バルバラ Santa Barbara
- 生没
- 2??年~
- 父
- ディアスコロス
概要
聖バルバラは、3世紀頃の女性、聖人。
持ち物
3つの窓をもつ塔、棕櫚の枝、孔雀の羽根、剣、聖杯、稲妻、本
守護対象
建築家、石工、砲手、消防士、鉱夫、囚人
題材作品
別表記
聖バルバラ
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
セバスティアヌス Sebastianus
- 生没
- 2??年~287年1月20日
- 祝日
- 1月20日
- 守護都市
- カゼルタ
概要
セバスティアヌスは、3世紀の男性、聖人、殉教者。
守護対象
兵士、黒死病。
題材作品
外部リンク
アンブロジウス Ambrosius
- 生没
- 340年?~397年4月4日
- 祝日
- 12月7日
- 守護都市
- ミラノ
概要
アンブロジウスは、4世紀の男性、四大ラテン教父の1人。
肖像
別表記
アンブロシウス、アンブロジュウス、アンブロジオ
外部リンク
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
ベネディクトゥス Benedictus de Nursia
- 生没
- 480年3月2日~547年3月21日
- 出身
- ノルシア
- 没地
- モンテカッシーノ
- 祝日
- 3月21日
概要
ベネディクトゥスは、キリスト教の聖人で、西欧最古の修道会であるベネディクト会の創立者。
題材作品
外部リンク
ピエール・アベラール Pierre Abélard
- 生没
- 1079年~1142年4月21日
- 妻
- エロイーズ
概要
ピエール・アベラールは、11世紀~12世紀の男性。
関連項目
外部リンク
ウバルド・バルダッシーニ Ubaldo Baldassini
- 生没
- 1084年~1160年5月16日
- 出身
- グッビオ
- 没地
- グッビオ
概要
ウバルド・バルダッシーニは、11世紀から12世紀のイタリアの男性、聖職者。1192年列聖される。
在位
グッビオ司教
外部リンク
フランチェスコ・ダッシジ San Francesco d'Assisi
- 生没
- 1181/82年~1226年10月3日
概要
フランチェスコ・ダッシジは、12世紀~13世紀の男性。
年表
1219年
第5次十字軍が駐留するエジプトに到着。
供を1人連れただけでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見。この席でフランチェスコ・ダッシジはイスラム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかける。すなわち、燃え盛る炎の上を歩いてどちらに神の庇護があるかを競おうという火の試練である。フランチェスコ・ダッシジは先に自分が渡って無事であったらキリスト教へ改宗するようスルタンに迫るが、スルタンがこれを拒否したため、誰も渡らず。
肖像
別表記
聖フランチェスコ、アッシジのフランチェスコ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『修道院』
『服飾の中世』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスとは何であったか』
『Lucretia Borgia』
ジル・アルヴァレス・カリージョ・デ・アルボルノス Gil Álvarez Carrillo de Albornoz
- 生没
- 1310年~1367年8月23日
- 出身
- カラスコサ・デル・カンポ
- 没地
- ヴィテルボ
- 父
- ジル・アルヴァレス・デ・アルボルノス
- 母
- ドーニャ・テレサ・デ・ルーナ
概要
ジル・アルヴァレス・カリージョ・デ・アルボルノスは、14世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
トレド大司教 1338年5月13日~1350年12月17日
枢機卿 1350年12月17日~1367年8月23日
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1350年12月17日~1356年12月
内赦院長 1352年12月~1356年12月?
サビーナ司教枢機卿 1356年12月~1367年8月23日
内赦院長 1357年11月18日~1358年10月
年表
1310年
カラスコサ・デル・カンポにて、生(1295年)。
1354年3月10日
オルヴィエートの戦いでジョヴァンニ・ディ・ヴィーコに勝利。
1354年6月5日
モンテフィアスコーネで講和を結び、ジョヴァンニ・ディ・ヴィーコはヴィテルボ、コルネート、オルヴィエートを手放すことが決定。
1354年6月9日
オルヴィエート到着。
1354年6月24日
オルヴィエートの一代限りの領主となる。
1367年8月23日
ヴィテルボにて、死(1367年8月24日)。
備考
スポレートのアルボルノツィアーナ要塞を修復。
別表記
Egidio Albornoz
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
カテリーナ・ダ・シエナ Caterina da Siena
- 生没
- 1347年3月25日~1380年4月29日
- 出身
- シエナ
- 没地
- ローマ
概要
カテリーナ・ダ・シエナは、14世紀のイタリアの女性。
埋葬地
別表記
聖女カテリーナ、St. Catherine of Siena、Caterina di Jacopo di Benincasa
外部リンク
参考文献
『快楽の中世史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
ヴィンチェンツォ・フェッレーリ Vincenzo Ferreri
- 生没
- 1350年1月23日~1419年4月5日
- 出身
- ヴァレンシア
概要
ヴィンチェンツォ・フェッレーリは、14世紀から15世紀の男性、ドミニコ会修道士。
年表
1455年6月3日
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂で、カリストゥス3世により列聖される。
肖像
別表記
フェルレーリ、ウィンケンティウス・フェレリウス、ビセンテ・フェレール
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
アラマンノ・アディマリ Alamanno Adimari
- 生没
- 1362年~1422年9月17日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ティヴォリ
概要
アラマンノ・アディマリは、14世紀から15世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1411年6月6日~1422年9月17日
年表
1411年6月6日
ヨハネス23世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ベルナルディーノ・ダ・シエナ Bernardino da Siena
- 生没
- 1380年9月8日~1444年5月20日
- 出身
- マッサ・マリッティマ
- 没地
- ラクイラ
概要
ベルナルディーノ・ダ・シエナは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。1450年5月24日、教皇ニコラウス5世により列聖。
題材作品
外部リンク
ジョヴァンニ・カピストラーノ Giovanni Capistrano
- 生没
- 1386年~1456年10月23日
概要
フランシスコ会修道士、説教師、神学者。
年表
1456年7月14日~7月21/22日
ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節である自身らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍が、フニャディ・ヤーノシュ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。
1456年8月11日
フニャディ・ヤーノシュ、ペストで死。
1456年10月23日
ペストで死。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イタリア・ルネサンスの文化』
フアン・デ・トルクマーダ Juan de Torquemada
- 生没
- 1388年~1468年9月26日
- 出身
- レオン王国ヴァリャドリッド
- 没地
- 教皇領ローマ
概要
ローマ近郊スビアーコのベネディクト会S. Scolastica修道院院長。
在位
枢機卿 1439年12月18日~1468年9月26日
サン・シスト司祭枢機卿 1440年1月8日~1446年9月
カディス、セウタ司教 1440年7月27日~1442年7月11日
オウレンセ司教 1442年7月11日~1445年11月10日
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1446年9月~1460年4月8日
枢機卿団カメルレンゴ 1446年10月7日~1447年10月7日
スビアーコ名誉修道院長 1456年1月16日~1468年9月26日
パレストリーナ司教枢機卿 1460年4月8日~1463年5月5日
レオン教区長 1460年7月31日~1463年1月26日
オウレンセ司教 1463年1月26日~1466年6月8日
サビーナ司教枢機卿 1463年5月5日~1468年9月26日
年表
1440年1月8日
エウゲニウス4世により、サン・シスト司祭枢機卿に叙階される。
1446年
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿に叙階される。
1464年
自身が招いたドイツ人印刷業者Conrad Sweynheim、Arnold Pannartzが、イタリアに初めて聖なる技術、活版印刷術を伝える。
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アントニーノ・ピエロッツィ Antonino Pierozzi
- 生没
- 1389年3月1日~1459年5月2日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- モントゥーギ
概要
アントニーノ・ピエロッツィは14世紀~15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ドミニコ会総長 1433年~1443年
フィレンツェ大司教 1446年~1459年5月2日
年表
1437年
コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。
1444年
アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。
1458年7月2日~7月31日
メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。
この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院のアントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。
1459年5月2日
ドミニコ会総長(1433年~1444年)でこの年までにSumma teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)を完成させた(1440年~)アントニーノ・ピエロッツィ、フィレンツェで死(1389年~)。(1523年聖人に列せされ、Sant'Antoninoと通称される)
1477年
アントニーノ・ピエロッツィの遺作Summa teologiae(別名Summa moralis:(倫理)神学大全)、ヴェネツィアとドイツ・シュパイアーで刊。以後15年の間にこの作、ヴェネツィアで次々と版を重ねた他スイス・バーゼルでも版を重ねて刊。
1484年
アントニーノ・ピエロッツィの遺作Chronicon(年代記(別名Summa historialis:歴史大全)、ニュルンベルクで刊。以後この作、1491年バーゼルで刊の他1517年以降リヨンで版を重ねて刊。
1523年
聖アントニヌスとして列聖される。
外部リンク
Catholic Encyclopedia
EWTN
GCatholic.com
Saints.SQPN.com
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョヴァンニ・ヴィテレスキ Giovanni Vitelleschi
- 生没
- 1390年~1440年4月1/2日
概要
ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
教会の旗手 1433年~1434年
フィレンツェ大司教 1435年10月12日~1437年8月9日
枢機卿 1437年8月9日~1440年4月1/2日
年表
1390年~1400年
生。
1434年9月25日
自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたリナルド・デリ・アルビッツィは、この日、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられずにいる内、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からエウゲニウス4世が、司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わして調停、事態収拾工作に乗り出す。
1434年10月
エウゲニウス4世の逃亡後、無秩序状態が続き教皇帰還を求める動きが活発化したローマに、エウゲニウス4世の使節ジョヴァンニ・ヴィテレスキが到着し、市民に歓呼をもって迎えられる。以後ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、教会支配の復活を準備。
1434年夏以降敗戦の続くフィレンツェ、大金を払ってフランチェスコ1世・スフォルツァと傭兵契約を交わし、彼とその軍をヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍に加える。
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク、16か条からなる帝国改革計画を公表して帝国諸身分の意見を求めると共に、次の帝国議会で帝国改革について議決するよう提案。
しかし、諸侯も都市の意見が対立し、帝国改革計画は実行を挙げ得ずに終わる。
1437年8月9日
エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
フアン・カルバハル Juan Carvajal
- 生没
- 1399/1400年~1469年10月6日
概要
フアン・カルバハルは、15世紀頃の男性、聖職者、枢機卿。ベルナルディーノ・カルバハルのおじ。
在位
枢機卿 1446年12月16日~1469年10月6日
年表
1446年12月16日
エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。
別表記
Giovanni Carvajal
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ルドヴィーコ・スカランピ Ludovico Scarampi
- 生没
- 1401年11月14日~1465年3月22日
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ローマ
- 父
- ビアージオ・トレヴィサーノ
- 母
- ?・メッツァロータ
概要
ルドヴィーコ・スカランピは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。医師の息子という無名な出生から教会の高い地位に上り詰めた彼は、最初は高貴な母方のメッツァロータ姓を使い、次にアスティの家系であるスカランピ姓を名乗った。
在位
トラウ司教 1435年10月24日~1437年8月6日
フィレンツェ大司教 1437年8月6日~1439年12月18日
アクイレイア総大司教 1439年12月18日~1465年3月22日
枢機卿 1440年7月1日~1465年3月22日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1440年7月1日~1465年1月7日
会計院長 1440年~1465年3月22日
ボローニャ教区長 1443年5月9日~1444年
カヴァ教区長 1444年9月3日~1465年3月22日
アルバーノ司教枢機卿 1465年1月7日~1465年3月22日
年表
肖像
別表記
ルイジ、スカランポ、Luigi
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ニコラウス・クザーヌス Nicolaus Cusanus
- 生没
- 1401年~1464年8月11日
- 出身
- 神聖ローマ帝国クース
- 没地
- トーディ
概要
ニコラウス・クザーヌスは、15世紀の男性、哲学者、神学者、カノン法学者、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1448年12月20日~1464年8月11日
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1449年1月3日~1464年8月12日
ブリクセン司教 1450年3月23日~1464年8月12日
ローマ教区総代理 1459年1月11日~1464年8月12日
枢機卿団カメルレンゴ 1463年~1464年1月28日
年表
1401年
ドイツ西部Tier近郊Bernkastel-Kuesに誕生(1400年)。
1433年
帝国改革案の1つ、一種の連邦国家を目指すDe concordantia catholica(カトリック共和論)執筆。
1440年2月12日
De docta ignorantia(学識ある知)をドイツ西部ベルンカステル・クースで脱稿。
1453年
De pace seu concordantia fidei(平和あるいは信仰の和合)を執筆。
1464年8月11日
ペルージア近郊トーディで死(1464年8月12日)。
埋葬地
別表記
ニコラウス・クサヌス
外部リンク
ウィキペディア
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The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネッサンスの光と闇』
ヨハネス・ベッサリオン Johannes Bessarion
- 生没
- 1403年~1472年
- 出身
- トレビゾント
概要
ヨハネス・ベッサリオンは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿、人文主義者、神学者。
在位
枢機卿 1439年12月18日~1472年
年表
1438年3月4日~1439年
ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス、ヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンら、会議が開催されていたフェッラーラに到着。
東西両教会の合同の討議を行なう。
1438年3月8日
コンスタンティノポリス総主教Iosephもフェッラーラに到着。
1439年7月6日
フィレンツェ公会議で、オスマン・トルコに対抗するための西ヨーロッパからの支援を約束されたギリシア正教会側の妥協により、前日、東西両教会の合同案に署名がなされ、この日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂前で公表される。
この公会議に出席したヨハネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらギリシアの聖職者や学者たち、ギリシア語・ギリシア古典についてイタリア人に教示し、古典復活に大きく貢献。この後こうしたギリシアの学者・文人のイタリア移住、始まる。
1439年12月18日
エウゲニウス4世により、枢機卿に選出される。
1440年
コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。
1463年7月
ピウス2世、対オスマン・トルコ十字軍の結成に再び専心。
この月、枢機卿ヨハネス・ベッサリオンをヴェネツィアに派遣し、オスマン・トルコに対する公式の宣戦布告及びキリスト教諸国・諸権力者による十字軍への参加を促す。しかしヴェネツィアはいずれにも難色を示す。
1468年5月13日
ヨハネス・ベッサリオン、多数の蔵書(ギリシア語写本)をヴェネツィアの元老院に寄贈。Biblioteca Marcianaの基をなす。
1471年12月23日
シクストゥス4世、オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を説く使節を枢機卿の中から選んでヨーロッパ各国に送ることを決め、ヨハネス・ベッサリオン、ロドリゴ・ボルジア、アンジェロ・カプラーニカ(1410年頃~1478年:在位1460年~1478年)、マルコ・バルボをこの任に当てる。さらに1471年12月末、各国に防衛の具体案を講ずるよう促す勅書を発する。但し、使節は翌1472年4月以降出発。
1472年11月18日
ヨハネス・ベッサリオン、ルイ11世のもとへの教皇使節からの帰途、ラヴェンナで死。
1469年
ヨハネス・ベッサリオン、In Caluminatorem Platonis(プラトンの曲解者へ)を、ローマのConrad SweynheimとArnold Pannartzの下で印刷刊行。
別表記
ヨハンネス・ベッサリオン、ヨアニス・ヴィサリオン、Ioannes Bessarion
外部リンク
ウィキペディア
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The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『April Blood』
『Lucretia Borgia』
フィリッポ・カランドリニ Filippo Calandrini
- 生没
- 1403年~1476年7月18日
- 出身
- サルザーナ
- 没地
- バニョレージョ
- 父
- トンマーゾ・カランドリニ
- 母
- アンドレオーラ・トメオ・デイ・ボジ
概要
フィリッポ・カランドリニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
ボローニャ司教 1447年12月18日~1476年7月18日
枢機卿 1448年12月20日~1476年7月18日
サンタ・スザンナ司祭枢機卿 1449年01月03日~1451年11月24日
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1451年11月24日~1468年10月14日
カメルレンゴ 1454年~1456年
内赦院長 1459年~1476年7月18日
アルバーノ司教枢機卿 1468年10月14日~1471年8月30日
カメルレンゴ 1471年01月19日~1472年01月08日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1471年8月30日~1476年7月18日
年表
1448年12月20日
ニコラウス5世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ギヨーム・デストゥトヴィル Guillaume d'Estouteville
- 生没
- 1403年~1483年1月22日
- 父
- ジャン・デストゥトヴィル
- 母
- マグリット・ダルクール
- 女
- ジローラマ・トーリ
- 子
- ジローラモ・トゥッタヴィッラ
アゴスティーノ・トゥッタヴィッラ
マルゲリータ・トゥッタヴィッラ
ジューリア・トゥッタヴィッラ
概要
ギヨーム・デストゥトヴィルは、15世紀のフランス出身のお男性、聖職者、枢機卿。
在位
クゼラン教区長 1439年
アンジェ司教 1439年2月20日(1439年3月30日)~1439年9月25日(未就任)
ミレポワ教区長 1439年4月18日~1441年5月17日
ディーニュ司教 1439年9月25日(1439年11月8日)~1445年9月11日
枢機卿 1439年12月18日~1483年1月22日
サン・マルティーノ・アイ・モンティ司祭枢機卿 1440年1月8日~1454年
枢機卿団カメルレンゴ 1440年~1441年
ニーム教区長 1441年5月17日~1450年1月7日
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂主席司祭 1443年?~不明
ベジエ教区長 1444年7月10日~1447年7月26日
ロデーヴ教区長 1450年1月7日~1453年1月26日
サン=ジャン=ド=モーリエンヌ司教 1453年1月26日~1453年4月20日
ルーアン大司教 1453年4月20日~1483年1月22日
サン=ジャン=ド=モーリエンヌ教区長 1453年4月20日~1483年1月22日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1454年~1461年10月26日
オスティア、ヴェッレトリ司教枢機卿 1461年10月26日~1483年1月22日
枢機卿団カメルレンゴ 1465年9月~1466年1月9日
枢機卿団カメルレンゴ 1472年5月15日~1473年
枢機卿団長 1472年11月~1483年1月22日
会計院長 1477年8月12日~1483年1月22日
年表
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジャンバッティスタ・メッリーニ Giambattista Mellini
- 生没
- 1405年6月9日~1478年7月24日
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
概要
ジャンバッティスタ・メッリーニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
教皇庁掌璽院長 1466年3月31日~1471年7月26日
ウルビーノ司教 1468年4月27日~1478年7月24日
枢機卿 1476年12月18日~1478年7月24日
サンティ・ネレオ・エ・アキッレオ司祭枢機卿 1476年12月30日~1478年7月24日
年表
1476年12月18日
シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。
1477年1月1日
シクストゥス4世により、ミラノとロンバルディアの教皇代理に任命される。
1477年1月27日
1477年5月9日(金)
ローマ到着。
埋葬地
別表記
Giovanni Battista Mellini、Cardinal of Urbino
外部リンク
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Treccani
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マッフェオ・ゲラルディ Maffeo Gherardi
- 生没
- 1406年~1492年9月14日
- 父
- ジョヴァンニ・ゲラルディ
概要
マッフェオ・ゲラルディは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
ヴェネツィア総大司教 1468年12月16~1492年9月14日
枢機卿 1489年3月9日~
年表
1489年3月9日
インノケンティウス8世により、枢機卿に選出される。
別表記
ゲラルド
外部リンク
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ジョルジョ・コスタ Jorge da Costa
- 生没
- 1406年~1508年9月18日
概要
ジョルジョ・コスタは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1476年12月18日~
年表
1476年12月18日
シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1501年9月
枢機卿会議で、ルクレツィア・ボルジアを考慮してエステ家に好意を示しているような発言をする。
備考
ルクレツィア・ボルジアの代父。
埋葬地
別表記
Giovanni of Prato、Cardinal of Lisbon、Cardinal of Colenzo、cardinalis Ulixbonensis、cardinalis Ulisbonensis
外部リンク
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参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家の黄金の血』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アラン・ド・コエティヴィ Alain de Coëtivy
- 生没
- 1407年8月18日~1474年5月3日
概要
アラン・ド・コエティヴィは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1448年12月20日~1474年5月3日
サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1448年~1465年
サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿空位の聖職禄 1465年~1474年
外部リンク
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノ Mariano da Genazzano
- 生没
- 1412年~1498年12月14日
- 出身
- ジェナッツァーノ
- 没地
- セッサ
概要
マリアーノ・ダ・ジェナッツァーノは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、アウグスティーノ会修道士。
仲間であるアウレリオ・ブランドリーニと共に当時の最も優れた説教者の1人と見なされ、その雄弁さと博学さから、アンジェロ・ポリツィアーノから賞賛される。1482年からレッチェトの会衆と繋がりがあり、修道会内で戒律厳守と公益に尽力することへの回帰を提唱し、祈りと典礼の実践を通じて野心と個性から逃れることを提唱した戒律主義の改革の代表者である。
ジローラモ・サヴォナローラの時代、修道会の副総長としてフィレンツェでメディチ家側に付き、ドミニコ会修道士に対抗。アウグスティーノ修道会に報いるために、ロレンツォ・イル・マニーフィコはサン・ガッロ教会に修道院を建てたと考えられている。
1497年5月、修道会総本部から総長に任命され、大胆な改革計画を立てるも、最初はロンバルディアの会衆の反対によって、そして彼の死によって頓挫した。実際、1498年12月14日にナポリへの旅行中にセッサ・アウンカで亡くなった。
年表
1491年10月
フェッラーラのサンタンドレア修道院に自分の独房が建設され、それを監督。
1491年10月
エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ジルフレード・デ・カバッリを殺し有罪判決を受けたニッコロ・ダ・ヴェローナを、悔悛して修道士になることを希望しているため赦免するよう嘆願。
1494年
1497年5月
アウグスティーノ修道会総本部により、総長に任命される。
1498年12月14日
ナポリへの途上、セッサにて死。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ブランダ・カスティリオーネ Branda Castiglione
- 生没
- 1415年~1487年7月16日
- 出身
- ミラノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ヤコポ・カスティリオーネ
概要
ブランダ・カスティリオーネは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
コモ司教 1466年10月8日~1487年7月16日
年表
1487年7月16日
ローマにて、死(1487年7月15日)。
別表記
ブランダ・カスティリオーニ、Branda da Castiglione、Castiglioni
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『April Blood』
ステファノ・バニョーネ Stefano da Bagnone
- 生没
- 1418年~1479年
- 父
- ニッコロ・ピオヴァーノ・ダ・バニョーネ
概要
ステファノ・バニョーネは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
ステーファノ・ダ・バリョーネ
外部リンク
The Assassin's Creed Wiki
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ニッコロ・フォルテゲッラ Niccolò Fortiguerra
- 生没
- 1419年10月7日~1473年12月21日
概要
ニッコロ・フォルテゲッラは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1460年3月5日~1473年12月21日
年表
1460年3月5日
ピウス2世により、枢機卿に選出される。
別表記
フォルテグエッリ(Forteguerri)、ニッコロー・フォルティグエラ
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンス精神の深層』
ジョン・モートン John Morton
- 生没
- 1420年頃~1500年9月15日
- 没地
- イギリス
概要
ジョン・モートンは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1493年9月20日~
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『The Life of Cesare Borgia』
ヤコポ・アンマンナーティ Jacopo Ammannati
- 生没
- 1422年3月8日~1479年9月10日
- 出身
- ペッシャ
- 没地
- ボルセーナ
概要
ヤコポ・アンマンナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。享年57歳。
在位
枢機卿 1461年12月18日~1479年9月10日
年表
1460年6月8日
シエナのテリアッチ宮殿の庭園で、ロドリゴ・ボルジア枢機卿が開いた乱痴気騒ぎの宴会に参加。
1461年12月18日
ピウス2世により、枢機卿に選出される。
1468年7月16日
リュイス・ジョアン・デル・ミラ宛てに手紙をしたためる。近くにいることを喜び、ピエンツァの自身の住居に招待。
埋葬地
別表記
Giacomo Ammannati Piccolomini
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
ジョヴァンニ・アルチンボルディ Giovanni Arcimboldi
- 生没
- 1426年~1488年10月2日
- 出身
- パルマ
- 没地
- ローマ
- 父
- ニッコロ・アルチンボルディ
- 母
- オルシーナ・カノッサ
概要
ジョヴァンニ・アルチンボルディは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ミラノ大司教 1457年~1466年
枢機卿 1473年5月7日~
サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1476年~1488年
年表
1472年5月8日
ローマにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。
1472年5月23日
ローマにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。
1483年11月15日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
別表記
Giovanni Arcimboldo
外部リンク
Google Books - Milano nella storia dell'età moderna
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
ハイメ・セッラ・イ・カウ Jaime Serra y Cau
- 生没
- 1427年~1517年3月15日
- 出身
- アルジーラ
- 没地
- ローマ
概要
ハイメ・セッラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。バルトロメ・セッラの甥?
在位
ローマ教区教皇代理 1492年2月13日~1500年10月2日
オリスターノ大司教 1492年4月11日~1510年12月9日
枢機卿 1500年9月28日~1517年3月15日
サンティ・ヴィターレ司祭枢機卿 1500年10月5日~1502年6月28日
ペルージア及びウンブリア教皇特使 1500年11月27日~1506年1月23日
サント=マリー=ドールプ名誉修道院長 1501年5月8日~1507年1月1日
リンシェーピング教区長 1501年9月3日~1513年4月6日
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1502年6月28日~1511年1月20日
ポテンツァ教区長 1503年11月29日~1506年8月7日
エルヌ教区長 1506年9月5日~1513年3月19日
首席司祭枢機卿 1510年12月9日~1511年1月20日
アルバーノ司教枢機卿 1511年1月20日~1517年3月15日
ブルゴス教区長 1512年7月28日~1514年7月5日
カラオラ及びラ・カルサーダ教区長 1514年7月5日~1515年5月25日
年表
1500年11月27日
枢機卿会議で、ペルージアの教皇特使に任命される。
1501年4月21日
ローマに到着。
1502年12月3日
ペルージアに到着。
別表記
Petro Isualles、Cardinale Arborense、Cardinal of S. Clemente、Cardinal of San Clemente
外部リンク
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Real Academia de la Historia
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ Pedro González de Mendoza
- 生没
- 1428年5月3日~1495年1月11日
- 出身
- グアダラハラ
- 没地
- グアダラハラ
- 父
- イニーゴ・ロペス・デ・メンドーサ
概要
ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
カラオラ・イ・ラ・カルサダ司教 1453年11月28日~1467年10月30日
シグエンサ司教 1467年10月30日~1474年5月9日
枢機卿 1473年5月7日~1495年1月11日
サンタ・マリア・イン・ドムニカ司祭枢機卿 1473年5月17日~1478年7月6日
セビリア教区長 1474年5月9日~1482年11月13日
シグエンサ教区長 1474年5月9日~1495年1月11日
サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ司祭枢機卿 1478年7月6日~1495年1月11日
オスマ教区長 1482年7月8日~1482年11月
アレクサンドリア総主教 1482年11月13日~1495年1月11日
トレド大司教 1482年11月13日~1495年1月11日
年表
1473年5月7日
シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。
別表記
Gonzalo de Mendoza
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『The Life of Cesare Borgia』
ルドヴィーコ・ポドカタロ Ludovico Podocataro
概要
ルドヴィーコ・ポドカタロは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1500年9月28日~
年表
1478年
シャルロット・ド・リュジニャンに随行して、ローマに。
14??年
ロドリゴ・ボルジア枢機卿と知り合い、彼の秘書兼医師となる。おそらくロドリゴ・ボルジアの子供たちにギリシア語を教えた。
1497年
アウグスティヌス会に寄付し、ルドヴィーコ・ポドカタロ枢機卿の墓を発注。
1504年8月25日
ミラノにて、死。
1504年10月7日
ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬される。
埋葬地
外部リンク
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Treccani
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参考文献
フアン・デ・カストロ Juan de Castro
概要
フアン・デ・カストロは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
アグリジェント司教 1479年3月20日~1506年9月29日
枢機卿 1496年2月19日~1506年9月29日
年表
1479年2月19日
アグリジェント司教に任命される。
1496年2月19日
アレクサンデル6世により、枢機卿に任命される。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
埋葬地
外部リンク
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参考文献
バルトロメ・マルティ Bartolomé Martí
- 生没
- 1430/1440年~1500年3月25日
- 没地
- ローマ
概要
バルトロメ・マルティは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1496年2月19日~1500年3月25日
年表
1496年2月19日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
別表記
Bartolommeo Marti、Martini、Cardinal Martinus of Segovia
外部リンク
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参考文献
アルディチーノ・デッラ・ポルタ Ardicino della Porta
- 生没
- 1434年~1493年2月4日
- 没地
- ローマ
概要
アルディチーノ・デッラ・ポルタは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
教皇庁掌璽院長 1473年5月7日~1484年8月1日
アレリア司教 1475年2月22日~1493年2月4日
枢機卿 1489年3月9日~1492年
聖ジョバンニ・エ・パオロ司祭枢機卿 1489年3月23日~1492年
オロモウツ教区長 1489年6月3日~1493年2月4日
年表
1489年3月9日
インノケンティウス8世により、枢機卿に選出される。
別表記
アレリア枢機卿、枢機卿アレーリア、Domenicus Porta
外部リンク
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参考文献
ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ Jean Bilhères de Lagraulas
- 生没
- 1434年~1499年8月6日
- 出身
- ガスコーニュ
- 没地
- ローマ
概要
ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラは、15世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
ロンベ司教 1473年7月5日~1499年8月4日
サン=ドニ名誉修道院長 1473年7月5日~1499年8月4日
ローマ知事 1492年7月25日~1493年9月20日
副会計院長 1492年7月25日~1493年9月20日
枢機卿 1493年9月20日~1499年8月6日
サンタ・サビーナ司祭枢機卿 1493年9月23日~1499年8月6日
コンドン教区長 1496年10月26日~1497年1月23日
ヴィヴィエ教区長 1498年2月14日~1499年8月6日
年表
1434年
ガスコーニュにて、生(1439年)。
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1499年5月23日(木)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ベルナルディーノ・カルバハル、レイモンド・ペラウルド、フアン・ロペス、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。
夜、チェーザレ・ボルジアがサン・ミシェル騎士団員になったことを祝し、家の前で火を焚く。
注文した作品
別表記
ラ・グロレーイエ枢機卿、グロラエ、Cardinal La Grolaye、Giovanni della Grolaye
外部リンク
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参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
レイモンド・ペラウルド Raymond Péraud
- 生没
- 1435年5月28日~1505年9月5日
概要
レイモンド・ペラウルドは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
グルク司教領主 1491年2月21日~1501年10月6日
枢機卿 1493年9月20日~1505年9月5日
サンタ・マリア・イン・コスメディン助祭枢機卿 1493年9月23日~1496年2月24日
サン・ヴィターレ助祭枢機卿 1496年2月24日~1499年4月29日
サン・ヴィターレ名誉司祭枢機卿 1499年4月29日~1500年10月5日
マグロンヌ教区長 1498年7月4日~1499年3月18日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ司祭枢機卿 1499年4月29日~1505年9月5日
ペルージア及びウンブリア教皇特使 1499年10月11日~1500年11月27日
サン=マンシュイ・ド・トゥール名誉修道院長 1500年1月1日~1505年9月4日
サントンジュ教区長 1505年7月11日~1505年9月5日
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1499年4月29日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
1499年5月22日(水)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行う晩祷に、フアン・ロペス、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席(木曜日)。
1499年5月23日(木)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ、ベルナルディーノ・カルバハル、フアン・ロペス、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。
別表記
Raymund Pérault
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『Lucretia Borgia』
ジャウメ・デ・カザノヴァ Jaume de Casanova
- 生没
- 1435年頃~1504年6月4日
- 出身
- シャティヴァ
- 没地
- ローマ
概要
ジャウメ・デ・カザノヴァは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
バルセロナ大聖堂参事会員 1498年~
枢機卿 1503年5月31日~1504年6月4日
サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1503年6月12日~1504年6月4日
年表
14??年
幼年時、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の保護下に置かれる。
ヴァティカン庭園管理者。教皇公証人。教会首席書記官。
1492年
ルクレツィア・ボルジアとガスパール・デ・プロシタの結婚解消の証人になる。
1497年
教皇侍従。
1498年
バルセロナ大聖堂参事会で空席ができた時、その職をすでに別の人物に与えていたフェルナンド2世・デ・アラゴンから反対されたが、アレクサンデル6世はジャウメ・デ・カザノヴァを聖堂参事会員に任命する勅書を発行。
1503年5月31日
教皇アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
別表記
Jaime de Casanova
外部リンク
Catholic-Hierarchy
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Viquipèdia
ジャナントーニオ・サンジョルジョ Giovanni Antonio Sangiorgio
概要
ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
アレッサンドリア司教 1478年4月14日~1499年9月6日
枢機卿 1493年9月20日~1509年3月14日
サンティ・ネレオ・エ・アキレッオ司祭枢機卿 1493年9月23日~1503年12月23日
パルマ司教 1499年9月6日~1509年3月14日
エルサレム総主教 1500年~1503年12月23日
フラスカーティ司教枢機卿 1503年12月23日~1507年9月17日
パレストリーナ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
サビーナ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年3月14日
年表
1439年
ミラノにて、生(1442年)。
1493年9月20日
教皇アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1501年
教皇アレクサンデル6世により、ジョヴァンニ・アントーニオ・サンジョルジョ枢機卿、フランセスク・デ・ボルジャ枢機卿他4名が、ロドリゴ・ダラゴーナとインファンテ・ロマーノの後見人に選ばれる。
1509年3月14日
ローマにて、死。
別表記
アレッサンドリーノ・ジョヴァンニ・アントーニオ・サン・ジョルジョ、Gianantonio San Giorgio
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ Giovanni Battista Zeno
- 生没
- 1439年~1501年5月7日
- 没地
- ローマ
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1468年11月21日~1501年5月7日
年表
別表記
Cardinalis s . Marie in Porticu
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ヨハン・ブルカルトの日記』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
メルヒオール・フォン・メッカウ Melchior von Meckau
- 生没
- 1440年頃~1509年3月3日
- 没地
- ローマ
概要
メルヒオール・フォン・メッカウは、15世紀から16世紀のドイツ出身の男性、聖職者、枢機卿。
在位
ブリクセン司教 1489年6月20日~1509年3月3日
枢機卿 1503年5月31日~1509年3月3日
年表
1493年11月7日
ミラノ到着。オリエンターレ門でバーリ公ルドヴィーコ・イル・モーロとミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに迎えられ、スフォルツェスコ城へ案内される。3週間歓迎を受ける。
外部リンク
フアン・カステリャール Juan Castellar
- 生没
- 1441年~1505年1月1日
- 出身
- ヴァレンシア
- 没地
- ヴァレンシア
- 父
- ガルセラン・カステリャール
- 母
- ベルナルドーナ・リャンソル
概要
フアン・カステリャールは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
トラーニ大司教 1493年8月23日~1503年8月9日
枢機卿 1503年5月31日~1505年1月1日
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1503年6月12日~1505年1月1日
モンレアーレ大司教 1503年8月9日~1505年1月1日
年表
1503年5月31日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
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参考文献
フィリップ・ド・リュクサンブール Philippe de Luxembourg
- 生没
- 1445年~1519年6月2日
- 出身
- フランス王国
- 没地
- ル・マン
- 父
- ティボー・ド・リュクサンブール
概要
フィリップ・ド・リュクサンブールは、15世紀から16世紀のフランス王国の男性、聖職者、枢機卿。パリのル・マン大学の創設者。
在位
ル・マン司教 1476年11月4日~1507年1月27日
1509年9月5日~1519年6月2日
枢機卿 1495年1月21日~1519年6月2日
サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿 1495年2月2日~1509年
テルワンヌ司教 1498年~1516年
クレルモン名誉修道院長 1506年~1513年
アルバーノ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年
サン=ポン=ド=トミエール司教 1509年9月8日~1511年7月9日
サン=ピエール・ド・ジュミエージュ王立名誉修道院長 1510年~1518年
サン=マルタン=ド=セ名誉修道院長 1510年~1518年
アントルモン名誉修道院長 1510年~1518年
フラスカーティ司教枢機卿 1511年1月20日~1519年
アラス司教 1516年~1518年
年表
1476年11月4日
教皇シクストゥス4世により司教に選出される。
1477年
父ティボー・ド・リュクサンブールの遺骨をル・マンの大聖堂に埋葬するために、テッラチーナ大聖堂の聖堂参事会員に要請書を送り、承認される。
1478年9月10日
司教が5年毎にサン・ピエトロ大聖堂とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に巡礼し、教皇に自分の教区の状況や活動について報告する公式の訪問であるアド・リミナを、代理人を通じて行う。
1483年
トゥールの三部会 に出席。
1495年1月21日
教皇アレクサンデル6世により枢機卿に選出される。
1495年12月16日
アンボワーズでフランス王シャルル8世の息子シャルル=オルラン・ド・ヴァロワ、3歳で死。
トゥールにて、葬儀を執り行う。
1496年2月3日
テロワンヌ司教に推挙される。
1498年
フランス王ルイ12世とジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻無効を審理する使節団の一員に任命される。
1498年11月12日
アレクサンデル6世により、テロワンヌ司教に選出される。シャルル8世の強い推挙があったにもかかわらず、教皇は2つの司教区の収入の重複を懸念し、選出をこの日まで遅らせた。
1498年12月17日(月)
雷雨。アンボワーズのサン=ドニ教会にて、ルイ12世のジャンヌ・ド・ヴァロワとの結婚を無効とする判決を読み上げる。
1501年1月28日
ラヴァルでギィ15世・ド・ラヴァル、死(1500年5月15日)。
葬儀を執り行う。
1502年5月31日
アントワーヌ・ド・クレキも狙っていたが、ル・マン司教区を保持したまま、テロワンヌ司教に就任。
1516年11月26日
おじで名付け親のフランソワ・ド・メランにテロワンヌ司教座を譲る。
1503年9月16日~1503年9月22日
1503年10月31日~1503年11月1日
1505年5月23日
ル・マン大聖堂聖母礼拝堂にて、リヨン大司教フランソワ・ド・ローアンにパリウムを授与。
1507年
ローマに向かう。
1508年9月
首席司祭枢機卿になる。
1509年10月26日
ローマに滞在。
サン=ポン=ド=トミエール司教に就任。
1511年5月
サン=ポン=ド=トミエール教区会議を開催。
1511年5月16日
ユリウス2世を異端審問会であるピサ会議に召喚するこの日付の文書に彼の名前が含まれていたが、知らされておらず、強く抗議し、この会議には出席せず。
1512年7月
ラヴァルのサン・ヴェネラン墓地を聖別。
1513年
1514年1月9日
ル・マン近郊にあるベネディクト派のサン=ヴァンサン修道院の院長に任命され、その修道院はサン=ヴァンサン・ド・ロラトワール修道院を統合。
1516年11月26日
フランソワ・ド・メランに代わり、アラス司教に任命される。
1518年3月10日
アラス司教を辞任。
1516年
教皇使節としてフランスに派遣される。
1517年1月29日
パリに到着し、国事詔書の廃止を要求。
1517年5月10日
フランス王妃クロード・ド・フランスに戴冠。
外部リンク
ジョヴァンニ・ミキエル Giovanni Michiel
- 生没
- 1445年頃~1503年4月10日
- 没地
- ローマ
概要
ジョヴァンニ・ミキエルは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1468年11月21日~1503年4月10日
年表
1468年11月21日
パウルス2世により、枢機卿に選出される。
1503年4月10日
ローマにて、2日間病床に伏した後、急死(1503年4月11日)。
同日夜、教皇アレクサンデル6世が、約15万ドゥカートの巨額な遺産を接収する指令を発す。教皇指令による枢機卿毒殺の疑い広まる。
別表記
Cardinal of Sant' Angelo、Cardinal Michaeli
外部リンク
Find A Grave
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The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ギヨーム・ブリソンネ Guillaume Briçonnet
- 生没
- 1445年~1514年12月14日
概要
ギヨーム・ブリソンネは、15世紀から16世紀の男性、フランス王シャルル8世の主席大臣サン・マロ枢機卿。
在位
サン=マロ司教 1493年10月2日~1497年8月24日
枢機卿 1495年1月16日~1514年12月14日
サンタ・プデンツィアーナ司祭枢機卿 1495年1月19日~1507年9月17日
グランドモン修道会総長 1496年3月15日~1507年1月1日
ニーム教区長 1496年10月26日~1514年12月14日
ランス大司教 1497年8月24日~1507年7月15日
サン=マロ教区長 1497年8月24日~1514年8月18日
トゥーロン教区長 1497年12月20日~1501年1月1日
サン=ジェルマン=デ=プレ名誉修道院長 1504年2月10日~1507年11月16日
ナルボンヌ大司教 1507年7月15日~1514年12月14日
アルバーノ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
フラスカーティ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年6月3日
サン=ジルダ=デ=ボワ名誉修道院長 1509年1月1日~1514年12月14日
パレストリーナ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年10月24日
サン=ニコラ・ダンジェ名誉修道院長 1513年1月1日~1514年12月14日
年表
1495年1月16日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
別表記
グリエルモ・ブリソネット、Guglielmo Brissonet、San Malò
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
アントーニオ・マッフェイ Antonio Maffei
- 生没
- 1450年~1478年
- 父
- ゲラルド・マッフェイ
概要
アントーニオ・マッフェイは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
フラーテ・アントーニオ、アントーニオ・デ・マックェイ
外部リンク
The Assassin's Creed Wiki
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリ Giovanni Battista Ferrari
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・フェッラーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
モデナ司教 1495年9月11日~1501年8月9日
教皇庁掌璽院長 1496年4月1日~1500年10月2日
枢機卿 1500年9月28日~1502年7月20日
教皇庁副掌璽院長 1500年10月2日~1502年7月20日
サン・クリソゴーノ司祭枢機卿 1500年10月5日~1502年7月20日
カプア大司教 1501年8月9日~1502年7月20日
年表
1501年2月18日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。「国を益するであろう多大な利点のために」、エルコーレ1世・デステにアルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの結婚を提案。
1501年5月1日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。教皇アレクサンデル6世が枢機卿会議でルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの結婚話を満足げに語っていた。
1501年8月27日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。
1502年1月9日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。ルクレツィア・ボルジアを褒め称える。
1502年7月3日
病床に伏す。
1502年7月11日
熱が下がる。
1502年7月16日
熱がぶり返す。
1502年7月20日
ローマにて、死。
別表記
Gianbattista Ferrari、Ferrante、Cardinal of Modena
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
The Hierarchy of the Catholic Church
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティ Giovanni Jacopo Schiaffinati
概要
ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
パルマ司教 1482年12月30日~1497年12月9日
枢機卿 1483年11月15日~1497年12月9日
サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1483年11月15日~1484年11月17日
サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ名誉司祭枢機卿 1484年11月17日~1497年12月9日
サンタ・チェチーリア司祭枢機卿 1484年11月17日~1497年12月9日
年表
1451年9月10日
生。
1483年11月15日
シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。
1484年10月22日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァと共にアルフォンソ2世・ダラゴーナを訪問した後、ロドリゴ・ボルジアのカンチェッレーリア宮殿で晩餐に招待される。
1497年12月9日
死(1497年12月4日、1497年12月8日)。
埋葬地
別表記
Giovanni Giacomo、Sclafenati、Sclafinato、Sclafenatus、Cardinal of Parma
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカ Juan Rodríguez de Fonseca
- 生没
- 1451年~1524年3月4日
概要
フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカは、15世紀から16世紀の男性。
関連項目
The Borgias: 108
外部リンク
ベルナルディーノ・ルナーティ Bernardino Lunati
概要
ベルナルディーノ・ルナーティは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1493年9月20日~1497年
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1496年10月26日
枢機卿会議で、対オルシーニ戦の教会軍総司令官フアン・ボルジアとグイドバルド・ダ・モンテフェルトロを支援する教皇代理に任命される。
1496年10月28日
ローマ出発。
別表記
ルナーテ、Lunate、Bernardino di Lunati
外部リンク
Araldica Vaticana
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フアン・デ・ヴェラ Juan de Vera
- 生没
- 1453年11月25日~1507年5月4日
- 出身
- アルシラ
- 没地
- ローマ
概要
フアン・デ・ヴェラは、15世紀から16世紀の男性、スペイン出身の枢機卿。
在位
サレルノ大司教 1500年7月10日~1507年5月4日
枢機卿 1500年9月28日~1507年5月4日
サンタ・バルビーナ司祭枢機卿 1500年10月5日~1507年5月4日
カメルレンゴ 1504年~1505年
レオン教区長 1505年5月14日~1507年5月4日
年表
1453年11月25日
スペイン、ヴァレンシア、アルシラにて、生。
14??年
聖典と市民法の博士号取得。
1491年
ピサ大学で教員をしており、この頃、生徒にチェーザレ・ボルジアがいる。
1500年7月10日~1507年5月4日
サレルノ大司教に任命される。
1500年9月28日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1500年10月2日
アレクサンデル6世により、枢機卿を公表される。
1500年10月5日~1507年5月4日
サンタ・バルビーナ司祭枢機卿に任命される。
150?年
マルチェラータの教皇代理に任命される。
1501年
教皇により、ペーザロとファーノへ派遣され、チェーザレ・ボルジアの第一秘書官アガピート・ゲラルディーニと共に行く。教会の代理として忠誠の誓いを受ける。
1501年7月21日
布告によりファーノ大聖堂にアンツィアーニ、コンシーリオ、市民たちが集まり、フアン・デ・ヴェラとアガピート・ゲラルディーニの前で、チェーザレ・ボルジアに子々孫々までの忠誠を誓う。
1504年~1505年
カメルレンゴに任命される。
1505年5月14日~1507年5月4日
レオン教区長に任命される。
1507年5月4日
ローマにて、死。
サンタゴスティーノ聖堂のサンタ・モニカ礼拝堂にて、埋葬。
別表記
Giovanni Vera
外部リンク
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参考文献
フアン・ロペス Juan López
概要
フアン・ロペスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
教皇庁掌璽院長 1492年8月1日~1496年2月19日
ペルージア司教 1492年12月29日~1498年10月15日
枢機卿 1496年2月19日~1501年8月5日
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ司祭枢機卿 1496年2月24日~1501年8月5日
オロロン教区長 1497年4月17日~1498年5月28日
カルカソンヌ教区長 1497年12月24日~1501年8月5日
カプア大司教 1498年10月15日~1501年8月5日
コリア教区長 1499年9月6日~1501年8月5日
ペルージア教区長 1499年8月27日~1501年8月5日
枢機卿団カメルレンゴ 1501年1月1日~1501年8月5日
サン・ピエトロ大聖堂主席司祭 1501年5月10日~1501年8月5日
年表
1492年8月
1494年7月24日
サン・ピエトロ大聖堂にてアレクサンデル6世のルクレツィア・ボルジア宛ての手紙を代筆。名前のみ教皇の直筆。
1496年2月19日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1499年5月22日(水)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行う晩祷に、レイモンド・ペラウルド、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席(木曜日)。
1499年5月23日(木)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ、ベルナルディーノ・カルバハル、レイモンド・ペラウルド、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。
1500年2月26日(水)
朝、ヨハン・ブルカルトの同僚を含む随行員を連れて、ミルヴィオ橋を3、4マイル越えたところで、チェーザレ・ボルジアを出迎える。外交官全員はミルヴィオ橋を越えて牧草地まで出る。
別表記
ホアン・ロペツ、Joan Llopis、Lopis、Cardinal of Capua、cardinalibus Capuano
外部リンク
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ベルナルディーノ・カルバハル Bernardino Carvajal
- 生没
- 1456年9月8日~1523年12月16日
- 出身
- プラセンシア
- 父
- フランシスコ・カルバハル
- 母
- アルドンカ・デ・サンデ
概要
ベルナルディーノ・カルバハルは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。フアン・カルバハルの甥。
在位
アストルガ司教 1488年8月27日~1489年1月23日
バダホス司教 1489年1月23日~1493年3月27日
カルタヘナ司教 1493年3月27日~1495年2月20日
サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿
1493年9月23日~1495年2月2日
サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ司祭枢機卿
1495年2月2日~1507年8月3日
シグエンサ司教 1495年2月20日~1511年10月24日
カメルレンゴ 1498年1月~1499年1月9日
アヴェッリーノ教区長 1503年7月28日~1505年
フリジェント教区長 1503年7月28日~1505年
エルサレム総大司教 1503年12月30日~1511年10月24日
アルバーノ司教枢機卿 1507年8月3日~1507年9月17日
フラスカーティ司教枢機卿 1507年9月17日~1508年9月22日
ロッサーノ教区長 1508年1月10日~1519年6月20日
パレストリーナ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年3月28日
サビーナ司教枢機卿 1509年3月28日~1511年10月24日
シグエンサ司教 1513年6月27日~1519年
サビーナ司教枢機卿 1513年6月27日~1521年7月24日
エルサレム総大司教 1513年6月27日~1523年2月20日
プラセンシア司教 1521年1月14日~1523年12月16日
オスティア―ヴェッレトリ司教枢機卿 1521年7月24日~1523年12月16日
首席枢機卿 1521年7月24日~1523年12月16日
フォリーニョ教区長 1522年9月26日~1523年2月4日
年表
1456年9月8日
スペインのプラセンシアに生。
14??年
サラマンカにて神学を学ぶ。
1472年
神学学士号を取得。
1478年
神学博士号を取得。
1480年
神学修士号を取得。
148?年
ローマ到着。
1482年11月1日
教皇シクストゥス4世と枢機卿の前でSermo in die omnium Sanctorumを読み上げる。
1484年初め
シクストゥス4世の侍従に任命される。
1485年9月
公衆の面前でスペイン外交官と口論し、激しい性格を表す。
1485年9月19日
教皇使節としてスペインに派遣される。
1488年初め
スペイン大使としてイタリアに戻る。
1488年12月21日
司教に叙階される。
1490年3月
グラナダ制圧を祝う祝典を主催。ピエトロ・パオロ・ポンピリオから頌詩『De triumpho Granatensi』を献呈される。
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に任命される。
1496年7月6日
フランスと戦うためにイタリアに来る神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世への使節に選ばれる。
1496年7月29日
トンマーゾ・インギラーミと儀典長ヨハン・ブルカルトと共に、ローマ出発。
1496年8月31日
メーダにて、マクシミリアン1世と会見。
1496年
ルドヴィーコ・イル・モーロの客として、ミラノに滞在。
ヴィジェーヴァノ、ジェノヴァ、コモに赴き、フランス王によるイタリア南下の脅威のためマクシミリアン1世にイタリアに残ってもらえるよう嘆願。
しかし、ヴェネツィア共和国とスフォルツァ家の支援を得られず、年末、マクシミリアン1世はティロルに戻る。
1497年3月
ローマ到着。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1499年5月23日(木)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ、レイモンド・ペラウルド、フアン・ロペス、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダと共に出席。
1504年2月17日
チェーザレ・ボルジアのオスティア到着の翌日、ベルナルディーノ・カルバハルも到着し、彼の監視にあたる。
1504年4月19日
チェーザレ・ボルジアの監視は40日間の約束だったが、教皇ユリウス2世の許可を待たず、彼を解放する。
1505年12月
19人の新枢機卿任命に反対すると、ユリウス2世に30人に増やすと脅される。
1506年8月
ユリウス2世のローマ出発時、全枢機卿が随行したが、ベルナルディーノ・カルバハルは許可なしに残る。
1507年4月
ナポリにいるフェルナンド2世・デ・アラゴンへの使節に任命される。
1507年5月下旬
ナポリ到着。
1511年10月24日
枢機卿を解任される。
1513年6月27日
枢機卿に再任命される。
別表記
カルヴァジャル、カルヴァヤル、サンタ・クローチェ枢機卿、Bernardino Lopez de Carvajal、Cardinal of Santa Croce
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
Treccani.it
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
アントーニオ・トリヴルツィオ Antonio Trivulzio
概要
アントーニオ・トリヴルツィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
コモ司教 1487年8月27日~1508年3月18日
サンタナスタジア司祭枢機卿 1500年10月5日~1505年12月1日
カメルレンゴ 1505年~1506年
サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1505年12月1日~1507年1月4日
外部リンク
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Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
アドリアーノ・ダ・カステッレジ Adriano da Castellesi
- 生没
- 1458年頃~1521年12月/1522年1月
- 出身
- コルネート
概要
アドリアーノ・ダ・カステッレジは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
教皇アレクサンデル6世の死とチェーザレ・ボルジアの重病とが時を同じくしたことに関して、彼らがコルネート枢機卿のために作った毒を誤って飲んだという噂がある。
在位
枢機卿 1503年5月31日~1521年12月/1522年1月
年表
1458年頃
コルネートにて、生。
14??年
教会首席書記官。
1489年~1514年
イングランドのサン・ピエトロの寄進徴収官に任命される。
1490年
イングランドとスコットランドの和平を取り持つため、インノケンティウス8世によりイングランドへ派遣される。ヘンリー7世の信頼を得る。
149?年
ローマ到着。
アレクサンデル6世の教皇の間付き事務官、秘書官に任命される。
1498年6月4日
新フランス王ルイ12世への教皇の祝辞を持参するため、ラグサ大司教ジョヴァンニ・サッコを筆頭とする教皇特使団の一員として、ローマ出発。
1500年
教会財務官。
150?年
教皇庁駐在イングランド大使。
150?年
イングランド王ヘンリー7世の要請により、司教位に叙階される。
1502年2月14日~1504年8月2日
ヘレフォード司教に選出される。聖別については不明。
1503年5月31日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1503年6月2日
司祭枢機卿を公表される。
1503年6月12日
サン・クリゾーゴノ司祭枢機卿の称号を受け取る。
1503年8月5日
別荘にて晩餐会を開き、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアを招待する。
1503年8月
アレクサンデル6世が病床に就いた12日以前に、アドリアーノ・ダ・カステッレジが病に倒れる。
1503年8月18日(金)
アレクサンデル6世、死。
1503年8月
アレクサンデル6世を、おそらく誤って、毒殺したとして糾弾される。
別表記
コルネート・アドリアーノ・ダ・カステッレージ、カステッリ・コルネート枢機卿、ハドリアヌス枢機卿、ダ・コルネート、Corneto Adriano da Castellesi、Adriano Castelli、Adrian、Adriano di Castello
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
シルヴィオ・パッセリーニ Silvio Passerini
- 生没
- 1469年~1529年4月20日
- 出身
- コルトーナ
- 没地
- チッタ・ディ・カステッロ
概要
シルヴィオ・パッセリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
教皇庁掌璽院長 1513年9月23日~1517年7月1日
枢機卿 1517年7月1日~1529年4月20日
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1517年7月6日~1520年9月17日
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ名誉司祭枢機卿 1520年9月17日~1529年4月20日
サルノ教区長 1518年2月18日~1519年6月20日
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1520年9月17日~1521年1月5日
ペルージア及びウンブリア教皇特使 1520年12月19日~1529年4月20日
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ司祭枢機卿 1521年1月5日~1529年4月20日
コルトーナ司教 1521年11月15日~1529年4月20日
サルノ教区長 1524年1月1日~1529年4月20日
バルセロナ教区長 1525年7月28日~1529年8月27日
アッシジ教区長 1526年1月19日~1529年4月20日
年表
1469年
コルトーナにて、生(1459年)。
1517年7月1日
レオ10世により、枢機卿に選出される。
1524年5月
この月?、クレメンス7世は、コルトーナの枢機卿シルヴィオ・パッセリーニにフィレンツェの直接の統治を委ね、彼を介して間接的にフィレンツェを支配。この措置にメディチ派の貴族にも不満生ずる。
1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボとイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年5月12日
前日届いたローマからの報、全市に広まり、反メディチ派貴族、市民が、自由を叫んで再び決起。シルヴィオ・パッセリーニらメディチ支配執行者の処遇が論議の的となる。
1527年5月15日
有力者たちから市民が反乱、暴動を起こさぬうちに支配権を蜂起しフィレンツェを退去するよう勧奨されたシルヴィオ・パッセリーニ、自身の処遇をシニョーリアに一任。
1527年5月16日
シルヴィオ・パッセリーニ、支配権の放棄・フィレンツェ退去を受諾。1527年3月1日にシニョーリアが設置したバーリアは、新政体について、コンシーリオ・マッジョーレを復活し1527年6月21日に招集すること、その組織、権限を明確にするための20名の委員をシニョーリアなど現統治機関が選出すること、百人委員会および七十人評議会を4ヶ月代行する120名のArroti(補佐官)を同じく現統治機関が選出し、4ヵ月後にはそれに代わるコンシーリオ・デリ・オッタンタをコンシーリオ・マッジョーレが選出、設置することを決議。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニ、ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボ、イッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
外部リンク
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参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
パリーデ・グラッシ Paride Grassi
概要
パリーデ・グラッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
教皇庁儀典長 1504年~1528年
ペーザロ司教 1513年~1528年
年表
1450~1460年頃
ボローニャにて、生。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
ジョルジュ・ダンボワーズ Georges d'Amboise
概要
ジョルジュ・ダンボワーズは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
グランセルヴ名誉修道院長 1477年10月22日~1492年9月3日
モントーバン司教 1484年12月17日~1491年12月2日
ナルボンヌ大司教 1492年3月14日~1494年4月21日
ルーアン大司教 1494年4月21日~1510年5月25日
枢機卿 1498年9月17日~1510年5月25日
サン・シスト司祭枢機卿 1498年9月17日~1510年5月25日
サンテヴルー名誉修道院長 1503年1月1日~1503年5月25日
アヴィニョン教皇特使 1503年12月4日~1510年5月25日
年表
1498年9月17日
アレクサンデル6世により、サン・シスト司祭枢機卿に叙階される。
1498年12月22日
チェーザレ・ボルジアから、枢機卿の赤い帽子を授与される。
1499年10月6日
1500年5月10日
この日?、ピエロ・ソデリーニをミラノに派遣し、ルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズに対してそのミラノ制圧、支配に祝意を表すると共に、1499年11月の約定に基づくピサ攻略へのフランス軍の派遣の具体的条件について交渉。王に多額の軍資金を支払うという条件を飲んで交渉、ようやく妥結。
1501年7月初め
ミラノ到着。
1501年10月13日
この日?、マクシミリアン1世とルイ12世(の代理、宰相ジョルジュ・ダンボワーズ)、イタリアの処置に関して秘密裡に協定。
1501年10月
この頃、マクシミリアン1世と協定を結んでミラノに帰ったジョルジュ・ダンボワーズのもとにアントーニオ・マレゴンネッレとベネデット・デ・ネルリを派遣し、フィレンツェの防衛、保護を要請するが、何らの言質も与えられずに終わる。
1501年10/11月
この頃?、ヴォルテッラの司教フランチェスコ・ソデリーニとルカ・デリ・アルビッツィをルイ12世と宰相ジョルジュ・ダンボワーズのもとに送り、ブロワで、ナポリ攻略の成功に対する祝意を表すると共に、チェーザレ・ボルジアのトスカーナ攻略からフィレンツェを防衛してくれるよう懇請するが、冷たく拒絶される。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1510年1月
オスマン・トルコ、フランスルイ12世、ドイツマクシミリアン1世、スペインフェルナンド2世・デ・アラゴンへの、とりわけフランスルイ12世への対抗勢力として利用するためヴェネツィアを過度に弱めない方針をとることを決めた教皇は、対ヴェネツィア戦をさらに強く断行すべしとのルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズの申し入れを拒絶。
1510年5月25日
ルイ12世の宰相、枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズ、リヨンで死。
ルイ12世をユリウス2世と和解させることに努めてきたジョルジュ・ダンボワーズの死により、以後、両者の対立、より深刻化する。
別表記
ダンボアーズ、ロアン枢機卿、monsignor di Roano
外部リンク
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Inventaire de la duchesse de Valentinois, Charlotte d'Albert』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ヤコポ・ペーザロ Jacopo Pesaro
- 生没
- 1460年~1547年
概要
ヤコポ・ペーザロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
パフォス司教 1495年?~1547年
年表
1495年7月3日?
パフォス司教に就任(1498年4月25日)。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを、枢機卿団と共に迎える。
1501年5月
ヤコポ・ペーザロはスペイン軍とともにダーダネルス海峡まで進軍し、フランス軍はミティレーニを包囲。
1501年5月13日
ブダ条約:ヴェネツィア共和国は、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ及び教皇アレクサンデル6世と同盟を結ぶ。ダルマチア防衛に対する軍事支援と引き換えに、ハンガリーに年間14万ドゥカートの支払いが定められる。
1502年
ヴェネツィア共和国がオスマン・トルコと和平することを恐れた教皇アレクサンデル6世により、ガレー船20隻(13隻)の指揮を任される。
1502年8月30日
サンタ・マウラの戦いで、教皇軍とヴェネツィア共和国軍がオスマン・トルコ軍に勝利(1502年6月28日)。
1503年8月18日(金)
アレクサンデル6世、死。
1506年
ヴェネツィア到着。
1542年
遺言書を作成。故アレクサンデル6世の魂に捧げるミサを行うためのお金を残す。
肖像
埋葬地
別表記
Giacomo Pesaro、Jacopo Pisauro、episcopus Paphensis
外部リンク
Catholic-Hierarchy
Google Books
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参考文献
『ルネッサンスの光と闇』
フランチェスコ・アリドージ Francesco Alidosi
- 生没
- 1460年頃~1511年5月24日
概要
フランチェスコ・アリドージは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1505年12月1日~1511年5月24日
年表
1505年12月1日
ユリウス2世により、枢機卿に選出される。
1511年5月15日
ボローニャを去り、ラヴェンナに移動するユリウス2世により、教皇の代理として指名される。
1511年5月21日~1511年5月23日
ボローニャでアルフォンソ1世・デステとも通じた市民の反乱が生じたため、逃亡する。ベンティヴォーリオ家は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ率いるフランス軍と共にボローニャに入り、市民の大歓迎を受ける。
別表記
アリドーシ
外部リンク
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参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
ラッファエーレ・サンソーニ Raffaele Sansoni
- 生没
- 1461年5月3日~1521年7月9日
- 父
- アントーニオ・サンソーニ
- 母
- ヴィオランテ・リアリオ
概要
ラッファエーレ・サンソーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1477年12月10日~1521年7月9日
サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ助祭枢機卿 1477年12月12日~1480年5月5日
サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ名誉助祭枢機卿 1480年~1517年
ピサ大司教 1479年9月17日~1499年6月3日
会計院長 1483年~1521年
アレッツォ教区長 1508年7月7日~1511年11月5日
ピサ大司教 1518年9月3日~1518年9月10日
性格
全く無能。
教養
フィレンツェの人文主義者ヤコポ・ブラッチョリーニが家庭教師を務めていた。
年表
1461年5月3日
生。
1477年12月10日
シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。大学生で、ピサで学びながらフランチェスコ・サルヴィアーティ大司教の邸宅で暮らす。
1478年3月5日
パッツィ家のヴィッラ・ラ・ロッジャに到着。聖職者としての地位が高いため、それに相応しい正式な歓迎を受けなければ街に入れない事情から、フィレンツェ周辺に1ヶ月以上にわたって滞在した。
1478年3月30日
モントゥーギで書簡をしたためる。
1478年4月26日(日)
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はフランチェスコ・サルヴィアーティ大司教、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコ、ヤコポ・ブラッチョリーニ。
メディチ宮殿で馬を降りる。彼らは直接サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に行くものと思われていたので、出迎える者は誰もいなかった。
パッツィ家の陰謀。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、昇天祭ミサを彼が執り行い、その後宮殿で宴会が催される予定だった。
1478年
逮捕、投獄される。
1478年6月7日
釈放される。フィレンツェの執政官及び多くの市民が、ヴェッキオ宮殿からサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂へ歩く彼に同行した。40名の護衛に付き添われていた。
1478年6月12日
フィレンツェ出発。
1478年6月13日
シエナ到着。
1488年5月
義理の叔母カテリーナ・スフォルツァにフォルリンポーポリで出迎えられ、フォルリのラヴァルディーノ要塞に滞在。
1488年10月19日
フォルリ出発。
1489年10月28日
ローマ出発。
1489年11月2日
イーモラ到着。
1494年
教皇アレクサンデル6世により、義理の叔母カテリーナ・スフォルツァをナポリ王国に味方するよう説得するため、フォルリンポーポリに派遣される。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1499年11月21日
狩りに行くと装い、ローマから逃亡。モンテ・ロトンドへ、次いでサルザーナへ。
1521年7月9日
没。
肖像
別表記
サン・ジョルジョ枢機卿、リアリオ枢機卿、ラファエロ、ラファエッロ・リアーリオ、Raffaele Riario、Raffaele Sansoni Galeoti Riario、Cardinal Sforza-Riario、cardinalis sancti Georgii
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ドメニコ・グリマーニ Domenico Grimani
- 生没
- 1461年2月19日~1523年8月27日
- 父
- アントーニオ・グリマーニ
- 母
- カテリーナ・ロレダン
概要
ドメニコ・グリマーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1493年9月20日~1523年8月27日
サン・ニコラ・フラ・レ・インマジニ副助祭枢機卿 1493年9月23日~1498年3月28日
パフォス司教 1493年12月16日~1495年7月3日
ニコシア教区長 1495年7月3日~1495年9月4日
アクイレイア総主教 1498年2月13日~1517年1月19日
サン・ニコラ・フラ・レ・インマジニ助祭枢機卿 1498年3月28日~1503年12月25日
サンタ・マリア・ディ・セスト名誉修道院長 1503年~1523年8月27日
サン・マルコ司祭枢機卿 1503年12月25日~1508年9月22日
首席司祭枢機卿 1508年~1508年9月22日
アルバーノ司教枢機卿 1508年9月22日~1509年6月3日
サン・マルコ名誉司祭枢機卿 1508年9月22日~1523年8月27日
フラスカーティ司教枢機卿 1509年6月3日~1511年1月20日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1511年1月20日~1523年8月27日
ウルビーノ教区長 1514年5月29日~1523年7月17日
セネダ司教 1517年~1520年
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1497年9月13日
アクイレイア総主教に選出される。
別表記
Grimanus
外部リンク
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
フランシスコ・デ・レモリンス Francisco de Remolins
- 生没
- 1462年~1518年2月5日
- 出身
- リェイダ
- 没地
- ローマ
概要
フランシスコ・デ・レモリンスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1503年5月31日~1518年2月5日
ペルージア教区長 1503年8月4日~1506年3月
年表
1498年5月18日
フィレンツェ到着。
1498年
ジローラモ・サヴォナローラを告訴。
1501年5月7日
ガレオット・デ・パッツィと共にフィレンツェ到着。チェーザレ・ボルジア軍のフィレンツェ領通行許可を求める。
1501年8月16日
ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの結婚契約が結ばれる。
フランシスコ・デ・レモリンスはこの結婚契約書を携え、フェッラーラのベルフィオーレの別荘に向かう。
1503年
チェーザレ・ボルジアの命で、ロマーニャから騎兵2百と歩兵1千を指揮し、オルヴィエートに駐屯。指示を待つ。
1503年5月31日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1503年11月26日
オスティアからローマ到着。チェーザレ・ボルジアの拠点の連署と降伏の保証を約束し、チェーザレ・ボルジアに対し慈悲を賜るよう教皇ユリウス2世に嘆願。
1503年12月20日
夜、ペレ・リュイス・リャンソル枢機卿と共にローマを逃亡。
ナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとへ向かい、自分たちと共にチェーザレ・ボルジアの保護を求める。
1518年2月5日
死。
別表記
フランチェスコ・ロモリーノ、レモリーノ・ダ・レリーダ、ソレントの枢機卿、Francisco de Remolins、Francesco Romolini、Romolino、Remolino da Lérida
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
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参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アントーニオ・チョッキ・デル・モンテ Antonio Maria Ciocchi del Monte
- 生没
- 1462年~1533年9月20日
- 出身
- モンテ・サン・サヴィーノ
- 父
- ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテ
概要
アントーニオ・チョッキ・デル・モンテは、チェーザレ・ボルジアのロマーニャ・ロータ長官、ロマーニャ総督を兼任。
在位
チッタ・ディ・カステッロ司教 1503年8月4日~1506年2月6日
マンフレドニア首都大司教 1506年2月6日~1511年5月30日
枢機卿 1511年3月10日~1533年9月20日
サン・ヴィターレ司祭枢機卿 1511年3月17日~1514年7月14日
サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1514年7月14日~1521年7月24日
カメルレンゴ 1516年~1517年
ノヴァーラ教区長 1516年4月19日~1521年
アルバーノ司教枢機卿 1521年7月24日~1523年12月9日
ノヴァーラ教区長 1522年9月30日~1525年12月20日
フラスカーティ司教枢機卿 1523年12月9日~1523年12月18日
パレストリーナ司教枢機卿 1523年12月18日~1524年5月20日
サビーナ司教枢機卿 1524年5月20日~1524年6月15日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1524年6月15日~1533年9月20日
次席枢機卿 1524年6月15日~1533年9月20日
リーミニ教区長 1529年4月7日~1529年5月24日
カイアッツォ教区長 1529年5月24日~1529年6月18日
ニカトロ教区長 1530年~1533年
アラトリ教区長 1530年2月4日~1530年7月1日
年表
1462年
法律家ファビアーノ・チョッキ・デル・モンテの長男としてモンテ・サン・サヴィーノに、生(1461年)。
14??年
法律を修了後、聖職者となる。
1492年
インノケンティウス8世により、preposituraに任命される。
アレッツォ、モンテプルチアーノ、モンテ・サン・サヴィーノなどの教会から聖職禄を少しずつ蓄え始める。
1493年3月27日
ロータの監査官に就任。
1498年
アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教とローマのロータ長官を約束される。
1502年7月末
枢機卿会議で、チェゼーナを拠点としたチェーザレ・ボルジアの領土のロータ司法・治安機関が設置されることになり、その長官にアントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。
教会首席書記官に任命される。
1502年9月上旬~1502年10月
この頃、チェーザレ・ボルジア、統一的司法組織ロータを設置。その長官に、ロマーニャで人望を集めていた法律家<アントーニオ・チョッキ・デル・モンテが任命される。さらに行政上の最高権限をも与えられ、ロマーニャ総督に就任。
1502年11月26日
1502年11月29日
反乱者を免じる手紙を持ち、再征服地の占有を委任されて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの降伏を話し合うため、パオロ・オルシーニと共に、ウルビーノへ向けイーモラ出発。
1502年12月6日
ウルビーノ到着。
1502年12月8日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが降伏し、アントーニオ・チョッキ・デル・モンテに地位を譲ってウルビーノを去る(1502年12月9日)。
1502年12月
この月中、ウルビーノに滞在。
1503年2月
サン・マリーノ共和国軍を強化。
1503年2月
マイオーロとサン・レオを降伏させる。
1503年7月24日
チェーザレ・ボルジアが前年ロマーニャ全域の統一的支配のため設置したRota、チェゼーナを中心にファーノ、ペーザロ、リーミニ、ファエンツァ、フォルリ、イーモラに開設され、その開設式が長官アントーニオ・チョッキ・デル・モンテの出席のもとチェゼーナで盛大に行われる。
1503年8月4日
アレクサンデル6世により、チッタ・ディ・カステッロ司教に任命される。
1503年11月
チェゼーナにいる。
1504年1月
肖像
別表記
アントーニオ・チョッキ・ダル・モンテ、Antonio da Monte San Savino、Antonio dal Monte、Antonio di Monte Sansovino、Antonio Maria del Monte
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『The Life of Cesare Borgia』
エジーディオ・ダ・ヴィテルボ Egidio da Viterbo
概要
神学者、哲学者、アウグスティヌス会修道士、枢機卿。
在位
枢機卿 1517年7月1日~1532年
年表
1465年
この年頃、ヴィテルボに生。
1517年7月1日
レオ10世により、枢機卿に選出される。
1518年4月16日
対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、レオ10世により、カルロス1世のもとへ特使として派遣される。
1532年11月12日
ヴィテルボで死(1532年11月21日)。
著作
『ヒストリエ』
本名
Egidio Canisio
別表記
エディジオ
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス精神の深層』
『Lucretia Borgia』
ジュリアーノ・チェザリーニ Giuliano Cesarini
- 生没
- 1466年5月20日~1510年5月1日
- 出身
- ローマ
- 父
- ガブリエーレ・チェザリーニ
- 母
- ゴディーナ・コロンナ
概要
ジュリアーノ・チェザリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1493年9月20日~1510年5月1日
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
埋葬地
別表記
Giuliano II Cesarini
外部リンク
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Google Books - Casa Cesarini. Ricerche e documenti
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
『Casa Cesarini. Ricerche e documenti』
『Lucretia Borgia』
スオール・コロンバ Suor Colomba
概要
スオール・コロンバは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1488年
ペルージア到着。
別表記
Colomba da Rieti
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『The Life of Cesare Borgia』
フリデリク・ヤギェロンチク Fryderyk Jagiellończyk
- 生没
- 1468年4月27日~1503年3月14日
- 出身
- クラクフ
- 没地
- クラクフ
概要
フリデリク・ヤギェロンチクは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1493年9月20日~
年表
1493年9月20日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
別表記
カシミーロ
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
フランチェスコ・アルメッリーニ Francesco Armellini
- 生没
- 1469年7月13日~1528年1月8日
- 出身
- フォッサート・ディ・ヴィーコ
- 没地
- ローマ
概要
フランチェスコ・アルメッリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
枢機卿 1517年7月1日~1528年1月8日
サン・カッリスト司祭枢機卿 1517年7月6日~1523年11月22日
ジェラーチェ教区長 1517年11月19日~1519年6月6日
オッピド・マメルティーナ教区長 1517年11月19日~1519年6月6日
アレッツォ教区長 1519年~1522年
会計院長 1521年9月13日~1528年1月8日
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ枢機卿司祭 1523年11月22日~1528年1月8日
ターラント大司教 1525年12月15日~1528年1月8日
教皇庁尚書院長代理 1526年~1528年1月8日
年表
別表記
Francesco Armellini Pantalassi de' Medici
外部リンク
ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ Bernardo Dovizi da Bibbiena
- 生没
- 1470年8月4日~1520年11月9日
- 出身
- ビッビエーナ
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・ドヴィツィ
- 母
- フランチェスカ・ヌタッリーニ
概要
ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿、著作家、外交官。ジョヴァンニ・デ・メディチの家庭教師。レオ10世の秘書。
在位
枢機卿 1513年9月23日~1520年11月9日
年表
1470年8月4日
アレッツォ近郊ビッビエーナに生(1470年8月2日)。
1494年
フェッランテ・ダラゴーナの死後、フィレンツェ共和国大使としてナポリへ行き、アルフォンソ2世・ダラゴーナを反フランス同盟に引き入れるため働きかける。。
1494年9月
フランス軍を迎え撃つため出発したカラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナについて、ロマーニャに赴く。
1494年9月23日
サン・ベルナルドの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。フェッランディーノ・ダラゴーナとカテリーナ・スフォルツァが会談。
1494年9月26日
ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年10月7日
サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。フェッランディーノ・ダラゴーナとカテリーナ・スフォルツァが合意に達する。
1494年10月8日
サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオがムリネッラ通りなど通行許可を敵に与えたと、カテリーナ・スフォルツァがフェッランディーノ・ダラゴーナに知らせる。カテリーナ・スフォルツァは教皇アレクサンデル6世から息子オッタヴィアーノ・リアリオに地位確定の決定的な勅書を求めている。
1494年10月9日
サンターガタの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年10月11日
ファエンツァの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年10月21日
ファエンツァの野営地にて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。モルダーノ劫掠について。
1513年9月23日
レオ10世により、枢機卿に選出される。
1518年4月13日
レオ10世により、対オスマン・トルコ十字軍結成を訴えるべく、フランソワ1世のもとへ特使として派遣される。
1518年12月
フランソワ1世、レオ10世の特使ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナを介して交渉を進め、自己の利益を引き出し確保しつつレオ10世との協調を深める。
1513年2月6日
ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナのCalandria(カランドゥリア)、ウルビーノの宮廷で上演。(以後、1514年~1515年ローマで、1521年~1522年ヴェネツィアで、1532年マントヴァで上演。1521年シエナで刊)。
1520年11月9日
ローマで死。
1533年
ニッコロ・マキアヴェッリのLa Mandragola、恐らくフィレンツェのBernardo di Giunta書房よりベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの喜劇Calandriaと合わせて一冊本で刊。
1554年
ニッコロ・マキアヴェッリのLa Mandragola、1531年Nicolò d'Aristotile版を底本として、ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの喜劇Calandriaと合わせて一冊本で、Girolamo Ruscelliの校訂を経てヴェネツィアのPlinio Pietrasanta書房より刊。
肖像
埋葬地
別表記
ビビエーナ、Il Bibbiena
外部リンク
GCatholic.com
Google Books - Caterina Sforza Volume III
Google Books - The Tigress of Forlì
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史Ⅴ』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
トンマーゾ・インギラーミ Tommaso Inghirami
概要
トンマーゾ・インギラーミは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1498年1月16日
ナヴォーナ広場のサン・ヤコポ・デリ・スパニョーリ教会にて、インファンテ・ロマーノのために演説を行う。
別表記
フェードラ・インギラミ、Phaedra、Phaedrus、Fedra
外部リンク
Google Books - Contemporaries of Erasmus
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス Francisco Galcerán de Lloris
- 生没
- 1470年頃~1506年7月22日
- 出身
- ヴァレンシア
- 没地
- ローマ
- 父
- ペドロ・デ・ロリス
- 母
- イサベル・デ・ボルハ・イ・ナヴァッロ
概要
フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
エルナ司教 1499年~1506年
枢機卿 1503年5月31日~
年表
1502年6月
エルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスは、教皇のコッミッサーリオ・ジェネラーレとして、ペルージア到着。ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに、教皇アレクサンデル6世の小勅書を持参し、グッビオ経由でカーリとサッソフェッラートに向かう歩兵1千5百の通行と大砲の輸送に道を提供するよう指令させるため、2名のスペイン人を送る。
1502年12月25日(日)
チェゼーナにて、ニッコロ・マキアヴェッリと話す。
1503年5月31日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
1505年12月17日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
別表記
Francisco Galcerán de Lloris y de Borja、Francisc de Lloris i de Borja、Francesco Borgia、Bishop of Euna
外部リンク
Araldica Vaticana
GCatholic.com
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
ゴーロ・ゲーリ Goro Gheri
概要
ゴーロ・ゲーリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ファーノ司教 1518年~1528年
別表記
Gregorio Ghieri、Gieri
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
ロレンツォ・カンペッジオ Lorenzo Campeggio
- 生没
- 1471/72年~1539年7月25日
概要
ロレンツォ・カンペッジオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1517年7月1日~1539年
年表
1517年7月1日
レオ10世により、枢機卿に選出される。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1529年5月31日
ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオ、トマス・ウルジーの主導下で開催される。
在位
ボローニャ司教 1523年12月2日~1525年12月20日
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
トマス・ウルジー Thomas Wolsey
- 生没
- 1473年3月頃~1530年11月29日
- 出身
- イングランド王国イプスウィッチ
- 没地
- イングランド王国レスター
概要
トマス・ウルジーは、15世紀から16世紀のイングランドの男性、聖職者。
在位
枢機卿 1515年9月10日~1530年11月29日
年表
1473年3月頃
生(1471年、1475年頃)。
1515年9月10日
レオ10世により、枢機卿に選出される。
1515年12月24日
枢機卿トマス・ウルジー、イングランドの大法官に就任。以後、政教両界に君臨(~1529年)。
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジー、ヘンリー8世とフランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世とフランソワ1世の王太子フランソワの結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世、カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1524年1月24日
教皇クレメンス7世により、終身教皇特使に任命される。
1527年5月初頭
この頃?、ヘンリー8世、教皇特使(1524年~)としての(自分の大法官)トマス・ウルジーに、妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認、宣言するよう求める。
1527年8月3~18日
ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。
1529年5月31日
ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオ、トマス・ウルジーの主導下で開催される。
1529年10月17日
ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えをクレメンス7世に認めさせることに失敗したトマス・ウルジー、イングランド法管轄下の訴訟を外国で行なうことを禁じたActs of Praemunire(上訴禁止法:1393年)に違反したかどで訴追され、失脚(在位1515年~)。
1530年11月4日
大逆罪の容疑で逮捕される。
1530年11月29日
ロンドンに護送される途上レスターで病死(1530年11月28日)。
外部リンク
ウィキペディア
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The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
シスト・ガラ Sisto Gara
- 生没
- 1473年~1517年3月8日
- 出身
- サヴォーナ
- 没地
- ローマ
- 父
- ガブリエーレ・ガラ
- 母
- ルキナ・デッラ・ローヴェレ
概要
シスト・ガラは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ヴィチェンツァ教区長 1507年9月11日~1509年6月11日
ルッカ教区長 1507年9月11日~1517年3月8日
枢機卿 1507年9月11日~1517年3月8日
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1507年9月11日~1517年3月8日
教皇庁副尚書院長 1507年9月~1517年3月8日
ベネヴェント教区長 1508年9月11日~1514年3月6日
パドヴァ司教 1509年6月11日~1517年3月8日
サルッツォ教区長 1512年9月27日~1516年3月22日
外部リンク
ジャンステファノ・フェッレーロ Gianstefano Ferrero
- 生没
- 1474年5月5日~1510年10月5日
- 出身
- ビエッラ
- 没地
- ローマ
概要
ジャンステファノ・フェッレーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1500年9月28日~1510年10月5日(任命アレクサンデル6世)
ボローニャ司教 1502年1月24日~1510年10月5日
別表記
Giovanni Stefano Ferrer
外部リンク
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参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ルイジ・デ・ロッシ Luigi de' Rossi
- 生没
- 1474年8月6日~1519年8月20日
- 父
- リオネット・デ・ロッシ
- 母
- マリーア・デ・メディチ
概要
ルイジ・デ・ロッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
サン・ソヴァール・ド・ルドン名誉修道院長 1515年1月1日~1519年8月20日
枢機卿 1517年7月1日~1519年8月20日
教皇庁掌璽院長 1517年7月1日~1519年8月20日
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1517年7月6日~1519年8月20日
肖像
外部リンク
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参考文献
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランソワ・ギヨーム・ド・カステルノウ François Guillaume de Castelnau
- 生没
- 1480年~1541年
概要
フランソワ・ギヨーム・ド・カステルノウは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1503年11月29日~
年表
1503年11月29日
ユリウス2世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
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参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ガレオット・フランチオッティ Galeotto Franciotti
- 生没
- 1480年?~1508年9月11日
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャンフランチェスコ・フランチオッティ
- 母
- ルキナ・デッラ・ローヴェレ
概要
ガレオット・フランチオッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
ルッカ司教 1503年10月~1508年9月11日
枢機卿 1503年11月29日~1508年9月11日
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1503年12月6日~1508年9月11日
ベネヴェント教区長 1504年8月30日~1508年9月11日
クレモーナ教区長 1505年5月27日~1508年9月11日
教皇庁副尚書院長 1505年5月31日~1508年9月11日
ヴィチェンツァ教区長 1507年8月~1508年9月11日
年表
外部リンク
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Treccani
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参考文献
マルコ・コルナーロ Marco Cornaro
- 生没
- 1482年~1524年
- 父
- ジョルジョ・コルナーロ
- 母
- エリザベッタ・モロジーニ
概要
マルコ・コルナーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1500年9月28日~
年表
1500年9月28日
アレクサンデル6世により、枢機卿に選出される。
外部リンク
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参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
コズメ・デ・モンセラート Cosme de Montserrat
- 生没
- 14??年~1473年
- 出身
- ラ・セルヴァ・デル・カンプ
概要
コズメ・デ・モンセラートは、15世紀のカタルーニャ出身の男性、聖職者。教皇カリストゥス3世の時代にヴァティカン図書館司書として、目録を作成し、拡大し、改善した。
在位
ジローナ司教 1458年~1459年
ヴィク司教 1459年~1464年、1472年~1473年
年表
1451年
オイバルの戦いで捕虜となったヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラを擁護し、釈放時に同行。
1455年4月4日
アルフォンス・デ・ボルジャ枢機卿の側近と共にヴァティカンに到着。
1461年9月23日
ヴィアナ公カルロス・デ・トラスタマラがバルセロナにて死。
聖性を主張。
1462年6月
カンプはコズメ・デ・モンセラートの指導の下にフアン2世・デ・アラゴンに反乱し、対抗することを宣言し、王と大司教の支配から脱する。
1462年9月
カンプが王国軍に敗れて占拠され、大司教の支配下に置かれる。
別表記
コジモ・デ・モントセラト、コシモ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ジェンティーレ・ベッキ Gentile Becchi
- 生没
- 14??年~1497年
- 出身
- ウルビーノ
- 没地
- アレッツォ
概要
ジェンティーレ・ベッキはロレンツォ・イル・マニーフィコの5歳の頃からの家庭教師、後に外交官に転ずる。
在位
アレッツォ司教 1473年10月20日~1497年
著作
『フィレンツェ司教会議』
年表
1478年11月4日
カファッジョーロでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書記であるフェデリーコ・ガッリ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国は被害者なのであり、初めに仕掛けたのはこちら側ではないと主張する。
外部リンク
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Treccani.it
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参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネッサンス夜話』
『メディチ家』
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
バルトロメオ・フローレス Bartolomeo Flores
- 生没
- 14??年~1498年7月23日
概要
バルトロメオ・フローレスは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ネピ・ストリ司教 1489年8月21日~1495年8月4日
コゼンツァ大司教 1495年8月4日~1497年9月14日
年表
1489年9月8日
司教。
1497年9月14日
教皇アレクサンデル6世により、教皇秘書官の召使3人と共に20の小勅書を捏造したとして、サンタンジェロ城に投獄される。
死ぬまで暗い部屋で、ランプの油とパンと水が与えられた。
1497年10月
カンポ・デ・フィオーリ広場にて、3人の召使が火刑にされる。
別表記
Bartholomeo Florido
外部リンク
Catholic-Hierarchy
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Treccani
参考文献
フェルナンド・デ・アルメイダ Fernando de Almeida
- 生没
- 14??年~1500年1月7日
概要
フェルナンド・デ・アルメイダは、15世紀のポルトガル人男性、聖職者。
在位
セウタ(スペイン)司教 1493年7月19年~1499年6月19日
ヌヴェール(フランス)司教 1499年6月19年~1500年1月7日以前
性格
野心家で貪欲な甚だいかがわしい人物。
年表
1499年
シャルロット・ダルブレとの結婚話に際して、どんな代償によってかは不明であるが、チェーザレ・ボルジアを援助。
1500年1月7日
ロマーニャのチェーザレ・ボルジアの野営地での自身の部屋で死。
別表記
フェルディナンド・ダルメイダ
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ペドロ・デ・アランダ Pedro de Aranda
- 生没
- 14??年~1500年8月8日
- 没地
- ローマ
概要
ペドロ・デ・アランダは、14世紀のスペイン出身の男性、聖職者。
在位
カラホラ・カルサーダ司教 1477年~1494年
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ジョヴァンニ・サッコ Giovanni Sacco
- 生没
- 14??年~1505年
概要
ジョヴァンニ・サッコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ラグサ大司教 1490年8月29日~1505年
アンコーナ・ヌマーナ教区長 1502年7月15日~1505年
別表記
Giovanni de Sacchis
外部リンク
レオネッロ・キエリカート Leonello Chiericato
- 生没
- 14??年~1506年8月19日
概要
レオネッロ・キエリカートは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アルバ司教 1472年1月8日~1484年1月19日
トロギル司教 1484年1月19日~1488年10月22日
コンコルディア司教 1488年10月22日~1506年8月19日
外部リンク
参考文献
ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニ Bernardino Bongiovanni
- 生没
- 14??年~1509年
概要
ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ヴェローナ司教 1501年6月14日~1509年
外部リンク
参考文献
アンジェロ・レオニーニ Angelo Leonini
- 生没
- 14??年~1517年
概要
アンジェロ・レオニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
ティヴォリ司教 1499年10月2日~1509年8月3日
サッサーリ大司教 1509年8月3日~1515年
外部リンク
マルコ・コッポラ Marco Coppola
- 生没
- 14??年~1527年
- 父
- フランチェスコ・コッポラ
概要
マルコ・コッポラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
モンテペローゾ司教 1498年11月26日~1527年
年表
1486年8月13日
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナの孫マリーア・ピッコローミニとの結婚のためカステル・ヌオーヴォに赴くが、大広間に花嫁の代わりに兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして父フランチェスコ・コッポラと共に逮捕され投獄される。
1491年4月
釈放される。
1491年4月24日
修道士になる。
1498年11月26日
モンテペローゾ司教に任命される。
1527年
死。
別表記
Marco Copula
外部リンク
ルカ・リナルディ Luca Rinaldi
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ルカ・リナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
トリエステ司教 1500年~1501年
外部リンク
参考文献
『君主論』
ラウラ・ボイアルド Laura Boiardo
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ジューリオ・アスカーニオ・ボイアルド
- 母
- コルネーリア・タッデア・ピオ
概要
ラウラ・ボイアルドは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵令嬢、聖職者。
年表
14??年
生。
1???年~1510年
1511年3月
訪問したベルナルディーノ・デ・プロスペリにイザベッラ・デステから贈られてきた男性の帽子用飾り5つを渡し、金細工師エルコーレ・デイ・フェデーリへの修理の仕方の指示を伝える。
1514年頃
サン・ベルナルディーノ修道院長となる。
15??年
死。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
イグナティウス・デ・ロヨラ Ignatius de Loyola
- 生没
- 1491年12月24日~1556年7月31日
- 出身
- ロヨラ
- 没地
- ローマ
概要
イグナティウス・デ・ロヨラは、15世紀から16世紀の男性、イエズス会創立者。
年表
1491年12月24日
スペイン北部バスコンガーダス バスク地方ギプスコアのアスペイティア近郊ロヨラ城に生(1491年頃)。
1521年5月20日
フランソワ1世のNavarra攻撃に対してPampelona城塞を守備していたイグナティウス・デ・ロヨラが負傷。その療養中、回心し、「神の騎士」となることを期する。
この頃?、レオ10世は、フランソワ1世のジェノヴァ支配を打倒すべく、ジェノヴァから追放されているアドルノ家などにカール5世から借りた軍を与えてジェノヴァを攻撃させるが、攻撃を察知して防備を固めていたオッタヴィアーノ・フレゴーソ指揮の軍に撃退される。
1534年8月15日
1528年以来パリ大学の学んでいたイグナティウス・デ・ロヨラ、同志F. Xavier、Petrus Faber(Pierre Favre (Lefèvre):1506年~1546年)、Nicolaus Bobadilla(1511年~1590年)、Diego Laynez((Lainez), Jacobus Laynez:1512年~1565年)、Alfonso Salmerón(1515年~1585年)、Simão (de Azevedo) Rodriguez(?~1585年)と共にパリのモンマルトルの丘で清貧、貞潔、聖地巡礼、教皇への絶対服従、救霊事業への献身の誓願を立て、新たな修道会の基を築く。
1537年6月24日
イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。
1537年9/10月
パリのモンマルトルにおける誓願(1534年)に従い聖地巡礼に向かうべく1537年1月ヴェネツィアで会したイグナティウス・デ・ロヨラとその同志9名、ヴェネツィア・トルコ両軍の対峙により巡礼船出航が不可能となったため、1年間イタリア各地で使徒活動に従事することに方針を変更すると共にサークルの名称をイエズス信徒会(Compañia de Jesús)と決める。
1539年9月3日
イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。
1539年10/11月
イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。
1541年4月19日~1541年4月23日
イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会初代総長に就任(在位~1556年)。
1548年7月31日
パウルス3世、イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。
1549年
フランシスコ・ザビエル、日本への伝道開始。
1552年8月31日
自身の発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立が、ユリウス3世により認可される。
1556年7月31日
ローマで死。
本名
Iñigo de Oñez y Loyola
別表記
イグナティウス・ロヨラ
外部リンク
参考文献
『新世紀ビジュアル大辞典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
ステファノ・ナルディーニ Stefano Nardini
- 生没
- ?~1484年10月22日
- 出身
- フォルリ
- 没地
- ローマ
概要
ステファノ・ナルディーニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1473年5月7日~
年表
外部リンク
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Rome in the footsteps of a 1750 traveller
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
ピエトロ・イスアレス Pietro Isuales
- 生没
- 14??年~1511年9月22日
概要
ピエトロ・イスアレスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
レッジョ・カラブリア大司教 1497年2月18日~1506年7月24日
枢機卿 1500年9月28日~
サン・チリアーコ・アッレ・テルメ・ディオクレツィアーネ司祭枢機卿 1500年10月5日~1507年8月18日
ヴェスプレーム教区長 1503年6月21日~1511年9月22日
サンタ・プデンツィアーナ司祭枢機卿 1507年8月18日~1511年9月22日
サン・チリアーコ・アッレ・テルメ・ディオクレツィアーネ名誉司祭枢機卿 1507年8月18日~1511年9月22日
オウレンセ教区長 1508年6月7日~1511年9月22日
メッシーナ教区長 1510年~1511年9月22日
年表
別表記
Petro Isguales、Isualles、Isvalies
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
参考文献
ヤコポ・テバルディ Jacopo Tebaldi
- 生没
- 1???年~1466年9月4日
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
概要
ヤコポ・テバルディは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1456年12月17日~
年表
1456年12月17日
カリストゥス3世により、枢機卿に選出される。
埋葬地
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ヤコポ・シルヴェストリ Jacopo Silvestri
- 生没
- 14??年~1516年
概要
ヤコポ・シルヴェストリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アラトリ司教 1493年4月15日~1516年
年表
1494年12月
マリアーノ・サヴェッリ宛てに手紙をしたためる。危険が切迫したことを痛感している人物の不安を示す、苛立ち乱れた文体で、ジューリア・ファルネーゼをできる限り早急にローマから遠ざけるよう努力すべしとの指令をアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿から受け取ったことを知らせる。ジューリア・ファルネーゼは、初めは動きたくないと「頑なに」言い張ったが、最後には勧告に従い、十分な数の馬と確かな護送隊が整い次第出発する用意であるとの意向を表明した。「そこで、早急にご夫人の意を満たしてくださるよう、閣下にお願いいたします。なぜなら、誰にとりましても名誉とはなり得ないことが起こりかねないこの地にジューリア・ファルネーゼが留まるのは嘆かわしいことに思われるからであります。このことはアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿も案じておられ、妹御がローマに留まっておられるのを懸念しておいでなのです。ジューリア・ファルネーゼに出発の手段を与えてくださるよう、心より閣下にお願いいたす次第です・・・・」。
この手紙は現在ヴァティカンの記録保管所にあるため、おそらく、教皇の手勢によって横取りされ、アレクサンデル6世に渡された。
間もなくして、ヤコポ・シルヴェストリはサンタンジェロ城に幽閉され、アレクサンデル6世が死ぬまで忘れ去られる。この手紙が直接の原因ではないかもしれないが、「ボルジア家に疑われたために」と、ある伝記作家は述べた。
別表記
ヤコベッロ・シルヴェストリ、Giacomo de Silvestri
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
フアン・マラデス Juan Marrades
- 生没
- 14??年~1499年
概要
フアン・マラデスは、15世紀頃の男性、聖職者。
在位
ソゴルブ・アルバラシン司教 1499年
別表記
ジョヴァンニ・マルラデス、Giovanni、Marradas
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ジローラモ・ポルカリ Girolamo Porcari
- 生没
- 14??年~1503年
- 父
- ドメニコ・ポルカリ
- 母
- ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ
概要
ジローラモ・ポルカリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アンドリア司教 1495年~1503年
年表
1492年
アレクサンデル6世により、教皇庁控訴院院長に任命される。
1493年9月18日
Commentarius Porciusをローマで出版。スペイン王と王妃に献呈。この中で、教皇に即位したアレクサンデル6世と、彼に忠節を誓うイタリア各国の大使について書いている。
著作
『Commentarius Porcius』
別表記
Geronimo Porcari、Hieronymus Porcius
外部リンク
GCatholic.com
Google Books
Google Books
参考文献
ジョヴァンニ・オリヴィエーリ Giovanni Olivieri
- 生没
- 14??年~1510年
概要
ジョヴァンニ・オリヴィエーリは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
イゼルニア司教 1500年4月8日~1510年
年表
1500年10月
パンドルフォ4世・マラテスタのリーミニ出発の日、チェーザレ・ボルジアによる無血開城を祝って大聖堂で荘厳ミサが歌われ、ジョヴァンニ・オリヴィエーリがリーミニの教会に対する忠誠の誓いを受ける。
この後すぐ、リーミニは教皇アレクサンデル6世に使節を送り、パンドルフォ4世・マラテスタからの解放を感謝する。
別表記
ジョヴァンニ・オリビエーリ
外部リンク
Catholic-Hierarchy
GCatholic.com
Wikipedia
参考文献
ラッツァーロ・スカランピ Lazzaro Scarampi
- 生没
- 1???年~1466年
概要
ラッツァーロ・スカランピは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
コモ司教 1460年8月20日~1466年
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
ジョヴァンニ・ネローニ Giovanni Neroni
- 生没
- 1???年~1473年7月18日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- ネローネ・ネローニ
- 母
- レオナルダ・クレーシ
概要
ジョヴァンニ・ネローニは、15世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
ヴォルテッラ司教 1450年~1461年
フィレンツェ大司教 1462年~1473年7月18日
別表記
ジョヴァンニ・ネッロ
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
フランチェスコ・ミネルベッティ Francesco Minerbetti
- 生没
- 1???年~15??年
- 父
- トンマーゾ・ミネルベッティ
概要
フランチェスコ・ミネルベッティは、16世紀頃のイタリアの男性、聖職者。
在位
サッサーリ大司教 1515年?~1525年以前
アレッツォ司教 1527年~1537年
年表
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロレンツォ・モレッリ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年10月1日