- 生没
- 1473年~1511年2月11日
概要
シャルル・ダンボワーズは、15世紀~16世紀の男性。
年表
1500年4月初旬
ルドヴィーコ・イル・モーロは、スイス人傭兵に戦闘を拒否されて1500年4月5日ノヴァーラの戦いでルイ12世軍に敗れ、1500年4月10日捕らえられる。(その後フランスのロシェに連行され、1508年5月その地で死)。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは逃亡するが程なく捕らえられ、フランスのブールジュに連行、幽閉される。(1502年釈放されローマに帰る)。
ルイ12世軍は、ミラノを奪還。その他のロンバルディアの諸都市も次々にフランスの軍門に下る。
ルイ12世はシャルル・ダンボワーズ(1473年~1511年)をミラノ総督に任命。
1502年6月半ば
1506年10月20日
ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。
すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。
1506年10月25日
シャルル・ダンボワーズ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ放棄を督促。
1506年11月1/2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ボローニャを逃亡(在位1463年~)。シャルル・ダンボワーズから身の安全を保障されミラノに亡命。1508年、この地で病死(1443年~)。
1508年2月下旬~3月
マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。
1509年4月15~16日
1509年5月8~10日
1510年4~5月
シャルル・ダンボワーズとジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。1510年5月24日ヴィチェンツァも奪回。
1510年8月9日
ユリウス2世は、アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。
シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。
1510年8~9月上旬
1510年10月14日
ユリウス2世、シャルル・ダンボワーズ破門の勅書を発する。
1510年10月18日~下旬
ミラノ及びフェッラーラの防衛に目途をつけたシャルル・ダンボワーズ、ユリウス2世の滞在するボローニャに軍を率いて迫り、攻撃態勢を取るが極度の疲労と熱病で倒れていたユリウス2世の策略に阻まれて攻撃できず、撤退。
1511年2月11日
1502年6月16日
1506年5~6月
別表記
シャルル・ショモン・ダンボワーズ、Charles Ciamonte d'Amboise
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前