——Beltrando Costabili——
ベルトランド・コスタビリ
記載日:2010年10月15日

概要
 ベルトランド・コスタビリはローマ駐在フェッラーラ大使。

年表
1502年1月6日
ローマの郊外数キロの地点までルクレツィア・ボルジアに同行し、引き返す前にじかに彼女に挨拶をする。
ローマにてフェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ヴァティカン宮殿ボルジアの間の鸚鵡の間でルクレツィア・ボルジアは父教皇アレクサンデル6世に別れを告げた。父と少しの間過ごした後、チェーザレ・ボルジアが入ってきたのと入れ替わりに出ていく時、アレクサンデル6世が大きな声で呼びかけた。元気で過ごし、何か欲しいものがあればいつでも手紙を書きなさい。ローマにいた頃よりも、彼のもとを去った今、もっと多くのことを彼女のためにするだろう、と言った。アレクサンデル6世ルクレツィア・ボルジアの随行員たちが見えなくなるまで、場所を変えながら見送った。
1502年1月7日
ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、教皇庁の役人たちは勅書を作成するだけで5から6千ドゥカートを要求しているだけに、フェッラーラの減税のために、金で払うなら少なくとも20万ドゥカートが要求されただろうと言った。フランスとスペインはチェーザレ・ボルジアに、たった1頭の白馬の支払いの形で、ナポリの減税のために2万ドゥカートの賦課金を納めている。しかし、フェッラーラは全てから免除される。
1502年1月
1502年1月28日のアレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアを誹謗中傷したものをギリシア語からラテン語に訳しヴェネツィアに送ったとして、ヴェネツィア人が逮捕され、処刑されたことについて。アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアに、ローマは誰もが思うまま話し書く自由な街なのだ。自身もさんざん悪く言われたが一顧だにしていないと1度ならず言って聞かせたと話す。「公は気立てはよいが、侮辱に耐えることを学ばなければならない」と教皇は話すが、それに対しチェーザレ・ボルジアは「ローマに自由に話し書く習慣があろうとも、私としては誹毀文書を書く者にはよい教訓を与えてやるつもりだ」と苛立って反論。
1502年4月1日
ローマにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。アレクサンデル6世は、アルフォンソ1世・デステが夜はルクレツィア・ボルジアと過ごしていることを聞いて喜び、「日中は好きなところに行けばいい。お若いのだし、そうする権利がある」と言っていた。
1504年3月7日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。1504年3月6日、毒殺されたジョヴァンニ・ミキエルの執事が死刑に処され、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアの明白な命令の下だったと告白。
1504年10月27日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

 ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの状況はそう言われているほど絶望的ではありません。サレルノの枢機卿フアン・デ・ヴェラが、公がスペインに辿り着くまでに出したものである公の執事のハイメ・デ・レクェゼンツからの3番目の速達と、枢機卿たちからスペイン王フェルディナンド・ダラゴーナへ送られた手紙をお持ちです。公は強固ではあるが広々としたセビリアの城に1人の召使いと共に幽閉されていると、ハイメ・デ・レクェゼンツは書いております。すぐに8人の召使いが与えられるそうです。ハイメ・デ・レクェゼンツがチェーザレ・ボルジアの自由のためにスペイン王へ嘆願すると、陛下は公を監禁することを命令していなかったが、ゴンザロ・デ・コルドバの彼に対する告訴によりスペインに護送するようには指示したと仰っております。もし真実でないことが分かれば、チェーザレ・ボルジアのための枢機卿の嘆願に従う。しかしながら、女王イサベル1世・デ・トラスタマラが回復するまでは、何もできないとのこと。公の釈放に尽力している、ナヴァーラ王ジャン・ダルブレと女王の大使にも同じ返答をなさり、そのような次第で、ハイメ・デ・レクェゼンツは公がすぐ釈放されることを期待しております。
1507年5月6日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世が、フランシスコ・デ・レモリンスの家の12の櫃、84の包まれたタペストリー、高価なもの、チェーザレ・ボルジアの所有物を押収した。

別表記
 Constabili

参考文献
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
外交官