Ascanio Maria Sforza

アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ

生没
1455年3月3日~1505年5月27日
出身
クレモーナ
没地
ローマ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 パヴィア教区長 1479年9月17日~1505年5月27日
 サンティ・ヴィート・エ・モデスト・イン・マルチェッロ・マルティルム助祭枢機卿(任命した教皇シクストゥス4世) 1484年3月17日~1492年8月26日
 ノヴァーラ教区長 1484年10月25日~1485年
 クレモーナ教区長 1486年7月28日~1505年5月27日
 ペーザロ教区長 1487年~1491年5月
 教皇庁副尚書院長 1492年8月27日~1505年5月27日
 エゲル(ハンガリー)教区長 1492年8月31日~1497年6月
 エルナ教区長 1494年1月~1495年5月
 サンティ・ヴィート・エ・モデスト・イン・マルチェッロ・マルティルム助祭枢機卿

1495年1月31日~1505年5月27日
 ノヴァーラ教区長 1505年5月~1505年5月27日

年表

1477年5月25日
ミラノスフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロ及びアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァミラノ公とする企み露見。
3者はそれぞれの地に追放される。
1492年8月10/11日
すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年~1503年)。
この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
1492年8月11日
ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。
1492年8月27日
アレクサンデル6世の教皇即位への大きな功績により、教皇庁副尚書院長に任命された他、ネピとボルジア宮殿(現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿)をもらう。
1493年4月25日
アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。カップ、大小様々の皿、深皿と水差し、ジャム入れ、杯2つからなる、どっしりした銀嶺の全て精巧な細工の食卓用具一式を贈呈。
1493年8月
教皇アレクサンデル6世と表立って反目し、ヴァティカン宮殿を去る。
1493年9月28日
ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。
1494年6月24日
ローマ出発。
1494年6月28日
従者たちを連れてローマを離れ、フラスカーティへ向かう。
1494年7月初め
ジェナッツァーノに行き、コロンナ家に身を寄せる。
1494年8月
アレクサンデル6世が、不在の全枢機卿にローマに戻るよう要請。
1494年9月22日
ローマに戻る。
1494年11月初め
この頃、シャルル8世から離れて王に対するアレクサンデル6世の抵抗を支持すると伝えるため、ルドヴィーコ・イル・モーロにより教皇のもとに送られる。
1494年11月2日
フランス王シャルル8世に逆らわないように、アレクサンデル6世を説得しようとするが無駄に終わる。
1494年11月3日
枢機卿会議にてアレクサンデル6世により、シャルル8世と会うためフィレンツェに向かう役に指名される。
夜、マリーノへ向かう。
1494年12月2日
20人の高位聖職者と大勢の随行員と共にローマに戻る。
1494年12月9日
ヴィテルボに向けて出発しようとしていた時、ヴァティカン宮殿に召喚され、傭兵隊長プロスペロ・コロンナベルナルディーノ・ルナーティ枢機卿、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿と共に捕らえられ、ヴァティカン宮殿の上階に勾留される(1494年12月10日)。
1494年12月
釈放される。
1494年12月31日
シャルル8世ローマ入城に同行。
1495年1月1日
枢機卿時代にカリストゥス3世により任命され、教皇アレクサンデル6世となるまで知事であったネピを、この日、アレクサンデル6世によりその知事に任命される。
1497年6月14日(水)
フアン・ボルジアが暗殺される。
1497年
ローマから逃亡し、グロッタフェッラータへ。
ローマへの召喚を拒否するが、アレクサンデル6世より自身が容疑者ではないことを知らされる。
1498年12月3日
枢機卿会議にて、教皇アレクサンデル6世と口論。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは教皇がイタリアの破滅を招いていると非難し、教皇はミラノルドヴィーコ・イル・モーロの例に倣っただけだと言い返す。
1499年7月13日
フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿と共にローマを出発し、ジェナッツァーノに向かう(1499年7月14日、1499年7月末)。
1499年
ジェノヴァに到着。
1500年1月
軍を率い、コモ到着。
コモ湖畔のベッラージョとトルノがアスカーニオ・マリーア・スフォルツァに降伏。
フェデリーコ・サンセヴェリーノがヴァルテッリーナからコモに到着し、合流。
リニー伯シャルル・ド・ブルボンとムゾッコ伯ジャンニッコロ・トリヴルツィオは騎兵2千でコモを掌握していたが、民衆の反感を認識していたため、2名の枢機卿が接近すると、撤退。
コモ入城。
ミラノを目指す。
1500年2月3日(月)
ミラノに入り、市民の歓迎を受ける。フランス軍の追撃を試みるも、馬が足りず。
1500年2月
籠城していたフランス軍の降伏後、スフォルツァ城に居住。
ピエール・テライユと会う。
1500年
エルメス・スフォルツァと共にミラノから逃亡するが、ピアチェンツァ近郊のリヴォルタ城でヴェネツィア人に捕らえられる。
1500年5月15日
他の捕虜と共に、ヴェネツィアからミラノへ連行される。
1500年
スフォルツァ城に軟禁される。
1500年6月15日
フランスのブールジュに連行、幽閉される。
1502年1月3日
ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿の尽力により、許可なくフランスから出ないことを条件に釈放される。
1503年
コンクラーヴェに参加するため、ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿と共に、ローマに帰る。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、ミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチフィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1505年5月28日
ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチジャンパオロ・バリオーニバルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。

埋葬

 サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

関連項目

 The Borgias: 101, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201

別表記

 アスカーニオ・スフォルツァ、アスカーニオ枢機卿、アスカニオ、cardinal Ascanio

外部リンク

 Find A Grave
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 THE BORGIAS wiki
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『メディチ家』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月7日以前

更新日

 2019年12月22日