ルイ1世・ド・ブルボン Louis Ier de Bourbon
- 生没
- 1279年~1341年1月22日
- 出身
- フランス王国オワーズ、クレルモン
- 没地
- フランス王国パリ
- 父
- ロベール・ド・クレルモン
- 母
- ベアトリス・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- マリー・ダヴェーヌ
- 子
- ジャン・ド・ブルボン
?・ド・ブルボン
ギー・ド・ブルボン
ジャネット・ド・ブルボン
ピエール1世・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ブルボン
マルグリット・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
フィリップ・ド・ブルボン
ジャック・ド・ブルボン
ジャック1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ
ベアトリス・ド・ブルボン
概要
ルイ1世・ド・ブルボンは、13世紀から14世紀の男性。
在位
クレルモン伯 1317年~1327年
ラ・マルシュ伯 1327年~1341年
初代ブルボン公 1327年~1341年
クレルモン伯 1331年~1341年
埋葬地
パリ、サン=ジャック通り、ジャコバン修道院教会
外部リンク
ピエール1世・ド・ブルボン Pierre Ier de Bourbon
- 生没
- 1311年~1356年9月19日
- 没地
- フランス王国ポワティエ
- 没地
- フランス王国リヨン
- 父
- ルイ1世・ド・ブルボン
- 母
- マリー・ダヴェーヌ
- 妻
- イザベル・ド・ヴァロワ
- 子
- ルイ2世・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ブルボン
ブランシュ・ド・ブルボン
ボンヌ・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
マルグリット・ド・ブルボン
イザベル・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
概要
ピエール1世・ド・ブルボンは、14世紀の男性。
在位
第2代ブルボン公 1341年~1356年
埋葬地
パリ、サン=ジャック通り、ジャコバン修道院教会
外部リンク
ジャック1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ Jacques Ier de Bourbon-La Marche
- 生没
- 1319年~1362年4月6日
- 没地
- フランス王国リヨン
- 父
- ルイ1世・ド・ブルボン
- 母
- マリー・ダヴェーヌ
- 妻
- ジャンヌ・ド・シャティヨン
- 子
- イザベル・ド・ブルボン
ピエール2世・ド・ブルボン
ジャン1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ
ジャック・ド・ブルボン
概要
ジャック1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュは、14世紀の男性。
在位
ラ・マルシュ伯 1341年~1362年
ポンテュー伯 1351年~1360年
外部リンク
ルイ2世・ド・ブルボン Louis II de Bourbon
- 生没
- 1337年2月4日~1410年8月10日
- 没地
- フランス王国モンリュソン
- 父
- ピエール1世・ド・ブルボン
- 母
- イザベル・ド・ヴァロワ
- 妻
- アンヌ・ドーヴェルニュ
- 子
- カトリーヌ・ド・ブルボン
ジャン1世・ド・ブルボン
イザベル・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
概要
ルイ2世・ド・ブルボンは、14世紀から15世紀の男性。
在位
第3代ブルボン公 1356年~1410年
外部リンク
ジャン1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ Jean Ier de Bourbon-La Marche
- 生没
- 1344年~1393年6月11日
- 没地
- フランス王国ヴァンドーム
- 父
- ジャック1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ
- 母
- ジャンヌ・ド・シャティヨン
- 妻
- カトリーヌ・ド・ヴァンドーム
- 子
- ジャック2世・ド・ブルボン
イザベル・ド・ブルボン
ルイ1世・ド・ブルボン=ヴァンドーム
ジャン・ド・ブルボン
アンヌ・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
シャルロット・ド・ブルボン
概要
ジャン1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュは、14世紀の男性。
在位
ラ・マルシュ伯 1362年~1393年
ヴァンドーム伯 1374年~1393年
埋葬地
ヴァンドーム、聖ジョルジュ協同教会
外部リンク
ジャン1世・ド・ブルボン Jean Ier de Bourbon
- 生没
- 1381年~1434年2月5日
- 没地
- イングランド王国ロンドン
- 父
- ルイ2世・ド・ブルボン
- 母
- アンヌ・ドーヴェルニュ
- 妻
- マリー・ド・ベリー
- 子
- シャルル1世・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
ルイ1世・ド・ブルボン=モンパンシエ
概要
ジャン1世・ド・ブルボンは、15世紀の男性。
在位
ブルボン公 1410年~1434年
埋葬
フランス、スヴィニー修道院
外部リンク
ルイ1世・ド・ブルボン=ヴァンドーム Louis Ier de Bourbon-Vendôme
- 生没
- 1376年~1446年12月21日
- 没地
- フランス王国トゥール
- 父
- ジャン1世・ド・ブルボン=ラ・マルシュ
- 母
- カトリーヌ・ド・ヴァンドーム
- 妻
- ブランシェ・ド・ルシー
ジャンヌ・ド・ラヴァル - 子
- ジャン・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
ガブリエル・ド・ブルボン
ジャン8世・ド・ブルボン=ヴァンドーム
概要
ルイ1世・ド・ブルボン=ヴァンドームは、14世紀から15世紀の男性。
在位
ヴァンドーム伯 1393年~1446年
外部リンク
シャルル1世・ド・ブルボン Charles Ier de Bourbon
- 生没
- 1401年~1456年12月4日
- 没地
- フランス王国ムーラン
- 父
- ジャン1世・ド・ブルボン
- 母
- マリー・ド・ベリー
- 妻
- アニェス・ド・ブルゴーニュ
- 子
- ジャン2世・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
フィリップ・ド・ブルボン
シャルル2世・ド・ブルボン
イザベル・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
マルグリット・ド・ブルボン
ピエール2世・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ブルボン
ジャック・ド・ブルボン
概要
シャルル1世・ド・ブルボンは、15世紀の男性。
在位
ブルボン公、オーヴェルニュ公 1434年~1456年
埋葬
フランス、スヴィニー修道院
外部リンク
ルイ1世・ド・ブルボン=モンパンシエ Louis Ier de Bourbon-Montpensier
- 生没
- 1405年~1486年
- 没地
- 教皇領ローマ
- 父
- ジャン1世・ド・ブルボン
- 母
- マリー・ド・ベリー
- 妻
- ジャンヌ1世・ドーヴェルニュ
ガブリエル・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ - 子
- ジルベール・ド・ブルボン
ジャン・ド・ブルボン
ガブリエル・ド・ブルボン
シャルロット・ド・ブルボン
概要
ルイ1世・ド・ブルボンは、15世紀の男性。
在位
モンパンシェ伯 1434年~1486年
外部リンク
ジャン8世・ド・ブルボン=ヴァンドーム Jean VIII de Bourbon-Vendôme
- 生没
- 1428年~1477年1月6日
- 父
- ルイ1世・ド・ブルボン=ヴァンドーム
- 母
- ジャンヌ・ド・ラヴァル
- 妻
- イザベル・ド・ボーヴォー
- 子
- ジャック・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン=ヴァンドーム
ルイ・ド・ブルボン
シャルロット・ド・ブルボン
イザベル・ド・ブルボン
概要
ジャン8世・ド・ブルボン=ヴァンドームは、15世紀の男性。
在位
ヴァンドーム伯 1466年~1477年
外部リンク
ジャン2世・ド・ブルボン Jean II de Bourbon
- 生没
- 1426年~1488年4月1日
- 没地
- フランス王国ムーラン
- 父
- シャルル1世・ド・ブルボン
- 母
- アニェス・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- ジャンヌ・ド・フランス
カトリーヌ・ダルマニャック
ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム - 女
- ジャンヌ・ルイーズ・ダルブレ
- 子
- マルグリット・ド・ブルボン
シャルル・ド・ブルボン=ラヴダン
マチュー・ド・ブルボン
エクトル・ド・ブルボン
ピエール・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
ジャン・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
概要
ジャン2世・ド・ブルボンは、15世紀の男性。
在位
ブルボン公、オーヴェルニュ公 1456年~1488年
外部リンク
マルグリット・ド・ブルボン Marguerite de Bourbon
- 生没
- 1438年2月5日~1483年4月24日
- 出身
- フランス王国ムーラン
- 没地
- サヴォイア公国ポン=ダン
- 父
- シャルル1世・ド・ブルボン
- 母
- アニェス・ド・ブルゴーニュ
- 夫
- フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
- 子
- ルイーザ・ディ・サヴォイア
ジローラモ・ディ・サヴォイア
フィリベルト2世・ディ・サヴォイア
概要
マルグリット・ド・ブルボンは、15世紀の女性。
埋葬地
ブール=カン=ブレス、ブルー修道院
外部リンク
ピエール2世・ド・ブルボン Pierre II de Bourbon
- 生没
- 1438年12月1日~1503年10月10日
- 出身
- フランス王国ムーラン
- 没地
- フランス王国ムーラン
- 父
- シャルル1世・ド・ブルボン
- 母
- アニェス・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- アンヌ・ド・フランス
- 子
- シャルル・ド・ブルボン
シュザンヌ・ド・ブルボン
概要
ピエール2世・ド・ブルボンは、15世紀から16世紀のフランスの男性。
年表
1473年
アンヌ・ド・フランスと結婚。
埋葬地
フランス、スヴィニー修道院
外部リンク
ジルベール・ド・ブルボン Gilbert de Bourbon
- 生没
- 1443年~1496年10月15日
- 没地
- ポッツオーリ
- 父
- ルイ1世・ド・ブルボン=モンパンシエ
- 妻
- キアラ・ゴンザーガ
- 子
- ルイーズ・ド・ブルボン
ルイ2世・ド・ブルボン=モンパンシエ
シャルル・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
アンヌ・ド・ブルボン
概要
ジルベール・ド・ブルボンは、15世紀の男性。
在位
モンパンシェ伯 1488年~1496年
次代:ルイ2世・ド・ブルボン=モンパンシエ
年表
1485年
インノケンティウス8世から黄金の薔薇を拝受。
1495年5月20日
シャルル8世がナポリを出発し、ジルベール・ド・ブルボンはナポリ総督として残留。
1495年5月26日
セミナラの戦い:ゴンザロ・デ・コルドバ率いるスペイン・ナポリ連合軍と交戦し、勝利。
1495年6月
オーヴォ城とカステル・ヌオーヴォを攻囲される。
ジルベール・ド・ブルボン自身はカステル・ヌオーヴォで5か月間籠城。
1495年12月8日
カステル・ヌオーヴォを降伏。
1496年7月29日
ジルベール・ド・ブルボンは、アテッラでゴンザロ・デ・コルドバに降伏(1496年7月20日、1496年7月21日、1496年8月)し、シャルル8世の残留軍はナポリより撤退。フェッランディーノ・ダラゴーナは、スペイン軍やヴェネツィア艦隊の支援を得てナポリ全土をほぼ回復。但しナポリ奪還の戦いに加わったヴェネツィアは、アドリア海沿岸のナポリ領5都市を占拠し続ける。
1496年10月15日
ポッツオーリにて、死(1496年10月5日)。
別表記
ジルベール・ド・モンパンシェ、ジルベルト・ディ・モンペンシエーリ、Gilbert de Mompensier、Montpensier
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フランソワ・ド・ブルボン=ヴァンドーム François de Bourbon-Vendôme
- 生没
- 1470年~1495年10月30日
- 出身
- フランス王国ヴァンドーム
- 没地
- サヴォイア公国ヴェルチェッリ
- 父
- ジャン8世・ド・ブルボン=ヴァンドーム
- 母
- イザベル・ド・ボーヴォー
- 妻
- マリー・ド・リュクサンブール
- 子
- シャルル4世・ド・ブルボン
ジャック・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
アントワネット・ド・ブルボン
ルイーズ・ド・ブルボン
概要
フランソワ・ド・ブルボン=ヴァンドームは、15世紀の男性。
在位
ヴァンドーム伯 1477年~1495年
ソワソン伯 1487年~1495年
外部リンク
シャルル・ド・ブルボン=ラヴダン Charles de Bourbon-Lavedan
- 生没
- 1470年頃~1502年9月8日
- 父
- ジャン2世・ド・ブルボン
- 母
- ジャンヌ・ルイーズ・ダルブレ
- 妻
- ルイーズ・ド・リオン
- 子
- エクトル・ド・ブルボン
ジャン・ド・ブルボン
ジャック・ド・ブルボン
ガストン・ド・ブルボン
概要
シャルル・ド・ブルボン=ラヴダンは、15世紀から16世紀の男性、庶子。
在位
初代ラヴェダン子爵
外部リンク
ルイ2世・ド・ブルボン=モンパンシエ Louis II de Bourbon-Montpensier
- 生没
- 1483年~1501年8月14日
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- ジルベール・ド・ブルボン
- 母
- キアラ・ゴンザーガ
概要
ルイ2世・ド・ブルボンは、15世紀から16世紀の男性。
在位
モンパンシェ伯 1496年~1501年
先代:ジルベール・ド・ブルボン
外部リンク
ウィキペディア
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『ルネサンスの華』
シャルル・ド・ブルボン Charles de Bourbon
- 生没
- 1482年~1527年
- 父
- ジルベール・ド・ブルボン
- 母
- キアラ・ゴンザーガ
- 妻
- シュザンヌ
概要
シャルル・ド・ブルボンは、15世紀から16世紀の男性。
年表
1523年9月11日
1521年死亡した妻シュザンヌ・ド・ボージューの遺領をフランソワ1世とその母后ルイーザ・ディ・サヴォイアから要求されて両者と対立していたブルボン公シャルル・ド・ブルボンは、カール5世陣営に投じ、両者と決定的に敵対。
これによりフランソワ1世は、軍を指揮して自らイタリアに侵攻することを断念し、指揮を提督Guillaume de Bonnivetに委ねる。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1524年6月
カール5世、ヘンリー8世、シャルル・ド・ブルボンの三者は、カール5世とヘンリー8世から軍や資金を得てシャルル・ド・ブルボンが1524年7月から12月の間にフランスに侵攻することを協定。
1524年6月末/7月初旬
シャルル・ド・ブルボン、軍を率いてアルプスを越えフランス・プロヴァンスに侵攻してマルセイユを包囲。
1524年9月29日
マルセイユを包囲していたシャルル・ド・ブルボン指揮の軍は、フランソワ1世がアヴィニョンに大軍を結集との報に包囲を解き、ミラノを防衛すべく急ぎイタリアに戻る。
1524年10月初旬
シャルル・ド・ブルボン指揮軍のイタリアへの退却、帰還に負けじと、ミラノを奪還すべく大軍を率いて自らアルプスを越え、イタリアに侵攻。
1525年2月24日
Charles de Lannoy総指揮のカール5世軍(=ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス指揮の軍とシャルル・ド・ブルボン指揮の軍)は、前年10月以来パヴィア包囲していたフランソワ1世軍を破る。フランソワ1世は負傷して捕虜となり、クレモーナ近郊Pizzighettoneに幽閉される。彼の将軍ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ(1460年~)、Guillaume de Bonnivet(1488年?~)らは戦死。カール5世軍の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらは負傷。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアはカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスやシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世とフランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1527年1月30日~2月上旬
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ミラノを出発。1527年2月9日?、ピアチェンツァ近郊でゲオルク・フォン・フルンズベルク指揮の軍を併合し、各地で略奪を繰り返しながらボローニャに向かう。
教皇軍の一部は、急ぎボローニャ市街の防衛、確保に向かう。
1527年3月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍、モデナ領Buonportoに到着。シャルル・ド・ブルボンはアルフォンソ1世・デステと会見し、食糧や軍用品を得る。
1527年3月7日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、ボローニャ領サン・ジョヴァンニに到着。以後ボローニャ領を劫掠。
1527年3月15/16日
軍資金に窮して自軍の兵士の憤懣、脱走を止められない中でシャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍の南下を見たクレメンス7世、やむなくCharles de Lannoyと8ヶ月間の休戦協定を結び、自軍のナポリ領及びコロンナ家領からの撤退、コロンナ家の赦免、ポンペーオ・コロンナの枢機卿への復位、カール5世軍への資金の提供、カール5世軍の教会領及びフィレンツェ領からの撤退、ヴェネツィア及びフランスによる本協定承認後のカール5世軍のイタリアからの撤退を約定。
これによりクレメンス7世は形式上コニャック同盟から離脱。
1527年3月31日
クレメンス7世及びCharles de Lannoyから1527年3月15/16日の休戦協定を通告され、教会領から撤退するよう指示されたシャルル・ド・ブルボンは、協定を否認し撤退を拒絶。
1527年4月1日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍がフィレンツェを目指しているとの報が伝えられる。
1527年4月5日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍が、イーモラの城塞の下を通過し、フィレンツェを目指してAppenniniに接近。
1527年4月6/8日
Charles de Lannoyは、シャルル・ド・ブルボン陣営内に入って彼に1527年3月15/16日協定の遵守、トスカーナ侵攻の中止、教会領からの撤退を勧告するためフィレンツェに到着。しかし彼と会見できず、目的を果たせずに終わる。
1527年4月16日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フォルリの南MeldolaからAppenniniを越えフィレンツェ領サンタ・ソフィアに到着。直ちに領内の略奪を開始。
1527年4月25~26日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、フィレンツェ南方30キロのサン・ジョヴァンニ至る。
コニャック同盟軍(サルッツォ侯ミケーレ・アントーニオ(?~1528年:在位1504年~1528年)ら指揮のフランソワ1世軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮のヴェネツィア軍、グイド・ランゴーニ指揮の教皇軍)は、フィレンツェ北方10数キロのバルベリーノに結集し、カール5世軍に対するフィレンツェ防衛策を協議。協議後、フィレンツェとカール5世軍の布陣するサン・ジョヴァンニとの中間地点Incisaに向かってフィレンツェ郊外に近づく。
1527年4月26/27日
シャルル・ド・ブルボン、コニャック同盟軍によるフィレンツェ防衛が堅固なこと、フィレンツェ市民による支持、歓迎が期待できないこと、アルフォンソ1世・デステにかねてからフィレンツェ劫掠を止められていたこと、自軍の多数のルター派兵士からローマ劫掠を急ぐ声が強く上がったことなどによりフィレンツェ攻撃、侵入を断念し、急遽ローマを目指して軍をシエナ方面に転進させる。
1527年
3月15/16日の協定を信じてすでにローマ防衛態勢を解除していたクレメンス7世は、シャルル・ド・ブルボンのローマ進軍、接近を知って急ぎR. di Ceriに防衛軍を組織させる。
1527年5月5~6日
シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、Acquapendente、ヴィテルボなどを経てローマ市外に布陣。
1527年5月6日
ローマ劫掠:シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、R. di Ceri指揮のローマ防衛軍を破って市街に突入。シャルル・ド・ブルボン自身は戦死するが、軍は略奪、破壊、放火、殺戮の限りを尽くしながらヴァティカン宮殿をも激しく襲う。クレメンス7世は急ぎ枢機卿13名らと共にサンタンジェロ城塞に逃げ、そのまま捕囚同然の身となる。
1527年
フランソワ1世、シャルル・ド・ブルボンの所領の大部分を没収し、ルイーザ・ディ・サヴォイアに与える。
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『服飾の中世』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
シャルル4世・ド・ブルボン Charles IV de Bourbon
- 生没
- 1489年6月2日~1537年3月25日
- 出身
- フランス王国ヴァンドーム城
- 没地
- フランス王国アミアン
- 父
- フランソワ・ド・ブルボン=ヴァンドーム
- 母
- マリー・ド・リュクサンブール
- 妻
- フランソワーズ・ダランソン
- 子
- ルイ・ド・ブルボン
マリー・ド・ブルボン
マルグリット・ド・ブルボン
アントワーヌ・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
マドレーヌ・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
シャルル・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
ジャン・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
エレオノール・ド・ブルボン
概要
シャルル4世・ド・ブルボンは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ソワソン伯、マルル伯 1495年~1537年
ヴァンドーム伯 1495年~1514年
ヴァンドーム公 1514年~1537年
外部リンク
アントワーヌ・ド・ブルボン Antoine de Bourbon
- 生没
- 1518年4月22日~1562年11月17日
- 出身
- フランス王国ピカルディ、ラ・フェール
- 没地
- フランス王国ルーアン
- 父
- シャルル4世・ド・ブルボン
- 母
- フランソワーズ・ダランソン
- 妻
- ジャンヌ・ダルブレ
- 子
- アンリ・ド・ブルボン
アンリ4世
シャルル・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
マドレーヌ・ド・ブルボン
カトリーヌ・ド・ブルボン
概要
アントワーヌ・ド・ブルボンは、16世紀の男性。
在位
ヴァンドーム公 1537年~1562年
ナヴァラ王アントーニオ1世 1555年~1562年
外部リンク
アンリ4世 Henri IV
- 生没
- 1553年12月13日~1610年5月14日
- 出身
- ナヴァラ王国ベアルン地方ポー
- 没地
- フランス王国パリ
- 父
- アントワーヌ・ド・ブルボン
- 母
- ジャンヌ・ダルブレ
- 妻
- マルグリット・ド・ヴァロワ
マリー・ド・メディシス - 子
- ルイ13世
エリザベート・ド・ブルボン
クリスティーヌ・ド・ブルボン
ニコラ・アンリ・ド・ブルボン
ガストン・ド・ブルボン
アンリエット・マリー・ド・ブルボン
概要
アンリ4世は、16世紀から17世紀の男性。
在位
フランス国王 1589年~1610年
年表
埋葬地
フランス、サン=ドニ大聖堂
別表記
アンリ・ド・ナヴァール、ナヴァール王アンリ、Henri de Navarre
外部リンク
ウィキペディア
歴史データベース
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
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『ルネサンス舞踊紀行』
『Pompeo Caccini and Euridice』
ルイ14世 Louis XIV
- 生没
- 1638年9月5日~1715年9月1日
- 父
- ルイ13世
- 母
- アンヌ・ドートリッシュ
- 妻
- マリー・テレーズ・ドートリッシュ
- 子
- ルイ・ド・ブルボン
アンヌ・エリザベート・ド・ブルボン
シャルル・ド・ブルボン
フィリップ・ド・ブルボン
マリー・アンヌ・ド・ブルボン
マリー・アンヌ・ド・ブルボン
マリー・テレーズ・ド・ブルボン
フィリップ・シャルル・ド・ブルボン
ルイ・ド・ブルボン
ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン
ルイ・フランソワ・ド・ブルボン
ルイ・セザール・ド・ブルボン
ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン
ルイーズ・マリー・ド・ブルボン
フランソワーズ・マリー・ド・ブルボン
ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン
概要
ルイ14世は、17世紀~18世紀のフランスの男性。
在位
ブルボン朝第3代フランス王 1643年5月14日~1715年9月1日
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
フィリッポ1世・ディ・ボルボーネ Filippo I di Borbone
- 生没
- 1720年3月15日~1765年7月18日
- 父
- フェリペ5世
- 母
- イサベル・ファルネシオ
- 妻
- ルイーザ・エリザベッタ・ディ・ボルボーネ
- 子
- マリア・イザベラ・ディ・ボルボーネ
フェルディナンド1世・ディ・ボルボーネ
マリア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
概要
フェリペ・デ・ボルボンは、18世紀のスペイン出身の男性。
在位
パルマ公 1748年~1765年
年表
外部リンク
フェルディナンド1世・ディ・ボルボーネ Ferdinando I di Borbone
- 生没
- 1751年1月20日~1802年10月9日
- 父
- フィリッポ1世・ディ・ボルボーネ
- 母
- ルイーザ・エリザベッタ・ディ・ボルボーネ
- 妻
- マリーア・アマーリア・ダズブルゴ
- 子
- カロリーナ・ディ・ボルボーネ
ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ
マリーア・アントニエッタ・ディ・ボルボーネ
カルロッタ・ディ・ボルボーネ
フィリッポ・マリーア・ディ・ボルボーネ
アントニエッタ・ディ・ボルボーネ
ルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ
概要
フェルディナンド1世・ディ・ボルボーネは、18世紀~19世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1765年~1802年
外部リンク
ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ Ludovico I di Borbone
- 生没
- 1773年8月5日~1803年5月27日
- 父
- フェルディナンド1世・ディ・ボルボーネ
- 母
- マリーア・アマーリア・ダズブルゴ
- 妻
- マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
- 子
- カルロ2世・ディ・ボルボーネ
マリーア・ルイーザ・カルロッタ・ディ・ボルボーネ
概要
ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネは、18世紀~19世紀のイタリアの男性。
在位
初代エトルリア王 1801年~1803年
外部リンク
カルロ2世・ディ・ボルボーネ Carlo II di Borbone
- 生没
- 1799年12月27日~1883年5月17日
- 父
- ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ
- 母
- マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
- 妻
- マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
- 子
- ルイーザ・フランチェスカ・ディ・ボルボーネ
カルロ3世・ディ・ボルボーネ
概要
カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネは、18世紀~19世紀のイタリアの男性。
在位
第2代エトルリア王 1803年~1807年
ルッカ公 1824年~1847年
パルマ・ピアチェンツァ公 1847年~1849年
年表
外部リンク
カルロ3世・ディ・ボルボーネ Carlo III di Borbone
- 生没
- 1823年1月14日~1854年3月27日
- 父
- カルロ2世・ディ・ボルボーネ
- 母
- マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
- 妻
- ルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ
- 子
- マルゲリータ・ディ・ボルボーネ
ロベルト1世・ディ・ボルボーネ
アリーチェ・ディ・ボルボーネ
エンリーコ・ディ・ボルボーネ
概要
カルロ3世・ディ・ボルボーネは、19世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ・ピアチェンツァ公 1849年~1854年
外部リンク
ルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ Luisa Maria di Borbone
- 生没
- 1819年9月21日~1864年2月1日
- 父
- シャルル・フェルディナン・ダルトワ
- 母
- マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン
- 夫
- カルロ3世・ディ・ボルボーネ
- 子
- マルゲリータ・ディ・ボルボーネ
ロベルト1世・ディ・ボルボーネ
アリーチェ・ディ・ボルボーネ
エンリーコ・ディ・ボルボーネ
概要
ルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワは、19世紀のフランス出身の女性。
1830年の七月革命勃発後、祖父シャルル10世、叔父アングレーム公夫妻、弟アンリらと共にフランスから亡命した。母マリー・カロリーヌは1832年、ルイ・フィリップ1世を追い落として息子アンリを王位につけようとクーデターを起こそうとした際に逮捕され、エットーレ・ルケージ・パッリ伯爵との秘密結婚が明らかとなり、それに怒ったシャルル10世によりブルボン家から縁を切られた。そのため、ルイーズとアンリは幼い頃から懐いていた伯母のアングレーム公夫人マリー・テレーズに養育された。
外部リンク
ロベルト1世・ディ・ボルボーネ Roberto I di Borbone
- 生没
- 1848年7月9日~1907年11月16日
- 父
- カルロ3世・ディ・ボルボーネ
- 母
- ルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ
- 妻
- マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ
マリーア・アントーニア・ディ・ブラガンツァ - 子
- マリア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
フェルディナンド・ディ・ボルボーネ
ルイーザ・マリア・ディ・ボルボーネ
エンリコ・ディ・ボルボーネ
マリア・インマコラタ・ディ・ボルボーネ
ジュゼッペ・ディ・ボルボーネ
マリア・テレーザ・ディ・ボルボーネ
マリア・ピア・ディ・ボルボーネ
ベアトリーチェ・ディ・ボルボーネ
エリア・ディ・ボルボーネ
マリア・アナスタシア・ディ・ボルボーネ
アウグスト・ディ・ボルボーネ
マリア・デッレ・ネーヴェ・アデライーデ・ディ・ボルボーネ
シスト・ディ・ボルボーネ
サヴェリオ・ディ・ボルボーネ
フランチェスカ・ディ・ボルボーネ
ツィタ・ディ・ボルボーネ
フェリーチェ・ディ・ボルボーネ
レナート・ディ・ボルボーネ
マリア・アントニア・ディ・ボルボーネ
イザベッラ・ディ・ボルボーネ
ルイージ・ディ・ボルボーネ
エンリケッタ・ディ・ボルボーネ
ガエターノ・ディ・ボルボーネ
概要
ロベルト1世・ディ・ボルボーネは、19世紀~20世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ・ピアチェンツァ公 1854年~1860年
外部リンク
エリア・ディ・ボルボーネ Elia di Borbone
- 生没
- 1880年7月23日~1959年6月27日
- 父
- ロベルト1世・ディ・ボルボーネ
- 母
- マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ
- 妻
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ・テシェン
- 子
- エリザベッタ・ディ・ボルボーネ
カルロ・ディ・ボルボーネ
マリア・フランチェスカ・ディ・ボルボーネ
ロベルト・ウーゴ・ディ・ボルボーネ
フランチェスコ・ディ・ボルボーネ
ジョヴァンナ・ディ・ボルボーネ
アリーチェ・ディ・ボルボーネ
マリア・クリスティーナ・ディ・ボルボーネ
概要
エリア・ディ・ボルボーネは、19世紀~20世紀の男性。
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2021年2月22日