Habsburg

ハプスブルク家

ジョヴァンナ・ダズブルゴ Giovanna d'Asburgo

生没
1547年1月24日~1578年4月10日
フェルディナンド1世
フランチェスコ1世・デ・メディチ
エレオノーラ・デ・メディチ
ローモラ・デ・メディチ
イザベッラ・デ・メディチ
アナ・デ・メディチ
マリー・ド・メディシス
フィリッポ・デ・メディチ
概要

 ジョヴァンナ・ダズブルゴは、16世紀の女性。

年表

1565年12月16日

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいバルバーラ・ダズブルゴ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいエレオノーラ・ダズブルゴ→子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 ジョヴァンナ・ダウストリア、ヨハンナ・フォン・ハプスブルク、Johanna von ÖsterreichGiovanna d'AustriaJohanna von Habsburg

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参考文献

 『愛の年代記』
 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

バルバーラ・ダズブルゴ Barbara d'Asburgo

生没
1539年4月30日~1572年9月19日
フェルディナンド1世
アルフォンソ2世・デステ
概要

 バルバーラ・ダズブルゴは、16世紀の女性。

チェーザレ・ボルジア数

 夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいエレオノーラ・ダズブルゴ→子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Barbera von Österreich

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参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

エレオノーラ・ダズブルゴ Eleonora d'Asburgo

生没
1534年~1594年
フェルディナンド1世
アンナ・ヤギェウォ
グリエルモ・ゴンザーガ
アンナ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
概要

 エレオノーラ・ダズブルゴは、16世紀の女性。

チェーザレ・ボルジア数

 子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいバルバーラ・ダズブルゴ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Eleonora von Österreich

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マリア・フォン・ハプスブルク Maria von Habsburg

生没
1505年9月17日~1558年10月17日
フェリペ1世
ラヨシュ2世
概要

 マリア・フォン・ハプスブルクは、16世紀の女性。

在位

 ネーデルラント総督 1531年~1555年
  先代:マルグリット・ドートリッシュ

年表

1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルクウラースロー2世・ヤギェウォラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1531年1月3日
カール5世は、妹、前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルクをネーデルラント総督に任命。
1551年3月9日
カール5世フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1555年
カール5世の妹マリア・フォン・ハプスブルク、ネーデルラント総督を辞し(1531年~)、スペイン中西部ユステ近郊に隠遁。

別表記

 マリー・ド・ハプスブルク

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参考文献

 『ハプスブルク家』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マリア・デ・アブスブルゴ Maria de Habsburgo

生没
1528年~1603年
カール5世
イサベル・デ・アヴィシュ
マクシミリアン2世
アナ・デ・アウストリア
ルドルフ2世
マチアス
概要

 マリア・デ・アブスブルゴは、16世紀~17世紀の女性。

年表

1544年9月18日
クレピーの和:カール5世ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子OrléansCharlesd'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Annavon Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世ミラノナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世(1527年~1576年:ハンガリー王Maximilian I在位1563年~1576年:神聖ローマ皇帝在位1564年~1576年)の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。

別表記

 Maria von Habsburg

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 『メディチ家の人びと』
 『ハプスブルク家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク Ferdinand II von Habsburg

生没
1529年6月14日~1595年1月24日
フェルディナンド1世
アンナ・ヤギェウォ
フィリッピーネ・ヴェルザー
アンナ・ゴンザーガ
概要

 フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクは、16世紀の男性。

在位

 前方オーストリア大公 1564年~1595年
  先代:フェルディナンド1世
  次代:ルドルフ2世
     マティアス
     マクシミリアン3世

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいバルバーラ・ダズブルゴ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいエレオノーラ・ダズブルゴ→子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

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 『ルネサンス宮廷大全』

カタリーナ・フォン・ハプスブルク Katharina von Habsburg

生没
1533年9月15日~1572年2月28日
フェルディナンド1世
アンナ・ヤギェウォ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
ポーランド王ジグムント2世
概要

 カタリーナ・フォン・ハプスブルクは、16世紀の女性。

年表

1549年10月27日
母と叔父の後見を脱したフランチェスコ3世・ゴンザーガと結婚。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいバルバーラ・ダズブルゴ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 きょうだいエレオノーラ・ダズブルゴ→子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Katharina von Österreich

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 Treccani.it

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 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フアン・デ・アウストリア Juan de Austria


生没
1547年2月24日?~1578年10月1日
カール5世
概要

 フアン・デ・アウストリアは、16世紀の男性。

年表

1570年秋
アンダルシア・アルプハラス地方のMoro人反乱(1568年~)、フェリペ2世の異母弟・(故カール5世の庶出の子)フアン・デ・アウストリア(1545年~1578年)指揮のフェリペ2世軍に鎮圧され、Moro人は強制移住・分散させられる。
1571年7月20日
すでにフアン・デ・アウストリアを指揮官として大水軍の編成を着々と進める対オスマン・トルコ神聖同盟、ヴェネツィアで公表される。
1571年10月7日
レパント沖の海戦:結集していたシチリア島メッシーナを出てイオニア海諸島に向かったフアン・デ・アウストリア指揮の神聖同盟軍(200隻余のガレー船、1800門余の大砲、8万前後の兵員)、マホメッド・アリ・パシャ指揮のオスマン・トルコ水軍(280隻余のガレー船、750門余の大砲、8万8千余の兵員)がレパントに結集していると知って急襲し、激戦の末、大勝利を収める。しかしこれを壊滅させるまでには至らずに終わる。
この勝利によりイタリア、当面オスマン・トルコの直接の脅威からは解放されたものの、神聖同盟軍の半数を占めたフェリペ2世の専制支配の下にさらに深く陥る。
1573年10月
フアン・デ・アウストリア指揮のフェリペ2世軍、オスマン・トルコに占領されていた(1569年~)チュニスを奪回。

別表記

 ドン・ファン・ダウストリア、ドン・ホアン・ダウストリア、ドン・ジョヴァンニ・アウストリア、don Juan de Austria

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参考文献

 『ハプスブルク家』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

レオノール・デ・アウストリア Leonor de Austria

生没
1498年11月15日~1558年2月25日
フェリペ1世
フアナ1世・デ・トラスタマラ
マヌエル1世
フランソワ1世
概要

 レオノール・デ・アウストリアは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1526年1月14日
マドリード協定:カール5世フランソワ1世は、カール5世はイングランドとフランスの提携、自分のイタリアにおける支配力の強化を恐れるイタリアの諸権力者、諸国のフランスへの傾斜を見て、フランスとの対立を回避するのを得策と考え、フランソワ1世は自分の身柄の解放を何よりも望んで、子息フランソワとアンリを人質として釈放されること、ミラノ、ナポリ、ジェノヴァ、フランドル、アルトワ、Tournai、ブルゴーニュなどの支配権ないしはその要求権をカール5世に委譲すること、カール5世の姉で前ポルトガル王故Manoel Iの後室レオノール・デ・アウストリア(1498年~1558年)と結婚することなどを協定。
カール5世のイタリア人重臣、法務卿Mercurino Arborio di Gattinaraフランソワ1世が自由の身となった時にこれを遵守するはずがなく、これはフランソワ1世をより恐るべき敵とするだけだとしてこれに署名することを拒否し、カール5世は1526年2月11日自らこれに署名。
この協定の報が伝わるに連れ、自由の身になればフランソワ1世はこの協定を守るはずがないと広く、とりわけイタリア各地で広く信じられる。
1529年8月5日
カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世フランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、TournayArrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1530年7月7日
フランソワ1世、マドリード協定(1526年)及びカンブレーの和により、カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚。
1533年10月13日
フランソワ1世、王妃レオノール・デ・アウストリアと2名の王子を初め200名に上る上級貴族を伴ってマルセイユに着く。
以後、クレメンス7世フランソワ1世、この地で秘密裡に会見を繰り返す。クレメンス7世フランソワ1世にミラノへの進出を認め、フランソワ1世クレメンス7世に自国での異端の撲滅を約束か?

別表記

 フランス語:エレオノール(Éléonore)
 ドイツ語:エレオノーレ(Eleonore)
 ポルトガル語:レオノーラ(Leonora)
 Eleonora von Habsburg

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 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『世界悪女大全』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アナ・デ・アウストリア Ana de Austria


生没
1549年11月1日~1580年10月26日
マクシミリアン2世
マリア・デ・アブスブルゴ
フェリペ2世
フェルナンド(夭折)
カルロス・ロレンソ(夭折)
ディエゴ・フェリックス(夭折)
フェリペ3世
マリア(夭折)
概要

 アナ・デ・アウストリアは、16世紀の女性。

年表

1570年
フェリペ2世と結婚。

別表記

 アンナ・フォン・エスターライヒ、Anna von Österreich

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 『ハプスブルク家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フェリペ3世 Felipe III

生没
1578年4月14日~1621年3月31日
出身
マドリード
没地
マドリード
フェリペ2世
アナ・デ・アウストリア
マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
アナ・マリア・マウリシア
マリア
フェリペ
マリア・アナ
カルロス
フェルナンド
マルガリータ
アルフォンソ
概要

 フェリペ3世は、16世紀~17世紀のスペインの男性、スペイン王。

在位

 アストゥリアス公・ジローナ公・ポルトガル公 1582年~1598年
 スペイン王・ポルトガル王・ナポリ王・シチリア王 1598年~1621年

年表

1615年1月30日
支倉常長ら慶長遣欧使節に接見。

別表記

 フィリップ3世

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 『ハプスブルク家』
 『ルネサンス宮廷大全』

ルドルフ2世 Rudolf II

生没
1552年7月18日~1612年1月20日
出身
神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン
没地
神聖ローマ帝国ボヘミア王国プラハ
マクシミリアン2世
マリア・デ・アブスブルゴ
カテリーナ・ストラドヴァ
ユリウス・カエザル
マティアス
カール
アナ・ドロテア
エリーザベト
カロリーナ
概要

 ルドルフ2世は、16世紀~17世紀の男性。

在位

 神聖ローマ皇帝 1576年~1612年
  先代:マクシミリアン2世
  次代:マティアス

肖像

埋葬地

 神聖ローマ帝国ボヘミア王国プラハ、聖ヴィート大聖堂

別表記

 ルードルフ2世

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 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『ルネサンス宮廷大全』

カタリナ・デ・アブスブルゴ Catarina de Habsburgo

生没
1507年1月14日~1578年2月12日
フェリペ1世
フアナ1世・デ・トラスタマラ
ジョアン3世
マリーア・マヌエラ・デ・ポルトガル
概要

 カタリナ・デ・アブスブルゴは、16世紀の女性。

別表記

 カタリーナ、カテリーナ

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 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『ハプスブルク家』

フアナ・デ・アブスブルゴ Juana de Habsburgo

生没
1535年6月24日~1573年9月7日
カール5世
イサベル・デ・アヴィシュ
概要

 フアナ・デ・アブスブルゴは、16世紀の女性。

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月23日