Catherine de Medicis

カトリーヌ・ド・メディシス

生没:1519年4月13日~1589年1月5日
父:ロレンツォ・デ・メディチ
母:マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
夫:アンリ2世
子:フランソワ2世
  シャルル9世
  アンリ3世
  マグリット・ド・ヴァロワ
  クロード・ド・ヴァロワ

概要

 カトリーヌ・ド・メディシスは、16世紀の女性。

年表

1519年4月13日
ロレンツォ・デ・メディチと妻マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュの間に娘カトリーヌ・ド・メディシス生(~1589年)。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グィッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1532年12月15~20日
クレメンス7世カール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世メディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年5月3日
クレメンス7世フランソワ1世の2名の全権使節François de TournonG. de Gramontアンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世フランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。
1533年10月27日
クレメンス7世フランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。
1533年
アンリ2世と結婚。
1544年9月
クレピーの和の報を得たコジモ1世・デ・メディチフランソワ1世宮廷に特使を送って祝意を表させ、カトリーヌ・ド・メディシスにも表敬させるが、特使は冷遇されてすぐ帰国。
1547年3月31日
フランソワ1世死(1494年~:在位1515年~)——第二子アンリ2世(1519年~)、フランス王に即位し、アンリ2世を名乗る(在位~1559年)。
これに伴いカトリーヌ・メディシス、フランス王妃となる。
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de Franceメアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1560年12月5日
フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。
これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。
1561年1月28日
ヴァロワ王家・王権を安定させる唯一の法と王の下にカトリックとユグノーを融和・共存させようと狙うカトリーヌ・メディシス、全国の高等法院に親書を送り、信仰上の理由で捕らえられている者の釈放と宗教裁判による異端追放の延期を命ずる(オルレアンの勅令)。
1561年9月
カトリーヌ・メディシス、ポワシーでカトリック・ユグノー両派の宗教会議を主催。しかしD. LaynezCharles de Guiseらカトリック代表とT. de Bèzeらユグノー代表との論争、決裂。
1562年1月17日
カトリーヌ・メディシスシャルル9世の名で、ユグノーの説教礼拝を都市市壁外で自由に許し、市壁内でも私邸内に限って認める勅令を発する(一月王令)。しかし高等法院がこの勅令の登録を拒否し、ギーズ一門がこれを断乎排斥する姿勢を固めるなど、カトリック・ユグノー両派の融和を狙うカトリーヌ・メディシスの企図に反し両派の対立、さらに深まる。
1562年8月8日
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、カトー・カンブレジの和(1559年)では故アンリ2世から取り戻せなかった地点の内、ピネローロなどを除くトリノ、キエーリ、キヴァッソ、ヴィッラノーヴァ・ダスティの返還をカトリーヌ・メディシスに認めさせることに、フランスの宗教的・政治的混乱を利用し妃マグリット・ド・ヴァロワの助力を得ながら成功(ブロワ協定)。
1562年12月12日
フランス勢力、軍と共にトリノを最終的に撤退。
1563年3月19日
カトリーヌ・メディシス、全ての臣下に信仰の自由を認め、上級貴族には自宅における家族・家臣の礼拝の自由を、一般市民・農民には大法官管轄区に設置された教会堂における礼拝の自由を認めるがパリでは新教の礼拝を一切、認めないことなどを内容とする新旧両派和解のための勅令をアンボワーズで発布(アンボワーズ和解王令)。第1次(フランス)宗教戦争、終わる(1562年~)。
1565年6月14日~7月2日
カトリーヌ・メディシスシャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。
1568年8月
カトリック・ユグノー両派の融和・共存策を断念したカトリーヌ・メディシス、王総代理官アンリ3世(1551年~1589年:ポーランド王在位1573年~1574年:フランス王1574年~1589年)にLouis I de BourbonG. de Colignyを奇襲させるが失敗に終わる。後者らLa Rochelleに籠城し第3次(フランス)宗教戦争、始まる(~1570年)。
1572年8月23日~8月24日
サン・バルテルミーの虐殺:Henri de NavarreMarguerite de Franceの結婚祝賀行事でパリに留まっていた各地のユグノー貴族・指導者たち、カトリーヌ・メディシスの巧みで強い教唆を受けたシャルル9世の命により、夜半からギーズ一門の兵士と暴徒に襲撃・虐殺される。Henri de Navarreは難を免れパリから逃亡するが、G. de Colignyがサン・バルテルミーの祭日の未明、ギーズ公Henri de Lorraine自身に率いられた彼の手の者により真っ先に刺殺される(1519年~)など犠牲者は3~4千名にのぼり、ユグノーは主な指導者を全て失う。
さらに組織的弾圧・殺戮が各地に広まり、犠牲者は1万名ののぼって「キリスト磔刑以来の虐殺」と評される事態の中、ユグノーは民衆を中心として組織的抵抗を続ける(第4次(フランス)宗教戦争(~1573年))。
この虐殺に驚愕し危機感を深めるユグノーの間に、この暴政を行う王に対する反抗を正統化する論拠を、まず聖書の中に、次いで聖書の枠を超えて広く求める動きが直ちに生じ、Monarchomachi(暴君放伐論派:モナルコマキ)と総称されることになる政治理論家が生成。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1572年
サン・バルテルミーの虐殺、新旧両教の対立激化。
1573年3月7日
レパント沖の海戦(1571年)による勝利後、一方で同盟国スペイン・フェリペ2世と東地中海における相互の地位などを巡って両立困難な状態に陥り、他方で、水軍を再建して再び立ち向かう姿勢を見せるオスマン・トルコの前に孤立し始めたヴェネツィアカトリーヌ・メディシスの仲介でオスマン・トルコと、オスマン・トルコのキプロス島及びダルマシアの領有(1540年~)の継続、相互の特権付与、などを含む単独講和をイスタンブール(コンスタンティノープル)で締結。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 歴史データベース
 Genealogy.EU

参考文献

 『イタリア史』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『世界悪女大全』
 『中世の食卓から』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『馬車の文化史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ローマ教皇検死録』

記載日

 2005年5月29日以前