Clero

聖職者

バルバラ Santa Barbara

生没
2??年~
ディアスコロス

概要

 聖バルバラは、3世紀頃の女性、聖人。

持ち物

 3つの窓をもつ塔、棕櫚の枝、孔雀の羽根、剣、聖杯、稲妻、本

守護対象

 建築家、石工、砲手、消防士、鉱夫、囚人

題材作品

別表記

 聖バルバラ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

セバスティアヌス Sebastianus

生没
2??年~287年1月20日
祝日
1月20日
守護都市
カゼルタ

概要

 セバスティアヌスは、3世紀の男性、聖人、殉教者。

守護対象

 兵士、黒死病。

題材作品

外部リンク

 ウィキペディア

アンブロジウス Ambrosius

生没
340年?~397年4月4日
祝日
12月7日
守護都市
ミラノ

概要

 アンブロジウスは、4世紀の男性、四大ラテン教父の1人。

肖像

別表記

 アンブロシウス、アンブロジュウス、アンブロジオ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

ベネディクトゥス Benedictus de Nursia

生没
480年3月2日~547年3月21日
出身
ノルシア
没地
モンテカッシーノ
祝日
3月21日

概要

 ベネディクトゥスは、キリスト教の聖人で、西欧最古の修道会であるベネディクト会の創立者。

題材作品

外部リンク

 ウィキペディア

ピエール・アベラール Pierre Abélard

生没
1079年~1142年4月21日
エロイーズ

概要

 ピエール・アベラールは、11世紀~12世紀の男性。

関連項目

 The Borgias: 103, 106

外部リンク

 THE BORGIAS wiki
 ウィキペディア

ウバルド・バルダッシーニ Ubaldo Baldassini

生没
1084年~1160年5月16日
出身
グッビオ
没地
グッビオ

概要

 ウバルド・バルダッシーニは、11世紀から12世紀のイタリアの男性、聖職者。1192年列聖される。

在位

 グッビオ司教

外部リンク

 Wikipedia

フランチェスコ・ダッシジ San Francesco d'Assisi

生没
1181/82年~1226年10月3日

概要

 フランチェスコ・ダッシジは、12世紀~13世紀の男性。

年表

1219年

第5次十字軍が駐留するエジプトに到着。

供を1人連れただけでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見。この席でフランチェスコ・ダッシジはイスラム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかける。すなわち、燃え盛る炎の上を歩いてどちらに神の庇護があるかを競おうという火の試練である。フランチェスコ・ダッシジは先に自分が渡って無事であったらキリスト教へ改宗するようスルタンに迫るが、スルタンがこれを拒否したため、誰も渡らず。

肖像

別表記

 聖フランチェスコ、アッシジのフランチェスコ

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『修道院』
 『服飾の中世』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『Lucretia Borgia

ジル・アルヴァレス・カリージョ・デ・アルボルノス Gil Álvarez Carrillo de Albornoz

生没
1310年~1367年8月23日
出身
カラスコサ・デル・カンポ
没地
ヴィテルボ
ジル・アルヴァレス・デ・アルボルノス
ドーニャ・テレサ・デ・ルーナ

概要

 ジル・アルヴァレス・カリージョ・デ・アルボルノスは、14世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 トレド大司教 1338年5月13日~1350年12月17日
 枢機卿 1350年12月17日~1367年8月23日
 サン・クレメンテ司祭枢機卿 1350年12月17日~1356年12月
 内赦院長 1352年12月~1356年12月?
 サビーナ司教枢機卿 1356年12月~1367年8月23日
 内赦院長 1357年11月18日~1358年10月

年表

1310年

カラスコサ・デル・カンポにて、生(1295年)。

1354年3月10日

オルヴィエートの戦いでジョヴァンニ・ディ・ヴィーコに勝利。

1354年6月5日

モンテフィアスコーネで講和を結び、ジョヴァンニ・ディ・ヴィーコはヴィテルボ、コルネート、オルヴィエートを手放すことが決定。

1354年6月9日

オルヴィエート到着。

1354年6月24日

オルヴィエートの一代限りの領主となる。

1367年8月23日

ヴィテルボにて、死(1367年8月24日)。

備考

 スポレートアルボルノツィアーナ要塞を修復。

別表記

 Egidio Albornoz

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

カテリーナ・ダ・シエナ Caterina da Siena

生没
1347年3月25日~1380年4月29日
出身
シエナ
没地
ローマ

概要

 カテリーナ・ダ・シエナは、14世紀のイタリアの女性。

埋葬地

別表記

 聖女カテリーナ、St. Catherine of SienaCaterina di Jacopo di Benincasa

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『快楽の中世史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia

ヴィンチェンツォ・フェッレーリ Vincenzo Ferreri

生没
1350年1月23日~1419年4月5日
出身
ヴァレンシア

概要

 ヴィンチェンツォ・フェッレーリは、14世紀から15世紀の男性、ドミニコ会修道士。

年表

1455年6月3日

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂で、カリストゥス3世により列聖される。

肖像

別表記

 フェルレーリ、ウィンケンティウス・フェレリウス、ビセンテ・フェレール

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

アラマンノ・アディマリ Alamanno Adimari

生没
1362年~1422年9月17日
出身
フィレンツェ
没地
ティヴォリ

概要

 アラマンノ・アディマリは、14世紀から15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1411年6月6日~1422年9月17日

年表

1411年6月6日

ヨハネス23世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ベルナルディーノ・ダ・シエナ Bernardino da Siena

生没
1380年9月8日~1444年5月20日
出身
マッサ・マリッティマ
没地
ラクイラ

概要

 ベルナルディーノ・ダ・シエナは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。1450年5月24日、教皇ニコラウス5世により列聖。

題材作品

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・カピストラーノ Giovanni Capistrano

生没
1386年~1456年10月23日

概要

 フランシスコ会修道士、説教師、神学者。

年表

1456年7月14日~7月21/22日

ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節である自身らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍が、フニャディ・ヤーノシュ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。

1456年8月11日

フニャディ・ヤーノシュ、ペストで死。

1456年10月23日

ペストで死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』

フアン・デ・トルクマーダ Juan de Torquemada

生没
1388年~1468年9月26日
出身
レオン王国ヴァリャドリッド
没地
教皇領ローマ

概要

 ローマ近郊スビアーコのベネディクト会S. Scolastica修道院院長。

在位

 枢機卿 1439年12月18日~1468年9月26日
 サン・シスト司祭枢機卿 1440年1月8日~1446年9月
 カディス、セウタ司教 1440年7月27日~1442年7月11日
 オウレンセ司教 1442年7月11日~1445年11月10日
 サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1446年9月~1460年4月8日
 枢機卿団カメルレンゴ 1446年10月7日~1447年10月7日
 スビアーコ名誉修道院長 1456年1月16日~1468年9月26日
 パレストリーナ司教枢機卿 1460年4月8日~1463年5月5日
 レオン教区長 1460年7月31日~1463年1月26日
 オウレンセ司教 1463年1月26日~1466年6月8日
 サビーナ司教枢機卿 1463年5月5日~1468年9月26日

年表

1440年1月8日

エウゲニウス4世により、サン・シスト司祭枢機卿に叙階される。

1446年

サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿に叙階される。

1464年

自身が招いたドイツ人印刷業者Conrad SweynheimArnold Pannartzが、イタリアに初めて聖なる技術、活版印刷術を伝える。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アントニーノ・ピエロッツィ Antonino Pierozzi

生没
1389年3月1日~1459年5月2日
出身
フィレンツェ
没地
モントゥーギ

概要

 アントニーノ・ピエロッツィは14世紀~15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ドミニコ会総長 1433年~1443年
 フィレンツェ大司教 1446年~1459年5月2日

年表

1437年

コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。

1444年

アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。

1458年7月2日~7月31日

メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。

この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院のアントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。

1459年5月2日

ドミニコ会総長(1433年~1444年)でこの年までにSumma teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)を完成させた(1440年~)アントニーノ・ピエロッツィ、フィレンツェで死(1389年~)。(1523年聖人に列せされ、Sant'Antoninoと通称される)

1477年

アントニーノ・ピエロッツィの遺作Summa teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)、ヴェネツィアとドイツ・シュパイアーで刊。以後15年の間にこの作、ヴェネツィアで次々と版を重ねた他スイス・バーゼルでも版を重ねて刊。

1484年

アントニーノ・ピエロッツィの遺作Chronicon(年代記(別名Summa historialis:歴史大全)、ニュルンベルクで刊。以後この作、1491年バーゼルで刊の他1517年以降リヨンで版を重ねて刊。

1523年

聖アントニヌスとして列聖される。

外部リンク

 Catholic Encyclopedia
 EWTN
 GCatholic.com
 Saints.SQPN.com
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジョヴァンニ・ヴィテレスキ Giovanni Vitelleschi

生没
1390年~1440年4月1/2日

概要

 ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 教会の旗手 1433年~1434年
 フィレンツェ大司教 1435年10月12日~1437年8月9日
 枢機卿 1437年8月9日~1440年4月1/2日

年表

1390年~1400年

生。

1434年9月25日

自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたリナルド・デリ・アルビッツィは、この日、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられずにいる内、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からエウゲニウス4世が、司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わして調停、事態収拾工作に乗り出す。

1434年10月

エウゲニウス4世の逃亡後、無秩序状態が続き教皇帰還を求める動きが活発化したローマに、エウゲニウス4世の使節ジョヴァンニ・ヴィテレスキが到着し、市民に歓呼をもって迎えられる。以後ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、教会支配の復活を準備。

1434年夏以降敗戦の続くフィレンツェ、大金を払ってフランチェスコ1世・スフォルツァと傭兵契約を交わし、彼とその軍をヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍に加える。

ジギスムント・フォン・ルクセンブルク、16か条からなる帝国改革計画を公表して帝国諸身分の意見を求めると共に、次の帝国議会で帝国改革について議決するよう提案。

しかし、諸侯も都市の意見が対立し、帝国改革計画は実行を挙げ得ずに終わる。

1437年8月9日

エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

フアン・カルバハル Juan Carvajal

生没
1399/1400年~1469年10月6日

概要

 フアン・カルバハルは、15世紀頃の男性、聖職者、枢機卿。ベルナルディーノ・カルバハルのおじ。

在位

 枢機卿 1446年12月16日~1469年10月6日

年表

1446年12月16日

エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。

別表記

 Giovanni Carvajal

外部リンク

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ルドヴィーコ・スカランピ Ludovico Scarampi

生没
1401年11月14日~1465年3月22日
出身
ヴェネツィア
没地
ローマ
ビアージオ・トレヴィサーノ
?・メッツァロータ

概要

 ルドヴィーコ・スカランピは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。医師の息子という無名な出生から教会の高い地位に上り詰めた彼は、最初は高貴な母方のメッツァロータ姓を使い、次にアスティの家系であるスカランピ姓を名乗った。

在位

 トラウ司教 1435年10月24日~1437年8月6日
 フィレンツェ大司教 1437年8月6日~1439年12月18日
 アクイレイア総大司教 1439年12月18日~1465年3月22日
 枢機卿 1440年7月1日~1465年3月22日
 サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1440年7月1日~1465年1月7日
 会計院長 1440年~1465年3月22日
 ボローニャ教区長 1443年5月9日~1444年
 カヴァ教区長 1444年9月3日~1465年3月22日
 アルバーノ司教枢機卿 1465年1月7日~1465年3月22日

年表

1401年11月

生。

1440年7月1日

エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。

1465年3月22日

死。

肖像

別表記

 ルイジ、スカランポ、Luigi

外部リンク

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参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ニコラウス・クザーヌス Nicolaus Cusanus

生没
1401年~1464年8月11日
出身
神聖ローマ帝国クース
没地
トーディ

概要

 ニコラウス・クザーヌスは、15世紀の男性、哲学者、神学者、カノン法学者、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1448年12月20日~1464年8月11日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1449年1月3日~1464年8月12日
 ブリクセン司教 1450年3月23日~1464年8月12日
 ローマ教区総代理 1459年1月11日~1464年8月12日
 枢機卿団カメルレンゴ 1463年~1464年1月28日

年表

1401年

ドイツ西部Tier近郊Bernkastel-Kuesに誕生(1400年)。

1433年

帝国改革案の1つ、一種の連邦国家を目指すDe concordantia catholica(カトリック共和論)執筆。

1440年2月12日

De docta ignorantia(学識ある知)をドイツ西部ベルンカステル・クースで脱稿。

1453年

De pace seu concordantia fidei(平和あるいは信仰の和合)を執筆。

1464年8月11日

ペルージア近郊トーディで死(1464年8月12日)。

埋葬地

別表記

 ニコラウス・クサヌス

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンスの光と闇』

ヨハネス・ベッサリオン Johannes Bessarion

生没
1403年~1472年
出身
トレビゾント

概要

 ヨハネス・ベッサリオンは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿、人文主義者、神学者。

在位

 枢機卿 1439年12月18日~1472年

年表

1438年3月4日~1439年

ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、ヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。

東西両教会の合同の討議を行なう。

1438年3月8日

コンスタンティノポリス総主教Iosephフェッラーラに到着。

1439年7月6日

フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。

この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。

1439年12月18日

エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。

1440年

コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。

1463年7月

ピウス2世、対オスマン・トルコ十字軍の結成に再び専心。

この月、枢機卿ヨハネス・ベッサリオンをヴェネツィアに派遣し、オスマン・トルコに対する公式の宣戦布告及びキリスト教諸国・諸権力者による十字軍への参加を促す。しかしヴェネツィアはいずれにも難色を示す。

1468年5月13日

ヨハネス・ベッサリオン、多数の蔵書(ギリシア語写本)をヴェネツィアの元老院に寄贈。Biblioteca Marcianaの基をなす。

1471年12月23日

シクストゥス4世、オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を説く使節を枢機卿の中から選んでヨーロッパ各国に送ることを決め、ヨハネス・ベッサリオン、ロドリゴ・ボルジアアンジェロ・カプラーニカ(1410年頃~1478年:在位1460年~1478年)、マルコ・バルボをこの任に当てる。さらに1471年12月末、各国に防衛の具体案を講ずるよう促す勅書を発する。但し、使節は翌1472年4月以降出発。

1472年11月18日

ヨハネス・ベッサリオン、ルイ11世のもとへの教皇使節からの帰途、ラヴェンナで死。

1469年

ヨハネス・ベッサリオン、In Caluminatorem Platonis(プラトンの曲解者へ)を、ローマConrad SweynheimArnold Pannartzの下で印刷刊行。

別表記

 ヨハンネス・ベッサリオン、ヨアニス・ヴィサリオン、Ioannes Bessarion

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『April Blood
 『Lucretia Borgia

フィリッポ・カランドリニ Filippo Calandrini

生没
1403年~1476年7月18日
出身
サルザーナ
没地
バニョレージョ
トンマーゾ・カランドリニ
アンドレオーラ・トメオ・デイ・ボジ

概要

 フィリッポ・カランドリニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿

在位

 ボローニャ司教 1447年12月18日~1476年7月18日
 枢機卿 1448年12月20日~1476年7月18日
 サンタ・スザンナ司祭枢機卿 1449年01月03日~1451年11月24日
 サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1451年11月24日~1468年10月14日
 カメルレンゴ 1454年~1456年
 内赦院長 1459年~1476年7月18日
 アルバーノ司教枢機卿 1468年10月14日~1471年8月30日
 カメルレンゴ 1471年01月19日~1472年01月08日
 ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1471年8月30日~1476年7月18日

年表

1448年12月20日

ニコラウス5世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ギヨーム・デストゥトヴィル Guillaume d'Estouteville



生没
1403年~1483年1月22日
ジャン・デストゥトヴィル
マグリット・ダルクール
ジローラマ・トーリ
ジローラモ・トゥッタヴィッラ
アゴスティーノ・トゥッタヴィッラ
マルゲリータ・トゥッタヴィッラ
ジューリア・トゥッタヴィッラ

概要

 ギヨーム・デストゥトヴィルは、15世紀のフランス出身のお男性、聖職者、枢機卿。

在位

 クゼラン教区長 1439年
 アンジェ司教 1439年2月20日(1439年3月30日)~1439年9月25日(未就任)
 ミレポワ教区長 1439年4月18日~1441年5月17日
 ディーニュ司教 1439年9月25日(1439年11月8日)~1445年9月11日
 枢機卿 1439年12月18日~1483年1月22日
 サン・マルティーノ・アイ・モンティ司祭枢機卿 1440年1月8日~1454年
 枢機卿団カメルレンゴ 1440年~1441年
 ニーム教区長 1441年5月17日~1450年1月7日
 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂主席司祭 1443年?~不明
 ベジエ教区長 1444年7月10日~1447年7月26日
 ロデーヴ教区長 1450年1月7日~1453年1月26日
 サン=ジャン=ド=モーリエンヌ司教 1453年1月26日~1453年4月20日
 ルーアン大司教 1453年4月20日~1483年1月22日
 サン=ジャン=ド=モーリエンヌ教区長 1453年4月20日~1483年1月22日
 ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1454年~1461年10月26日
 オスティアヴェッレトリ司教枢機卿 1461年10月26日~1483年1月22日
 枢機卿団カメルレンゴ 1465年9月~1466年1月9日
 枢機卿団カメルレンゴ 1472年5月15日~1473年
 枢機卿団長 1472年11月~1483年1月22日
 会計院長 1477年8月12日~1483年1月22日

年表

1479年

サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂の増改築のため、寄付。

1439年12月18日

エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャンバッティスタ・メッリーニ Giambattista Mellini

生没
1405年6月9日~1478年7月24日
出身
ローマ
没地
ローマ

概要

 ジャンバッティスタ・メッリーニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 教皇庁掌璽院長 1466年3月31日~1471年7月26日
 ウルビーノ司教 1468年4月27日~1478年7月24日
 枢機卿 1476年12月18日~1478年7月24日
 サンティ・ネレオ・エ・アキッレオ司祭枢機卿 1476年12月30日~1478年7月24日

年表

1476年12月18日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

1477年1月1日

シクストゥス4世により、ミラノロンバルディアの教皇代理に任命される。

1477年1月27日

ミラノへ向け、ローマ出発。

1477年5月9日(金)

ローマ到着。

埋葬地

別表記

 Giovanni Battista MelliniCardinal of Urbino

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

マッフェオ・ゲラルディ Maffeo Gherardi

生没
1406年~1492年9月14日
ジョヴァンニ・ゲラルディ

概要

 マッフェオ・ゲラルディは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ヴェネツィア総大司教 1468年12月16~1492年9月14日
 枢機卿 1489年3月9日~

年表

1489年3月9日

インノケンティウス8世により、枢機卿に選出される。

別表記

 ゲラルド

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ジョルジョ・コスタ Jorge da Costa

生没
1406年~1508年9月18日

概要

 ジョルジョ・コスタは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1476年12月18日~

年表

1476年12月18日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

1501年9月

枢機卿会議で、ルクレツィア・ボルジアを考慮してエステ家に好意を示しているような発言をする。

備考

 ルクレツィア・ボルジアの代父。

埋葬地

別表記

 Giovanni of PratoCardinal of LisbonCardinal of Colenzocardinalis Ulixbonensiscardinalis Ulisbonensis

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アラン・ド・コエティヴィ Alain de Coëtivy

生没
1407年8月18日~1474年5月3日

概要

 アラン・ド・コエティヴィは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1448年12月20日~1474年5月3日
 サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1448年~1465年
 サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿空位の聖職禄 1465年~1474年

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノ Mariano da Genazzano

生没
1412年~1498年12月14日
出身
ジェナッツァーノ
没地
セッサ

概要

 マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、アウグスティーノ会修道士。
 仲間であるアウレリオ・ブランドリーニと共に当時の最も優れた説教者の1人と見なされ、その雄弁さと博学さから、アンジェロ・ポリツィアーノから賞賛される。1482年からレッチェトの会衆と繋がりがあり、修道会内で戒律厳守と公益に尽力することへの回帰を提唱し、祈りと典礼の実践を通じて野心と個性から逃れることを提唱した戒律主義の改革の代表者である。
 ジローラモ・サヴォナローラの時代、修道会の副総長としてフィレンツェメディチ家側に付き、ドミニコ会修道士に対抗。アウグスティーノ修道会に報いるために、ロレンツォ・イル・マニーフィコはサン・ガッロ教会に修道院を建てたと考えられている。
 1497年5月、修道会総本部から総長に任命され、大胆な改革計画を立てるも、最初はロンバルディアの会衆の反対によって、そして彼の死によって頓挫した。実際、1498年12月14日にナポリへの旅行中にセッサ・アウンカで亡くなった。

年表

1491年10月

フェッラーラのサンタンドレア修道院に自分の独房が建設され、それを監督。

1491年10月

エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ジルフレード・デ・カバッリを殺し有罪判決を受けたニッコロ・ダ・ヴェローナを、悔悛して修道士になることを希望しているため赦免するよう嘆願。

1494年

四旬節フェッラーラ大聖堂で説教。ユダヤ人の金貸しに反対。

1497年5月

アウグスティーノ修道会総本部により、総長に任命される。

1498年12月14日

ナポリへの途上、セッサにて死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ブランダ・カスティリオーネ Branda Castiglione

生没
1415年~1487年7月16日
出身
ミラノ
没地
ローマ
ヤコポ・カスティリオーネ

概要

 ブランダ・カスティリオーネは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 コモ司教 1466年10月8日~1487年7月16日

年表

1487年7月16日

ローマにて、死(1487年7月15日)。

別表記

 ブランダ・カスティリオーニ、Branda da CastiglioneCastiglioni

外部リンク

 GCatholic.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『April Blood

ステファノ・バニョーネ Stefano da Bagnone

生没
1418年~1479年
ニッコロ・ピオヴァーノ・ダ・バニョーネ

概要

 ステファノ・バニョーネは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 ステーファノ・ダ・バリョーネ

外部リンク

 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ニッコロ・フォルテゲッラ Niccolò Fortiguerra

生没
1419年10月7日~1473年12月21日

概要

 ニッコロ・フォルテゲッラは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1460年3月5日~1473年12月21日

年表

1460年3月5日

ピウス2世により、枢機卿に選出される。

別表記

 フォルテグエッリ(Forteguerri)、ニッコロー・フォルティグエラ

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンス精神の深層』

ジョン・モートン John Morton

生没
1420年頃~1500年9月15日
没地
イギリス

概要

 ジョン・モートンは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1493年9月20日~

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・アンマンナーティ Jacopo Ammannati

生没
1422年3月8日~1479年9月10日
出身
ペッシャ
没地
ボルセーナ

概要

 ヤコポ・アンマンナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。享年57歳。

在位

 枢機卿 1461年12月18日~1479年9月10日

年表

1460年6月8日

シエナテリアッチ宮殿の庭園で、ロドリゴ・ボルジア枢機卿が開いた乱痴気騒ぎの宴会に参加。

1461年12月18日

ピウス2世により、枢機卿に選出される。

1468年7月16日

リュイス・ジョアン・デル・ミラ宛てに手紙をしたためる。近くにいることを喜び、ピエンツァの自身の住居に招待。

埋葬地

別表記

 Giacomo Ammannati Piccolomini

外部リンク

 GCatholic.org
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ジョヴァンニ・アルチンボルディ Giovanni Arcimboldi

生没
1426年~1488年10月2日
出身
パルマ
没地
ローマ
ニッコロ・アルチンボルディ
オルシーナ・カノッサ

概要

 ジョヴァンニ・アルチンボルディは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ミラノ大司教 1457年~1466年
 枢機卿 1473年5月7日~
 サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1476年~1488年

年表

1472年5月8日

ローマにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。

1472年5月23日

ローマにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。

1483年11月15日

サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

別表記

 Giovanni Arcimboldo

外部リンク

 Google Books - Milano nella storia dell'età moderna
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

ハイメ・セッラ・イ・カウ Jaime Serra y Cau

生没
1427年~1517年3月15日
出身
アルジーラ
没地
ローマ

概要

 ハイメ・セッラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。バルトロメ・セッラの甥?

在位

 ローマ教区教皇代理 1492年2月13日~1500年10月2日
 オリスターノ大司教 1492年4月11日~1510年12月9日
 枢機卿 1500年9月28日~1517年3月15日
 サンティ・ヴィターレ司祭枢機卿 1500年10月5日~1502年6月28日
 ペルージア及びウンブリア教皇特使 1500年11月27日~1506年1月23日
 サント=マリー=ドールプ名誉修道院長 1501年5月8日~1507年1月1日
 リンシェーピング教区長 1501年9月3日~1513年4月6日
 サン・クレメンテ司祭枢機卿 1502年6月28日~1511年1月20日
 ポテンツァ教区長 1503年11月29日~1506年8月7日
 エルヌ教区長 1506年9月5日~1513年3月19日
 首席司祭枢機卿 1510年12月9日~1511年1月20日
 アルバーノ司教枢機卿 1511年1月20日~1517年3月15日
 ブルゴス教区長 1512年7月28日~1514年7月5日
 カラオラ及びラ・カルサーダ教区長 1514年7月5日~1515年5月25日

年表

1500年11月27日

枢機卿会議で、ペルージアの教皇特使に任命される。

1501年4月21日

ローマに到着。

1502年12月3日

ペルージアに到着。

別表記

 Petro IsuallesCardinale ArborenseCardinal of S. ClementeCardinal of San Clemente

外部リンク

 GCatholic.com
 Real Academia de la Historia
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ Pedro González de Mendoza

生没
1428年5月3日~1495年1月11日
出身
グアダラハラ
没地
グアダラハラ
イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ

概要

 ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 カラオラ・イ・ラ・カルサダ司教 1453年11月28日~1467年10月30日
 シグエンサ司教 1467年10月30日~1474年5月9日
 枢機卿 1473年5月7日~1495年1月11日
 サンタ・マリア・イン・ドムニカ司祭枢機卿 1473年5月17日~1478年7月6日
 セビリア教区長 1474年5月9日~1482年11月13日
 シグエンサ教区長 1474年5月9日~1495年1月11日
 サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ司祭枢機卿 1478年7月6日~1495年1月11日
 オスマ教区長 1482年7月8日~1482年11月
 アレクサンドリア総主教 1482年11月13日~1495年1月11日
 トレド大司教 1482年11月13日~1495年1月11日

年表

1473年5月7日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

別表記

 Gonzalo de Mendoza

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『The Life of Cesare Borgia

ルドヴィーコ・ポドカタロ Ludovico Podocataro

生没
1429年~1504年8月25日
出身
ニコシア
没地
ミラノ公国ミラノ

概要

 ルドヴィーコ・ポドカタロは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1500年9月28日~

年表

1478年

シャルロット・ド・リュジニャンに随行して、ローマに。

14??年

ロドリゴ・ボルジア枢機卿と知り合い、彼の秘書兼医師となる。おそらくロドリゴ・ボルジアの子供たちにギリシア語を教えた。

1497年

アウグスティヌス会に寄付し、ルドヴィーコ・ポドカタロ枢機卿の墓を発注。

1504年8月25日

ミラノにて、死。

1504年10月7日

ローマサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬される。

埋葬地

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

フアン・デ・カストロ Juan de Castro

生没
1431年3月22日~1506年9月29日
出身
ヴァレンシア
没地
ローマ

概要

 フアン・デ・カストロは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 アグリジェント司教 1479年3月20日~1506年9月29日
 枢機卿 1496年2月19日~1506年9月29日

年表

1479年2月19日

アグリジェント司教に任命される。

1496年2月19日

アレクサンデル6世により、枢機卿に任命される。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

埋葬地

外部リンク

 GCatholic.org
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

バルトロメ・マルティ Bartolomé Martí

生没
1430/1440年~1500年3月25日
没地
ローマ

概要

 バルトロメ・マルティは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1496年2月19日~1500年3月25日

年表

1496年2月19日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

別表記

 Bartolommeo MartiMartiniCardinal Martinus of Segovia

外部リンク

 Enciclopèdia.cat
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アルディチーノ・デッラ・ポルタ Ardicino della Porta

生没
1434年~1493年2月4日
没地
ローマ

概要

 アルディチーノ・デッラ・ポルタは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 教皇庁掌璽院長 1473年5月7日~1484年8月1日
 アレリア司教 1475年2月22日~1493年2月4日
 枢機卿 1489年3月9日~1492年
 聖ジョバンニ・エ・パオロ司祭枢機卿 1489年3月23日~1492年
 オロモウツ教区長 1489年6月3日~1493年2月4日

年表

1489年3月9日

インノケンティウス8世により、枢機卿に選出される。

別表記

 アレリア枢機卿、枢機卿アレーリア、Domenicus Porta

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ Jean Bilhères de Lagraulas

生没
1434年~1499年8月6日
出身
ガスコーニュ
没地
ローマ

概要

 ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ロンベ司教 1473年7月5日~1499年8月4日
 サン=ドニ名誉修道院長 1473年7月5日~1499年8月4日
 ローマ知事 1492年7月25日~1493年9月20日
 副会計院長 1492年7月25日~1493年9月20日
 枢機卿 1493年9月20日~1499年8月6日
 サンタ・サビーナ司祭枢機卿 1493年9月23日~1499年8月6日
 コンドン教区長 1496年10月26日~1497年1月23日
 ヴィヴィエ教区長 1498年2月14日~1499年8月6日

年表

1434年

ガスコーニュにて、生(1439年)。

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1499年5月23日(木)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ベルナルディーノ・カルバハルレイモンド・ペラウルドフアン・ロペスジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。

夜、チェーザレ・ボルジアがサン・ミシェル騎士団員になったことを祝し、家の前で火を焚く。

注文した作品

 サン・ピエトロのピエタ

別表記

 ラ・グロレーイエ枢機卿、グロラエ、Cardinal La GrolayeGiovanni della Grolaye

外部リンク

 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

レイモンド・ペラウルド Raymond Péraud

生没
1435年5月28日~1505年9月5日

概要

 レイモンド・ペラウルドは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 グルク司教領主 1491年2月21日~1501年10月6日
 枢機卿 1493年9月20日~1505年9月5日
 サンタ・マリア・イン・コスメディン助祭枢機卿 1493年9月23日~1496年2月24日
 サン・ヴィターレ助祭枢機卿 1496年2月24日~1499年4月29日
 サン・ヴィターレ名誉司祭枢機卿 1499年4月29日~1500年10月5日
 マグロンヌ教区長 1498年7月4日~1499年3月18日
 サンタ・マリア・ヌオーヴァ司祭枢機卿 1499年4月29日~1505年9月5日
 ペルージア及びウンブリア教皇特使 1499年10月11日~1500年11月27日
 サン=マンシュイ・ド・トゥール名誉修道院長 1500年1月1日~1505年9月4日
 サントンジュ教区長 1505年7月11日~1505年9月5日

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1499年4月29日

サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

1499年5月22日(水)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行う晩祷に、フアン・ロペスジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席(木曜日)。

1499年5月23日(木)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラベルナルディーノ・カルバハルフアン・ロペスジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。

別表記

 Raymund Pérault

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『Lucretia Borgia

ジャウメ・デ・カザノヴァ Jaume de Casanova

生没
1435年頃~1504年6月4日
出身
シャティヴァ
没地
ローマ

概要

 ジャウメ・デ・カザノヴァは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 バルセロナ大聖堂参事会員 1498年~
 枢機卿 1503年5月31日~1504年6月4日
 サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1503年6月12日~1504年6月4日

年表

14??年

幼年時、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の保護下に置かれる。

ヴァティカン庭園管理者。教皇公証人。教会首席書記官。

1492年

ルクレツィア・ボルジアガスパール・デ・プロシタの結婚解消の証人になる。

1497年

教皇侍従。

1498年

バルセロナ大聖堂参事会で空席ができた時、その職をすでに別の人物に与えていたフェルナンド2世・デ・アラゴンから反対されたが、アレクサンデル6世はジャウメ・デ・カザノヴァを聖堂参事会員に任命する勅書を発行。

1503年5月31日

教皇アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

別表記

 Jaime de Casanova

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Viquipèdia

ジャナントーニオ・サンジョルジョ Giovanni Antonio Sangiorgio

生没
1439年~1509年3月14日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 アレッサンドリア司教 1478年4月14日~1499年9月6日
 枢機卿 1493年9月20日~1509年3月14日
 サンティ・ネレオ・エ・アキレッオ司祭枢機卿 1493年9月23日~1503年12月23日
 パルマ司教 1499年9月6日~1509年3月14日
 エルサレム総主教 1500年~1503年12月23日
 フラスカーティ司教枢機卿 1503年12月23日~1507年9月17日
 パレストリーナ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
 サビーナ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年3月14日

年表

1439年

ミラノにて、生(1442年)。

1493年9月20日

教皇アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1501年

教皇アレクサンデル6世により、ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョ枢機卿、フランセスク・デ・ボルジャ枢機卿他4名が、ロドリゴ・ダラゴーナインファンテ・ロマーノの後見人に選ばれる。

1509年3月14日

ローマにて、死。

別表記

 アレッサンドリーノ・ジョヴァンニ・アントーニオ・サン・ジョルジョ、Gianantonio San Giorgio

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ Giovanni Battista Zeno

生没
1439年~1501年5月7日
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1468年11月21日~1501年5月7日

年表

1439年

生(1440年)。

1468年11月21日

パウルス2世により、枢機卿に選出される。

1501年5月7日(金)

ローマにて、死(1501年5月8日)。

別表記

 Cardinalis s . Marie in Porticu

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ヨハン・ブルカルトの日記
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

メルヒオール・フォン・メッカウ Melchior von Meckau

生没
1440年頃~1509年3月3日
没地
ローマ

概要

 メルヒオール・フォン・メッカウは、15世紀から16世紀のドイツ出身の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ブリクセン司教 1489年6月20日~1509年3月3日
 枢機卿 1503年5月31日~1509年3月3日

年表

1493年11月7日

ミラノ到着。オリエンターレ門でバーリルドヴィーコ・イル・モーロミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに迎えられ、スフォルツェスコ城へ案内される。3週間歓迎を受ける。

外部リンク

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 Wikipedia

フアン・カステリャール Juan Castellar

生没
1441年~1505年1月1日
出身
ヴァレンシア
没地
ヴァレンシア
ガルセラン・カステリャール
ベルナルドーナ・リャンソル

概要

 フアン・カステリャールは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 トラーニ大司教 1493年8月23日~1503年8月9日
 枢機卿 1503年5月31日~1505年1月1日
 サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1503年6月12日~1505年1月1日
 モンレアーレ大司教 1503年8月9日~1505年1月1日

年表

1503年5月31日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

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 Google Books
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

フィリップ・ド・リュクサンブール Philippe de Luxembourg

生没
1445年~1519年6月2日
出身
フランス王国
没地
ル・マン
ティボー・ド・リュクサンブール

概要

 フィリップ・ド・リュクサンブールは、15世紀から16世紀のフランス王国の男性、聖職者、枢機卿。パリのル・マン大学の創設者。

在位

 ル・マン司教 1476年11月4日~1507年1月27日
        1509年9月5日~1519年6月2日
 枢機卿 1495年1月21日~1519年6月2日
 サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿 1495年2月2日~1509年
 テルワンヌ司教 1498年~1516年
 クレルモン名誉修道院長 1506年~1513年
 アルバーノ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年
 サン=ポン=ド=トミエール司教 1509年9月8日~1511年7月9日
 サン=ピエール・ド・ジュミエージュ王立名誉修道院長 1510年~1518年
 サン=マルタン=ド=セ名誉修道院長 1510年~1518年
 アントルモン名誉修道院長 1510年~1518年
 フラスカーティ司教枢機卿 1511年1月20日~1519年
 アラス司教 1516年~1518年

年表

1476年11月4日

教皇シクストゥス4世により司教に選出される。

1477年

父ティボー・ド・リュクサンブールの遺骨をル・マンの大聖堂に埋葬するために、テッラチーナ大聖堂の聖堂参事会員に要請書を送り、承認される。

1478年9月10日

司教が5年毎にサン・ピエトロ大聖堂とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に巡礼し、教皇に自分の教区の状況や活動について報告する公式の訪問であるアド・リミナを、代理人を通じて行う。

1483年

トゥールの三部会 に出席。

1495年1月21日

教皇アレクサンデル6世により枢機卿に選出される。

1495年12月16日

アンボワーズでフランス王シャルル8世の息子シャルル=オルラン・ド・ヴァロワ、3歳で死。

トゥールにて、葬儀を執り行う。

1496年2月3日

テロワンヌ司教に推挙される。

1498年

フランス王ルイ12世ジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻無効を審理する使節団の一員に任命される。

1498年11月12日

アレクサンデル6世により、テロワンヌ司教に選出される。シャルル8世の強い推挙があったにもかかわらず、教皇は2つの司教区の収入の重複を懸念し、選出をこの日まで遅らせた。

1498年12月17日(月)

雷雨。アンボワーズのサン=ドニ教会にて、ルイ12世ジャンヌ・ド・ヴァロワとの結婚を無効とする判決を読み上げる。

1501年1月28日

ラヴァルでギィ15世・ド・ラヴァル、死(1500年5月15日)。

葬儀を執り行う。

1502年5月31日

アントワーヌ・ド・クレキも狙っていたが、ル・マン司教区を保持したまま、テロワンヌ司教に就任。

1516年11月26日

おじで名付け親のフランソワ・ド・メランにテロワンヌ司教座を譲る。

1503年9月16日~1503年9月22日

ピウス3世を選出したコンクラーヴェに不参加。

1503年10月31日~1503年11月1日

ユリウス2世を選出したコンクラーヴェに不参加。

1505年5月23日

ル・マン大聖堂聖母礼拝堂にて、リヨン大司教フランソワ・ド・ローアンにパリウムを授与。

1507年

ローマに向かう。

1508年9月

首席司祭枢機卿になる。

1509年10月26日

ローマに滞在。

サン=ポン=ド=トミエール司教に就任。

1511年5月

サン=ポン=ド=トミエール教区会議を開催。

1511年5月16日

ユリウス2世を異端審問会であるピサ会議に召喚するこの日付の文書に彼の名前が含まれていたが、知らされておらず、強く抗議し、この会議には出席せず。

1512年7月

ラヴァルのサン・ヴェネラン墓地を聖別。

1513年

レオ10世を選出したコンクラーヴェに不参加。

1514年1月9日

ル・マン近郊にあるベネディクト派のサン=ヴァンサン修道院の院長に任命され、その修道院はサン=ヴァンサン・ド・ロラトワール修道院を統合。

1516年11月26日

フランソワ・ド・メランに代わり、アラス司教に任命される。

1518年3月10日

アラス司教を辞任。

1516年

教皇使節としてフランスに派遣される。

1517年1月29日

パリに到着し、国事詔書の廃止を要求。

1517年5月10日

フランス王妃クロード・ド・フランスに戴冠。

外部リンク

 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipédia

ジョヴァンニ・ミキエル Giovanni Michiel

生没
1445年頃~1503年4月10日
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・ミキエルは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1468年11月21日~1503年4月10日

年表

1468年11月21日

パウルス2世により、枢機卿に選出される。

1503年4月10日

ローマにて、2日間病床に伏した後、急死(1503年4月11日)。

同日夜、教皇アレクサンデル6世が、約15万ドゥカートの巨額な遺産を接収する指令を発す。教皇指令による枢機卿毒殺の疑い広まる。

別表記

 Cardinal of Sant' AngeloCardinal Michaeli

外部リンク

 Find A Grave
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ギヨーム・ブリソンネ Guillaume Briçonnet

生没
1445年~1514年12月14日

概要

 ギヨーム・ブリソンネは、15世紀から16世紀の男性、フランス王シャルル8世の主席大臣サン・マロ枢機卿。

在位

 サン=マロ司教 1493年10月2日~1497年8月24日
 枢機卿 1495年1月16日~1514年12月14日
 サンタ・プデンツィアーナ司祭枢機卿 1495年1月19日~1507年9月17日
 グランドモン修道会総長 1496年3月15日~1507年1月1日
 ニーム教区長 1496年10月26日~1514年12月14日
 ランス大司教 1497年8月24日~1507年7月15日
 サン=マロ教区長 1497年8月24日~1514年8月18日
 トゥーロン教区長 1497年12月20日~1501年1月1日
 サン=ジェルマン=デ=プレ名誉修道院長 1504年2月10日~1507年11月16日
 ナルボンヌ大司教 1507年7月15日~1514年12月14日
 アルバーノ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
 フラスカーティ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年6月3日
 サン=ジルダ=デ=ボワ名誉修道院長 1509年1月1日~1514年12月14日
 パレストリーナ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年10月24日
 サン=ニコラ・ダンジェ名誉修道院長 1513年1月1日~1514年12月14日

年表

1495年1月16日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

別表記

 グリエルモ・ブリソネット、Guglielmo BrissonetSan Malò

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

アントーニオ・マッフェイ Antonio Maffei

生没
1450年~1478年
ゲラルド・マッフェイ

概要

 アントーニオ・マッフェイは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 フラーテ・アントーニオ、アントーニオ・デ・マックェイ

外部リンク

 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ Giovanni Battista Ferrari

生没
1450年~1502年7月20日
出身
モデナ
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 モデナ司教 1495年9月11日~1501年8月9日
 教皇庁掌璽院長 1496年4月1日~1500年10月2日
 枢機卿 1500年9月28日~1502年7月20日
 教皇庁掌璽院長 1500年10月2日~1502年7月20日
 サン・クリソゴーノ司祭枢機卿 1500年10月5日~1502年7月20日
 カプア大司教 1501年8月9日~1502年7月20日

年表

1501年2月18日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。「国を益するであろう多大な利点のために」、エルコーレ1世・デステアルフォンソ1世・デステルクレツィア・ボルジアの結婚を提案。

1501年5月1日

エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。教皇アレクサンデル6世が枢機卿会議でルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの結婚話を満足げに語っていた。

1501年8月27日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。

1502年1月9日

ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。ルクレツィア・ボルジアを褒め称える。

1502年7月3日

病床に伏す。

1502年7月11日

熱が下がる。

1502年7月16日

熱がぶり返す。

1502年7月20日

ローマにて、死。

別表記

 Gianbattista FerrariFerranteCardinal of Modena

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 The Hierarchy of the Catholic Church

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティ Giovanni Jacopo Schiaffinati

生没
1451年9月10日~1497年12月9日
出身
ミラノ
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 パルマ司教 1482年12月30日~1497年12月9日
 枢機卿 1483年11月15日~1497年12月9日
 サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1483年11月15日~1484年11月17日
 サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ名誉司祭枢機卿 1484年11月17日~1497年12月9日
 サンタ・チェチーリア司祭枢機卿 1484年11月17日~1497年12月9日

年表

1451年9月10日

生。

1483年11月15日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

1484年10月22日

アスカーニオ・マリーア・スフォルツァと共にアルフォンソ2世・ダラゴーナを訪問した後、ロドリゴ・ボルジアカンチェッレーリア宮殿で晩餐に招待される。

1497年12月9日

死(1497年12月4日、1497年12月8日)。

埋葬地

別表記

 Giovanni GiacomoSclafenatiSclafinatoSclafenatusCardinal of Parma

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカ Juan Rodríguez de Fonseca

生没
1451年~1524年3月4日

概要

 フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカは、15世紀から16世紀の男性。

関連項目

 The Borgias: 108

外部リンク

 Wikipedia

ベルナルディーノ・ルナーティ Bernardino Lunati

生没
1452年~1497年
出身
パヴィア
没地
ローマ

概要

 ベルナルディーノ・ルナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1493年9月20日~1497年

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1496年10月26日

枢機卿会議で、対オルシーニ戦の教会軍総司令官フアン・ボルジアグイドバルド・ダ・モンテフェルトロを支援する教皇代理に任命される。

1496年10月28日

ローマ出発。

別表記

 ルナーテ、LunateBernardino di Lunati

外部リンク

 Araldica Vaticana
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フアン・デ・ヴェラ Juan de Vera

生没
1453年11月25日~1507年5月4日
出身
アルシラ
没地
ローマ

概要

 フアン・デ・ヴェラは、15世紀から16世紀の男性、スペイン出身の枢機卿。

在位

 サレルノ大司教 1500年7月10日~1507年5月4日
 枢機卿 1500年9月28日~1507年5月4日
 サンタ・バルビーナ司祭枢機卿 1500年10月5日~1507年5月4日
 カメルレンゴ 1504年~1505年
 レオン教区長 1505年5月14日~1507年5月4日

年表

1453年11月25日

スペイン、ヴァレンシア、アルシラにて、生。

14??年

聖典と市民法の博士号取得。

1491年

ピサ大学で教員をしており、この頃、生徒にチェーザレ・ボルジアがいる。

1500年7月10日~1507年5月4日

サレルノ大司教に任命される。

1500年9月28日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1500年10月2日

アレクサンデル6世により、枢機卿を公表される。

1500年10月5日~1507年5月4日

サンタ・バルビーナ司祭枢機卿に任命される。

150?年

マルチェラータの教皇代理に任命される。

1501年

教皇により、ペーザロファーノへ派遣され、チェーザレ・ボルジアの第一秘書官アガピート・ゲラルディーニと共に行く。教会の代理として忠誠の誓いを受ける。

1501年7月21日

布告によりファーノ大聖堂にアンツィアーニ、コンシーリオ、市民たちが集まり、フアン・デ・ヴェラとアガピート・ゲラルディーニの前で、チェーザレ・ボルジアに子々孫々までの忠誠を誓う。

1504年~1505年

カメルレンゴに任命される。

1505年5月14日~1507年5月4日

レオン教区長に任命される。

1507年5月4日

ローマにて、死。

サンタゴスティーノ聖堂のサンタ・モニカ礼拝堂にて、埋葬。

別表記

 Giovanni Vera

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フアン・ロペス Juan López

生没
1455年頃~1501年8月5日
出身
ヴァレンシア
没地
ローマ
ルクレツィア・ロペス

概要

 フアン・ロペスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 教皇庁掌璽院長 1492年8月1日~1496年2月19日
 ペルージア司教 1492年12月29日~1498年10月15日
 枢機卿 1496年2月19日~1501年8月5日
 サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1496年2月24日~1501年8月5日
 オロロン教区長 1497年4月17日~1498年5月28日
 カルカソンヌ教区長 1497年12月24日~1501年8月5日
 カプア大司教 1498年10月15日~1501年8月5日
 コリア教区長 1499年9月6日~1501年8月5日
 ペルージア教区長 1499年8月27日~1501年8月5日
 枢機卿団カメルレンゴ 1501年1月1日~1501年8月5日
 サン・ピエトロ大聖堂主席司祭 1501年5月10日~1501年8月5日

年表

1492年8月

教皇アレクサンデル6世により、教皇庁掌璽院長に任命される。

1494年7月24日

サン・ピエトロ大聖堂にてアレクサンデル6世ルクレツィア・ボルジア宛ての手紙を代筆。名前のみ教皇の直筆。

1496年2月19日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1499年5月22日(水)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行う晩祷に、レイモンド・ペラウルドジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席(木曜日)。

1499年5月23日(木)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラベルナルディーノ・カルバハルレイモンド・ペラウルドジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。

1500年2月26日(水)

朝、ヨハン・ブルカルトの同僚を含む随行員を連れて、ミルヴィオ橋を3、4マイル越えたところで、チェーザレ・ボルジアを出迎える。外交官全員はミルヴィオ橋を越えて牧草地まで出る。

別表記

 ホアン・ロペツ、Joan LlopisLopisCardinal of Capuacardinalibus Capuano

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ベルナルディーノ・カルバハル Bernardino Carvajal

生没
1456年9月8日~1523年12月16日
出身
プラセンシア
フランシスコ・カルバハル
アルドンカ・デ・サンデ

概要

 ベルナルディーノ・カルバハルは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。フアン・カルバハルの甥。

在位

 アストルガ司教 1488年8月27日~1489年1月23日
 バダホス司教 1489年1月23日~1493年3月27日
 カルタヘナ司教 1493年3月27日~1495年2月20日
 サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿
1493年9月23日~1495年2月2日  サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ司祭枢機卿
1495年2月2日~1507年8月3日  シグエンサ司教 1495年2月20日~1511年10月24日
 カメルレンゴ 1498年1月~1499年1月9日
 アヴェッリーノ教区長 1503年7月28日~1505年
 フリジェント教区長 1503年7月28日~1505年
 エルサレム総大司教 1503年12月30日~1511年10月24日
 アルバーノ司教枢機卿 1507年8月3日~1507年9月17日
 フラスカーティ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
 ロッサーノ教区長 1508年1月10日~1519年6月20日
 パレストリーナ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年3月28日
 サビーナ司教枢機卿 1509年3月28日~1511年10月24日
 シグエンサ司教 1513年6月27日~1519年
 サビーナ司教枢機卿 1513年6月27日~1521年7月24日
 エルサレム総大司教 1513年6月27日~1523年2月20日
 プラセンシア司教 1521年1月14日~1523年12月16日
 オスティアヴェッレトリ司教枢機卿 1521年7月24日~1523年12月16日
 首席枢機卿 1521年7月24日~1523年12月16日
 フォリーニョ教区長 1522年9月26日~1523年2月4日

年表

1456年9月8日

スペインのプラセンシアに生。

14??年

サラマンカにて神学を学ぶ。

1472年

神学学士号を取得。

1478年

神学博士号を取得。

1480年

神学修士号を取得。

148?年

ローマ到着。

1482年11月1日

教皇シクストゥス4世と枢機卿の前でSermo in die omnium Sanctorumを読み上げる。

1484年初め

シクストゥス4世の侍従に任命される。

1485年9月

公衆の面前でスペイン外交官と口論し、激しい性格を表す。

1485年9月19日

教皇使節としてスペインに派遣される。

1488年初め

スペイン大使としてイタリアに戻る。

1488年12月21日

司教に叙階される。

1490年3月

グラナダ制圧を祝う祝典を主催。ピエトロ・パオロ・ポンピリオから頌詩『De triumpho Granatensi』を献呈される。

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に任命される。

1496年7月6日

フランスと戦うためにイタリアに来る神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世への使節に選ばれる。

1496年7月29日

トンマーゾ・インギラーミと儀典長ヨハン・ブルカルトと共に、ローマ出発。

1496年8月31日

メーダにて、マクシミリアン1世と会見。

1496年

ルドヴィーコ・イル・モーロの客として、ミラノに滞在。

ヴィジェーヴァノ、ジェノヴァ、コモに赴き、フランス王によるイタリア南下の脅威のためマクシミリアン1世イタリアに残ってもらえるよう嘆願。

しかし、ヴェネツィア共和国スフォルツァ家の支援を得られず、年末、マクシミリアン1世はティロルに戻る。

1497年3月

ローマ到着。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

1499年5月23日(木)

サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラレイモンド・ペラウルドフアン・ロペスジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。

1504年2月17日

チェーザレ・ボルジアオスティア到着の翌日、ベルナルディーノ・カルバハルも到着し、彼の監視にあたる。

1504年4月19日

チェーザレ・ボルジアの監視は40日間の約束だったが、教皇ユリウス2世の許可を待たず、彼を解放する。

1505年12月

19人の新枢機卿任命に反対すると、ユリウス2世に30人に増やすと脅される。

1506年8月

ユリウス2世ローマ出発時、全枢機卿が随行したが、ベルナルディーノ・カルバハルは許可なしに残る。

1507年4月

ナポリにいるフェルナンド2世・デ・アラゴンへの使節に任命される。

1507年5月下旬

ナポリ到着。

1511年10月24日

枢機卿を解任される。

1513年6月27日

枢機卿に再任命される。

別表記

 カルヴァジャル、カルヴァヤル、サンタ・クローチェ枢機卿、Bernardino Lopez de CarvajalCardinal of Santa Croce

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Treccani.it
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

アントーニオ・トリヴルツィオ Antonio Trivulzio

生没
1457年1月18日~1508年3月18日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
ローマ
ピエトロ・トリヴルツィオ
ラウラ・ボッシ

概要

 アントーニオ・トリヴルツィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 コモ司教 1487年8月27日~1508年3月18日
 サンタナスタジア司祭枢機卿 1500年10月5日~1505年12月1日
 カメルレンゴ 1505年~1506年
 サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1505年12月1日~1507年1月4日

外部リンク

 GCatholic.com
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

アドリアーノ・ダ・カステッレジ Adriano da Castellesi

生没
1458年頃~1521年12月/1522年1月
出身
コルネート

概要

 アドリアーノ・ダ・カステッレジは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
 教皇アレクサンデル6世の死とチェーザレ・ボルジアの重病とが時を同じくしたことに関して、彼らがコルネート枢機卿のために作った毒を誤って飲んだという噂がある。

在位

 枢機卿 1503年5月31日~1521年12月/1522年1月

年表

1458年頃

コルネートにて、生。

14??年

教会首席書記官。

1489年~1514年

イングランドのサン・ピエトロの寄進徴収官に任命される。

1490年

イングランドとスコットランドの和平を取り持つため、インノケンティウス8世によりイングランドへ派遣される。ヘンリー7世の信頼を得る。

149?年

ローマ到着。

アレクサンデル6世の教皇の間付き事務官、秘書官に任命される。

1498年6月4日

フランス王ルイ12世への教皇の祝辞を持参するため、ラグサ大司教ジョヴァンニ・サッコを筆頭とする教皇特使団の一員として、ローマ出発。

1500年

教会財務官。

150?年

教皇庁駐在イングランド大使。

150?年

イングランド王ヘンリー7世の要請により、司教位に叙階される。

1502年2月14日~1504年8月2日

ヘレフォード司教に選出される。聖別については不明。

1503年5月31日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1503年6月2日

司祭枢機卿を公表される。

1503年6月12日

サン・クリゾーゴノ司祭枢機卿の称号を受け取る。

1503年8月5日

別荘にて晩餐会を開き、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアを招待する。

1503年8月

アレクサンデル6世が病床に就いた12日以前に、アドリアーノ・ダ・カステッレジが病に倒れる。

1503年8月18日(金)

アレクサンデル6世、死。

1503年8月

アレクサンデル6世を、おそらく誤って、毒殺したとして糾弾される。

別表記

 コルネート・アドリアーノ・ダ・カステッレージ、カステッリ・コルネート枢機卿、ハドリアヌス枢機卿、ダ・コルネート、Corneto Adriano da CastellesiAdriano CastelliAdrianAdriano di Castello

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

シルヴィオ・パッセリーニ Silvio Passerini

生没
1469年~1529年4月20日
出身
コルトーナ
没地
チッタ・ディ・カステッロ

概要

 シルヴィオ・パッセリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 教皇庁掌璽院長 1513年9月23日~1517年7月1日
 枢機卿 1517年7月1日~1529年4月20日
 サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1517年7月6日~1520年9月17日
 サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ名誉司祭枢機卿 1520年9月17日~1529年4月20日
 サルノ教区長 1518年2月18日~1519年6月20日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1520年9月17日~1521年1月5日
 ペルージア及びウンブリア教皇特使 1520年12月19日~1529年4月20日
 サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1521年1月5日~1529年4月20日
 コルトーナ司教 1521年11月15日~1529年4月20日
 サルノ教区長 1524年1月1日~1529年4月20日
 バルセロナ教区長 1525年7月28日~1529年8月27日
 アッシジ教区長 1526年1月19日~1529年4月20日

年表

1469年

コルトーナにて、生(1459年)。

1517年7月1日

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1524年5月

この月?、クレメンス7世は、コルトーナの枢機卿シルヴィオ・パッセリーニにフィレンツェの直接の統治を委ね、彼を介して間接的にフィレンツェを支配。この措置にメディチ派の貴族にも不満生ずる。

1524年7月30日

クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。

1527年

この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。

1527年4月26日

「金曜日の騒乱」

午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。

コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。

正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。

午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。

ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。

夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。

フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。

シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。

1527年5月12日

前日届いたローマからの報、全市に広まり、反メディチ派貴族、市民が、自由を叫んで再び決起。シルヴィオ・パッセリーニらメディチ支配執行者の処遇が論議の的となる。

1527年5月15日

有力者たちから市民が反乱、暴動を起こさぬうちに支配権を蜂起しフィレンツェを退去するよう勧奨されたシルヴィオ・パッセリーニ、自身の処遇をシニョーリアに一任。

1527年5月16日

シルヴィオ・パッセリーニ、支配権の放棄・フィレンツェ退去を受諾。1527年3月1日にシニョーリアが設置したバーリアは、新政体について、コンシーリオ・マッジョーレを復活し1527年6月21日に招集すること、その組織、権限を明確にするための20名の委員をシニョーリアなど現統治機関が選出すること、百人委員会および七十人評議会を4ヶ月代行する120名のArroti(補佐官)を同じく現統治機関が選出し、4ヵ月後にはそれに代わるコンシーリオ・デリ・オッタンタをコンシーリオ・マッジョーレが選出、設置することを決議。

1527年

同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニ、ニッコロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

パリーデ・グラッシ Paride Grassi

生没
14??年~1528年6月10日
出身
ボローニャ
没地
ローマ

概要

 パリーデ・グラッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 教皇庁儀典長 1504年~1528年
 ペーザロ司教 1513年~1528年

年表

1450~1460年頃

ボローニャにて、生。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ジョルジュ・ダンボワーズ Georges d'Amboise

生没
1460年~1510年5月25日
出身
フランス王国ショーモン=シュル=ロワール
没地
フランス王国リヨン

概要

 ジョルジュ・ダンボワーズは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 グランセルヴ名誉修道院長 1477年10月22日~1492年9月3日
 モントーバン司教 1484年12月17日~1491年12月2日
 ナルボンヌ大司教 1492年3月14日~1494年4月21日
 ルーアン大司教 1494年4月21日~1510年5月25日
 枢機卿 1498年9月17日~1510年5月25日
 サン・シスト司祭枢機卿 1498年9月17日~1510年5月25日
 サンテヴルー名誉修道院長 1503年1月1日~1503年5月25日
 アヴィニョン教皇特使 1503年12月4日~1510年5月25日

年表

1498年9月17日

アレクサンデル6世により、サン・シスト司祭枢機卿に叙階される。

1498年12月22日

チェーザレ・ボルジアから、枢機卿の赤い帽子を授与される。

1499年10月6日

ルイ12世ミラノ入城に随行。

1500年5月10日

この日?、ピエロ・ソデリーニをミラノに派遣し、ルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズに対してそのミラノ制圧、支配に祝意を表すると共に、1499年11月の約定に基づくピサ攻略へのフランス軍の派遣の具体的条件について交渉。王に多額の軍資金を支払うという条件を飲んで交渉、ようやく妥結。

1501年7月初め

ミラノ到着。

1501年10月13日

この日?、マクシミリアン1世ルイ12世(の代理、宰相ジョルジュ・ダンボワーズ)、イタリアの処置に関して秘密裡に協定。

1501年10月

この頃、マクシミリアン1世と協定を結んでミラノに帰ったジョルジュ・ダンボワーズのもとにアントーニオ・マレゴンネッレベネデット・デ・ネルリを派遣し、フィレンツェの防衛、保護を要請するが、何らの言質も与えられずに終わる。

1501年10/11月

この頃?、ヴォルテッラの司教フランチェスコ・ソデリーニルカ・デリ・アルビッツィルイ12世と宰相ジョルジュ・ダンボワーズのもとに送り、ブロワで、ナポリ攻略の成功に対する祝意を表すると共に、チェーザレ・ボルジアのトスカーナ攻略からフィレンツェを防衛してくれるよう懇請するが、冷たく拒絶される。

1508年12月10日

カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。

後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。

1510年1月

オスマン・トルコ、フランスルイ12世、ドイツマクシミリアン1世、スペインフェルナンド2世・デ・アラゴンへの、とりわけフランスルイ12世への対抗勢力として利用するためヴェネツィアを過度に弱めない方針をとることを決めた教皇は、対ヴェネツィア戦をさらに強く断行すべしとのルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズの申し入れを拒絶。

1510年5月25日

ルイ12世の宰相、枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズ、リヨンで死。

ルイ12世ユリウス2世と和解させることに努めてきたジョルジュ・ダンボワーズの死により、以後、両者の対立、より深刻化する。

別表記

 ダンボアーズ、ロアン枢機卿、monsignor di Roano

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Inventaire de la duchesse de Valentinois, Charlotte d'Albert
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・ペーザロ Jacopo Pesaro

生没
1460年~1547年

概要

 ヤコポ・ペーザロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 パフォス司教 1495年?~1547年

年表

1495年7月3日?

パフォス司教に就任(1498年4月25日)。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを、枢機卿団と共に迎える。

1501年5月

ヤコポ・ペーザロはスペイン軍とともにダーダネルス海峡まで進軍し、フランス軍はミティレーニを包囲。

1501年5月13日

ブダ条約:ヴェネツィア共和国は、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ及び教皇アレクサンデル6世と同盟を結ぶ。ダルマチア防衛に対する軍事支援と引き換えに、ハンガリーに年間14万ドゥカートの支払いが定められる。

1502年

ヴェネツィア共和国がオスマン・トルコと和平することを恐れた教皇アレクサンデル6世により、ガレー船20隻(13隻)の指揮を任される。

1502年8月30日

サンタ・マウラの戦いで、教皇軍とヴェネツィア共和国軍がオスマン・トルコ軍に勝利(1502年6月28日)。

1503年8月18日(金)

アレクサンデル6世、死。

1506年

ヴェネツィア到着。

1542年

遺言書を作成。故アレクサンデル6世の魂に捧げるミサを行うためのお金を残す。

肖像

埋葬地

別表記

 Giacomo PesaroJacopo Pisauroepiscopus Paphensis

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 Google Books
 Google Books

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

フランチェスコ・アリドージ Francesco Alidosi

生没
1460年頃~1511年5月24日

概要

 フランチェスコ・アリドージは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1505年12月1日~1511年5月24日

年表

1505年12月1日

ユリウス2世により、枢機卿に選出される。

1511年5月15日

ボローニャを去り、ラヴェンナに移動するユリウス2世により、教皇の代理として指名される。

1511年5月21日~1511年5月23日

ボローニャでアルフォンソ1世・デステとも通じた市民の反乱が生じたため、逃亡する。ベンティヴォーリオ家は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ率いるフランス軍と共にボローニャに入り、市民の大歓迎を受ける。

別表記

 アリドーシ

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

ラッファエーレ・サンソーニ Raffaele Sansoni

生没
1461年5月3日~1521年7月9日
アントーニオ・サンソーニ
ヴィオランテ・リアリオ

概要

 ラッファエーレ・サンソーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1477年12月10日~1521年7月9日
 サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ助祭枢機卿 1477年12月12日~1480年5月5日
 サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ名誉助祭枢機卿 1480年~1517年
 ピサ大司教 1479年9月17日~1499年6月3日
 会計院長 1483年~1521年
 アレッツォ教区長 1508年7月7日~1511年11月5日
 ピサ大司教 1518年9月3日~1518年9月10日

性格

 全く無能。

教養

 フィレンツェの人文主義者ヤコポ・ブラッチョリーニが家庭教師を務めていた。

年表

1461年5月3日

生。

1477年12月10日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。大学生で、ピサで学びながらフランチェスコ・サルヴィアーティ大司教の邸宅で暮らす。

1478年3月5日

パッツィ家のヴィッラ・ラ・ロッジャに到着。聖職者としての地位が高いため、それに相応しい正式な歓迎を受けなければ街に入れない事情から、フィレンツェ周辺に1ヶ月以上にわたって滞在した。

1478年3月30日

モントゥーギで書簡をしたためる。

1478年4月26日(日)

朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はフランチェスコ・サルヴィアーティ大司教、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコヤコポ・ブラッチョリーニ

メディチ宮殿で馬を降りる。彼らは直接サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に行くものと思われていたので、出迎える者は誰もいなかった。

パッツィ家の陰謀サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、昇天祭ミサを彼が執り行い、その後宮殿で宴会が催される予定だった。

1478年

逮捕、投獄される。

1478年6月7日

釈放される。フィレンツェの執政官及び多くの市民が、ヴェッキオ宮殿からサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂へ歩く彼に同行した。40名の護衛に付き添われていた。

1478年6月12日

フィレンツェ出発。

1478年6月13日

シエナ到着。

1488年5月

義理の叔母カテリーナ・スフォルツァフォルリンポーポリで出迎えられ、フォルリラヴァルディーノ要塞に滞在。

1488年10月19日

フォルリ出発。

1489年10月28日

ローマ出発。

1489年11月2日

イーモラ到着。

1494年

教皇アレクサンデル6世により、義理の叔母カテリーナ・スフォルツァナポリ王国に味方するよう説得するため、フォルリンポーポリに派遣される。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

1499年11月21日

狩りに行くと装い、ローマから逃亡。モンテ・ロトンドへ、次いでサルザーナへ。

1521年7月9日

没。

肖像

別表記

 サン・ジョルジョ枢機卿、リアリオ枢機卿、ラファエロ、ラファエッロ・リアーリオ、Raffaele RiarioRaffaele Sansoni Galeoti RiarioCardinal Sforza-Riariocardinalis sancti Georgii

外部リンク

 GCatholic.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ドメニコ・グリマーニ Domenico Grimani

生没
1461年2月19日~1523年8月27日
アントーニオ・グリマーニ
カテリーナ・ロレダン

概要

 ドメニコ・グリマーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1493年9月20日~1523年8月27日
 サン・ニコラ・フラ・レ・インマジニ副助祭枢機卿 1493年9月23日~1498年3月28日
 パフォス司教 1493年12月16日~1495年7月3日
 ニコシア教区長 1495年7月3日~1495年9月4日
 アクイレイア総主教 1498年2月13日~1517年1月19日
 サン・ニコラ・フラ・レ・インマジニ助祭枢機卿 1498年3月28日~1503年12月25日
 サンタ・マリア・ディ・セスト名誉修道院長 1503年~1523年8月27日
 サン・マルコ司祭枢機卿 1503年12月25日~1508年9月22日
 首席司祭枢機卿 1508年~1508年9月22日
 アルバーノ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年6月3日
 サン・マルコ名誉司祭枢機卿 1508年9月22日~1523年8月27日
 フラスカーティ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年1月20日
 ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1511年1月20日~1523年8月27日
 ウルビーノ教区長 1514年5月29日~1523年7月17日
 セネダ司教 1517年~1520年

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1497年9月6日(水)

朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂ナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。

1497年9月13日

アクイレイア総主教に選出される。

別表記

 Grimanus

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』

フランシスコ・デ・レモリンス Francisco de Remolins

生没
1462年~1518年2月5日
出身
リェイダ
没地
ローマ

概要

 フランシスコ・デ・レモリンスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1503年5月31日~1518年2月5日
 ペルージア教区長 1503年8月4日~1506年3月

年表

1498年5月18日

フィレンツェ到着。

1498年

ジローラモ・サヴォナローラを告訴。

1501年5月7日

ガレオット・デ・パッツィと共にフィレンツェ到着。チェーザレ・ボルジア軍のフィレンツェ領通行許可を求める。

1501年8月16日

ルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステの結婚契約が結ばれる。

フランシスコ・デ・レモリンスはこの結婚契約書を携え、フェッラーラベルフィオーレの別荘に向かう。

1503年

チェーザレ・ボルジアの命で、ロマーニャから騎兵2百と歩兵1千を指揮し、オルヴィエートに駐屯。指示を待つ。

1503年5月31日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1503年11月26日

オスティアからローマ到着。チェーザレ・ボルジアの拠点の連署と降伏の保証を約束し、チェーザレ・ボルジアに対し慈悲を賜るよう教皇ユリウス2世に嘆願。

1503年12月20日

夜、ペレ・リュイス・リャンソル枢機卿と共にローマを逃亡。

ナポリゴンザロ・デ・コルドバのもとへ向かい、自分たちと共にチェーザレ・ボルジアの保護を求める。

1518年2月5日

死。

別表記

 フランチェスコ・ロモリーノ、レモリーノ・ダ・レリーダ、ソレントの枢機卿、Francisco de RemolinsFrancesco RomoliniRomolinoRemolino da Lérida

外部リンク

 チェーザレ・ボルジアとその周辺
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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ Antonio Maria Ciocchi del Monte

生没
1462年~1533年9月20日
出身
モンテ・サン・サヴィーノ
ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテ

概要

 アントーニオ・チョッキ・デル・モンテは、チェーザレ・ボルジアロマーニャ・ロータ長官、ロマーニャ総督を兼任。

在位

 チッタ・ディ・カステッロ司教 1503年8月4日~1506年2月6日
 マンフレドニア首都大司教 1506年2月6日~1511年5月30日
 枢機卿 1511年3月10日~1533年9月20日
 サン・ヴィターレ司祭枢機卿 1511年3月17日~1514年7月14日
 サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1514年7月14日~1521年7月24日
 カメルレンゴ 1516年~1517年
 ノヴァーラ教区長 1516年4月19日~1521年
 アルバーノ司教枢機卿 1521年7月24日~1523年12月9日
 ノヴァーラ教区長 1522年9月30日~1525年12月20日
 フラスカーティ司教枢機卿 1523年12月9日~1523年12月18日
 パレストリーナ司教枢機卿 1523年12月18日~1524年5月20日
 サビーナ司教枢機卿 1524年5月20日~1524年6月15日
 ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1524年6月15日~1533年9月20日
 次席枢機卿 1524年6月15日~1533年9月20日
 リーミニ教区長 1529年4月7日~1529年5月24日
 カイアッツォ教区長 1529年5月24日~1529年6月18日
 ニカトロ教区長 1530年~1533年
 アラトリ教区長 1530年2月4日~1530年7月1日

年表

1462年

法律家ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテの長男としてモンテ・サン・サヴィーノに、生(1461年)。

14??年

法律を修了後、聖職者となる。

1492年

インノケンティウス8世により、preposituraに任命される。

アレッツォ、モンテプルチアーノ、モンテ・サン・サヴィーノなどの教会から聖職禄を少しずつ蓄え始める。

1493年3月27日

ロータの監査官に就任。

1498年

アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教とローマのロータ長官を約束される。

1502年7月末

枢機卿会議で、チェゼーナを拠点としたチェーザレ・ボルジアの領土のロータ司法・治安機関が設置されることになり、その長官にアントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。

教会首席書記官に任命される。

1502年9月上旬~1502年10月

この頃、チェーザレ・ボルジア、統一的司法組織ロータを設置。その長官に、ロマーニャで人望を集めていた法律家<アントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。さらに行政上の最高権限をも与えられ、ロマーニャ総督に就任。

1502年11月26日

イーモラ到着。パオロ・オルシーニと会う。

1502年11月29日

反乱者を免じる手紙を持ち、再征服地の占有を委任されて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの降伏を話し合うため、パオロ・オルシーニと共に、ウルビーノへ向けイーモラ出発。

1502年12月6日

ウルビーノ到着。

1502年12月8日

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが降伏し、アントーニオ・チョッキ・デル・モンテに地位を譲ってウルビーノを去る(1502年12月9日)。

1502年12月

この月中、ウルビーノに滞在。

1503年2月

サン・マリーノ共和国軍を強化。

1503年2月

マイオーロとサン・レオを降伏させる。

1503年7月24日

チェーザレ・ボルジアが前年ロマーニャ全域の統一的支配のため設置したRotaチェゼーナを中心にファーノペーザロリーミニファエンツァフォルリイーモラに開設され、その開設式が長官アントーニオ・チョッキ・デル・モンテの出席のもとチェゼーナで盛大に行われる。

1503年8月4日

アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教に任命される。

1503年11月

チェゼーナにいる。

1504年1月

ユリウス2世により、チェゼーナの行政長官に任命される。

肖像

別表記

 アントーニオ・チョッキ・ダル・モンテ、Antonio da Monte San SavinoAntonio dal MonteAntonio di Monte SansovinoAntonio Maria del Monte

外部リンク

 GCatholic.org
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『The Life of Cesare Borgia

エジーディオ・ダ・ヴィテルボ Egidio da Viterbo

生没
1465年頃~1532年11月12日
出身
ヴィテルボ
没地
ヴィテルボ

概要

 神学者、哲学者、アウグスティヌス会修道士、枢機卿。

在位

 枢機卿 1517年7月1日~1532年

年表

1465年

この年頃、ヴィテルボに生。

1517年7月1日

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1518年4月16日

対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、レオ10世により、カルロス1世のもとへ特使として派遣される。

1532年11月12日

ヴィテルボで死(1532年11月21日)。

著作

 『ヒストリエ』

本名

 Egidio Canisio

別表記

 エディジオ

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス精神の深層』
 『Lucretia Borgia

ジュリアーノ・チェザリーニ Giuliano Cesarini

生没
1466年5月20日~1510年5月1日
出身
ローマ
ガブリエーレ・チェザリーニ
ゴディーナ・コロンナ

概要

 ジュリアーノ・チェザリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1493年9月20日~1510年5月1日

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

埋葬地

別表記

 Giuliano II Cesarini

外部リンク

 GCatholic.com
 Google Books - Casa Cesarini. Ricerche e documenti
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』
 『Casa Cesarini. Ricerche e documenti
 『Lucretia Borgia

スオール・コロンバ Suor Colomba

生没
1467年2月2日~1501年5月20日
出身
リエーティ
没地
教皇領ペルージア

概要

 スオール・コロンバは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1488年

ペルージア到着。

別表記

 Colomba da Rieti

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『The Life of Cesare Borgia

フリデリク・ヤギェロンチク Fryderyk Jagiellończyk

生没
1468年4月27日~1503年3月14日
出身
クラクフ
没地
クラクフ

概要

 フリデリク・ヤギェロンチクは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1493年9月20日~

年表

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

別表記

 カシミーロ

外部リンク

 ウィキペディア
 Catholic-Hierarchy

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』

フランチェスコ・アルメッリーニ Francesco Armellini

生没
1469年7月13日~1528年1月8日
出身
フォッサート・ディ・ヴィーコ
没地
ローマ

概要

 フランチェスコ・アルメッリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 枢機卿 1517年7月1日~1528年1月8日
 サン・カッリスト司祭枢機卿 1517年7月6日~1523年11月22日
 ジェラーチェ教区長 1517年11月19日~1519年6月6日
 オッピド・マメルティーナ教区長 1517年11月19日~1519年6月6日
 アレッツォ教区長 1519年~1522年
 会計院長 1521年9月13日~1528年1月8日
 サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ枢機卿司祭 1523年11月22日~1528年1月8日
 ターラント大司教 1525年12月15日~1528年1月8日
 教皇庁尚書院長代理 1526年~1528年1月8日

年表

1469年7月13日

フォッサート・ディ・ヴィーコにて、生(1470年7月13日)。

1517年

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1528年1月8日

ローマにて、死(1527年10月)。

別表記

 Francesco Armellini Pantalassi de' Medici

外部リンク

 GCatholic.com
 Wikipedia

ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ Bernardo Dovizi da Bibbiena

生没
1470年8月4日~1520年11月9日
出身
ビッビエーナ
没地
ローマ
フランチェスコ・ドヴィツィ
フランチェスカ・ヌタッリーニ

概要

 ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿、著作家、外交官。ジョヴァンニ・デ・メディチの家庭教師。レオ10世の秘書。

在位

 枢機卿 1513年9月23日~1520年11月9日

年表

1470年8月4日

アレッツォ近郊ビッビエーナに生(1470年8月2日)。

1494年

フェッランテ・ダラゴーナの死後、フィレンツェ共和国大使としてナポリへ行き、アルフォンソ2世・ダラゴーナを反フランス同盟に引き入れるため働きかける。。

1494年9月

フランス軍を迎え撃つため出発したカラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナについて、ロマーニャに赴く。

1494年9月23日

サン・ベルナルドの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。フェッランディーノ・ダラゴーナカテリーナ・スフォルツァが会談。

1494年9月26日

ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。

1494年10月7日

サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。フェッランディーノ・ダラゴーナカテリーナ・スフォルツァが合意に達する。

1494年10月8日

サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオがムリネッラ通りなど通行許可を敵に与えたと、カテリーナ・スフォルツァフェッランディーノ・ダラゴーナに知らせる。カテリーナ・スフォルツァは教皇アレクサンデル6世から息子オッタヴィアーノ・リアリオに地位確定の決定的な勅書を求めている。

1494年10月9日

サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。

1494年10月11日

ファエンツァの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。

1494年10月21日

ファエンツァの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。モルダーノ劫掠について。

1513年9月23日

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1518年4月13日

レオ10世により、対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、フランソワ1世のもとへ特使として派遣される。

1518年12月

フランソワ1世レオ10世の特使ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナを介して交渉を進め、自己の利益を引き出し確保しつつレオ10世との協調を深める。

1513年2月6日

ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナのCalandria(カランドゥリア)、ウルビーノの宮廷で上演。(以後、1514年~1515年ローマで、1521年~1522年ヴェネツィアで、1532年マントヴァで上演。1521年シエナで刊)。

1520年11月9日

ローマで死。

1533年

ニッコロ・マキアヴェッリLa Mandragola、恐らくフィレンツェBernardo di Giunta書房よりベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの喜劇Calandriaと合わせて一冊本で刊。

1554年

ニッコロ・マキアヴェッリLa Mandragola、1531年Nicolò d'Aristotile版を底本として、ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの喜劇Calandriaと合わせて一冊本で、Girolamo Ruscelliの校訂を経てヴェネツィアPlinio Pietrasanta書房より刊。

肖像

埋葬地

別表記

 ビビエーナ、Il Bibbiena

外部リンク

 GCatholic.com
 Google Books - Caterina Sforza Volume III
 Google Books - The Tigress of Forlì
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史Ⅴ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

トンマーゾ・インギラーミ Tommaso Inghirami

生没
1470年~1516年9月5日
出身
ヴォルテッラ
没地
ローマ

概要

 トンマーゾ・インギラーミは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1498年1月16日

ナヴォーナ広場のサン・ヤコポ・デリ・スパニョーリ教会にて、インファンテ・ロマーノのために演説を行う。

別表記

 フェードラ・インギラミ、PhaedraPhaedrusFedra

外部リンク

 Google Books - Contemporaries of Erasmus
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス Francisco Galcerán de Lloris

生没
1470年頃~1506年7月22日
出身
ヴァレンシア
没地
ローマ
ペドロ・デ・ロリス
イサベル・デ・ボルハ・イ・ナヴァッロ

概要

 フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 エルナ司教 1499年~1506年
 枢機卿 1503年5月31日~

年表

1502年6月

エルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスは、教皇のコッミッサーリオ・ジェネラーレとして、ペルージア到着。ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに、教皇アレクサンデル6世の小勅書を持参し、グッビオ経由でカーリとサッソフェッラートに向かう歩兵1千5百の通行と大砲の輸送に道を提供するよう指令させるため、2名のスペイン人を送る。

1502年12月25日(日)

チェゼーナにて、ニッコロ・マキアヴェッリと話す。

1503年5月31日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1505年12月17日

サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

別表記

 Francisco Galcerán de Lloris y de BorjaFrancisc de Lloris i de BorjaFrancesco BorgiaBishop of Euna

外部リンク

 Araldica Vaticana
 GCatholic.com
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

ゴーロ・ゲーリ Goro Gheri

生没
1470年頃~1528年
出身
ピストイア
没地
ボローニャ

概要

 ゴーロ・ゲーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ファーノ司教 1518年~1528年

別表記

 Gregorio GhieriGieri

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』

ロレンツォ・カンペッジオ Lorenzo Campeggio

生没
1471/72年~1539年7月25日

概要

 ロレンツォ・カンペッジオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1517年7月1日~1539年

年表

1517年7月1日

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1528年6月

前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。

1529年5月31日

ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオトマス・ウルジーの主導下で開催される。

在位

 ボローニャ司教 1523年12月2日~1525年12月20日

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

トマス・ウルジー Thomas Wolsey

生没
1473年3月頃~1530年11月29日
出身
イングランド王国イプスウィッチ
没地
イングランド王国レスター

概要

 トマス・ウルジーは、15世紀から16世紀のイングランドの男性、聖職者。

在位

 枢機卿 1515年9月10日~1530年11月29日

年表

1473年3月頃

生(1471年、1475年頃)。

1515年9月10日

レオ10世により、枢機卿に選出される。

1515年12月24日

枢機卿トマス・ウルジー、イングランドの大法官に就任。以後、政教両界に君臨(~1529年)。

1518年10月2日

ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジー、ヘンリー8世フランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世フランソワ1世の王太子フランソワの結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。

1524年1月24日

教皇クレメンス7世により、終身教皇特使に任命される。

1527年5月初頭

この頃?、ヘンリー8世、教皇特使(1524年~)としての(自分の大法官)トマス・ウルジーに、妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認、宣言するよう求める。

1527年8月3~18日

ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。

1529年5月31日

ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオ、トマス・ウルジーの主導下で開催される。

1529年10月17日

ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えをクレメンス7世に認めさせることに失敗したトマス・ウルジー、イングランド法管轄下の訴訟を外国で行なうことを禁じたActs of Praemunire(上訴禁止法:1393年)に違反したかどで訴追され、失脚(在位1515年~)。

1530年11月4日

大逆罪の容疑で逮捕される。

1530年11月29日

ロンドンに護送される途上レスターで病死(1530年11月28日)。

外部リンク

 ウィキペディア
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

シスト・ガラ Sisto Gara

生没
1473年~1517年3月8日
出身
サヴォーナ
没地
ローマ
ガブリエーレ・ガラ
ルキナ・デッラ・ローヴェレ

概要

 シスト・ガラは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ヴィチェンツァ教区長 1507年9月11日~1509年6月11日
 ルッカ教区長 1507年9月11日~1517年3月8日
 枢機卿 1507年9月11日~1517年3月8日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1507年9月11日~1517年3月8日
 教皇庁副尚書院長 1507年9月~1517年3月8日
 ベネヴェント教区長 1508年9月11日~1514年3月6日
 パドヴァ司教 1509年6月11日~1517年3月8日
 サルッツォ教区長 1512年9月27日~1516年3月22日

外部リンク

 Araldica Vaticana
 GCatholic.com
 Wikipedia

ジャンステファノ・フェッレーロ Gianstefano Ferrero

生没
1474年5月5日~1510年10月5日
出身
ビエッラ
没地
ローマ

概要

 ジャンステファノ・フェッレーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿

在位

 枢機卿 1500年9月28日~1510年10月5日(任命アレクサンデル6世
 ボローニャ司教 1502年1月24日~1510年10月5日

別表記

 Giovanni Stefano Ferrer

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ルイジ・デ・ロッシ Luigi de' Rossi

生没
1474年8月6日~1519年8月20日
リオネット・デ・ロッシ
マリーア・デ・メディチ

概要

 ルイジ・デ・ロッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 サン・ソヴァール・ド・ルドン名誉修道院長 1515年1月1日~1519年8月20日
 枢機卿 1517年7月1日~1519年8月20日
 教皇庁掌璽院長 1517年7月1日~1519年8月20日
 サン・クレメンテ司祭枢機卿 1517年7月6日~1519年8月20日

肖像

 レオ10世と枢機卿たち

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランソワ・ギヨーム・ド・カステルノウ François Guillaume de Castelnau

生没
1480年~1541年

概要

 フランソワ・ギヨーム・ド・カステルノウは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1503年11月29日~

年表

1503年11月29日

ユリウス2世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ガレオット・フランチオッティ Galeotto Franciotti

生没
1480年?~1508年9月11日
出身
ローマ
没地
ローマ
ジャンフランチェスコ・フランチオッティ
ルキナ・デッラ・ローヴェレ

概要

 ガレオット・フランチオッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ルッカ司教 1503年10月~1508年9月11日
 枢機卿 1503年11月29日~1508年9月11日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1503年12月6日~1508年9月11日
 ベネヴェント教区長 1504年8月30日~1508年9月11日
 クレモーナ教区長 1505年5月27日~1508年9月11日
 教皇庁副尚書院長 1505年5月31日~1508年9月11日
 ヴィチェンツァ教区長 1507年8月~1508年9月11日

年表

1480年?

ローマにて、生(1471年ルッカ、1477年)。

1503年11月29日

ユリウス2世により、枢機卿に選出される。

1503年12月4日

枢機卿として公表される。

1508年9月11日

ローマにて、死(1507年9月11日)。

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『Lucretia Borgia

マルコ・コルナーロ Marco Cornaro

生没
1482年~1524年
ジョルジョ・コルナーロ
エリザベッタ・モロジーニ

概要

 マルコ・コルナーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1500年9月28日~

年表

1500年9月28日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

コズメ・デ・モンセラート Cosme de Montserrat

生没
14??年~1473年
出身
ラ・セルヴァ・デル・カンプ

概要

 コズメ・デ・モンセラートは、15世紀のカタルーニャ出身の男性、聖職者。教皇カリストゥス3世の時代にヴァティカン図書館司書として、目録を作成し、拡大し、改善した。

在位

 ジローナ司教 1458年~1459年
 ヴィク司教 1459年~1464年、1472年~1473年

年表

1451年

オイバルの戦いで捕虜となったヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラを擁護し、釈放時に同行。

1455年4月4日

アルフォンス・デ・ボルジャ枢機卿の側近と共にヴァティカンに到着。

1461年9月23日

ヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラがバルセロナにて死。

聖性を主張。

1462年6月

カンプはコズメ・デ・モンセラートの指導の下にフアン2世・デ・アラゴンに反乱し、対抗することを宣言し、王と大司教の支配から脱する。

1462年9月

カンプが王国軍に敗れて占拠され、大司教の支配下に置かれる。

別表記

 コジモ・デ・モントセラト、コシモ

外部リンク

 GCatholic.com
 Viquipèdia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ジェンティーレ・ベッキ Gentile Becchi

生没
14??年~1497年
出身
ウルビーノ
没地
アレッツォ

概要

 ジェンティーレ・ベッキはロレンツォ・イル・マニーフィコの5歳の頃からの家庭教師、後に外交官に転ずる。

在位

 アレッツォ司教 1473年10月20日~1497年

著作

 『フィレンツェ司教会議』

年表

1478年11月4日

カファッジョーロでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書記であるフェデリーコ・ガッリ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国は被害者なのであり、初めに仕掛けたのはこちら側ではないと主張する。

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネッサンス夜話』
 『メディチ家』
 『フィレンツェ史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

バルトロメオ・フローレス Bartolomeo Flores

生没
14??年~1498年7月23日

概要

 バルトロメオ・フローレスは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ネピ・ストリ司教 1489年8月21日~1495年8月4日
 コゼンツァ大司教 1495年8月4日~1497年9月14日

年表

1489年9月8日

司教。

1497年9月14日

教皇アレクサンデル6世により、教皇秘書官の召使3人と共に20の小勅書を捏造したとして、サンタンジェロ城に投獄される。

死ぬまで暗い部屋で、ランプの油とパンと水が与えられた。

1497年10月

カンポ・デ・フィオーリ広場にて、3人の召使が火刑にされる。

別表記

 Bartholomeo Florido

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『ヨハン・ブルカルトの日記
 『The Life of Cesare Borgia

フェルナンド・デ・アルメイダ Fernando de Almeida

生没
14??年~1500年1月7日

概要

 フェルナンド・デ・アルメイダは、15世紀のポルトガル人男性、聖職者。

在位

 セウタ(スペイン)司教 1493年7月19年~1499年6月19日
 ヌヴェール(フランス)司教 1499年6月19年~1500年1月7日以前

性格

 野心家で貪欲な甚だいかがわしい人物。

年表

1499年

シャルロット・ダルブレとの結婚話に際して、どんな代償によってかは不明であるが、チェーザレ・ボルジアを援助。

1500年1月7日

ロマーニャのチェーザレ・ボルジアの野営地での自身の部屋で死。

別表記

 フェルディナンド・ダルメイダ

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ペドロ・デ・アランダ Pedro de Aranda

生没
14??年~1500年8月8日
没地
ローマ

概要

 ペドロ・デ・アランダは、14世紀のスペイン出身の男性、聖職者。

在位

 カラホラ・カルサーダ司教 1477年~1494年

外部リンク

 GCatholic.org
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ジョヴァンニ・サッコ Giovanni Sacco

生没
14??年~1505年

概要

 ジョヴァンニ・サッコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ラグサ大司教 1490年8月29日~1505年
 アンコーナ・ヌマーナ教区長 1502年7月15日~1505年

別表記

 Giovanni de Sacchis

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com

レオネッロ・キエリカート Leonello Chiericato

生没
14??年~1506年8月19日

概要

 レオネッロ・キエリカートは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アルバ司教 1472年1月8日~1484年1月19日
 トロギル司教 1484年1月19日~1488年10月22日
 コンコルディア司教 1488年10月22日~1506年8月19日

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『Lucretia Borgia

ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニ Bernardino Bongiovanni

生没
14??年~1509年

概要

 ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ヴェローナ司教 1501年6月14日~1509年

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『Lucretia Borgia

アンジェロ・レオニーニ Angelo Leonini

生没
14??年~1517年

概要

 アンジェロ・レオニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ティヴォリ司教 1499年10月2日~1509年8月3日
 サッサーリ大司教 1509年8月3日~1515年

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 Treccani

マルコ・コッポラ Marco Coppola

生没
14??年~1527年
フランチェスコ・コッポラ

概要

 マルコ・コッポラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 モンテペローゾ司教 1498年11月26日~1527年

年表

1486年8月13日

ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの孫マリーア・ピッコローミニとの結婚のためカステル・ヌオーヴォに赴くが、大広間に花嫁の代わりに兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして父フランチェスコ・コッポラと共に逮捕され投獄される。

1491年4月

釈放される。

1491年4月24日

修道士になる。

1498年11月26日

モンテペローゾ司教に任命される。

1527年

死。

別表記

 Marco Copula

外部リンク

 Academia.edu
 GCatholic.com

ルカ・リナルディ Luca Rinaldi

生没
14??年~15??年

概要

 ルカ・リナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 トリエステ司教 1500年~1501年

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『君主論』

ラウラ・ボイアルド Laura Boiardo

生没
14??年~15??年
ジューリオ・アスカーニオ・ボイアルド
コルネーリア・タッデア・ピオ

概要

 ラウラ・ボイアルドは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵令嬢、聖職者。

年表

14??年

生。

1???年~1510年

コルプス・ドミニ修道院長。

1511年3月

訪問したベルナルディーノ・デ・プロスペリにイザベッラ・デステから贈られてきた男性の帽子用飾り5つを渡し、金細工師エルコーレ・デイ・フェデーリへの修理の仕方の指示を伝える。

1514年頃

サン・ベルナルディーノ修道院長となる。

15??年

死。

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola

生没
1491年12月24日~1556年7月31日
出身
ロヨラ
没地
ローマ

概要

 イグナティウス・デ・ロヨラは、15世紀から16世紀の男性、イエズス会創立者。

年表

1491年12月24日

スペイン北部バスコンガーダス バスク地方ギプスコアのアスペイティア近郊ロヨラ城に生(1491年頃)。

1521年5月20日

フランソワ1世Navarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。

この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。

1534年8月15日

1528年以来パリ大学の学んでいたイグナティウス・デ・ロヨラ、同志F. XavierPetrus FaberPierre Favre (Lefèvre):1506年~1546年)、Nicolaus Bobadilla(1511年~1590年)、Diego Laynez((Lainez), Jacobus Laynez:1512年~1565年)、Alfonso Salmerón(1515年~1585年)、Simão (de Azevedo) Rodriguez(?~1585年)と共にパリのモンマルトルの丘で清貧、貞潔、聖地巡礼、教皇への絶対服従、救霊事業への献身の誓願を立て、新たな修道会の基を築く。

1537年6月24日

イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。

1537年9/10月

パリのモンマルトルにおける誓願(1534年)に従い聖地巡礼に向かうべく1537年1月ヴェネツィアで会したイグナティウス・デ・ロヨラとその同志9名、ヴェネツィア・トルコ両軍の対峙により巡礼船出航が不可能となったため、1年間イタリア各地で使徒活動に従事することに方針を変更すると共にサークルの名称をイエズス信徒会(Compañia de Jesús)と決める。

1539年9月3日

イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。

1539年10/11月

イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。

1541年4月19日~1541年4月23日

イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会初代総長に就任(在位~1556年)。

1548年7月31日

パウルス3世、イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。

1549年

フランシスコ・ザビエル、日本への伝道開始。

1552年8月31日

自身の発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立が、ユリウス3世により認可される。

1556年7月31日

ローマで死。

本名

 Iñigo de Oñez y Loyola

別表記

 イグナティウス・ロヨラ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia

ステファノ・ナルディーニ Stefano Nardini

生没
?~1484年10月22日
出身
フォルリ
没地
ローマ

概要

 ステファノ・ナルディーニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1473年5月7日~

年表

1473年5月7日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

1475年

ナルディーニ宮殿(現ゴヴェルノ・ヴェッキオ宮殿)完成。

外部リンク

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 Rome in the footsteps of a 1750 traveller
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

ピエトロ・イスアレス Pietro Isuales

生没
14??年~1511年9月22日

概要

 ピエトロ・イスアレスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 レッジョ・カラブリア大司教 1497年2月18日~1506年7月24日
 枢機卿 1500年9月28日~
 サン・チリアーコ・アッレ・テルメ・ディオクレツィアーネ司祭枢機卿 1500年10月5日~1507年8月18日
 ヴェスプレーム教区長 1503年6月21日~1511年9月22日
 サンタ・プデンツィアーナ司祭枢機卿 1507年8月18日~1511年9月22日
 サン・チリアーコ・アッレ・テルメ・ディオクレツィアーネ名誉司祭枢機卿 1507年8月18日~1511年9月22日
 オウレンセ教区長 1508年6月7日~1511年9月22日
 メッシーナ教区長 1510年~1511年9月22日

年表

1500年9月28日

アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。

1500年10月2日

枢機卿として公表される。

別表記

 Petro IsgualesIsuallesIsvalies

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani

参考文献

 『Lucretia Borgia

ヤコポ・テバルディ Jacopo Tebaldi

生没
1???年~1466年9月4日
出身
ローマ
没地
ローマ

概要

 ヤコポ・テバルディは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1456年12月17日~

年表

1456年12月17日

カリストゥス3世により、枢機卿に選出される。

埋葬地

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ヤコポ・シルヴェストリ Jacopo Silvestri

生没
14??年~1516年

概要

 ヤコポ・シルヴェストリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アラトリ司教 1493年4月15日~1516年

年表

1494年12月

マリアーノ・サヴェッリ宛てに手紙をしたためる。危険が切迫したことを痛感している人物の不安を示す、苛立ち乱れた文体で、ジューリア・ファルネーゼをできる限り早急にローマから遠ざけるよう努力すべしとの指令をアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿から受け取ったことを知らせる。ジューリア・ファルネーゼは、初めは動きたくないと「頑なに」言い張ったが、最後には勧告に従い、十分な数の馬と確かな護送隊が整い次第出発する用意であるとの意向を表明した。「そこで、早急にご夫人の意を満たしてくださるよう、閣下にお願いいたします。なぜなら、誰にとりましても名誉とはなり得ないことが起こりかねないこの地にジューリア・ファルネーゼが留まるのは嘆かわしいことに思われるからであります。このことはアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿も案じておられ、妹御がローマに留まっておられるのを懸念しておいでなのです。ジューリア・ファルネーゼに出発の手段を与えてくださるよう、心より閣下にお願いいたす次第です・・・・」。

この手紙は現在ヴァティカンの記録保管所にあるため、おそらく、教皇の手勢によって横取りされ、アレクサンデル6世に渡された。

間もなくして、ヤコポ・シルヴェストリはサンタンジェロ城に幽閉され、アレクサンデル6世が死ぬまで忘れ去られる。この手紙が直接の原因ではないかもしれないが、「ボルジア家に疑われたために」と、ある伝記作家は述べた。

別表記

 ヤコベッロ・シルヴェストリ、Giacomo de Silvestri

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

フアン・マラデス Juan Marrades

生没
14??年~1499年

概要

 フアン・マラデスは、15世紀頃の男性、聖職者。

在位

 ソゴルブ・アルバラシン司教 1499年

別表記

 ジョヴァンニ・マルラデス、GiovanniMarradas

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ジローラモ・ポルカリ Girolamo Porcari

生没
14??年~1503年
ドメニコ・ポルカリ
ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ

概要

 ジローラモ・ポルカリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 アンドリア司教 1495年~1503年

年表

1492年

アレクサンデル6世により、教皇庁控訴院院長に任命される。

1493年9月18日

Commentarius Porciusローマで出版。スペイン王と王妃に献呈。この中で、教皇に即位したアレクサンデル6世と、彼に忠節を誓うイタリア各国の大使について書いている。

著作

 『Commentarius Porcius

別表記

 Geronimo PorcariHieronymus Porcius

外部リンク

 GCatholic.com
 Google Books
 Google Books

参考文献

 『Lucretia Borgia

ジョヴァンニ・オリヴィエーリ Giovanni Olivieri

生没
14??年~1510年

概要

 ジョヴァンニ・オリヴィエーリは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。

在位

 イゼルニア司教 1500年4月8日~1510年

年表

1500年10月

パンドルフォ4世・マラテスタリーミニ出発の日、チェーザレ・ボルジアによる無血開城を祝って大聖堂で荘厳ミサが歌われ、ジョヴァンニ・オリヴィエーリがリーミニの教会に対する忠誠の誓いを受ける。

この後すぐ、リーミニは教皇アレクサンデル6世に使節を送り、パンドルフォ4世・マラテスタからの解放を感謝する。

別表記

 ジョヴァンニ・オリビエーリ

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.com
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ラッツァーロ・スカランピ Lazzaro Scarampi

生没
1???年~1466年

概要

 ラッツァーロ・スカランピは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 コモ司教 1460年8月20日~1466年

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

ジョヴァンニ・ネローニ Giovanni Neroni

生没
1???年~1473年7月18日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
ネローネ・ネローニ
レオナルダ・クレーシ

概要

 ジョヴァンニ・ネローニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ヴォルテッラ司教 1450年~1461年
 フィレンツェ大司教 1462年~1473年7月18日

別表記

 ジョヴァンニ・ネッロ

外部リンク

 GCatholic.com
 Treccani

参考文献

 『メディチ家の人びと』

フランチェスコ・ミネルベッティ Francesco Minerbetti

生没
1???年~15??年
トンマーゾ・ミネルベッティ

概要

 フランチェスコ・ミネルベッティは、16世紀頃のイタリアの男性、聖職者。

在位

 サッサーリ大司教 1515年?~1525年以前
 アレッツォ司教 1527年~1537年

年表

1523年

ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。

新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。

外部リンク

 GCatholic.com

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年10月1日