Emanuele Filiberto di Savoia

エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア

生没:1528年~1580年
妻:マグリット・ド・ヴァロワ
子:カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイア

概要

 エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは、16世紀の男性。

年表

1553年7月
この月までにカール5世軍、フランドルにおけるアンリ2世の主要な要塞テルアーヌを長期の包囲戦の末、占領。さらにこの月カール5世軍、1553年6月23日フランドル総督・軍総指揮官に任じられたCarlo II (il Buono)の子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)指揮の下で包囲してきたエダンを占領。この包囲に抗したアンリ2世軍の指揮官・カストロ公・(故パウルス3世の孫)Orazio Farnese、戦死(1531年~:在位1549年~)。
1553年8月16日
Carlo II (il Buono)、ピエモンテの自領を回復できないまま死(1486年~:在位1504年~)——エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)、サヴォイア公となる(在位~1580年)。
1557年6月7日
メアリー1世フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1559年4月3日
アンリ2世フェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de Franceメアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1559年7月10日
パリにて、マグリット・ド・ヴァロワと結婚。
1562年8月8日
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、カトー・カンブレジの和(1559年)では故アンリ2世から取り戻せなかった地点の内、ピネローロなどを除くトリノ、キエーリ、キヴァッソ、ヴィッラノーヴァ・ダスティの返還をカトリーヌ・メディシスに認めさせることに、フランスの宗教的・政治的混乱を利用し妃マグリット・ド・ヴァロワの助力を得ながら成功(ブロワ協定)。
1563年2月7日
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアマグリット・ド・ヴァロワ夫妻、トリノに入る。エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアはかねてからの意図通りこの地をサヴォイア公国の首都と確定。
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前