カストルッチョ・カストラカーニ Castruccio Castracani
- 生没
- 1281年~1328年
概要
カストルッチョ・カストラカーニはイタリアの傭兵隊長。
別表記
カストラッチョ・カストラカーネ
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスコ・ダ・ガルバニャーテ Francesco da Garbagnate
- 生没
- 1???年~1323年2月26日
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- ガスパーレ・ダ・ガルバニャーテ
概要
フランチェスコ・ダ・ガルバニャーテは傭兵隊長。
外部リンク
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
ジョヴァンニ・アクート Giovanni Acuto
- 生没
- 1320年~1394年
- 妻
- ドンニーナ・ヴィスコンティ
概要
ジョヴァンニ・アクートは、14世紀の男性、傭兵隊長。
年表
1377年
ドンニーナ・ヴィスコンティと結婚。
別表記
ジョヴァンニ・アウクット、ジョン・ホークウッド、John Hawkwood
外部リンク
ウィキペディア
Condottieri di ventura
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『傭兵の二千年史』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
アルベリーコ・ダ・バルビアーノ Alberico da Barbiano
- 生没
- 1344年頃~1406年頃
- 出身
- バルビアーノ
- 没地
- カステッロ・ディ・ピエーヴェ
- 父
- アリドージオ・ダ・バルビアーノ
- 妻
- ベアトリーチェ・ダ・ポレンタ
- 子
- ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノ
マンフレド・ダ・バルビアーノ
アントーニア・ダ・バルビアーノ
バンデッツェーテ・ダ・バルビアーノ
ジョルジョ・ダ・バルビアーノ
概要
アルベリーコ・ダ・バルビアーノは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1344年頃
バルビアーノにて生(1348年)。
1406年頃
カステッロ・ディ・ピエーヴェにて死(1409年)。
別表記
アルベリコ、アルベリーゴ、アルベリーコ・ディ・コーニオ
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Naval Data Base.
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
ニッコロ・ダ・トレンティーノ Niccolò da Tolentino
- 生没
- 1350年頃~1435年3月20日
- 出身
- トレンティーノ
- 没地
- ボルゴ・ヴァル・ディ・ターロ
- 父
- ジョヴァンニ・ダ・トレンティーノ
- 子
- ジョヴァンニ・ダ・トレンティーノ
バルドヴィーノ・ダ・トレンティーノ
クリストフォロ・ダ・トレンティーノ
概要
ニッコロ・ダ・トレンティーノは、14世紀から15世紀のイタリアの傭兵隊長。
肖像
別表記
ニッコロ・ダ・トレンティノ、Niccolò Mauruzzi、Mauruzi
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『君主論』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『メディチ家』
『ルネッサンス夜話』
ファチーノ・カーネ Facino Cane
- 生没
- 1360年~1412年5月16日
- 出身
- カザーレ・モンフェッラート
- 没地
- パヴィア
- 父
- エマヌエレ・カーネ
- 妻
- ベアトリーチェ・カーネ
概要
ファチーノ・カーネは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
アンドレア・フォルテブラッチ Andrea Fortebracci
- 生没
- 1368年7月1日~1424年6月5日
- 出身
- 教皇領ペルージア
- 父
- オッド・フォルテブラッチ
- 母
- ヤコパ・モンテメリーニ
- 妻
- エリザベッタ・デリ・アルマンニ
ニッコリーナ・ダ・ヴァラーノ - 子
- オッド・フォルテブラッチ
インナモラータ・フォルテブラッチ
ルクレツィア・フォルテブラッチ
カルロッタ・フォルテブラッチ
カストーラ・フォルテブラッチ
カルロ・フォルテブラッチ
概要
アンドレア・フォルテブラッチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
モントーネ伯 1414年8月28日~
カプア君主 1423年2月14日~
ペルージア領主
オルヴィエート領主
年表
1419年
妻エリザベッタ・デリ・アルマンニ又はデッラ・スタッファ、死。
1420年2月23日
随行を伴ってフィレンツェに入る。
1420年2月26日
教皇マルティヌス5世との和平条約に署名。アンドレア・フォルテブラッチは教皇のためにボローニャを回復し、槍兵と騎兵を自費で維持する義務を負う。教皇はボローニャとその支持者の破門を解き、ペルージアなどの代官職を授ける。
1420年3月14日
フィレンツェでグイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロと和平を結ぶ。
1420年3月28日
ペルージアで和平が宣言され、祝賀会が行われる。
1420年5月初旬
騎兵2千と歩兵2千を率いてボローニャに向かう。ルドヴィーコ・ミリオラーティ、アンジェロ・デッラ・ペルゴーラ、カルロ・マラテスタ、フェッラーラ侯ニッコロ3世・デステの軍勢が加わり、ボローニャ周辺を占領し、略奪。
1420年12月
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会でニッコリーナ・ダ・ヴァラーノと結婚式。
別表記
ブラッチョ・ダ・モントーネ、Braccio da Montone Fortebracci
外部リンク
Condottieri di ventura
Google Books
Libero Ricercatore
Geneanet
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンスの歴史』
ニッコロ・フォルテブラッチョ Niccolò Fortebraccio
- 生没
- 1375年~1435年
- 父
- ヤコポ
- 母
- ステッラ・フォルテブラッチ
- 妻
- ルドヴィーカ・グイディ
概要
ニッコロ・フォルテブラッチョは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
教会の旗手 1431年~143?年
年表
1429年3~4月
フィレンツェ共和国で、カタストへの不満が、市の内外、とりわけ支配領の小都市で高まる中、ヴォルテッラでこれに反対する反乱が発生。フィレンツェ共和国軍を指揮し、鎮圧に向かう。
1429年
フィレンツェ共和国軍を指揮し、ヴォルテッラを平定。
1429年12月15日
この日頃フィレンツェ共和国で、ルッカ制圧戦の断行が決められ、十人委員会が編成される。間もなく、フィレンツェ軍を指揮して、ルッカの領内で略奪など秩序攪乱を始める。
1433年11月
エウゲニウス4世の自分への対応に不満を強めてきたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから、ローマ近郊の攻撃を指示され、ローマ周辺を攻略。
1434年3月
コロンナ家の支援も得たフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を指揮してローマの門前に迫る。
1434年5月
エウゲニウス4世によって懐柔が試みられるが、全てこれを拒否し、ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍の応援も得てローマ周辺の攻略を続ける。
1434年6月4日
1434年10月
ルドヴィーカ・グイディと結婚。
1435年5月
ヴェネツィアとフィレンツェ、同盟を10年更新。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟のフランチェスコ1世・スフォルツァ軍とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのニッコロ・フォルテブラッチョ軍、教会領で対決。スフォルツァ軍が完勝し、アッシジなどを制圧。ニッコロ・フォルテブラッチョは重傷を負い、間もなく死。
別表記
Niccolò Fortebracci、Niccolò della Stella
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスコ・ブッソーネ Francesco Bussone
- 生没
- 1380年~1432年5月5日
- 出身
- カルマニョーラ
- 没地
- ヴェネツィア
- 妻
- アントーニア・ヴィスコンティ
- 子
- マルゲリータ・ブッソーネ
エリザベッタ・ブッソーネ
ルキナ・ブッソーネ
アントーニア・ブッソーネ
概要
フランチェスコ・ブッソーネはイタリアの傭兵隊長。
在位
ヴェネツィア軍総指揮官 1426年2月9日~1432年
後任:ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
年表
1380年
カルマニョーラに農民の子として誕生。(1382年、1385年)
139?年
12歳でファチーノ・カーネの下で傭兵としての経歴を始める。
1422年
アルベドの戦い:スイス軍は軍勢の一部である4千名(槍兵の3分の1、斧槍兵の3分の2)で戦った。イタリアの重装騎兵の突撃が槍に効果がなかったとき、ミラノの傭兵隊長である彼は、弩兵と共にスイス軍の側面に回り込み、下馬させた装甲騎兵を深い隊形に編制。この後に壮烈な戦いが続き、スイス軍が今にも破れそうになったとき、別のスイス勢がイタリア軍の側面に現れた。残りのスイス軍が襲ってくると考えた彼は後退したが、スイスの軽装部隊は大きな損害を被った。
この戦いの後のスイス軍は、短い斧槍では騎士たちに近づかれてしまい、優勢な武器を使われてしまうために、隊列に組み入れる槍兵の数を増強した。
1425年2月23日
妻子を置いてミラノを離れ、この日ヴェネツィアに着く。以後ヴェネツィアで反ミラノ、反ヴィスコンティ感情の醸成に力を尽くす。
1426年2月9日
ヴェネツィアの軍総指揮官に任じられる。(1426年2月11日)
1426年3月17日
ロンバルディア地方でフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア軍の戦闘激化し、この日、ヴェネツィア軍を指揮しブレッシャを制圧。続いてクレモーナ領でもヴィスコンティ軍を破る。
1428年4月18/19日
苦戦を強いられているフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと、戦費の負担にあえぐヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営、(1)前者はベルガモ、ブレッシャなどを後者に譲り、(2)トスカーナで奪った城塞をフィレンツェに返して以後トスカーナに介入せず、(3)前自軍総指揮官・現ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネの家族と全財産を彼に返す、など前者が全面的に譲歩する和を、フェッラーラ侯ニッコロ3世・デステと教皇マルティヌス5世の使節・枢機卿Niccolò Albergatiの仲介により、フェッラーラで結ぶ。
1431年1月
ヴェネツィア共和国とフィレンツェ共和国は共に戦争態勢を整え、フランチェスコ・ブッソーネが同盟軍の最高指揮官となる。
1431年1月26日
サン・フランチェスコ・グランデ教会に墓を作るための大理石を6つ、20リラ16ソルドで購入。
1431年5月22日~23日
クレモーナ近郊のポー川で、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ニッコロ・ピッチニーノら指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア軍、大激戦。ヴェネツィア軍、未曾有の惨敗。
近くに陣を敷いていながらこの戦闘に駆けつけず、ヴェネツィアで、フランチェスコ1世・スフォルツァと通謀しているのではないかとの疑念と不信広まる。
1432年4月8日
忠誠を疑われ、ヴェネツィア共和国から死刑を宣告される。
1432年5月5日
ヴェネツィアのサン・マルコ広場で斬首され、その全財産を没収される。
1432年5月
サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬される。
妻アントーニア・ヴィスコンティが亡父の遺体をミラノに移し、サン・フランチェスコ・グランデ教会の左側の入って1つ目の一族の礼拝堂に埋葬。
別表記
カルマニョラ、カルマニョーラ、カラマニョーラ伯、カラマニューラ伯、フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ、フランチェスコ・バルバヴァーラ、Francesco Barbavara、il Carmagnola
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『マキアヴェリ』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
ミケーレ・アッテンドロ Michele Attendolo
- 生没
- 1390年頃~1451年
概要
ミケーレ・アッテンドロはイタリアの傭兵隊長。
年表
1446年5月初め
フランチェスコ1世・スフォルツァ、娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの婚資としてフランチェスコ1世・スフォルツァに与えたクレモーナを奪うべく、フランチェスコ・ピッチニーノとルイジ・ダル・ヴェルメ指揮の軍を送る。
これを知ったヴェネツィアは、フランチェスコ1世・スフォルツァに抗議の使者を送るが無視され、ミケーレ・アッテンドロ(1390年以前~1451年)指揮の軍をクレモーナ防衛に送る。
1446年9月28/29日
ミケーレ・アッテンドロ指揮のヴェネツィア軍、クレモーナ近郊カザルマッジョーレでフランチェスコ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を大破。
1447年3月4日
フランチェスコ1世・スフォルツァのフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティへの接近の動きに不信を募らせ、両者が結んだ場合はフランチェスコ1世・スフォルツァからクレモーナを奪うことでフィレンツェと合意していたヴェネツィア、この日、クレモーナにミケーレ・アッテンドロ指揮の軍を送る。
肖像
別表記
ミケーレ・デリ・アッテンドリ、Michelotto、Attendolo da Cotignola
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
ルイジ・ダル・ヴェルメ Luigi dal Verme
- 生没
- 1390年頃~1449年9月4日
- 没地
- メルツォ
- 父
- ヤコポ・ダル・ヴェルメ
- 妻
- ヴァルプルガ・スコッティ
ルキナ・ブッソーネ - 子
- ピエトロ・ダル・ヴェルメ
アントーニア・ダル・ヴェルメ
タッデオ・ダル・ヴェルメ
ジョヴァンニ・ダル・ヴェルメ
カテリーナ・ダル・ヴェルメ
ヤコポ・ダル・ヴェルメ
概要
ルイジ・ダル・ヴェルメはイタリアの傭兵隊長。
年表
別表記
Ludovico
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
バルトロメオ・コッレオーニ Bartolomeo Colleoni
- 生没
- 1400年~1475年
- 子
- カッサンドラ・コッレオーニ
概要
バルトロメオ・コッレオーニはイタリアの傭兵隊長。主にヴェネツィア共和国に仕えていた。
年表
1447年10月半ば
アスティを根拠地としてアレッサンドリアを攻撃するなどミラノ領侵攻を本格化させるオルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、シャルル7世軍を、指揮下のミラノ=アンブロジアーナ共和国軍が破る。
1448年
カラヴァッジョでフランチェスコ1世・スフォルツァに敗退。
1456年
1457年
ヴェネツィア共和国にヴェネツィア軍総司令官として雇われる。確定期間は3年、予定期間は2年。
1466年
フィレンツェの被追放者たちは、ヴェネツィアに結集。1434年の被追放者とも結び、ヴェネツィアに反フィレンツェ軍事行動を強く勧奨し続ける。
ヴェネツィアは、自軍の指揮官バルトロメオ・コッレオーニを解任してフィレンツェの被追放者たちに与え、その下での軍の結集、強化を支援。
1467年1月4日
1467年5月10日
指揮下のフィレンツェ被追放者軍、エルコーレ1世・デステ及びアレッサンドロ・スフォルツァらの軍も加え、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。
1467年7月23日
指揮下のフィレンツェ被追放者軍とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ・フェッランテ・ダラゴーナ・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ同盟軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、両軍の戦闘、断続的に続く(1467年~1468年)。
肖像
別表記
バルトロメーオ・ダ・ベルゴモ、コレオーニ、ディ・バルトロメーオ・コレオーニ、コレオニ、バルトロメーオ・コリオーネ・ディ・ベルガモ、Coglione
外部リンク
ウィキペディア
Condottieri di ventura
Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
『ルネッサンス夜話』
バルダッチョ・ダンギアーリ Baldaccio d'Anghiari
- 生没
- 1400年頃~1441年9月6日
- 出身
- アンギアーリ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ピエロ・ブルーニ
概要
バルダッチョ・ダンギアーリはイタリアの傭兵隊長。
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
フランチェスコ・シモネッタ Francesco Simonetta
- 生没
- 1???年~1460年7月7日
概要
フランチェスコ・シモネッタは、15世紀頃のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1460年7月7日
ピウス2世及びフランチェスコ1世・スフォルツァからの援軍を含むフェッランテ・ダラゴーナ指揮の軍が、ジャン・ダンジュー指揮の軍とナポリ近郊サルノで激戦の後、完敗する。フェッランテ・ダラゴーナ王の主要な傭兵隊長フランチェスコ・シモネッタはこの戦いで戦死。
別表記
チェッコ、チッコ・シモネッタ、Cecco、Cicco Simonetta
参考文献
『フィレンツェ史』
クリストフォロ・ダ・トレンティーノ Cristoforo da Tolentino
- 生没
- 1???年~1462年7月24日
- 没地
- トレヴィーゾ
- 父
- ニッコロ・ダ・トレンティーノ
概要
クリストフォロ・ダ・トレンティーノはイタリアの傭兵隊長。
在位
トレンティーノ領主 1434年~1439年
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『ルネッサンス夜話』
フランチェスコ・セッコ Francesco Secco
- 生没
- 1423年~1496年
- 出身
- カラヴァッジョ
- 没地
- ヴィコピザーノ
- 妻
- カテリーナ・ゴンザーガ
- 子
- パオラ・セッコ
概要
フランチェスコ・セッコは、15世紀のイタリアの男性、ジローラモ・リアリオの傭兵隊長。
戦歴
埋葬地
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
ジャナントーニオ・セッコ Gianantonio Secco
- 生没
- 1???年~1498年
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- ノビーレ・アントーニオ・セッコ
- 母
- アナスタージア・ダ・トレンティーノ
- 妻
- フィオルベッリーナ・デ・カイミ
- 子
- アントーニオ・セッコ
概要
ジャナントーニオ・セッコは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1494年10月23日
パヴィアにて、ルドヴィーコ・イル・モーロが民衆に歓呼で迎えられる様子を見る。
別表記
Giovanni Antonio Secco Borella、conte Borrella、Count Borella
外部リンク
グイド2世・トレッリ Guido II Torelli
- 生没
- 14??年~1501年5月
- 没地
- グアスタッラ
- 父
- クリストフォロ1世・トレッリ
- 母
- タッデア・ピオ
- 妻
- フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
- 子
- マルカントーニオ・トレッリ
オノラート・トレッリ
イッポーリタ・トレッリ
エリザベッタ・トレッリ
ジネヴラ・トレッリ
概要
グイド2世・トレッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
I Conti Torelli
アルベルティーノ・ボスケッティ Albertino Boschetti
- 生没
- 1450年頃~1506年9月12日
- 出身
- サン・チェザーリオ・スル・パーナロ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- アルベルティーノ4世・ボスケッティ
- 母
- ジョヴァンナ・ランゴーニ
- 子
- ロベルト・ボスケッティ
シジスモンド・ボスケッティ
ヤコポ・ボスケッティ
ジョヴァンナ・ボスケッティ
概要
アルベルティーノ・ボスケッティはイタリアの傭兵隊長。
年表
1506年7月
イッポーリト・デステを毒殺し、それに対する罰から逃れるためアルフォンソ1世・デステをも殺害し、フェッラーラ公にフェッランテ・デステを据えようとするジューリオ・デステの陰謀に加わっていたが、発覚。フェッラーラ近辺で捕らえられる。
1506年9月12日
死刑を宣告され、2人の同僚と共にラジオーネ宮殿の前で斬首される(1506年8月)。
外部リンク
Condottieri di ventura
SAN CESARIO.NET
Treccani
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
リヌッチョ・ダ・マルチアーノ Rinuccio da Marciano
- 生没
- 1462年8月~1501年7月
- 父
- アントーニオ・ダ・マルチアーノ
概要
リヌッチョ・ダ・マルチアーノはイタリアの傭兵隊長。
年表
1500年5月
フィレンツェ共和国との傭兵契約満了(1500年6月)。
1501年7月24日
チェーザレ・ボルジア含むルイ12世軍の前にカプア陥落(1501年7月25日)。リヌッチョ・ダ・マルチアーノ捕らえられる。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『The Life of Cesare Borgia』
コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテ Consalvo di Mirafonte
- 生没
- 1???年~1510年頃
概要
コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテは、15世紀から16世紀の男性、傭兵隊長。
年表
14??年
チェーザレ・ボルジアに雇われる。
1500年1月
チェーザレ・ボルジアにより、ラヴァルディーノ要塞の修復とフォルリの統治を任命される。
1500年1月
エルコーレ・ベンティヴォーリオ指揮の騎兵5百と共に、コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテは歩兵3百でフォルリに駐屯。
1503年10月
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィにフォルリを襲撃され、ラヴァルディーノ要塞に籠城。
1504年1月
別表記
Gonsalvo de Mirafuente
外部リンク
参考文献
ラニエーリ・オルランディ Ranieri Orlandi
- 生没
- 1???年~1520年8月
- 父
- ピエトロ・パオロ・オルランディ
概要
ラニエーリ・オルランディは、16世紀頃のイタリアの男性、傭兵隊長。
別表記
Ranieri della Sassetta
外部リンク
参考文献
メルキオッレ・ラマッツォット Melchiorre Ramazzotto
- 生没
- 1464年~1539年
- 出身
- スカリカラジーノ
- 没地
- ピエトラマーラ
概要
メルキオッレ・ラマッツォットはイタリアの傭兵隊長。
年表
1501年
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにより、チェーザレ・ボルジア軍に対し防衛するためファエンツァに送られる。
1501年4月26日
ファエンツァ陥落。
1501年4月
チェーザレ・ボルジアに仕える。
1501年5月
外部リンク
ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコ Giovanni Battista da Montesecco
- 生没
- 14??年~1478年5月4日
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコはイタリアの傭兵隊長。
年表
1477年5月か6月頃
ヴァティカン宮殿の大司教の部屋で、フランチェスコ・サルヴィアーティに会う。
2、3週間後に、ジローラモ・リアリオの邸宅で、ジローラモ・リアリオとフランチェスコ・サルヴィアーティに会う。
1477年真夏
フィレンツェに到着。メディチ宮殿を訪れ、ロレンツォ・イル・マニーフィコから打ち解けた態度で出迎えられる。ジローラモ・リアリオにイーモラの様子を報告するため、現地を訪れるよう勧められる。
この面会後、みすぼらしい宿屋オステリーア・デッラ・カンパーナに身分を隠して泊まる。そこへ日が落ちてから現れたヤコポ・デ・パッツィを説得するが、最終的な合意には至らず。
イーモラを訪問し、数日滞在。
帰路の途中でカファッジョーロのメディチ家別荘に立ち寄り、イーモラ訪問が首尾よくいったことを報告するという口実でロレンツォ・イル・マニーフィコとジュリアーノ・デ・メディチに会う。
その後メディチ兄弟に同行してフィレンツェに戻る。
1477年8月下旬
ヤコポ・デ・パッツィの邸宅で、ヤコポ・デ・パッツィ、フランチェスコ・デ・パッツィと会合。
1477年8月27日
ローマに戻る。
1478年4月26日(日)
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、フランチェスコ・サルヴィアーティ大司教、ヤコポ・ブラッチョリーニ。
1478年5月4日
陰謀の計画に関する自白書を看守が見ている前で書き記し、手渡した。この文書は教皇シクストゥス4世とその一味を告発するもので、そこにはフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロも含まれていた。
1478年8月4日
フィレンツェ共和国大使館事務局が自白書を印刷、公表。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに関する文章は注意深く削除されていた。有罪の証拠となる文書の改竄版は、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが面目を失わずに寝返ることができる余地を残しておくという目的に適うものだった。
別表記
モンテセッコ伯ジャン・バッティスタ、ジョヴァンニ・ダ・モンテシッコ、ジョヴァン・バッティスタ、Giovann Battista
外部リンク
Condottieri di ventura
Google Books
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ゲオルク・フォン・フルンズベルク Georg von Frundsberg
- 生没
- 1473年9月24日~1528年8月20日
概要
ゲオルク・フォン・フルンズベルクはカール5世の傭兵隊長。マルティン・ルターに共感を抱く。
年表
1526年11月初旬
ルター派信徒で教皇に反感を抱く傭兵(Landsknecht)を率いてイタリアに侵攻し、まずロンバルディアを目指す。
1526年11月下旬
ローマを目指す指揮下のカール5世軍は、ポー河を渡って進軍すべくBorgoforteに近づくが、コニャック同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレはこの地に陣を敷きながら抗戦を躊躇う。
1526年11月28日
指揮下のカール5世軍は、Borgoforteでポー河を渡る。
この頃すでに同盟軍の劣勢、カール5世軍の進撃の伝わったローマ及びフィレンツェで、市民の不安、動揺、日毎に強まる。
1527年1月30日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍が、ミラノを出発。
1527年2月9日?
ピアチェンツァ近郊でシャルル・ド・ブルボン指揮の軍と合流。各地で略奪を繰り返しながらボローニャに向かう。
教皇軍の一部は、急ぎボローニャ市街の防衛、確保に向かう。
別表記
ゲオルグ、フルンズベルグ、フランツベルク
外部リンク
ウィキペディア
Condottieri di ventura
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
タッデオ・デッラ・ヴォルペ Taddeo della Volpe
- 生没
- 1474年~1534年1月
概要
タッデオ・デッラ・ヴォルペは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
戦歴
年表
1501年4月
ファエンツァ攻撃中、弓矢が当たり片目を失うが勇猛に戦闘続行。
1503年11月末頃
ミケーレ・ダ・コレーリアと共に騎兵7百を指揮し、ロマーニャ進軍中、トスカーナでジャンパオロ・バリオーニ指揮のフィレンツェ軍に敗退し、捕らえられる。
1503年
フィレンツェ共和国に雇われることを拒否。
フィレンツェ共和国から釈放される。
1503年12月
フランス軍として軽騎兵を率い、ナポリ王国で戦う。
1503年12月28日
ガリリャーノの戦いに参加。
外部リンク
Condottieri di ventura
Visitare Imola
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『The Life of Cesare Borgia』
ジョヴァンニ・サッサテッリ Giovanni Sassatelli
- 生没
- 1480年~1534年
- 出身
- イーモラ
- 父
- フランチェスコ・サッサテッリ
- 妻
- ビアンカ・アニェーゼ
ラウラ・デステ
所属:グエルフィ
概要
ジョヴァンニ・サッサテッリはイタリアの傭兵隊長。
別表記
Cagnaccio
外部リンク
AUSER VOLONTARIATO IMOLA
Geneanet
Google Books
Visitare Imola
ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノ Ludovico da Barbiano
- 生没
- 1???年~1423年
- 出身
- バルビアーノ
- 没地
- ルーゴ
- 父
- アルベリーコ・ダ・バルビアーノ
- 母
- ベアトリーチェ・ダ・ポレンタ
- 妻
- イザベッラ・マンフレディ
- 子
- ジョヴァンニ・ダ・バルビアーノ
アルベリーコ・ノヴェッロ・ダ・バルビアーノ
ラニエーリオ・ダ・バルビアーノ
マラテスタ・ダ・バルビアーノ
ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
概要
ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1423年
ルーゴにて、死(1419年5月25日以降)。
別表記
Ludovico da Zagonara
外部リンク
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Treccani
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オッド・フォルテブラッチ Oddo Fortebracci
- 生没
- 1410年2月15日~1425年2月
- 父
- アンドレア・フォルテブラッチ
- 妻
- エリザベッタ・トリンチ
概要
オッド・フォルテブラッチはイタリアの傭兵隊長。
年表
1410年2月15日
チッタ・ディ・カステッロにて、生(1409年2月)。
1417年3月頃
エリザベッタ・トリンチと結婚。
1425年2月1日
フィレンツェ軍を率いていたが、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの軍にVal di Lamoneで大敗を喫し、ニッコロ・ピッチニーノは捕虜となる。
1425年2月
死。
別表記
オッド・ダ・モントーネ、Oddo da Montone、Oddo di Montone
外部リンク
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Geneanet
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
カルロ・フォルテブラッチ Carlo Fortebracci
- 生没
- 1421年9月1日~1479年6月
- 父
- アンドレア・フォルテブラッチ
- 母
- ニッコリーナ・ダ・ヴァラーノ
- 子
- ベルナルディーノ・フォルテブラッチ
ブラッチョ・フォルテブラッチ
概要
カルロ・フォルテブラッチは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
別表記
カルロ・ダ・モントーネ、モントーネ伯カルロ、Carlo da Montone
外部リンク
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Geneanet
Treccani
参考文献
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ベルナルディーノ・フォルテブラッチ Bernardino Fortebracci
- 生没
- 1441年~1531年5月
- 没地
- パドヴァ
- 父
- カルロ・フォルテブラッチ
- 妻
- パンドルフィーナ・バリオーニ
アクイリーナ・ブオンフィオ
概要
ベルナルディーノ・フォルテブラッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
別表記
Bernardino di Montone
外部リンク
マルシリオ・トレッリ Marsilio Torelli
- 生没
- 14??年~1489年8月15日
- 出身
- モンテキアルーゴロ
- 没地
- キエーティ
- 父
- クリストフォロ1世・トレッリ
- 母
- タッデア・ピオ
- 妻
- パオラ・セッコ
- 子
- クリストフォロ2世・トレッリ
フランチェスコ1世・トレッリ
バルバラ・トレッリ
オルシーナ・トレッリ
エットーレ・トレッリ
概要
マルシリオ・トレッリは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
別表記
モンテキァルゴロ伯マルシーリオ・ディ・クリストフォロ・トレッリ
外部リンク
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フィリッポ・マリーア・デ・ロッシ Filippo Maria de' Rossi
- 生没
- 1465年~1529年
- 出身
- パルマ
- 没地
- コルニーリオ
- 父
- グイド・デ・ロッシ
- 母
- アンブロジーナ・ボッロメオ
- 女
- アントーニア
- 子
- マルシーリオ・デ・ロッシ
カミッロ・デ・ロッシ
概要
フィリッポ・マリーア・デ・ロッシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
年表
1464年9月10日
アンブロジーナ・ボッロメオと結婚。
別表記
Guido Rossi di San Secondo
外部リンク
ジャンニッコロ・トリヴルツィオ Gianniccolò Trivulzio
- 生没
- 1479年~1512年5月
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- サヴォイア公国トリノ
- 父
- ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ
- 母
- マルゲリータ・コッレオーニ
- 妻
- パオラ・ゴンザーガ
- 子
- イッポーリタ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ビアンカ・ルチア・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
概要
ジャンニッコロ・トリヴルツィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ムゾッコ伯
別表記
ジョヴァン・ニッコロ・トリヴルツィオ、Giovanni Niccolò、Gian Niccolò Trivulzio
外部リンク
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Famille de Carné
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ジローラモ・デッラ・ペンナ Girolamo della Penna
- 生没
- 1470年~1525年頃
概要
ジローラモ・デッラ・ペンナは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
別表記
ジェローニモ・ダラ・ペンナ、Gerolamo della Penna、Girolamo dalla Penna、Girolamo degli Arcipreti
外部リンク
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Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
アルベリーコ・ノヴェッロ・ダ・バルビアーノ Alberico Novello da Barbiano
- 生没
- 1???年~1440年頃
- 父
- ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノ
- 母
- イザベッラ・マンフレディ
- 妻
- アントーニア・マンフレディ
- 子
- ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノ
ガレオット・ダ・バルビアーノ
カルロ・ダ・バルビアーノ
概要
アルベリーコ・ノヴェッロ・ダ・バルビアーノは、14~15世紀頃のイタリアの男性、傭兵隊長。
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
ピエトロ・ダル・ヴェルメ Pietro dal Verme
- 生没
- 1445年~1485年10月17日
- 父
- ルイジ・ダル・ヴェルメ
- 母
- ルキナ・ブッソーネ
- 妻
- カミッラ・デル・マイーノ
キアラ・スフォルツァ - 子
- フランチェスコ・ダル・ヴェルメ
概要
ピエトロ・ダル・ヴェルメはイタリアの傭兵隊長。
年表
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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ボルソ・ダ・コッレッジョ Borso da Correggio
- 生没
- 14??年~1504年
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- マンフレド1世・ダ・コッレッジョ
- 母
- アニェーゼ・ピオ
- 妻
- フランツィスカ・フォン・ブランデンブルク
- 子
- アニェーゼ・ダ・コッレッジョ
マンフレド・ダ・コッレッジョ
マッダレーナ・ダ・コッレッジョ
カテリーナ・ダ・コッレッジョ
マルゲリータ・ダ・コッレッジョ
ジャンフランチェスコ・ダ・コッレッジョ
概要
ボルソ・ダ・コッレッジョは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
コッレッジョ伯爵 1474年~1504年
年表
1477年
バルバラ・フォン・ブランデンブルクの姪フランツィスカ・フォン・ブランデンブルクと結婚。
1493年8月25日
フェッラーラ公エルコーレ1世・デステとアルフォンソ1世・デステに随行して、パヴィア到着。
1493年8月28日
最も誉れある婦人、名誉ある淑女へ。
25日パヴィアに到着し、優れた君主や淑女にいつも通りの作法で迎えられました。どちらの公爵夫人もご健勝で、ミラノ公妃イザベッラ・ダラゴーナは間もなくお子様のご誕生が期待され、我らがベアトリーチェ・デステ公妃は相変わらず快活で陽気でございます。27日に喜劇「捕虜」が上演され、とてもうまく演じていました。今日「商人」が予定されており、同様に成功することを願っています。明日は3つ目の演目が出されます。私たちがどのように過ごしているかというと、朝早くから乗馬し、夕食後は「スカルティーノ」か「死者復活」か「帝国」などの札遊びを就寝時間まで続けます。原則としてバーリ公ルドヴィーコ・イル・モーロ、ベアトリーチェ・デステ公妃がご一緒に、アンブロージョ・ダ・コルテとその場にいるどなたかもう1人がなさいます。今日はあなた様のお父上エルコーレ1世・デステ公、アルフォンソ1世・デステ様、ガレアッツォ・ヴィスコンティ殿に対し、ガレアッツォ・サンセヴェリーノ殿、ジローラモ・トゥッタヴィッラ様、私でペル・メルをしました。ミラノ公妃はこういった遊戯には参加せず、観劇だけなさいます。バーリ公はこれまで以上に公妃に優しく、いつも触れたり抱きしめたりなさっています。あなた様のお父上である我が主は、喜劇にかなり熱心でございます。それが終わると、狩りを始める予定で、鶉狩りに備えます。
外部リンク
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Treccani
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ニッコロ・ダ・コッレッジョ Niccolò da Correggio
- 生没
- 1450年~1508年
- 出身
- フェッラーラ
- 没地
- ローマ
- 父
- ニッコロ1世・ダ・コッレッジョ
- 母
- ベアトリーチェ・デステ
- 妻
- カッサンドラ・コッレオーニ
- 子
- ジャン・ガレアッツォ・ダ・コッレッジオ
ベアトリーチェ・ダ・コッレッジオ
エレオノーラ・ダ・コッレッジョ
コルネーリア・ダ・コッレッジオ
イゾッタ・ダ・コッレッジオ
概要
ニッコロ・ダ・コッレッジオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
コッレッジョ伯爵 1452年~1508年
著作
『アウロラ』又はFavola di Cefalo 1486年 牧歌劇
『プシケ』恋愛詩
年表
1450年
フェッラーラにて、生。
1471年
1473年
シジスモンド・デステ率いる、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステの花嫁エレオノーラ・ダラゴーナ出迎え一行に参加。
1473年5月半ば
ナポリ到着。
1482年
アルジェンタで捕虜になり、ヴェネツィアに連行される。
1483年
釈放される。
1491年1月17日(月)
パヴィアのヴィスコンティ城でのルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステの結婚式に参列。出席していた宮廷人の中で最も美男子で、洗練された服装であったと言われる。
149?年
ルドヴィーコ・イル・モーロの代理として表敬するため、リヨンのフランス王シャルル8世のもとへ行く。
1499年10月6日
1499年
1501年
1501年12月25日(土)
サン・ピエトロ大聖堂での降誕祭のミサに出席。
1502年
ルクレツィア・ボルジアをフェッラーラへ案内。
1508年
ローマにて、死。
別表記
コレッジオ、コルレッジオ、Niccolò II da Correggio、Nicolaus de Corrigia
外部リンク
Antenati
Condottieri di ventura
Geneanet
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
I dizionari Zanichelli
JRank
Treccani
trionfi
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
グイド・ランゴーニ Guido Rangoni
- 生没
- 1???年~1467年10月7日
- 父
- ヤコピーノ・ランゴーニ
- 母
- フィーナ・ブッツァカリーニ
- 妻
- ジョヴァンナ・ボイアルド
- 子
- ニッコロ・ランゴーニ
ベアトリーチェ・ランゴーニ
ドミティッラ・ランゴーニ
エミリア・ランゴーニ
ガブリエーレ・ランゴーニ
概要
グイド・ランゴーニは、15世紀頃のイタリアの傭兵隊長。
埋葬地
モデナのサン・フランチェスコ教会
別表記
グィド
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
Wikipedia
参考文献
『ルネッサンス夜話』
メルキオッレ・トレヴィサン Melchiorre Trevisan
- 生没
- 14??年~1500年
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ケファロニア島
概要
メルキオッレ・トレヴィサンは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長、ヴェネツィア共和国元老院プロッヴェディトーレ。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
別表記
マルキオンネ・トリヴィサーノ、Marchionne Trivisano
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ジャンフランチェスコ・ダ・トレンティーノ Gianfrancesco da Tolentino
- 生没
- 1???年~1487年8月10日
- 出身
- トレンティーノ
- 没地
- カッリアーノ
- 父
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・トレンティーノ
- 母
- ラウラ・シニバルディ
- 妻
- パオラ・デリ・ウベルティ
概要
ジャンフランチェスコ・ダ・トレンティーノは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1479年10月13日
ミラノでジローラモ・リアリオ宛書簡をしたためる。
1479年10月14日
ミラノでジローラモ・リアリオ宛書簡をしたためる。
1479年10月18日
ミラノでジローラモ・リアリオ宛書簡をしたためる。
1480年
ジローラモ・リアリオにより、フォルリの代官に任命される。
1480年10月13日
2人の司祭と城主の親族2名が武装兵60人を率い、オルデラッフィ家のためにラヴァルディーノ要塞の奪取を試みようとしていることが、3番目の司祭の密告により発覚。ジローラモ・リアリオに報告。
城主の親族2名はスキアヴォーニア門で、他はラヴァルディーノ要塞で絞首刑に処し、司祭2名はマルケに追放。又は、2名の司祭を絞首刑にし、残りの兵士たちを追放。
1480年12月13日
藁で隠された武器を積んだ荷車が3台、スキアヴォーニア門に到着し、民衆の蜂起を促す計画があったが発覚。
1480年12月22日
陰謀を企てた5人の男をシニョーリア宮殿の窓から吊るし、他3名は追放処分。
1481年9月
イーモラからフォルリに向かうジローラモ・リアリオとカテリーナ・スフォルツァを暗殺しようとする動きがあったが、未然に防ぐ。
1481年10月15日
陰謀を企てた5人の男をシニョーリア宮殿の窓から吊るし、他は追放と罰金処分。
1486年8月
ジローラモ・リアリオの雇用を離れる。
1486年
ヴェネツィア共和国に雇われる。
別表記
ジャン・フランチェスコ、ジョヴァン・フランチェスコ、ジャン・フランチェスコ・マウルッツィ、Giovann Francesco、Gianfrancesco Mauruzzi、Gian Francesco Maruzzi、Il Tolentino
外部リンク
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Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
コスタンティーノ・アリアニティ Costantino Arianiti
- 生没
- 1456年頃~1530年5月8日
- 出身
- ドゥラッツォ
- 没地
- モンテフィオーレ・コンカ
- 父
- ジェルジ・アリアニティ
- 母
- ピエトリーナ・フランコーネ
- 妻
- フランチェスカ・パレオロガ
- 子
- アリアニト・アリアニティ
アンドロニカ・アリアニティ
ペンテジーレア・アリアニティ
イッポーリタ・アリアニティ
ポリッセーナ・アリアニティ
デイアーニラ・アリアニティ
エレーナ・アリアニティ
概要
コスタンティーノ・アリアニティは、15世紀から16世紀のアルメニア人傭兵隊長。
年表
1489年
フランチェスカ・パレオロガと結婚。
別表記
コンスタンティノス・コムネノス・アリアニテス、コムネノ、Κωνσταντῖνος Κομνηνός Ἀριανίτης、Constantine Komnenos Arianites、Comneno、Cominato
外部リンク
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィ Antonio Maria Ordelaffi
- 生没
- 1460年5月3日~1504年2月6日
- 没地
- フォルリ
- 父
- フランチェスコ4世・オルデラッフィ
- 母
- エリザベッタ・マンフレディ
概要
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
フォルリ領主 1503年10月22日~1504年2月6日
年表
1460年5月3日
生。
146?年
フォルリのサン・メルクリアーレ修道院にて、ラティーノ・オルシーニ枢機卿とバルトロメオ・コッレオーニを代父として、洗礼を受ける。
1466年
叔父ピーノ3世・オルデラッフィにより、父フランチェスコ4世・オルデラッフィ、母エリザベッタ・マンフレディと共に監禁される。
1466年4月22日
1469年4月
母エリザベッタ・マンフレディと兄弟たちと共に、ファエンツァへ逃亡。
1477年12月
母方のおじカルロ2世・マンフレディがファエンツァをガレオット・マンフレディに奪われたため、カルロ2世・マンフレディについてフェッラーラに向かう。
親族と共にファーノに行く。
1477年
ナポリ王に雇われる。
1480年2月10日
1480年3月
シニバルド2世・オルデラッフィの継母ルクレツィア・ピコによる摂政政治に不満を持つフォルリにより呼ばれ、兄弟フランチェスコ・オルデラッフィらと共にナポリ王国を出発。
ファーノ到着。
支援者のいるモディリアーナ到着。
1480年7月
おじガレオット・マンフレディとプレトーネ・ダ・モディリアーナから軍の支援を受け、フォルリに入り、ラヴァルディーノ要塞を攻囲。
1480年
甥のフォルリ領主シニバルド2世・オルデラッフィ、死。
教皇シクストゥス4世により、フォルリに対する主張を無効とされる。
フォルリ出発。
フィレンツェ共和国に雇われ、ヴェネツィア共和国と教皇軍に対し戦う。
1482年
マンフレディ家の支援を得て、数回フォルリ奪還を試みるも失敗。
1488年4月22日
ファエンツァにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。フォルリに復帰するための助力を懇願。カテリーナ・スフォルツァに自分と結婚するよう説得する匿名の矢文をラヴァルディーノ要塞に放ったことを打ち明ける。
1503年9月
ラヴェンナにて、教皇アレクサンデル6世の死の知らせを受ける。
1503年10月
モラッティーニ家の支援を得て、フォルリ領内に入る。
カストロカーロに行き、要塞をフィレンツェ共和国に売却し1万フィオリーノを得る。
ローマに使節を送り、正式にフォルリを授与するよう教皇ピウス3世に求めるが、拒絶される。
1503年10月18日
教皇ピウス3世、死。
1503年10月22日
フィレンツェ共和国の支援を得て、騎馬弩兵25と多勢の市民を率いてフォルリに入り、領主を名乗る。
1503年10月
ヴェネツィア共和国に支援を求めるが、拒否される。
1503年11月
フォルリの領主として認められるよう、新教皇ユリウス2世に大使を送る。
1504年2月6日
フォルリにて、死。異母兄弟ルドヴィーコ2世・オルデラッフィが相続。
外部リンク
アキッレ・ティベルティ Achille Tiberti
- 生没
- 1???年~1501年4月21日
- 出身
- チェゼーナ
- 没地
- ファエンツァ
- 派閥
- グエルフィ
概要
アキッレ・ティベルティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1494年8月
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノに使嗾されてフランスにつき、ロマーニャに駐屯するナポリ軍への補給線を絶つべくチェゼナーティコ要塞の占拠を試みる。
1494年10月
カテリーナ・スフォルツァに歩兵5百の契約で雇われる。
1494年11月
兄弟ポリドーロ・ティベルティと共にチェゼーナを攻撃。
1495年11月
カテリーナ・スフォルツァの命により、グイド・グエッラ・ダ・バーニョと戦い、カステルヌオーヴォ、テオドラーノ、モリーノ・ヴェッキオ(現モンドルフォ)、クゼルコリを攻囲、制圧に成功。
1499年11月24日
チェーザレ・ボルジアの命により、チェゼーナ人騎兵隊を従えてイーモラの城壁に近づき、解放者に門を開くよう市民に訴える。パオロ・ヴィテッリの元部下ジョヴァンニ・サッサテッリ(アンドレア・ベルナルディによれば11月トスカーナにいた)がグエルフィの代表としてやってきて、降伏を申し出る。
1500年5月
ローマ到着。教皇アレクサンデル6世に謁見し、報酬を受け取る。月々の給与50ドゥカートとロマーニャの騎兵隊指揮権。
1501年4月21日
ファエンツァにて、大砲の破裂により死。
肖像
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogía TIBERTI
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica』
『The Life of Cesare Borgia』
ディオニジ・ナルディ Dionigi Naldi
- 生没
- 1465年~1510年
- 出身
- ブリジゲッラ
- 没地
- ヴェネツィア
- 父
- ジョヴァンニ・ナルディ
- 母
- ヴィオランテ・ディ・ロッツァーノ
- 妻
- ディアノーラ・ヴァルジミリ
概要
ディオニジ・ナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1499年11月27日
チェーザレ・ボルジア軍がイーモラ市内に進軍。イーモラの要塞第8代城主ディオニジ・ナルディは、街に向かって砲撃させ、多くの家を燃やし破壊する。
1499年12月4日
チェーザレ・ボルジア軍が翼壁を崩すことに成功。ディオニジ・ナルディはこの籠城戦で頭部に傷を負ったと報告。救援が来なければ降伏すると3日間の猶予を要求し、受け入れられる。おそらく妻と子供2人をフォルリに残してきたため忠義を尽くしたように見せなければならなかった。
1499年12月7日
救援来ず、チェーザレ・ボルジアに降伏。
1503年9月1日
バルトロメオ・ダルヴィアーノにチェゼナーティコを占領され、チェゼーナに撤退。
1503年9月
チェゼーナ政府は歩兵1千を集める。無償にもかかわらず多くの騎兵も集まり、主君チェーザレ・ボルジアのためにチェゼーナ防御の準備を整える。
1503年9月30日
クリストフォロ・デッラ・トッレが騎兵2百を指揮、ディオニジ・ナルディがヴァル・デッラモーネの歩兵6百を指揮。
1503年10月1日
リーミニ占領。パンドルフォ4世・マラテスタはペーザロへ逃亡。残った非正規軍が城壁から投げた石のせいでディオニジ・ナルディは負傷し、チェゼーナのファンタグッツィ邸に運ばれる。チェゼーナの年代記作者ジュリアーノ・ファンタグッツィによる証言あり。
1503年11月
マンフレディ家によるファエンツァ奪還を妨害し、ヴェネツィア共和国に売却するよう城主を説得。
ブリジゲッラに帰る。
ヴィンチェンツォ・ナルディと共に、フランチェスコ・マンフレディに対しシジスモンド・マンフレディをファエンツァ領主に推す。
ヴェネツィア共和国に雇われる。
別表記
ナルド、Dionigio di Naldo
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『The Life of Cesare Borgia』
ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネス Diego Ramírez de Quiñones
- 生没
- 1470年頃~1512年4月12日
概要
ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスは、15世紀から16世紀の男性。チェーザレ・ボルジアに傭兵隊長として仕えた後、イタリア戦争でフェルナンド2世・デ・アラゴンにレオン王国騎士として仕える。
年表
1470年頃
レオン王国にて、生。
1503年11月
ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスはチェゼーナのマラテスタ要塞城主で、コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテはフォルリのラヴァルディーノ要塞城主。ベルティノーロ城主と共にチェーザレ・ボルジアの名の下に守護していたが、教会から教会財産として返還を要求される。教皇特使と元チェーザレ・ボルジアの部下のスペイン人ペドロ・デ・オヴィエードが、要塞の明け渡し要求のためチェゼーナ到着。ペドロ・デ・オヴィエードと会見し、彼を反逆者として糾弾、殺害。
1503年
チェゼーナで反乱発生。スペイン人、イタリア人、ドイツ人の兵1百から1百20を率いてマラテスタ要塞を防衛。市民は広場を襲撃。ボローニャ領主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオからの援軍が、新教皇ユリウス2世の名の下ラグーザ司教ジョヴァンニ・サッキ指揮でマラテスタ要塞を攻囲、城壁を破壊。
1504年1月
チェーザレ・ボルジアと教会の交渉が始まり、反逆者へ広場を明け渡す。
1504年3月10日
交渉成立。ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスが広場を明け渡す。
1504年4月19日
チェーザレ・ボルジア軍から除隊。
150?年
ナポリへ行き、ゴンザロ・デ・コルドバに仕える。
1511年
1511年終わり、神聖同盟軍のゴンザロ・デ・コルドバ軍所属。
1512年4月12日
ラヴェンナの戦いにて、ファブリツィオ1世・コロンナ指揮の前衛を務め、死。
別表記
Diego Chignone
外部リンク
参考文献
ミケーレ・ダ・コレーリア Michele da Corella
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ミケーレ・ダ・コレーリアは、15世紀から16世紀の男性、チェーザレ・ボルジアの腹心、傭兵隊長。
年表
1500年8月18日
夕方、アルフォンソ・ダラゴーナ暗殺。
1502年10月15日
カルマッツォの戦いで負戦し、フォッソンブローネに敗退。
1502年10月
バリオーニに囲まれ、ペーザロ(タヴッリア)のモンテルロ城に籠城。
1502年10月31日
ペーザロにて、反逆者とみなした5人を宮殿の窓から吊る。
1503年8月18日(金)
晩課の時刻、教皇アレクサンデル6世、死。
大勢の部下を引き連れ、ヴァティカン宮殿の入口の全ての扉を閉める。部下の1人がハイメ・デ・カサノヴァ枢機卿に短剣を突きつけ、教皇の鍵と金を明け渡さなければ刺して窓から放り出すと脅し、枢機卿は鍵を渡す。見つけ得る限りの銀製品と、それぞれ10万ドゥカートが入った2つの櫃などを、教皇の寝室の裏にある部屋へ運ぶ。
8刻、再び扉を開け、教皇アレクサンデル6世の死が知れ渡る。
ローマ周辺を歩兵隊に占拠させ、枢機卿団による閲兵を行う。
1503年8月20日(日)
オルシーニ家がローマで蜂起したため、ポンテ地区のモンテ・ジョルダーノ宮殿に火を放つ。
1503年11月末頃
タッデオ・デッラ・ヴォルペと共に騎兵7百を指揮し、ロマーニャ進軍中、トスカーナでジャンパオロ・バリオーニ指揮のフィレンツェ軍に敗退し、捕らえられる。
1504年1月9日
1504年7月
元老院代表の前で引き出され、拷問台の上に載せられ、アルフォンソ・ダラゴーナを殺したのはアレクサンデル6世の命令によるものだった、など告白。
1506年4月1日
サンタンジェロ城を釈放され、フィレンツェ市民軍の指揮官として採用される。
1506年4月15日
トスカーナ全域の平定を指令される。
1507年2月27日
フィレンツェ市民軍の総指揮官に任命される。
別表記
ドン・ミケロット、ドン・ミケレット、ドン・ミケーレ、ミゲル・デ・コレッラ、コレーラ、don Michele、Corella de Miguel、Michieli、Michelotto
関連項目
The Borgias: 102, 103, 104, 105, 108, 109, 201
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Condottieri di ventura
THE BORGIAS wiki
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジェルジ・アリアニティ Gjergj Arianiti
- 生没
- 1383年~1462年
- 父
- コムネン・アリアニティ
- 妻
- マリア・ムザカ
ピエトリーナ・フランコーネ - 子
- ドニカ・アリアニティ
ヴォイサヴァ・アリアニティ
チランナー・アリアニティ
ヘレナ・アリアニティ
デスピナ・アリアニティ
アンジェリーナ・アリアニティ
コミータ・アリアニティ
キャサリン・アリアニティ
セオドラ・アリアニティ
マリーア・アリアニティ
コスタンティーノ・アリアニティ
アリアニテス・アリアニティ
概要
ジェルジ・アリアニティは、14世紀から15世紀のアルメニア人傭兵隊長。
外部リンク
ラミロ・デ・ロルカ Ramiro de Lorqua
- 生没
- 14??年~1502年
概要
ラミロ・デ・ロルカは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。チェーザレ・ボルジアの部下でロマーニャ総督の地位を与えられるが、処刑される。
性格
無慈悲。厳格。
年表
1499年5月初旬
ルイ12世にミラノ攻撃を督促するため、アレクサンデル6世により使節として派遣されるが、ミラノ側に捕らえられる。
1500年1月
チェーザレ・ボルジアにより、ロマーニャ総督に任命される。
1501年7月16日
チェーザレ・ボルジアにより、カステル・ボロニェーゼの要塞を解体作業員1千で解体するよう命じられる。この日、カステル・ボロニェーゼで評議会を召集し、受令に参加。評議会から教皇とチェーザレ・ボルジアに嘆願するため時間の猶予を求められたが、使者を送るのは無駄としてこれを拒絶。
1501年7月21日
カステル・ボロニェーゼの要塞の解体が完了。
1502年1月29日
ファエンツァで犯罪者2名を絞首刑に処す。内1名の縄が生きている間外れ、男は群衆に慈悲を懇願し、哀れに思った人々は警吏の引き渡し要求を振り切って彼を救おうとする。チェルヴィティ?の教会に匿い、ファエンツァの代官が身柄引渡の要求をしに来た時、教会長が聖域を盾にこれを拒絶。しかしながら、当時はもはや聖域に超法規性はなかった。
1502年
イーモラのラミロ・デ・ロルカにこの知らせがもたらせると、すぐさまファエンツァに向かい、実力行使をもって再逮捕し、ポデスタ宮殿の窓から吊るす。同時に、警吏から男を守った者たちの首謀者数名を逮捕。ファエンツァ市民に逮捕者たちの命と引き換えに1万ドゥカートを1か月以内に支払うことを要求。
ファエンツァから使節が送られるも、ラミロ・デ・ロルカは面会を拒絶。
ファエンツァ議会は大使をローマに派遣し、教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアに罰金の減額を嘆願し、許可される。
1502年9月上旬~10月
チェーザレ・ボルジア、ロマーニャにおける人心の収攬と統一的支配体制の整備のため、この頃、統一的司法組織Rota(司法・治安官)を設置し、ロマーニャで人望を集めていた法律家アントーニオ・チョッキ・デル・モンテを長官に任命。さらに彼に行政上の最高権限をも与えて、新官職Presidente di Romagna(ロマーニャ(地方)統領)に就任させる。苛烈な支配を行って人心を離反させる傾向の強かったラミロ・デ・ロルカには軍事上の指揮権のみを認める。
同時にチェーザレ・ボルジア、スペイン人ミケーレ・ダ・コレーリアを用いて領民の徴発及びその軍事訓練を精力的に続け、自分自身の領民からなる徴兵軍を自分の軍事、政治行動の基盤とする態勢を固める努力を続ける。
1502年12月22日
ペーザロよりチェゼーナに到着。直ちにチェーザレ・ボルジアにより塔の最下層に投獄される。国民の栄養補給のための新鮮な食料を不正に売却することで自身の利益とし、公爵に重い負担を強いたとして告発される。ボローニャのフィレーノ・デッラ・トゥアーテはラミロ・デ・ロルカが「公爵に対して、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと秘密協定を結んだ」と書く。
1502年12月26日
朝、チェーザレ・ボルジアにより処刑され、死体がチェゼーナの広場に晒される。
別表記
ロミーロ、リミッロ、レミッロ・デ・オルコ卿、ラミーロ、レミージョ・ド・ロルクァ、レミーロ・デ・ロルカ、Remigio di Lorqua
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Condottieri di ventura
THE BORGIAS wiki
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年12月8日