- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ボルゴ
概要
サンタンジェロ城は、ローマにある建物。元々はハドリアヌス帝の墓地だったところが、中世以降要塞化した。
アレクサンデル6世時代にもアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオに委嘱し、大きな修復がされた。
ALEXDLR VI PONT MAX
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紋章部分は剥がれているものの、「教皇アレクサンデル6世、紀元後1495年に改修工事」との銘が残されている通り、アレクサンデル6世が大規模な改修を指示し、現在の形になった。この時代には要塞としてよりも牢獄としてよく使われたらしい。
アントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオによる堅塁化
教皇アレクサンデル6世により依頼を受けたアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオは、当時の最新の技術を用いて実質的な軍事拠点の性格を持たせた。周囲にあった建物を取り壊して、ニコラウス5世の下で建てられた構造を組み込んだ五角形の堡塁を築く。城への出入り口となる道の制御をより強めるため、橋の先端に円形の塔を建て、壁の周りにテヴェレ川の水で満たされた堀を造った。
アレクサンデル6世は防御構造の強化を図っただけでなく、ピントゥリッキオにフレスコ画を描かせた部屋、庭園と噴水を付け加えることによって、優美な居住空間にもした。当時の年代記には贅沢で豪華と記述されており、そこで宴会や演劇を催したというが、1628年にウルバヌス8世が解体したため今日では何も残っていない。
ピントゥリッキオはTorrione del Passoに、1495年1月に訪れたシャルル8世を題材としたアレクサンデル6世の物語を描いた。他にもボルジア家の人々や、イサベル1世・デ・カスティーリャ、ニッコロ2世・オルシーニ、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオら当代人が登場する6つの壁画があったという。チェーザレ・ボルジアの最も信頼性の高い肖像画であったろう「チェーザレ・ボルジアとジェームを伴いローマを出発するシャルル8世」が、塔と共に失われてしまったのは非常に残念である。
1892年の発掘調査で「ALEXANDER VI PONT MAX GENTE BORGIA FUNDAVIT」と刻まれた大理石の碑文が発見されている。
1553~1563年
1557年
1575年
16世紀
アレクサンデル6世の中庭 Cortile di Alessandro VI
3階。中庭に出る階段の名前がアレクサンデル6世階段というらしいが、どの階段のことなのか調査中。
アレクサンデル6世の紋章
ボルゴ通廊 Passetto di Borgo
ボルゴ通廊とは、ヴァティカンとサンタンジェロ城を繋ぐ通路で、教皇レオ4世が848年から852年に築いたサン・ピエトロ大聖堂を囲む城郭、レオニーネの壁の屋上と内部を通り抜けられるようにしたものである。
1500年頃、教皇アレクサンデル6世は、サン・ペッレグリーノ門からサンタンジェロ城まで伸びる城郭と通路を修復し、以来この名前が付けられたが、通廊自体は以前から存在していた。
1494年フランス軍がイタリアへ侵入した際に、アレクサンデル6世がヴァティカンからの避難経路として使ったのが有名だが、チェーザレ・ボルジアの方がよく利用していたようである。
牢獄 Prigioni
牢獄は2階にある。入口には警備員が立っており、ツアー以外は中に入れない。薄暗い階段を降りるとそこには光も射さないような牢屋が並び、当時囚人を鎖で繋いでいた跡などが残っている。
ボルジア時代この場所は頻繁に使われた。そしてアレクサンデル6世亡き後、ミケーレ・ダ・コレーリアもこの牢獄で拷問を受けたのである。
宝物庫 Stanza del Tesoro
宝物庫は5階の中心に位置する。いくつかの宝箱があるようだが、撮影禁止。
アポロの間 Sala di Apollo
教皇パウルス3世が装飾を依頼し、1547年10月2日に開始。
所蔵品 Museo Nazionale di Castel Sant'Angelo
題材作品
別表記
サン・タンジェロ城、カステル・サンタンジェロ、サンタンジェロ城塞
外部リンク
ウィキペディア
チェーザレ・ボルジアとその周辺
ボルジア解体新書
Els Borja
Google Books
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Museo Nazionale di Castel Sant'Angelo
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St Peter's Basilica Info
Wikipedia
記載日
2006年7月15日
更新日
2024年12月21日