Charles de Bourbon

シャルル・ド・ブルボン

生没年:1482年~1527年
父:ジルベール・ド・ブルボン
母:キアラ・ゴンザーガ
妻:シュザンヌ

概要

 シャルル・ド・ブルボンは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1523年9月11日
1521年死亡した妻シュザンヌ・ド・ボージューの遺領をフランソワ1世とその母后ルイーザ・ディ・サヴォイアから要求されて両者と対立していたブルボン公シャルル・ド・ブルボン(1490年~1527年)は、カール5世陣営に投じ、両者と決定的に敵対。
これによりフランソワ1世は、軍を指揮して自らイタリアに侵攻することを断念し、指揮を提督Guillaume de Bonnivetに委ねる。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1524年6月
カール5世ヘンリー8世シャルル・ド・ブルボンの三者は、カール5世ヘンリー8世から軍や資金を得てシャルル・ド・ブルボンが1524年7月から12月の間にフランスに侵攻することを協定。
1524年6月末/7月初旬
シャルル・ド・ブルボン、軍を率いてアルプスを越えフランス・プロヴァンスに侵攻してマルセイユを包囲。
1524年9月29日
マルセイユを包囲していたシャルル・ド・ブルボン指揮の軍は、フランソワ1世がアヴィニョンに大軍を結集との報に包囲を解き、ミラノを防衛すべく急ぎイタリアに戻る。
1524年10月初旬
シャルル・ド・ブルボン指揮軍のイタリアへの退却、帰還に負けじと、ミラノを奪還すべく大軍を率いて自らアルプスを越え、イタリアに侵攻。
1525年2月24日
Charles de Lannoy総指揮のカール5世軍(=ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス指揮の軍とシャルル・ド・ブルボン指揮の軍)は、前年10月以来パヴィア包囲していたフランソワ1世軍を破る。フランソワ1世は負傷して捕虜となり、クレモーナ近郊Pizzighettoneに幽閉される。彼の将軍Louis de la Trémouille(1460年~)、Guillaume de Bonnivet(1488年?~)らは戦死。カール5世軍の指揮官ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらは負傷。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世フランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1527年1月30日~2月上旬
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ミラノを出発。1527年2月9日?、ピアチェンツァ近郊でゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮の軍を併合し、各地で略奪を繰り返しながらボローニャに向かう。
教皇軍の一部は、急ぎボローニャ市街の防衛、確保に向かう。
1527年3月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍、モデナ領Buonportoに到着。シャルル・ド・ブルボンアルフォンソ1世・デステと会見し、食糧や軍用品を得る。
1527年3月7日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ボローニャ領サン・ジョヴァンニに到着。以後ボローニャ領を劫掠。
1527年3月15/16日
軍資金に窮して自軍の兵士の憤懣、脱走を止められない中でシャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍の南下を見たクレメンス7世、やむなくCharles de Lannoyと8ヶ月間の休戦協定を結び、自軍のナポリ領及びコロンナ家領からの撤退、コロンナ家の赦免、ポンペーオ・コロンナの枢機卿への復位、カール5世軍への資金の提供、カール5世軍の教会領及びフィレンツェ領からの撤退、ヴェネツィア及びフランスによる本協定承認後のカール5世軍のイタリアからの撤退を約定。
これによりクレメンス7世は形式上コニャック同盟から離脱。
1527年3月31日
クレメンス7世及びCharles de Lannoyから1527年3月15/16日の休戦協定を通告され、教会領から撤退するよう指示されたシャルル・ド・ブルボンは、協定を否認し撤退を拒絶。
1527年4月1日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍がフィレンツェを目指しているとの報が伝えられる。
1527年4月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍が、イーモラの城塞の下を通過し、フィレンツェを目指してAppenniniに接近。
1527年4月6/8日
Charles de Lannoyは、シャルル・ド・ブルボン陣営内に入って彼に1527年3月15/16日協定の遵守、トスカーナ侵攻の中止、教会領からの撤退を勧告するためフィレンツェに到着。しかし彼と会見できず、目的を果たせずに終わる。
1527年4月16日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フォルリの南MeldolaからAppenniniを越えフィレンツェ領サンタ・ソフィアに到着。直ちに領内の略奪を開始。
1527年4月25~26日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フィレンツェ南方30キロのサン・ジョヴァンニ至る。
コニャック同盟軍(サルッツォ候ミケーレ・アントーニオ(?~1528年:在位1504年~1528年)ら指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍、グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍)は、フィレンツェ北方10数キロのバルベリーノに結集し、カール5世軍に対するフィレンツェ防衛策を協議。協議後、フィレンツェとカール5世軍の布陣するサン・ジョヴァンニとの中間地点Incisaに向かってフィレンツェ郊外に近づく。
1527年4月26/27日
シャルル・ド・ブルボン、コニャック同盟軍によるフィレンツェ防衛が堅固なこと、フィレンツェ市民による支持、歓迎が期待できないこと、アルフォンソ1世・デステにかねてからフィレンツェ劫掠を止められていたこと、自軍の多数のルター派兵士からローマ劫掠を急ぐ声が強く上がったことなどによりフィレンツェ攻撃、侵入を断念し、急遽ローマを目指して軍をシエナ方面に転進させる。
1527年
3月15/16日の協定を信じてすでにローマ防衛態勢を解除していたクレメンス7世は、シャルル・ド・ブルボンローマ進軍、接近を知って急ぎR. di Ceriに防衛軍を組織させる。
1527年5月5~6日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、Acquapendente、ヴィテルボなどを経てローマ市外に布陣。
1527年5月6日
ローマ劫掠:シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、R. di Ceri指揮のローマ防衛軍を破って市街に突入。シャルル・ド・ブルボン自身は戦死するが、軍は略奪、破壊、放火、殺戮の限りを尽くしながらヴァティカン宮殿をも激しく襲う。クレメンス7世は急ぎ枢機卿13名らと共にサンタンジェロ城塞に逃げ、そのまま捕囚同然の身となる。
1527年
フランソワ1世シャルル・ド・ブルボンの所領の大部分を没収し、ルイーザ・ディ・サヴォイアに与える。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『服飾の中世』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前
ブルボン家
カペー家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで