——Baccio Valori——
バッチオ・ヴァローリ
生没年:1477年〜1537年8月20日
出身・没地:フィレンツェ
父:フィリッポ・ヴァローリ
母:アレッサンドラ・ダヴェラルド・サルヴィアーティ
妻:ディアノーラ・ソデリーニ
子:パオラントーニオ・ヴァローリ
  フィリッポ・ヴァローリ
記載日:2005年5月29日以前

年表
 1530年8月11日 朝、フィレンツェの4使節は、和平(降伏)協定案を持って市内に帰る。彼らに同道したカール5世軍陣営における委員バッチオ・ヴァローリ(?〜1537年)とフィレンツェのシニョーリアとの交渉は、夜妥結。コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
 1530年8月〜10月31日 メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グィッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年〜)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
 1531年1月29日 メディチ派内部に対してさえ非寛容な専断をなし過ぎたため解任された(1530年末)バッチオ・ヴァローリに代わってクレメンス7世によりその全権代理に任命されたカプア大司教Nikolaus von Schönberg着任。
 1532年4月4日 バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年〜1549年)、Agostino Diniジョヴァンニ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
 1537年7月下旬 軍の編成に励んでいたフィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃〜1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年〜1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。
 1537年8月1日 午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
           正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
           夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
 1537年8月20日 アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ(1486年〜)及びバッチオ・ヴァローリ(?〜)父子らが処刑される。

別表記
 バッチョ、Bartolomeo

外部リンク
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヴァローリ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで