フリードリヒ3世 Friedrich III
- 生没
- 1415年9月21日~1493年8月19日
- 出身
- 神聖ローマ帝国チロル伯領インスブルック
- 没地
- 神聖ローマ帝国オーストリア大公国リンツ
- 父
- エルンスト
- 母
- ツィンバルカ・マゾヴィエツカ
- 妻
- エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル
- 子
- マクシミリアン1世
クニグンデ
概要
フリードリヒ5世・フォン・ハプスブルクは、15世紀の男性。
在位
ドイツ王 1440年~1493年
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世 1452年~1493年
年表
1440年2月2日
フランクフルトの選帝侯会議でドイツ王に選出され、フリードリヒ3世を名乗る(在位1440年~1493年)。
1440年7月17日
Władysław IIIは、ハンガリーの反ハプスブルク系貴族による親ハプスブルク系貴族を抑えての支持により、ハンガリー王位にも就き、Ulászló Iを名乗る。親ハプスブルク系貴族はラディスラウス・ポストゥムスと共にドイツ王フリードリヒ3世の庇護下に入る。
1445年
ラディスラウス・ポストゥムス、ハンガリー議会によりハンガリー王László Vとして承認される。但し、ラディスラウス・ポストゥムスを庇護下に置く(1440年~)フリードリヒ3世はこれを拒否。
1446年6月
ハンガリー議会は、フニャディ・ヤーノシュをフリードリヒ3世の庇護下からなお解放されない幼王ラディスラウス・ポストゥムスの摂政とする(在位~1452年)。
1448年6月
この月?、バーゼル分離公会議は、フリードリヒ3世に追われて会場をローザンヌに移す。
1452年3月15日
フランチェスコ1世・スフォルツァの反対の意を無視したニコラウス5世によりローマのサン・ピエトロ大聖堂でロンバルディア王の冠を受ける(1452年3月16日)。
1452年3月18日
神聖ローマ皇帝の冠を受ける(1452年3月19日)。ローマで戴冠の最後の皇帝となる。
1452年
1452年5月18日
ローマからの帰途上、多額の貢献金を呈したボルソ・デステをモデナ・レッジョ公及びロヴィーゴ・コマッキオ伯に叙する。
1453年10月
ラディスラウス・ポストゥムス、フリードリヒ3世からその庇護を解かれボヘミア王Ladislavとしての冠を受ける(在位1453年~1457年)。
この頃?ラディスラウス・ポストゥムス、ようやくハンガリー王László Vとしても実権を得る。
1457年11月23日
ラディスラウス・ポストゥムス、プラハで死。。フリードリヒ3世、ハンガリーとボヘミア王位の継承を狙う。
1459年11月14日
ルネ・ダンジューの使節マントヴァに到着。間もなくフリードリヒ3世の使節も到着。
1459年
1468年
1473年9月13日
トリーアにて、シャルル・ル・テメレールと会見。
1474年3月30日
フリードリヒ3世、スイス誓約同盟とその独立を承認する永久協定を締結。
1474年6月11日
ルイ11世、フリードリヒ3世とスイス誓約同盟の永久協定を認可し、後者の独立を承認。
1474年10月
ルイ11世とフリードリヒ3世の支援を得たスイス誓約同盟、シャルル・ル・テメレールに対して戦端を開く(ブルゴーニュ戦争:1474年~1477年)。
1478年8月1日
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、フェッラーラ及びルイ11世の使節たち、会合し、シクストゥス4世のロレンツォ・イル・マニーフィコ及びフィレンツェへの敵対はオスマン・トルコを利するだけの、キリスト教世界への敵対行為であると非難の声明を発表。
この頃?、フリードリヒ3世も、シクストゥス4世に対し、フィレンツェに向けている軍を直ちにオスマン・トルコに向けるよう勧奨。
しかしシクストゥス4世、これらの非難、勧奨を無視しフィレンツェ領内で戦闘を続行。
1479年2月15日
この日から開催された枢機卿会議でフリードリヒ3世の使節は、ルイ11世の求める公会議の開催は否定しながらもシクストゥス4世に対し、フリウーリや上部イタリアにも及んでいるオスマン・トルコの進撃を考慮し慈悲をもってフィレンツェと和を講ずるべきと主張。枢機卿の多くもこれに賛同するが、ジローラモ・リアリオとフェッランテ・ダラゴーナの対フィレンツェ強硬姿勢に傾くシクストゥス4世は首肯せず。
1488年2月14日
神聖ローマ帝国の西南シュヴァーベン地方を中心とする22の帝国都市、騎士、高位聖職者、貴族、領邦諸侯、フリードリヒ3世の勧告によりエスリンゲンで治安維持のための同盟、シュヴァーベン同盟を結成し、諸侯の権限を拡大強化する帝国改造を指示して当初は(~1499年)ハプスブルク家の独裁化を牽制。しかし後にこの同盟、同家の家領拡大の道具と化す(~1534年)。
1490年3月16日
ティロール伯Sigmundは、従兄弟フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世にティロールを委譲し、退位(在位1439年、1446年~)。これにより豊かな鉱山を得たマクシミリアン1世は財政基盤を固め、この際彼を支援したヤコブ・フッガーはハプスブルク家との結びつきをさらに強める。
1493年8月19日
死。
肖像
埋葬地
ウィーン、シュテファン大聖堂
別表記
Friedrich V von Habsburg
外部リンク
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世界帝王事典
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Genealogy.EU
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ハプスブルク家』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
フェリペ1世 Felipe I
- 生没
- 1478年7月22日~1506年9月25日
- 出身
- ブルッヘ
- 没地
- ブルゴス
- 父
- マクシミリアン1世
- 母
- マリー・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 子
- レオノール・デ・アウストリア
カール5世
フェルディナンド1世
マリア・フォン・ハプスブルク
カタリナ・デ・アブスブルゴ
概要
フェリペ1世は、ブルゴーニュ公として1496年、フアナ1世・デ・トラスタマラと結婚。1504年、妻の母イサベル1世・デ・カスティーリャの死によって、名目上妻と共にカスティーリャの共同統治者になったが、実権がフェルナンド2世・デ・アラゴンにあり、無力であった。フランドルに住み、1506年スペインに入り、3ヵ月後に死んだ。その子カール5世によってスペインは最終的に統一された。
在位
ブルゴーニュ公フィリップ4世 1482年~1506年
カスティーリャ王フェリペ1世(僭称) 1504年~1506年
年表
1496年10月21日
フアナ1世・デ・トラスタマラと結婚。
1497年
1504年9月22日
ルイ12世、マクシミリアン1世、フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランスとフェリペ1世の長子カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。
1504年11月26日
イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャのスペイン共同統治終わる(1479年~1504年)。
両王の娘フアナ1世・デ・トラスタマラは、カスティーリャ王位を継ぐが、フェルナンド2世・デ・アラゴンが摂政としてカスティーリャを統治(1504年~1506年)。これに対し、自ら摂政の位を望むフアナ1世・デ・トラスタマラの夫、ブルゴーニュ公フェリペ1世は不満を抱く。
1505年10月12日
ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリャの貴族たちの反感強まる。
1506年1月
妻フアナ1世・デ・トラスタマラと共にスペインに向かっていたが、嵐のため難破し、イギリス滞在を余儀なくする。
1506年4月28日
病弱な妻フアナ1世・デ・トラスタマラの摂政としてカスティーリャを支配しようとするフェリペ1世、その位を求めて彼女と共にカスティーリャ王国コルーニャに到着。フェルナンド2世・デ・アラゴンに反感を抱く貴族たちの支持を受ける。
1506年5月21日
1504年9月のブロワでの協定でフェリペ1世の子カール5世と結婚することになっていたルイ12世の娘クロード・ド・フランスは、ルイ12世の従兄弟フランソワ・ダングレーム(1494年~1547年:在位1515年~1547年)と婚約。
1506年6月27日
ヴィリャファフィラ協定:内乱を恐れるフェルナンド2世・デ・アラゴンはヴィジャファフィラにて、フェリペ1世はベナヴェンテにて、協定に署名。カスティーリャの摂政の位がフェリペ1世に委譲される。
1506年
妻フアナ1世・デ・トラスタマラと共に、ベナヴェンテ公アロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコの邸宅に滞在。
1506年9月25日
ブルゴスにて、腸チフスにより急死(1506年7月25日、1506年9月5日、1506年9月26日)。
別表記
フィリップ美公、フィリップ1世、Philipp I der Schöne、Felipe el Hermoso
外部リンク
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世界帝王事典
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RootsWeb.com
The Medici Archive Project
Wikipedia - Treaty of Villafáfila
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
マルグリット・ドートリッシュ Marguerite d'Autriche
- 生没
- 1480年1月10日~1530年12月1日
- 出身
- 神聖ローマ帝国ブラバント公国ブリュッセル
- 没地
- 神聖ローマ帝国ブラバント公国メヘレン
- 父
- マクシミリアン1世
- 母
- マリー・ド・ブルゴーニュ
- 夫
- フアン・デ・トラスタマラ
フィリベルト2世・ディ・サヴォイア
概要
マルグリット・ドートリッシュは、15世紀から16世紀の女性。
在位
ネーデルラント総督 1507年~1515年、1519年~1530年
次代:マリア・フォン・ハプスブルク
年表
1482年3月27日
母マリー・ド・ブルゴーニュ、死。
フランドルのメヘレン城にて継祖母マーガレット・オブ・ヨークの下で養育される。
1482年12月23日
アラスの和約により、フランス王太子シャルル・ド・ヴァロワとの婚約が決まり、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領、その他幾つかの小領地が持参金として与えられる。
1483年
有力貴族とフランス王ルイ11世の密約により、王太子シャルル・ド・ヴァロワの婚約者として誘拐同然にフランスへ送られる。
アンボワーズ城で王太子姉アンヌ・ド・フランスに未来のフランス王妃としての教育を施される。
1484年5月30日
13歳の婚約者がフランス王シャルル8世として即位し、形式的な王妃となる。
1490年12月19日
父マクシミリアン1世がブルターニュ公アンヌ・ド・ブルターニュと婚約。
1491年12月6日
シャルル8世がアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行。
1492年
教皇インノケンティウス8世がシャルル8世との婚約破棄を認可。
この結果、将来のフランス王妃としての地位を失うが、婚資返還問題のため足止めを受ける。
1493年5月23日
サンリスの和約により、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領、シャロレ、ブルゴーニュ公国附属領であるノワイエール、シャトー=シノン、ショサン、ラペリエールを保持。
フランドルへ帰国。
1497年4月3日
ブルゴスにて、フアン・デ・トラスタマラと結婚。
1497年10月4日
夫フアン・デ・トラスタマラ、死。
1501年12月2日
ロマンモティエ=アンヴィーにて、フィリベルト2世・ディ・サヴォイアと結婚。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1515年3月~1515年4月
イタリア侵攻、ミラノ奪還を企図して軍を大幅に増強、結集しながら、1515年3月24日、1515年1月5日より叔母マルグリット・ドートリッシュの後見を排して独立したネーデルラントの君主カール5世(在位1506年~)と、1515年4月5日、ヘンリー8世とそれぞれ協定して背後を固める。
1529年7月7日
この日頃、カール5世の叔母、かつての後見人マルグリット・ドートリッシュとフランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイア、それぞれカンブレーに着き、直ちに和平交渉に入る。
1529年8月5日
カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュとルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世はフランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、Tournay、Arrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世はカール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1530年12月1日
死。
別表記
マリア、マルゴット、Margarete von Habsburg、Maria
外部リンク
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Treccani.it
参考文献
『イタリア史』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
レオノール・デ・アウストリア Leonor de Austria
- 生没
- 1498年11月15日~1558年2月25日
- 父
- フェリペ1世
- 母
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 夫
- マヌエル1世
フランソワ1世
概要
レオノール・デ・アウストリアは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1526年1月14日
マドリード協定:カール5世とフランソワ1世は、カール5世はイングランドとフランスの提携、自分のイタリアにおける支配力の強化を恐れるイタリアの諸権力者、諸国のフランスへの傾斜を見て、フランスとの対立を回避するのを得策と考え、フランソワ1世は自分の身柄の解放を何よりも望んで、子息フランソワとアンリを人質として釈放されること、ミラノ、ナポリ、ジェノヴァ、フランドル、アルトワ、Tournai、ブルゴーニュなどの支配権ないしはその要求権をカール5世に委譲すること、カール5世の姉で前ポルトガル王故Manoel Iの後室レオノール・デ・アウストリア(1498年~1558年)と結婚することなどを協定。
カール5世のイタリア人重臣、法務卿Mercurino Arborio di Gattinaraはフランソワ1世が自由の身となった時にこれを遵守するはずがなく、これはフランソワ1世をより恐るべき敵とするだけだとしてこれに署名することを拒否し、カール5世は1526年2月11日自らこれに署名。
この協定の報が伝わるに連れ、自由の身になればフランソワ1世はこの協定を守るはずがないと広く、とりわけイタリア各地で広く信じられる。
1529年8月5日
カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュとルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世はフランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、Tournay、Arrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世はカール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1530年7月7日
フランソワ1世、マドリード協定(1526年)及びカンブレーの和により、カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚。
1533年10月13日
フランソワ1世、王妃レオノール・デ・アウストリアと2名の王子を初め200名に上る上級貴族を伴ってマルセイユに着く。
以後、クレメンス7世とフランソワ1世、この地で秘密裡に会見を繰り返す。クレメンス7世はフランソワ1世にミラノへの進出を認め、フランソワ1世はクレメンス7世に自国での異端の撲滅を約束か?
別表記
フランス語:エレオノール(Éléonore)
ドイツ語:エレオノーレ(Eleonore)
ポルトガル語:レオノーラ(Leonora)
Eleonora von Habsburg
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参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界悪女大全』
『ハプスブルク家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マリア・フォン・ハプスブルク Maria von Habsburg
- 生没
- 1505年9月17日~1558年10月17日
- 出身
- ブラバント公国ブリュッセル
- 没地
- スペイン帝国シガレス
- 父
- フェリペ1世
- 母
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 夫
- ラヨシュ2世
概要
マリア・フォン・ハプスブルクは、16世紀の女性。
在位
ネーデルラント総督 1531年1月~1555年10月
先代:マルグリット・ドートリッシュ
年表
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォと、また孫マリア・フォン・ハプスブルクをウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1515年7月22日
シュテファン大聖堂にて、ラヨシュ2世と結婚。
1521年12月11日
セーケシュフェヘールヴァールにて、ハンガリー王妃として戴冠。
1522年1月13日
ブダにて、ラヨシュ2世と結婚。
1531年1月3日
兄カール5世により、ネーデルラント総督に任命される。
1551年3月9日
カール5世、フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1555年
ネーデルラント総督を辞し、スペイン中西部ユステ近郊に隠遁。
埋葬地
スペイン、エル・エスコリアル修道院
別表記
マリア・フォン・エスターライヒ、マリー・ド・ハプスブルク
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参考文献
『ハプスブルク家』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
カタリナ・デ・アブスブルゴ Catarina de Habsburgo
- 生没
- 1507年1月14日~1578年2月12日
- 父
- フェリペ1世
- 母
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 夫
- ジョアン3世
- 子
- マリーア・マヌエラ・デ・ポルトガル
概要
カタリナ・デ・アブスブルゴは、16世紀の女性。
別表記
カタリーナ、カテリーナ
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『ハプスブルク家』
マリア・デ・アブスブルゴ Maria de Habsburgo
- 生没
- 1528年~1603年
- 父
- カール5世
- 母
- イサベル・デ・アヴィシュ
- 夫
- マクシミリアン2世
- 子
- アナ・デ・アウストリア
ルドルフ2世
マチアス
概要
マリア・デ・アブスブルゴは、16世紀から17世紀の女性。
年表
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世・ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子Orléans公Charles(d'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Anna(von Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノ、ナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世(1527年~1576年:ハンガリー王Maximilian I在位1563年~1576年:神聖ローマ皇帝在位1564年~1576年)の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。
別表記
Maria von Habsburg
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参考文献
『メディチ家の人びと』
『ハプスブルク家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フアナ・デ・アブスブルゴ Juana de Habsburgo
- 生没
- 1535年6月24日~1573年9月7日
- 父
- カール5世
- 母
- イサベル・デ・アヴィシュ
概要
フアナ・デ・アブスブルゴは、16世紀の女性。
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
フアン・デ・アウストリア Juan de Austria
- 生没
- 1547年2月24日?~1578年10月1日
- 父
- カール5世
概要
フアン・デ・アウストリアは、16世紀の男性。
年表
1570年秋
アンダルシア・アルプハラス地方のMoro人反乱(1568年~)、フェリペ2世の異母弟・(故カール5世の庶出の子)フアン・デ・アウストリア(1545年~1578年)指揮のフェリペ2世軍に鎮圧され、Moro人は強制移住・分散させられる。
1571年7月20日
すでにフアン・デ・アウストリアを指揮官として大水軍の編成を着々と進める対オスマン・トルコ神聖同盟、ヴェネツィアで公表される。
1571年10月7日
レパント沖の海戦:結集していたシチリア島メッシーナを出てイオニア海諸島に向かったフアン・デ・アウストリア指揮の神聖同盟軍(200隻余のガレー船、1800門余の大砲、8万前後の兵員)、マホメッド・アリ・パシャ指揮のオスマン・トルコ水軍(280隻余のガレー船、750門余の大砲、8万8千余の兵員)がレパントに結集していると知って急襲し、激戦の末、大勝利を収める。しかしこれを壊滅させるまでには至らずに終わる。
この勝利によりイタリア、当面オスマン・トルコの直接の脅威からは解放されたものの、神聖同盟軍の半数を占めたフェリペ2世の専制支配の下にさらに深く陥る。
1571年
1573年10月
フアン・デ・アウストリア指揮のフェリペ2世軍、オスマン・トルコに占領されていた(1569年~)チュニスを奪回。
1574年3月24日
別表記
ドン・ファン・ダウストリア、ドン・ホアン・ダウストリア、ドン・ジョヴァンニ・アウストリア、don Juan de Austria
外部リンク
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Genealogy.EU
参考文献
『ハプスブルク家』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マクシミリアン2世 Maximilian II
- 生没
- 1527年~1576年
- 父
- フェルディナンド1世
- 母
- アンナ・ヤギェウォ
- 妻
- マリア・デ・アブスブルゴ
- 子
- アナ・デ・アウストリア
ルドルフ2世
マチアス
エルンスト
概要
マクシミリアン2世は、16世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。
在位
ハンガリー王マクシミリアン1世 1563年~1576年
神聖ローマ皇帝 1564年~1576年
年表
1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。
1551年3月9日
カール5世、フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1562年9月20日
フェルディナンド1世の長子マクシミリアン2世、ボヘミア王に即位(在位~1576年)。
1562年11月24日
マクシミリアン2世、ローマ人の王に選出される。
1563年9月8日
ボヘミア王マクシミリアン2世、ハンガリー王に即位(在位~1576年)。
1564年7月25日
フェルディナンド1世死(1503年~:在位1558年~)——ボヘミア王・ローマ人の王・ハンガリー王マクシミリアン2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位しマクシミリアン2世を名乗る(在位~1576年)。
1565年12月16日
1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。
この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィッツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。
1566年9月6日
1565年から自分への貢税支払を拒否しトランシルヴァニアの奪回・領有を狙う神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世を懲罰すべくハンガリー攻略を目指して通算10回目のヨーロッパ遠征中のスレイマン1世、途上のハンガリー南部シゲトヴァール城塞包囲(1566年8月~)の陣中で急病死(1494/1495年~:在位1520年~)。
しかしその死は秘密とされ、軍は2日後、文字通り死を賭して戦うZrínyi Miklós(1508年頃~1566年)指揮の守備隊を玉砕させ、廃墟と化した城塞をようやく占拠。
——子Selim II(1524年~)、スルタンとなる(在位~1574年)。しかし非力なSelim IIに代わってSokollu Mehmet Paşa(1505年~1579年)が大宰相として執政にあたり(~1578年)、故スレイマン1世の偉業を守る。
1569年8月27日
ピウス5世、Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。
この勅書に、フィレンツェもシエナも神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。
1570年3月5日
ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。
これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王・ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。
1570年
フェリペ2世、マクシミリアン2世の長女アナ・デ・アウストリア(1549年~1580年)と結婚。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世とマクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleでLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世・マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1574年4月21日
コジモ1世・デ・メディチ、近郊カステッロの別荘で死——長子フランチェスコ1世・デ・メディチ(1541年~1587年)、フランチェスコ1世・デ・メディチとしてトスカーナ大公となる(在位1574年~1587年)。(但し、マクシミリアン2世は翌1575年11月2日ようやくトスカーナ大公の称号を承認)。
別表記
マクシミリアン二世
外部リンク
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The Medici Archive Project
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク Ferdinand II von Habsburg
- 生没
- 1529年6月14日~1595年1月24日
- 父
- フェルディナンド1世
- 母
- アンナ・ヤギェウォ
- 妻
- フィリッピーネ・ヴェルザー
アンナ・ゴンザーガ
概要
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクは、16世紀の男性。
在位
前方オーストリア大公 1564年~1595年
先代:フェルディナンド1世
次代:ルドルフ2世
マティアス
マクシミリアン3世
年表
外部リンク
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参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
カタリーナ・フォン・ハプスブルク Katharina von Habsburg
- 生没
- 1533年9月15日~1572年2月28日
- 父
- フェルディナンド1世
- 母
- アンナ・ヤギェウォ
- 夫
- フランチェスコ3世・ゴンザーガ
ポーランド王ジグムント2世
概要
カタリーナ・フォン・ハプスブルクは、16世紀の女性。
年表
1549年10月27日
母と叔父の後見を脱したフランチェスコ3世・ゴンザーガと結婚。
別表記
Katharina von Österreich
外部リンク
ウィキペディア
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
Treccani.it
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
エレオノーラ・ダズブルゴ Eleonora d'Asburgo
- 生没
- 1534年~1594年
- 父
- フェルディナンド1世
- 母
- アンナ・ヤギェウォ
- 夫
- グリエルモ・ゴンザーガ
- 子
- アンナ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
概要
エレオノーラ・ダズブルゴは、16世紀の女性。
別表記
Eleonora von Österreich
外部リンク
世界帝王事典
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Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
バルバーラ・ダズブルゴ Barbara d'Asburgo
- 生没
- 1539年4月30日~1572年9月19日
- 父
- フェルディナンド1世
- 夫
- アルフォンソ2世・デステ
概要
バルバーラ・ダズブルゴは、16世紀の女性。
別表記
Barbera von Österreich
外部リンク
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世界帝王事典
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Genealogy.EU
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ジョヴァンナ・ダズブルゴ Giovanna d'Asburgo
- 生没
- 1547年1月24日~1578年4月10日
- 父
- フェルディナンド1世
- 夫
- フランチェスコ1世・デ・メディチ
- 子
- エレオノーラ・デ・メディチ
ローモラ・デ・メディチ
イザベッラ・デ・メディチ
アナ・デ・メディチ
マリー・ド・メディシス
フィリッポ・デ・メディチ
概要
ジョヴァンナ・ダズブルゴは、16世紀の女性。
年表
1565年12月16日
フランチェスコ1世・デ・メディチと結婚。
別表記
ジョヴァンナ・ダウストリア、ヨハンナ・フォン・ハプスブルク、Johanna von Österreich、Giovanna d'Austria、Johanna von Habsburg
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
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Genealogy.EU
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
参考文献
『愛の年代記』
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
フェリペ3世 Felipe III
- 生没
- 1578年4月14日~1621年3月31日
- 出身
- マドリード
- 没地
- マドリード
- 父
- フェリペ2世
- 母
- アナ・デ・アウストリア
- 妻
- マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
- 子
- アナ・マリア・マウリシア
マリア
フェリペ
マリア・アナ
カルロス
フェルナンド
マルガリータ
アルフォンソ
概要
フェリペ3世は、16世紀から17世紀のスペインの男性、スペイン王。
在位
アストゥリアス公・ジローナ公・ポルトガル公 1582年~1598年
スペイン王・ポルトガル王・ナポリ王・シチリア王 1598年~1621年
年表
別表記
フィリップ3世
外部リンク
参考文献
『ハプスブルク家』
『ルネサンス宮廷大全』
アナ・デ・アウストリア Ana de Austria
- 生没
- 1549年11月1日~1580年10月26日
- 父
- マクシミリアン2世
- 母
- マリア・デ・アブスブルゴ
- 夫
- フェリペ2世
- 子
- フェルナンド(夭折)
カルロス・ロレンソ(夭折)
ディエゴ・フェリックス(夭折)
フェリペ3世
マリア(夭折)
概要
アナ・デ・アウストリアは、16世紀の女性。
年表
1570年
フェリペ2世と結婚。
別表記
アンナ・フォン・エスターライヒ、Anna von Österreich
外部リンク
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The Medici Archive Project
参考文献
『ハプスブルク家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルドルフ2世 Rudolf II
- 生没
- 1552年7月18日~1612年1月20日
- 出身
- 神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン
- 没地
- 神聖ローマ帝国ボヘミア王国プラハ
- 父
- マクシミリアン2世
- 母
- マリア・デ・アブスブルゴ
- 女
- カテリーナ・ストラドヴァ
- 子
- ユリウス・カエザル
マティアス
カール
アナ・ドロテア
エリーザベト
カロリーナ
概要
ルドルフ2世は、16世紀から17世紀の男性。
在位
神聖ローマ皇帝 1576年~1612年
肖像
埋葬地
神聖ローマ帝国ボヘミア王国プラハ、聖ヴィート大聖堂
別表記
ルードルフ2世
外部リンク
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『ルネサンス宮廷大全』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年12月7日