コーラ・モンターノ

Cola Montano

コーラ・モンターノ

生没年:1400年代前半~1482年3月

概要

 人文主義教師コーラ・モンターノは、生徒のジローラモ・オルジアーティローマ共和政の理念、暴君殺害を吹き込んだ。そして、1476年12月26日、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは暗殺された。

経歴

 1462年頃、進取の気性に富んだコーラ・モンターノは、ボローニャの近くにある山の村から、ミラノに移った。その地で古典ラテン語修辞学を教え始め、高い身分の若者を惹きつけた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに気に入られて庇護を受け、1468年10月14日に修辞学の教職の地位を得る。それから4年後の1472年には、幾人かの人物と共同で印刷所を設立。

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァへの憎悪

 コーラ・モンターノのこのような成功は文学界で猛烈な嫉妬を呼び寄せ、多くの敵を作ることになる。これらの敵は宮廷内に友人を持っていて、彼の幸運にも陰りが生じ始めた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァもまた背を向け始め、1474年、つまらぬ口論が元で短い期間牢獄へ送られる。1475年5月、突然パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、人々を堕落させたとして告発される。告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。この屈辱のためにガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに対し、激しい憎しみを抱く。
 ジローラモ・オルジアーティガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ殺害はコーラ・モンターノの教えによるものだとしているが、彼が実際にどこまで暴君殺しを教唆したのかについては不明である。

年表

1462年頃
ミラノに移住。古典ラテン語修辞学を教える。
1468年10月14日
修辞学の教職の地位を得る。
1472年
何人かと共同で印刷所を設立。
1474年
短い期間牢獄へ送られる。
1475年5月
パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより人々を堕落させたとして告発される。
告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。
1475年6月頃
ミラノ公国からボローニャへ追放される。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニとその使用人フランツォーネ、ジローラモ・オルジアーティカルロ・ヴィスコンティの手により、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは暗殺された。
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀
1478年7月
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと共にウルビーノを出発。トスカーナ出征の初期段階の間は同行していた。
14??年
ピストイアが降伏する覚悟でいることをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに知らせるが、フィレンツェ共和国に完全な壊滅ではなく、規模の縮小を望んでいた彼はその迅速な勝利にも熱狂しなかったという。
14??年
ジローラモ・リアリオに会い、多くの人々はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロロレンツォ・イル・マニーフィコの敵だと思っているがそうではないことを伝える。
1482年2月
ジェノヴァからローマへ旅している間、フィレンツェ共和国の諜報に密かにつけられる。
1482年2月12~15日
ポルト・エルコーレ近郊のフィレンツェ共和国領内にて取り押さえられ、直ちにフィレンツェへ移送される。ジローラモ・リアリオに雇われ、パッツィ家の陰謀に関わっていたという容疑による。
1482年
この頃、拷問され、フィレンツェ共和国及びロレンツォ・イル・マニーフィコに対する依然として続けられていた陰謀活動について白状させられる。
1482年3月
反逆罪により絞首刑。バルジェッロの窓から吊るされる。

別表記

 コーラ・デ・モンターニ

本名

 Nicola Capponi da Gaggio

外部リンク

 Storia di Milano
 Wikisource

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood

記載日

 2006年10月27日以前
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで