イヴァーノ・ベンティヴォーリオ Ivano Bentivoglio
- 子
- バルトロメオ・ベンティヴォーリオ
ベンテ・ベンティヴォーリオ
概要
イヴァーノ・ベンティヴォーリオは、13世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
バルトロメオ・ベンティヴォーリオ Bartolomeo Bentivoglio
- 父
- イヴァーノ・ベンティヴォーリオ
- 子
- フランチェスコ・ベンティヴォーリオ
フィリッポ・ベンティヴォーリオ
概要
バルトロメオ・ベンティヴォーリオは、13~14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ベンテ・ベンティヴォーリオ Bente Bentivoglio
- 生没
- 12??年~1305年以降
- 父
- イヴァーノ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- ツァンナ・ゴッツァディーニ
- 子
- ミケーレ・ベンティヴォーリオ
概要
ベンテ・ベンティヴォーリオは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
フランチェスコ・ベンティヴォーリオ Francesco Bentivoglio
- 父
- バルトロメオ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- フランチェスカ・マンツォーリ
- 子
- ベルトゥッチオ・ベンティヴォーリオ
概要
フランチェスコ・ベンティヴォーリオは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ミケーレ・ベンティヴォーリオ Michele Bentivoglio
- 父
- ベンテ・ベンティヴォーリオ
- 母
- ツァンナ・ゴッツァディーニ
- 妻
- マルゲリータ・クリオーニ
- 子
- アンダーロ・ベンティヴォーリオ
概要
ミケーレ・ベンティヴォーリオは、13世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ベルトゥッチオ・ベンティヴォーリオ Bertuccio Bentivoglio
- 父
- フランチェスコ・ベンティヴォーリオ
- 母
- フランチェスカ・マンツォーリ
- 妻
- エレーナ・マルヴェッツィ
- 子
- アントニオーロ・ベンティヴォーリオ
概要
ベルトゥッチオ・ベンティヴォーリオは、14世紀頃のイタリアの男性。
年表
1317年
エレーナ・マルヴェッツィと結婚。
外部リンク
アンダーロ・ベンティヴォーリオ Andalo Bentivoglio
- 生没
- 1???年~1398年以降
- 父
- ミケーレ・ベンティヴォーリオ
- 母
- マルゲリータ・クリオーニ
- 妻
- キアラ・ベンティヴォーリオ
ツァンナ・マルザペーシ
? - 子
- カルロ・ベンティヴォーリオ
概要
アンダーロ・ベンティヴォーリオは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
アントニオーロ・ベンティヴォーリオ Antoniolo Bentivoglio
- 生没
- 13??年~1371年以降
- 父
- ベルトゥッチオ・ベンティヴォーリオ
- 母
- エレーナ・マルヴェッツィ
- 妻
- ツァンナ・ダ・マラーノ
- 子
- ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオ
概要
アントニオーロ・ベンティヴォーリオは、14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
カルロ・ベンティヴォーリオ Carlo Bentivoglio
- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- アンダーロ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- バルトロメア・グアスタヴィッラーニ
- 子
- ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ
概要
カルロ・ベンティヴォーリオは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1401年
バルトロメア・グアスタヴィッラーニと結婚。
外部リンク
ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオ Giovanni I Bentivoglio
- 生没
- 1358年頃~1402年6月26日
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- ボローニャ
- 父
- アントニオーロ・ベンティヴォーリオ
- 母
- ツァンナ・ダ・マラーノ
- 妻
- エリザベッタ・サンピエーリ
マルゲリータ・グイドッティ - 子
- アントンガレアッツォ・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンナ・ベンティヴォーリオ
概要
ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ Ludovico Bentivoglio
- 生没
- 1402年頃~1469年8月26日
- 父
- カルロ・ベンティヴォーリオ
- 母
- バルトロメア・グアスタヴィッラーニ
- 妻
- ルドヴィーカ・ルドヴィシ
マッダレーナ・ボロニーニ
エレーナ・マルヴェッツィ
? - 子
- アンドレア・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
ヤコポ・ベンティヴォーリオ
概要
ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオは、15世紀のイタリアの男性。
年表
所有
別表記
Lodovico Bentivoglio
外部リンク
アントンガレアッツォ・ベンティヴォーリオ Antongaleazzo Bentivoglio
- 生没
- 1390年~1435年
- 父
- ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオ
- 母
- エリザベッタ・サンピエーリ
- 妻
- フランチェスカ・ゴッツァディーニ
- 子
- コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
エリザベッタ・ベンティヴォーリオ
アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ
概要
アントンガレアッツォ・ベンティヴォーリオは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
エルコーレ・ベンティヴォーリオ Ercole Bentivoglio
- 生没
- 1395年~1424年
- 父
- ジョヴァンニ1世・ベンティヴォーリオ
- 母
- エリザベッタ・サンピエーリ
- 子
- サンテ・ベンティヴォーリオ
概要
エルコーレ・ベンティヴォーリオは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオの叔父。
外部リンク
参考文献
『君主論』
エルコーレ・ベンティヴォーリオ Ercole Bentivoglio
- 生没
- 1450年~1524年9月13日
- 出身
- ボローニャ
- 父
- ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ
- 母
- エレーナ・マルヴェッツィ
- 妻
- ジューリア・マンツォーリ
- 子
- ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ
概要
エルコーレ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ Annibale I Bentivoglio
- 生没
- 1413年~1445年6月24日
- 没地
- ボローニャ
- 父
- アントンガレアッツォ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- ドンニーナ・ヴィスコンティ
- 子
- アントーニア・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
概要
アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオは、15世紀のイタリアの男性。
在位
ボローニャ領主 1443年~1445年6月24日
年表
1442年10月
ニッコロ・ピッチニーノによりパルマに拘禁される。
1443年6月5日
拘禁から脱出してボローニャに入る。
1443年6月上旬
ボローニャで、アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオらによるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ支配に対する反乱が生じ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を追放。
1443年7月12日
アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオを中心とするボローニャ政庁、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営と反フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの軍事同盟を結ぶ。
1443年8月14日
この日頃までにボローニャは、ルイジ・ダル・ヴェルメ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破るなどしてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの支配を脱し、アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオを君主として自由を獲得。
1445年6月24日
ボローニャの支配者アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ、ボローニャ市内の政敵の謀略により刺殺される。
別表記
ベンティヴォッリ、ベンティヴォッリオ
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
サンテ・ベンティヴォーリオ Sante Bentivoglio
- 生没
- 1424年~1463年10月1日
- 出身
- ポッピ
- 没地
- ボローニャ
- 父
- エルコーレ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 子
- コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
概要
サンテ・ベンティヴォーリオは、15世紀のイタリアの男性、庶子。
在位
ボローニャの君主 1446年~1463年10月1日
年表
1424年
ポッピにて、生。母親はアニョーロ・ダ・カセーゼの妻。
1445年6月24日
従兄弟アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ、死。
1446年11月13日
市民の歓迎を受けてボローニャに入り、間もなく教会と和を結んでその下でボローニャを統治(~1463年)。
1452年3月8日
ペーザロでジネヴラ・スフォルツァと代理結婚。
1454年5月19日
ボローニャのサン・ジャコモ教会で、ジネヴラ・スフォルツァと結婚。
1454年8月30日
直ちにこれに加盟。
1463年10月1日
ボローニャにて、死。
別表記
サンティ、ベンティヴォッリ、Santi Cascese Bentivoglio
外部リンク
JDA's Family Tree
Treccani
Wikipedia
参考文献
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ Ludovico Bentivoglio
- 生没
- 1???年~1544年2月5日
- 父
- エルコーレ・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジューリア・マンツォーリ
- 妻
- フラミーニア・オルシ
- 子
- アントーニオ・ベンティヴォーリオ
概要
ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオは、16世紀頃のイタリアの男性。
別表記
Lodovico Bentivoglio
外部リンク
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ Giovanni II Bentivoglio
- 生没
- 1443年2月15日~1508年2月16日
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ドンニーナ・ヴィスコンティ
- 妻
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 子
- カミッラ・ベンティヴォーリオ
ビアンカ・ベンティヴォーリオ
フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオ
イゾッタ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
エルメス・ベンティヴォーリオ
エレオノーラ・ベンティヴォーリオ
ルチア・ベンティヴォーリオ
概要
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ボローニャの領主。
在位
ボローニャ領主 1463年~1506年
年表
1443年2月15日
ボローニャにて、生(1443年2月12日)。
1463年10月1日
ボローニャの君主サンテ・ベンティヴォーリオ、死。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、君主となる。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソ、ルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年9月末
ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。
1472年12月25日
1478年9月8日
フィレンツェ陣営の最高指揮官として雇い入れたフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステが到着。直ちに軍を整えて出陣。
この頃?、さらにリーミニの君主ロベルト・マラテスタ、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びサルッツォ侯ルドヴィーコ2世(?~1504年:在位1475年~1504年)が、それぞれ小軍を率いて陣営に加わる。
しかしこれら小軍によっては教皇軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に十分対抗することはできず、フィレンツェ陣営の劣勢は続く。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1485年
ロレートのサンタ・カーザ大聖堂へ巡礼する。途中フォルリを立ち寄る。
1487年3月12日~1487年3月13日
夜、ファエンツァを襲撃し、娘フランチェスカ・ベンティヴォーリオと孫アストッレ3世・マンフレディをボローニャへ連れ帰る。
1488年4月18日
ボローニャにて、ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てに手紙をしたためる。オルシの陰謀について、指示を求める。
1488年4月21日
騎兵8百と歩兵1千を率い、フォルリ到着。市門の外に野営。ミラノとボローニャはリアリオ家のフォルリに対する請求権を支持すると表明。
1488年5月31日
ファエンツァの君主ガレオット・マンフレディは、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。フランチェスカ・ベンティヴォーリオの父、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、フランチェスカ・ベンティヴォーリオを支援しファエンツァを支配しようと急ぎファエンツァに入る。
しかしファエンツァの民衆は、ガレオット・マンフレディの幼子アストッレ3世・マンフレディを擁してフィレンツェに支援を求め、間もなくフィレンツェ軍がファエンツァを制圧。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、フランチェスカ・ベンティヴォーリオ父娘はボローニャに逃げ、ファエンツァを事実上、配下に入れたフィレンツェは自領の境界を固める。
1488年11月末
ボローニャで、ベンティヴォーリオ家の年来の宿敵マルヴェッツィ家による反ベンティヴォーリオの陰謀発覚し、多数が処刑、投獄、追放される。
1500年
フランス王ルイ12世の対ルドヴィーコ・イル・モーロ戦での義務を怠るも、チェーザレ・ボルジアの脅威を前に、4万ドゥカートでフランスの保護を取り付ける。
1500年8月
フィレンツェ領内ピストイアでのパンチァティキ、カンチェリエーリ両派の対立、内乱にまで発展。パンチァティキはメディチ家、ヴィテッリ家らの、カンチェリエーリはジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの支援を受けて激しい闘争を続ける。
1500年10月半ば
グイド・トレッラをファエンツァに派遣し、人員と金での支援を申し出る。
また、孫アストッレ3世・マンフレディをヴェネツィアに亡命させるよう提案するが、ファエンツァ評議会は民衆の降伏を誘引するとしてこれを拒絶。
1500年10月24日
教皇アレクサンデル6世の使節が小勅書を携えて到着し、ファエンツァに関して干渉すれば聖務停止、破門すると言い渡される。
1500年10月25日
到着後ファエンツァへ向かうよう指示を与えて、歩兵6百をカステル・ボロニェーゼに送る。これで総勢1千になる。
1500年12月
チェーザレ・ボルジアがファエンツァに苦戦しているのは悪天候のせいではなく、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの支援によるものとして、アレクサンデル6世はルイ12世に苦情を述べる。フランスの保護を危うくしたことを恐れ、チェーザレ・ボルジアが冬営に入ったすぐ後、軍隊を引き上げる。
1500年12月
アレクサンデル6世が苦言を呈するのをやめず、ルイ12世はジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに使節を派遣し、ファエンツァに介入したことに対する非難を表明。アレクサンデル6世がボローニャが教会領に帰することを望んでいることを伝え、教会の敵との同盟を避けること、ボローニャを保持するため和解を結ぶことを勧める。
1500年12月初旬
ファエンツァとカステル・ボロニェーゼに送った歩兵を引き上げる。
1501年2月
チェーザレ・ボルジアから使節が送られ、カステル・ボロニェーゼに軍を冬営させるよう要求される。食糧と宿泊施設、大砲などの提供を申し出、カステル・ボロニェーゼは譲歩せず。
1501年2月
アガメンノーネ・マレスコッティ、ジアゾーネ・マレスコッティ、アゲジラーオ・マレスコッティ、ルドヴィーコ・マレスコッティを拘留。
1501年4月26日
チェーザレ・ボルジアからカステル・ボロニェーゼ譲渡を要求するための使節である修道士が送られ、ボローニャ到着。
1501年4月
ジョヴァンニ・マルシーリとアンジェロ・ラヌッツィを派遣しイーモラに向かわせるが、カステル・サン・ピエトロ・テルメはすでにヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍に占領されていた。
1501年4月27日
カステル・サン・ピエトロ・テルメの他、カザルフィウマネーゼ、カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ、メディチーナ占領の知らせがボローニャにもたらされる。
1501年4月27日
Sedici del Reggimento召集。チェーザレ・ボルジア軍にいるマルヴェッツィと通じているのを恐れて、アガメンノーネ・マレスコッティ、ジアゾーネ・マレスコッティ、アゲジラーオ・マレスコッティ、ルドヴィーコ・マレスコッティをベンティヴォーリオ宮殿に拘留。
1501年4月28日
Sedici del Reggimento召集。チェーザレ・ボルジアと協定を結ぶため、フランチェスコ・アルドロヴァンディとアレッサンドロ・ブトリガーリを大使を任命。
1501年4月
フランチェスコ・アルドロヴァンディとアレッサンドロ・ブトリガーリはカステル・サン・ピエトロ・テルメに向かうが、チェーザレ・ボルジアはメディチーナのヴィッラ・フォンターナにいた。
1501年4月29日
パオロ・オルシーニがボローニャに到着。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは市門からベンティヴォーリオ宮殿まで兵1万2千を配置し、軍事力を誇示。
1501年4月30日
チェーザレ・ボルジアの代理パオロ・オルシーニと協定を結ぶ。カステル・ボロニェーゼをチェーザレ・ボルジアに割譲し、1騎につき3名の年俸3年分、フランス王を除くどの君主と対峙している場合でも全面的な援助をする義務を1年間負うことに、Sedici del Reggimentoは同意。
1501年5月2日
チェーザレ・ボルジアとの協定締結を公表。
1502年9月
教皇代理官がアレクサンデル6世の1502年9月2日付小勅書を持参し、ボローニャ到着。
1502年9月14日
フランス大使クロード・ド・セセルがボローニャ到着。Sedici del Reggimentoに対し、ルイ12世は約束通りベンティヴォーリオを庇護する意思があるが、教会並びに教皇に反目するわけにはいかないと伝える。
クロード・ド・セセルにボローニャが団結していることを見せるため、広場に1千人超の市民が武器を手に集結したという。
1502年9月17日
15日後のこの日、Sedici del Reggimentoに対し教皇小勅書が再び読み上げられるが、武装した市民がジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオのみならず彼の息子たちのローマ召喚に激しく反対。
1502年9月末~10月9日
息子エルメス・ベンティヴォーリオを代理として、マジョーネの会合に送る。
1502年10月9日
法律家フロリアーノ・ドルフィが、ボローニャのサン・ドメニコ教会の説教壇でポルタ・プロキューラ地区の住民に対し、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアの猛攻から領主を守ることを奨励する演説をふるう。
1502年10月17日
Sedici del Reggimentoがルイ12世宛に手紙をしたためる。ルイ12世からの手紙に対する返信。チェーザレ・ボルジアとの和議には将来町が脅かされないことが約束されており、1502年1月10日にアレクサンデル6世がそれを承認していると、Sedici del Reggimentoとベンティヴォーリオ家の主張を説く。
1502年10月22日
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオとエルメス・ベンティヴォーリオを騎兵5百と歩兵2千でカステル・サン・ピエトロ・テルメに向かわせ、小隊をドッチアに向かわせる。
1502年10月
しかし、協定の交渉を再開するためすぐに彼らを留まらせ、チェーザレ・ボルジアの命令通り「裁量によりオルシーニから離れる」準備を整えていることを明瞭にする。
1502年11月
書記官フランチェスコ・プラートを、教皇従者ミゲル・デ・レモリンスと共にローマに派遣。
1502年11月22日
Sedici del Reggimentoがミーノ・デイ・ロッシとフィリッポ・バルドゥイーノを代理としてイーモラにいるチェーザレ・ボルジアと交渉させる。
1502年11月23日
ヴァティカン宮殿にて、ボルジア家との協定が結ばれる。孫コスタンツォ・ベンティヴォーリオとエルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスの妹との結婚すること。両家が防衛同盟を結び、フィレンツェ共和国、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステがその後見をフランス王ルイ12世に約束すること。チェーザレ・ボルジアに「年間1、2回の軍事行動につき」重騎兵100、軽騎兵200を提供すること。ボローニャがチェーザレ・ボルジアに1百人分のコンドッタを更新すること。
フランソワ・トローシェ、ミゲル・デ・レモリンスが出席。ボローニャ外交官カルロ・グラーティとフランチェスコ・プラートが署名。
ウルビーノとカメリーノのことがあるため、この協定は3か月間秘密にされる。
1502年11月末
ミーノ・デイ・ロッシとフィリッポ・バルドゥイーノに同盟批准の権限が与えられる。
1502年12月2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、チェーザレ・ボルジアと単独で和睦。
1506年10月3日
1506年10月2日チェゼーナに着いたユリウス2世、駆けつけたボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの使者たちの服従の意を拒絶。
1506年10月10日
ユリウス2世、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオを破門しかつ9日以内に市民が自分に従わなければボローニャでの聖務を禁止するとの勅書を発する。翌11日公表。
1506年10月20日
ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。
すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。
この頃までにフィレンツェ共和国、ユリウス2世のもとに小部隊の援軍100名を送る。しかしユリウス2世のジャンパオロ・バリオーニ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ放逐の目標達成により、間もなく援軍は送り返される。
1506年10月25日
シャルル・ダンボワーズ、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ放棄を督促。
1506年11月1/2日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ボローニャを逃亡(在位1463年~)。シャルル・ダンボワーズから身の安全を保障されミラノに亡命。
1508年2月16日
ミラノにて、病死(1508年2月15日)。
肖像
関連項目
別表記
ジョヴァンニ2世、老ジョヴァンニ、ベンティヴォーリョ、Zuane Bentivogli、Zuane Bentivoglio
外部リンク
Geneanet
Google Books - The Tigress of Forlì
kleio.org
Treccani.it
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
コスタンツァ・ベンティヴォーリオ Costanza Bentivoglio
- 生没
- 1458年~1491年
- 父
- サンテ・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 夫
- アントーニオ・マリーア・ピコ
- 子
- ヴィオランテ・ピコ
?・ピコ
ジネヴラ・ピコ
概要
コスタンツァ・ベンティヴォーリオは、15世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
エルコーレ・ベンティヴォーリオ Ercole Bentivoglio
- 生没
- 1459年5月15日~1507年6月
- 出身
- ボローニャ
- 父
- サンテ・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 妻
- バルバラ・トレッリ
- 子
- ジネヴラ・ベンティヴォーリオ
コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
概要
エルコーレ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1499年12月
3百騎と共にチェゼーナ出発。ラヴァルディーノ要塞を包囲。アキッレ・ティベルティと共に、農民の暴動を鎮圧。
1500年1月
制圧後のフォルリに5百騎で駐屯。コンサルヴォ・ディ・ミラフォンテは、歩兵3百を指揮。
1500年2月
1500年2月末
5百騎でフォルリに移動。
1500年4月
庶子の娘がニッコロ・グエッラ・ダ・バーニョと結婚。
1500年8月
教皇アレクサンデル6世により、ローマへ呼び出される。グエルフィとギベッリーニの衝突を鎮圧するためチェゼーナ近郊にいたエルコーレ・ベンティヴォーリオは、ティベルティ派の有利を図るものと疑い、これを拒絶。女婿が治めるジャッジョーロに向かう。ジロラーモ・バリゼッロより支援を受け、壁の裂け目を利用して川の門からチェゼーナに侵入。武装兵25で要塞に入り、すぐにポリドーロ・ティベルティとその党派が取って代わる。マラテスタ家の領地を警戒して、サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャに向かう。市民から城を提供されたフェルモに妻バルバラ・トレッリを住まわせる。
1500年8月初旬
エルコーレ・ベンティヴォーリオ軍がチェゼーナの広場を査察。ポリドーロ・ティベルティと共に、亡命者のチェゼーナ帰還を警戒。
1505年8月17日
バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のフィレンツェ攻撃軍は、アントーニオ・テバルドゥッチを前線総監としエルコーレ・ベンティヴォーリオ(1459年~?)、マルカントーニオ・コロンナ、ヤコポ・サヴェッリら傭兵隊長を指揮官とするフィレンツェ軍にサン・ヴィンチェンツォで撃破される。バルトロメオ・ダルヴィアーノはシエナに敗走。
1505年9月6~13日
エルコーレ・ベンティヴォーリオを総指揮官とするフィレンツェ軍は、ピサを包囲し攻撃。市壁の一部を大きく破りながら傭兵は臆して市内に突入せず。
別表記
Bentivogli
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アントーニオ・ベンティヴォーリオ Antonio Bentivoglio
- 生没
- 1???年~1553年8月5日
- 父
- ルドヴィーコ・ベンティヴォーリオ
- 母
- フラミーニア・オルシ
- 妻
- アレッサンドラ・デジデーリ
- 子
- エレーナ・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
フラミーニア・ベンティヴォーリオ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
概要
アントーニオ・ベンティヴォーリオは、16世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
フランチェスカ・ベンティヴォーリオ Francesca Bentivoglio
- 生没
- 1468年2月18日~1504年
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- ボローニャ
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 夫
- ガレオット・マンフレディ
グイド2世・トレッリ - 子
- アストッレ3世・マンフレディ
イッポーリタ・トレッリ
概要
フランチェスカ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1468年2月18日
ボローニャにて、生。
1482年1月25日
1482年2月17日
ガレオット・マンフレディと結婚。
1485年6月20日
アストッレ3世・マンフレディを出産。
1487年
夫との仲が険悪になり、息子アストッレ3世・マンフレディを連れてボローニャの実家に帰る。
ロレンツォ・イル・マニーフィコの介入により、夫ガレオット・マンフレディの愛人カッサンドラ・パヴォーニがファエンツァを去る。
1487年8月7日
ファエンツァの夫のもとに戻る。
1488年5月31日
夫ガレオット・マンフレディを謀殺。
1488年
父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、フランチェスカ・ベンティヴォーリオを支援しファエンツァを支配しようと急ぎファエンツァに入る。
しかしファエンツァの民衆は、幼子アストッレ3世・マンフレディを擁してフィレンツェに支援を求め、間もなくフィレンツェ軍がファエンツァを制圧。
フランチェスカ・ベンティヴォーリオとジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは捕らえられ、フィレンツェ共和国のコッミッサーリオであるアントーニオ・ボスコリに引き渡される。すぐに釈放され、父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと共にボローニャに逃げる。
暗殺者のメンガッチオとリーゴは死刑に処される。
ファエンツァを事実上配下に入れたフィレンツェは自領の境界を固める。
1492年11月2日
グイド2世・トレッリと結婚。
1504年
ボローニャにて、死。
肖像
外部リンク
kleio.org
LE TAROT
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ Annibale II Bentivoglio
- 生没
- 1469年~1540年6月24日
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 妻
- ルクレツィア・デステ
- 子
- エミリア・カミッラ・ベンティヴォーリオ
コスタンツォ・ベンティヴォーリオ
アルフォンソ・ベンティヴォーリオ
エルコーレ・ベンティヴォーリオ
コルネーリオ・ベンティヴォーリオ
フェッランテ・ベンティヴォーリオ
ルクレツィア・ベンティヴォーリオ
エルメス・ベンティヴォーリオ
ベアトリーチェ・ベンティヴォーリオ
ビアンカ・ベンティヴォーリオ
ルイジ・ベンティヴォーリオ
マウラ・ベンティヴォーリオ
ジネヴラ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
概要
アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオはイタリアの傭兵隊長。1511年5月から1512年6月までベンティヴォーリオ家の再興を図って難を逃れた立役者。
年表
1478年4月
ルクレツィア・デステと結婚。
1491年1月26日(水)
ミラノで馬上槍試合に出場。
1501年12月25日(土)
サン・ピエトロ大聖堂での降誕祭のミサに出席。
1502年9月29日
ボローニャ出発。パンドルフォ・ペトルッチをマジョーネの陰謀に参加を促す。
肖像
剣
別表記
Annibal Bentivolus
外部リンク
Condottieri di ventura
Geneanet
kleio.org
Treccani
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ Violante Bentivoglio
- 生没
- 14??年~
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 夫
- パンドルフォ4世・マラテスタ
- 子
- シジスモンド・マラテスタ
ロベルト・マラテスタ
イザベッラ・マラテスタ
アンニーバレ・マラテスタ
ジネヴラ・マラテスタ
マラテスタ・マラテスタ
ガレオット・マラテスタ
概要
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
肖像
外部リンク
参考文献
ラウラ・ベンティヴォーリオ Laura Bentivoglio
- 生没
- 14??年~1523年
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 夫
- ジョヴァンニ・ゴンザーガ
- 子
- フェデリーコ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
ジネヴラ・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
概要
ラウラ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1491年6月20日
ボローニャにて、ジョヴァンニ・ゴンザーガと結婚(1494年)。
肖像
外部リンク
Famille de Carné
kleio.org
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオ Antonio Galeazzo Bentivoglio
- 生没
- 1472年~1525年
- 出身
- ボローニャ
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
概要
アントーニオ・ガレアッツォ・ベンティヴォーリオは、教会首席書記官。
年表
1501年5月8日
チェーザレ・ボルジアが軍を率いビザーノ経由でトスカーナに向かう間、騎兵3百と歩兵2千を率い、ボローニャのレーノを続く。
1502年11月2日
父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの命により、イーモラ到着。エルコーレ1世・デステに促され、チェーザレ・ボルジアとの和睦の特定の条項を制限を申し出る。
肖像
別表記
アントン・ガレアッツォ
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ Alessandro Bentivoglio
- 生没
- 1474年~1532年
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 妻
- イッポーリタ・スフォルツァ
- 子
- スフォルツァ・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
ジネヴラ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドラ・ベンティヴォーリオ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
イッポーリタ・ベンティヴォーリオ
概要
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1493年
イッポーリタ・スフォルツァと結婚。
肖像
外部リンク
Condottieri di ventura
Geneanet
kleio.org
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
エルメス・ベンティヴォーリオ Ermes Bentivoglio
- 生没
- 1475年頃~1513年10月7日
- 出身
- ボローニャ
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 妻
- ヤコパ・オルシーニ
- 子
- コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
エルメス・ベンティヴォーリオ
概要
エルメス・ベンティヴォーリオはイタリアの傭兵隊長。
年表
1475年頃
ボローニャにて、生(1476年)。
1492年
この年にはエルコーレ1世・デステに仕えており、エルコーレ1世・デステにより騎士に叙勲される。
1501年5月3日
母ジネヴラ・スフォルツァの教唆により、アガメンノーネ・マレスコッティ含むマレスコッティ家の者たちを虐殺。
1501年
父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとチェーザレ・ボルジアの協定で、ヤコパ・オルシーニとの結婚が決まる。
1502年9月末
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの代理として、マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
1502年
父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとチェーザレ・ボルジアが新たに協定を結んだ時、ヤコパ・オルシーニとの結婚が教皇アレクサンデル6世とジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの間で正式に承認。
1504年12月
ヤコパ・オルシーニとの結婚式を挙げる。
1513年10月7日
死。
肖像
別表記
Hermes Bentivogli、Ermete Bentivogli、Hermeti de Bentivoliis
外部リンク
Condottieri di ventura
kleio.org
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
エレオノーラ・ベンティヴォーリオ Eleonora Bentivoglio
- 生没
- 1470年4月2日以前~1540年3月10日
- 父
- ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ジネヴラ・スフォルツァ
- 夫
- ジベルト2世・ピオ
- 子
- アレッサンドロ・ピオ
ジローラモ・ピオ
コスタンツォ・ピオ
イッポーリタ・ピオ
エレオノーラ・ピオ
マルコ・ピオ
概要
エレオノーラ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1470年4月2日以前
この日より少し前に生。
1486年10月7日
ジベルト2世・ピオと結婚。
1487年10月26日
アレッサンドロ・ピオを出産。
1492年
イッポーリタ・ピオを出産。
1493年
エレオノーラ・ピオを出産。
1497年5月10日
マルコ・ピオを出産。
1500年9月26日
夫ジベルト2世・ピオ、死。
サッスオーロの摂政を務める。
1501年6月5日
強い地震が発生。モンテジッビオ、マラネッロ、カステルヴェトロの城を破壊し、サッスオーロを含む地域内のすべての居住地に大きな被害を与える。
1503年5月24日(水)
関税その他の税金を免除した自由な見本市を開催する許可をアルフォンソ1世・デステから得る。当時、これらの税金は商業活動を困難にする負担となっていた。
10月の見本市と呼ばれ、現在でも10月の毎週日曜日に開催されている。
1505年
長男アレッサンドロ・ピオがサッスオーロ統治を開始。
1517年4月
長男アレッサンドロ・ピオ、死(1518年4月)。
サッスオーロ新領主の孫ジベルト・ピオの摂政を務める。
1528年10月25日
息子ジローラモ・ピオ、死。
肖像
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの華』
ジネヴラ・ベンティヴォーリオ Ginevra Bentivoglio
- 父
- エルコーレ・ベンティヴォーリオ
- 母
- バルバラ・トレッリ
- 夫
- ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
概要
ジネヴラ・ベンティヴォーリオは、イタリアの女性。
参考文献
コスタンツァ・ベンティヴォーリオ Costanza Bentivoglio
- 父
- エルコーレ・ベンティヴォーリオ
- 母
- バルバラ・トレッリ
- 夫
- ロレンツォ・ストロッツィ
フィリッポ・トルニエッリ
外部リンク
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ Alessandro Bentivoglio
- 父
- アントーニオ・ベンティヴォーリオ
- 母
- アレッサンドラ・デジデーリ
- 妻
- イゾッタ・マンツォーリ
- 子
- ウリッセ・ベンティヴォーリオ
概要
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオは、16世紀頃のイタリアの男性。
別表記
アレッサンドロ・エルコーレ・ベンティヴォーリオ
外部リンク
コスタンツォ・ベンティヴォーリオ Costanzo Bentivoglio
- 生没
- 1489年7月23日~1542年10月3日以前
- 出身
- ボローニャ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ
- 母
- ルクレツィア・デステ
- 妻
- エレーナ・ランゴーニ
- 子
- グイド・ベンティヴォーリオ
コメーリオ・ベンティヴォーリオ
概要
コスタンツォ・ベンティヴォーリオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、長男。
年表
1503年1月18日
チッタ・ディ・ピエーヴェにて、ジローラモ・サンピエーリとフランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスが代理人で、フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスの妹と婚約。
外部リンク
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ Violante Bentivoglio
- 生没
- 1505年~1550年
- 父
- アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
- 母
- イッポーリタ・スフォルツァ
- 夫
- ジャンパオロ1世・スフォルツァ
- 子
- ルドヴィーカ・スフォルツァ
ムツィオ1世・スフォルツァ
概要
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
ウリッセ・ベンティヴォーリオ Ulisse Bentivoglio
- 生没
- 15??年~1618年
- 父
- アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
- 母
- イゾッタ・マンツォーリ
- 妻
- ペッレグリーナ・ボナヴェンチュリ
- 子
- ジョルジョ・ベンティヴォーリオ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
ビアンカ・ベンティヴォーリオ
ヴィットリア・ベンティヴォーリオ
イッポーリタ・ベンティヴォーリオ
フランチェスコ・ベンティヴォーリオ
概要
ウリッセ・ベンティヴォーリオは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
年表
1576年8月24日
ペッレグリーナ・ボナヴェンチュリと結婚。
別表記
ウリッセ・ベンティヴォーリオ・デ・マジョーリ・ダ・ボローニャ伯
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年8月9日