Eleonora di Toledo

エレオノーラ・ディ・トレド

生没:1522年~1562年12月17日
父:ペドロ・デ・トレド
夫:コジモ1世・デ・メディチ
子:マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ
  フランチェスコ1世・デ・メディチ
  イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ
  ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ
  アントーニオ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ
  ガルツィア・デ・メディチ
  フェルディナンド1世・デ・メディチ

概要

 エレオノーラ・ディ・トレドは、16世紀の女性。

年表

1539年3月
結婚。
1539年6月29日
コジモ1世・デ・メディチカール5世ナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。
1549年
コジモ1世・デ・メディチ、妻エレオノーラ・ディ・トレドの生活を快適にするため、アルノ河の対岸のピッティ宮殿を購入し大改造・拡張工事を始めさせる。
1553年2月
海路リヴォルノに着いたペドロ・デ・トレド、フィレンツェにコジモ1世・デ・メディチ及びその妻、自分の娘エレオノーラ・ディ・トレドを訪ねるが、この地で急死(1484年~)。
1562年12月17日
コジモ1世・デ・メディチの妻エレオノーラ・ディ・トレド、病死(1522年~)。
1561年の娘ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチの死に続くこの年の家族3名の相次ぐ死を巡って、以後、ガルツィア・デ・メディチジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチを刺殺し、怒ったコジモ1世・デ・メディチガルツィア・デ・メディチを刺殺し、エレオノーラ・ディ・トレドは悲嘆・絶望のあまり医師の処方を拒んで死んだ、との「メディチ家の悲劇」伝説(虚偽)が生ずる。
1857年9月18日~1857年9月25日
発掘調査が行われる。
死に装束が修復され、ピッティ宮殿衣装博物館に展示される。

 メディチ家礼拝堂

肖像

 エレオノーラ・ディ・トレドと息子の肖像
 エレオノーラ・ディ・トレドの肖像

チェーザレ・ボルジア数

 子ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 The Medici Archive Project

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lost Girls

記載日

 2005年5月29日以前