——Ascanio Maria Sforza——
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ
生没年:1455年3月3日〜1505年5月27日
出身:クレモーナ
没地:ローマ
在位:枢機卿 1484年3月17日 〜1505年
       任命した教皇:シクストゥス4世
父:フランチェスコ1世・スフォルツァ
母:ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
記載日:2006年10月7日以前

年表
 1477年5月25日 ミラノで故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの弟スフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロおよびアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ(1455年〜1505年:枢機卿在位1484年〜1505年)による、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァをミラノ公とする企み露見。3者はそれぞれの地に追放される。
 1492年8月10/11日 すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年〜1503年)。
               この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
               ピエロ・イル・ファトゥオらフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、アレクサンデル6世の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
               この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
 1492年8月11日 ロドリゴ・ボルジアが教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗る。
 1492年8月27日 アレクサンデル6世の教皇即位への大きな功績により、教皇庁副尚書院長に任命された他、ネピとボルジア宮殿(現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿)をもらう。

 1493年4月25日 アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
            間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
 1493年6月12日 ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。カップ、大小様々の皿、深皿と水差し、ジャム入れ、杯2つからなる、どっしりした銀嶺の全て精巧な細工の食卓用具一式を贈呈。
 1493年8月 教皇アレクサンデル6世と表立って反目し、ヴァティカン宮殿を去る。
 1493年9月28日 ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 1494年6月28日 従者たちを連れてローマを離れ、フラスカーティへ向かう。
 1494年7月初め ジェナッツァーノに行き、コロンナ家に身を寄せる。
 1494年8月 アレクサンデル6世が、不在の全枢機卿にローマに戻るよう要請。
 1494年9月22日 ローマに戻る。
 1494年11月初め この頃、シャルル8世の破竹の進撃を見て彼との同盟の危険性を感じたルドヴィーコ・イル・モーロは、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァアレクサンデル6世のもとに送り、シャルル8世から離れて彼に対するアレクサンデル6世の抵抗を支持すると伝える。
            ヴェネツィアもシャルル8世への対抗策を考慮し始める。
 1494年11月2日 フランス王シャルル8世に逆らわないように、アレクサンデル6世を説得しようとするが無駄に終わる。
 1494年11月3日 枢機卿会議にてアレクサンデル6世により、シャルル8世と会うためフィレンツェに向かう役に指名される。夜、マリーノへ向かう。
 1494年12月2日 20人の高位聖職者と大勢の随行員と共にローマに戻る。
 1494年12月9日 ヴィテルボに向けて出発しようとしていた時、ヴァティカン宮殿に召喚され、傭兵隊長プロスペロ・コロンナベルナルディーノ・ルナーティ枢機卿、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿と共に捕らえられ、ヴァティカン宮殿の上階に勾留される。

 1495年1月1日 枢機卿時代にカリストゥス3世により任命され、教皇アレクサンデル6世となるまで知事であったネピを、この日、アレクサンデル6世によりその知事に任命される。

 1497年6月14日(水) フアン・ボルジアが暗殺される。
 1497年 ローマから逃亡し、グロッタフェッラータへ。
 1497年 ローマへの召喚を拒否するが、アレクサンデル6世より自身が容疑者ではないことを知らされる。

 1499年7月13日 ローマを逃亡し、ジェナッツァーノに向かう(1499年7月末)。
 1499年 ジェノヴァに到着。

 1500年1月 ルドヴィーコ・イル・モーロとと共に、ドイツ人、スイス人傭兵を率いてミラノを攻撃。自身はミラノに入って市民の歓迎を受ける。
 1500年 逃亡するが程なく捕らえられ、フランスのブールジュに連行、幽閉される。

 1502年 釈放されローマに帰る。

 1505年3月 この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、ミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
 1505年5月28日 ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチジャンパオロ・バリオーニバルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。

 アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ霊廟

関連項目
 The Borgias: 101, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201

別表記
 アスカーニオ・スフォルツァ、アスカーニオ枢機卿、アスカニオ

外部リンク
 Find A Grave
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『メディチ家』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Lucretia Borgia
スフォルツァ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで