Charles I de Valois

シャルル1世・ド・ヴァロワ

生没:1394年11月24日~1465年1月5日
在位:アングレーム伯
   オルレアン公 1407年~1465年
    次代:ルイ12世
父:ルイ1世・ド・ヴァロワ
母:ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
妻:イザベル・ド・ヴァロワ
  ポンヌ・ダルマニャック
  マリー・ド・クレーヴ
子:マリー・ド・ヴァロワ
  ルイ12世
  アンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル1世・ド・ヴァロワは、14世紀~15世紀の男性。

年表

1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワ(1394年~1465年:オルレアン公在位1407年~1465年)は自分の母ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート候ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。
1447年9月25日
オルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、アスティを占領。
1447年10月半ば
アスティを根拠地としてアレッサンドリアを攻撃するなどミラノ領侵攻を本格化させるオルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、シャルル7世軍、バルトロメオ・コッレオーニ(1400年~1475年)指揮のミラノアンブロジアーナ共和国軍に敗れる。
1460年1月
ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。

チェーザレ・ボルジア数

 子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 シャルル・ドルレアン、オルレアン公シャルル、Charles d'Orléans

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『快楽の中世史』
 『イタリア史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

記載日

 2005年5月29日以前