Caterina d'Aragona

カテリーナ・ダラゴーナ

生没:1485年12月16日~1536年1月7日
父:フェルナンド2世・デ・アラゴン
母:イサベル1世・デ・カスティーリャ
夫:アーサー
  ヘンリー8世
子:メアリー1世

概要

 カテリーナ・ダラゴーナは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1502年
アーサーと結婚。
1503年
アーサー没。
1509年6月3日
ヘンリー8世と結婚。
1527年5月初頭
この頃?、ヘンリー8世、教皇特使(1524年~)としての(自分の大法官)トマス・ウルジーに、妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認、宣言するよう求める。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1529年5月31日
ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオトマス・ウルジーの主導下で開催される。
1529年7月16日
バルセロナ協定によってカール5世との関係を確立したクレメンス7世、婚姻不成立の訴えに関してヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナローマに召喚する令状に署名。
1529年11月3/4日
宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。
1533年5月23日
1533年1月10日ヘンリー8世にってカンタベリー大司教に任命されクレメンス7世の承認を得て1533年3月30日公式に叙階されたThomas Cranner(1489年~:在位~1553年)、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は無効と宣言。
1533年7月9日
もはやクレメンス7世が自分とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻を無効と認める可能性はないと見たヘンリー8世、1532年1月議会の制定した「初年度収入税上納制限法」を発効させる。
1533年7月11日
クレメンス7世ヘンリー8世アン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1534年3月23/24日
クレメンス7世、秘密枢機卿会議でヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は有効であることを改めて最終的に確認し、ヘンリー8世にその婚姻に復帰するよう命令。(この報、1534年4月4日ロンドンに届く)。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。

別表記

 キャサリン・オブ・アラゴン、カタリナ、Catherine of AragonCatalina d'AragonaCatarina

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 The Medici Archive Project

参考文献

 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家の人々』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前