Cesare Borgia

チェーザレ・ボルジア

チェーザレ・ボルジアの肖像
生没
1475年9月13日~1507年3月11日
出身
スビアーコ
没地
メンダヴィア
アレクサンデル6世
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
シャルロット・ダルブレ
ルイーズ・ボルジア
ジローラモ・ボルジア
カミッラ・ルクレツィア・ボルジア
ガスパーレ・ジョフレ

概要 

 チェーザレ・ボルジアは、ルネサンス・イタリアの専制政治家。父教皇アレクサンデル6世の権力を後ろ盾とし、軍事と政治両面を駆使して教皇領の小国を次々と攻略。その目的のために手段を選ばぬ奔放刻薄さはニッコロ・マキアヴェッリをして理想的君主と目させたが、アレクサンデル6世の急死と共に失政。義兄ナヴァーラ王ジャン・ダルブレのもとに逃れ、従軍中あえなく戦死した。

教養 

 ペルージア大学、ピサ大学で学ぶ。

第1次攻略 

 1499年12月イーモラ、1500年1月フォルリフォルリンポーポリを征服。

第2次攻略 

 1500年10月リーミニペーザロ、1501年4月ファエンツァカステル・ボロニェーゼ、5月頃アッピアーノ家の領地エルバ島、ピアノーザ島、8~9月ピオンビーノを征服。
 1501年コラートを再占領。

第3次攻略 

 1502年6月カーリ、ウルビーノ、7月カメリーノを征服。
 10月ジョヴァンニ・バッティスタ・ブリツィオにサン・レオ要塞を奪われる。ウルビーノ、カーリ、グッビオが反乱。ペルゴーラとフォッソンブローネが反乱したため、占領、略奪。カルマッツォの戦いで配下の軍がオルシーニ軍に敗戦。
 1503年1月セニガッリアを征服。セニガッリアの罠チッタ・ディ・カステッロペルージア、フェルモ、チステルナ、モントーネを征服。
 3~4月オルシーニ家の所領を攻囲し、大部分を平定して教会領に統合。

皇帝か無か Aut Caesar, Aut Nihil



 チェーザレ・ボルジアの剣にもなければ、旗印に書かれていたという文献も見つけられない。チェーザレ・ボルジア以前にラディスラオ1世・ダンジオが座右の銘としていたと言われているが、こちらも根拠がない。ユリウス・カエサル著『ガリア戦記』にもそんな言葉は書かれていない。
 ナポリ王に仕えていたヤコポ・サンナザーロはチェーザレ・ボルジアを揶揄して、「Borgia Caesar erat, factis et nomine Caesar. Aut nihil aut Caesar dixit : utrumque fuit.」と「Aut nihil aut Caesar vult dici Borgia. Quidni? Cum simul et Caesar possit et esse nihil.」という2つの詩を作っている。
 1551年にリヨンで出版されたクロード・パラダン著『英雄的ドゥヴィーズ集』にチェーザレ・ボルジアの格言として表れているが、ヤコポ・サンナザーロの詩をもじって作られたのではないだろうか。
 1559年に同じくリヨンで出版されたガブリエーレ・シメオーニ著の方でも、ほとんど同じような形で掲載されている。右手に世界、左手に0が並んだ巻物を持ったユリウス・カエサルという図像で示されており、ヤコポ・サンナザーロの詩が書かれている。

チェーザレとルクレツィア・ボルジアの関係

 近親相姦していたという噂があり、多くの創作物でそのように描かれているが、兄は妹を政略の具として役に立つからかわいがっていただけにすぎず、そんな兄を諦観する妹というところが実情ではないかと思う。

カンタレッラ

 カンタレラ、単なる伝説。パオロ・ジョヴィオCantharidesについて、「砂糖に似た白い粉薬で、多数の貧者を使って試されたが、その死に様は悲惨なものだった」などと記述しているらしいが、どの本にこの記述があるのか不明で、現在調査中。
 どうやら、Augustin CabanèsLucien Nass共著『Poisons et Sortilèges: Les Césars. envoûteurs et sorciers. les Borgia Paris: Plon, 1903.にそのような記述があるらしい。273頁に、「Le poison des Borgia portait le nom de cantarella ou cantarelli. C'était, au dire de Paolo Jovio, "une espèce de poudre maniere, qui ressemble en quelque manière à du sucre, et dont on avait fait l'épreuve sur un grand nombre de pauvres innocents qui en étaient morts dans un misérable état."」(引用元:BnF)とあるけれども、出典は記載されておらず。カンタレッラについてのことだったのか怪しい。
 かなり近代になって創り出された謬説ではないか。

在位 

 パンプローナ司教 1491年9月12日~1492年8月31日
 ヴァレンシア首都大司教 1492年8月31日~1498年8月18日
 フランス、ナント教区長 1493年8月9日~1493年11月4日
 枢機卿 1493年9月20日~1498年8月18日
 サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿 1493年9月23日~1498年8月18日
 スペイン、コリア教区長 1495年~1499年9月6日
 フランス、エルヌ教区長 1495年1月20日~1499年9月6日
 初代ヴァレンティノワ公 1498年~1507年
 イーモラ領主 1499年~1503年
 フォルリ領主 1499年~1503年
 教会の旗手 1500年3月29日~1503年
 リーミニ領主:1500年~1503年
 ファエンツァ領主 1501年~1503年
 ピオンビーノ領主 1501年~1503年
 ロマーニャ公 1501年~
 アンドリア公 1501年~
 ウルビーノ公 1502年~1503年

年表 

1475年9月13日

スビアーコアッバツィアーレ要塞にて、生(1475年4月、1475年9月14日、1476年4月、1476年9月13日)。

1480年10月1日

シクストゥス4世により、司教枢機卿と既婚女性との子という教会法上の障害を免除される。既婚女性の子供は法的にその夫に帰属するのため、父親は、当時ヴァノッツァ・デイ・カッタネイの夫であったドメニコ・ダ・リニャーノとされる。6歳と記載される。「in sexto tuo aetatis anno

1482年4月16日

シクストゥス4世により、ロドリゴ・ボルジア枢機卿を後見人とする勅書が発せられる。7歳と記載される。

1482年7月

ヴァレンシアの司教座聖堂参事会員と聖職禄の収入を受ける。

1482年8月

ヴァレンシア司教座聖堂参事会員、教会首席書記官に任命される。シャティヴァと他スペイン都市の聖職禄を受ける。

1484年4月

アルバ主席司祭に任命される。

1484年9月12日

シクストゥス4世により、カルタヘナ大聖堂の財務長任命の勅書が発せられる。9歳と記載される。「in nono tuo aetatis anno

1486年頃

1年間、妹ルクレツィア・ボルジアらと共にアドリアーナ・デル・ミラに引き取られ、モンテ・ジョルダーノ宮殿に居住。

1487年頃

12歳でペルージア大学入学。

1488年

ピエトロ・パオロ・ポンピリオがその著『Syllabica』で、チェーザレ・ボルジアの学問の優秀さを褒め称えている。

1491年9月12日

インノケンティウス8世によりスペイン北部ナヴァーラの州都パンプローナの司教に叙階される(1491年3月12日)。

ヨハン・ブルカルトの日記に17歳と記載される。

1491年

ペルージア大学に通っていたが、この頃ピサ大学に入学。

1491年10月

ピサにて手紙をしたためる。教師のフアン・デ・ヴェラを一家の主と呼び、同窓のフランシスコ・デ・レモリンスを最も信頼できる仲間だと書いている。

1492年8月21日

父教皇アレクサンデル6世の命により、ピサをこの日の朝出立し、スポレートの城(アルボルノツィアーナ要塞?)へ向かう。

1492年8月31日

アレクサンデル6世により、教皇即位後初の枢機卿会議で、スペインのヴァレンシア大司教に叙任される。

スペイン、ヴァッレディニェのシトー会修道院長の空位の聖職禄を受け取る。

1492年10月5日

スポレートにてピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙をしたためる。ピサからの突然の出発により、ピエロ・イル・ファトゥオと口頭で連絡を取ることができないため、教師フアン・デ・ヴェラが代理を務めなければならないだろうと書き、ピサ大学の教会法の教授にフランシスコ・デ・レモリンスを推薦。

1492年10月

ヴァティカン宮殿に到着。ペニテンツィエリ宮殿に住む。

1492年10月31日

この日ローマに到着したジョヴァンニ・スフォルツァペニテンツィエリ宮殿に滞在する。

1493年2月8日

ジュネーヴ教区アブンドゥンスのベネディクト会修道院長、ハンガリー、ジェール教区のセント・マートン・デ・パンノニエ修道院長、ミラノのサン・ヴィットーレ修道院長の空位の聖職禄を受け取る。

1493年6月12日

ルクレツィア・ボルジアジョヴァンニ・スフォルツァヴァティカン宮殿での結婚式に参列。簡素な司教服を纏う。ジョヴァンニ・スフォルツァ到着のすぐ後に、弟ホフレ・ボルジアと共に、壁の中に開くようになっていた秘密の戸口からそっと忍び込むという、幾分芝居がかった形で入場。

1493年6月15日

スペイン王特使ディエゴ・ロペス・デ・アローローマ入城に同伴。

1493年8月9日

ナント教区長に任命される。

1493年9月20日

枢機卿会議でアレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1493年9月23日

赤い帽子を受け取り、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

1493年11月4日

ナント教区長任命を取り消される。

1495年1月20日までフランス、カストル教区長。

1493年

この頃から聖職を離れる準備を進める。

1494年3月26日

ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に、下級聖職位と助祭に叙階される。

司祭や司教には叙階されることはなかった。

1494年5月8日

ナポリ王から多額の聖職禄を受け取る。

1494年7月14~15日

アレクサンデル6世ローマ近郊でアルフォンソ2世・ダラゴーナと会見するのに伴う。

1494年10月31日

アレクサンデル6世の命により、ローマに召還されたアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿の後任を務めるため、船でローマを出発。

1495年1月7日

アレクサンデル6世に従い、シャルル8世を避けるためサンタンジェロ城に避難。

1495年1月

サンタンジェロ城から、シャルル8世の滞在するサン・マルコ宮殿(現ヴェネツィア宮殿)を6人の枢機卿と共に訪問。シャルル8世から、ナポリ征服への教皇の支援、チェーザレ・ボルジアを人質として教皇の友好を保障すること、サンタンジェロ城の明け渡し、ジェームの引き渡しを要求される。

1495年1月15日

フランス軍への教皇特使に任命される。

1495年1月20日

サン=フルール教区サン=ジェロー・ドーリヤック修道院の空位の聖職禄を辞退。

1495年1月20日

1499年9月6日までアラゴン王国、エルナ教区長。

1495年1月28日

シャルル8世の人質として、ナポリに向けローマを出発。

夜、マリーノ到着。

1495年1月29日

夜、ヴェッレトリにて、シャルル8世の陣から逃亡(1495年2月半ば)。馬丁に変装し、町を少し出たところでヴェッレトリの高官フランチェスコ・デル・サッコが用意していた馬に乗り、ローマへ向かう。

1495年1月30日

夜、ローマ到着。ヴァティカンを避け、ルオータ法廷の監査員アントーニオ・フローレスの家に滞在し、ここからアレクサンデル6世に状況を報告。

1495年1月31日

スポレートへ向かう。

1495年2月

ヴァティカンに帰還。

1495年5月28日

アレクサンデル6世に従い、オルヴィエートへ向けローマ出発(1495年5月27日)。

1495年6月

アレクサンデル6世に従い、ペルージアのサン・ドメニコ教会にスオール・コロンバを訪れる。

1495年6月27日

アレクサンデル6世に従い、ローマに帰還。

1495年?月?日

1499年9月6日までスペイン、コリア教区長。

1496年8月10日

サン・ロレンツォの日。弟、ガンディア公フアン・ボルジアローマ到着。ポルテーゼ門で迎え、宿泊地に予定されている教皇の館まで同道。

1496年

バルトロメオ・ダルヴィアーノ軍がモンテ・マリオの丘にまで迫ってきた時、チェーザレ・ボルジアは狩りをしていて、危うく捕まりそうになったという。

1497年6月8日

枢機卿秘密会議にて、ナポリシチリアフェデリーコ・ダラゴーナナポリ新王戴冠式を行う教皇特使に任命される(1497年6月9日)。

1497年6月14日

ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ主催の宴に俗人の服装で出席。

この夜から翌1497年6月15日朝にかけて、フアン・ボルジアの死体、ローマテヴェレ川に浮かぶ。

1497年7月22日

教皇特使として、2百騎でローマを出発。

1497年8月初旬

熱病が流行するナポリを避けカプアに到着するが、罹患した為戴冠式延期。

1497年8月10日

カプア大聖堂にて、フェデリーコ・ダラゴーナナポリ王戴冠式を執り行う(1497年8月11日)。

1497年8月14日

ナポリ入り。

1497年8月22日

ローマへ向け出発。

1497年9月6日(水)

夜、ローマサンタ・マリア・ノヴァ聖堂に到着(1497年9月4日、1497年10月5日)。

慣習通り、朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂で枢機卿団に迎えられる(1497年9月5日、1497年10月6日)。

一行がヴァティカン宮殿に到着すると、鸚鵡の間に来たアレクサンデル6世と会い、標準祭服を受け取る。教皇と枢機卿たちは第三の広間で枢機卿会議を始め、チェーザレ・ボルジア、ドメニコ・グリマーニアスカーニオ・マリーア・スフォルツァは第一礼拝堂で待つ。ウィーンの司教傷害事件など3つの議題が議論され始めると、礼拝堂にいたチェーザレ・ボルジア、フランチェスコ・ピッコローミニラッファエーレ・サンソーニドメニコ・グリマーニアスカーニオ・マリーア・スフォルツァが広間に入る。入ってきた2名の枢機卿が所定の席に着くまで、ヨハン・ブルカルトによれば待たせているチェーザレ・ボルジアのため、教皇は発議者に続行するよう合図した。2つ目の議題が終了する頃、フランチェスコ・ピッコローミニチェーザレ・ボルジア、ラッファエーレ・サンソーニが入場し、そしてチェーザレ・ボルジア、と一緒に王国から戻ってきた数人の高位聖職者が続いた。 高位聖職者が教皇の足と手に接吻。チェーザレ・ボルジアも接吻したが、会話はなし。全員が着席して3つ目の議題が終わると、全員が起立し、チェーザレ・ボルジア他3名くらいの助祭枢機卿が教皇の足に接吻。教皇は退場。

1497年12月

ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティの聖職禄を受け取る。

1498年2月21日(水)

気晴らしのために、枢機卿たちと共にフランス風の平服を着てローマから馬でオスティアへ旅行。

1498年2月24日(土)

同じ服装でローマへ戻る。

この謝肉祭の時期、ローマではどの祝祭も催されず、アゴーネ広場でもテスタッチョでも公の娯楽は一切なく、仮面舞踏会も行われず。

1498年2月27日(火)

告解火曜日

1498年8月

ローマにいるチェーザレ・ボルジアのもとへ届けられる途上の絹と金糸織の布地の入った積み荷を、ボルセーナの森でアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿とそのいとこピエル・パオロの手下に略奪される。おそらく彼らの命令でなされたことではなく、手下の独断。

1498年8月17日(金)

秘密会議で、還俗して結婚する許可を教皇から得られるよう、協力を枢機卿たちに願い出、同意を得る。

1498年8月18日

枢機卿団による全会一致の合意を受け、枢機卿を辞任し、また全ての司教職、修道院長職を辞任し、聖職を離れる(1498年8月7日、1498年8月13日、1498年8月17日)。

1498年8月22日

ルイ12世により、ヴァレンティノワ、ディユワ伯、イスーダン領主に叙される。百人の騎士団、年金2万リーヴル、塩と葡萄酒をライン川で輸送する任務ロスヌで6千リーヴルを与えられる。

1498年8月30日

フェッラーラエルコーレ1世・デステイッポーリト・デステ?)宛てにラテン語の手紙をしたためる。フランスへ出発するため、馬を頼む。

マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。フランス宮廷で「名誉ある」ためには、イタリアで最も称賛されるゴンザーガ家の厩舎から馬が必要。「美しい馬が不足しているため、この度のような旅に適した馬に頼ることに致しました。」

1498年9月3日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。フランスへ出発するため、ヴァイオリン奏者を頼む。

1498年10月1日

ルイ12世ジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻無効の承認、及び宰相ジョルジュ・ダンボワーズの枢機卿叙任の勅書(1498年9月16日又は17日)を携えフランスのマルセイユに向けローマ郊外を出航。梅毒による顔の吹き出物のために、この日まで出発を延期。白と金の錦織の緞子を着込み、その上にフランス仕立ての黒ビロードの袖なしマントを羽織り、銀の蹄鉄を付けた鹿毛の馬に跨る。

1498年10月12日

マルセイユに上陸(1498年10月19日)。

1498年10月

アヴィニョン到着。ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿に迎えられる。

1498年10月31日

アヴィニョンにて、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1498年10月

ヴァレンティノワ公に陞爵され、ヴァレンティーノ公Il Valentinoと呼ばれるようになる。

1498年11月10日

新領地ヴァレンティノワの中心都市ヴァランスに到着。

1498年12月

リヨン到着。豪華な衣装と馬に乗って盛大に入城。

エルブリー広場と商館で神秘劇や滑稽劇が上演され、饗宴が開かれる(1498年11月7日)。

1498年12月18日(火)

シノン到着(水曜日)。狩猟に行くという名目で来たルイ12世と町から2リュー(約8~10キロメートル)のところで出会い、歓迎される。ヴィエンヌ川の橋の入り口で、王の使者たちに迎えられる。

チェーザレ・ボルジアは、大きな宝石と真珠で刺繍された赤い緞子と金糸織りで豪華に飾られた背の高い馬ゴンザーガ・コルシエレイに乗る。黒いビロードを着て、3万ドゥカート以上の価値がある金剛石の首飾りを付けている。帽子には豆ほどの大きさの紅玉5、6個が2重になってきらきらと輝き、縁にも多くの宝石が付けられ、長靴に至るまで全てが金の鎖で飾られ、真珠で縁取られていた。ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿が彼と会話しながら、ラーフェンシュタイン領主フィリップ・エーベルハルト・フォン・クレーフェ、トゥールーズ行政長官、クレルモン卿が先導し、多くの貴族や紳士たちと共に橋の袂まで行進。真紅のビロードを着た24人の下男が従い、2人の太鼓と1人の金の弦のレベック奏者が金糸織りのそれぞれの国の民族衣装を着て、チェーザレ・ボルジアと金銀の服を着た30人のローマ貴族の間を歩きながら演奏。4人の銀のトランペットとクラリオン奏者が絶え間なく演奏。24頭の騾馬がヴァレンティノワ伯爵の紋章が施された布で覆われた鞄、宝箱、長持を運び、また別の24頭の騾馬が王の色である赤と黄色に二分した装具を背負い、黄色の縞模様の緞子で覆われた12頭の騾馬が続き、金糸織りの飾りをつけた6頭の騾馬が列をなす。金、赤、黄色の布が被せられた16頭の大きな馬が馬丁に引かれる。18人の従僕が立派な馬に乗っており、内16人は真紅のビロード、残り2人は金糸織りを着ていたので彼らがお気に入りだろうと言われる。真紅のビロードの鞍、手綱、装具で飾られた騾馬に、同じく真紅のビロードで身を包んだ馬丁たちが同行。宝箱を運ぶ2頭の騾馬は全てが金で覆われていたため、他のものよりもさらに素晴らしいもの、ローマからの勅書や免罪符、あるいは聖遺物を運んでいるのだろうと言われる。

1498年12月22日

ジョルジュ・ダンボワーズに赤い帽子を授ける(1498年12月21日)。

1499年1月

ナント到着。

1499年1月

ナポリ王カルロッタ・ダラゴーナとの結婚問題について、父王フェデリーコ・ダラゴーナと直接、折衝。ルイ12世の支持を受ける。しかしフェデリーコ・ダラゴーナカルロッタ・ダラゴーナに峻拒される。

1499年

ルイ12世、チェーザレ・ボルジアとナポリ王カルロッタ・ダラゴーナとの結婚の実現に努力するが失敗(1499年3月初旬)。間もなくこの結婚は最終的に断念される。

1499年2月4日

ロシュ城にて、ルイ12世により、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿とチェーザレ・ボルジアに、自分の名代としてローマアレクサンデル6世への忠誠を誓うよう命じる。この命令はチェーザレがフランスに留まることを意味していた。

1499年5月10日

ブロワ城にてシャルロット・ダルブレとの婚約に署名。証人は、ルイ12世アンヌ・ド・ブルターニュジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿、フランス王国大法官、サンス大司教トリスタン・ド・サラザール、ヌムール公ジャン・ダルマニャック、オルヴァル公爵、バイユー司教シャルル・ド・ヌーシャテル、ヴィヴィエ司教クロード・ド・トゥルノン、トゥルノン領主ジャック2世・ド・トゥルノン、ブルターニュ副大法官、ギュイエンヌ公アラン・ダルブレの代理人など。

1499年5月12日(日)

ブロワにてシャルロット・ダルブレと結婚式。新妻に2万ドゥカートの宝石と高価な織物を贈る。

フランスの宮廷で、ジョルジュ・ダンボワーズジュリアーノ・デッラ・ローヴェレに会う。

1499年5月19日(日)

聖霊降臨祭。アヴィニョン到着時に他の者から受け取ることを拒否していたサン・ミシェル騎士団勲章を、ルイ12世から直接授与される。

1499年夏

シャルロット・ダルブレと共にラ・モット=フイユ城イスーダンの白塔に滞在し、蜜月を過ごす。

1499年9月6日

ヴァレンシア大司教を辞任。

1499年9月8日

自領であるヴァレンティノワ公国、ディオワ伯領、フランス王国とドーフィネにある他の小さな領地の統治を妻シャルロット・ダルブレに全権委任。

シャルロット・ダルブレを、自分が死亡した場合全ての動産の相続人とする。

騎兵2千と歩兵6千を率いて出発。

1499年9月9日

グルノーヴル到着。

1499年10月6日

ルイ12世と共にミラノに入城。

1499年11月

ルクレツィア・ボルジアロドリゴ・ダラゴーナ出産祝いのため、ミラノから秘書を送る。

1499年11月5日

ルイ12世マントヴァボローニャ両国にチェーザレ・ボルジア軍の領国内通行自由の承認を要請。

1499年11月9日

第1次攻略:費用は自分持ちでルイ12世から借り受けたイヴ・ダレーグル指揮の槍騎兵3百、ディジョンのバリ指揮のガスコーニュとスイスの歩兵4千。教会への忠誠を維持するチェゼーナで集められた騎兵をアキッレ・ティベルティエルコーレ・ベンティヴォーリオが指揮。ヴィテロッツォ・ヴィテッリ指揮のイタリア、スペイン兵混成軍。総勢約1万~1万5千を率いてミラノを出発し、ロマーニャ攻略に向かう。

チェーザレ・ボルジアはピアチェンツァ経由で、ディジョンのバリ指揮の歩兵はフェッラーラとクレモーナを通過し、アルジェンタへポー川を下る。

1499年11月18日

フアン・マラデスと共にローマに到着。ヴァティカン宮殿に滞在。

1499年11月21日

ローマを出発。イーモラを包囲する軍に合流。

1499年11月

イーモラ到着前に、トンマーゾ・ブロッカルディ他貴族がギベリンを代表してやってきて、街の明け渡しを申し出ると共に、ジャナントーニオ・フラミーニオからの手紙を渡す。できることなら城門を開きたいところですが、征服の暁にはかたい忠誠を約束しますので、戦となればご慈悲を賜り略奪からお救いくださるよう、というような内容だったとされているが、当時イーモラにいなかったジャナントーニオ・フラミーニオが手紙を書いたかどうかは疑わしい。

1499年11月24日

アキッレ・ティベルティイーモラに派遣し、降伏を勧める。

1499年11月27日

イーモラ市内へ進軍(1499年11月25日)。アレクサンデル6世暗殺未遂事件の知らせがローマから届く。

1499年11月28日

イーモラの要塞を砲撃開始。

1499年12月4日

建築士から情報を得て弱い方の壁を砲撃し、翼壁を崩すことに成功。城主ディオニジ・ナルディから3日間の猶予を要求され、受け入れる(1499年12月8日)。

1499年12月7日

イーモラが降伏、制圧(1499年12月1日)。

1499年12月

ドッチアを除く町が軍に門を開く。

1499年12月15日

フォルリ到着。

1499年12月

アキッレ・ティベルティフォルリに派遣し、降伏を勧める。農民たちがカテリーナ・スフォルツァに課せられた税からの解放を要求して街へ集まる。

1499年12月17日

フォルリ司教トンマーゾ・アスティとジョヴァンニ・ダッレ・セッレが降伏調印のため馬でイーモラに向かう途上へ、急使を送ってルドヴィーコ・エルコラーニ邸に宿泊することを伝える。

滞在するルドヴィーコ・エルコラーニ邸に、貴族が多数訪れ、アンツィアーニからも降伏を提示されるが、正式に調印していないことを理由に城郭都市内には入らず。

1499年12月19日

雨、軍を従えフォルリへ入城。ルッフォ・ヌーマイ邸で馬を降りる。軍はヴィットーリア大広場に到着。街を襲撃し、アンドレア・ベルナルディによれば「地獄の懲罰にも等しい」惨状だったという。マリン・サヌードは街の降伏を「売春婦のように成り果てた」とし、フォルリの被害に満足した。報復や兵士に警告するのを避けるため、市民に武器を置くよう命令。

1499年12月25日

大砲7門とファルコネット砲10門をサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会前広場に配置。

1499年12月

立派な騎士でも降伏するだろうところを、苦境にある婦人の勇気に感嘆する。

1499年12月26日

2回堀に近づいて降伏を呼びかける。カテリーナ・スフォルツァと跳ね橋の上で会談することになり、踏み入れた瞬間跳ね橋を上げられ、危うく捕らえられそうになる。

1499年12月

生きていれば2万ドゥカート、死んでいれば1万ドゥカートの賞金をカテリーナ・スフォルツァの首にかける。

1499年12月28日

大砲をラヴァルディーノ要塞に向けて発射し始める。要塞と天守閣が堀で隔てられており、幾重にも守備され得る堅固な城塞である。

1500年1月10日

ラヴァルディーノ要塞の城壁が崩れ始める。

1500年1月12日

朝、ウルビーノからジョアン・リャンソル・イ・モンカーダの死の知らせを受ける。

大砲の集中砲火、突破口が開く。そのために採用しておいた市民たちに粗朶で堀を埋めさせる。城内突入。半月堡で抵抗にあい、夕刻まで戦闘が続き、死者は約4百。要塞が制圧されると、混乱の中勝者も敗者もカテリーナ・スフォルツァが立てこもる天守閣へ雪崩れ込む。フォルリ制圧。

説1:ディジョンのバリ指揮のブルゴーニュ人歩兵が、侍女と数人の忠実な者たちと共に部屋にいたカテリーナ・スフォルツァを見つける。最終攻撃の少し後将校たちと城に入り、カテリーナ・スフォルツァと対面し、連れてきたブルゴーニュ人に2百ドゥカートの報酬を与える。

マリン・サヌード説:フランス人隊長がカテリーナ・スフォルツァを引き渡し、1万ドゥカートを要求したが2千ドゥカートしか支払われず、怒って抗議し、剣を抜いて彼女の首を切ろうとした。

ドメニコ・マリピエーロ説:Il capitano ha snuda un pugnal per ammazzarlo (il duca) ma l' è sta retegnudo, e don Cesare l' ha liberà.

夜、イヴ・ダレーグルと共に、カテリーナ・スフォルツァと彼女の召使数人をルッフォ・ヌーマイ邸へ連れる。他の捕虜に、アレッサンドロ・スフォルツァ、パオロ・リアリオ、スキピオーネ・リアリオ、ランドリアーニ家の兄弟3人がいる。

この日付でフォルリにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

1500年1月16日

フォルリにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる:ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダアレクサンデル6世によってローマに呼び出されたためフォルリを出発したが、ウルビーノにて流感(catharro sopravvenutoli)により急死。

1500年1月19日

イヴ・ダレーグルを送り、フォルリンポーポリ制圧。

1500年1月

城主をフォルリンポーポリに送り、イーモラからフォルリポデスタになる人物を招来。フォルリの統治を40人評議会に承認し、街の福利のために対策を講じる。

1500年1月

チェーザレ・ボルジアを領主とするようアレクサンデル6世に嘆願するため、イーモラフォルリから大使がローマに送られる。

1500年1月

ラヴァルディーノ要塞の修復とフォルリの統治をコンサルヴォ・ディ・ミラフォンテに任命。

1500年1月

ロマーニャ総督にラミロ・デ・ロルカイーモラポデスタフォルリのシモーネ・デリ・アッロッティを指名。フォルリポデスタに選ばれたベネデットは、聴聞官にグリエルモ・ランベルテッリ、外交官にベルナルディーノ・コロンブリーニ、警護官にジョヴァンニ・モラッティーニを指名。

1500年1月21日

夜、ディジョンのバリがスイス兵と共にルッフォ・ヌーマイ邸に来て、自分の部下が捕らえたのだからフランスに属するとしてカテリーナ・スフォルツァの身柄を要求。フランスの法では女性を捕虜にすることは禁じられているとも付け加える。不意を突かれ抵抗する武力を持たなかったためカテリーナ・スフォルツァを引き渡すが、フォルリンポーポリにいるイヴ・ダレーグルに戻るよう命令する手紙をしたためる。アレクサンデル6世カテリーナ・スフォルツァとその家臣に対し訴訟を起こし、信任状を譲渡させなければならないため、身柄を確保しておく必要があった。

ディジョンのバリ指揮のスイス歩兵の多くが体調不良に陥って反抗的になり、フランス王ルイ12世に誓約しただけの奉仕はしたと、ペーザロに向かうならより高額を支払うよう要求。

1500年1月22日

朝、ミサの後、広場にスペイン人、フランス人、イタリア人兵を整列させ、スイス歩兵と対峙。反乱に与するものは民衆に八つ裂きにさせると怒鳴る。支払いなくては行軍しないというスイス歩兵に、チェゼーナに到着すれば支払い、雇用を続行するなら要求している額を支払うと告げ、鎮圧。ルイ12世の代理として嘆願できるという条件付きならアレクサンデル6世に引き渡すということで、ディジョンのバリよりカテリーナ・スフォルツァを取り戻す。

フォルリの新書記官スタージオ・デ・プルニョーリ公証人が選出された新年度のアンツィアーニを書き連ね、この時まだ承認されていないにもかかわらずチェーザレ・ボルジアをフォルリイーモラの教皇代理としている。

1500年1月23日

サン・メルクリアーレ修道院にてアンツィアーニから忠誠の誓いを受けた後、軍を従えペーザロに向かいフォルリ出発。

夜、チェゼーナ到着。カテリーナ・スフォルツァをフランス人隊長に預け、チェゼーナの要塞に幽閉。

1500年1月

イヴ・ダレーグル指揮の本隊と分かれ、6百騎でサヴィニャーノ、サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャへ。

1500年1月

本隊はカットーリカに到着。

1500年1月26日

モンテフィオーレ到着。ミラノ争奪戦に回すためフランス軍を返還するよう求めるジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの急使到着。これによって、ロマーニャ攻略一時中断のやむなきに至る。

1500年1月27日

チェゼーナ到着。イヴ・ダレーグルとその軍を解任。フランス軍は急ぎミラノへ向かう。チェーザレ・ボルジアには歩兵1千と騎兵5百が残る。

1500年1月

エルコーレ・ベンティヴォーリオ指揮の騎兵5百、コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテ指揮の歩兵3百をフォルリに駐屯させる。

1500年1月30日

捕虜カテリーナ・スフォルツァを同道して、歩兵6隊、ガスコーニュ兵、スペイン兵、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ指揮の騎兵を率いてチェゼーナ出発。ウルビーノを通過しローマへ向かう。

1500年2月26日(水)

ローマに自軍と共に凱旋。15時から16時に、ポポロ門で、騾馬に跨る高位聖職者、貴族、指導者、外国使節が脱帽で敬礼し、チェーザレ・ボルジアはそれに答礼。入城式は、演出配置の中心にボルジア家の最近の不幸である葬儀をモチーフとする。両側に黒い弔旗を垂らし、民兵隊の先を進む百合の山車、そして棺台の飾りは、葬儀の印象を与え、部隊が鼓笛隊もなしに進む。兵士たちが5人ずつの隊伍で、教皇軍の槍騎兵であるガスコーニュ兵とスイス兵が軍旗を掲げて進む。スイス兵がランツクネヒトのアンデレの軍旗をしまわせようとして口論が始まるが、チェーザレ・ボルジアがすぐ鎮圧。2百名の護衛兵と50名の従卒は、黒ラシャとビロードの服を纏い、野鳥の黒い羽をつけた帽子を被る。その後に、左にホフレ・ボルジアと右にアルフォンソ・ダラゴーナが、そして、枢機卿たちの間に、簡素な首飾りをつけただけの黒ビロードの服を纏ったチェーザレ・ボルジアが続く。右にラグサ大司教ジョヴァンニ・サッコ、左にフランス大使トレギエ司教ロベルト・グイベ。右にツァモーラ司教ディエゴ・メレンデス・デ・ヴァルデス、左にスペイン大使。2人のナヴァーラ大使が、ナポリ大使と英国大使と口論になるが、折れて立ち去る。フィレンツェ大使、ヴェネツィア大使、サヴォイア大使など。その後に、家族、司祭、貴族、聖庁職員、胸甲の上に褐色のラシャの服を羽織ったヴィテロッツォ・ヴィテッリの傭兵軍が最後尾を占める。行列がサンタンジェロ城に着くと、塔の上から花火が打ち上げられ、甲冑姿の戦士の巨大な姿を描くように考案された花火もあった。その後、ヴァティカン宮殿に入る。

1500年2月27日(木)

ナヴォーナ広場にて時代行列が行われる。12台の凱旋車で、最後にユリウス・カエサルが乗る。ナヴォーナ広場からヴァティカン宮殿に向かい、ユリウス・カエサルだけを残して、またナヴォーナ広場に戻る。チェーザレ・ボルジアはヴァティカン宮殿からローマ人の祭りが習慣的に行われるナヴォーナ広場へ馬で行く。

1500年2月29日(土)

牡牛がカピトリーノの丘に連れられる。

1500年3月1日(日)

テスタッチョで祭りが行われる。逃げ出した牡牛がテヴェレ川を泳いでポルトゥエンセに辿り着く。また、馬が走り回る。

1500年3月5日(木)

司教や高位聖職者を従えず召使のみでフランチェスコ・ピッコローミニ枢機卿を訪問し、部屋から階下へ向かうのに、枢機卿が譲ろうとしたにもかかわらず左側を歩く。他の枢機卿にも同じように対応。

1500年3月9日(月)

アレクサンデル6世により、イーモラ及びフォルリを封与される。

1500年3月29日(日)

四旬節第四主日。サン・ピエトロ大聖堂でのミサの後、アレクサンデル6世により、聖庁への特別功労賞黄金の薔薇を授けられ、教会の旗手及び教会軍総司令官(Capitano Generale della Chiesa)に任命される。

アレクサンデル6世黄金の薔薇を持ち、枢機卿団に先行されてサン・ピエトロ大聖堂に入る。主祭壇の前で三重冠を外し跪いて祈り、司式司祭であるロレンツォ・チーボ枢機卿に告解。教皇座に就き、枢機卿たちが教皇を礼拝。オルガンが演奏され、聖歌隊が歌う。オコジョの毛皮に縁どられた金の服を着たチェーザレ・ボルジアが教皇座の階段の最上に跪き、アレクサンデル6世が三重冠を外して付き添いのハイメ・セッラ・イ・カウ枢機卿に渡し、叙任を宣言。ハイメ・セッラ・イ・カウの手からゴンファロニエーレのマントを受け取り、「神が汝を救済の衣で覆い、幸福のマントに包まれんことを」と言いながら肩にかける。儀典長ヨハン・ブルカルトの手からたくさんの真珠で飾られ、聖霊の象徴である鳩が載っている緋色とアーミンの帽子を受け取り、跪くチェーザレ・ボルジアの頭に被せる。再び三重冠を外し、祈りの言葉を唱える。教皇座に座り三重冠を被ると、チェーザレ・ボルジアが教皇の足に接吻し、ゴンファロニエーレの服装で枢機卿に交じる。オルガンが演奏され、聖歌隊がIntroito ad altare Deumと歌う。

ロレンツォ・チーボが祭壇に上って焼香し、降りてきて礼拝が始まる。礼拝が終わるとロレンツォ・チーボは式服を脱ぎ、枢機卿たちのところに戻る。1名は教皇個人の紋章の旗を1名は教会の紋章の旗をたたんで持った式部官2名を前に、ハイメ・セッラ・イ・カウが教皇座に戻る。その後ろに、振り香炉と舟形香入れを持った侍祭、聖水と散水器を持った侍祭、ミサ典書を持った高位聖職者、蝋燭を持った高位聖職者が続く。アレクサンデル6世が立ち上がり、香をたいた司教から受け取り、たたんだ旗を清めて焼香する。着座すると、チェーザレ・ボルジアが前に出て跪き、ミサ典書に両手を乗せ、ペテロと教皇に忠誠の誓いをはっきりとした大きな声で述べ、代々の教皇の生命、身体、財産を危害から守ることを誓う。アレクサンデル6世が旗をチェーザレ・ボルジアに与え、ヨハン・ブルカルトがその旗を2人の代理人に手渡す間、アレクサンデル6世が白い職杖チェーザレ・ボルジアに手渡す。甲冑を一式装備した2人の代理人は、受け取った旗をそうするための槍に取り付ける。

叙任式に引き続き黄金の薔薇授与式が行われた後、チェーザレ・ボルジアが教皇の足と指輪に接吻し、ヨハン・ブルカルトに冠を被せられ、全ての式が完了。

1500年4月

この頃、ロマーニャ支配の中心地とすべくチェゼーナに狙いを定め、ボルジア家に忠誠を示すこの地のティベルティ家の勢力増大、市内支配の動きをローマで見守る。

1500年4月10日

この日付の手紙で、イゼルニア司教でチェゼーナ代官のジョヴァンニ・オリヴィエーリロマーニャ代官に任命。チェーザレ・ボルジアの全将校の上位に据え、民事及び刑事事件の追及、判決、処罰を完全かつ自由に行使できる権限を委任。

1500年4月13日

アレクサンデル6世が4つの大聖堂を回るのに同行。黒い服の武装した従僕百人を従える。

1500年4月末

ローマにおいて、チッタ・ディ・カステッロの君主で前フィレンツェの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニ、オルシーニ一族を代表するパオロ・オルシーニなど、イタリアの最も強力な傭兵隊長たちのほとんどを雇い入れ、自分の傭兵軍を自軍の主力とする態勢を整え始める。

1500年5月24日

ヴァティカン宮殿にて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名なる閣下、高潔なる兄上へ。閣下からの手紙でご子息の誕生を知りました。自分に後継ぎが生まれたのと同じくらいの喜びを感じております。誠実で兄弟のような友好によって、繁栄と幸福を願い、喜んで代父を務め、閣下がお選びになる代理人を立てさせていただきます。洗礼の時にその代理人が見守るでしょう。あなたにも神の御加護を祈ります。
 奥方に私からのお祝いをお伝えください。ご子息を通して、後々まで続く子孫たちがご両親の名誉を不朽にするための道を築かれることと期待します。

1500年6月24日

聖ヨハネの日。サン・ピエトロ広場にて、闘牛をする。闘牛はナポリからもたらされた競技である。馬に乗り軽い槍で5頭を倒し、6頭目は馬を降りて両手剣で一撃で倒す。「ローマ中が称賛した手柄」。

1500年6月29日

ヴァティカンに落雷、アレクサンデル6世頭部に負傷。

1500年7月19日頃

サンタンジェロ城サン・ピエトロ大聖堂の間では武器を所持してはならない。違反した者は死罪となることを布告。

1500年8月2日

チェーザレ・ボルジア、ティベルティ家の工作によってチェゼーナから君主として受容され、軍を動かさずにチェゼーナを押さえる。

1500年8月8日

アレクサンデル6世リーミニの君主パンドルフォ4世・マラテスタペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァファエンツァの君主アストッレ3世・マンフレディを破門し、その教皇代理の職を奪う小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアのこれら各地の攻略に名分を与え、正統化。しかし、ファエンツァの市民はこの処置を無視してアストッレ3世・マンフレディ中心に結束。

1500年8月18日

夕、アルフォンソ・ダラゴーナヴァティカン宮殿内で前月に受けた傷を癒しているところをミケーレ・ダ・コレーリアに暗殺させて、ナポリと絶縁し、ルイ12世への忠誠を示す。同時に妹ルクレツィア・ボルジアを3度政略の具に用いる可能性を作り出す。

ヴァティカン宮殿の庭を歩いている時に、アルフォンソ・ダラゴーナの配下に弓を射られたと、後日主張。

チェーザレ・ボルジアの攻撃を恐れるリーミニペーザロの支援依頼を拒絶したヴェネツィアは、アレクサンデル6世の求めに応じてチェーザレ・ボルジアをヴェネツィアの貴族の列し、アレクサンデル6世ルイ12世の側につくことを公然と示す。

1500年8月20日

ルクレツィア・ボルジアを弔問。故アルフォンソ・ダラゴーナが企てていたとする陰謀や謀反に対する護身の必要性を示すため、彼女の部屋まで百人もの矛槍兵を従える。

1500年8月23日

仮面をつけて、ローマに来たフランス大使ルイ・ド・ヴィルヌーヴとサント・スピリト・イン・サッシア教会近くで会う(1500年8月24日)。

1500年9月28日

アレクサンデル6世が新たに枢機卿を任命。

ヴァティカン宮殿署名の間にて盛大な宴会を催し、枢機卿たちを招待。

1500年10月1日

第2次攻略:重騎兵7百、騎兵2百、歩兵6千(総勢1万)を率いてローマを出発し、ロマーニャの未制圧地とマルケの攻略に向かう(1500年9月末、1500年10月2日)。

イヴ・ダレーグル指揮の騎兵6百とスイス歩兵6百。フランス人とスペイン系イタリア人の重騎兵7百、軽騎兵2百、歩兵6千。幕僚長(maestro di campoバルトロメオ・カプラーニカヴィテロッツォ・ヴィテッリ指揮の砲兵。パオロ・オルシーニ配下の傭兵隊。ペルージアで待機するジャンパオロ・バリオーニ指揮の歩兵。ロマーニャで徴兵した、アキッレ・ティベルティ指揮の騎兵隊。護衛隊には、フランス訪問時に随行した者たちを含むローマ貴族、ピエトロ・サンタクローチェ、ジューリオ・アルベリーノ、マリオ・ディ・マリアーノ、メニーコ・サングイーニ、ジョヴァンニ・バッティスタ・マンチーニ、オノリオ・サヴェッリ、フェルディナンド・ファルネーゼ、さらにボローニャを追放されたマルヴェッツィ家の者たち。

1500年10月

ルクレツィア・ボルジアロドリゴ・ダラゴーナのいるネピに立ち寄る。

1500年10月

ヴィテルボアッシジノチェーラを通り、アペニン山脈を越えるためグアルド到着。ここでフォッサートのある囚人たちを釈放するよう要求するが、拒絶される。そのため要塞を占拠し強引に釈放し、町に火をつけ略奪。

1500年10月10日

パンドルフォ・マラテスタ、講和条約に調印。

1500年10月11日

ジョヴァンニ・スフォルツァペーザロを逃亡。

1500年10月14日

手紙をしたためる。ピントゥリッキオを再度雇用。支援の一環として貯水槽の提供を約束。

1500年10月

ファーノ到着。5日間滞在。フォッサートから軍が追い付くのを待つ。アレクサンデル6世から武力行使を避けるよう言われていたため、ファーノ市民たち自ら町を差し出されることを期待していたがなく、現状維持。

1500年10月27日(火)

24刻(現16時55分)、強雨の中、兵2千でペーザロに入城(1500年10月23日、1500年10月28日)。市民から歓迎され、門で待ち受けていたアンツィアーニから町の鍵を受け取る。ペーザロ・ドゥカーレ宮殿に宿泊。ペーザロ市民を害さぬよう自軍に規律を守らせる。

フェッラーラ大使パンドルフォ・コレヌッチョから到着を告げられ、2刻(現18時55分)頃ラミロ・デ・ロルカをやって翌日会見すると伝える。

画家に自分を紙に描かせ、アレクサンデル6世に送るよう命じる。

1500年10月28日(水)

早朝、パンドルフォ・コレヌッチョに贈り物を届けさせるが、会見時間を1時間過ぎても赴かず。20刻(現12時53分)に起床し食事、コスタンツァ要塞で夜まで用事をし、潰瘍の痛みのせいでひどく疲労し戻ってきたためと弁解する。

1500年10月29日(木)

22刻(現14時53分)頃、食事後パンドルフォ・コレヌッチョと会見。

夕刻、ペーザロを出発。グラダーラを通り、カットーリカ宿泊。

1500年10月30日(金)

チェーザレ・ボルジアがサン・マリーノ共和国近郊を通る時、長官が葡萄酒と食べ物の贈り物と共に、約束の保護のため大使を派遣。

23時(3刻)、リーミニへ入城。市民に歓迎される。

1500年

パンドルフォ・マラテスタにより追放された者たちを呼び戻し、彼らの財産を回復する。

1500年11月2日

ラミロ・デ・ロルカを残し、リーミニ出発。

1500年11月

フォルリ到着。

1500年11月10日(火)

ファエンツァの城壁で降伏を呼びかけるが拒絶され、包囲攻撃に向けて野営。町の東、ラモーネ川とマルツァーノ川の間を選び、大砲でいくつかの家を破壊。

1500年11月20日(金)

稜堡を砲撃し続け、この日、1つの塔が堀に崩れ落ちる。この時チェーザレ・ボルジアは朝食中で、要塞内に殺到しようとする兵を急ぎ引き留まらせる。要塞から放たれた石が危うく当たりそうになる。オノリオ・サヴェッリが味方の砲撃で死。

1500年11月22日(日)

朝から降雪。終日猛吹雪となり、視界が悪く、覆いのない野営は苦境に陥る。

1500年11月23日(月)

降雪。ファエンツァ軍が出撃。激闘になり、両軍に多大な損害を及ぼす。

1500年11月25日(水)

降雪。

1500年11月26日(木)

撒営し、冬営に入る。

1500年11月

ファエンツァを封鎖。部隊を領内全体に配置し、攻撃を継続させる。使者を送って降伏を呼びかけるが、評議会は拒絶し、「ファエンツァの領土を死守することが総会で議決された」と返答。

1500年

騎兵1百50と歩兵2千5百でフォルリへ退却。兵士に宿を提供する市民たちに、寝台と灯りと火のみを提供するよう命令。それ以外に必要なものについては有償とし、食料と生活必需品の価格について衝突を避けるため評議会に関税を作成させる。兵士に市民の財産に手を出した者は死刑に処すことを布告。

1500年12月7日

違反したピエモンテ人兵とガスコーニュ兵の2名を絞首刑に処す。

1500年12月13日

違反した兵1名を絞首刑に処す。絞首刑に処された3名ともチェーザレ・ボルジアの宮殿の窓から吊るされ、略奪を働いたためと書かれた札が足にかけられていた。

1500年12月23日

フアン・カステリャールミケーレ・ダ・コレーリアを代理として残して、フォルリ出発。

1500年12月24日

チェゼーナマラテスタ要塞に滞在。ここで町の要人たちを招いて降誕祭前夜を豪華に祝う。

1500年12月25日

降誕祭。チェゼーナ大聖堂の礼拝に盛装して参加。

1500年12月

遊戯や馬上槍試合などを楽しむ。

1501年1月4日

チェゼナーティコ到着。自国の敵や亡命者と活動を共にした者は、死刑並びに財産没収に処されると布告。

1501年1月21日

夜、ファエンツァ市民幾人かの手引きで、ファエンツァを包囲している歩兵が、秘密裏にはしごを登って守備隊を奇襲しようとする。しかし、発見され反撃を受け、警報が鳴らされる前に胸壁を奪取しようとした数人が捕らえられ吊るされる。

1501年1月

チェーザレ・ボルジア軍、アストッレ3世・マンフレディのルッシとソラローロを制圧。

1501年

変装して数人の供と周辺の村の謝肉祭行事に繰り出し、村人とレスリングに興じる。

1501年2月2日

イーモラへ向けチェゼーナ出発。

1501年2月4日

イーモラにて、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの使節ジョヴァンニ・マルシーリと会見。

1501年2月19日

イーモラにて、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの使節と会見。

1501年2月

フォルリにて、ヴェネツィア共和国元老院の使節ルイジ・マネンティとウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの使節が、チェーザレ・ボルジア宮廷駐在フランス大使de Transと共に、ドロテア・マラテスタ誘拐事件について抗議。これに対しチェーザレ・ボルジアは、女性に不自由していず無理強いする必要などないと、関与を否定。遺憾であり、犯人を入念な調査を行い、発見次第、ルイ12世グイドバルド・ダ・モンテフェルトロヴェネツィア共和国は、自領の境界で残忍な暴力をふるった犯人をどのように処罰したか知ることになるだろうと、苦情に対して返答。この返事は訴状と弁明の手紙をおそらく読んだピエトロ・ベンボーが記述を残す。

1501年2月

ルイジ・マネンティはチェーザレ・ボルジアが下劣な行為を犯したと糾弾し、ドロテア・マラテスタを夫ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロのもとへ帰すよう嘆願。これに対し、誘拐事件のことは耳にしており、歩兵隊長ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスの仕業だろうと答える。ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスは元ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの部下で、ウルビーノで彼女に惚れたのだと説明。最近行方不明だが、捜索隊を出したので、発見次第処罰すると返答。

1501年

ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスがメドーラにいるらしいと、de Transがルイジ・マネンティに伝える。

1501年3月29日

ファエンツァに向かいチェゼーナ出発。

1501年3月末

ファエンツァ攻撃を再開。

1501年4月12日

稜堡を砲撃。

1501年4月18日

城壁の一画を崩すことに成功し、4時間戦闘が続く。このファエンツァ人の軍隊を率いることができたら全イタリアを征服できるだろう、と敵を称賛。再度出撃せず、3日間砲撃を続ける。

1501年4月

ファエンツァからの逃亡者は快く受け入れていた。しかし、染め物屋グランマンテは要塞のもろい部分の情報をこちらに漏らしたため、裏切者への侮蔑とファエンツァの勇猛な守備隊への敬意から、この男を告げ口したその城壁に絞首刑に処す。

1501年4月21日

砲撃が8時間あまり続けられ、要塞を破壊。アキッレ・ティベルティが大砲の破裂により死亡。チェゼーナにて豪華な葬儀。

1501年4月

ファエンツァ使節と会見。ファエンツァ市民自身と財産は免責にすること。アストッレ3世・マンフレディは動産を持って自由に退去できること。不動産については教会財産に収められること。

1501年4月

戦争法により、チェーザレ・ボルジア軍に対する抵抗による損害への賠償を求める権利があったが略奪は禁じる。ファエンツァ評議会のこれ以上の損害に対する懸念を飲み、軍を町の中に入れず。

1501年4月26日(月)

ファエンツァ陥落(1501年4月25日)。ファエンツァ評議会はチェーザレ・ボルジアが滞在するオッセルヴァンツァ病院に出向き、忠誠を誓う。

夜、アストッレ3世・マンフレディと会見。アストッレ3世・マンフレディが軍に入る。

征服したファエンツァイーモラの間にあるカステル・ボロニェーゼ譲渡を要求するために送った使節の修道士がボローニャ到着。

1501年4月~5月初旬

この頃アレクサンデル6世からロマーニャ公の称号を与えられ、そう公称されるようになる。

1501年4月

ボローニャからジョヴァンニ・マルシーリとアンジェロ・ラヌッツィが派遣されイーモラに向かうが、カステル・サン・ピエトロ・テルメはすでにヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍に占領されていた。

1501年4月27日

カステル・サン・ピエトロ・テルメの他、カザルフィウマネーゼ、カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ、メディチーナ占領の知らせがボローニャにもたらされる。

アストッレ3世・マンフレディを伴い、ファエンツァ出発。ソラローロを経由し、イーモラへ向かう。

1501年4月

メディチーナのヴィッラ・フォンターナ到着。

1501年4月30日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、チェーザレ・ボルジアの代理パオロ・オルシーニと協定を結び、カステル・ボロニェーゼをチェーザレ・ボルジアに割譲。

1501年

アレクサンデル6世が小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアに、ローマに帰還するよう命令。ルイ12世の思惑を懸念するアレクサンデル6世は、トスカーナに入らず直接ローマに帰還するよう指示。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリパオロ・オルシーニから、フィレンツェ共和国領を通過するよう嘆願される。

1501年5月1日

ファエンツァを防衛しチェーザレ・ボルジアに抵抗した十六人委員会員のヤコポ・パージを、ファエンツァ代官に任ずる。

1501年

ファエンツァの農民に2千ドゥカートの戦時被害復興金を支給。

1501年5月2日

この時ロンバルディアにいたイヴ・ダレーグル軍にサンターガタ・ボロニェーゼ通行を許可。

1501年5月

チェーザレ・ボルジア軍に参加するべくジュリアーノ・デ・メディチボローニャを出発するが、脅威をもたらさないとのフィレンツェ共和国の外交官との約束を果たすため、彼をロイアーノで止める。

1501年5月7日

軍のフィレンツェ共和国領通行許可を求める為に送ったフランシスコ・デ・レモリンスガレオット・デ・パッツィが、この日フィレンツェ到着。

1501年5月8日

軍を率いビザーノ経由でトスカーナに向かう間、教会首席書記官アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオが騎兵3百と歩兵2千を率い、ボローニャのレーノを続く。

1501年5月9日

シニョーリアは、使節ピエロ・ソデリーニアラマンノ・サルヴィアーティヤコポ・デ・ネルリをチェーザレ・ボルジアのもとに派遣しすることを決定。

通行許可を与える代わりに、市壁内には入らず町には関わらないこと、パオロ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリなどのフィレンツェ共和国現政府の敵を従えてこないことを条件とする。

1501年5月

フィレンツェ共和国使節が到着した時には、チェーザレ・ボルジアはすでにトスカーナに入っている。

1501年5月

許可を待たずにフィレンツェ共和国領に侵入していることについて、昨年フォルリで今年ファエンツァで町の抵抗に味方し自分を侮辱したとシニョーリアを非難。バルベリーノ・ディ・ムジェッロにて説明すると伝える。

1501年5月12日

バルベリーノ・ディ・ムジェッロにて、フィレンツェ共和国使節と会見。フィレンツェ共和国と良好な関係を築きたいこと、ピオンビーノ攻略に干渉しないこと、すでに背信を働いたフィレンツェ現政府を信用していないので条約に保障を付けること、パオロ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリに何らかの満足を与えることを要求。

1501年5月15日

フィレンツェ共和国と同盟:カンピ・ビゼンツィオにて、フィレンツェ共和国代理コジモ・デ・パッツィ、フランチェスコ・デ・ネルリ、アレッサンドロ・アッチャイウオリと条約締結。3百騎を3年間雇う傭兵契約を結び、年3万6千ドゥカートで傭兵隊長として雇われる。パオロ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリを含む敵と反逆者を除く、4か月の同盟。

1501年5月半ば~下旬

この頃、ルイ12世、チェーザレ・ボルジアにトスカーナから撤兵するよう繰り返して強く指示。

1501年5月17日

シーニャ到着。

1501年5月

エンポリ到着。ピオンビーノ攻略のための大砲の貸与と、フィレンツェ共和国領を離れる前に俸給の4分の1を支払うことを要求。しかし、シニョーリアは俸給の早急な支払いは契約にないとして、これを拒絶。また大砲については何度も先送りにする。

1501年5月

カステルフィオレンティーノとポッジボンシを行く間、兵を野放しにし、ヴィテロッツォ・ヴィテッリピサに送って大砲を要求。

1501年5月25日

チェチーナの谷を通ってピオンビーノに向かう。

1501年5月31日

教皇海軍司令官ルドヴィーコ・モスカが、ガレー船6隻、ブリガンティーノ(帆船)3隻、ガレオン船2隻でチヴィタヴェッキア出発。

1501年

ルドヴィーコ・モスカ軍と自軍を併せ、その他の部隊はスゲレートとポルト・ブラートに残す。

1501年

ピサから船と大砲8門が送られる。

1501年

エルバ島とピアノーザ島を制圧。

1501年6月1日

この日までに、アレクサンデル6世により、ペーザロリーミニファエンツァを封与される。

この日、アレクサンデル6世により、カステル・ボロニェーゼを封与される。

1501年6月4日

ピオンビーノ攻略の陣をその近郊カンピーリに敷く。

1501年6月

ルイ12世軍がトスカーナに入る。

1501年6月13日

ルイ12世軍のナポリ攻撃に加わるため、やむなく傭兵隊長たちにピオンビーノ攻撃を続けさせたまま、小軍を率いてマレンマ地方を通り、この日夜ローマ到着(1501年6月17日)。ロベール・スチュアート・ドオービニイを待つ。ヴァティカン宮殿の自室にこもる。

1501年6月28日

ロベール・スチュアート・ドオービニイがフランス軍を指揮しローマ出発。

1501年6月29日

グラナダ条約、対ナポリの教皇とフランスとスペインの同盟宣言に出席。

1501年6月末

配下の傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを完全に包囲。

1501年

ローマ滞在中、アレクサンデル6世により、ファーノを封与される。

1501年7月

カステル・ボロニェーゼに解体作業員1千を送り、ラミロ・デ・ロルカに要塞の破壊を命じる。

1501年7月10日

ロマーニャの部下を害する者に対して布告を発する。

1501年7月10日以降

ロマーニャの部下を害する者に対して布告を発した後、ナポリ征服に向かうルイ12世軍を追って、アレクサンデル6世ローマで雇った歩兵1千を指揮し、ローマ出発(1501年7月4日、1501年7月9日)。

1501年7月11日

ファーノに、チェーザレ・ボルジアに封与するアレクサンデル6世の小勅書が届き、祝福される。

1501年7月17日(土)?

カプアから2マイルの地点で、チェーザレ・ボルジア自ら率いる軍が、6百騎のファブリツィオ1世・コロンナ軍と対峙。

1501年7月19日(月)~1501年7月23日(金)?

同盟軍、月曜日から金曜日まで砲撃(1501年7月17日月曜日~金曜日)。

1501年7月23日(金)?

2か所の稜堡が崩れ、フランス軍、外堡を防衛するナポリ軍2百と戦う。

1501年7月24日

ルイ12世軍とチェーザレ・ボルジア、カプアを占領し略奪(1501年7月25日)。死者4千人とも言われる。チェーザレ・ボルジア軍歩兵が30人の美しい女性たちを捕らえ、ローマに連れ去ったという。

1501年7月

フランス軍、ガエータ占領。

1501年

この頃、ナポリで病にかかり、ローマから医師2人を呼び寄せる。

1501年8月3日

チェーザレ・ボルジア軍が前衛となってナポリに入る。

1501年8月

サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャの城を破壊するため、コッミッサーリオのピッロ・ヴィスコンティを送る。

1501年8月31日

ピオンビーノ降伏。

1501年9月3日

チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを占領。君主ヤコポ4世・ダッピアーノはフランスへ逃亡。

1501年

ルクレツィア・ボルジアの所領コラートを再占領。

1501年9月15日

ナポリからローマ到着(1501年9月14日)。

フランスから2万ドゥカート以上、スペインから2万ドゥカートで、総額4万ドゥカートのコンドッタが支払われる。

おそらくこの時、フェデリーコ・ダラゴーナの所領アンドリアをもらう。

1501年10月31日(日)

50名ほどの遊女をはべらせた宴を催す。アレクサンデル6世ルクレツィア・ボルジアが列席(1501年10月30日)。

1501年11月

サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャの城壁は残すことを降伏条約に補足を追加。

1501年11月末頃

ローマボルゴでチェーザレ・ボルジアを罵って回っていた仮面を被った男が逮捕される(1501年12月初旬)。このナポリ人ジローラモ・マンチオーニの舌と手は切断され、警告としてその部位が吊るされる。

1501年12月23日

ローマのミルヴィオ橋で、ルクレツィア・ボルジア出迎えの一行と会い、イッポーリト・デステと抱擁を交わす。

1501年12月25日(土)

サン・ピエトロ大聖堂での降誕祭のミサに出席。スペイン大使、シジスモンド・デステフェッランテ・デステに続いて4番目に教皇に聖水を手渡す。

1501年12月30日

ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステと3度目の結婚。

これによって支配領ロマーニャと隣接するフェッラーラと提携して自領を固め、フェッラーラはチェーザレ・ボルジアの攻撃に対する自領防衛の保証を得る。

1501年12月

シャルロット・ダルブレヴェネツィアで手に入れた数多くの贅沢品を送る。純度の高い蝋で作った蝋燭、アーモンド製の白いパスタ、上等の糖菓、ギリシア産高級葡萄酒9樽、オリエントの香料、オレンジ、レモン、様々の織物。

1502年1月2日

サン・ピエトロ広場で闘牛が行われる。2頭の雄牛が放たれた囲いに9人の闘牛士と共に入り、単独で馬上から槍で獰猛な方を倒す。10頭の雄牛と1頭の水牛が殺される。

スペインの闘牛は14世紀にイタリアにもたらされたが、15世紀になって広まった。アラゴン家がナポリに、ボルジア家ローマに伝えた。それまでは、雄牛に獰猛な犬をけしかける「牛掛け」がナヴォーナ広場ローマの地区テスタッチョで見られるのみだった。

夜、教皇の部屋で、チェーザレ・ボルジアとエルコーレ1世・デステを奉じて、プラウトゥスの『Menaechmi』などが上演される。

1502年1月28日

夜、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアを誹謗中傷したものをギリシア語からラテン語に訳しヴェネツィアに送ったとして、ヴェネツィア人が逮捕される。ヴェネツィア大使が取りなすが、同日夜、処刑される。

1502年2月17日(木)

アレクサンデル6世に従いピオンビーノエルバ島に向け、ローマ出発。幾人かの枢機卿も従う。

夜、ラディスポリ到着。パロ城に宿泊。

1502年2月18日(金)

夜、チヴィタヴェッキア到着。ガレオン船6隻と、馬と家具のための比較的小さな船数隻を率いる教皇海軍隊長ルドヴィーコ・モスカと合流。

1502年2月21日(月)

朝、ピオンビーノ到着。厳粛に入城。アレクサンデル6世は天蓋の下に教皇御輿に乗って、枢機卿6名とシスティーナ礼拝堂所属聖楽6名が付き添う。チェーザレ・ボルジアにも数名の随行員が付き添う。

ピオンビーノに4日間滞在。

1502年2月2?日

ピオンビーノ滞在中、チェーザレ・ボルジアが宴を開き、アレクサンデル6世や枢機卿が参加。

1502年2月2?日

ピオンビーノ滞在中、フランチェスコ会のミゼリコルディア教会を海水で水没させるための巨大な堀の設計図を作成させる。

1502年2月2?日

ミケーレ・ダ・コレーリアを総督として残し、ピオンビーノ出発。

1502年2月25日(金)

エルバ島到着。技術者に建設させるつもりの2つの城塞設計図を見る。

1502年2月27日(日)

エルバ島で、2名をサッカルディの騎士に任命。高位聖職者を任命し、空位の司教を約束。

1502年3月1日(火)

ローマに向け、エルバ島出発。アレクサンデル6世は旗艦に、チェーザレ・ボルジアは副艦に乗船。しかし、嵐で進めず。

1502年3月

夕食の時間帯、小さな舟で上陸し、近くのコルネート?に人をやって馬を調達。ローマに向かう。

1502年3月11日

ローマ到着。

1502年3月27日

復活祭ローマにいる。

1502年4月~1502年5月

チェーザレ・ボルジア、ローマでマルケ及びトスカーナ攻略の態勢を公然と整え続ける。

アレクサンデル6世は、チェーザレ・ボルジアの攻略の主目標はカメリーノだと公表し、カメリーノの君主ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノの地位を否認。

1502年5月7日

ローマにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。部下の1人であるエル・マントゥアーノに恩典を与えてもらったことを感謝。

1502年5月12日

ローマにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。チェゼーナ出身のジャンフランチェスコ・ブドを翌年マントヴァポデスタに就かせるよう要請。

1502年5月

チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリは、アレッツォで暴動を扇動。

1502年6月4日

アレッツォで、「マルツォッコ」「メディチ」を叫び、フィレンツェ共和国に対する暴動、反乱発生。

1502年6月6日

サンタンジェロ城に幽閉していたアストッレ3世・マンフレディの死体がテヴェレ川に浮かぶ(1502年6月9日)。

1502年6月7日

ヴィテロッツォ・ヴィテッリアレッツォを占領し、以後、数日の内にヴァル・ディ・キアーナ全域を制圧。途中からジャンパオロ・バリオーニもこれに参画。

1502年6月8日

ローマアレッツォ反乱の知らせが届く。

1502年6月

チェーザレ・ボルジア、アレッツォの反乱には全く無関係であると弁明。しかし一般には信じられず。

1502年6月10日

ピサからの使者が書簡を携え、ローマ到着。ピサの市民代表により、保護を求められる(1502年5月末)。

1502年6月12日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

第3次攻略:軍を率いてローマを出発(1502年6月10日、1502年6月13日)。マルケ及びトスカーナの攻略に向かう。

1502年6月

スポレート到着。スポレートに駐留させていた軍、重騎兵7百、歩兵6千と合流。数日間滞在。

スポレート滞在中、使者を送って、ロマーニャ政府に兵2千を徴兵するよう命じる。

セニガッリアウルビーノの間イーゾラ・ディ・ファーノに兵1千。モンテヴェッキオ、サン・ロレンツォ伯が共にいる。

ヴェルッキオとサンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャに兵1千。ヴァル・デッラモーネの兵3百を指揮するディオニジ・ナルディが共にいる。

スポレートにて、アレクサンデル6世宛に手紙をしたためる。「ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが人々と団結し、カメリーノのためにすでに臣民から徴収していることを、まずスポレートにて聞き知りました。」

1502年6月

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの総代理官ドルチェ・デ・ロッティと会見。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに感謝し、「イタリアで彼以上の良き友人はいないと思う」と話す。また、ヴィテロッツォ・ヴィテッリが要望する歩兵1千を与えてやってほしいと「かなり厳しく」言う。

1502年6月

フォリーニョ到着。カメリーノシニョーリア議員を捕らえる。カメリーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの支援を期待しているという。

別のカメリーノの役人を捕らえる。ウグビオを通過する大砲を奪う計画があるという。

1502年6月半ば

ルイ12世、リヨンでチェーザレ・ボルジアとその傭兵隊長たちによるフィレンツェへの敵対行動を知り、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに援軍をトスカーナに送るよう指令。

1502年6月

ルイ12世の意向を知ったチェーザレ・ボルジア、フィレンツェとの折衝を望み、特使を派遣せよとフィレンツェに要求。

1502年6月

コスタッチャーロへ向け、ノチェーラ・ウンブラ出発。先行させていた軽装歩兵2千はカーリ到着。チェーザレ・ボルジアはその後を追う。

1502年6月18日

ロマーニャの財務官が歩兵5千分のランチオッティ(槍?)を購入。

1502年6月19日

フォルリに使者が到着。ロマーニャの各家につき1名の兵を提供するよう布告。

1502年6月20日

ウルビーノを出発したドルチェ・デ・ロッティが、カンティアーノとカーリの間でチェーザレ・ボルジアを見つける。

カーリに大砲が到着し、スペイン人歩兵隊長ドメニコがカーリ占領。

夜、チェーザレ・ボルジアがカーリ到着。

1502年6月21日

カメリーノに進軍すると見せかけて、突如、ウルビーノを占領(1502年6月20日、1502年6月22日)。

軍をフェルミニャーノに駐屯させ、略奪、暴力を禁じる布告を発する。

サン・レオ要塞制圧には2、3か月かかる。

この後、ウルビーノ公宮殿の蔵書や美術品をチェゼーナへ移す。

1502年6月24日

サン・マリーノ共和国と協定。

22時(2刻)、フィレンツェ共和国特使フランチェスコ・ソデリーニニッコロ・マキアヴェッリと2時間会見(1502年6月25日)。フィレンツェの同盟不履行を訴え、新しく同盟を結ぶことを要求。そのためには、現政権が信用できないので、政体を変更せよと要求。ヴィテロッツォ・ヴィテッリの活動への関与を否定。自分と信頼関係を築かなかったことへの報いをフィレンツェは受けただろうから、関わらないでおいてよかったと思っている。自分はの友人であるし、フィレンツェはどこからの妨害も恐れる必要はない。自分を敵とするのも自由なのだから、もし自分を友人とすることに興味がないならそう明言すべきである。

1502年6月25日

23時(3刻)、フィレンツェ共和国特使フランチェスコ・ソデリーニニッコロ・マキアヴェッリと会見。前日と同じ要求をし、返答に4日間の猶予を与える。

1502年

ルイ12世軍の到来を知ったチェーザレ・ボルジアは、フィレンツェ政体変更の要求を緩和。

1502年7月6日

ルイ12世の使者が、フィレンツェを圧迫するなとの指示を持って、フェルミニャーノの陣に到着。

1502年7月15日

この日までにヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対しアレッツォから撤退するよう指示。ヴィテロッツォ・ヴィテッリらはこの指示に異議を唱えて撤兵せず。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対し、アレッツォを撤退しなければ彼の領国チッタ・ディ・カステッロを占拠すると脅迫。「町の有力者がすでに私に味方することを表明しており、容易に達せられるだろう。」

1502年7月19日

傭兵隊長グラヴィーナ公フランチェスコ2世・オルシーニとフェルモの君主オリヴェロット・エウッフレドゥッチ指揮の軍は、カメリーノを占領し、君主ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノを2人の息子ヴェナンツィオ・ダ・ヴァラーノとアンニーバレ・ダ・ヴァラーノと共に捕虜とする(1502年7月20日)。

フィレンツェと協定。

1502年7月20日

ウルビーノにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 高名なる淑女、最愛の妹へ。あなたが今患っておられるご病気に、いいお知らせに勝るよい薬はないでしょう。カメリーノが降伏するという情報を受け取ったところです。この知らせを受け取ることで、みるみる回復されるでしょうし、そのことを一刻も早くお知らせくださいますでしょう。いい知らせを聞いても、あなたのご健康が優れないでいると、喜ぶことができません。あなたの夫であり、私の義理の弟であるアルフォンソ1世・デステ殿に、時間的余裕がない故、直接の手紙を書き送ることができないと申し伝えておいてください。自分自身よりもあなたを愛する、あなたの兄、チェーザレより。

1502年7月25日

聖ヨハネ騎士団の装いをし、4人の供だけを連れて、ミラノルイ12世のもとに向けウルビーノを出発。

1502年7月26日

フォルリ到着。馬を替える。

1502年7月28日

変装し、5人の騎士を伴って、フェッラーラに到着。ベルフィオーレの別荘ルクレツィア・ボルジアを見舞う。ミラノに先ぶれを出す。2時間ほど滞在した後出発。アルフォンソ1世・デステモデナまで同行。

1502年8月5日

ミラノ到着。ルイ12世と行を共にしながらひたすら恭順の姿勢を示してルイ12世の歓心を買うことに努める。

1502年8月末

ルイ12世に従い、ジェノヴァ到着。

1502年

ルイ12世ボローニャ保護を解き、ルイ12世から3百騎を与えられる。「教会の名においてボローニャを攻略し、オルシーニ、バリオーニ、ヴィテロッツォを抑えるヴァレンティノワ公に騎兵3百を与える。」

ルイ12世からボローニャの占領のみならずフィレンツェを除く他の諸地域の占領も承認される。

1502年9月2日

ルイ12世と別れ、ジェノヴァ出発。

1502年9月7日

フェッラーラルクレツィア・ボルジアを見舞う。

1502年9月9日

フェッラーラ出発。

1502年9月10日

この日までにイーモラ到着。

1502年9月上旬~10月

チェーザレ・ボルジア、ロマーニャにおける人心の収攬と統一的支配体制の整備のため、この頃、統一的司法組織Rota(司法・治安官)を設置し、ロマーニャで人望を集めていた法律家アントーニオ・チョッキ・デル・モンテを長官に任命。さらに彼に行政上の最高権限をも与えて、新官職Presidente di Romagnaロマーニャ(地方)統領)に就任させる。苛烈な支配を行って人心を離反させる傾向の強かったラミロ・デ・ロルカには軍事上の指揮権のみを認める。

同時にチェーザレ・ボルジア、スペイン人ミケーレ・ダ・コレーリアを用いて領民の徴発及びその軍事訓練を精力的に続け、自分自身の領民からなる徴兵軍を自分の軍事、政治行動の基盤とする態勢を固める努力を続ける。

1502年9月19日~1502年9月20日

フェッラーラルクレツィア・ボルジアを見舞い、エルコーレ1世・デステと会見。

1502年9月下旬~1502年10月初旬

チェーザレ・ボルジア、ロマーニャの自領に隣接するフィレンツェの方針、態度を確かめるべくフィレンツェに対して特使を送るよう要求。

1502年9月27日

イーモラにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。狩猟犬をもらい、感謝。

1502年9月末~1502年10月9日

マジョーネの陰謀・同盟発足。

チェーザレ・ボルジア軍は、未だフランス騎兵3百は有しておらず、歩兵2千5百、重騎兵2~3百、槍騎兵1百。対してマジョーネ連合軍は、歩兵9千、重騎兵7百、弩兵4百。

1502年10月

チェーザレ・ボルジアの評判の下、傭兵隊長たちが集結。ガスパーレ・サンセヴェリーノを主力部隊の重騎兵の隊長に任命。ルドヴィーコ1世・ピコは重騎兵60と軽騎兵60を連れてくる。弩兵1百をラニエーリ・オルランディが指揮。銃(schioppettieri)兵50をフランチェスコ・デ・ルーナが指揮。

ルチオ・マルヴェッツィもやってきたと言われるが、おそらくボローニャを懸念して送り返す。

ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニロンバルディアで徴兵させる。ガスコーニュ歩兵1千のためにラッファエーレ・デ・パッツィロンバルディアに送る。スイス兵も擁する。

自領から歩兵を徴集しスペイン人隊長が指揮。歩兵5百をディオニジ・ナルディが指揮。歩兵5百をマルカントーニオ・ダ・ファーノが指揮。ガブリエッロ・ダ・ファエンツァ他ロマーニャ人隊長。重騎兵は1百以上を有し、ジョヴァンニ・ヴァイーニとジョヴァンニ・サッサテッリがそれぞれ重騎兵40を指揮。

1502年10月4日

チェーザレ・ボルジア軍6千。閲兵式を行う。

1502年10月5日

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの元従卒で、サン・レオ要塞の守備隊長に任命したジョヴァンニ・バッティスタ・ブリツィオに、サン・レオ要塞を奪われる。サン・レオ要塞は内装工事中で、工夫を買収し、垂木を使って跳ね橋を妨害。農民に変装した者たちが突入し、チェーザレ・ボルジアの部下たちを殺害。

この後続いて他2つの小さな要塞が反乱。「マルコ(ヴェネツィア)、ヴィテッリ、オルシーニ」と叫ばれたという。

1502年10月6日

部下の騎士ロベルト・オルシーニパオロ・オルシーニのもとに送り、親族からマジョーネ同盟の目的を聞き出す。

1502年10月

ウルビーノ駐在軍隊長バルトロメオ・カプラーニカを、ウク・デ・モンカーダ、ジョヴァンニ・ディ・カルドーナ指揮の重騎兵を率いてリーミニに撤退させる。

歩兵を統率させるため、ミケーレ・ダ・コレーリアラミロ・デ・ロルカペーザロに派遣。

1502年10月7日(金)

イーモラにて、ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月8日(土)

ウルビーノで領民がウルビーノ公宮殿を襲撃し、ウルビーノ代理官ジョヴァンニ・ダッレ・セッレを投獄。

1502年10月9日(日)

領民がウルビーノの要塞を占拠。城主が大砲を要塞から移動させるよう命令するが、領民が兵士から奪い、要塞の壁に対して設置。しかし盛り土がなかったため1日で壊れる。

この日以降、カーリ、グッビオなど各地で領民が武器を取ってチェーザレ・ボルジア軍を襲撃。

チェーザレ・ボルジアの命令なく、ミケーレ・ダ・コレーリアウルビーノ公国駐屯の重騎兵を率いて撤退。

1502年10月11日

ヴィテロッツォ・ヴィテッリが槍騎兵を指揮し、カステル・デュランテに進軍。

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月

ペルゴーラとフォッソンブローネが反乱。ミケーレ・ダ・コレーリアウク・デ・モンカーダが守備隊の救援に行き両地を占領、略奪。

1502年10月12日

ジャンパオロ・バリオーニが歩兵隊を指揮し、カーリに進軍。

ヴェネツィアにいるグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの使者がウルビーノに到着。領民たちの忠義に感謝し、数日内に救援に向かうことを告げる。

夕刻、ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月

オルシーニ軍がカーリの要塞の攻撃を開始。

モンテフェルトロ派に抵抗する市民を救援するため、15日にウルビーノに集結するよう隊長たちに命令。

1502年10月14日

ルイ12世の使節がイーモラに到着。

1502年10月15日

カルマッツォの戦い:朝、チェーザレ・ボルジア軍が重騎兵1百と軽騎兵2百でウルビーノの門に進軍し、しかし2つの小さな要塞を占領する方法を模索し、そこを通過していたところを攻撃される。カルマッツォに撤退するも、オルシーニ軍に攻撃され、敗戦。ウク・デ・モンカーダは捕虜にされ、ミケーレ・ダ・コレーリアはフォッソンブローネに逃れる。

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月17日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月19日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月20日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月22日

マジョーネ連合の全権大使として、アントーニオ・ダ・ヴェナーフロイーモラ到着(1502年10月20日)。チェーザレ・ボルジアが彼らを安心させさえすれば、マジョーネ連合は再び部下となって、失ったものの回復の助勢をするでしょう。

1502年10月23日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月24日

チェゼーナで、未だ回復されていないウルビーノを含む監査官が発表される。

1502年10月25日

マジョーネ連合の全権大使として、パオロ・オルシーニイーモラ到着。

1502年10月26日

ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿、イーモラ到着。

1502年10月27日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月28日

ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニパオロ・オルシーニと和睦。マジョーネ連合が武器をおさめれば、チェーザレ・ボルジアは連合側の反抗の責を問わず、教皇とフランス王を除くあらゆる力から連合の領地を擁護する。連合はボルジア家の人々と国の守護を誓い、そのため連合はウルビーノカメリーノを返還すること。チェーザレ・ボルジアは以前の傭兵契約を再確認し、要望すればいつでも各々子供1人を差し出せば全員が軍事義務を負うわけではないこと。以上3項について講和条文作成。

1502年10月29日

朝、パオロ・オルシーニはチェーザレ・ボルジアの代理として、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニと共に、条文を持ってウルビーノへ向けイーモラ出発(1502年10月30日)。

1502年10月30日

ロマーニャに対して、マジョーネ連合との和睦を公表。オルシーニとヴィテッリが再び教皇に服従し、チェーザレ・ボルジアの部下に復帰すること。そのため撤退し、反乱勢力の所領を返還すること。

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年10月31日

チェーザレ・ボルジア支援のルイ12世のフランスとスイスの援軍、ファエンツァに到着。

1502年11月2日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの代理としてアントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオが、イーモラに到着。エルコーレ1世・デステの調停で、アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオは和睦の特定の条項の制限を申し出る。

チェーザレ・ボルジアはこれに合意し、秘書チプリアーノ・ヌーマイをオルシーニに送り、ボローニャは妥協せず条文の作成を望んでいると知らせる。

1502年11月8日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年11月19日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年11月27日

パオロ・オルシーニ、全員の署名を持って、イーモラ到着。

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとの和睦条文にフィレンツェ共和国、エルコーレ1世・デステルイ12世が認証。

1502年12月2日

単独でのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと和睦。ローマアレクサンデル6世により作成された条文を批准。

1502年12月5日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年12月6日

先にチェーザレ・ボルジアが任命した新ロマーニャ統領アントーニオ・チョッキ・デル・モンテを先導して、パオロ・オルシーニウルビーノに入る。

1502年12月9日

再び自分に帰属するウルビーノ公国を妨害することなきよう。ウルビーノ公国の民衆はモンテフェルトロ派の「貧しい家」を略奪することなきよう、全ロマーニャに布告。

1502年12月10日

全軍及びフランス槍騎兵を率いて、フルリへ向けイーモラ出発。

この2か月間で6千ドゥカート以上費やし、教皇領他アンコーナからローマに徴収されるだろうと言われる。

1502年12月12日

チェゼーナに着き(1502年12月11日午後)、市民に歓迎される。さらに民心の収攬に努力。

この頃、先にマジョーネ同盟を結んで反抗した傭兵隊長たちにセニガッリアを制圧してそこに集結するよう指示。

1502年12月

軍の食糧としてヴェネツィアから小麦を3万ブッシェル買い付けるが、すぐに消費されてしまう。

飢饉対策として、チェゼーナの穀藏から穀物を低価格で販売するよう命じ、さらに大量に穀物を調達するよう進める。

1502年12月17日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年12月18日

ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

1502年12月20日

夜、フランス傭兵軍隊長全員を召集。

1502年12月21日

大砲を先立って出発させ、この日そこへヴァル・ディ・ラモーナから歩兵6百が到着。スイス兵1千がファエンツァにいる。これ以前にスイス兵、ドイツ兵、ガスコーニュ兵併せて1千5百を抱えている。

1502年12月22日

朝、自軍の中核を占めるルイ12世援軍の返還を決意したチェーザレ・ボルジア、同軍をミラノに向けチェゼーナを出発させる。全軍で騎兵約4百50。

民衆の反感を買っていた腹心、前ロマーニャ総督、現軍事指揮官ラミロ・デ・ロルカを逮捕し投獄。

1502年12月25日

降誕祭。歩兵隊を閲兵。

1502年12月26日(月)

ラミロ・デ・ロルカを処刑し、死体をチェゼーナの広場に曝す(1502年12月25日夜)。

早朝、サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャへ向かいチェゼーナ出発。アルバネーゼ・ストラディオテス約30とイタリア人歩兵2千5百が新たに入隊し、騎兵50、歩兵数千の軍勢。大砲が同じ道程をとる。

1502年12月

オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。病気を理由にジャンパオロ・バリオーニに招集を拒絶される。

1502年12月28日

ペーザロ到着。

配下の傭兵隊長たちがセニガッリアに入った報告を受ける。

1502年12月29日

ファーノ到着。

忠誠を誓うアンコーナの外交官の訪問を受ける。

1502年12月30日

ファーノから配下の傭兵隊長たちに、明日セニガッリアに到着予定で、要塞が抵抗する可能性を考慮して大砲も輸送する旨伝える。また、自軍に場所を空けるためにセニガッリアから全軍撤退を命令。

アンドレア・ベルナルディの見積によれば、傭兵隊は軽騎兵と弓兵3千で、チェーザレ・ボルジア軍を上回る。

1502年12月31日(土)

セニガッリアの罠:夜明け、ファーノ出発。ミケーレ・ダ・コレーリア指揮の槍騎兵2百、次に歩兵2千5百、次にチェーザレ・ボルジア指揮の重騎兵6百。ミーザ川にかかる橋でミケーレ・ダ・コレーリアが軽騎兵を止めて歩兵を先に行かせ、セニガッリアの城郭内に歩兵が入る。

この日の宿所のベルナルディーノ・クアルターリ邸にて、パオロ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチを捕縛。さらにロベルト・オルシーニをも捕縛。

1503年1月1日(日)

夜2刻(現18時52分)、ニッコロ・マキアヴェッリと会談。

夜10刻(現2時52分)、ヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチを死刑に処す。

早朝、ロヴェレスカ要塞が降伏。軍を率いてセニガッリアを出発。前日に捕縛したオルシーニ家の2名を厳重な警護の下で連行。

夕刻、コリナルドに到着。

1503年1月2日(月)

コリナルドにて、軍を補強。

コリナルドにて、ペルージアの指導者たち宛てに手紙をしたためる。教皇への恭順を促す。

1503年1月3日(火)

朝、コリナルド出発。

1503年1月4日(水)

サッソフェッラート到着。

1503年1月5日(木)

グアルド到着。

4刻、ジャンパオロ・バリオーニが避難者と共に全軍を率いペルージアを出発し、シエナに向かったとの報告が入る。

チッタ・ディ・カステッロが降伏を申し出る。教会の旗手としてこれを認める。

1503年1月6日(金)

ペルージアが降伏を申し出る。

1503年1月7日(土)

夕、アッシジ到着。

1503年1月8日(日)

チェーザレ・ボルジア、アッシジシエナの使節に接見。使節に対し、その君主パンドルフォ・ペトルッチを追放する決意を表明すると共に、シエナ市民自らが彼を追放するよう市民を説得せよと厳命。

フェルモ降伏。

アッシジにて、ペルージア会計院副会計官アルファーノ・アルファーニ宛てに手紙をしたためる。アガピート・ゲラルディーニが代筆。

 親愛なる偉大な友よ、壮健なれ。
 バリオーニ家及びその同盟者、教皇への反逆者たちの全動産の捜索、回収、及び処分に関して、貴君が持つ勤勉さと誠実さをもって実行するよう、改めてこの件の遂行を託す。教皇特使ハイメ・セッラ・イ・カウ枢機卿に書状を送り、貴君が求めるあらゆる支援と助力を提供し、誰からの妨害も排し、他の者の手に渡らないようにしてくださるよう要請した。貴君が効果的に行動し、どのように進めるかについて詳細な報告を寄越すものと信じる。秘密裏であれ直接的間接的であれ、役人から妨害されることがあれば知らせよ。
 前述の教皇特使殿及びプリオーレたちと共に、適切な方法で対応し、明日我が軍が駐屯する、以下に挙げる場所を十分に手配せよ。

1503年1月9日(月)

アッシジ出発。

トルジャーノ到着。

1503年1月10日(火)

トルジャーノでフィレンツェの使節ニッコロ・マキアヴェッリに対し、パンドルフォ・ペトルッチフィレンツェ及び自分の共同の敵であり、その追放は両者の安全にとって不可欠であると協調し、そのために共に行動するよう強く要求。

1503年1月11日(水)

スペダレット到着。

シエナフィレンツェに使節を送って支援を求める。

1503年1月13日(金)

朝、チッタ・ディ・ピエーヴェ到着。

フィレンツェの使節ニッコロ・マキアヴェッリに再びフィレンツェの共同行動を要求。

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとの協定を公表。

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは直ちに、アントーニオ・デッラ・ヴォルタに重騎兵30と弩兵1百を指揮させ、派遣。

1503年1月14日(土)

チッタ・ディ・ピエーヴェにて、アルファーノ・アルファーニ宛てに手紙をしたためる。アガピート・ゲラルディーニが代筆。

 偉大なる友よ、我が親愛なるコッミッサーリオよ、壮健なれ。
 家令に、私の委任において貴君が回収した、そして引き続き回収しているバリオーニ家に属する品々の処理を託した。特に、我が領で不足が顕著である穀物と飼料の全てをグッビオに送るように命じた。この目的のため、この手紙を持つ者、我が家臣でコッミッサーリオのジョアン・ルリオに、前述の件に関する指示を与え、派遣した。したがって、彼に前述の品々と穀物を目録付きで引き渡し、その目録の写しを家令に送り給え。もし、ペルージア政府がこの穀物の一部を求める場合は、彼らの要求を満たすことを許可し、我が臣民が必要なだけ家令に購入させよう。前述の品々の未回収分だが、特に、その権利を有さない教皇特使ハイメ・セッラ・イ・カウ猊下と彼の部下の手に渡らぬよう、捜索を急ぎ給え。

1503年1月18日

サルテアーノに着き、連行していたオルシーニ家の両名、パオロ・オルシーニ及びフランチェスコ2世・オルシーニを処刑。

1503年1月21日

サルテアーノにて、アルファーノ・アルファーニ宛てに手紙をしたためる。アガピート・ゲラルディーニが代筆。

 親愛なる偉大な友よ、ご機嫌よう。
 他の手紙でも書いたとおり、再度伝えるが、反逆者バリオーニ家から現在回収済み、又は今後回収する全ての物品や財産を、ウルビーノの要塞へ直ちに送り給え。さすれば、我が一家の必要に応じて役立てるため、家令がローマへ送る指示を実行できるからである。部下が取った物品を早急に引き渡してもらえるよう、必要であれば、教皇特使ハイメ・セッラ・イ・カウ猊下にお願い申し上げよ。穀物については、ペルージア政府がまだ残すことを望む場合、返金してもらい、家令に送金せよ。

1503年1月24日

シエナと協定成立。

1503年1月下旬

オルシーニ家は、自領保全のため一族を挙げて決起。同家の宿敵コロンナ家サヴェッリ家も協調する動きを示し、ローマ周辺に不穏な動き強まる。これに対処するためアレクサンデル6世は、チェーザレ・ボルジアにローマへの帰還を促す。

1503年1月27日

チェーザレ・ボルジア、シエナに対し、君主パンドルフォ・ペトルッチの追放を書簡で公然と強要。24時間以内に追放しなければ、市民も敵とみなし、シエナに兵士を放つと宣告。

1503年1月28日

パンドルフォ・ペトルッチシエナを逃亡。

1503年1月29日

アレクサンデル6世宛に手紙をしたためる。知らせがあるまでペンテジーレア・バリオーニ誘拐事件のことを知らなかったが、彼女を解放した。

1503年1月30日

シエナパンドルフォ・ペトルッチの追放を宣言。この時、チェーザレ・ボルジアはすでにローマに向かう。

1503年2月1日

アックアペンデンテにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 高名なる淑女、友人、誉れある姉君へ。あなたが下さった百の仮面を受け取りました。その多彩さと美しさから大変歓迎すべきもので、また、その時と場所がこれ以上好都合なことはなかったのです。我々の計画全てと、ローマに戻るつもりであることを伝えておりませんでしたが、本日ようやく、要塞と共にセニガッリアの街とその周辺を占拠することに成功し、裏切り者の敵を処罰し、チッタ・ディ・カステッロ、フェルモ、チステルナ、モントーネ、ペルージアをその圧制者から解放して教皇領に再び返し、そして、反逆の態度を示していたシエナでの専制政治からパンドルフォ・ペトルッチを退かせました。仮面がありがたかったのは、特にあなたとあなたの夫君の愛情のためだということを知っており、それは一緒のお手紙にも表れています。あなたとご夫君の功績は言葉の力では補いきれないにしても、数えきれないほど感謝を申します。仮面は使わせていただきます。とても美しいので他の装飾品をつける手間を省くでしょう。ローマに戻り聖下にお会いしたら、我々の相互利益のために何でもいたしましょう。あなたのご要望に従いまして、囚人を解放するでしょう。自由になった時にお喜びになられるように、直ちにお知らせいたします。あなたに忠誠を。アックアペンデンテ近くの野営地にて。

1503年2月4日

モンテフィアスコーネにて、アルファーノ・アルファーニ宛てに手紙をしたためる。アガピート・ゲラルディーニが代筆。

 親愛なるアルファーノ殿へ。
 大いに驚き、そして残念に思うのは、家令から指示を受け、聖下の敵、反逆者、裏切者のバリオーニ家及びその支持者たちに関連する動産や収益に関する処置を、今なお貴君が実行していないことだ。これは特に憂慮すべき事態である。というのは、他の全ての地域では同様の反逆者たちの財産に対する命令は完了されており、残っているのは本来ならば最も早く行われるべきペルージアのものだけである。このことについて、貴君以外に責任を負う者はいない。なぜなら、貴君が十分な注意を払わず、あるいはもし何者かが妨げているならば、それについても全く知らせていないからである。よって、この書状を受け次第、速やかに家令からの全ての指示を実行することを命じる。私の忠実なる従者であり、信任を寄せる使者であるジローラモ・ソットが、詳細をさらに説明するだろう。誰にも一切の情けをかけることなく遂行し給え。

1503年2月26日

軍と共にローマに帰着。

1503年2月27日

ロマーニャの評議会の命令を実行するコッミッサーリオに4人のスペイン人を任命。フォルリファエンツァイーモラにはクリストフォロ・デッラ・トッレを、チェゼーナリーミニペーザロにはジローラモ・ボアアディエス、ファーノセニガッリアとフォッソンブローネとペルゴーラにはアンドレア・コッサを、ウルビーノ公国とモンテフェルトロ周辺にはペドロ・ラミレスを任命。マイオーロとサン・レオは未だ降伏しておらず、ペドロ・ラミレスに対応を委任。

1503年2月28日

告解火曜日

1503年3月初旬~4月初旬

この頃?、チェーザレ・ボルジア、オルシーニ家の所領を包囲し攻撃。1503年4月初旬までにその大部分を平定して教会領に統合。

1503年3月29日

パンドルフォ・ペトルッチは、ルイ12世を後ろ盾としてシエナに復辟。

アレクサンデル6世、チェーザレ・ボルジア親子の版図、権勢のこれ以上の拡大を警戒し、フィレンツェシエナなどと秘密裡に交渉していた彼は、これら諸国の保護とこれら諸国による自分のナポリ攻略の支援とについて合意し、シエナパンドルフォ・ペトルッチを復辟させてチェーザレ・ボルジアを退ける。

アレクサンデル6世、チェーザレ・ボルジア親子、とりわけアレクサンデル6世ルイ12世から離反し、彼と対抗するフェルナンド2世・デ・アラゴン及びヴェネツィアに傾倒し始める。

1503年4月10/11日

枢機卿ジョヴァンニ・ミキエル急死。直後アレクサンデル6世は、彼の巨額な遺産を接収する指令を発す。教皇指令による枢機卿毒殺の疑い広まる。

これらの聖職売買、遺産接収による収入はチェーザレ・ボルジアに軍資金として送られる。

1503年5月22日

ボルジア家に仕えてきたフランソワ・トローシェが、チヴィタヴェッキアからブリガンティーノに乗船してジェノヴァへ逃亡。

1503年5月27日

フランソワ・トローシェを拘束。

1503年

フランソワ・トローシェ、死。

1503年6月1日

この日?、9名の新枢機卿を任命。これによって巨額の収入を得、チェーザレ・ボルジアの軍資金とすると共に、9名の内5名はスペイン人を任命してスペインへの傾斜を示す。

チェーザレ・ボルジアはルイ12世の勢力を無視できず、彼のもとに自分の将兵2名を送るなど、態度の変更を明示せず。

1503年夏

カメリーノを除き、教皇領は平穏になる。

シチリアから穀物を輸入し、飢餓に対処。

セニガッリアに、他の領地と同様、ポデスタ以外の役人と城主を地元から選出する権限を与える。

創設した国民軍の兵士は、召集の鐘が鳴ればそれぞれのコムーネの市場に集まる義務を負い、この徴兵制度により6、7千人が確保されるだろうと推定され、2、3日中には動員が見込まれる。

銃兵を増やし、約1世紀前には発明されていたにもかかわらず当時未だ訝しまれていた武器の威力と価値を評価。

軍服の創始者でもあり、兵士に制服を着用させ、重騎兵は赤と黄色で4分されCESAREの文字が胸と背中に書かれた上衣を鎧の上に着て、親衛隊は金錦と赤いビロードの陣羽織を羽織る。

1503年7月24日

チェーザレ・ボルジアが前年ロマーニャ全域の統一的支配のため設置したRotaチェゼーナを中心にファーノペーザロリーミニファエンツァフォルリイーモラに開設され、その開設式が長官アントーニオ・チョッキ・デル・モンテの出席のもとチェゼーナで盛大に行われる。

1503年8月2日

手紙をしたためる。

1503年8月5日

夕刻、アドリアーノ・ダ・カステッレジ枢機卿の別荘にて、晩餐会(1503年8月4日、1503年8月10日)。

1503年8月6日

ローマにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。狩猟犬を催促。

1503年8月12日

アレクサンデル6世が倒れる。

1503年8月13日

アレクサンデル6世と同じマラリアにかかり、病床に就く。

1503年8月15日

全身を冷水に浸す。

1503年8月18日(金)

夜、アレクサンデル6世、病死。

未だ病床から起き上がることができず、サンタンジェロ城に避難。

1503年8月22日

枢機卿団に忠誠を誓い、教会軍総司令官であることを追認される。

プロスペロ・コロンナと、これまでコロンナ家から奪った領地を返還すること、オルシーニ家に共同で対抗することについて合意(1503年8月23日)。ロドリゴ・ダラゴーナコロンナ家の娘との結婚を約束。

1503年8月27日

チェーザレ・ボルジアの手紙がチェゼーナに届き、枢機卿団から地位の追認を受けたこと、国を守るようにとの達しが出る。他の町でも同様にする。

1503年8月28日

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロウルビーノに復辟。ペドロ・ラミレスはチェゼーナに撤退。ウルビーノのチェーザレ・ボルジアの非正規軍は虐殺、略奪される。

1503年

ヤコポ4世・ダッピアーノピオンビーノに復帰。

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノカメリーノに復帰。

1503年9月1日

コロンナ家との協定からスペインに歩み寄る意思があるのかフランス大使de Transに問われ、コロンナ家とのみの協定でスペインとの関係を否定。de Transフェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿の保証の下、一身及びロマーニャの保護、防衛についてルイ12世と新たに協定してフランスに再接近。この写しがフィレンツェヴェネツィアボローニャに送られる。

1503年9月2日

コンクラーヴェ中は軍隊がローマに駐屯していてはならない規則のため、枢機卿団から立ち退きを要請される。フランス軍と共にローマ出発。フランス大使de Transフェデリーコ・サンセヴェリーノに見送られる中、衰弱しているため輿で運ばれる。

ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ、弟ホフレ・ボルジア、娘ルイーズ・ボルジア、甥ロドリゴ・ダラゴーナ、ネピ公インファンテ・ロマーノを伴って、ネピ到着。ネピの要塞に避難。近くにフランス軍が駐屯。

1503年9月3日

ジョヴァンニ・スフォルツァペーザロに、ヴェネツィアの支援の下で復帰。

1503年9月6日

パンドルフォ4世・マラテスタリーミニに、ヴェネツィアの支援の下で復帰。

ロマーニャを中心とするチェーザレ・ボルジアの支配が崩壊し始める。

1503年9月16日

ペルージアにて、ジャンパオロ・バリオーニバルトロメオ・ダルヴィアーノを代表とする反ボルジア同盟が締結される。

1503年9月22日

枢機卿フランチェスコ・ピッコローミニが、教皇に即位しピウス3世を名乗る。

フィレンツェ共和国宛に手紙をしたためる。反ボルジア同盟への誘いをフィレンツェ共和国が拒絶したことと、支援に対する感謝。

1503年10月1日

自軍が、リーミニを奪回。

1503年10月3日

ピウス3世の許可の下、軍の一部を率いローマに帰還。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿、ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿、フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿、アマニュー・ダルブレ枢機卿に付き添われて、宿泊先のサン・クレメンテ宮殿に向かう。

1503年10月6日

フランチェスコ・マンフレディがいとこたちと共に騎兵60と歩兵1百50を指揮し、ファエンツァの民衆扇動を狙って城主の息子をさらい、マンフレディの名を叫ぶが、すぐにチェーザレ・ボルジアの政府がファエンツァに来たため市民は呼応せず、モディリアーナに撤退。

1503年10月8日

ピウス3世が勅書を発し、教会の旗手を追認される。

1503年10月12日

オルシーニ家コロンナ家及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ルイ12世との協定に対抗する協定を締結。コロンナ家の離反により、チェーザレ・ボルジアには実際の支援を望めないルイ12世、フランスのみが残る。

1503年

アレクサンデル6世崩御時には重騎兵6百、歩兵6千を有していたが、フランスとの協定のためその半数以上をガリリャーノに兵を送らねばならなくなる。

スペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンに逆らえないウク・デ・モンカーダ以下スペイン人の軍人に離脱の許可を与える。彼らはゴンザロ・デ・コルドバ軍に加わる。

オルヴィエートにて待機中の歩兵2千が、オルシーニ家バリオーニ家に襲撃される可能性がある中新たな命令を与えられず、不安を募らせる。フランシスコ・デ・レモリンスイーモラフォルリの5人の隊長を要塞に閉じ込めるものの、隊長以下の兵士たちの離脱を止められず。フォルリオルヴィエートに市民への許可に対する感謝状を送っている。

1503年10月

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍が前回より多くの兵で再びチェゼーナを攻撃、壁際まで迫り、水路を埋め、建物を破壊。チェーザレ・ボルジア軍は出撃せず、ガッジョーロからのニッコロ・ダ・バーニョの到着を待ち、市民5百人がボルジアの旗を掲げ市内に入る。ペドロ・ラミレスがモンテベッロでグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍を追い出し、マラーノに退却するのを追撃。

1503年10月15日

チェゼーナにて、カルロ・ティベルティが勝利し、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍の戦死者3百。勝利したチェゼーナ軍には他に、ニッコロ・ダ・バーニョ、ヤコポ・マジーニ、スキピオーネ・ティベルティ、チェーザレ・ファブレゴーラら隊長が活躍。

チェーザレ・ボルジアは僅かな軍勢だけで身を守れぬと判断し、ローマを離れようとするがオルシーニ家の軍に阻まれ、サンタンジェロ城に避難し事実上、閉じ込められる。

ソリアーナの要塞にいるミケーレ・ダ・コレーリアを歩兵と共に、バルダッサーレ・ディ・スキピオーネ、タッデオ・デッラ・ヴォルペを重騎兵と共に呼び寄せる。

1503年10月18日

教皇ピウス3世、死。

1503年10月22日

フォルリにオルデラッフィ家が復帰。

1503年10月26日

ファエンツァにマンフレディ家が復帰。

ロマーニャ支配の崩壊続く。

1503年10月29日

教皇位を目指す枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレから、ヴァティカン宮殿に招かれ会見し、これまでの地位教会の旗手と教会軍総司令官、及びロマーニャ領を与えることを条件に支持、協力を求められる。年来の宿敵の言葉を信じ広汎な支持・協力を約束。

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、聖職や現金による大々的な買収活動を繰り広げて教皇位の獲得を目指す。

1503年11月1日

影響力を取り戻し、スペイン人枢機卿たちを用いて、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の教皇に即位を助ける。ユリウス2世を名乗る。

同日、新教皇の招きに応じて、サンタンジェロ城からヴァティカン宮殿ベルヴェデーレ小宮殿に居を移す。

教皇はチェーザレ・ボルジアの排斥、ロマーニャの自らによる直轄平定、統治を決意。

ヴェネツィアが、ロマーニャへの進出を目指して出兵。

1503年11月2日

フォルリでチェーザレ・ボルジアの支配に対する反乱発生。

この頃?、4歳の娘ルイーズ・ボルジアと教皇ユリウス2世の縁戚でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレとの婚姻などの約束が取り交わし、ユリウス2世をなお信頼し続ける。

この頃?、ルイ12世軍はナポリ領に入りフェルナンド2世・デ・アラゴン軍と交戦。

1503年11月6日

ヴェネツィア大使アントーニオ・ジュスティニアーニを呼ぶ使者を送るが、拒絶される。

1503年11月9日

ユリウス2世は、枢機卿会議で、先に約束した地位、領国などを議題とせず放置。

ユリウス2世の本心に気づき始める。

1503年11月10日

ユリウス2世は、フィレンツェシニョーリアに対し、教会の旗手であるチェーザレ・ボルジアがその領地ロマーニャヴェネツィアの侵略から防衛するために派遣する軍隊の領内通行の安全を保障するよう要請。

ユリウス2世フィレンツェに対する要請を知り、自己の地位の回復にまた自信を抱く。

1503年11月

ヴェネツィアは、この頃ファエンツァリーミニなどを占領し、さらにイーモラチェゼーナなどの占領も狙うなど中部イタリアへの進出を図る。

1503年11月13日

安全通行権が届かず、ローマを出発できず。

オスティアで教皇海軍隊長にガレー船5隻準備させるようユリウス2世に嘆願。そうすれば、歩兵をジェノヴァに送ることができ、フェッラーラを経由してロマーニャに入る予定。

1503年11月19日

すでにミケーレ・ダ・コレーリア指揮の軍をトスカーナ経由でロマーニャに向かって出発させ、チェーザレ・ボルジアもローマ近郊オスティアから海路トスカーナに入ってロマーニャに向かうべく、朝、ヴァティカン宮殿を離れてまずオスティアに向かう(1503年11月18日深夜、1503年11月19日夕刻)。

1503年11月22日

ユリウス2世により、フランチェスコ・ソデリーニら2名の枢機卿が派遣され、なお彼に忠誠を誓うフォルリチェゼーナフォルリンポーポリ、ベルティノーロなどロマーニャの領国の全面返還を要求されるが、これを即座に拒絶。

1503年11月28日

ユリウス2世により、オスティアに軍が派遣され、逮捕される。財産は全て没収され、ローマに連行され、賓客として遇するかのように見せかけながらヴァティカン宮殿ボルジア塔に事実上、監禁される(1503年11月29日)。

1503年

ユリウス2世が降伏要求のための使節をロマーニャに派遣し、ピエロ・ドリヴィエートをチェーザレ・ボルジア自身の代理として同伴させる。

ピエロ・ドリヴィエート一行がペドロ・ラミレスが守るチェゼーナに到着。チェーザレ・ボルジアが自由の身であれば城塞を明け渡すことはないと、ペドロ・ラミレスはピエロ・ドリヴィエートを裏切者として胸壁から絞首刑に処する。

1503年12月2日

ユリウス2世の代理グイドバルド・ダ・モンテフェルトロロマーニャの全面返還を承認し、ユリウス2世に全面的に降伏。

1504年1月24日

ユリウス2世に全面的に譲歩し、ロマーニャの占領地を40日以内に全て返還する協定に署名(1504年1月末)。

1504年2月16日

オスティアに向かい、ベルナルディーノ・カルバハル枢機卿の監視下に置かれる。

1504年

ジョヴァンニ・ミキエルに仕えていたアスクイーノ・ディ・コッローレドが拷問され、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアの教唆によりジョヴァンニ・ミキエルを毒殺したと自白。

1504年4月19日

ベルナルディーノ・カルバハル枢機卿の監視を緩和され、オスティアからナポリに向かう(1503年12月26日)。ホフレ・ボルジアが同行。

1504年4月28日

ナポリに着きゴンザロ・デ・コルドバの歓迎を受ける。

1504年

騎兵を募兵するためバルダッサーレ・ディ・スキピオーネをローマに送り、バルダッサーレ・ディ・スキピオーネはチェーザレ・ボルジアはすぐに帰ってくると書く。

1504年5月25日

スペイン王の命によりゴンザロ・デ・コルドバに逮捕、カステル・ヌオーヴォに監禁される(1504年5月26日夜、1504年5月27日)。

1504年8月20日

ナポリから海路スペインに護送される。

1504年

バルダッサーレ・ディ・スキピオーネは、「スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャに安全保障を約束されていたにもかかわらず、チェーザレ・ボルジアをナポリで拘留し、王権に不名誉と汚名をもたらした」ことを否定するスペイン人は誰であれ決闘すると、「全キリスト教界」の公共場に挑戦状を掲示する。

1504年10月19日

ヴァレンシアに到着(1504年9月19日)。

1504年10月27日

この日?、チンチーリャ城に幽閉される。

1504年

城代カブリエル・グスマンを塔から突き落とそうとし、失敗。

1504年11月

メディナ・デル・カンポのモタ城に移される。城代はガブリエル・デ・タピア。

1504年11月26日

イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。

1505年5月4日

モタ城にて、手紙をしたためる。未払いの妻シャルロット・ダルブレの持参金を義兄ジャン・ダルブレを通して払うようルイ12世に懇願。

1506年

ベナヴェンテ公アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコがチェーザレ・ボルジアを訪問。

1506年10月25日

モタ城を逃亡。ガルシアなる従僕がまず塔から縄で降りるが、短すぎたため堀に高所から落ち負傷。チェーザレ・ボルジアが降りる途中縄が切られてしまい、大怪我を負う。外で待っていた者たちに馬に載せられ、アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコの領地ヴィジャロンに向かう。見捨てられたガルシアは殺される。

カスティーリャをマクシミリアン1世の支配下に置きたい貴族たちは、彼を使者としてフランドルへ送る計画をしていた。

1506年

怪我のため5、6週間滞在後、ヴィジャロン出発。ヴァリャドリッド、カストレス、サンタンデールから海路ベルメオ、陸路ビルバオ、パンプローナに向かう。

1506年12月3日

パンプローナの、義兄ナヴァーラ王ジャン・ダルブレのもとに到着。

1506年12月7日

パンプローナにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに生涯最後の手紙をしたためる。

 閣下へ。数えきれぬほどの失望の後、神が満足なされ、私は自由の身になり牢から抜け出せたことをお知らせします。持参する秘書のフェデリーコから、事の次第をお聞きになるでしょう。神の尽きることのないご慈悲が、神の貢献に良い結果をもたらしますよう。現在私はパンプローナのナヴァーラ王と女王のもとにいて、12月3日に到着したのですが、それら全てを上記のフェデリーコが話すでしょう。私の名で彼が話すことを、まるで私自身が話しているように、お信じくださって構いません。 閣下に永遠の忠誠を。
1506年12月7日、パンプローナにて。
閣下の友人、弟のチェーザレより。

1507年3月11日

ナヴァーラの叛徒レリン伯ルイ2世・ド・ボーモンの部下ガルセス・デ・アーグレダとペドロ・デ・アリョら3名の待ち伏せに会い、パンプローナ教区ビアナ近郊メンダヴィアで戦死(1507年3月12日)。

ルイ2世・ド・ボーモンが弔い、サンタ・マリア・デ・ビアナ教会に埋葬することを許可。祭壇の下に白い大理石の墓に埋葬される。墓碑銘には、 Aquí yace en poca tierra, el que toda la temía
el que la paz y la guerra
en su mano la tenía.
Oh, tú, que vas a buscar
cosas dignas de loar,
si tú loas lo más digno
aquí pare tu camino
no cures de más andar.

「この小さな地面の中に、皆が恐れ、平和と戦争を操った者が横たわる。おお、称賛に値するものを探しさすらう汝よ、最高を求めるならば、骨を折ることはない、ここにて旅を終わらせよ。」と刻まれる。

1537年

カラオラ司教アルフォンソ・デ・カスティーリャがサンタ・マリア・デ・ビアナ教会を訪問し、聖なる場所に罪深い者が埋葬されていることに恐怖を感じたため、墓は破壊され、「人や獣に踏みつけられる」ように遺骸は聖別されていない教会の外に移される。

1945年

偶然に人夫によって掘り起こされる。当地の役人たちがカトリック教会に相応の埋葬を懇願したが、当地の司教は拒絶。教会の外の白い石碑に移される。

2007年

5百年記念を機会に、パンプローナ大司教フェルナンド・セバスティアン・アギラルが「生涯で何をなしたにせよ、もう許されるべきである」として、教会の内に移すよう要請したが、現在誰も教会の床に埋葬されていないことを理由に拒絶される。

ビアナ市は彼の死後5百年を記念。

備考 

 ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会に女性病棟を建てる。

紋章 


ヴァレンティノワ

ロマーニャヴァレンティノワ公、教会の旗手(左16世紀)

剣 

チェーザレ・ボルジアの書簡 Lettere di Cesare Borgia

送主
チェーザレ・ボルジア
宛先
イザベッラ・デステ
執筆
1500~1504年
所蔵
マントヴァ公文書館

概要

 「チェーザレ・ボルジアの書簡」は、チェーザレ・ボルジアイザベッラ・デステ宛に書いた書簡。

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チェーザレ・ボルジアの書簡 Lettere di Cesare Borgia

送主
チェーザレ・ボルジア
宛先
イザベッラ・デステ
執筆
1502年6月12日、ローマ
所蔵
マントヴァ公文書館

概要

 「チェーザレ・ボルジアの書簡」は、チェーザレ・ボルジアイザベッラ・デステ宛に書いた書簡。

外部リンク

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レオナルド・ダ・ヴィンチの通行許可証 Lasciapassare di Cesare Borgia a Leonardo da Vinci

送主
チェーザレ・ボルジア
宛先
レオナルド・ダ・ヴィンチ
発行
1502年8月
所蔵
ヴァプリオ・ダッダ、メルツィ・デリル文書館

概要

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの通行許可証」は、チェーザレ・ボルジアが出したレオナルド・ダ・ヴィンチの通行許可証。

 Caesar Borgia de Francia. Dei gratia Dux Romandiolae Valentiaeque, Princeps Hadriae, Domin. Plumbini etc. S. R. E. Confalonerius et Capitaneus generalis. Ad tutti nostri locotenenti, castellani, capitanei, condottieri, officiali, soldati et subditi ali quali de questa proverrà notizia commettemo et comandamo che al nostro prestantissimo et dilectissimo familiare Architetto et Ingegnere Generale Leonardo Vinci d’essa ostensore el quale de nostra commissione ha da considerare li lochi et fortezze de li stati nostri ad ciò che secundo la loro exigentia et suo judicio possiamo provederli, debbiano dare per tutto passo libero da qualunque pubblico pagamento, per se et li soi amichevole recepto et lassarli vedere, misurare, et bene extimare quanto vorrà. Et a questo effecto comandare homini ad sua requisizione, et prestarli qualunque aiuto, adsistentia, et favore ricercarà. Volendo che delle opere da farsi ne li nostri dominj qualunque Ingegnere sia astretto conferire con lui, e con il parere suo conformarsi etc. Datum Papiae anno 1502, ducatus nostri Romandiolae etc.

 チェーザレ・ボルジア・デ・フランチャ、ロマーニャ及びヴァレンティノワ公、アドリア、ピオンビーノなどの君主、教会の旗手にして教会軍総司令官より。私の領国内の、この書状を目にする全ての軍司令官、城主、隊長、傭兵、役人、兵士、家臣たちに告げる。最も優れた親しい建築技術総監督のレオナルド・ダ・ヴィンチと彼の随行者に、領国内の建築物や要塞を急を要する順に監督する依頼をした。いかなる税も課さず、友好的に歓迎し、彼らが測量、評価したいと望むものは何でも見せるように。彼の任務を遂行するに必要な、あらゆる助力を十分に与えよ。他の技師たちは領国で行われる作業について彼と協議し、彼の意志に従うように。教皇猊下の18年目の年、ロマーニャ公爵叙爵2年目の年、ロマーニャ公爵が記す。

外部リンク

 すべてみどりになるまで
 ilgiorno.it
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チェーザレ・ボルジアの書簡 Lettere di Cesare Borgia

送主
チェーザレ・ボルジア
宛先
ヴィトルキアーノ
執筆
1502年
所蔵
ラツィオ州芸術・遺産管理

概要

 「チェーザレ・ボルジアの書簡」は、チェーザレ・ボルジアがヴィトルキアーノの町が恭順を示さなかったことに対する赦免状。その印章部分。銘文はCAES BORGIE DE FRANCIA DUCIS VALENTINI

外部リンク

 Catalogo Generale dei Beni Culturali

チェーザレ・ボルジアの書簡 Lettere di Cesare Borgia

送主
チェーザレ・ボルジア
宛先
ジャンピエトロ・デ・イーモラ
執筆
1503年
所蔵
ペドロ・コレア氏

概要

 「チェーザレ・ボルジアの書簡」は、チェーザレ・ボルジアがジャンピエトロ・デ・イーモラをモルドーノ城の代理官に認める任命状の複製。

外部リンク

 ELMUNDO.ES
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肖像 


トビアス・シュティマー
名将伝』挿絵

パオロ・フィダンツァ
チェーザレ・ボルジアの肖像

チェーザレ・ボルジア? 


作者不明
男性の肖像

作者不明
男性の肖像

作者不明
男性の肖像

作者不明
男性の肖像

注文した作品 

墓 

庇護した文人 

 セラフィーノ・アクイラーノ
 Francesco Speruloロマーニャカメリーノ周辺の遠征をうたう。
 Pier Francesco Justolo
 ジローラモ・ソンチーノ:出版者。1501年ファーノに出版社設立。1502年1月ファーノの法律を印刷。議会、市民、聖職者の承認を受け、「Ad perpetuam memoriam Illmi. Domini nostri Ducis.」と記載。

庇護した芸術家 

 ピントゥリッキオ
 ブラマンテ
 ミケランジェロ
 Pier di Lorenzo:後にジョルジョ・ヴァザーリフィレンツェで見ることになるチェーザレ・ボルジアの肖像画を、彼が1500年頃ローマにいた間に描く。残念ながら現存せず。

色 

 黄色と赤。

小説 

 塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』 新潮社
 フランソワーズ・サガン『ボルジア家の黄金の血』 鷲見洋一訳、新潮社
 サマセット・モーム『昔も今も』 天野隆司訳、ちくま文庫
 マリオン・ジョンソン 『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』 海保眞夫訳、中央公論社

漫画 

 南部ひろみ『燃える虹の詩』秋田書店
 森村あすか『ミストラル-風の奇跡-』秋田書店
 星野之宣『ボルジア家の毒薬』(妖女伝説)集英社
 川原泉『バビロンまで何マイル?』白泉社
 伊藤結花理『ブラディーM-白い毒薬』ぶんか社
 戸川視友『白のフィオレンティーナ』冬水社
 真崎春望『花都(フィレンツェ)追想録 プリマヴェーラ-春-』角川書店
 秋乃茉莉『死都の聖女』(賢者の石)ぶんか社
 かやまゆみ『1500年の禁じられた恋』(時をかけた少女たち)講談社
 佐久間智代『もう天使には会えない』角川書店
 まつざきあけみ『モナリザ-フェラーラの薔薇』(歴史を動かした女帝たち )ぶんか社
 岡田純子『チェーザレ・ボルジア』(禁断調教-弄ばれた女たち)ぶんか社
 岡田純子『実在人物伝「ルクレツィア・ボルジア」』ぶんか社
 岡田純子『実在人物伝 「サンチャ・ダラゴーナ」』ぶんか社
 浅野まいこ『大人のグリム童話 ルクレツィア・ボルジア-血の結婚』宙出版
 さいとうちほ『花冠のマドンナ』小学館
 さいとうちほ『花物語10 チェーザレ・ボルジア』小学館
 氷栗優『カンタレラ』秋田書店
 惣領冬実『チェーザレ 破壊の創造者』講談社

映画 

 『ドン・ファン』1926年アメリカ
 『Lucrezia Borgia』1926年
 『Bride of Vengeance』1948年
 『狐の王子』1949年アメリカ
 『ボルジア家の毒薬』1953年フランス・イタリア
 『Il duca nero』1963年イタリア
 『L'uomo che ride』1966年イタリア
 『Lucrezia』1968年
 『Poisons, or the World History of Poisoning』2001年
 『The Borgias』2006年
 『Borgia』2011年

舞台 

 宝塚歌劇団『チェーザレ・ボルジア―野望の軌跡』

曲 

 WhiteFlame『カンタレラ』

ゲーム 

 『アサシン クリード ブラザーフッド』

テレビ 

 The Borgias

別表記 

 チェーザレボルジア、チェザーレ・ボルジア、チェザーレボルジア、チェーザレ・ボルジャ、ケセアレ・ボジャ、Duca de Valenza

異名 

 パンプローナ、ヴァレンティーノ、ヴァレンツァ、ヴァレンティーノ公、ヴァレンチノワ公

外部リンク

 ウィキペディア
 世界の歴史まっぷ
 そらのお城
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
 ねこのひたい
 塩野七生「わが友マキアヴェッリ」の世界
 世界帝王事典
 ボルジア解体新書 - チェーザレとレオナルド
 ボルジア解体新書 - ボルジア映画
 ボルジア解体新書 - カンタレラ
 歴史データベース
 Araldica Vaticana
 Archidiocesis de Valencia
 Bibliothèque publique et universitaire de Neuchâtel
 Bildindex der Kunst und Architektur
 Catholic-Hierarchy
 CultureCommunication.gouv.fr
 Els Borja
 EL PAÍS
 Famille de Carné
 Find A Grave
 G. CASAGRANDE
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Google Books
 Google Books
 Google Books
 Google Books - Caesar Borgia: The Stanhope Essay for 1891
 Historia Faentina
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Project Gutenberg - The Life of Cesare Borgia by Rafael Sabatini
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 The New Yorker
 Treccani.it
 Wikipedia - Iglesia de Santa María (Viana)

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『性病の世界史』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『At the Court of the Borgia
 『Casa Cesarini. Ricerche e documenti
 『Cesare Borgia: duca di Romagna
 『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2003年11月24日以前

更新日

 2024年10月25日