Charles VIII

シャルル8世

生没:1470年6月30日~1498年4月7日
在位:フランス王 1483年~1498年
    先代:ルイ11世
    次代:ルイ12世
父:ルイ11世
母:カルロッタ・ディ・サヴォイア
妻:マルグリット・ドートリッシュ
  アンヌ・ド・ブルターニュ

概要

 シャルル8世は、15世紀のフランスの男性。1494年イタリア戦争を始めたフランス王として知られる。失敗にこそ終わりはしたものの、この戦争は16世紀の欧州に多大な影響を与えることとなった。

容姿

 背が低く、くる病で奇形の細長い足。大きな鼻に、だらしない口元で、薄い眉。

年表

1482年12月23日
マクシミリアン1世ルイ11世によるブルゴーニュ公領(本領)とピカルディ地方の取得を認め、さらに、自分の娘マルグリット・ドートリッシュルイ11世の子シャルル8世と婚約させ、娘の婚資としてアルトワ、フランシュ=コンテをシャルル8世に与えることを認める(アラスの和約)。
1483年8月29/30日
ルイ11世死。子シャルル、フランス王に即位しシャルル8世を名乗る(1470年~1498年:在位1483年~1498年)。しかしシャルル8世の姉アンヌ・ド・フランス(A. de Beaujou:1461年~1522年)、摂政として実権を掌握。
1484年1月5日
フランスの全国三部会、初めての膳地方の全三身分代表が出席してトゥールで開催される。この中でフランス王シャルル8世・アンヌ・ド・フランス側、ルイ・ドルレアン(1462年~1515年)の摂政就任要求を却ける。
1488年7月27/28日
ルイ・ドルレアンとフランソワ・ド・ブルターニュ軍、フランス西部レンヌ近郊のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦で王シャルル8世と摂政アンヌ・ド・フランス軍に敗れ、ルイ・ドルレアンは捕らえられて(1488年~1491年)公領は事実上、王領に併合され、フランソワ・ド・ブルターニュはフランス北西部Sable近郊Vergerで自領における王の至上権を事実上、認める協定への署名を強いられる。
1491年11月
アンジュー家のナポリ王位要求権を継承しているとして当の王位を狙うシャルル8世インノケンティウス8世との関係が親密化しつつあるとの報を得たフェッランテ・ダラゴーナは、特使ジョヴァンニ・ポンターノをローマに派遣し、インノケンティウス8世との関係改善を目指す。
1491年12月6日
シャルル8世マクシミリアン1世の抗議にも拘らず、その娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄した上、1490年マクシミリアン1世が代理人誓約の形で結婚した相手のアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行し、ブルターニュ公領を事実上、併合。
しかしシャルル8世、この婚約破棄と結婚へのインノケンティウス8世の特別認可を得ることに難渋。但し、以後、姉アンヌ・ド・フランスの摂政(1483年~1491年)を排し親政を始める。
1492年1月
ルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世と防衛同盟を結ぶ。
同盟の中でルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世がナポリ王位継承のためイタリアに進撃する際は中立を保つことを保証。
ミラノ内部では公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとその妻でフェッランテ・ダラゴーナの孫イザベッラ・ダラゴーナが摂政としての自分の地位、権力に不満を強め、外部ではイザベッラ・ダラゴーナの訴えを受けたフェッランテ・ダラゴーナとの関係が緊迫化する傾向が生じ、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介によるフェッランテ・ダラゴーナインノケンティウス8世の関係好転にも直面したルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世とのこの同盟を背景として局面打開を狙う。
1492年
シャルル8世のローマ駐在大使が、インノケンティウス8世からシャルル8世の婚約破棄と別の新たな結婚について特別の認可を得たものの、ナポリ王位への要求は認められずに終わる。
1492年春
シャルル8世、特使Perron de Baschiをローマに派遣し、インノケンティウス8世にナポリ王への叙任を求めるが却けられる。
1492年6月4日
インノケンティウス8世フェッランテ・ダラゴーナをナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。
1492年9月3日
インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニ(?~1496年)に売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。
この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。
1492年11月13日
シャルル8世、1492年10月フランスに侵攻してきたイングランド王ヘンリー7世とフランス北部パ=ド=カレーのエタープルで協定を結び、大金を供してヘンリー7世のブルターニュ公領への介入を止める(エタープル協定)。以後も、周辺の列強と和を結びイタリア侵攻の態勢を整える。
1493年1月19日
シャルル8世、イタリア侵攻の態勢を整えるべくフェルナンド2世・デ・アラゴンとバルセロナで協定を結び、前王ルイ11世が前アラゴン王フアン2世・デ・アラゴンより獲得した(1462年)スペインに近いフランス南東部ルシヨンとサルダーニャを返還(バルセロナ協定)。
1493年5月23日
シャルル8世、イタリア侵攻態勢を固めるべくマクシミリアン1世とフランス中北部Senlisで協定を結び、マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約破棄(1491年)に関連して婚資のArtois、フランシュ=コンテをマクシミリアン1世に返還。Senlis協定。
しかし以後この二つの領土を巡るフランス王室とハプスブルク家の対立、続く。
1493年6月末
フェッランテ・ダラゴーナ、次男フェデリーコ・ダラゴーナ(1451年~1504年)をローマに送り、シャルル8世の側からのアレクサンデル6世への工作を阻みつつアレクサンデル6世を自分の側に引き寄せるべく硬軟両様の工作を始める。その一環として子アルフォンソ2世・ダラゴーナの庶出の娘サンチャ・ダラゴーナ(1478年~?)とアレクサンデル6世の末子ホフレ・ボルジア(1481年頃~1516/1517年)との結婚をも提案。
この頃フェルナンド2世・デ・アラゴン、自分の叔父の娘、寡婦マリーア・エンリケスアレクサンデル6世の子、ガンディア公フアン・ボルジア(1476年~1497年:在位1488年~1497年)との結婚を提案。
1493年7月下旬
アレクサンデル6世ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルナンド2世・デ・アラゴンからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。
これらにより、1493年4月のアレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィアなどの対ナポリ・フェッランテ・ダラゴーナ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。
1493年8月5/6日
この日頃シャルル8世の特使Perron de Baschiは、アレクサンデル6世シャルル8世のナポリ王叙任を求めるが曖昧な返答に終始され、何の成果も得られずに終わる。
1494年3月1日
宮廷をリヨンに移す。
1494年5~6月
リヨンに軍を結集。他方でジェノヴァに艦隊を用意し、ルイ・ドルレアンの指揮下の軍勢を送る。
1494年6月
ピエロ・イル・ファトゥオの政策転換への対抗策として駐シャルル8世宮廷大使及びメディチ銀行リヨン支店支配人を追放する。
1494年8月22日
アンジュー家のナポリ王位請求権を継承した(1480年、1481年)としてナポリ王位を請求してイタリア侵攻を開始。この日グルノーヴルを出発(1494年8月23日)。
第1次イタリア戦争:イタリアは以後、国際的な戦乱の舞台と化す。
1494年9月3日
ピエモンテ到着。
1494年9月9日
ルドヴィーコ・イル・モーロとその妻ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステフェッラーラエルコーレ1世・デステジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿らを伴ってアスティに入る(1494年9月11日)。
この頃、シャルル・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦でナポリ艦隊を破って制海権を奪う。
1494年10月14日
パヴィア到着。ヴィスコンティ城に滞在。
1494年10月
ピアチェンツァにて、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの訃報を受ける。
1494年10月
トスカーナにフランス軍侵攻し、フィレンツェ領境を攻撃。
1494年11月8日
ルッカ到着。
1494年11月9日
ピサに入城。フィレンツェからの解放、独立を目指すピサ市民に解放者として歓迎される。
1494年11月
ピサにて、ジローラモ・サヴォナローラピエロ・カッポーニらフィレンツェ使節と交渉するが、何の回答も与えず。
1494年11月14日
ピエロ・カッポーニの別荘で再びジローラモ・サヴォナローラら代表団と交渉するが何の回答も与えず。
1494年11月17日
軍と共に厳かに市内に入り、自身はメディチ宮殿に投宿。自身に譲歩したピエロ・イル・ファトゥオを復辟させ、自身をピエロ・イル・ファトゥオの上に立つ大君主と見なすよう要求。
ジローラモ・サヴォナローラを除くピエロ・カッポーニら4名の代表団は、この脅迫的要求を拒否。交渉決裂。フィレンツェ市内にフランス軍による略奪、蛮行の不安、恐怖広まる。
1494年11月25日
先の要求を緩和。ピエロ・カッポーニら代表団と、ナポリ制圧後可能な限り速やかにピサをフィレンツェに返還すること、フィレンツェは彼にナポリ制圧のための多額の軍事金12万ドゥカーティを3回に分割して支払うこと、ピエロ・イル・ファトゥオ及びその兄弟をフィレンツェから追放しその財産を没収すること、などについて合意し、協定。
1494年11月28日
軍と共にフィレンツェ出発。
1494年12月2日
シエナに入城。
1494年12月
シエナにて、スオール・コロンバの噂を耳にする(1495年12月)。
1494年12月10日
ヴィテルボに入城。
1494年12月17日
チヴィタヴェッキアにフランス軍入る。
1494年12月19日
フランス兵小隊、モンテ・マリオの丘到着。
1494年12月31日
軍と共にローマに入城(1495年1月初め)。先頭は、短剣を帯び、4分の1が当時のイタリアにはなかった斧槍を持ち、残りは長槍を持つ、染め分けのぴったりした服を着たスイス人とドイツ人の傭兵で、千に対して百の火縄銃隊が編成されている。次に、将校のみ鉄の胴着と頭部防具を装備したフランス人歩兵。ガスコーニュ人の弩隊5千。鉄製鎚矛や重い槍を持つ重装騎兵2千5百は、各騎につき3頭の馬に従騎士1人と従者2人が乗り、4人で1騎のフランス式である。長弓をイギリス式に持ったり、長槍を持つ、胴着と頭部防具のみ装備した軽装騎兵5千。鉄製鎚矛を背負い、鎧の上に紫地に金糸で刺繍された外衣を纏う騎士2百。フランス王親衛隊弓騎兵4百。権標捧持者の一隊といった編成の軍と共にローマに入る。フランス軍は6時間にわたって市内を行進。ラタ通りを通って王の宿泊所に予定されていたサン・マルコ宮殿(現ヴェネツィア宮殿)まで付き従う。その広場正面の両側に、大砲を配置。当時6万余の人口のローマで、3万人兵士たちは略奪し、女性たちをさらう。フランス王は各広場に絞首台を立てさせるが、効果なく、略奪は続けられる。
1495年1月6日
ヴァティカン宮殿に入り、アレクサンデル6世と会見。ピントゥリッキオによって新たな装飾を施されたばかりのボルジアの間に案内される。
1495年1月15日
アレクサンデル6世と協定成立。チェーザレ・ボルジアを人質として引き渡すこと、彼の軍の教会領内自由通行を保障すること、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレをローマ近郊オスティアに復帰させることなどを約定。
側近の判断と勧奨に従い、ジローラモ・サヴォナローラから説示された公会議開催、教会改革の要求を捨ててアレクサンデル6世への服従、恭順の意を公式に表明。
1495年1月16日
アレクサンデル6世と会見。
1495年1月下旬
フランス軍は、ナポリに向かってローマを離れ始める(1495年2月5日)。
1495年1月26日
公式にヴァティカン宮殿に招かれ、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアを含む枢機卿たちに迎えられる。トルコのジェーム王子と会う。
1495年1月28日
アレクサンデル6世に別れの挨拶を行った後、チェーザレ・ボルジアを伴って、ナポリに向かいローマを出発。
1495年1月28日
夜、マリーノにて、ナポリアルフォンソ2世・ダラゴーナが、彼の息子カプアフェッランディーノ・ダラゴーナに王位を譲り、シチリアに逃亡したことを知らされる。
1495年1月29日
ヴェッレトリにて、スペイン大使アントーニオ・デ・フォンセカと会談。ナポリ遠征を中止しなければスペインと戦うことになると告げられる。
1495年1月29日
夜、ヴェッレトリにて、チェーザレ・ボルジアに逃亡される(1495年2月半ば)。
1495年2月
モンテ・サン・ジョヴァンニの城塞から抵抗を受ける。抵抗した住民を虐殺。
1495年2月
カプアは城門を開ける。
1495年2月21日
ナポリ王フェッランディーノ・ダラゴーナが、フランス軍の入城を前にナポリを逃亡。
1495年2月22日
軍を率いて戦わずしてナポリに入る。
1495年3月31日
アレクサンデル6世、ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国が、対フランス神聖同盟(ヴェネツィア同盟)を結成。フィレンツェ、フェッラーラは加盟を拒否。
1495年5月12~20日
ナポリ大司教から大聖堂でナポリ、シチリアの王冠を戴いてその王と名乗るが、神聖同盟によって孤立し、退路を失うことを危惧。5月20日、軍の半ばを残してナポリを離れ、急ぎ帰国の途につく。
1495年5月20日
ナポリを出発。
1495年6月1日
ローマに到着。アレクサンデル6世との会見を希望するが、アレクサンデル6世は彼を避けてローマを離れたため会見できずに終わる。
1495年6月3日
ローマを離れる。
1495年6月
ロンチリオーネからアレクサンデル6世へ大使を派遣するが、拝謁を拒否される。
1495年6月12日
軍にトスカーナ各地で略奪の限りを尽くさせながらピエロ・イル・ファトゥオを伴ってシエナに入る。必要なものを提供すると申し出るフィレンツェの使節に対して全領土を提供せよと威嚇。ピエロ・イル・ファトゥオの襲撃を警戒する市民、武器を取って臨戦態勢に入る。
1495年6月17日
ポッジボンシで待機していたジローラモ・サヴォナローラと会見。1494年11月25日の約束を守ってフィレンツェのものを全て返還しピエロ・イル・ファトゥオ勢力を排除しなければ神にすぐ、重く罰せられるだろうと説諭される。
以後ポッジボンシで1度、カステルフィオレンティーノで1度、会見し同様に説諭される。
しかしピエロ・イル・ファトゥオ支援の中止のみを回答する。
1495年6月
ピサに入る。ピサ市民から、フィレンツェからの解放者として再びこぞって大歓迎される。ピサ市民にピサをフィレンツェに手渡すことはしないと約束。
1495年7月6日
フォルノーヴォの戦い:帰国途上のフランス軍は、フォルノーヴォでフランチェスコ2世・ゴンザーガ指揮の対フランス神聖同盟軍に攻撃され、軍の大半を失いながらも辛うじて勝利を得て帰路を開く。
1495年8月27日
トリノでフィレンツェの使節と、自分がイタリアで支配した地の全てをフィレンツェに返還することを約定。しかし後、実際にはリヴォルノのみを返還するに留まる。
1495年10月27日
グルノーヴルに入る。
1495年11月7日
リヨンに帰着。
1496年7月20/21日
シャルル8世のナポリ総督モンパンシエ公ジルベール・ド・ブルボンは、アテッラでゴンザロ・デ・コルドバに降伏し、シャルル8世の残留軍はナポリより撤退。フェッランディーノ・ダラゴーナは、スペイン軍やヴェネツィア艦隊の支援を得てナポリ全土をほぼ回復。但しナポリ奪還の戦いに加わったヴェネツィアは、アドリア海沿岸のナポリ領5都市を占拠し続ける。
1496年10月27日
すでにマクシミリアン1世のリヴォルノ襲撃の報が届いて市民の不安高まり、神の加護を求める声強まる中、シャルル8世のイタリア再侵入とフィレンツェへの来援を信ずるジローラモ・サヴォナローラ、主を信ずれば救われると自信を持って説教。
1497年2月25日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、対フランス神聖同盟を脱退し、シャルル8世と休戦協定を締結。神聖同盟、事実上分解。
1497年11月24日
フェルナンド2世・デ・アラゴンと親善協定を仮締結。
1498年1月
フェルナンド2世・デ・アラゴンとの親善仮協定、正式に調印される。
1498年4月7日
死(1498年4月8日)。

異名

 温厚王(l'Affable)

関連項目

 The Borgias: 106, 107, 108, 109, 201

外部リンク

 ウィキペディア
 鳳山雑記帳
 歴史データベース
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『性病の世界史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネッサンス百科事典』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前