Baglioni

バリオーニ家

パンドルフォ1世・バリオーニ Pandolfo I Baglioni

生没
1???年~1393年
マラテスタ1世・バリオーニ
ネッロ・バリオーニ

概要

 パンドルフォ1世・バリオーニは、14世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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マラテスタ1世・バリオーニ Malatesta I Baglioni

生没
1389年~1437年
パンドルフォ1世・バリオーニ
ヤコパ・フォルテブラッチ
ブラッチョ・バリオーニ
グイド・バリオーニ
リドルフォ1世・バリオーニ
カルロ1世・バリオーニ
スフォルツァ1世・バリオーニ

概要

 マラテスタ1世・バリオーニは、14世紀から15世紀の男性。

外部リンク

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 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

ネッロ・バリオーニ Nello Baglioni

生没
1???年~1457年1月13日
パンドルフォ1世・バリオーニ
パンドルフォ・バリオーニ
ガレオット・バリオーニ

概要

 ネッロ・バリオーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1457年1月13日

死(1457年1月11日)。

外部リンク

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ブラッチョ・バリオーニ Braccio Baglioni

生没
1419年~1479年12月8日
出身
教皇領ペルージア
没地
教皇領ペルージア
マラテスタ1世・バリオーニ
ヤコパ・フォルテブラッチ
トデリーナ・フレゴーソ
アナスタージア・スフォルツァ
レアンドラ・バリオーニ
ブラッチェスカ・バリオーニ
フランチェスカ・バリオーニ
グリフォーネ・バリオーニ

概要

 ブラッチョ・バリオーニは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

グイド・バリオーニ Guido Baglioni

生没
1425年~1500年7月15日
マラテスタ1世・バリオーニ
ヤコパ・フォルテブラッチ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
アストッレ・バリオーニ
モルガンテ・バリオーニ
ジェンティーレ・バリオーニ
マルカントーニオ・バリオーニ
アドリアーノ・バリオーニ
シジスモンド・バリオーニ
オッタヴィアーノ・バリオーニ
ヤコパ・バリオーニ

概要

 グイド・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1456年5月28日

コスタンツァ・ダ・ヴァラーノと結婚。

外部リンク

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 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

リドルフォ1世・バリオーニ Ridolfo I Baglioni

生没
1430年~1501年2月24日
マラテスタ1世・バリオーニ
ヤコパ・フォルテブラッチ
フランチェスカ・カステルサンピエトロ
シモネット・バリオーニ
トロイロ・バリオーニ
ジャンパオロ・バリオーニ
ルクレツィア・バリオーニ
カミッラ・バリオーニ
ペンテジーレア・バリオーニ

概要

 リドルフォ1世・バリオーニは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1456年5月28日

フランチェスカ・カステルサンピエトロと結婚。

1478年10月8日

妻フランチェスカ・カステルサンピエトロ、死。

外部リンク

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 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

カルロ1世・バリオーニ Carlo I Baglioni

生没
14??年~1464年頃
マラテスタ1世・バリオーニ
ヤコパ・フォルテブラッチ
オッド・バリオーニ

概要

 カルロ1世・バリオーニは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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ガレオット・バリオーニ Galeotto Baglioni

生没
1???年~1460年
ネッロ・バリオーニ
アタランタ・バリオーニ

概要

 ガレオット・バリオーニは、15世紀頃のイタリアの男性。

外部リンク

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グリフォーネ・バリオーニ Grifone Baglioni

生没
1???年~1477年
ブラッチョ・バリオーニ
アタランタ・バリオーニ
グリフォネット・バリオーニ

外部リンク

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アストッレ・バリオーニ Astorre Baglioni

生没
14??年~1500年7月15日
出身
教皇領ペルージア
没地
教皇領ペルージア
グイド・バリオーニ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
ラヴィーニア・コロンナ

概要

 アストッレ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geni.com
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

モルガンテ・バリオーニ Morgante Baglioni

生没
14??年~1502年7月
グイド・バリオーニ

概要

 モルガンテ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1501年6月28日

教皇アレクサンデル6世と300騎で傭兵契約。軍を行進してサンタンジェロ城の前で教皇から祝福を受け、ナポリへ向けローマ出発。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geni.com

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『The Life of Cesare Borgia

ジェンティーレ・バリオーニ Gentile Baglioni

生没
1466年~1527年8月3日
グイド・バリオーニ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
ジューリア・ヴィテッリ
アストッレ・バリオーニ
アドリアーノ・バリオーニ
グイド・バリオーニ

概要

 ジェンティーレ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1502年9月末

マジョーネの会合に出席。

1502年10月9日

マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。

1520年6月2日~1520年6月3日

レオ10世は、投獄していたジャンパオロ・バリオーニを、ウルビーノ争奪戦においてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに通じていたなどの理由を挙げて処刑(1470年頃~:在位1488年~1500年、1500年~1502年、1503年~1506年、1513年~)。ペルージアは保護していたジェンティーレ・バリオーニに統治させる形をとりながら自身の代理を派遣して直接に統治。

1522年1月4日~1522年1月5日

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニ、、オラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Geni.com

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『The Life of Cesare Borgia

マルカントーニオ・バリオーニ Marcantonio Baglioni

生没
14??年~1500年7月15日
没地
教皇領ペルージア
グイド・バリオーニ

概要

 マルカントーニオ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Geni.com

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

シジスモンド・バリオーニ Sigismondo Baglioni

生没
14??年~1500年
グイド・バリオーニ

概要

 シジスモンド・バリオーニは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 ジスモンド、Gismondo

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

シモネット・バリオーニ Simonetto Baglioni

生没
1476年~1500年7月15日
リドルフォ1世・バリオーニ

概要

 シモネット・バリオーニは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geni.com

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

トロイロ・バリオーニ Troilo Baglioni

生没
14??年~1506年1月
リドルフォ1世・バリオーニ

概要

 トロイロ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 ペルージア司教 1501年8月27日~1503年8月4日

外部リンク

 Catholic-Hierarchy
 GCatholic.org
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ジャンパオロ・バリオーニ Giampaolo Baglioni

生没
1470年頃~1520年6月11日
出身
教皇領ペルージア
没地
ローマ
リドルフォ1世・バリオーニ
フランチェスカ・カステルサンピエトロ
イッポーリタ・コンティ
レオーネ・バリオーニ
マラテスタ・バリオーニ
オラーツィオ・バリオーニ
ラウラ・バリオーニ
エリザベッタ・バリオーニ
コンスタンティーノ・バリオーニ
スフォルツィーノ・バリオーニ

概要

 ジャンパオロ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ペルージア領主 1488年~1500年、1500年~1502年、1503年~1506年、1513年~1520年

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:フランス王国

年表

1470年頃

生(1471年)。

1490年

イッポーリタ・コンティと結婚。

1500年4月末

チェーザレ・ボルジアローマにおいて、チッタ・ディ・カステッロの君主で前フィレンツェの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニ、オルシーニ一族を代表するパオロ・オルシーニなど、イタリアの最も強力な傭兵隊長たちのほとんどを雇い入れ、自分の傭兵軍を自軍の主力とする態勢を整え始める。

1501年6月末

チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを完全に包囲。

1501年9月3日

チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを占領。君主ヤコポ4世・ダッピアーノはフランスへ逃亡。

1502年6月4日

アレッツォで、「マルツォッコ」「メディチ」を叫び、フィレンツェ共和国に対する暴動、反乱発生。

1502年6月7日

ヴィテロッツォ・ヴィテッリジューリオ・ヴィテッリアレッツォ占領。

1502年6月

チェーザレ・ボルジア宛に手紙をしたためる。自分もヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍事行動に参加するよう命令を出すよう要望。

しかしチェーザレ・ボルジアからフィレンツェ共和国との同盟のためできないと謝絶される。

1502年6月14日

ジャンパオロ・バリオーニもこれに参画。

1502年6月

数日の内にヴァル・ディ・キアーナ全域を制圧。

1502年7月29日

ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、アレッツォをルイ12世軍に手渡して撤退。

1502年9月末

マジョーネの会合に出席。

1502年10月9日

マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。

1502年10月12日

歩兵隊を指揮し、カーリに進軍(1502年10月10日)。

しかし、マジョーネ同盟は反乱している領民に対して、彼らを攻撃するつもりも防衛するつもりもないと告げる。

1502年10月

敵としてではなくチェーザレ・ボルジアの部下として、ファーノ周辺に進軍。

1502年12月

オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。

ペルージアにいるジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。

1503年1月4日(水)

ファビオ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリの甥、ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノと共に、全軍を率いペルージア出発。シエナパンドルフォ・ペトルッチのもとへ向かう。

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロペルージアから逃亡し、ピティリアーノへ向かう。

1503年8月

フィレンツェ共和国の支援を受け、マジョーネを占領。

1503年8月

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノカメリーノ復帰に助勢。

1503年9月16日

ペルージアにて、ジャンパオロ・バリオーニとバルトロメオ・ダルヴィアーノを代表として、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロパンドルフォ4世・マラテスタフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレジョヴァンニ・スフォルツァジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノジューリオ・ヴィテッリが反ボルジア同盟を締結。

1503年10月

ローマ到着。

1503年11月末頃

ロマーニャ進軍中のミケーレ・ダ・コレーリア指揮のチェーザレ・ボルジア軍、トスカーナでジャンパオロ・バリオーニ指揮のフィレンツェ軍に敗退し、ミケーレ・ダ・コレーリアは捕らえられる。

1504年5月

ジャンパオロ・バリオーニ、ヤコポ・サヴェッリらを傭兵隊長として雇い、アントーニオ・テバルドゥッチを前線の全権委員に任命してピサ攻撃態勢を整える。

1505年3月

この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。

1505年4月8日

フィレンツェ、ジャンパオロ・バリオーニから傭兵隊長契約を解約するとの通告を受け、直ちに彼のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1505年5月28日

アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチ、ジャンパオロ・バリオーニ、バルトロメオ・ダルヴィアーノが継承。

1506年9月8日

ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニは、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの勧奨に従い、オルヴィエートに駆けつけてユリウス2世に、ペルージアとその要塞の明け渡し、子どもの人質としての提出、ボローニャ制圧への参陣などを約して全面的に屈服。

1506年10月20日

この頃までにユリウス2世のもとに小部隊の援軍100名を送る。しかしユリウス2世のジャンパオロ・バリオーニ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ放逐の目標達成により、間もなく援軍は送り返される。

1513年10月7日

ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍が、ヴィチェンツァ近郊Olmoでバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を大激戦の末、破る。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。

ライモンド・ディ・カルドーナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。

1520年3月16日

ペルージア制圧も目指すレオ10世は、君主ジャンパオロ・バリオーニを、その同門の政敵ジェンティーレ・バリオーニを追放した廉で巧みにローマに召還し、サンタンジェロ城に招いて捕らえ、投獄。

1520年6月2日~1520年6月3日

レオ10世は、投獄していたジャンパオロ・バリオーニを、ウルビーノ争奪戦においてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに通じていたなどの理由を挙げて処刑。ペルージアは保護していたジェンティーレ・バリオーニに統治させる形をとりながら自身の代理を派遣して直接に統治。

1521年12月上旬~下旬

レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニオラーツィオ・バリオーニと共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

別表記

 ジャンパーオロ、ジョヴァンニ・パオロ、Gianpaolo Baglioni

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Geni.com
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ルクレツィア・バリオーニ Lucrezia Baglioni

生没
14??年~
リドルフォ1世・バリオーニ
カミッロ・ヴィテッリ

概要

 ルクレツィア・バリオーニは、15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Google Books
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ペンテジーレア・バリオーニ Pentesilea Baglioni

生没
1487年頃~
リドルフォ1世・バリオーニ
フランチェスカ・カステルサンピエトロ
バルトロメオ・ダルヴィアーノ
イザベッラ・リヴィアーナ・ダルヴィアーノ

概要

 ペンテジーレア・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1497年以降

バルトロメオ・ダルヴィアーノと結婚。

1503年1月

オルヴィエート近郊コルヴァーナ城にいたが、教皇のコッミッサーリオを名乗るものに誘拐され、トーディの城に軟禁される。

1503年1月

チェーザレ・ボルジアによって、解放される。

1512年

イザベッラ・リヴィアーナ・ダルヴィアーノを出産。

別表記

 ペンテザリーア・バリオーニ、PenthesileaPantasilea

外部リンク

 Assassin's Creed Wiki
 Geneanet
 Google Books

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

オッド・バリオーニ Oddo Baglioni

生没
1???年~1478年
カルロ1世・バリオーニ
カルロ・バリオーニ

概要

 オッド・バリオーニは、15世紀頃のイタリアの男性。

外部リンク

 Google Books

アタランタ・バリオーニ Atalanta Baglioni

生没
14??年~1509年
ガレオット・バリオーニ
グリフォーネ・バリオーニ
グリフォネット・バリオーニ

概要

 アタランタ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Geni.com
 Wikidata

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

グリフォネット・バリオーニ Grifonetto Baglioni

生没
1477年~1500年7月15日
出身
教皇領ペルージア
没地
教皇領ペルージア
グリフォーネ・バリオーニ
アタランタ・バリオーニ
ゼノービア・スフォルツァ
スフォルツァ2世・バリオーニ
ガレオット・バリオーニ
ブラッチョ3世・バリオーニ

概要

 グリフォネット・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

埋葬地

 ペルージア、サン・フランチェスコ・アル・プラート教会

別表記

 グリフォーネ・バルチーリア、Federico BaglioniGrifone Barciglia

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

マラテスタ・バリオーニ Malatesta Baglioni

生没
1491年~1531年12月24日
ジャンパオロ・バリオーニ
イッポーリタ・コンティ
モナルデスカ・モナルデスキ
リドルフォ・バリオーニ

概要

 マラテスタ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1521年12月上旬~下旬

レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

1522年1月4日~1522年1月5日

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニ、、オラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。

1529年4月15日

十人委員会は、クレメンス7世メディチ家と敵対してきたマラテスタ・バリオーニを来る6月1日から1年間、フィレンツェ軍の総指揮官として雇うことを決め、コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。

この頃?、同じくクレメンス7世の宿敵ナポレオーネ・オルシーニを軍指揮官として雇うことも同様に決める。

1529年9月9日

ペルージアを支配していた(1522年~)マラテスタ・バリオーニは、フィリベール・ド・シャロンに降伏の意を伝える。

1529年9月11~12日

マラテスタ・バリオーニ、自軍と共に安全に退出することを保障され、フィレンツェとの傭兵契約の継続を許されてペルージアを去る。フィレンツェ軍もペルージアを撤退。

これによりフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍の攻撃目標はいよいよフィレンツェ領に絞られる。

1530年1月3~7日

フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、プラティカでは意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。プラティカもこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。

1530年1月中旬/下旬

前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。

1530年6月21日

フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo GherardiAndrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニ、カール5世軍陣営に通報。

ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。

1530年7月半ば~下旬

フィリベール・ド・シャロン、マラテスタ・バリオーニの勧奨に従ってフィレンツェに使者を送り、メディチ家復辟を条件とする和議を提案するがフィレンツェは依然この条件を拒否。両者の裏面での接触、最終的に途絶。

1530年

この頃すでにマラテスタ・バリオーニ、作戦会議に出席せず、ヴェッキオ宮殿などには護衛兵を伴って現れる。

1530年7月末

この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベール・ド・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニのカール5世クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。

1530年7月31日~8月1日

全市民が武装して包囲軍の市内突入に備えると共に市民代表がマラテスタ・バリオーニに断乎として戦うよう督励。これに対してマラテスタ・バリオーニ、指揮官の1人Stefano Colonna(1490年代~1548年)と共に、包囲軍の威力を力説した上、先頭はフィレンツェの滅亡に繋がるとしてこれを拒絶し、和議を勧奨。

1530年8月2日

フィレンツェを裏切る。

1530年8月6日

マラテスタ・バリオーニ、フィリベール・ド・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。

1530年8月6~8日

プラティカは、マラテスタ・バリオーニの解雇を決め、本人に通告。これに激怒したマラテスタ・バリオーニ、フィレンツェとの戦闘を宣言。マラテスタ・バリオーニ指揮の軍と市民軍は、アルノ河を挟んで対峙。Zanobi Bartolini(1485年~1533年)が仲介者となって両軍の戦闘を回避させる。協議によりフィレンツェはマラテスタ・バリオーニの勧奨する和議の条件を受容し、彼はこれまで通り軍最高司令官に留まる。これによりフィレンツェは事実上彼に屈し、市内は彼の配下の傭兵に押さえられる。

1530年8月12日

フィレンツェ共和政の消滅:カール5世の陣営で、フィレンツェの政体は4ヶ月以内にカール5世が決めること、フィレンツェはカール5世軍にその兵を満足させるに足る軍資金を支払うこと、フィレンツェの領土を保全し外国軍隊はそこから撤退すること、マラテスタ・バリオーニとステファノ・コロンナはカール5世に代わって市内を警護すること、これまでのフィレンツェの反メディチ、クレメンス7世の罪は問われず、指導者及び市民は処罰されないことなどを内容とする和平(降伏)協定が調印される。これによりフィレンツェ共和政、実質上、歴史から消える。

1530年8月20日

パルラメントが招集される。マラテスタ・バリオーニ配下の傭兵がシニョーリア広場に通ずる街路を固める中、メディチ派及びその支持者が集合し、共和政派を排斥した上、バーリアの設置を決め、その委員12名を全てメディチ派から選出。

バーリアは、直ちに会合し、シニョーリアを配下に置くと共にディエチ及びオットーを廃止。

1531年12月24日

死(1491年~)。

別表記

 マラテスタ・バリオーネ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls

オラーツィオ・バリオーニ Orazio Baglioni

生没
1493年頃~1528年5月22日
出身
教皇領ペルージア
ジャンパオロ・バリオーニ
イッポーリタ・コンティ
フランチェスカ・ペトルッチ
ジャンパオロ・バリオーニ

概要

 オラーツィオ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1512年頃

フランチェスカ・ペトルッチと結婚。

1521年12月上旬~下旬

レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

1522年1月4日~1522年1月5日

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共にペルージアに迫っていたマラテスタ・バリオーニオラーツィオ・バリオーニ兄弟は、ペルージアに復帰し支配。ジェンティーレ・バリオーニは逃亡。

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは引き続きシエナに進軍し、その政体変更を迫るが、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に撃退される。フィレンツェ軍はジェンティーレ・バリオーニを伴ってペルージア奪回に向かう。

1528年

この頃?、フィレンツェは、前年6月の協定に従い援軍を派遣せよとのオデ・ド・フォワの求めに応じて、そのナポリ攻撃にオラーツィオ・バリオーニ指揮の小軍(Bande Nere)を派遣することに決める。

1528年5月22日

この頃までに度重なる戦闘ですでに兵士の3分の1を失っていたフィレンツェ軍(Bande Nere)の指揮官オラーツィオ・バリオーニ、戦死。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geni.com
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史Ⅴ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

エリザベッタ・バリオーニ Elisabetta Baglioni

生没
1???年~15??年
出身
教皇領ペルージア
ジャンパオロ・バリオーニ
カミッロ・オルシーニ
ジューリア・オルシーニ
ヴィルジーニオ・オルシーニ
マッダレーナ・オルシーニ
ジョヴァンニ・オルシーニ

概要

 エリザベッタ・バリオーニは、16世紀頃のイタリアの女性。

年表

1520年3月

カスティリオーネ・デル・ラーゴにて、カミッロ・オルシーニと結婚。

1534年

マッダレーナ・オルシーニを出産。

外部リンク

 Geneanet
 Google Books
 Google Books

カルロ・バリオーニ Carlo Baglioni

生没
1473年~1518年12月
オッド・バリオーニ

概要

 カルロ・バリオーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

別表記

 カルロ・バルチーリア、Carlo Barciglia

外部リンク

 Google Books
 Condottieri di ventura

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

リドルフォ・バリオーニ Ridolfo Baglioni

生没
1518年7月1日~1554年3月24日
出身
教皇領ペルージア
没地
キウージ
マラテスタ・バリオーニ
モナルデスカ・モナルデスキ
コスタンツァ・ヴィテッリ
ジャンパオロ2世・バリオーニ
リドルフォ3世・バリオーニ

概要

 リドルフォ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1532年5月27日

クレメンス7世、故マラテスタ・バリオーニの子リドルフォ・バリオーニ(1518年~1554年)と甥ジャンパオロ・バリオーニをペルージアから追放した上、叛徒と宣告し、その封土、城塞を全て没収して教会領とする。

1534年11月1日

従兄弟リドルフォ・バリオーニとジャンパオロ・バリオーニ、クレメンス7世の死を機に小軍を率いてペルージアを襲撃し、教皇使節・テッラチーナ司教Cinzio Filomardi(?~)を殺害し政庁宮を占拠。

1535年9月10日

ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。

1540年5月16日

メディチ家に臣従していた(1535年~)リドルフォ・バリオーニコジモ1世・デ・メディチの許可を得てペルージアに帰り、「救世主」として迎え入れられる。

1540年6月1日

パウルス3世と決定的に対立することを避けたいカール5世の制約の下、領国境界まで軍を進めながら対教皇軍戦の支援に踏み切れないメディチ家を初めコロンナ家や諸都市からも期待した支援を得られずに孤立し、資金と食糧の欠乏したペルージアの代表リドルフォ・バリオーニは、教皇軍のジローラモ・オルシーニに、市民の安全及び移転の自由などを条件として市の明け渡しを認める。

1546年8月7日

カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。

別表記

 Rodolfo

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年10月27日以前

更新日

 2023年1月17日