Clemens VII

クレメンス7世

Clemens VII
生没:1478年5月26日~1534年9月25日
在位:枢機卿 1513年9月23日~1523年
       任命した教皇:レオ10世
   フィレンツェ大司教 1513年~1523年
    先代:コジモ・デ・パッツィ
   第219代教皇 1523年~1534年
    先代:ハドリアヌス6世
    次代:パウルス3世
父:ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ
母:フィオレッタ・ゴリーニ
女:シモネッタ
子:アレッサンドロ・デ・メディチ

概要

 ジューリオ・デ・メディチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者。第219代教皇クレメンス7世。

年表

1478年4月26日(日)
ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ、死。
1478年5月26日
生。
1494年11月10日
ボローニャ到着。
1513年4月23日
レオ10世は、1513年4月8日?死亡した大司教コジモ・デ・パッツィの後任に従弟(=パッツィ家の陰謀(1478年)によって殺害された叔父ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチの庶出の子)ジューリオ・デ・メディチ(1478年~)を任命。
1513年9月23日
レオ10世、従弟ジューリオ・デ・メディチ及び甥インノチェンツォ・チーボ(1491年~1550年:枢機卿在位1513年~1550年)、同族ロレンツォ・プッチ、自分の秘書でかつての家庭教師ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの3名を新たに枢機卿に任命。
1519年5月4日
ロレンツォ・デ・メディチ死(1492年~:ウルビーノ公在位1516年~)。
レオ10世、ジューリオ・デ・メディチにフィレンツェの支配にあたらせながら彼を通してローマからフィレンツェを支配。
しかしレオ10世の意に従いながらもジューリオ・デ・メディチ、自ら絶対君主化して集権的支配を行なっていたロレンツォ・デ・メディチに対してメディチ派貴族の中にさえ憤懣・反発が強まり離反者が生じていたことを考慮し、宥和策をとり始める。
1521年11月19日
プロスペロ・コロンナやペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。
以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。
1522年1月9日
カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る(在位1522年~1523年)。
この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。
枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。
1522年5月下旬
フランチェスコ・ソデリーニの軍事行動と結んでジューリオ・デ・メディチを1522年6月19日殺害しピエロ・ソデリーニを終身正義の旗手として復帰させることなどを企んでいた陰謀発覚し、首謀者の内Iacopo da DiaccetoLuigi di Tommaso Alamanniは逮捕されるが、ツァノービ・ブォンデルモンティ、Luigi di Piero AlamanniA. Brucioliヴェネツィアに逃亡。後正式に追放処分を下される。
1523年4月27日
フランチェスコ・ソデリーニフランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチの教皇庁内での力、とみに強まる。
1523年11月18日
枢機卿ジューリオ・デ・メディチ、新教皇に選出されクレメンス7世を名乗る。
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティフランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
1524年1月24日
クレメンス7世、トマス・ウルジーを終身教皇特使に任命。
1524年1~2月
この頃?、教皇クレメンス7世、フランソワ1世などキリスト教君主間の戦いには介入しないと言明しながら秘密裡にカール5世に多額の軍資金を送り、フィレンツェに対してもカール5世を支援するよう指令。
1524年4月6日
フランチェスコ・グィッチャルディーニ、クレメンス7世によりロマーニャ総督に任命される。
1524年4月10日
カール5世のイタリアにおける覇権確立を恐れたクレメンス7世、フランソワ1世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃に敵対する方針を変更することを内心密かに決め、この日フランソワ1世の使節に自分は決してカール5世に与するものではないと言明。
1524年4月14日
クレメンス7世、カール5世から出された前年8月の前教皇ハドリアヌス6世との同盟の更新の要求に対し、オスマン・トルコに対して団結すべきキリスト教世界の父としてキリスト教君主間の戦いには中立を保つと改めて宣言し、間接的に拒絶の姿勢を示す。
1524年5月
この月?、クレメンス7世は、コルトーナの枢機卿シルヴィオ・パッセリーニ(1459年~1529年)にフィレンツェの直接の統治を委ね、彼を介して間接的にフィレンツェを支配。この措置にメディチ派の貴族にも不満生ずる。
1524年6月24日
クレメンス7世、「神愛オラトリオ会」のメンバーGaetano da Thiene(1480年~1547年)、G. P. Carafaらが信仰生活のローマ教会内部における改革を目指して1524年設立した「テアティノ修道会」を公認。
1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1524年8月12日
クレメンス7世、カール5世の使節が伝えた前年8月の同盟の更新と軍資金提供の要求を明確に拒絶。
1524年11月9日
クレメンス7世、フランソワ1世のもとに使節Gian Matteo Gibertoを送り、この日、彼のミラノ及びパヴィア攻撃に反対しないことを伝える。
1524年12月初旬
この頃までにクレメンス7世、カール5世陣営にあったジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。
1524年12月12日
クレメンス7世、フランソワ1世と、自分は彼に敵対する者に軍を与えず、彼のミラノ領有を認め、彼は教会領及びメディチ家の支配するフィレンツェを防衛することを秘密裡に協定。
1524年
ミケランジェロ、クレメンス7世の命によりメディチ家の図書館ラウレンツィアーナ図書館を着工(~1534年)。
1525年2月26日
パヴィアにおけるフランソワ1世の敗北、捕囚の報をローマで得たクレメンス7世、夢にも思わなかった事態に呆然。イタリアの諸権力者、諸国もカール5世のイタリアにおける覇権の脅威に脅え始める。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年3月
パヴィアでのカール5世軍の勝利を見て彼に対抗すればロマーニャの教会領をことごとく失いかねないばかりかフィレンツェでのメディチ支配も危うくなると感じたクレメンス7世と、自軍の兵士への報酬やフランソワ1世の身柄の取り扱いについてクレメンス7世との折衝を望むCharles de Lannoyは、秘密裡に折衝。クレメンス7世はヴェネツィアを折衝に引き入れようと試みるが、カール5世の覇権を嫌うヴェネツィアはCharles de Lannoyの求める金の支払いも嫌ってこの試みに乗らず。
1525年4月1日
クレメンス7世とCharles de Lannoyは、クレメンス7世とカール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世はCharles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。
1525年5月5日
この頃?、クレメンス7世、1525年4月1日協定の一部条項の批准を躊躇うカール5世のもとに、その真意を探ると共に協定の全面的批准を促すべく使節として枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣することに決める。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世フランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1525年6月10日
ルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世び教書(1525年5月17日付)に基づき、ルター派追求の異端審問委員会を設置するよう命令。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1526年3月末~4月初旬
クレメンス7世及びヴェネツィア、それぞれフランソワ1世のもとに使節を送り、マドリード協定は強制的に締結させられたもので無効であると伝えると共に、彼の協定についての真意を確認しながら協同でカール5世に反抗するよう勧奨。フランソワ1世は協定に拘束される意志のないことを伝える。
加えてクレメンス7世、戦争は不可避と見、フィレンツェの防備を固めるべくスペイン人軍事技術者Pedro Navarraをフィレンツェに派遣。
1526年4月20日
クレメンス7世は、フィレンツェ人ロベルト・アッチャイウオリフランソワ1世の宮廷駐在大使に任命し、フランソワ1世との関係の緊密化を図る。
1526年5月9日
百人委員会、クレメンス7世の指示に基づいてニッコロ・マキアヴェッリが起草した市壁管理委員会設置案を承認。これによりCinque Procuratori delle Mura(市壁管理五人会)が設置される。
1526年5月22日
コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。
1526年5月22日
フィレンツェはクレメンス7世の一存によりコニャック同盟の庇護を受けることになり、事実上の加盟国とみなされる。
1526年6月17日
カール5世に与するシエナ政府の転覆を狙うクレメンス7世、小軍(教皇軍・フィレンツェ軍)をシエナ市壁下に送る。
1526年6月下旬~7月初旬
コニャック同盟軍(クレメンス7世軍、ヴェネツィア軍、フィレンツェ軍)は、カール5世軍の包囲するミラノを目指して進撃を開始。
1526年7月8日
コニャック同盟陣営、同盟をローマで盛大華麗な儀式をもって公表。
1526年7月19日
全く行動を起こさないフランソワ1世にヴェネツィア、フィレンツェなどコニャック同盟諸国が苛立つ中、クレメンス7世、フランソワ1世のもとに特使を送り、同盟の義務に従って軍を派遣するよう求める。しかし約束を得ただけで無駄に終わる。
1526年7月25日
シエナ政府の転覆を狙う教皇軍、フィレンツェ軍は、期待していた市内での反乱が生じないばかりか親教皇派が追放されたため撤退。クレメンス7世の企図は失敗に終わる。
1526年8月20日
クレメンス7世と、ローマにおけるその最後の強敵でカール5世と結んだコロンナ一族との抗争について、クレメンス7世とヴェスパシアーノ・コロンナ及びカール5世のナポリ総督代理ウーゴ・デ・モンカーダ(1476年頃~1528年)との間で、クレメンス7世はコロンナ家領を侵攻しないこと、コロンナ家はその軍をローマ近郊からナポリに撤退させることなどについて協定。
1526年9月17日
オスマン・トルコ軍の脅威的進撃に対処し得ないクレメンス7世への不満、非難が広まる中、カール5世は、クレメンス7世を非難し公会議開催を求める宣言文をグラナダで公表。この中で、クレメンス7世を自分から長年得てきた支持を忘れて自分に敵対しているのみならず、この世における神の代理人の地位にありながら人間の血の犠牲の上に世俗の財物、領地を保持し、キリスト教世界を守るべき任務を放置してキリスト教徒攻撃に力を注ぎ、異教徒によるキリスト教徒攻撃を許しているとルター派さながらにクレメンス7世を弾劾した上で、公会議によるクレメンス7世の審査を求める。
1526年9月20~21日
コロンナ一族は、ウーゴ・デ・モンカーダ指揮の軍と共にローマを急襲しヴァティカン宮殿を略奪。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃亡。かねてからクレメンス7世に敵対していた枢機卿ポンペーオ・コロンナ(1479年~1532:枢機卿在位1517年~1532年)がクレメンス7世を廃して教皇位を襲うための行動と広く信じられる。
1526年9月21日
やむなくウーゴ・デ・モンカーダと、4ヶ月間の休戦、ロンバルディアにある教皇軍のポー河以南への撤退、コロンナ家の赦免、カール5世軍、コロンナ家軍のローマ及び教会領からナポリへの撤退などを協定。
この後、クレメンス7世、直ちに密かに軍を集め、コロンナ家領及びナポリへの侵攻態勢を整えると共にコロンナ一族を教会に対する反逆者と宣言し、ポンペーオ・コロンナの枢機卿位を剥奪。
他方でクレメンス7世、ロンバルディアの同盟軍に書簡を送り、4ヶ月の休戦期間終了後はこれまで以上にカール5世と戦うと告げる。
1526年
この頃までにクレメンス7世、自分のコニャック同盟軍結成以来何の行動も起こさないフランソワ1世に書簡を送り特使を送って支援を求める。しかし言葉以外何の反応も得られず、クレメンス7世及びフィレンツェなどイタリア諸国の孤立感、深まる。
1526年10月6日
カール5世、枢機卿たちに書簡を送り、クレメンス7世を9月の宣言文同様に非難した上で、クレメンス7世が公会議を召集、開催しないなら代わって枢機卿たちが法的権限に従ってそれを行うよう求める。
1526年10月7日
クレメンス7世、9月21日の協定に従い、自分のコニャック同盟軍内全権代理・前線総監フランチェスコ・グィッチャルディーニに命じて自軍を同盟軍から離し、ポー河以南に撤退させる。しかし、ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレと共になるべく多くの兵を密かに残せとも命ずる。
1526年11月
この頃、ナポリでペスト蔓延し始め、以後3年余続く。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世、カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グィッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1527年2~3月
クレメンス7世、R. di Ceriら指揮の陸軍に引き続きアクイラ、Tagliacozzoなどコロンナ家領を攻撃させると共に、アンジュー家のナポリ継承請求権を継承するVaudémontRégnier指揮の艦隊(教皇軍、ヴェネツィア軍、フランソワ1世軍)にCastellammare di StabiaTorre del GrecoSorrentoなどナポリ湾岸各地を、さらにサレルノを攻撃、占領させる。
1527年3月15/16日
軍資金に窮して自軍の兵士の憤懣、脱走を止められない中でシャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍の南下を見たクレメンス7世、やむなくCharles de Lannoyと8ヶ月間の休戦協定を結び、自軍のナポリ領及びコロンナ家領からの撤退、コロンナ家の赦免、ポンペーオ・コロンナの枢機卿への復位、カール5世軍への資金の提供、カール5世軍の教会領及びフィレンツェ領からの撤退、ヴェネツィア及びフランスによる本協定承認後のカール5世軍のイタリアからの撤退を約定。
これによりクレメンス7世は形式上コニャック同盟から離脱。
1527年3月31日
クレメンス7世及びCharles de Lannoyから1527年3月15/16日の休戦協定を通告され、教会領から撤退するよう指示されたシャルル・ド・ブルボンは、協定を否認し撤退を拒絶。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年4月25日
クレメンス7世は、フランソワ1世及びヴェネツィアと新たに協定を結び、コニャック同盟に再加入。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年
3月15/16日の協定を信じてすでにローマ防衛態勢を解除していたクレメンス7世は、シャルル・ド・ブルボンのローマ進軍、接近を知って急ぎR. di Ceriに防衛軍を組織させる。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年4月28日
フィレンツェがコニャック同盟に正式に加入。
1527年5月6日
ローマ劫掠:シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、R. di Ceri指揮のローマ防衛軍を破って市街に突入。シャルル・ド・ブルボン自身は戦死するが、軍は略奪、破壊、放火、殺戮の限りを尽くしながらヴァティカン宮殿をも激しく襲う。クレメンス7世は急ぎ枢機卿13名らと共にサンタンジェロ城塞に逃げ、そのまま捕囚同然の身となる。
1527年5月11日
フィレンツェに、カール5世軍によるローマ劫掠、クレメンス7世捕囚の報、届く。
1527年5月16日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレオルヴィエートに到着し、グイド・ランゴーニ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da BozzoloLuigi Pisaniらコニャック同盟軍指揮官とクレメンス7世救出策を協議。ローマ進軍、クレメンス7世救出とそれらによるフィレンツェ防衛の弱体化、フィレンツェ政体転覆の危険などについて議論紛糾し、行動は停滞。
1527年5月17日
メディチ家支配体制再崩壊:クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
1527年5月18日
ヘンリー8世フランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。
1527年5~6月初旬
この頃?、ヴェネツィア軍は、防衛態勢を欠いた教皇領の保全という名分を掲げてラヴェンナを、次いでチェルヴィアを占領、支配。
1527年6月6日
期待していたコニャック同盟軍による救出、解放に見込みはないと判断したクレメンス7世、屈服し、カール5世軍より示された、カール5世に巨額の資金を3回に分割して支払うこと、2回目を支払った時点でガエタまたはナポリで13名の枢機卿と共に釈放されること、サンタンジェロ城初めオスティアチヴィタヴェッキア、チヴィタ・カステッラーナの各城塞をカール5世軍に明け渡しピアチェンツァ、パルマ、モデナをカール5世に委譲すること、コロンナ家を赦免することなどの条項を受諾。
これによりカール5世軍がサンタンジェロ城に入り、クレメンス7世初め枢機卿らは文字通りの捕囚となる。
1527年6月
イタリア全土で食糧不足が深刻化すると共にペストが蔓延し始め、サンタンジェロ城の教皇付きの者の中にもペストによる死者が出始める。
1527年8月3~18日
ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。
1527年8月中旬
イタリア全土にペスト蔓延。とりわけローマ、フィレンツェ、ナポリなどで大流行。サンタンジェロ城の内部でも死者が続き、教皇ら、嘆願して8月13日?スペイン兵の看視の下で一時ベルヴェデーレ宮に移される。
ローマ占領カール5世軍の兵士たちは、ペストが猖獗を極めるローマを避けてナルニ、テルニ、スポレートなどに疎開し、略奪を続ける。
1527年10月30日
カール5世の総督ウーゴ・デ・モンカーダは、ローマでクレメンス7世と、クレメンス7世はカール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1527年12月7/8日
クレメンス7世、ウーゴ・デ・モンカーダとの身柄釈放協定(1527年10月30日)を信じず、商人に変装して単身サンタンジェロ城を脱出。Luigi Gonzaga(1500年~1532年)に伴われてMontefiascoへ、さらにオルヴィエートへ逃亡。
1528年2月9日
ニッコロ・カッポーニ、サン・マルコの修道士たちやピアニョーニの助言、勧奨を受け、故ジローラモ・サヴォナローラの説教に従ってキリストをフィレンツェの王とするようコンシーリオ・マッジョーレに提案。1100名の評議員の内1082名の賛成を得て採択される。
ピアニョーニの若者ら、教会や家々のメディチ家紋章、クレメンス7世の像などを撤去、破壊。
クレメンス7世のローマ逃亡(1527年12月)の頃よりすでにメディチ派との融和策をとり始めていたニッコロ・カッポーニ、市内のこれら反メディチの動向に不満を高めているクレメンス7世を慰撫するための特使を派遣することなどを考えるが、強い反メディチ感情に押されて実行できずに終わる。Baldassarre Carducciを指導者とするアッラビアーティなどからクレメンス7世と内通しているとのニッコロ・カッポーニ批判が市内で高まり、広がる。
1528年6月10日
ニッコロ・カッポーニ、アッラビアーティの過激な動向に反発して連合した貴族、有力市民、メディチ派、共和政穏健派などの支持を得、一般の予測に反して、アッラビアーティのBaldassarre Carducciなどを破り正義の旗手に再選される。
再選後もクレメンス7世の反フィレンツェ感情を和らげるため彼及び彼の側近との接触、文通を続けたニッコロ・カッポーニは、市内の根強い反メディチ感情の反発を受け、十人委員会の了承を受けずにそれらを行うことを禁止される。但しニッコロ・カッポーニはなお密かに側近との文通を続ける。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1528年8月18~19日
かねてからくすぶっていた正義の旗手の権限は過大だとする不満がニッコロ・カッポーニのクレメンス7世慰撫策への反発と結びついて正義の旗手の権限縮小の動きが活発化し、コンシーリオ・マッジョーレの選出する2年任期の20名の補佐官と過去及び現在の十人委員会とからなる特別諮問会議を設置してこれが通常の政務を担当することに決まる。これによりニッコロ・カッポーニは政治的に対立する者たちからさらに大きく制約される。
1528年10月6日
クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。
以後、クレメンス7世、アルフォンソ1世・デステへの復讐、フェッラーラ、モデナ、レッジョの奪還を策すと共に、フランソワ1世に対してイタリアで圧倒的な優位を占めつつあるカール5世との和解の方途を探り始める。
1528年
クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世とカール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしと特別諮問会議などで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。
1529年
クレメンス7世死亡の噂が広まり、市内は異常な歓喜に包まれる。
1529年初旬
クレメンス7世、ペストに似た熱病に罹り、一時重態に陥る。
1529年1月10日
重病のクレメンス7世、イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
1529年1~2月
快癒したクレメンス7世はカール5世との接近工作を続け、カール5世もクレメンス7世に極めて融和的な書簡を送り、それをクレメンス7世が1529年2月8日枢機卿会議で公開するなど、両者の和解、接近の動き活発化する。
1529年2月18日
クレメンス7世とカール5世の和解、提携が進む中、フィレンツェも両者の和解、提携することが最善とするニッコロ・カッポーニの見解が、市内の反メディチ意識、伝統的親フランス感情によって排斥され、この日コンシーリオ・マッジョーレに正義の旗手辞任を申し出るが、受理されず。しかし、彼への信望、弱まる。
1529年4月15日
十人委員会は、クレメンス7世、メディチ家と敵対してきたマラテスタ・バリオーニを来る6月1日から1年間、フィレンツェ軍の総指揮官として雇うことを決め、コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
この頃?、同じくクレメンス7世の宿敵ナポリオーネ・オルシーニを軍指揮官として雇うことも同様に決める。
1529年4月16日
ニッコロ・カッポーニ、クレメンス7世との秘密折衝の進展を報告するローマ教皇庁からの密書を紛失。これがアッラビアーティなど反ニッコロ・カッポーニ派の手に入り、前年に禁じられたクレメンス7世との折衝を行っていたニッコロ・カッポーニを追及する声、一気に高まる。ニッコロ・カッポーニ支持、反対の両派、それぞれ集会を開いて気勢を上げる。
1529年4月17日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、クレメンス7世との秘密折衝の件でニッコロ・カッポーニを召喚、審問。反ニッコロ・カッポーニ派は最大の反逆罪の嫌疑でニッコロ・カッポーニを拷問にかけるよう主張し、ニッコロ・カッポーニは辛うじて無実を主張。審議中、Ottimatiを中心とするピエロ・サルヴィアーティ指導のニッコロ・カッポーニ支持者は、武装してシニョーリア広場に集合。Ottoは武装した者の広場からの退出を命令。
ニッコロ・カッポーニ処刑の声が挙がる中、彼の支持者たち、民衆暴動の発生を恐れて彼の正義の旗手辞任を了承。コンシーリオ・デリ・オッタンタは、新正義の旗手を翌18日に選出すると市内に布告。
1529年4月18日
クレメンス7世、布告を出してペルージアを含む教会領の領民が他国の傭兵となることを禁止。
1529年4月18日
コンシーリオ・マッジョーレ、正義の旗手の任期を8ヶ月に短縮すること、ニッコロ・カッポーニの事例の再発防止のため外交権をほとんど奪うなど正義の旗手の権限を大幅に縮小すること、を決めた後、アッラビアーティの指導者の1人でニッコロ・カッポーニの政敵Baldassarre Carducciの同族Francesco Carducci(1465年~1530年)を正義の旗手に選出。
以後、新正義の旗手の下、フィレンツェのクレメンス7世との対決姿勢、強まる。
1529年4月20日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、ニッコロ・カッポーニの弁明を聞いた上、彼の反逆罪の嫌疑を否認し、クレメンス7世との折衝禁止令に反した罪についてのみ保釈金を課すと共に5年間のフィレンツェ領内禁足を命ずる。
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1529年7月上旬~下旬
クレメンス7世、フィレンツェ軍が防衛を分担しているペルージアに対して、自分に敵対する軍隊は全て撤退せよとの布告を繰り返し発する。
1529年7月16日
バルセロナ協定によってカール5世との関係を確立したクレメンス7世、婚姻不成立の訴えに関してヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナをローマに召喚する令状に署名。
1529年7月23日
クレメンス7世、ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇使節法廷を休廷させ、審議の場をローマに移す。
列強の王たちの中でただ一人、一貫してローマ教会、教皇に忠節を尽くし、その守護に励んで信仰の擁護者の称号を与えられ(1521年)ていたヘンリー8世、自身の婚姻不成立の訴えに関するクレメンス7世の一連の対応に激しく反発し、敵意を燃やす。民心も、これまで反発していた婚姻不成立問題を超えてローマ教会、クレメンス7世の態度に反発し、ヘンリー8世の下に集まる。
1529年8月12日
カール5世、クレメンス7世から正式に神聖ローマ皇帝の冠を受けるべく海路ジェノヴァに着き、初めてイタリアの地を踏む。この地でカンブレーの和の成立の報を得る。
1529年8月23日
フィレンツェ使節団は、イッポーリト・デ・メディチを含むクレメンス7世の使節団を初めイタリア諸国のほとんどの使節団がすでに滞在しているジェノヴァにようやく到着。
1529年8月24日
クレメンス7世の使節団の強い要求に従って一旦はフィレンツェ使節団の接見を拒否したカール5世アンドレア・ドーリアの要請をいれ、クレメンス7世の使節の一人の同席の下でようやく接見。これまでの誠意と今後の恭順、協調を言上した上、クレメンス7世こそフィレンツェの自由とカール5世自身にとって最大の敵であると力説し、フィリベルト・デ・シャロン指揮のフィレンツェ攻略軍の進撃を止めるよう懇請する使節団に対し、クレメンス7世の名誉を認めぬ限り交渉の余地はないと断言し、仲介するから直ちにクレメンス7世と和解交渉を開始せよと命ずる。
1529年8月30日
カール5世はジェノヴァを発ちピアチェンツァに向かう。彼を追ったフィレンツェの使節ラッファエーレ・ジローラミ、ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニに対して、クレメンス7世の使節と合意の上、1529年8月24日の第一回会見の主張を繰り返す。
1529年10月7日
ジェノヴァに着いたカール5世からイタリアに長く滞在できないことを理由にローマでではなくボローニャでの戴冠を申し込まれたクレメンス7世、慣例を破ることに反対する側近を押し切り、やむなくローマを出発。トスカーナを避け、ロマーニャ経由でボローニャに向かう。
1529年10月17日
ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えをクレメンス7世に認めさせることに失敗したトマス・ウルジー、イングランド法管轄下の訴訟を外国で行なうことを禁じたActs of Praemunire(上訴禁止法:1393年)に違反したかどで訴追され、失脚(在位1515年~)。
1529年10月24日
クレメンス7世、ボローニャに着き、カール5世を待つ。
1529年10月下旬~11月初頭
この頃?、アルフォンソ1世・デステ、自らカール5世のもとに赴いて懸命に恭順、忠節の意を表し、受け入れられる。フェッラーラ、モデナ、レッジョの領有を巡るクレメンス7世のアルフォンソ1世・デステに対する敵意も考慮して彼を回避していたクレメンス7世は、旅程を変えてモデナに入る。
1529年11月3/4日
宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。
1529年11月5日
ボローニャ会談:カール5世、クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。
この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。
1529年
クレメンス7世とカール5世、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟について確認し、ロンバルディアで和平がなればその地のカール5世の軍をフィレンツェ攻撃に投入することで合意。(2)フェッラーラ、モデナ、レッジョ問題についてはすでに内心でこれをアルフォンソ1世・デステに与えることを決意しているカール5世が巧みにクレメンス7世を説得し、カール5世の検討に委ねることに決める。
1529年11月23日
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、クレメンス7世に呼ばれてボローニャに着く。
1529年11月29日
フィリベルト・デ・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。
1529年12月23日
スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識したカール5世、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、カール5世にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。カール5世フランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世、カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァCarlo II (il Buono)フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1529年
カンブレーの和、イタリア戦争小康状態に
1530年1月3~7日
フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、特別諮問会議では意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。特別諮問会議もこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。
1530年1月下旬
クレメンス7世、ボローニャに派遣されてきたフィレンツェの使節ルイジ・ソデリーニ(1476年~1530年)、Andreuolo Niccoliniに、フィレンツェの反抗、敵対及びフィレンツェ政府、政体そのものへの反発、敵意を激しい言葉で一方的に浴びせる。
カール5世、新たな妥協案を提示するのでなければ会見の必要はないとしてフィレンツェ使節の接見を拒否。
1530年2月8日
特別諮問会議は、平和的交渉で成果を得られる展望はないとしてクレメンス7世との和解を断念。しかしカール5世及びフィリベルト・デ・シャロンとの接触は求め続ける。
1530年2月22/23日
カール5世、ボローニャでクレメンス7世よりロンゴバルド王(イタリア王)の冠を受ける。
1530年2月24日
カール5世、30回目の誕生日のこの日、ボローニャでクレメンス7世より神聖ローマ皇帝の冠を受ける。
1530年3月2日
クレメンス7世に強く拒絶されてボローニャを訪ねられなかったアルフォンソ1世・デステカール5世の仲介により、ようやくクレメンス7世からフェッラーラ~ボローニャ間の通行の安全を保障される。1530年3月7日ボローニャに着く。
1530年3月21日
帰国する前にイタリアにおける争乱の芽を摘み取りたいカール5世、フェッラーラ、モデナ、レッジョの帰属問題につき、近く自身が裁定を下すこと、その時までこれらの地を自身ないし自身の配下の者の管轄下に置くことをクレメンス7世とアルフォンソ1世・デステに同意させる。
1530年3月31日
クレメンス7世、ボローニャを発ちローマに向かう。
1530年4月6/9日
クレメンス7世、ローマに帰着。
1530年6月9日
1529年12月Ottoからボローニャにおけるクレメンス7世の側近としての言動などを説明するよう召喚されながら書面で弁明し、1530年3月諸島に叛徒と宣告されていたフランチェスコ・グィッチャルディーニが改めて叛徒として全財産の没収を宣告されたのを初めフランチェスコ・ヴェットーリIacopo Tornabuoni(1472年~1543年)も同じ宣告を受ける。
1530年6月21日
フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo GherardiAndrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニカール5世軍陣営に通報。
ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベルト・デ・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世、クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベルト・デ・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。
1530年6月下旬
クレメンス7世を自陣に引き入れてカール5世に対抗させたいフランソワ1世、子息が釈放されたから約束のフィレンツェ支援をと催促するBaldassarre Carducciに、カール5世の全ヨーロッパ制覇を防ぐために自分とクレメンス7世、ヘンリー8世フィレンツェの同盟が必要だと説き、これを実現するためフィレンツェはクレメンス7世と和解せよと指示。
1530年7月初旬
すでにこの頃までにクレメンス7世の財政、長期にわたる戦費の支出のために危機状態に陥る。
1530年7月末
この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベルト・デ・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニカール5世・クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。
1530年8月9日
有力貴族を含む共和政派、反カール5世集会を開いて市内の警護を開始。これをメディチ派が妨害。
シニョーリアは、全市民に武装解除と商店の開店を指令すると共に全政治犯の釈放令を発してメディチ派の被逮捕者を釈放。さらにカール5世陣営との和議の使節としてロレンツォ・ストロッツィ(1515年~1554年)、ピエルフランチェスコ・ポルティナーリ、バルド・アルトヴィッティ、ヤコポ・モレッリを、クレメンス7世への使節としてバルトロメオ・カヴァルカンティを指名。
1530年8月12日
フィレンツェ共和政の消滅:カール5世の陣営で、フィレンツェの政体は4ヶ月以内にカール5世が決めること、フィレンツェはカール5世軍にその兵を満足させるに足る軍資金を支払うこと、フィレンツェの領土を保全し外国軍隊はそこから撤退すること、マラテスタ・バリオーニとステファノ・コロンナはカール5世に代わって市内を警護すること、これまでのフィレンツェの反メディチ、クレメンス7世の罪は問われず、指導者及び市民は処罰されないことなどを内容とする和平(降伏)協定が調印される。これによりフィレンツェ共和政、実質上、歴史から消える。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グィッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1530年
アウクスブルクの信仰告白認可
1531年1月29日
メディチ派内部に対してさえ非寛容な専断をなし過ぎたため解任された(1530年末)バッチオ・ヴァローリに代わってクレメンス7世によりその全権代理に任命されたカプア大司教Nikolaus von Schönberg着任。
1531年2月17日
バーリアは、クレメンス7世の全権代理Nikolaus von Schönbergの強い支持により、アレッサンドロ・デ・メディチを自らの一員として加えると共に、彼の全官職への就任権、全官職人事への介入権及びSua Eccelenza(陛下)の呼称を承認。
1531年3月
クレメンス7世、キリスト教国家の全聖職者に対し、民衆にオスマン・トルコの脅威、その攻撃の危機を説くよう指令。
1531年4月25日
クレメンス7世、前年に繰り返して公会議開催を求めてきたカール5世に対し、フランソワ1世の反対の続く限り応じられないと書面で回答。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1531年8月23日
クレメンス7世、ローマAntonio Blado (d'Asola)(1490年~1567年に教皇庁財務院の後見・監督の下でニッコロ・マキアヴェッリ君主論Discorsi及びIstorie fiorentineを出版する特許を与える。
1531年12月20日
クレメンス7世、Bernardo di Giuntaニッコロ・マキアヴェッリ君主論Discorsi及びIstorie fiorentineニッコロ・マキアヴェッリの遺族の同意を得た上、彼の祖国フィレンツェで出版する特許を与える。
1531年12月28日
クレメンス7世、枢機卿及び諸国の大使、使節を招集し、オスマン・トルコ対策について協議。しかしオスマン・トルコと戦うことになりたくないヴェネツィアやフェッラーラの大使は参加せず。
1531年
シュマルカルデン新教同盟結成
1532年1月初旬
クレメンス7世、オスマン・トルコ軍の攻撃に備えてアンコーナを初め教会領の各地の港湾を強化すること、カール5世フェルディナンドのオスマン・トルコ対策に資金援助を行うことを決めると共に、これらを支援するようキリスト教諸国の君侯に呼びかける。
1532年1月15日
イングランド「宗教改革議会」、ヘンリー8世の側近Thomas Cromwell(1485年頃~)が作成した、王国内の聖職者がその禄から得る初年度の収入の約3分の1を教皇の上納することを制限する「初年度収入税上納制限法」案を承認し、イングランドにおける教皇権力への攻撃を開始。但し、これに対するクレメンス7世の破門による制裁は無視することなど強硬な方針を定めるこの法の発効時期をヘンリー8世の裁断に任せることにより、彼の婚姻解消問題へのクレメンス7世の対応を窺う。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジョヴァンニ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1532年5月27日
クレメンス7世、故マラテスタ・バリオーニの子リドルフォ・バリオーニ(1518年~1554年)と甥ジャンパオロ・バリオーニをペルージアから追放した上、叛徒と宣告し、その封土、城塞を全て没収して教会領とする。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1532年10月4日
スレイマン1世の撤退によってその侵攻の脅威を免れて以来クレメンス7世と再び会見することを求め、同意を得たカール5世、会見地ボローニャに向かってウィーンを出発。
1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリン(1507年頃~1536年)やトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世フランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1532年12月8日
クレメンス7世、カール5世との会見のためローマからボローニャに着く。
1532年12月15~20日
クレメンス7世とカール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世メディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年2月24日
クレメンス7世、カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステフェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1533年3月10日
クレメンス7世、ボローニャを発ち、ロマーニャ、マルケ両地方を経て、1533年4月3日ローマ着。
1533年5月3日
クレメンス7世とフランソワ1世の2名の全権使節François de TournonG. de Gramontアンリ・ド・ヴァロワカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世とフランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。
1533年5月23日
1533年1月10日ヘンリー8世にってカンタベリー大司教に任命されクレメンス7世の承認を得て1533年3月30日公式に叙階されたThomas Cranner(1489年~:在位~1553年)、ヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は無効と宣言。
1533年7月9日
もはやクレメンス7世が自分とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻を無効と認める可能性はないと見たヘンリー8世、1532年1月議会の制定した「初年度収入税上納制限法」を発効させる。
1533年7月11日
クレメンス7世、ヘンリー8世アン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1533年9月26日
クレメンス7世、フランソワ1世の使節の勧めに従い、ヘンリー8世破門の発行を1ヶ月延期。
1533年10月11日
カルロ・ディ・サヴォイアがカール5世の圧力を受けてクレメンス7世・フランソワ1世会談の自領ニースでの開催を断ってきたためにその会談の場とされたマルセイユに、この日クレメンス7世、リヴォルノから海路到着し、1533年10月12日14名の枢機卿と60名余の高位聖職者を伴って市外に入る。
1533年10月13日
フランソワ1世、王妃レオノール・デ・アウストリアと2名の王子を初め200名に上る上級貴族を伴ってマルセイユに着く。
以後、クレメンス7世とフランソワ1世、この地で秘密裡に会見を繰り返す。クレメンス7世はフランソワ1世にミラノへの進出を認め、フランソワ1世はクレメンス7世に自国での異端の撲滅を約束か?
1533年10月27日
クレメンス7世とフランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世、メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。
1533年10月31日
クレメンス7世、フランソワ1世の要請を容れ、ヘンリー8世破門の発行をさらに1ヶ月延期。
1533年11月7日
クレメンス7世、フランソワ1世の強い要請の下、カール5世陣営の枢機卿の反対を押し切ってフランソワ1世の推す4名を枢機卿に任命。
1533年
ヘンリー8世がキャサリンを離別、ローマと対立激化
1533年
イワン4世雷帝即位(-84)
1534年3月23/24日
クレメンス7世、秘密枢機卿会議でヘンリー8世カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は有効であることを改めて最終的に確認し、ヘンリー8世にその婚姻に復帰するよう命令。(この報、1534年4月4日ロンドンに届く)。
1534年6月27日
アレッサンドロ・デ・メディチルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
1534年6月
クレメンス7世が重病ですでに日常の業務の遂行もままならない状態にあることが明らかになる。
クレメンス7世、フィレンツェ内外の敵に備える堅固な城塞の構築を指令するなど自身亡き後のメディチ家によるフィレンツェ支配体制の保全、強化に腐心。
1534年7月29日
この日?、クレメンス7世、フィレンツェに城塞(Fortezza da Basso)構築を進めるための富裕市民税を設けさせる。
1534年9月25/26日
クレメンス7世死。構築を支持したフィレンツェの城塞(Fortezza da Basso)はなお未完。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1534年11月1日
従兄弟リドルフォ・バリオーニとジャンパオロ・バリオーニ、クレメンス7世の死を機に小軍を率いてペルージアを襲撃し、教皇使節・テッラチーナ司教Cinzio Filomardi(?~)を殺害し政庁宮を占拠。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチ、クレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
1535年7月20日
パウルス3世、クレメンス7世によるS. Paolo (Paulus)律修聖職者会(バルナバ会)公認(1533年)を追認。

肖像

 クレメンス7世の肖像

在位

 ボローニャ司教 1518年1月8日~1518年3月3日

任命した枢機卿

1529年1月10日 イッポーリト・デ・メディチ

本名

 ジューリオ・デ・メディチ、Giulio de' Medici

別表記

 クレメンス七世、ジュリオ・デ・メディチ、クレメンテ7世、Clemente VII

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『銀色のフィレンツェ』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ハプスブルク家』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前
メディチ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで