- 生没
- 1508年4月4日~1559年10月3日
- 出身
- フェッラーラ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- アルフォンソ1世・デステ
- 母
- ルクレツィア・ボルジア
- 妻
- ルネ・ド・フランス
- 子
- アンナ・デステ
アルフォンソ2世・デステ
ルクレツィア・デステ
エレオノーラ・デステ
ルイジ・デステ
概要
エルコーレ2世・デステは、16世紀のイタリアの男性。
在位
フェッラーラ公 1534年~1559年
モデナ公 1534年~1559年
先代:アルフォンソ1世・デステ
次代:アルフォンソ2世・デステ
レッジョ公 1534年~1559年
先代:アルフォンソ1世・デステ
次代:アルフォンソ2世・デステ
年表
1508年4月4日
フェッラーラで生(1508年4月5日)。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世、カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステにカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グイッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1527年11月15日
アルフォンソ1世・デステ、オデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステとルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。
1528年6月28日
協定に基づきパリでルネ・ド・フランスと結婚。
1528年11月12~30日
エルコーレ2世・デステ、新婦ルネ・ド・フランスを伴って帰り、レッジョ、モデナ、フェッラーラで次々に盛大な祝典を開く。
1528年12月
フィレンツェはアルフォンソ1世・デステの子エルコーレ2世・デステを全軍の最高司令官とする契約を結ぶ。しかしエルコーレ2世・デステは着任せず、代理を派遣して寄越す。
1530年1月中旬/下旬
前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステのカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。
1534年10月17日~10月18日
カール5世への対抗上、教皇とシュマルカルデン同盟諸侯の双方に宥和策をとるフランソワ1世に新教徒側内部でも幻想的な期待が生じていたフランスで、ローマ教会のミサを罵倒し、教皇との妥協に傾くルター派を叱咤し、新教の信仰原理を真正面から対置する激越なビラがパリ、ブロワ、ルーアンなど各都市で、深夜、一斉に貼り付け・撒布され、アンボワーズ城のフランソワ1世の寝室の前にまで置かれる。(檄文事件)
パリ高等法院、パリ大学神学部及びフランソワ1世、直ちに異端撲滅に動き出し、異端容疑者を次々に検挙。
1534年10月31日
アルフォンソ1世・デステ死。——その子エルコーレ2世・デステ(1508年~1559年)、フェッラーラ、モデナ、レッジョ公となる(在位1534年~1559年)。
1536年4月中旬~下旬
J. Calvin、エルコーレ2世・デステがカール5世の圧力を受けて宗教改革者たちの滞在を拒み始めたため、フェッラーラを去る。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世とカール5世、ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世、ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラ公エルコーレ2世・デステ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1543年
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1554年夏
妻ルネ・ド・フランスがJ. Calvinの教説を信仰しフェッラーラをイタリアにおけるプロテスタンティズム信仰の中心地と化しつつあったのに対しエルコーレ2世・デステ、アンリ2世やユリウス3世の怒りを招くのを恐れ、フェッラーラからプロテスタントを追放した上アンリ2世に異端審問官の派遣を要請していたが、この頃、アンリ2世より派遣された審問官Mathieu Ory (Oriz)、到着。
1555年9月14日
Carlo Carafa、教皇庁防衛のため対カール5世陣営の攻守同盟を締結するよう呼びかける全権大使をフェッラーラのエルコーレ2世・デステのもとに送る。
1556年11月13日
エルコーレ2世・デステ、パウルス4世・アンリ2世の攻守同盟(1555年)に加盟。
1557年1月17日
ヴェネツィアからの帰途フェッラーラに立ち寄ったCarlo Carafa、エルコーレ2世・デステを同盟軍総指揮官に任命。
1557年2月12日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、トリノを発ってレッジョでエルコーレ2世・デステ軍と合流し、この日、François I de Lorraineは自身の舅でもあるエルコーレ2世・デステに同盟軍総指揮官の杖を手渡す。
1557年10月初旬
フェリペ2世、パウルス4世・アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1557年初冬
孤立感を深めるエルコーレ2世・デステ、コジモ1世・デ・メディチを介してフェリペ2世との和解の方途を探り始める。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノのフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1558年5月18日
フェリペ2世、1557年末からのFernando Álvares de Toledoを介してのコジモ1世・デ・メディチの働きかけに応じ、パウルス4世・アンリ2世陣営を離れて中立を維持することを条件にエルコーレ2世・デステを赦免。両者和解しエルコーレ2世・デステはフェリペ2世に占領された(1557年)領地を回復。
1558年6月18日
コジモ1世・デ・メディチ、フェリペ2世とエルコーレ2世・デステの和解(1558年5月)の保障として娘ルクレツィア・デ・メディチ(1545年~1561年)をエルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステに与え、この日、その結婚式をフィレンツェで盛大に挙行。
1558年
1559年10月5日
死。
肖像
墓
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
そらのお城
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JDA's Family Tree
kleio.org
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前