Erasmus

エラスムス

生没:1469年~1536年

概要

 エラスムスは、人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。

著作

 痴愚神礼讃

年表

1466年10月28日
人文主義者エラスムス、ネーデルランドのロッテルダムに生(1466年~1536)。(但し1465年、1469年生の異説あり)。
1500年6月末/7月
エラスムスAdagiorum collectanea(格言集)をパリで刊行。
1504年2月15日
エラスムスEnchiridion militis christiani(キリスト教兵士提要)(Lucubratiunculae(螢雪余論)所収)をアントウェルペンで刊行。(但し1503年刊の異説あり)。
1508年9月
エラスムスAdagiorum collectanea(格言集)を増補しAdagiorum chiliades(多数の格言集)と改題の上、ヴェネツィアで刊行。
1509年8月
エラスムスEncomium moriae(痴愚神礼讃)の稿をトマス・モアに献呈。
1511年6月10日
この頃、エラスムスEncomium moriae(痴愚神礼讃)をパリで刊行。
1516年2月
エラスムス新約聖書ギリシア語校訂本文に教会公認訳によらない自身のラテン語訳を付したNovum instrumentum(校訂ギリシア語新約聖書)をバーゼルで刊行。新約聖書ギリシア語原文の最初の印刷本となる。
間もなくこれを、かねてから恩恵を受けてきたレオ10世に献呈。
1516年4月~1516年8月
エラスムスOpera divi Eusebii Hieronymi(聖ヒェロニムス著作集)全9巻をバーゼルで刊。
1516年5月
エラスムスInstitutio principis christiani(キリスト教君主教育)をバーゼルで刊行。
1517年3月27日
ヨハネス・ロイヒリン、主著De arte Cabbalistica(カバラ研究)をドイツ・ElsaßHagenauで刊行し、エラスムスに献呈。
1517年12月
エラスムスQuerela pacis(平和の訴え)をバーゼルで刊行。
1518年3月30日
エラスムスEncomium matrimonii(結婚礼賛)、Encomium artis medicae(医学礼賛)、ブリュッセル近郊ルーヴェンで刊行。
1518年11月
エラスムスColloquia(対話集)をバーゼルで刊行。
1519年3月28日
マルティン・ルターエラスムスに書簡を送り、教会との対決を支援するよう間接的に要請。
1519年5月30日
エラスムスマルティン・ルターに返書を送り、彼の著書はなお未読なので彼への賛否は決しかねるとした上、自分は学問に身を捧げる、「性急さ」よりも「謙虚さ」によってこそ目的を達し得る、と述べて彼を支持できないことを間接的に伝える。
1522年12月1日
自分のかつての神学講義の聴講生エラスムスから、自分の教皇即位後に、彼のカトリック信仰を証言する書簡を受け取っていたハドリアヌス6世、この日、彼にその学識をマルティン・ルターに向けるよう要請する書簡を送る。
1522年12月23日
エラスムス、この日付の書簡をハドリアヌス6世に送り、ルター派への対応について、自分の態度は語らず、教会の不名誉となるような弾圧はしないよう要望。
1523年1月23日
ハドリアヌス6世エラスムスに再び書簡を送り、彼をローマに招くと共にマルティン・ルターを論駁するよう重ねて要請。
1523年3月22日
エラスムスハドリアヌス6世に書簡を送り、一派に与して争いに加わるよりは死を選ぶとマルティン・ルター論駁を冷たく断る。
1524年2/3月
この頃までにエラスムス、「黙示録」を除く新約聖書の釈義を完成し、バーゼルで刊行。
1524年4月15日
マルティン・ルターエラスムスに書簡を送り、「我々の悲劇の単なる傍観者」に留まって欲しいと述べて自分への批判を差し控えるよう間接的に要請。
1524年9月1日
エラスムスDiatribe de libero arbitrio(自由意志論)をバーゼルで刊行し、マルティン・ルターを論難。
1525年末
マルティン・ルターDe servo arbitrio(奴隷的意志論)をヴィッテンベルクで刊行してエラスムスに反論し、彼と決別。マルティン・ルターの孤立化、深まる。
1526年2月20日
この月、自分に対するマルティン・ルターの反論を入手して一読したエラスムス、直ちにHyperaspistes adversus servum arbitrium Lutheri(ルターの奴隷的意志論に対する反論)を執筆し、この日に序文を付して印刷に回す。1526年2月または1526年3月バーゼルで刊行。
1526年4月11日
エラスムスマルティン・ルターに書簡を送り、自分に対する彼の「気狂いじみた罵言」、「攻撃」を指摘した上、「要するにあなたは聖俗一切の事柄を混乱に投げ込むように福音の旗印を押し立てている」と厳しく批判。
1526年4月16日
エラスムスフェルディナンドの側近、ウィーン司教Johannes Faberに書簡を送り、ローマ教会とルター派の相互不干渉、共存を勧奨。
1526年5月16日
パリ大学神学部、エラスムスColloquia(対話集:1526年2月刊)を禁書とする。
1526年6月14~23日
エラスムス、直接フランソワ1世、パリ高等法院及びパリ大学神学部に書簡を送り、思想検察に慎重を期すよう勧奨。
1527年3月30日
エラスムストマス・モアに書簡を送り、自説を展開した上、マルティン・ルターに対する反論の続編を執筆する意図を披瀝。
1533年8月末/9月初旬
エラスムスDe sarcienda ecclesiae concordia(教会の美しき協調について)をバーゼルで刊行し、新・旧両教派に互譲の精神を求め教義の差異に拘らないよう説くが、両派から批判を受ける。
1536年7月11/12日
深夜、エラスムス、バーゼルで死(1469年~)。
1547年7月
イングランド王Edward VI、勅令を発し、各教区教会に英語訳聖書、エラスムスの新約聖書釈義(1524年)の英語訳T. CranmerThe Book of Homilies(説教集:1547年刊)の備付及び偶像崇拝の対象となる聖像壁画の破壊を命じ、イングランド国教会のプロテスタント化に着手。
1559年1月
禁書目録の公表:パウルス4世ローマの異端審問所を初めとする全ての異端審問所が全キリスト教徒を防衛するための、検閲及び刑罰の恐怖を与えるべき著者と書籍の目録(Index librorum prohibitorum(禁書目録))を公表。この中にエラスムスニッコロ・マキアヴェッリの全作品などが登録される。

別表記

 Desiderius Erasmus

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『サイレント・マイノリティ』
 『修道院』
 『性病の世界史』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前