アラン・ダルブレ Alain d'Albret
- 生没
- 1440年~1522年
- 父
- ジャン・ダルブレ
- 母
- カテリーヌ・ド・ローアン
- 妻
- フランソワーズ・ド・シャティオン
- 子
- ジャン・ダルブレ
アマニュー・ダルブレ
ピエール・ダルブレ
シャルロット・ダルブレ
ルイーズ・ダルブレ
ガブリエル・ダルブレ
イザベル・ダルブレ
概要
アラン・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ギュイエンヌ公
カストル伯
年表
1495年
フェルナンド2世・デ・アラゴンと協定を結ぶ。レリン伯ルイ2世・ド・ボーモンを追放。
1499年3月23日
カステルジャルーにて、娘シャルロット・ダルブレの持参金として3万リーブル・トゥルノワ(9万フラン)支払うこと。結婚式に5千リーブル、年賦1千5百リーブルで全額まで支払うという契約書作成。この総額は故フランソワーズ・ド・シャティオンの遺産の相続分であり、これをもってシャルロット・ダルブレは父と母の遺産相続を放棄することになる。
シャルロット・ダルブレに10万リーブル・トゥルノワ、息子アマニュー・ダルブレに枢機卿を叙位することを教皇アレクサンデル6世に要求。
別表記
Allain、Alain le grand、Alano d'Albret、de Lebret
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Wikipedia
Wikipedia - Spanish conquest of Iberian Navarre
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
ジャン・ダルブレ Jean d'Albret
- 生没
- 1469年~1516年6月14日
- 父
- アラン・ダルブレ
- 母
- フランソワーズ・ド・シャティヨン=リモージュ
- 妻
- カタリナ1世・デ・ナヴァラ
- 子
- アンヌ・ダルブレ
マドレーヌ・ダルブレ
カトリーヌ・ダルブレ
ジャン・ダルブレ
キトゥリー・ダルブレ
アンドレ・フェビュス・ダルブレ
エンリケ2世・デ・ナヴァラ
ボナバンチュール・ダルブレ
マルタン・フェビュス・ダルブレ
フランソワ・ダルブレ
シャルル・ダルブレ
イザボー・ダルブレ
概要
ジャン・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ナヴァラ王 1484年~1516年
年表
1469年
生。
1484年7月14日
フォワ領オルテズにて、カトリーヌ・ド・フォワとの結婚式を挙げる。ナヴァラ共同統治王となる。
1494年1月10日
サンタ・マリーア・デ・パンプローナ大聖堂にて、妻カトリーヌ・ド・フォワと共にナヴァラ王として戴冠。
義母マドレーヌ・ド・ヴァロワが摂政を退任。
1499年5月
妹シャルロット・ダルブレが、チェーザレ・ボルジアと結婚。
1506年10月25日
チェーザレ・ボルジア、捕らえられていたバレンシアのメディナ・デル・カンポを逃亡し、1506年12月3日、義兄ナヴァラ王ジャン・ダルブレのもとに到着。
1512年5月3~17日
ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。
ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。
このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。
ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。
ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。
1512年7月18日
1512年7月21日
ユリウス2世は、ジャン・ダルブレを分離公会議派に与したとの理由を挙げて破門。
1516年
スペインに併合されたナヴァラの前王ジャン・ダルブレ(?~)及び王妃カトリーヌ・ド・フォア(?~)死。
別表記
Jean III d'Albret
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アマニュー・ダルブレ Amanieu d'Albret
- 生没
- 1478年頃~1520年12月20日
- 父
- アラン・ダルブレ
概要
アマニュー・ダルブレは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1500年3月20日~1520年12月20日
任命した教皇:アレクサンデル6世
年表
1502年2月6日?
フェッラーラ到着。
アレクサンデル6世は、アドリアーナ・デル・ミラとジローラマ・ランソルとオルシーニ家の女性にフェッラーラに留まり、ロンバルディアでシャルロット・ダルブレを迎え、ローマに同行するように指示していた。
1502年2月
少し滞在した後、ローマへ出発。
1502年2月7日
ローマ到着。復活祭の1502年3月27日にローマに来ることになっていたシャルロット・ダルブレが、この旅行を延期することを告げる。
外部リンク
GCatholic.com
Genealogy.EU
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipédia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
シャルロット・ダルブレ Charlotte d'Albret

- 生没
- 1480年~1514年3月11日
- 出身
- フランス王国
- 没地
- フランス王国ラ・モット=フイユ
- 父
- アラン・ダルブレ
- 母
- フランソワーズ・ド・シャティオン
- 夫
- チェーザレ・ボルジア
- 子
- ルイーズ・ボルジア
概要
シャルロット・ダルブレは、15世紀から16世紀のフランスの女性。ナヴァラ王ジャン・ダルブレの妹。フランス王ルイ12世の従妹。王妃ジャンヌ・ド・ヴァロワ、アンヌ・ド・ブルターニュの官女。
年表
1499年5月初旬
この頃?、チェーザレ・ボルジアと結婚。
1499年5月12日
ブロワにてチェーザレ・ボルジアとの結婚式を挙げる(1499年5月10日)。
1499年5月20日
ミラノ攻略に向かうルイ12世に、チェーザレ・ボルジアも随行。これにシャルロット・ダルブレも同行し、軍がリヨンで待機している約2ヶ月間が2人が共に過ごす最後の時となる。

1499年夏
夫チェーザレ・ボルジアと共にラ・モット=フイユ城やイスーダンの白塔に滞在し、蜜月を過ごす。
その後、夫チェーザレ・ボルジアとは手紙や、贈り物のやり取りがあったようである。手紙は未発見。
1499年
夫チェーザレ・ボルジアの出発後、4年間イスーダンの白塔で娘ルイーズ・ボルジアを育てる。
ルイ12世の事実上の人質となっていたシャルロット・ダルブレは、チェーザレ・ボルジアとところはもちろん、兄ナヴァラ王ジャン・ダルブレのところにも行くことができず。

1504年
ラ・モット=フイユ城を購入し、居住。
1506年頃
夫チェーザレ・ボルジアの代わりに、フランス宮廷に赴いて嘆願。持参金とフランス王に軍人として仕えたい旨伝えるが、ルイ12世にヴァレンティノワ公国とディユワ伯領とイスーダン領を取り上げられ、持参金は約束の10万リーブル・トルノワから4千リーブル・トルノワに下げられる。
1507年3月12日
夫チェーザレ・ボルジア死。
ラ・モット=フイユ城の使用している数部屋以外は全て閉じ、城内を黒い布で覆い、喪服を着続け、馬にも黒を着せる。
1514年3月11日
ラ・モット=フイユ城にて、死(1514年3月14日)。
サンティレール教会に埋葬される。
1514年5月12日
財産目録が作成される。
埋葬地
別表記
シャルロット・ダルベール、Carlotta d'Albret
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Sophie Swerts Knudsen
THE BORGIAS wiki
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
エンリケ2世・デ・ナヴァラ Enrique II de Navarra
- 生没
- 1503年4月18日~1555年5月25日
- 出身
- ナバラ王国サングエサ
- 没地
- ベアルン、ポー
- 父
- ジャン・ダルブレ
- 母
- カタリナ1世・デ・ナヴァラ
- 妻
- マグリット・ド・ナヴァール
- 子
- ジャンヌ・ダルブレ
概要
エンリケ2世・デ・ナヴァラは、16世紀の男性。
埋葬地
ベアルン、レスカー大聖堂
外部リンク
ジャンヌ・ダルブレ Jeanne d'Albret

- 生没
- 1528年1月7日~1572年6月9日
- 父
- エンリケ2世・デ・ナヴァラ
- 母
- マグリット・ド・ナヴァール
- 夫
- アントワーヌ・ド・ブルボン
- 子
- アンリ4世
概要
ジャンヌ・ダルブレは、16世紀のフランスの女性。
外部リンク
参考文献
『世界大百科事典』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2022年1月20日