Cosimo il Vecchio

コジモ・イル・ヴェッキオ

生没:1389年9月27日~1464年8月1日
在位:正義の旗手 1435年1月~2月、1439年1月~2月、1445年9月~10月
父:ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
母:ピッカルダ・ブエリ
妻:コンテッシーナ・デ・バルディ
子:ピエロ・イル・ゴットーソ
  ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  カルロ・デ・メディチ

概要

 コジモ・デ・メディチは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1429年2月20日
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ没。コジモがメディチ家の当主となる。
1431年
メディチ家、公会議の開催されたバーゼルに臨時の事務所を開設(~1443年)。
1433年4月26日
フェッラーラで、フィレンツェ共和国使節としてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとの和を結ぶ。
1433年9月
9月~10月期の正義の旗手に、強い反メディチ感情を抱くベルナルド・グァダーニが就任。
1433年9月初め
ムジェッロで休養中、シニョーリアから緊急召喚状を受け取る。
リナルド・デリ・アルビッツィは、ベルナルド・グァダーニと6名の反メディチ派プリオリと共に、1433年4月のフェッラーラでの和への市内各層の不満を、この和の調印者コジモ・イル・ヴェッキオに転嫁することによって一挙にメディチ一族を排斥する企図の実行に立つ。
1433年9月4日
政庁宮に出頭しベルナルド・グァダーニに面会、3日後に重大決定と通告される。
1433年9月7日
一族や支持者が留めるのを押して政庁宮に出頭し、シニョーリアによって逮捕、拘留されると共に、チオンピの乱(1378年~1382年)以来メディチ家が加担した策謀の数々の責任を問うとして同家を追放されることが決定。
1433年9月9日
シニョーリアは、シニョーリア広場パルラメントを招集し、メディチ派の参加を排しながら、1433年9月7日のシニョーリアの決定、及びプリオリにより選出される200名からなる国制改革のバーリア(非常大権委員会)の設置を承認。
1433年9月29日
バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決める。コジモ・イル・ヴェッキオをパドヴァに10年、弟ロレンツォ・イル・ヴェッキオをヴェネツィアに5年、従弟アヴェラルド・ディ・フランチェスコ・デ・メディチをナポリに10年、その子ジュリアーノ・ディ・アヴェラルド・デ・メディチをローマに2年追放、一族全員を永久公職追放、メディチ派リーダーのジョヴァンニ・プッチ、プッチョ・プッチAquilaに10年追放、とする。しかしリナルド・デリ・アルビッツィは、企図していたメディチ一族の処刑をバーリアに決めさせることに失敗。
1433年10月3日
パドヴァへ到着。次いでヴェネツィアへ行き、各地で賓客として歓迎される。
1434年8月28日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍は、イーモラ近郊で大激戦。同盟軍が大敗を喫する。
1434年9月初め
大敗を機に市内にシニョーリアへの憤懣と反感、急速に高まり、新シニョーリアのプリオリはメディチ派が多数を占める。
1434年9月25日
自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたリナルド・デリ・アルビッツィは、この日、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられずにいる内、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からエウゲニウス4世が、司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わして調停、事態収拾工作に乗り出す。
1434年9月26日
シニョーリアは、エウゲニウス4世の下で武器を置くよう説得を受けていたリナルド・デリ・アルビッツィを除くアルビッツィ家の家族を逮捕。
1434年9月28日
シニョーリアは、パルラメントを招集し、プリオリが選出する350名からなる国制改革のためのバーリアの編成を承認させる。
1434年9月29日
バーリアは、前年追放されたコジモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ一族及び同派の貴族たちの帰還、その財産の返還、名誉の復活を決める。
1434年9月
ヴェネツィアを出発。
1434年9月31日
亡命先のヴェネツィアからフィレンツェに帰還。
1434年10月2日
バーリアは、リナルド・デリ・アルビッツィをナポリ領Traniに、その子オルマンノ・デリ・アルビッツィをガエータにそれぞれ8年間追放することを決める。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。
但し、アルビッツィ父子は間もなく禁を破って追放地からミラノに行き、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティにフィレンツェ復帰への支援を求めると共にメディチ勢力下のフィレンツェへの戦闘を勧奨。
1434年10月5日
メディチ家支配開始:コジモ・イル・ヴェッキオ、帰還。直ちにアルビッツィ派の一掃を促進。アルビッツィ家中心の実質上の貴族寡頭政終わり(1381年~)、メディチ家支配始まる(~1494年)。
以後コジモ・イル・ヴェッキオ、自派の家門を含むあらゆる家門、権門の抑制、減殺に努め、自家の優位の確立を図る。
同時にコジモ・イル・ヴェッキオ、官職被選出資格名札の管理事務担当に過ぎないアッコピアトーリを自派で固めつつ、これに、被選出資格の審査、資格者の名札の管理、名札からのシニョーリアなど主要官職の委員の抽出までの全過程を実質上、行う権限を持たせていく。これにより、伝統的共和政の形態を残しつつ実質上の独裁体制を築き始める。
1435年1月初め
コジモ・イル・ヴェッキオ、1月~2月期の正義の旗手に就任し、リナルド・デリ・アルビッツィおよびオルマンノ・デリ・アルビッツィ父子を初めとする宿敵アルビッツィ家を叛徒とするなど、アルビッツィ派の一掃をさらに厳しく進める。
1435年
メディチ銀行(1397年~)再編成。フランチェスコ・サルターティ(1391年~)とジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ(1394年~1455年)が総支配人となる。以後20年、コジモ・イル・ヴェッキオの統率の下で興隆を続ける。
1437年頭
依然としてニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がルッカ領に留まっている事態に対処すべく、フィレンツェは新十人委員会を編成。
1437年
ニッコロ・ニッコリの古典収集を資金面で支援してきたコジモ・イル・ヴェッキオ、彼の死後、収集のために残された負債を引き受ける。
1437年
フィレンツェ生まれのドミニコ会総長(在位1433年~1443年)アントニーノ・ピエロッツィ(1389年~)、コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。
1438年
コジモ・イル・ヴェッキオ、バーリアで、アッコピアトーリシニョーリアなどの委員の事実上の選出権を改めて認めさせる。
1439年頭
コジモ・イル・ヴェッキオ、1439年1月~2月、再び正義の旗手に就任。
1439年3月24日
メディチ銀行ブールジュ支店開設。
1440年
コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。
1442年12月26日
メディチ銀行ピサ支店開設。
1443年
メディチ銀行総支配人(1435年~)フランチェスコ・サルターティ死(1391年~)。ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ、単独の支配人となり、コジモ・イル・ヴェッキオの信頼を得て銀行の発展に尽力(~1455年)。
1443年
メディチ家のバーゼル臨時事務所閉鎖(1431年~)。
1444年10月10日
エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びコジモ・イル・ヴェッキオの推奨と仲介によりフランチェスコ1世・スフォルツァと和を結び、アンコーナ、オージモ、レカナーティ及びファブリアーノを除くマルケ全域を封与してフランチェスコ1世・スフォルツァをその候と認める。しかし両者の関係、以後も曲折を経て複雑に展開。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオ、新たなバーリアを編成させ、1434年のアルビッツィ派被追放者の追放期限の10年延長を決めさせ、自派、自家への反対勢力の再興の道を閉ざす。
1444年
アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオニッコロ・ニッコリの遺した古典書と自ら収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院ミケロッツォの設計で作らせ、ニッコロ・ニッコリの遺言通り、かつエウゲニウス4世の侍従として市内にあったトンマーゾ・パレントゥチェリ(1397年~)の協力を得て定めた規則に則り、全ての研修者に開放させる。ヨーロッパ最初の公開図書館、誕生。
1445年11/12月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、自らフィレンツェに赴き、コジモ・イル・ヴェッキオら首脳に援助を求め、多額の軍資金を得る。
1446年
ヴェネツィア軍ミラノ城門に迫るとの報に、ヴェネツィアによるミラノ支配、ヴェネツィアの強大化を懸念していたフィレンツェ、ヴェネツィア軍の撤退の報に安堵。
1446年
メディチ銀行ロンドン支店開設。但し、これまでロンドンの業務を代行していたブールジュ支店と共同経営。同アヴィニョン支店開設。
1447年
アルフォンソ5世・デ・アラゴンの侵入防止、撃退がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死後の最大の課題となる。
1448年12月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、フィレンツェに使節を送り、シニョーリア及びコジモ・イル・ヴェッキオに資金援助を要請。翌1449年にかけて両者から、ことにコジモ・イル・ヴェッキオから多額の資金を得る。以後もコジモ・イル・ヴェッキオは、彼への支援を続ける。
1449年1月1日
コジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~1469年)の長子で後にil Magnificoと称されることになる。ロレンツォ・イル・マニーフィコ生(1449年~1492年)。
1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ(1388年~1457年)、ディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1450年6月20日
フィレンツェと対立するシエナと同盟を結んだヴェネツィアは、全ての支配領からフィレンツェ人を追放。
1450年
ニコラウス5世、1450年をカトリック大祭の年としてローマの諸建築の再建に着手し、人文主義者や芸術家をローマに呼ぶ。
かつてトンマーゾ・パレントゥチェリとしてフィレンツェコジモ・イル・ヴェッキオによるヨーロッパ初の公開図書館の開設(1444年)に協力したニコラウス5世、さらにヨーロッパ諸国に使節を派遣して文献を収集し、ヴァティカン図書館の基礎を築く。
1451年5月初め
ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンらの同盟に対抗すべく、この頃?、コジモ・イル・ヴェッキオネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニアニョーロ・アッチャイウオリ(?~1467年)、ルカ・デリ・アルビッツィ(1382年~1458年)らを委員とする新十人委員会を編成。
1451年
メディチ銀行ロンドン、ブールジュ両支店分離、独立。両支店ともイタリアからの輸入(明礬、絹、香料その他)額が輸出(羊毛)額を超過し、経営圧迫される。
1452/1453年
メディチ銀行、ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァの求めによりミラノに支店を開設。
1453年11月5日
イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティコジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。
このバーリア、アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。
1454年4月9日
ローディの和ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、ニコラウス5世の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってフランチェスコ1世・スフォルツァとヴェネツィアの交渉が妥結し、この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、コジモ・イル・ヴェッキオフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内、この日ローディで協定。5日後、フィレンツェが加入すると共に、この和が公表される。
突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。
1455年5月22日
大封建貴族ランカスター、ヨーク両家の王位継承を巡る争いに端を発するイングランド封建貴族の私闘、内乱(バラ戦争)発生(~1485年)。
1455年
バラ戦争によりイングランド王朝の財政荒廃し、以後、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の貸付、巨額になる。
1455年7月
メディチ銀行の総支配人(1435年~1455年)で、コジモ・イル・ヴェッキオの最も信頼するジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ死(1394年~1455年)。
コジモ・イル・ヴェッキオ、次子ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1421年~1463年)をメディチ銀行の総支配人とする。
メディチ銀行の隆盛この頃をもって終わる。
1456年
フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438年~1439年)に出席したギリシアの人文主義者Ioannes Argyropoulos(1415年頃~1487年)をフィレンツェ大学及び自分の息子らの師として招いたコジモ・イル・ヴェッキオ、公会議後に着想を得た哲学及び哲学的討論に関心を抱く有能な若者たちの集いアカデミア・プラトニカの実現に向かう。自分の侍医の息子で1451年頃からプラトン哲学を学ばせておいた最も有能な23歳の青年マルシリオ・フィチーノをその中心メンバーと想定。
1457年9月7日
有力家門で共和政と近年の政情に不満・不安を募らせる者たちの反体制の陰謀発覚。主導者Piero RicciCarlo de' Bardi、逮捕される。
1457年11月27日
コジモ・イル・ヴェッキオの最大の敵手ネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ、フィレンツェで死(1388年~1457年)。
1457年
この年以降間もない頃?、メディチ銀行ピサ支店廃止。
1458年1月11日
公債を償還するための財源を確保すべく、新カタスト法、定められる。これに民衆は喜び、有力家門、資産家は驚き反発し共和政への不満を強める。
カタスト法の必要性とその民衆による熱狂的支持を知悉しながらも上層有産者、有力者層の心情と動向にも逆らいたくないコジモ・イル・ヴェッキオ、後者はメディチ家の権力を縮減しようとしてきたことも考慮し、表面上、中立の姿勢をとる。
1458年4月15日
バーリアの設置及びその権限を厳しく限定する法が定められる。特定家門ないし実力者による独裁的統治を阻止しようと狙うこの法に、コジモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ派、共和政の更なる変改の必要性を痛感。
1458年7月2日~7月31日
メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。
この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院アントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。
1458年7月14日
カリストゥス3世、ナポリは正統継承権を欠きその支配領は全て教会の属すると宣言すると共にナポリ領民にフェッランテ・ダラゴーナへの一切の忠誠誓約を禁ずる勅書を発する。同時に、イタリア諸国、諸権力者にフェッランテ・ダラゴーナに対して戦うよう呼びかける。
しかしアンジュー家及びフランス王家のナポリへの野心を警戒するフランチェスコ1世・スフォルツァが勅書への不同意を宣言したのに続き、コジモ・イル・ヴェッキオフェッランテ・ダラゴーナのナポリ王位継承を承認。
1458年8月1日
ピッティらメディチ派、1434年9月以来召集されたことのないパルラメントを利用してのバーリアを設置、バーリアによる共和政の変改、の強硬手段を取る方途を選び、この日、プラティカ(特別諮問会議)でパルラメントの召集、開催を辛うじて認めさせる。
表面的には常に中立的態度を取り続けメディチ派内部で不満さえ抱かれていたコジモ・イル・ヴェッキオは、この日のプラティカの開催に先立ち、朝、フランチェスコ1世・スフォルツァの使節と極秘裏に会い、不測の事態の際のフランチェスコ1世・スフォルツァの軍事的支援について打診。
1458年8月10日
シニョーリアは、翌11日のパルラメント開催を布告し、14歳以上の市民に非武装でシニョーリア広場に集合するよう命令。
1458年8月10日
フランチェスコ1世・スフォルツァからコジモ・イル・ヴェッキオに、でき得る限りの軍事的支援を惜しまないとの返書、届く。
1458年8月18日
新設されたバーリアは、ジローラモ・マキアヴェッリの25年間の領外追放など陰謀関係者を厳しく処罰すると共に、1434年のアルビッツィ派の被追放者の追放期限を1494年まで延期することを決める。
1458年11月29日
百人委員会、設置される。
1459年5月5日
ピウス2世、フィレンツェ市内を離れボローニャに向かう。
コジモ・イル・ヴェッキオは、健康が優れないことを理由に、ついにピウス2世に表敬せず。
1459年
コジモ・イル・ヴェッキオは、次子でメディチ銀行総支配人のジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチの非力を補うためフランチェスコ・サッセッティ(1421年~1490年)を助手につける。
1459年
コジモ・イル・ヴェッキオは、ミケロッツォを用いて市内の中心ヴィアラルガに邸宅Palazzo Medici(メディチ宮)を完成(1444年~)。
1459年
この頃、コジモ・イル・ヴェッキオマルシリオ・フィチーノプラトンの著作のラテン語への翻訳、註解を指示し、そのための支援を始める。
1460年5~6月
ナポリ領で争う両派から——フェッランテ・ダラゴーナからはイタリア同盟を基に、アンジュー家派からはフィレンツェとフランス王家との長年の友好関係を元に——支援を求められる中で議論を続けた末、フィレンツェはナポリでの争いには関与しないことを決める。
1461年
イングランドのランカスター王朝の崩壊により、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の巨額の貸付、回収不能になる。加えて以後ヨーク王朝への貸付も巨額になり、合わせて支店の経営不振の一因となる。
1462年1月
アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出権をさらに延長して承認。
1462年
コジモ・イル・ヴェッキオは、マルシリオ・フィチーノプラトンの著作のラテン語への翻訳・註解の場としてカレッジの自分の別荘を提供。プラトン・アカデミーは、以後この別荘でマルシリオ・フィチーノを中心に発展。
1464年8月1日
コジモ・イル・ヴェッキオ、カレッジの別荘で死(1389年~1464年)。——長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~)、メディチ家の当主となる(1464年~1469年)。
折りしもメディチ銀行の衰退始まる。
1464年8月8日
ピウス2世コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。
1465年
コジモ・イル・ヴェッキオシニョーリアから祖国の父(Pater Patriae)の称号が与えられる。

肖像

 サン・マルコ祭壇画
 東方三博士の旅
 東方三博士の礼拝
 コジモ・イル・ヴェッキオの肖像
 コジモの帰還

座右の銘

 主の祈りで国家を治めることはできない。——この格言は同時代の様々なフィレンツェの文筆家によって彼の作とされている。

関連項目

 ローディの和
 イタリア同盟

別表記

 コシモ・デ・メディチ、コジモ・ディ・メディチ、大コージモ

異名

 国父、祖国の父(Pater Patriae)

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 造物主願望と不可視の導線
 歴史データベース
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『イタリア史』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『逆光のメディチ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『Lost Girls

記載日

 2006年10月12日以前