アラン・ダルブレ Alain d'Albret
- 生没
- 1440年~1522年10月1日
- 父
- ジャン1世・ダルブレ
- 母
- カトリーヌ・ド・ロアン
- 妻
- フランソワーズ・ド・シャティヨン
- 子
- ジャン・ダルブレ
ピエール・ダルブレ
ガブリエル・ダルブレ
イザベル・ダルブレ
アンヌ・ダルブレ
ルイーズ・ダルブレ
アマニュー・ダルブレ
シャルロット・ダルブレ
概要
アラン・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性。
容貌
足を引きずり、小柄で、険しく冷たい眼差しを持ち、粗野。
在位
ギュイエンヌ公
カストル伯
年表
1440年
生(1448年)。
14??年
ルイ11世のもとで育てられる。
1456年
フランソワーズ・ド・シャティヨンと結婚(1470年)。
1480年
妻フランソワーズ・ド・シャティヨン、男児出産中に死(1481年)。
1480年12月11日
カステルジャルーの記録に、故フランソワーズ・ド・シャティヨンの葬儀の費用が記載されている。
1486年
アンヌ・ド・ブルターニュと結婚することを期待し、フランス王家に反抗するブルターニュ軍に援軍を派遣。
1487年
道化戦争:ナントの戦い。
1490年12月19日
アンヌ・ド・ブルターニュが、この日マクシミリアン1世と代理結婚。
1491年
アンヌ・ド・ブルターニュがマクシミリアン1世と代理結婚したことを知って失望し、ルイ2世・ド・ラ・トレモイユへナントの城を明け渡す。
シャルル8世と和睦。
1495年
フェルナンド2世・デ・アラゴンと協定を結ぶ。レリン伯ルイ2世・ド・ボーモンを追放。
1499年3月23日
カステルジャルーにて、娘シャルロット・ダルブレの持参金として3万リーブル・トゥルノワ(9万フラン)支払うこと。結婚式に5千リーブル、年賦1千5百リーブルで全額まで支払うという契約書作成。この総額は故フランソワーズ・ド・シャティヨンの遺産の相続分であり、これをもってシャルロット・ダルブレは父と母の遺産相続を放棄することになる。
シャルロット・ダルブレに10万リーブル・トゥルノワ、息子アマニュー・ダルブレに枢機卿を叙位することを教皇アレクサンデル6世に要求。
1499年3月24日
娘シャルロット・ダルブレとチェーザレ・ボルジアの婚約について交渉するため、ブロワに息子ガブリエル・ダルブレを派遣。レニョー・ド・サン=シャマンとジャン・ド・カルヴィモンという2人の助言者を同行させる。
1499年4月29日
ネラックにて、娘シャルロット・ダルブレとチェーザレ・ボルジアの婚約の条件を決定。ルイ12世の代理人ラ・ロマジェール領主が持参した、アレクサンデル6世がチェーザレ・ボルジアに与えた免除証を「見て触る」ことを要求。チェーザレ・ボルジアに与えられた10万リーブル・トゥルノワの持参金の確認、実際の収入、ヴァレンティノワ公国、ディオワ伯領、イスーダンの塩倉庫の収入など、ルイ12世から与えられた全ての恩恵の確認を求める。
この書簡はベアルン地方の旧都ポーの公文書館に保存されている。
1499年5月10日
ブロワにて娘シャルロット・ダルブレとチェーザレ・ボルジアの婚約を承認。
契約はフランス王と王妃の命令の下に行われ、王と王妃、ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿、フランス大法官、サンス大司教、ヌムール公、オルヴァル公、バイユーとヴィヴィエの司教、トゥルノン領主、ブルターニュの副大法官、ギュイエンヌ公の代理人が出席。フランス王と王妃、ナヴァラ王と王妃、アラン・ダルブレ卿によって承認される。
結婚の条件は、チェーザレ・ボルジア公爵は早急にシャルロット・ダルブレと結婚すること。アラン・ダルブレは娘の持参金として3万リーヴルを提供し、その内6千リーヴルは結婚後8ヶ月以内に支払われ、残りは年間1千5百リーヴルずつ支払われる。持参金に対する権利を放棄する見返りとして、シャルロット・ダルブレは父親と亡き母の遺産に対する全ての権利を放棄する。結婚後、全ての動産と不動産を共有する。チェーザレ・ボルジアがシャルロット・ダルブレより先に亡くなった場合、妻は年間4千リーヴルの年金を受け取る権利を持ち、好きな家を選んで住むことができる。未成年の子供が残された場合、妻は子供の世話と財産管理を行う。
長男が主たる相続人となり、公爵の全財産、領地、及び貴重品を相続する。息子がいない場合、長女が相続人となる。
シャルロット・ダルブレは自分の財産を自由に処分する権利を持つ。フランス王は、チェーザレ・ボルジアに与えたローヌ川に関する権利に代わる報酬を提供する。
チェーザレ・ボルジアはルイ12世から与えられた10万リーブルをアラン・ダルブレに渡し、シャルロット・ダルブレの財産となる土地に投資することを約束。アラン・ダルブレは、その10万リーブルを王国の4人の財務官によって保証されることを要求。
双方は契約を遵守し、違反した場合は相手に損害賠償を支払うことを約束する。契約はブロワの裁判所の管轄下に置かれ、双方の財産を担保にする。
別表記
Allain、Alain le grand、Alano d'Albret、de Lebret
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Wikipedia
Wikipedia - Spanish conquest of Iberian Navarre
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
ジャン・ダルブレ Jean d'Albret
- 生没
- 1469年~1516年6月17日
- 出身
- セギュール・ル・シャトー
- 没地
- モナン
- 父
- アラン・ダルブレ
- 母
- フランソワーズ・ド・シャティヨン
- 妻
- カタリナ1世・デ・ナヴァラ
- 子
- アンヌ・ダルブレ
マドレーヌ・ダルブレ
カトリーヌ・ダルブレ
ジャン・ダルブレ
キトゥリー・ダルブレ
アンドレ・フェビュス・ダルブレ
エンリケ2世・デ・ナヴァラ
マルタン・フェビュス・ダルブレ
ボナバンチュール・ダルブレ
フランソワ・ダルブレ
シャルル・ダルブレ
イザボー・ダルブレ
概要
ジャン・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ナヴァラ王 1484年~1516年
年表
1469年
生。
1484年7月14日
フォワ領オルテズにて、カタリナ1世・デ・ナヴァラとの結婚式を挙げる。ナヴァラ共同統治王となる。
1494年1月10日
サンタ・マリーア・デ・パンプローナ大聖堂にて、妻カタリナ1世・デ・ナヴァラと共にナヴァラ王として戴冠。
義母マドレーヌ・ド・ヴァロワが摂政を退任。
1499年5月
妹シャルロット・ダルブレが、チェーザレ・ボルジアと結婚。
1506年10月25日
チェーザレ・ボルジア、捕らえられていたヴァレンシアのメディナ・デル・カンポを逃亡し、1506年12月3日、義兄ナヴァラ王ジャン・ダルブレのもとに到着。
1512年5月3~17日
ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。
ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。
このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。
ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。
ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。
1512年7月18日
1512年7月21日
ユリウス2世は、ジャン・ダルブレを分離公会議派に与したとの理由を挙げて破門。
1516年
スペインに併合されたナヴァラの前王ジャン・ダルブレ(?~)及び王妃カトリーヌ・ド・フォア(?~)死。
1516年6月17日
死(1516年6月14日)。
別表記
Jean III d'Albret
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アマニュー・ダルブレ Amanieu d'Albret
- 生没
- 1478年頃~1520年12月20日
- 没地
- カステルジャルー
- 父
- アラン・ダルブレ
- 母
- フランソワーズ・ド・シャティヨン
概要
アマニュー・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1500年3月20日~1520年12月20日
任命した教皇:アレクサンデル6世
年表
1502年2月6日?
フェッラーラ到着。
アレクサンデル6世は、アドリアーナ・デル・ミラとジェロニマ・リャンソルとオルシーニ家の女性にフェッラーラに留まり、ロンバルディアでシャルロット・ダルブレを迎え、ローマに同行するように指示していた。
1502年2月
少し滞在した後、ローマへ出発。
1502年2月7日
ローマ到着。復活祭の1502年3月27日にローマに来ることになっていたシャルロット・ダルブレが、この旅行を延期することを告げる。
外部リンク
GCatholic.com
Genealogy.EU
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipédia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
シャルロット・ダルブレ Charlotte d'Albret
- 生没
- 1479年~1514年3月11日
- 出身
- フランス王国ネラック
- 没地
- フランス王国ラ・モット=フイユ
- 父
- アラン・ダルブレ
- 母
- フランソワーズ・ド・シャティヨン
- 夫
- チェーザレ・ボルジア
- 子
- ルイーズ・ボルジア
概要
シャルロット・ダルブレは、15世紀から16世紀のフランスの女性。ナヴァラ王ジャン・ダルブレの妹。フランス王ルイ12世の従妹。王妃ジャンヌ・ド・ヴァロワ、アンヌ・ド・ブルターニュの官女。
年表
1479年
ネラック城にて、生(1480年)。
1480年
母フランソワーズ・ド・シャティヨン、男児出産中に死(1481年)。
1497年頃
アンヌ・ド・ブルターニュの官女になる。
1498年8月
ある書簡に、ヴァレンティノワ伯爵領を公国に昇格させ、同時に「この私たちの王国で行う予定のかの人物の結婚のために、チェーザレ・ボルジアにこの公国を与える」と述べられている。
1499年5月初旬
この頃?、チェーザレ・ボルジアと結婚。
1499年5月10日
ブロワにてシャルロット・ダルブレと婚約。
1499年5月12日
ブロワにてチェーザレ・ボルジアとの結婚式を挙げる。
1499年5月20日
ミラノ攻略に向かうルイ12世に、チェーザレ・ボルジアも随行。これにシャルロット・ダルブレも同行し、軍がリヨンで待機している約2ヶ月間が2人が共に過ごす最後の時となる。
1499年夏
夫チェーザレ・ボルジアと共にラ・モット=フイユ城やイスーダンの白塔に滞在し、蜜月を過ごす。
その後、夫チェーザレ・ボルジアとは手紙や、贈り物のやり取りがあったようである。手紙は未発見。
1499年
夫チェーザレ・ボルジアの出発後、イスーダンの白塔に居住。
ルイ12世の事実上の人質となっていたシャルロット・ダルブレは、チェーザレ・ボルジアとところはもちろん、兄ナヴァラ王ジャン・ダルブレのところにも行くことができず。
1500年5月17日
ルイーズ・ボルジアを出産。
1502年
兄アマニュー・ダルブレ枢機卿と共に、娘ルイーズ・ボルジアを連れて、チェーザレ・ボルジアに会いにイタリアに行く準備を整えるが、中止。旅行中止の理由には、シャルロット・ダルブレが重病に罹ったという説と、ルイ12世が彼女がフランスを離れて夫と再会することを許さなかったという説がある。
1504年
ラ・モット=フイユ城を購入し、居住。
1506年頃
夫チェーザレ・ボルジアの代わりに、フランス宮廷に赴いて嘆願。持参金とフランス王に軍人として仕えたい旨伝えるが、ルイ12世にヴァレンティノワ公国とディユワ伯領とイスーダン領を取り上げられ、持参金は約束の10万リーブル・トルノワから4千リーブル・トルノワに下げられる。
1507年3月12日
夫チェーザレ・ボルジア死。
ラ・モット=フイユ城の使用している数部屋以外は全て閉じ、城内を黒い布で覆い、喪服を着続け、馬にも黒を着せる。
1514年3月11日
遺言書を作成。公証人ジェルマン・コラドンが作成し、アンドレ・リショーム司祭、マルタン・アミソン書記、セバスティアン・コパン医師、ジェルマン・ブルドーなどが証人として立ち会った。彼女はヴァレンティノワ公爵夫人、ディオワ伯爵夫人、イスーダン、ネレ、ラ・モットの領主である。故ベリー公ジャンヌ・ド・ヴァロワが創設したブールジュのノートルダム・ラ・ノンシアード修道院に埋葬すること。イスーダンの現サン・シール教会で毎年1回のミサを執り行ってもらうために、修道院に1百リーヴル・トゥルノワの年金又は1千フランを一括で支払うこと。ノートルダム・ド・イスーダンの聖職者に対しても、現在行われているミサを永続的に行うために2百40リーヴル・トゥルノワを支払うこと。教会の装飾品は埋葬される修道院に寄贈し、一部は娘の礼拝堂に残すこと。白いサテンの布はイスーダンのコルデリエ修道院に寄贈し、30フランを一括で支払うこと。娘を唯一の全財産相続人とし、養育と財産管理をアングレーム伯爵夫人ルイーザ・ディ・サヴォイアに託す。トゥヴァン夫人カトリーヌ・ド・レニャーが引き続き養育係として、年俸50リーヴル・トゥルノワを受け取ること。カトリーヌ・ド・レニャーの姪であるマドレーヌ・ド・マゼロンも侍女として仕えること。最後の待降節の説教を行った修道士に4エキュ支払うこと。おばの故シャルロット・ド・シャティヨンの領地モントレゾールについておばの遺言に基づき処理するよう、管理を任されているタリー領主で騎士見習いのアントワーヌ・アミニョンに指示。マリー・ド・ラヴワンに3百リーヴル・トゥルノワを一括で支払うこと。衣服は侍女や使用人に分配すること。心臓と内臓はラ・モットの教会に埋葬すること。
ラ・モット=フイユ城にて、死(1514年3月14日)。
1514年
サンティレール教会に埋葬される。
1514年5月12日
財産目録が作成される。
82枚の綴れ織の内、47枚はフェルタンとノルマンディー製、他キリストの受難、モーセ、幼子モーセ、ノアの物語、ヘラクレス、アレクサンドロス3世、バベルの塔、一角獣などを描写。
埋葬地
別表記
シャルロット・ダルベール、Carlotta d'Albret
外部リンク
Academia.edu
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Numilog.com
Sophie Swerts Knudsen
THE BORGIAS wiki
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Inventaire de la duchesse de Valentinois, Charlotte d'Albert』
『Lucretia Borgia』
『The Derelict Duchess』
『The Life of Cesare Borgia』
エンリケ2世・デ・ナヴァラ Enrique II de Navarra
- 生没
- 1503年4月18日~1555年5月25日
- 出身
- ナヴァラ王国サングエサ
- 没地
- ナヴァラ王国ベアルン地方ポー
- 父
- ジャン・ダルブレ
- 母
- カタリナ1世・デ・ナヴァラ
- 妻
- マルグリット・ド・ナヴァル
- 子
- ジャンヌ・ダルブレ
概要
エンリケ2世・デ・ナヴァラは、16世紀の男性。
在位
ナヴァラ王 1517年~1555年
ドルー伯 1522年~1555年
アルマニャック伯 1527年~1555年
埋葬地
ベアルン、レスカー大聖堂
外部リンク
ジャンヌ・ダルブレ Jeanne d'Albret
- 生没
- 1528年1月7日~1572年6月9日
- 父
- エンリケ2世・デ・ナヴァラ
- 母
- マルグリット・ド・ナヴァル
- 夫
- アントワーヌ・ド・ブルボン
- 子
- アンリ4世
概要
ジャンヌ・ダルブレは、16世紀のフランスの女性。
外部リンク
参考文献
『世界大百科事典』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年7月8日