Charles IX

シャルル9世

生没:1550年~1574年
在位:フランス王 1560年~1574年
    先代:フランソワ2世
    次代:アンリ3世
父:アンリ2世
母:カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 シャルル9世は、16世紀のフランスの男性。

年表

1560年12月5日
フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。
これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。
1562年1月17日
カトリーヌ・メディシスシャルル9世の名で、ユグノーの説教礼拝を都市市壁外で自由に許し、市壁内でも私邸内に限って認める勅令を発する(一月王令)。しかし高等法院がこの勅令の登録を拒否し、ギーズ一門がこれを断乎排斥する姿勢を固めるなど、カトリック・ユグノー両派の融和を狙うカトリーヌ・メディシスの企図に反し両派の対立、さらに深まる。
1565年6月14日~7月2日
カトリーヌ・メディシスシャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。
1572年8月23日~8月24日
サン・バルテルミーの虐殺:Henri de NavarreMarguerite de Franceの結婚祝賀行事でパリに留まっていた各地のユグノー貴族・指導者たち、カトリーヌ・メディシスの巧みで強い教唆を受けたシャルル9世の命により、夜半からギーズ一門の兵士と暴徒に襲撃・虐殺される。Henri de Navarreは難を免れパリから逃亡するが、G. de Colignyがサン・バルテルミーの祭日の未明、ギーズ公Henri de Lorraine自身に率いられた彼の手の者により真っ先に刺殺される(1519年~)など犠牲者は3~4千名にのぼり、ユグノーは主な指導者を全て失う。
さらに組織的弾圧・殺戮が各地に広まり、犠牲者は1万名ののぼって「キリスト磔刑以来の虐殺」と評される事態の中、ユグノーは民衆を中心として組織的抵抗を続ける(第4次(フランス)宗教戦争(~1573年))。
この虐殺に驚愕し危機感を深めるユグノーの間に、この暴政を行う王に対する反抗を正統化する論拠を、まず聖書の中に、次いで聖書の枠を超えて広く求める動きが直ちに生じ、Monarchomachi(暴君放伐論派:モナルコマキ)と総称されることになる政治理論家が生成。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1574年5月30日
シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファヌ・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファヌ・バートリ:在位~1586年))。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『服飾の中世』

記載日

 2005年5月29日以前