——Bernardo Bandini——
ベルナルド・バンディーニ
生没年:〜1479年12月28日
記載日:2005年5月29日以前

■教養
 マルシリオ・フィチーノの教え子。

■年表
 1478年4月26日 パッツィ家の陰謀決起:
            シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?〜1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチは殺され(1453年〜)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
            同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
            同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年〜)。
            間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
            自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
            ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
 1479年12月28日 1478年のパッツィ家の陰謀、決起におけるジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ殺害者の一人でコンスタンティノポリスまで逃亡していたベルナルド・バンディーニ、オスマン・トルコにより身柄を引き渡され、この日、処刑される。
 1479年12月28日 絞首刑に処せられる。嘲笑いを誘うためにトルコ人の服装をさせられていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコの留守中に反逆を考えるかもしれない人々へ向けた警告でもあった。
 1479年12月28日 レオナルド・ダ・ヴィンチ、「ベルナルド・バンディーニの処刑図」を素描。

■肖像
 バンディーニの処刑

参考文献
 『世界の歴史12 ルネッサンス』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで