェロ・ダ・サンテルピディオに拒否される。この日、仲裁人の決定に従うことに同意。

1489年12月17日

公文書で、フェッラーラに居住するユダヤ人として記載される。

フェッラーラの判事により、義兄弟アンジェロ・ダ・サンテルピディオがサロモーネ・ダ・セッソに3百50ドゥカートを支払うよう命じられる。

1490年

エレオノーラ・ダラゴーナの聖フランシスコ様式の金の胴締を制作。鎖部分はジャコミーノ・ダ・クレモーナが制作。

1490年3月

マントヴァ出発。

フェッラーラ到着。

1491年

マントヴァ到着。

1491年3月22日

朝、マントヴァで女児の切断された遺体が発見される。

1491年3月27日

聖週間、ユダヤ人は外出禁止命令が出されるが、彼と3名の助手は免除される。

1491年

フェッラーラに移住。

1491年5月4日

フェッラーラに来たフランチェスコ2世・ゴンザーガとマヌエーレ・ノルサ宅で会い、ユダヤ人貸金業者デオダート・ノルサの要望を伝える。

1491年5月21日

エレオノーラ・ダラゴーナの官女カッサンドラ・デ・クレストヴァッラ・ダイ・カペレッティの装飾品の報酬16リラエレオノーラ・ダラゴーナから受け取る。

1491年8月16日

ピエルジェンティーレ・ダ・カメリーノ宛てに代書人に依頼して作成した手紙を送る。フランチェスコ2世・ゴンザーガに約束を思い出させるように彼に頼み、アンジェロ・ディ・ヴィターレの安全通行を尊重しなかったことに抗議。役人に不当な扱いを受けているので、介入を嘆願。「フェッラーラ公妃の金細工師サロモーネ」と名乗り、ユダヤ人とは署名せず。

1491年9月7日以前

フランチェスコ2世・ゴンザーガのために金の鎖を制作。18から20ドゥカートを騙し取ろうとしたと非難される。

フェッラーラで投獄される。

1491年9月23日

アンジェロ・ディ・ヴィターレ、釈放される。

1491年10月9日(日)

フェッラーラ大聖堂にて、フェッラーラ司教バルトロメオ・デッラ・ローヴェレにより、9歳頃の長男グラツィアディオと共に洗礼を受ける。ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗し、サロモーネ・ダ・セッソから改名。長男はアルフォンソ・デイ・フェデーリに改名。

1491年11月25日

エレオノーラ・ダラゴーナのために銀の糸で作られた薔薇を付けた金鍍金の書皮を制作し、この日代金を受け取る。

1492年4月2日

エレオノーラ・ダラゴーナから代金60リラを受け取る。

1492年6月20日

エレオノーラ・ダラゴーナの宝飾品を作るために必要な木炭1袋分の代金を、前払いで受け取る。木炭の入手は鍛冶工房の運営に不可欠であり、フェッラーラでは厳しい規制の対象だった。

1493年4月2日

エレオノーラ・ダラゴーナのために制作した詳細不明の作品に対して60リラを受け取る。

1493年10月11日

後援者の筆頭であったエレオノーラ・ダラゴーナ、死。

1493年~1505年

公爵宮殿から多数の銀片を受け取る。香炉又は香壺が含まれており、溶かされて、新しく聖具を制作するために再利用された。

エルコーレ1世・デステは14の修道院と教会を建立又は再建し、12の宗教施設の修復、拡張し、新しい建物の内部装飾に多数の委嘱を行う。

エルコーレ・デイ・フェデーリは、この大規模な計画の一環として、4つ以上の聖遺物容器、香壺や聖具を制作。聖遺物容器はエナメルが塗られ、金鍍金され、ストラフォロ(金箔の凹版又は切り込み)で飾られた銀製のもの。

1494年

イザベッラ・デステのために鍍金の書皮を制作。

1494年11月

フィレンツェ共和国のメディチ家支配体制、崩壊。

1494年12月

銀行家だった亡父メレ・ダ・セッソの元共同事業者の相続人からヘブライ語の写本など会社の動産の一部を要求するために、フィレンツェへ向かう。

1497年3月20日

ユダヤ人の経営するリーパ銀行を訪れ、2名の証人の前で、旧知のマヌエーレ・ノルサから合計1百10フィオリーノを受け取る。

1501年

長男アルフォンソ・デイ・フェデーリがルクレツィア・ボルジアの装飾品を制作。

長男アルフォンソ・デイ・フェデーリがローマからフェッラーラに来るルクレツィア・ボルジアの宝石の保管を担当する金細工師として随行。

1501年11月8日

この日までに、鍍金、彩色、刻みを施した銀の幕屋及び銀箱を、エルコーレ1世・デステのために制作。

1502年2月

エルコーレ1世・デステにより、次女アンナ・デイ・フェデーリがルクレツィア・ボルジアの侍女として指名される。

1504年1月

マントヴァ侯イザベッラ・デステから腕輪の注文を受ける。しかし完成するまで1年半以上待たせる。

1504年6月

イッポーリト・デステ枢機卿から注文を受ける。

1504年8月22日頃

ルクレツィア・ボルジアの面前で、ジローラモ・ジリオーロからイザベッラ・デステの腕輪の制作が遅いことを叱責される。

これ以前にルクレツィア・ボルジアからも注文を受けていた。

1504年秋

長男アルフォンソ・デイ・フェデーリと同時に12日間病に罹る。

1504年10月14日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。腕輪の制作が、多忙のため遅れていることを謝罪。息子が工房で働いていること、下の息子も継いで欲しいこと。

1505年1月19日

アルフォンソ1世・デステの命でエステンセ城に投獄され、2日間拘留される。

1505年6月12日

イザベッラ・デステの腕輪が未完成であるため、アルフォンソ1世・デステの命で長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが投獄される。

1505年6月26日

自身も投獄され、拘留中に腕輪を完成させることを強制される。

1505年8月17日

完成した腕輪をジローラモ・ジリオーロに引き渡す。

イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。腕輪の制作が遅れたことを謝罪。アンドレア・マンテーニャに自分の作品を見せてほしいと頼む。

1506年

ルクレツィア・ボルジアに雇われ、毎月15リラの固定給を受け取る。フェッラーラ宮廷の書記官、公証人、財務官よりも高額。

1506年4月

健康状態が悪化を理由に、イザベッラ・デステと金の容器について打ち合わせるためにマントヴァに行くことを拒否し、代わりに長男アルフォンソ・デイ・フェデーリを送る。

1506年5月14日

イザベッラ・デステ宛てに手紙と金の容器の模型を送る。修理した腕輪を使者に渡した。閉じる部分に鉄片を使用した。後になって金ではなく鉄を用いていると言われないように、その部分をイッポーリト・デステ枢機卿にも見せた。容器の寸法の指定がなかったので、違えば模型を作り直す。

1506年

マラリアに罹る。

1506年6月30日

サンタ・カテリーナ・ダ・シエナ修道院の修道女テオドーラである長女カテリーナ・デイ・フェデーリ、死。

1506年

回復。

1506年7月15日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。四日熱に罹ったので、長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが工房を取り仕切っていた。彼が派遣されてきた金細工師ジャンフランチェスコ・ルベルティ・デッラ・グラーナと金の容器の話し合い、蝋の模型を見せた。完成に必要なエナメルの材料ロシエーロを手に入れるためにミラノに自ら行くことはできないので、ジャンフランチェスコ・ルベルティ・デッラ・グラーナを通じて送ってほしい。

1506年8月10日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を送る。作品の遅れはルクレツィア・ボルジアからの依頼を優先したわけではなく、四日熱のせいだと弁明。まだ遠出できないので、高品質のロシエーロの提供を懇願。

1506年

フェッラーラ公国国庫への負債は総額95リラ

1507年

この年ルクレツィア・ボルジアからの報酬は合計で1百33リラソルドデナーロ

フェッラーラ公国国庫への負債は総額64リラ

1508年

フェッラーラ公国国庫への負債は総額144リラに達し、年収の8割に相当。

1510年

カンブレー同盟戦争による経済悪化のため、ルクレツィア・ボルジアを筆頭としたフェッラーラ公国内の贅沢品の需要が減る。

1511年3月26日

イザベッラ・デステから5つの男性の帽子用飾りの修理を依頼されたが、その他者の作品の出来が良くないので自分が作り直すことをベルナルディーノ・デ・プロスペリに提案。

1511年4月

帽子用飾りを新しく制作することが決定。

1511年5月8日

この日までに、ルクレツィア・ボルジアから発注される。

1511年5月12日

帽子用飾りのエナメル加工が完了。

1511年5月14日

イザベッラ・デステ依頼の帽子用飾りを完成させ、ベルナルディーノ・デ・プロスペリに引き渡す。

1512年5月

イザベッラ・デステから香水入れ付き首飾りの金の蓋を依頼される。4年後に完成。

1513年1月7日(金)

イザベッラ・デステ依頼の角の形をした小さな金のお守りを完成させ、ベルナルディーノ・デ・プロスペリに引き渡す。

1518年

この年、パリに行くアルフォンソ1世・デステに同行するインファンテ・ロマーノが持参する品など、ルクレツィア・ボルジアのために多くの作品を制作。

1518年4月19日

ルクレツィア・ボルジア依頼の仕事で多忙。イザベッラ・デステ依頼の腕輪は未完成。貧困。

1519年3月

フェッラーラを離れている間、工房を長男アルフォンソ・デイ・フェデーリに任せる。

1519年6月24日

ルクレツィア・ボルジア、死。主要な雇用主を失う。

アルフォンソ1世・デステはエルコーレ・デイ・フェデーリ父子を宮廷の金細工師に任命せず。イザベッラ・デステが後援者の筆頭になる。フェッラーラの景気は回復しておらず、高級品の需要減少は依然として続く。

1521年

イザベッラ・デステ依頼の腕輪に飾る赤い尖晶石と48ドゥカート相当の金を預かっており、長男アルフォンソ・デイ・フェデーリと次男フェッランテ・デイ・フェデーリが金の釦など小物を制作していたが、14人の家族を養うことは困難な状況。

早急に現金が必要になったため、赤い尖晶石と未完成の金細工をユダヤ人の質屋に預ける。

ユダヤ人の質屋は赤い尖晶石と未完成の金細工の出所がイザベッラ・デステであると見抜き、通報。

アルフォンソ・デイ・フェデーリに工房を任せ、エルコーレ・デイ・フェデーリとフェッランテ・デイ・フェデーリは他の場所での仕事を探すためにフェッラーラを離れる。

イザベッラ・デステの貴重品をユダヤ人の質屋に入れたとして告発される。

長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが投獄される。

1521年3月2日

長男アルフォンソ・デイ・フェデーリ投獄後1か月以上経過。妻エレオノーラと義娘サピエンツィアがイザベッラ・デステ宛てに嘆願書を送る。

以降の記録なし。

署名

 OPVS HERCVLIS

別表記

 エルコーレ・デ・フェデーリ、エルコレ・デ・フェーリ、Ercole da FerraraSalomone da SessoSalomon da Sesodei Fidelisde Fedelide FedelisMaitre Hercule de Pesaro

外部リンク

 Google Books
 H-Net Reviews
 Internet Archive
 The Marginalia Review of Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』

ベルナルディーノ・デ・コンティ Bernardino de Conti

生没
1465年頃~1523年
出身
カステルセプリオ
没地
パヴィア

概要

 ベルナルディーノ・デ・コンティは、イタリアの画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ジャナントーニオ・ボルトラッフィオ Giovanni Antonio Boltraffio

生没
1467年~1516年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ミラノ公国ミラノ

概要

 ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

クリストフォロ・ソラーリ Cristoforo Solari

生没
1468年~1524年5月
出身
ミラノ公国ミラノ
バルトロメオ・ソラーリ

概要

 クリストフォロ・ソラーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、彫刻家、建築家、アンドレア・ソラーリの兄。

作品

別表記

 il Gobbo

外部リンク

 Wikipedia

フランチェスコ・グラナッチ Francesco Granacci

生没
1469年~1543年11月30日
出身
バーニョ・ア・リーポリ
没地
フィレンツェ

概要

 フランチェスコ・グラナッチは、イタリアの画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』

フランチェスコ・ナポレターノ Francesco Napoletano

生没
1470年頃~1501年
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
ヴェネツィア

概要

 フランチェスコ・ナポレターノは、15世紀から16世紀のイタリアの画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

アンドレア・ソラーリ Andrea Solari

生没
1470年頃~1524年
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ミラノ公国ミラノ
バルトロメオ・ソラーリ

概要

 アンドレア・ソラーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、クリストフォロ・ソラーリの弟。レオナルド・ダ・ヴィンチ滞在後のミラノで活躍し、彼の影響を強く受けている。

作品

別表記

 Solario

外部リンク

 Wikipedia

ジローラモ・ダ・コティニョーラ Girolamo da Cotignola

生没
1471年頃~1550年

概要

 ジローラモ・ダ・コティニョーラは、ルネサンス期のイタリアの画家。

作品

別表記

 Girolamo Marchesi

外部リンク

 Wikipedia

フラ・バルトロメオ Fra Bartolomeo

生没
1472年3月28日~1517年10月6日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ近郊
師匠
コジモ・ロッセッリ

概要

 フラ・バルトロメオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。

作品

年表

1472年3月28日

フィレンツェに生(1475年)。

1517年10月6日

恐らくこの日、フィレンツェ近郊で死。

本名

 バッチョ・デラ・ポルタ、Baccio della Porta

別表記

 Fra Bartolommeo

外部リンク

 Olga's Gallery
 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『Lucretia Borgia

ハンス・ブルクマイアー Hans Burgkmair der Ältere

生没
1473年~1531年
出身
アウクスブルク
没地
アウクスブルク
トマス・ブルクマイアー
ハンス・ブルクマイアー

概要

 ハンス・ブルクマイアーは、15世紀から16世紀のドイツの男性、画家、版画家。

作品

外部リンク

 ウィキペディア

アミーコ・アスペルティーニ Amico Aspertini

生没
1474年頃~1552年
出身
ボローニャ
没地
ボローニャ

概要

 アミーコ・アスペルティーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ジャン・クルーエ Jean Clouet

生没
1480年?~1541年
出身
ブリュッセル
没地
フランス王国パリ
フランソワ・クルーエ

概要

 ジャン・クルーエは、15世紀から16世紀のネーデルラント出身の男性。

作品

外部リンク

 Wikipédia

アンドレア・デル・サルト Andrea del Sarto

生没
1486年7月16日~1531年1月21日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
師匠
ピエロ・ディ・コジモ

概要

 アンドレア・デル・サルトは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家、金細工師。

作品

外部リンク

 ウィキペディア

オルランド・メルリーニ Orlando Merlini

生没
14??年~1510年
師匠
シニバルド・イビ

概要

 オルランド・メルリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

シニバルド・イビ Sinibaldo Ibi

生没
14??年~15??年
弟子
オルランド・メルリーニ

概要

 シニバルド・イビは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。おそらくグッビオに居住し、1527年にペルージアのアルテの一員であったとされている。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ピエルヴィンチェンツォ・ダンティ Piervincenzo Danti

生没
14??年~1512年
出身
教皇領ペルージア
没地
教皇領ペルージア
バルトロメオ・ラナルディ
フェリーチェ・プッチャレッリ
ジューリオ・ダンティ
テオドーラ・ダンティ

概要

 ピエルヴィンチェンツォ・ダンティは、15世紀半ば以降から16世紀のイタリアの男性、軍事建築家、数学及び機械工学者。ジャンパオロ・バリオーニに仕えていた。

年表

1488年12月17日

ペルージアのポルタ・エブルネア地区で、金細工職人組合の登録簿に記載される。

1490年

ジャンパオロ・バリオーニの結婚式の折に、自らの発明による飛行機械で飛行を試みる(1491年)。

1494年

ジャンパオロ・バリオーニの妹ペンテジーレア・バリオーニバルトロメオ・ダルヴィアーノの結婚式の折に、自らの発明による飛行機械で飛行を試みる(1497年以降)。

149?年

アルファーノ・アルファーニのために、ヨハンネス・デ・サクロボスコ著『天球論』をラテン語から翻訳。この写本は現存せず。

1498年

おそらくピエルヴィンチェンツォ・ダンティが、アルファーノ・アルファーニのために天体観測機器を制作。

1494年12月31日

金細工師組合の集会に、年度後半の財務官として出席。

1506年1月3日

金細工師組合の集会に、鑑定士として出席。

1512年前半

金細工師組合の集会に、鑑定士として出席。

1512年

ペルージアにて、死。

サン・ドメニコ教会に埋葬される。

甥エグナツィオ・ダンティが記念碑を設置。

フランチェスコ・カメーニが追悼詩を書く。

1571年

甥エグナツィオ・ダンティにより、 フィレンツェで イタリア語版『天球論』が出版される。

1574年に

甥エグナツィオ・ダンティにより、 ペルージアで イタリア語版『天球論』が出版される。

外部リンク

 Treccani

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年10月20日