コジモ1世・デ・メディチ

Cosimo I de' Medici

コジモ1世・デ・メディチ

生没年:1519年2月19日~1574年
在位:トスカーナ大公 1569年~
父:ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ
母:マリーア・ディ・ヤコポ・サルヴィアーティ
妻:エレオノーラ・ディ・トレド
  カミッラ・マルテッリ
女:エレオノーラ・デリ・アルビッツィ
子:マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ
  フランチェスコ1世・デ・メディチ
  イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ
  ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ
  アントーニオ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ガルツィア・デ・メディチ
  フェルディナンド1世・デ・メディチ
  ピエトロ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ヴィルジーニア・デ・メディチ

概要

 コジモ1世・デ・メディチは、16世紀のフィレンツェの男性、トスカーナ大公。

年表

1519年2月19日
生。
1519年6月11/12日
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノカテリーナ・スフォルツァの子・メディチ家随一の勇将ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ(1498年~)の長子コジモ1世・デ・メディチ生(1519年~1574年:フィレンツェ公在位1537年~1569年:トスカーナ大公1569年~1574年)。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グィッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グィッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グィッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グィッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年1月9日
早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グィッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリMatteo Niccoliniヤコポ・ジャンフィリアッツィGiuliano CapponiRaffaello de' Mediciの8名を指名。
1537年1月
フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティIacopo Gaddiローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。
情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。
1537年1月20/21日
軍と共にフィレンツェに向かっていた3名の枢機卿と司教Giovanni Soderini、コジモ1世・デ・メディチの説得に乗り、軍を解いた上亡命者たちの代表として市民の歓迎を受けながら市内に入る。しかし、領内・市内を固める多数のスペイン人・ドイツ人兵士と非武装の自派一族・市民を目にし、コジモ1世・デ・メディチの擁立の無効、貴族寡頭政の再建、など自派の主張の実現可能性はないことを直ちに悟る。
1537年1月30日
3名の枢機卿ら、亡命者たちの帰国を許すとの布告以外、何らの成果も得られず、市を離れる。
1537年3月13日
アレッサンドロ・デ・メディチの葬儀、サン・ロレンツォ教会でコジモ1世・デ・メディチも出席して執り行われる。
1537年4月末
この頃までに?、コジモ1世・デ・メディチ、使節を通してカール5世に、その庶出の娘でアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚を希望する旨申し出、その承認を懇請。
1537年5月初旬
カール5世の全権代理・シフエンテス伯Jun de Silva、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチにはマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。
この過程でコジモ1世・デ・メディチ、内心で強めてきた独裁君主Ducaへの志向をカール5世の支持の下で実現すべく、君主独裁の抑制・フィレンツェの独立を志向するフランチェスコ・グィッチャルディーニら有力貴族を排斥し、単独で、カール5世への領内城塞の譲渡などをJun de Silvaに約束。
1537年6月12日
Jun de Silva、四十八人評議会において、コジモ1世・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚問題は保留するがコジモ1世・デ・メディチをPrincipato di Firenzeフィレンツェ君主国)のCapo(元首)として承認し、以後の事情変更については全てカール5世の承認を要することとすると宣言。これにより、1532年Principato体制を維持することで政体問題、落着。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellai(?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリの監視下でフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉されてカール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1537年8~9月
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Averardo SerristoriGiovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。
1537年9月30日
カール5世パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1537年
カール5世の裁定により、1532年Principato体制の継続、最終的に固まる。
このPrincipato体制、コジモ1世・デ・メディチによる専制支配の度を急速に強めた後、1737年1月メディチ家支配の終焉・ロレーヌ家支配下での政体変改まで続く。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1538年
コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。
1538年12月18日
自分の身柄と処分がすでにカール5世から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望したフィリッポ・ストロッツィ、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1489年~)。(但し、1538年8月とする異説、処刑されたとする異説、などあり)。
1539年1月初旬
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレウルビーノ公への叙任を得る。
1539年
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのカメリーノ領有を支援したいコジモ1世・デ・メディチ、その意をカール5世に承認されず、具体的な行動を起こせずに終わる。
1539年3月
結婚
1539年6月29日
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世ナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。
1540年5月16日
メディチ家に臣従していた(1535年~)リドルフォ・バリオーニ、コジモ1世・デ・メディチの許可を得てペルージアに帰り、「救世主」として迎え入れられる。
1540年
コジモ1世・デ・メディチ、メディチ宮殿から、共和政の政庁のPrioriがその任期中、居を移していたヴェッキオ宮殿に、妻と共に居を移してこれを私邸とし、フィレンツェの統治者は自分1人であることを示す。以後コジモ1世・デ・メディチ夫妻、ジョルジョ・ヴァザーリらを用いて宮内を自らの絶対的権力を表すものに大幅に改造。ヴェッキオ宮殿は公爵宮(Palazzo ducale)と通称される。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年3月25日
コジモ1世・デ・メディチの長子フランチェスコ1世・デ・メディチ生(~1587年)。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラエルコーレ2世・デステフィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1541年~1542年
コジモ1世・デ・メディチ、1540年創立されたAccademia degli Umidiを自分の支配下に収めて公的なAccademia Fiorentina(フィレンツェ学園)に改組し、ベネデット・ヴァルキG. GelliB Segniジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニP. Vettoriらをメンバーとしてトスカーナ語の純化、古典の収集・編纂・刊行を行わせる。
君主・宮廷を中心のその委嘱の下で、ないしはそれとの主従関係の中で生ずる宮廷文学・学芸が支配的になり始める。
1542年6月13日
トスカーナとシチリアに大地震発生。トスカーナではムジェッロ地区が壊滅し、4百名を超える死傷者が出たのを初め、全域で被害が出、以後40日余り、余震続く。
1543年1月
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、知識層を支配する文化政策の一環として、かつ文芸・学問の愛好者であることを顕示して人心を収攬しようとも目論みながら、Accademia Fiorentina(1541年)に続き、ピサ大学を再建。
1543年6月12日
フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1544年
ピエモンテにおけるカール5世軍敗北の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、援軍として歩兵4千をリヴォルノから海路ジェノヴァに送り、ミラノに向かわせる。
1544年9月
クレピーの和の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、フランソワ1世宮廷に特使を送って祝意を表させ、カトリーヌ・ド・メディシスにも表敬させるが、特使は冷遇されてすぐ帰国。
1545年12月
コジモ1世・デ・メディチ、L. Ghiniフィレンツェにも研究機関Orto Botanicoを設立させる。
1546年2月6日
シエナで、市を支配する貴族に対し民衆、反乱。政庁宮を襲撃して貴族ら30名余を殺害。後、市駐屯スペイン軍守備隊を追放。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナとの領境に兵を集め、撤退するスペイン軍守備隊を防衛。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1546年8月26日
夕刻、Francesco Burlamacchiに反感を抱きかつ報償金を得ようと企むAndrea Passini、コジモ1世・デ・メディチのもとに出頭して決起計画を報告。これにより、計画、全面的に発覚。
夜、このことを知ったFrancesco Burlamacchi、逃亡しようとして阻まれ、ルッカシニョーリアにより捕縛される。
1546年8月28日~1546年9月3日
Francesco Burlamacchiの処遇についてルッカシニョーリアカール5世の判断を待ちながらも、コジモ1世・デ・メディチからの裁判権の要求は拒否して自らのRuota della Giustizia(司法・治安委員会)で拷問を加えながら彼を厳しく取り調べる。
1547年8月12日~8月13日
トスカーナを大雨による大洪水が襲い、ムジェッロ地区を中心に家屋の損壊及び死者などこの世紀最大とも見られる損害、発生。
1547年10月20日
この頃までにシエナ、軍による威嚇を背景とするコジモ1世・デ・メディチの強制に従い、追放した(1546年)カール5世軍守備隊の再駐屯を認める。カール5世はこの日、ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendozaを総督としてシエナに派遣。
1547年
コジモ1世・デ・メディチ、ナポリペドロ・デ・トレドへの援軍を準備するが派遣せず、これをシエナに向かわせる。
1548年2月26日
フランソワ1世宮廷からヴェネツィアに移って逃亡生活を続けていたロレンツィーノ・デ・メディチは、コジモ1世・デ・メディチのヴェネツィア駐在大使Pierfilippo Pandolfini(1502年~1560年:在位1545年~1549年)の雇った2人の刺客に、母マリーア・ソデリーニの兄弟アレッサンドロ・ソデリーニと同道していたところを襲われて刺殺され(1513/1514年~)、遺骸は間もなく駆けつけたマリーア・ソデリーニに渡される。ロレンツィーノ・デ・メディチを守ろうとして刺されたアレッサンドロ・ソデリーニも数日後、死。
1548年6月22日~7月24日
カール5世、コジモ1世・デ・メディチから巨額の資金を得て彼にピオンビーノを委譲し、後見下に置いていたヤコポ4世・ダッピアーノ(1539年~1585年:在位1545年~1562年)をジェノヴァに隠遁させる。しかし自身の重臣たちの強い反対を受け、間もなくエルバ島を除くピオンビーノ領を取り上げる。コジモ1世・デ・メディチは同島の主要都市ポルトフェッラーイオを要塞化。
1548年
コジモ1世・デ・メディチ、Giordano Orsiniを名代としてトリノに送り、フェリペ2世アンリ2世に表敬。
1548年
コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァフェリペ2世のもとに長子フランチェスコ1世・デ・メディチを名代として送り、巨額の金品を貢納。
1549年7月30日
コジモ1世・デ・メディチの第二子フェルディナンド1世・デ・メディチ生(1549年~1609年:枢機卿在位1563年~1588年:トスカーナ大公在位1587年~1609年)。
1549年
コジモ1世・デ・メディチ、妻エレオノーラ・ディ・トレドの生活を快適にするため、アルノ河の対岸のピッティ宮殿を購入し大改造・拡張工事を始めさせる。
1550年2月8日
枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。
教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。
教皇ユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。
1550年
コジモ1世・デ・メディチ、新教皇ユリウス3世のもとにGirolamo GuicciardiniPiero Salviatiら6名の貴族からなる使節団を送り、教皇即位への祝意を表明。
1550年5月15日
コジモ1世・デ・メディチ一家、ヴェッキオ宮殿から1549年購入のピッティ宮殿に転居し新生活を始める。以後、この新邸の背後にボーボリ庭園を築造。
ヴェッキオ宮殿Palazzo vecchio(旧宮)と通称されるようになる。
1550年6月28日
Barbarossaの後継者的な海賊Dragut(本名Torghud 'Ali Paşa:1485年~1565年)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続けるSinan Paşa(?~1578年)総指揮のオスマン・トルコ水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、カール5世の指示により、アンドレア・ドーリアを総指揮官としてその軍及びカール5世のシチリア総督Juan de Vegaの軍にペドロ・デ・トレド及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。
1550年7月
コジモ1世・デ・メディチ、ユリウス3世にモンテ・サン・サヴィーノを無条件で委譲。これをユリウス3世、兄Baldovino del Monteに封与。
1552年7月26日~7月27日
堅固な城塞の構築を進めるなどさらに圧制の度を強めてきたカール5世の絶対的支配(1547年~)を脱すべく1551年来アンリ2世との接触を深めていたシエナ市民、アンリ2世の指示の下で領内に入ったピティリアーノ伯ニッコロ2世・オルシーニ軍が前夜、市の城門に迫ったのに呼応し、「フランス、勝利、自由」を叫んで武器を手に決起。
カール5世軍(スペイン軍)守備隊長はコジモ1世・デ・メディチに援軍を求め、コジモ1世・デ・メディチは直ちに小軍を送るが抗しきれず、カール5世軍(スペイン軍)守備隊は構築中の城塞に引きこもる。
1552年
シエナ市民、特使Calisto Ceriniをコジモ1世・デ・メディチのもとに送り、シエナの自由回復を妨害しないよう要請。
1552年8月1日
この日頃?、コジモ1世・デ・メディチ、特使Ippolito da Correggio(1510年~1552年)をシエナに送り、カール5世軍(スペイン軍)守備隊と和を結ぶよう強く勧告。
アンリ2世ローマ駐在大使Ludovic Lansacシエナに送り、決起を支持し軍を派遣することを約束すると共に、カール5世軍(スペイン軍)守備隊との協定は無益だと強調。アンリ2世配下の軍、各地からシエナに向かう。
1552年8月3日
この日?、8千を超える市民がカール5世軍(スペイン軍)守備隊の籠る城塞を取り囲む中コジモ1世・デ・メディチ、シエナと、(1)守備隊はシエナから撤退する、(2)城塞は壊され、すべての外国軍はシエナから撤退する、(3)シエナは自由を得るがカール5世の下に留まり、彼に敵対する者を領内に入れない、(4)コジモ1世・デ・メディチは自軍がこの間に占領したシエナの領地を全て返還する、ことを約定。
これに強い不満を唱えるカール5世軍(スペイン軍)守備隊に対しコジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世が新たに各地からシエナに向かいつつある中で逡巡していれば事態はさらに悪化すると懸命に弁明。
1552年8月4日
この日?、シエナ、コジモ1世・デ・メディチのもとに特使Ambrosio Nutiを送り、コジモ1世・デ・メディチに敵対しないことを表明すると共に回復した自由の承認・保証を求める。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナに特使Leone Ricasoliを送り、その自由を保証すると共に友好関係の維持を承認。
同時にこの頃コジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世に、彼とカール5世との間で厳正な中立を保つと約束。
1552年8月5日
シエナ制圧にコジモ1世・デ・メディチの支持を確保すると共に自軍の戦費を調達するため1548年に続いて重ねてピオンビーノを巨額の金でコジモ1世・デ・メディチに委譲したカール5世の政略に絶望したヤコポ4世・ダッピアーノ、この日、両者によるこの自領譲渡協定に署名。
1552年8月13日
シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、Diego Hurtado de MendozaFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。
1553年2月上旬
この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della CorniaCorgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。
1553年2月
海路リヴォルノに着いたペドロ・デ・トレド、フィレンツェにコジモ1世・デ・メディチ及びその妻、自分の娘エレオノーラ・ディ・トレドを訪ねるが、この地で急死(1484年~)。
1553年秋~冬
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Bartolomeo Concini(1507年~1578年)を派遣し、カール5世の名の下でシエナを制圧する企図を示して同意を得ると共に、軍指揮官としてマリニャーノ候ジャン・ヤコポ・デ・メディチ(1495年~1555年:候在位1532年~1555年)を送るなどの支援を約束される。
1553年
コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァアンリ2世への反抗・コルシカ奪還を勧奨し、援軍を送る。
1554年1月1日
ピエロ・ストロッツィアンリ2世軍の総指揮官としてシエナに到着。
フィレンツェの亡命者でメディチ家に宿怨を抱くピエロ・ストロッツィが総指揮官としてシエナに入ったとの報にコジモ1世・デ・メディチ、シエナの武力制圧の早期断行を決意。
1554年1月22日~1月25日
コジモ1世・デ・メディチ、4市(フィレンツェ、アレッツォ、ヴォルテッラピサ)の城門を全て閉めて出入りを禁じ、ジローラモ・デリ・アルビッツィ指揮の下で秘密裏に軍を整える。
1554年1月28/29日
コジモ1世・デ・メディチ、海陸両面からシエナ領攻撃を開始。カール5世から送られたジャン・ヤコポ・デ・メディチも加わってシエナの市の城門に通ずるCamolliaを攻撃させ、その城塞を一気に占領。
しかし折からの嵐のためガレー船を使用できなかったのを初め海陸両面で攻撃に難渋し、シエナ市内には入城できず。以後、シエナを守るアンリ2世軍とカール5世の支援を受けるフィレンツェ軍、周辺各地で一進一退の攻防を続ける(~1555年)。
1555年1月
コジモ1世・デ・メディチ、配下の全軍をシエナ攻撃に集中させるが市の城門を開かせるに至らず、以後、再び包囲作戦をとらせる。間もなくシエナは深刻な食糧不足に陥る。
1555年4月17日
1554年来のジャン・ヤコポ・デ・メディチ軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していたアンリ2世からの援軍も得られないでいるシエナ、特使Niccolò SergardiCamillo d' EleiLelio PecciAgostino Bardiをコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)カール5世の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用でカール5世軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。
1555年4月21日~5月2日
モンルックの君主Blaise de Lasseren de Massancome(1502年頃~1577年)指揮のアンリ2世軍、シエナ市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共にシエナを去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。
間もなく代わってジャン・ヤコポ・デ・メディチ麾下のカール5世軍が市内に入り、シエナは実質上コジモ1世・デ・メディチの支配下に陥る。
1555年9月15日
スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。4日後パウルス4世グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1556年6月27日
パウルス4世フェリペ2世ナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1557年5月9日
フェリペ2世、エルバ島を含むピオンビーノ領をコジモ1世・デ・メディチから返還させ、本来の領主ヤコポ4世・ダッピアーノに再び領有させることを承認。但しコジモ1世・デ・メディチが要塞化した(1548年)ポルトフェッライオのみはコジモ1世・デ・メディチに引き続き領有を認める。
1557年7月3日
シエナがカラーファ一族ないしファルネーゼ一族に委譲されるとの噂に危機感を覚え、フェリペ2世に対して、これまでの巨額の貸し付けを仄めかすと共にパウルス4世アンリ2世からの同盟加入の勧誘と彼らへの接近の必要性とを示唆しながらシエナ委譲を迫ってきたコジモ1世・デ・メディチ、ようやくフェリペ2世と、(1)シエナを受領する(但しタラモーネ、ポルト・エルコーレ、オルベテッロなど海岸地帯はフェリペ2世の直轄領とする)、(2)ピオンビーノフェリペ2世に返還する(但しエルバ島のポルトフェッライオは引き続き領有する)、(3)フェリペ2世に対する債権は全て放棄することを協定。
1557年7月19日
コジモ1世・デ・メディチ、正式にシエナを自領に併合し支配。
1557年9月13日~9月15日
イタリアに記録的大雨が降り、ローマではテヴェレ川が、フィレンツェではアルノ河が氾濫して市内全域が水に浸り、建物・橋など多数が流され、夥しい数の死者が出る。以後、悪疫、流行。
1557年10月初旬
フェリペ2世パウルス4世アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1557年初冬
孤立感を深めるエルコーレ2世・デステ、コジモ1世・デ・メディチを介してフェリペ2世との和解の方途を探り始める。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1558年5月18日
フェリペ2世、1557年末からのFernando Álvares de Toledoを介してのコジモ1世・デ・メディチの働きかけに応じ、パウルス4世アンリ2世陣営を離れて中立を維持することを条件にエルコーレ2世・デステを赦免。両者和解しエルコーレ2世・デステフェリペ2世に占領された(1557年)領地を回復。
1558年6月18日
コジモ1世・デ・メディチ、フェリペ2世エルコーレ2世・デステの和解(1558年5月)の保障として娘ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ(1545年~1561年)をエルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステに与え、この日、その結婚式をフィレンツェで盛大に挙行。
1559年4月3日
アンリ2世フェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹Marguerite de France(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年7月半ば
高齢のパウルス4世の死期が迫る中、枢機卿ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(1499年~1565年:教皇在位1559年~1565年)フィレンツェに入り、コジモ1世・デ・メディチと教皇選出枢機卿会議について協議を開始。トスカーナの「王」たらんとする野望実現のため教皇位を利用したいコジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェのメディチ一族ではないが一族と認められたいジョヴァンニ・アンジェロ・メディチに一族の紋章の利用を認めるなど、ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチの教皇擁立の準備を進める。
1559年
パウルス4世の死(1559年8月)後この頃までの間に、熱烈な共和主義者パンドルフォ・プッチを中心とする反コジモ1世・デ・メディチの「陰謀」、発覚。パンドルフォ・プッチが絞首刑に処された他、Stordo Cavalcantiら3名が斬首され、Bernardo CorbinelliIacopo Corbinelli(1535年~1590年)兄弟が翌1560年叛徒として追放される。
1560年1月31日
ピウス4世、教皇即位(1559年12月)にあたって絶大な尽力・支援を得たコジモ1世・デ・メディチへの見返りとして、その次男ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1543年~1562年)を枢機卿に叙任(在位1560年~1562年)。
1560年
この年コジモ1世・デ・メディチ、ジョルジョ・ヴァザーリに命じ、市内各所に分散する行政・司法機関をヴェッキオ宮殿の隣接地に統合するための総合庁舎ウフィツィ宮殿の設計図を作成させ、翌1561年7月から工事を始めさせる。(1572年利用開始)。
1562年11月20日
コジモ1世・デ・メディチの次男・枢機卿ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ病死(1543年~:在位1560年~)。
1562年12月12日
コジモ1世・デ・メディチの四男ガルツィア・デ・メディチ、病死(1547年~1562年)。
1562年12月17日
コジモ1世・デ・メディチの妻エレオノーラ・ディ・トレド、病死(1522年~)。
1561年の娘ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチの死に続くこの年の家族3名の相次ぐ死を巡って、以後、ガルツィア・デ・メディチジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチを刺殺し、怒ったコジモ1世・デ・メディチがガルツィア・デ・メディチを刺殺し、エレオノーラ・ディ・トレドは悲嘆・絶望のあまり医師の処方を拒んで死んだ、との「メディチ家の悲劇」伝説(虚偽)が生ずる。
1562年
シエナ併合・領有(1555年)後、海軍に関心を深めてきたコジモ1世・デ・メディチ、オスマン・トルコ軍やトルコ人・Barbaria人海賊に抗して船舶の安全を確保すべく、小規模ながらピサを拠点とする水軍、聖ステーファノ騎士団(Ordine cavallesco di Santo Stefano)を創設し、自ら団長となる。
1564年5月1日
コジモ1世・デ・メディチ、公の名称と重要人事事件などの最高指揮権とを保持しながらも、通常の政務の実権を長子フランチェスコ1世・デ・メディチに委譲。1564年6月11日以降アレッサンドロ・デ・メディチは摂政的な位置を占める。
1565年9月7日
オスマン・トルコの大水軍、フェリペ2世軍やコジモ1世・デ・メディチの小水軍の救援を得たマルタ島を攻略しきれず、撤退を始める。
1565年12月16日
1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。
この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。
1566年6月19日
クレメンス7世の書記官を務めた(1533年)が後に改革派(Valdés派)に傾斜したためパウルス4世の下で再三、異端審問に晒され、一旦は有罪判決を受け(1558年)ながらも、パウルス4世の死後ピウス4世の下でコジモ1世・デ・メディチの仲介により判決を取り消され(1560年)、この頃コジモ1世・デ・メディチの客としてフィレンツェに招かれていたPietro Carnesecchi(1508年~1567年)について、新教皇ピウス5世の下のローマ異端審問所、その身柄を引き渡すようコジモ1世・デ・メディチに要求。
1566年6月26日
トスカーナの「王」となるためにピウス5世の支援を得たいコジモ1世・デ・メディチ、Pietro Carnesecchiの期待に反し、要求を拒まず彼の身柄を教皇庁の特使に引き渡す。
1569年8月27日
ピウス5世Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。
この勅書に、フィレンツェシエナも神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。
1569年
この頃までにコジモ1世・デ・メディチ、ピウス5世の要請を受け入れフランス・カトリック陣営への援軍を整備。
1569年
トスカーナ大公国成立、コジモ1世
1570年3月5日
ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。
これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王・ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。
1570年3月29日
コジモ1世・デ・メディチ、年来の愛人ですでに一女ヴィルジーニア・デ・メディチ(1568年~1615年)ももうけているカミッラ・マルテッリ(1545/1547年~1590年)と結婚。
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1573年7月
コジモ1世・デ・メディチ、発作に見舞われ、半身不随となる。
1574年4月21日
コジモ1世・デ・メディチ、近郊カステッロの別荘で死——長子フランチェスコ1世・デ・メディチ(1541年~1587年)、フランチェスコ1世・デ・メディチとしてトスカーナ大公となる(在位1574年~1587年)。(但し、マクシミリアン2世は翌1575年11月2日ようやくトスカーナ大公の称号を承認)。

肖像

 コジモ1世の礼賛
 コジモ1世・デ・メディチ騎馬像

チェーザレ・ボルジア数

 子ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 コシモ1世、コージモ1世

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『銀色のフィレンツェ』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスの歴史』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lost Girls

記載日

 2005年9月29日以前
メディチ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで