——Bona di Savoia——
ボーナ・ディ・サヴォイア
生没年:1449年8月10日~1503年11月17日
出身:アヴィリアーナ
没地:フォッサーノ
父:ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
夫:ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
男:アントーニオ・タッシーノ
子:ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
  エルメス・スフォルツァ
  ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
  アンナ・マリーア・スフォルツァ
記載日:2005年5月29日以前

概要
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの妻。夫の死に際して、息子ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる。しかしそれは表向きで、実際には書記官のチッコ・シモネッタがミラノ公国の実権を握っていた。煩わしい国事よりも、愛人であるフェッラーラ人の従者アントーニオ・タッシーノとの時間を過ごすことの方が彼女にとっては重要であり、チッコ・シモネッタが持ってくる事案にむしろすすんで認可を下していたようである。

年表
 1449年8月10日 アヴィリアーナで生。

 1468年7月6日 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと結婚。

 1471年3月上旬 夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに従い、フィレンツェを訪問。

 1476年12月26日(木) サント・ステファノの日。夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺害され、息子ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる(-1480)。
                フランチェスコ1世・スフォルツァ以来の忠臣チッコ・シモネッタが補佐、実権を握る(-1479)。
 1476年12月30日(月) ミラノで秘密評議会宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタ主導の寡頭政治体制をこれによって認めている。

 1477年1月初旬 ミラノでチェルソ・マッフェイ宛書簡をしたためる。内容は、教皇シクストゥス4世に夫に死後の赦免を与えてくれるよう懇願。
 1477年2月24日 スフォルツァ城で、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガを調停役、ロベルト・サンセヴェリーノを立会人とし、義兄たちスフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァとの協定に調印する。ミラノ公国の摂政、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見と認められる。一方、義兄たち1人1人には年収1万2千5百ドゥカートと、百名の精鋭騎兵中隊の指揮権が与えられ、かつて義兄たちが所有していながら、故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァによって奪われた城や領地を返還することを約束。
 1477年3月16日 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ暗殺に刺激されたジェノヴァが、フィエスキ家を中心にミラノ支配に対して反乱。ミラノの摂政ボーナは大軍をジェノヴァに送る。
 1477年4月30日 ミラノ軍がジェノヴァの反乱を鎮圧。元ドージェのプロスペロ・アドルノをミラノ総督としてジェノヴァを統治(-1478)。
 1477年5月半ば スフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァとの協定を更新。
 1477年5月25日 ミラノで故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの弟スフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロおよびアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァをミラノ公とする企み露見。
 1477年6月1日 義兄たちの追放処分を決定。スフォルツァ・マリーア・スフォルツァバーリへ、ルドヴィーコ・イル・モーロはピサへ、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァペルージアへ。

 1478年3月27日 ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノは、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
 1478年6月25日 シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。
 1478年8月7日 ジェノヴァのプロスペロ・アドルノによる反乱鎮圧に送られたミラノ軍が、ジェノヴァ軍に破れる。
            これに対しボーナは、アドルノ家の宿敵フレゴーソ家のバッティスタ2世・フレゴーソを、彼の独立のドージェとしてジェノヴァを統治することを認めかつ周辺の城塞を与えた上で市内に送り込む。
 1478年11月25日 バッティスタ2世・フレゴーソが、アドルノ陣営の内部の分裂を利してプロスペロ・アドルノら首脳を追放し、自らドージェとなる。ミラノのジェノヴァ支配終わる(1464-1478)。

 1479年8月10日 教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
            この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シギスモンド・ディ・ニッコロ・デステに任せてトルトーナに向かう。
            エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。
 1479年9月10日 ルドヴィーコ・イル・モーロジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとボーナ・ディ・サヴォイアの背後で実験を握ってきたチッコ・シモネッタを両名から引き離すことに成功し、この日、チッコ・シモネッタを逮捕させパヴィアの獄に投じさせる(1479年9月11日)。
            以後ルドヴィーコ・イル・モーロ、次第にミラノの実権を掌握。

 1480年10月7日 ルドヴィーコ・イル・モーロにより、ミラノ宮廷から追放される。

 1503年11月17日 フォッサーノで没。

別表記
 ボナ・デ・サヴォイア

外部リンク
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 GENEALOGIE DELLE DINASTIE NOBILI ITALIANE
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Malta Genealogy
 Treccani.it

参考文献
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
サヴォイア家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで