Dorotea Malatesta

ドロテア・マラテスタ

生没:1478年4月26日~1534年
出身:リーミニ
父:ロベルト・マラテスタ
夫:ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロ
子:ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロ
  バッティスタ・カラッチオーロ
  ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・カラッチオーロ
  マルコ・オリヴィエーロ・カラッチオーロ

概要

 ドロテア・マラテスタは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1478年4月26日
リーミニにて、生。
1489年2月11日
エリザベッタ・ゴンザーガグイドバルド・ダ・モンテフェルトロと結婚。ゴンザーガ家で育てられ、教育されていたドロテア・マラテスタは、ウルビーノへ従う。
1500年
ウルビーノにて、ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロと結婚。ウルビーノに残る。
1501年
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロと結婚。
1501年2月10日
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロのいるグラディスカ・ディゾンツォに行くため、ウルビーノを出発。
1501年2月14日
夜、ヴェネツィア共和国領チェルヴィア境界で、チェーザレ・ボルジアの、おそらくルッシとグラナローロで離散したスペイン人兵に襲撃され、供回りは負傷し、誘拐される(1501年2月13日、1501年2月15日)。
1501年2月15日
ロマーニャ国務官ジョヴァンニ・バッティスタ・パスコリが妻宛に手紙をしたためる。「あなたのところへ行きたいのはやまやまですが、今は重い足を引きずっていなければなりません。今夜、ウルビーノの若い女性がチェルヴィアラヴェンナの間でさらわれ、彼女の供は負傷しました。」
1501年2月17日
ヴェネト人のチェルヴィアポデスタヴェネツィア共和国元老院宛に手紙をしたためる。1501年2月14日、チェーザレ・ボルジアのスペイン人10名の武装兵に襲撃され、供をしていた女性1名と共にドロテア・マラテスタが誘拐される。
マリン・サヌードによればチェーザレ・ボルジアの仕業かもしれない。
1502年頃
ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロを出産。
1503年12月
ローマの修道院に避難。ヴェネツィア共和国元老院に、夫ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロから保障を取り付けて欲しい、さもなければ生涯修道院に隠遁することを許可して欲しいと嘆願。
1504年1月
ヴェネツィア共和国元老院はジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロを召喚し、事情を開示。彼は妻を許し、無実であると信じていると返答。
1504年1月4日
ヴェネツィア共和国元老院はドロテア・マラテスタからの手紙を受け取る。元老院に対する感謝。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロが自分を優遇することを誓わせるよう、さもなければ母親のもとに帰ることを許可して欲しいと嘆願。
1504年1月16日
ヴェネツィア共和国はディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスを捜索。
1504年
夫のもとに帰る。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロは妻の帰還を喜ぶ。
1504年頃
バッティスタ・カラッチオーロを出産。
1506年頃
ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・カラッチオーロを出産。
1508年頃
マルコ・オリヴィエーロ・カラッチオーロを出産。
1508年7月14日
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロ、死。
15??年
ウルビーノエリザベッタ・ゴンザーガのもとに身を寄せる。
1534年
死(1527年)。

備考

 ベルナルディーノ・バルディによれば、「ウルビーノの古い記録によれば、若い女性がどのようにしてか夫のもとに帰り、夫との間に4人の子供をもうけ、生涯未亡人だった。余生は公妃のもとで暮らし、彼女がその若い女性だったと言われている。」

誘拐事件

 犯人はディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスだったと考えるのが妥当だろう。面識さえない、ヴェネツィアの一将軍の妻を人質にとってもチェーザレ・ボルジアに何の利益ももたらさない。チェーザレ・ボルジアディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスを処罰しなかったのは、自分への非難より部下の忠誠心を重んじたのだろうか。
 もしかしたら、ドロテア・マラテスタは被害者ではなく、あらかじめ犯人と通じていた可能性も考えられる。ウルビーノからグラディスカ・ディゾンツォに行くのに海路ではなく陸路で向かっていたが、ペーザロから船に乗った方が速かくかつ安全だったのではないか。また、彼女がいつどこを通るのかをどうして犯人が知りえたのか。
 チェーザレ・ボルジア失脚後、1503年12月、ローマに解放されたのは、ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスが彼女の安全のために避難させたのではないだろうか。また、夫のもとに帰るのに消極的だったのは、ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスとの間にすでに子供をもうけていたからではないか。元老院に何度も嘆願していたのは、実はその子を夫の子として認めてもらうためだったのかもしれない。
 マリン・サヌードが日記に詳細を書かなかったのは、この子供をかばったためだろうか。それとも彼が思っていたようにチェーザレ・ボルジアが犯人として糾弾できなかったせいだろうか。ドロテア・マラテスタが事情を話していれば全て解決していたはずだが、犯人をかばって言わなかったのか、あるいは子供の父親の名前を明るみにしたくなかったのか。
 ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロが実際に1502年頃生まれていたとすると夫の子ではないわけだが、これに関して書かれた文献を今捜索中。

別表記

 ドロテア・ダ・クレーマ、DorotheaDorotea Caracciolo

外部リンク

 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Google Books
 Google Books
 Google Books
 Treccani.it

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前