ジャンブオーノ・デ・メディチ Giambuono de' Medici
- 生没
- 1131年頃~1192年
- 子
- ボーナジュンタ・デ・メディチ
キアリッシモ・デ・メディチ
概要
ジャンブオーノ・デ・メディチは、12世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg
Wikipedia
ボーナジュンタ・デ・メディチ Bonagiunta de' Medici
- 父
- ジャンブオーノ・デ・メディチ
- 子
- ウーゴ・デ・メディチ
ガルガーノ・デ・メディチ
年表
1216年~1226年
記録あり。
外部リンク
世界帝王事典
Mediateca di Palazzo Medici Riccardi
参考文献
『メディチ家』
キアリッシモ・デ・メディチ Chiarissimo de' Medici
- 父
- ジャンブオーノ・デ・メディチ
- 子
- フィリッポ・デ・メディチ
年表
1201年~1240年
記録あり。
別表記
Chiarissimo II
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg
Wikipedia
参考文献
『メディチ家』
ウーゴ・デ・メディチ Ugo de' Medici
- 父
- ボーナジュンタ・デ・メディチ
- 妻
- ディアルタ・ディ・スコライオ・デッラ・トーザ
- 子
- ジャーノ・デ・メディチ
スコライオ・デ・メディチ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
ガルガーノ・デ・メディチ Galgano de' Medici
- 父
- ボーナジュンタ・デ・メディチ
- 子
- ボーナジュンタ・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
フィリッポ・デ・メディチ Filippo de' Medici
- 父
- キアリッシモ・デ・メディチ
- 子
- キアリッシモ・デ・メディチ
アヴェラルド・デ・メディチ
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『メディチ家』
スコライオ・デ・メディチ Scolaio de' Medici
- 父
- ウーゴ・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
ボーナジュンタ・デ・メディチ Bonagiunta de' Medici
- 父
- ガルガーノ・デ・メディチ
- 子
- アルディンゴ・デ・メディチ
グッチョ・デ・メディチ
アルビッツォ・デ・メディチ
ビオンド・デ・メディチ
マネット・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
キアリッシモ・デ・メディチ Chiarissimo de' Medici
- 父
- フィリッポ・デ・メディチ
- 子
- ジャンブオーノ・デ・メディチ
リッポ・デ・メディチ
年表
1253年
記録あり。
別表記
Chiarissimo II
外部リンク
The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg
参考文献
『メディチ家』
アヴェラルド・デ・メディチ Averardo de' Medici
- 父
- フィリッポ・デ・メディチ
- 子
- アヴェラルド・デ・メディチ
概要
1260年 ムジェッロに土地取得を始める。
1260年~1286年 記録。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
アルディンゴ・デ・メディチ Ardingo de' Medici
- 生没
- 12??年~
- 父
- ボーナジュンタ・デ・メディチ
- 妻
- ジェンマ・デ・バルディ
- 子
- ジョヴァンニ・デ・メディチ
概要
アルディンゴ・デ・メディチは、13世紀頃のフィレンツェの男性。
在職
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
ジャンブオーノ・デ・メディチ Giambuono de' Medici
- 生没
- 1???年~1302年
- 父
- キアリッシモ・デ・メディチ
- 子
- ラーポ・デ・メディチ
ベルナルディーノ・デ・メディチ
概要
ジャンブオーノ・デ・メディチは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg
参考文献
『メディチ家』
リッポ・デ・メディチ Lippo de' Medici
- 父
- キアリッシモ・デ・メディチ
- 子
- ボニーノ・デ・メディチ
カンビオ・デ・メディチ
アラマンノ・デ・メディチ
年表
1290年 記録。
参考文献
『メディチ家』
アヴェラルド・デ・メディチ Averardo de' Medici
- 生没
- 1270年頃~1320年
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 妻
- マンディーナ・アグッチ
- 子
- サルヴェストロ・デ・メディチ
ヤコポ・デ・メディチ
ジョヴェンコ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
コンテ・デ・メディチ
タレント・デ・メディチ
概要
アヴェラルド・デ・メディチは、13世紀から14世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
プリオーレ 1309年
正義の旗手 1314年11月~12月
別表記
アヴェラルド2世
外部リンク
Genealogy.com
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Our Family Histories
RootsWeb.com
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ベルナルディーノ・デ・メディチ Bernardino de' Medici
- 父
- ジャンブオーノ・デ・メディチ
- 子
- ジョヴァンニ・デ・メディチ
別表記
ベルナルディーノ・ディ・ジャンブオーノ・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
カンビオ・デ・メディチ Cambio de' Medici
- 父
- リッポ・デ・メディチ
- 子
- ヴィエーリ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
年表
1367年
記録あり。
参考文献
『メディチ家』
アラマンノ・デ・メディチ Alamanno de' Medici
- 生没
- 1???年~1355年
- 父
- リッポ・デ・メディチ
- 子
- アフリケッロ・デ・メディチ
サルヴェストロ・デ・メディチ
バルトロメオ・デ・メディチ
アンドレア・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ミケーレ・デ・メディチ
概要
アラマンノ・デ・メディチは、14世紀頃のフィレンツェの男性。
参考文献
『メディチ家』
サルヴェストロ・デ・メディチ Salvestro de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マンディーナ・アグッチ
- 妻
- リーサ・ドナーティ
- 子
- アヴェラルド・デット・ビッチ
年表
1318年 執政。
1346年 記録。
別表記
イル・ゲルマーニ、The German、騎士サルヴェストロ・デ・メディチ、キアリッシモ
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ジョヴェンコ・デ・メディチ Giovenco de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マンディーナ・アグッチ
- 妻
- ヌッチアーナ・ルチェッライ
- 子
- マンディーナ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
エリザベッタ・デ・メディチ
ピエトロ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
年表
1321年
記録あり。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
フランチェスコ・デ・メディチ Francesco de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マンディーナ・アグッチ
概要
1345年に記録が残っている。
フランチェスコ・デ・メディチは、リエージュにメディチ銀行の支店を構え、教皇ヨハネス23世の在位中に当地で教会の財務官を務めている。
参考文献
『メディチ家』
コンテ・デ・メディチ Conte de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マンディーナ・アグッチ
- 子
- ジョヴァンニ・デ・メディチ
ヤコポ・デ・メディチ
フィリーニョ・デ・メディチ
在職
プリオーレ 1318年、1324年
年表
1340年
記録あり。
参考文献
『メディチ家』
タレント・デ・メディチ Talento de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マンディーナ・アグッチ
- 子
- マーリ・デ・メディチ
バルトロメオ・デ・メディチ
タレント・デ・メディチ
外部リンク
アルディンゴ・デ・メディチ Ardingo de' Medici
- 父
- ジョヴァンニ・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
ヴィエーリ・デ・メディチ Vieri de' Medici
- 生没
- 1323年~1395年9月14日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- カンビオ・デ・メディチ
- 妻
- ヴァレンツァ
ビーチェ・ストロッツィ - 子
- ヴァレンツァ・デ・メディチ
ニッコロ・デ・メディチ
ビーチェ・デ・メディチ
カンビオ・デ・メディチ
概要
ヴィエーリ・デ・メディチは、14世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1392年5月~6月
年表
1323年
フィレンツェにて、生。
1364年以前
ヴァレンツァと結婚。
1378年9月
妻ヴァレンツァ、死。子なし。
13??年
ビーチェ・ストロッツィと結婚。
1395年8月12日
遺言書を作成。娘たちに1千2百フィオリーノずつ、残りの財産を息子たちが受け継ぐこと。
1395年9月14日
フィレンツェにて、死(1395年9月13日)。
1395年9月
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に埋葬される。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
アフリケッロ・デ・メディチ Africhello de' Medici
- 生没
- 1???年~1377年
- 父
- アラマンノ・デ・メディチ
概要
アフリケッロ・デ・メディチは、14世紀のフィレンツェの男性。
年表
参考文献
『メディチ家』
サルヴェストロ・デ・メディチ Salvestro de' Medici
- 生没
- 1331年頃~1388年
- 父
- アラマンノ・デ・メディチ
- 妻
- バルトロメア・アルトヴィッティ
- 子
- マルゲリータ・デ・メディチ
オノフリア・デ・メディチ
ニッコロ・デ・メディチ
アラマンノ・デ・メディチ
グレゴーリオ・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
概要
サルヴェストロ・デ・メディチは、14世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1370年5月~6月、1378年5月~6月
年表
別表記
サルヴェストロ・デ・メディチ
関連項目
外部リンク
参考文献
『世界大百科事典』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
バルトロメオ・デ・メディチ Bartolomeo de' Medici
概要
1360年、個人的不満から政府転覆を謀議。兄サルヴェストロ・デ・メディチによる弟の助命を交換条件とした通報によって、未然に阻止される。
1364年、兄サルヴェストロ・デ・メディチの息子、つまり甥ニッコロを殺害し、死刑の判決を受けている。判決は後に取り消される。
別表記
バルトロメオ・ディ・アラマンノ
参考文献
『メディチ家』
アンドレア・デ・メディチ Andrea de' Medici
年表
1355年
強奪罪で死刑判決。
後に判決取り消し。
別表記
アンドレア・ディ・アラマンノ
参考文献
『メディチ家』
ミケーレ・デ・メディチ Michele de' Medici
年表
1350年
窃盗罪で死刑判決。
後に赦免。
別表記
ミケーレ・ディ・アラマンノ
参考文献
『メディチ家』
アヴェラルド・デット・ビッチ Averardo detto Bicci
- 生没
- ?~1363年
- 父
- サルヴェストロ・デ・メディチ
- 母
- リーサ・ドナーティ
- 妻
- Giovanna de' Bonaguisi
ジャコマ・ディ・フランチェスコ・スピーニ - 子
- フランチェスコ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
概要
アヴェラルド・デ・メディチは、14世紀頃のイタリアの男性。
別表記
アヴェラルド3世、アヴェラルド・デッリ・ビッチ
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
Wikipedia
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ジュリアーノ・デ・メディチ Giuliano de' Medici
- 生没
- 1???年~1377年頃
- 父
- ジョヴェンコ・デ・メディチ
- 母
- ヌッチアーナ・ルチェッライ
- 妻
- テッリーナ・ドナーティ
- 子
- アントーニオ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
概要
ジュリアーノ・デ・メディチは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
フィリーニョ・デ・メディチ Filigno de' Medici
年表
1378年
記録あり。
著作
『備忘録(リブロ・ディ・メモーリエ)』(1373年)
別表記
フィリーニョ・ディ・コンテ・デ・メディチ
参考文献
『メディチ家』
マーリ・デ・メディチ Mari de' Medici
参考文献
『メディチ家』
バルトロメオ・デ・メディチ Bartolomeo de' Medici
タレント・デ・メディチ Talento de' Medici
参考文献
『メディチ家』
ニッコロ・デ・メディチ Niccolò de' Medici
- 生没
- 1384年以前~1454年
- 父
- ヴィエーリ・デ・メディチ
- 母
- ビーチェ・ストロッツィ
- 妻
- バルトロメア・アッチャイウオリ
カテリーナ - 子
- オラーゼ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
アッティーリオ・デ・メディチ
アウレリア・デ・メディチ
カルロ・デ・メディチ
オネスタ・デ・メディチ
ドナート・デ・メディチ
ヴィエーリ・デ・メディチ
ラウドミア・デ・メディチ
概要
ニッコロ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ニッコロ・デ・メディチ Niccolò de' Medici
参考文献
『メディチ家』
アラマンノ・デ・メディチ Alamanno de' Medici
- 生没
- 1???年~1461年
- 父
- サルヴェストロ・デ・メディチ
- 妻
- マルゲリータ・コヴォーニ
- 子
- トーラ・デ・メディチ
トーザ・デ・メディチ
バルトロメオ・デ・メディチ
ベルナルド・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
グレゴーリオ・デ・メディチ
概要
ベルナルド・デ・メディチは、15世紀頃のフィレンツェの男性。
在職
プリオーレ 1452年
外部リンク
フランチェスコ・デ・メディチ Francesco de' Medici
- 父
- アヴェラルド・デット・ビッチ
- 母
- ジャコマ・ディ・フランチェスコ・スピーニ
- 子
- アヴェラルド・デ・メディチ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
アントーニオ・デ・メディチ Antonio de' Medici
- 父
- ジュリアーノ・デ・メディチ
- 母
- テッリーナ・ドナーティ
- 妻
- チッラ・デ・ボノッコルシ
- 子
- ベルナルデット・デ・メディチ
ジョヴェンコ・デ・メディチ
外部リンク
ルドヴィーコ・デ・メディチ Ludovico de' Medici
参考文献
『メディチ家』
ヤコポ・デ・メディチ Jacopo de' Medici
参考文献
『メディチ家』
ヴィエーリ・デ・メディチ Vieri de' Medici
- 生没
- 1???年~1456年
- 父
- ニッコロ・デ・メディチ
- 妻
- アウレッタ・デ・ネルリ
- 子
- バルトロメア・デ・メディチ
タナイ・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
フィリッポ・デ・メディチ
概要
ヴィエーリ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
アヴェラルド・デ・メディチ Averardo de' Medici
- 生没
- 1???年~1434年
- 父
- フランチェスコ・デ・メディチ
- 妻
- マッダレーナ・モナルディ
- 子
- カテリーナ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
概要
アヴェラルド・デ・メディチは、15世紀頃のフィレンツェの男性。
年表
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ベルナルド・デ・メディチ Bernardo de' Medici
- 生没
- 1???年~1461年8月5日
- 父
- アラマンノ・デ・メディチ
- 母
- マルゲリータ・コヴォーニ
- 妻
- ボーナ・サピーティ
- 子
- ヤコポ・デ・メディチ
サルヴェストロ・デ・メディチ
マルゲリータ・デ・メディチ
アラマンノ・デ・メディチ
ニッコロ・デ・メディチ
概要
ベルナルド・デ・メディチは、15世紀頃のフィレンツェの男性。
在職
プリオーレ 1452年
年表
1453年9月30日
ヴァダでジャンノッツォ・マネッティと共に演説。
別表記
Bernardo di Alamanno di Salvestro de ' Medici
外部リンク
ベルナルデット・デ・メディチ Bernardetto de' Medici
- 生没
- 1393年~1465年頃
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- アントーニオ・デ・メディチ
- 母
- チッラ・デ・ボノッコルシ
- 妻
- コスタンツァ・グァスコーニ
- 子
- アントーニオ・デ・メディチ
ドメニコ・デ・メディチ
アヴェラルド・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
バルトロメア・デ・メディチ
ロレンツォ・デ・メディチ
概要
ベルナルデット・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、政治家、外交官。
外部リンク
アントーニオ・デ・メディチ Antonio de' Medici
参考文献
『メディチ家』
フィリッポ・デ・メディチ Filippo de' Medici
- 生没
- 1426年~1474年10月
- 父
- ヴィエーリ・デ・メディチ
- 母
- アウレッタ・デ・ネルリ
概要
フィリッポ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
アレッツォ司教 1456年~1461年
ピサ大司教 1462年1月14日~1474年10月
年表
別表記
Filippo di Vieri di Niccolò de' Medici
外部リンク
世界帝王事典
GCatholic.com
GCatholic.com
Malta Genealogy
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
カテリーナ・デ・メディチ Caterina de' Medici
- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- アヴェラルド・デ・メディチ
- 母
- マッダレーナ・モナルディ
- 夫
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 子
- フランチェスコ・サルヴィアーティ
ピエトロ・サルヴィアーティ
アラマンノ・サルヴィアーティ
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
アヴェラルド・サルヴィアーティ
ヤコポ・サルヴィアーティ
概要
カテリーナ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
年表
1409年
アラマンノ・サルヴィアーティと結婚。
外部リンク
ジュリアーノ・デ・メディチ Giuliano de' Medici
年表
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アラマンノ・デ・メディチ Alamanno de' Medici
- 生没
- 14??年~1504年
- 父
- ベルナルド・デ・メディチ
- 母
- ボーナ・サピーティ
- 妻
- レーナ・ヴェッルーティ
- 子
- マルゲリータ・デ・メディチ
概要
アラマンノ・デ・メディチは、14世紀~15世紀頃のフィレンツェの男性。
在職
正義の旗手 1483年9月~10月
年表
1451年
レーナ・ヴェッルーティと結婚。
別表記
Alamanno di Bernardo di Alamanno de' Medici
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ピエロ・イル・ゴットーソ Piero il Gottoso
- 生没
- 1416年~1469年12月2日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- コジモ・イル・ヴェッキオ
- 母
- コンテッシーナ・デ・バルディ
- 妻
- ルクレツィア・トルナブオーニ
- 子
- マリーア・デ・メディチ
ビアンカ・デ・メディチ
ナンニーナ・デ・メディチ
ロレンツォ・イル・マニーフィコ
ジュリアーノ・デ・メディチ
概要
ピエロ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
父コジモ・イル・ヴェッキオと息子ロレンツォ・イル・マニーフィコの間に挟まれ、彼らの偉大な業績の前にはかすんだ存在に見えるが、それでもピッティ陰謀事件を見事に乗り越え、フィレンツェ共和国におけるメディチ家の支配体制を約5年間立派に守り抜いた。
在職
正義の旗手 1461年1月~2月
性格
穏健。教養に富む。
年表
1416年
フィレンツェにて、生。
1444年3月6日
ルクレツィア・トルナブオーニと結婚。
1449年1月1日
長子ロレンツォ・イル・マニーフィコ、生。
1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ、ネリ・カッポーニ(1388年~1457年)、ディエティサルヴィ・ネローニ、ルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1461年1~2月
ピエロ・イル・ゴットーソ、この期の正義の旗手に就任。これを最後にメディチ家は、官職、顕職を占めることなく背後から事実の支配者として君臨。
1461年1~2月
この期の正義の旗手に就任。これを最後にメディチ家は、官職、顕職を占めることなく背後から事実上のフィレンツェ共和国の支配者として君臨。
1464年8月1日
コジモ・イル・ヴェッキオ、カレッジの別荘で死(1389年~1464年)。——長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~)、メディチ家の当主となる(1464年~1469年)。
折りしもメディチ銀行の衰退始まる。
1464年8月1日
父コジモ・イル・ヴェッキオ、没。長子ピエロが、メディチ家の当主となる。
1464年8月8日
ピウス2世、コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。
1464年11月
故コジモ・イル・ヴェッキオの残した莫大な債権の回収、新規事業の回避などピエロ・イル・ゴットーソによる金融、商業活動の整理、縮小策も作用して破産者が続出し始めるなど、経済的危機深まる。
同時にメディチ派の有力者のピエロ・イル・ゴットーソからの離反と伝統的共和政への回帰願望も表面化。
1464年
メディチ銀行ジュネーヴ支店、リヨンへの移転開始(1464年~1466年)。
1465年9月16日~1465年9月18日
シニョーリアの選出を伝統的な抽籤に戻す案、百人委員会、Consiglio del Popolo(平民評議会)及びConsiglio del Comune(自治都市評議会)において圧倒的多数で承認、決議される。
1465年11月8日~11月12日
治安八人委員会などの伝統的抽籤による選出及び百人委員会の権限の縮小を、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネ、百人委員会で決議。
この決議と1465年9月の決議により官職の選出方法は1458年改変から伝統的抽籤に回帰したものの、その被選出有資格者の決定はメディチ配下の有力者ないしその関係者が占めるアッコピアトーリによって行われる。
1465年
ルイ11世により、紋章の中にフランス王室の3本の百合を入れることを許可される。
1466年3月8日
最大の同盟者であるフランチェスコ1世・スフォルツァ、没。
1466年3月
シニョーリアは、フランチェスコ1世・スフォルツァの弔問使節をミラノに派遣。故コジモ・イル・ヴェッキオによるフランチェスコ1世・スフォルツァのミラノ制圧(1450年)過程での支援以来、最大の同盟者だったフランチェスコ1世・スフォルツァの死により、ピエロ・イル・ゴットーソは領外の最強の支柱を失う。
1466年3月15日
フィレンツェでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。
1466年3月25日
メディチ銀行リヨン支店、ジュネーヴからの移転を完了し、開設。
1466年3月
シニョーリアは、フランチェスコ1世・スフォルツァの弔問使節をミラノに派遣。故コジモ・イル・ヴェッキオによるフランチェスコ1世・スフォルツァのミラノ制圧(1450年)過程での支援以来、最大の同盟者だったフランチェスコ1世・スフォルツァの死により、ピエロ・イル・ゴットーソは領外の最強の支柱を失う。
1466年4月1日
メディチ銀行は、Bartolomeo da Framuraに代わって教皇庁とのトルファ明礬鉱の開発及び明礬の販売に関する契約に参加し、販売の独占権を得る。
1466年5月24日~1466年5月31日
若干の例外を除き全ての官職を永久に伝統的抽籤によって選出することを、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネが決める。1465年来の決議により、1458年の共和政変改の決定は全て覆される。
1466年5月27日
コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティ、Manno Temperani、アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニ、ニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソ、ルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年8月28日
反乱首謀者たちを交渉に引き込みながら、シニョーリアによるパルラメントの召集、パルラメントによるバーリアの設置、の非常手段によって事態を打開しようと図っていたピエロ・イル・ゴットーソ、1466年9月~1466年10月のシニョーリアをメディチ派で占めることに成功。
1466年8月29日
シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティ、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。
1466年9月2日
午後、シニョーリア、ピエロ・イル・ゴットーソが配備した3千の武装兵が囲むシニョーリア広場にパルラメントを召集、開催し、8名からなる4ヶ月任期のバーリアの設置、アッコピアトーリによるシニョーリアの実質上の選出の復活を承認させる。
1466年9月5日
設置されたばかりのバーリア、1462年~1466年の共和政への復帰の決定をことごとく覆し、1458年の体制を復活させる。
これにより、父コジモ・イル・ヴェッキオに劣らぬ独裁的支配体制を築く。
1466年9月末
ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。
1468年2月末~3月初め
この頃?、ピエロ・イル・ゴットーソ、ジェノヴァのフレゴーソ家からサルザーナとサルザネッロを買い入れる。
1469年4月6日
ピッティ陰謀事件(1466年)に加わり追放されていたBernardo Nardiら少数者、領内プラートで反乱。一時、そのシニョーリアの委員を捕らえるが間もなく到着したフィレンツェ軍に徹底的に鎮圧される。首謀者Bernardo Nardiがフィレンツェ市内に護送され、1469年4月9日処刑された(?~)他、主な参加者20名が相次ぎ処刑される。
1469年
この年までにメディチ銀行ヴェネツィア支店廃止。
1469年12月2日
死(1469年12月3日)。
肖像
個人紋章
墓
関連項目
別表記
ピエロ・デ・メディチ、ピエロ・イル・ゴットーゾ、ピエトロ・デ・メジチ、ピエートロ・メーディチ、通風病みのピエロ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
カルロ・デ・メディチ Carlo de' Medici
- 生没
- 1430年~1492年
- 父
- コジモ・イル・ヴェッキオ
- 母
- マッダレーナ
概要
カルロ・デ・メディチは、コジモ・イル・ヴェッキオと、コーカサス出身の女奴隷マッダレーナとの庶子。
別表記
カルロ・ディ・コジモ・ディ・メディチ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ Pierfrancesco de' Medici
- 生没
- 1430年~1476年
- 父
- ロレンツォ・イル・ヴェッキオ
- 母
- ジネヴラ・カヴァルカンティ
- 妻
- ラウドミア・アッチャイウオリ
- 子
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ
概要
父親が早世したため10歳から伯父コシモ・イル・ヴェッキオに育てられる。成人した1451年に財産分与を受けることになるが、この分与の内容に不満を持ち、1466年の反ピエロ・イル・ゴットーソの政変に同調する立場を取った。
年表
1494年夏~初秋
メディチ一族及びメディチ派有力貴族の内部にもナポリ支持政策に反対してピエロ・イル・ファトゥオから離反し、親フランスの動きを示す者が生じるなど、市民の間にメディチ支配を逃れようとの動き広まる。ピエロ・イル・ファトゥオは、この動きを促進している者として、ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1430/1431年~1476/1477年)の子ロレンツォ・イル・ポポラーノ(1463年~1503年)とジョヴァンニ・イル・ポポラーノ(1467年~1498年)を市外に追放。両名はフランスに逃亡。
関連項目
別表記
ピエール・フランチェスコ、ピエールフランチェスコ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
RootsWeb.com
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
フランチェスコ・デ・メディチ Francesco de' Medici
- 生没
- 14??年~
- 父
- ロレンツォ・イル・ヴェッキオ
- 母
- ジネヴラ・カヴァルカンティ
- 妻
- マリーア・グァルテロッティ
概要
フランチェスコ・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
参考文献
『フィレンツェ史』
アヴェラルド・デ・メディチ Averardo de' Medici
- 生没
- 14??年~
- 父
- ベルナルデット・デ・メディチ
- 母
- コスタンツァ・グァスコーニ
- 妻
- カミッラ・デ・パッツィ
- 子
- ラッファエーレ・デ・メディチ
概要
アヴェラルド・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
1456年
カミッラ・デ・パッツィと結婚。
外部リンク
マルゲリータ・デ・メディチ Margherita de' Medici
- 生没
- 14??年~1505年
- 父
- アラマンノ・デ・メディチ
- 母
- レーナ・ヴェッルーティ
- 夫
- アレッサンドロ・マネッリ
概要
マルゲリータ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のフィレンツェの女性。
年表
1505年
殺害される。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
マリーア・デ・メディチ Maria de' Medici
- 生没
- 1445年~1470年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ピエロ・イル・ゴットーソ
- 夫
- リオネット・デ・ロッシ
- 子
- ルイジ・デ・ロッシ
概要
マリーア・デ・メディチは、15世紀のイタリアの女性、庶子。
肖像
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ビアンカ・デ・メディチ Bianca de' Medici
- 生没
- 1445年9月10日~1488年4月
- 父
- ピエロ・イル・ゴットーソ
- 母
- ルクレツィア・トルナブオーニ
- 夫
- グリエルモ・デ・パッツィ
- 子
- アレッサンドロ・デ・パッツィ
概要
ビアンカ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの女性。
肖像
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ナンニーナ・デ・メディチ Nannina de' Medici
- 生没
- 1448年2月14日~1493年5月14日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ピエロ・イル・ゴットーソ
- 母
- ルクレツィア・トルナブオーニ
- 夫
- ベルナルド・ルチェッライ
- 子
- パッラ・ルチェッライ
ジョヴァンニ・ルチェッライ
コジミーノ・ルチェッライ
ルクレツィア・ルチェッライ
概要
ナンニーナ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの女性。
肖像
別表記
ルクレツィア
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ジュリアーノ・デ・メディチ Giuliano de' Medici
- 生没
- 1453年10月28日~1478年4月26日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ピエロ・イル・ゴットーソ
- 母
- ルクレツィア・トルナブオーニ
- 女
- フィオレッタ・ゴリーニ
- 子
- クレメンス7世
概要
ジュリアーノ・デ・メディチは、15世紀のフィレンツェの男性。ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟。
パッツィ家の陰謀により、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の中央祭壇の前で暗殺された。
容姿
ハンサム。正直な顔立ちをして、謙虚で優しげな表情を浮かべていた。
兄ロレンツォ・イル・マニーフィコより美男。
性格
二男らしい明るい性格。呑気で愛想がよく、故に誰からも愛された。
優雅で武術も巧み。
学者や芸術家とのつきあいは苦手。
兄ロレンツォ・イル・マニーフィコとの兄弟仲
ロレンツォ・イル・マニーフィコとジュリアーノの性格は対照的だったが、ロレンツォ・イル・マニーフィコはジュリアーノをとても可愛がり、ジュリアーノも兄を慕っていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコはジュリアーノをいつもかたわらから離さず、2人は同じようにフィレンツェ市民から愛されていた。
年表
1453年10月28日
フィレンツェで誕生。
1469年2月7日
サンタ・クローチェ広場で行われた馬上槍試合に出場。
1471年3月上旬
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、メディチ家との誓約の確認という名目の下、妻ボーナ・ディ・サヴォイアや2人の弟ルドヴィーコ・イル・モーロ、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァらを率いて絢爛豪華な隊列をなしてフィレンツェを訪問。ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟主導で迎え、大歓迎する。
1475年
サンタ・クローチェ広場で行われた馬上槍試合で勝利。
1478年4月26日(日)
パッツィ家の陰謀:サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、昇天祭ミサの最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・バンディーニに襲撃される。19箇所もの刺し傷を負ってたちどころに絶命した。
1478年4月30日(木)
葬儀。
1895年10月3日
発掘調査が行われる。聖コスマスと聖ダミアヌスと聖母像が移動され、カラーラ産の白大理石で作られた石棺の蓋が開けられた。棺は上下に重ねられて2つ入っていた。
ロレンツォ・イル・マニーフィコの棺の上にあった小さめの棺はジュリアーノのもの。蓋の上には羊皮紙にGiuliano di Pietro de' Mediciと手書きで記されていた。遺体はひざを抱えるように埋葬されており、ほぼ完全な姿で発見された頭蓋骨を調べると、刃物による傷が2つあった。さらに脛骨にも刃物傷があることが確認された。パッツィ家の陰謀は、ニッコロ・マキアヴェッリの『フィレンツェ史』が伝えるように、残忍なものであった。
肖像
墓
舞台
宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『April Blood』
『I centenari del 1898』
『The Life of Cesare Borgia』
オッタヴィオ・デ・メディチ Ottavio de' Medici
- 生没
- 1484年7月11日~1546年5月28日
- 父
- ロレンツォ・デ・メディチ
- 妻
- バルトロメア・ジューニ
フランチェスカ・サルヴィアーティ - 子
- ベルナルド・デ・メディチ
レオ11世
コンスタンツァ・デ・メディチ
概要
オッタヴィオ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1533年
フランチェスカ・サルヴィアーティと結婚。
別表記
オッタヴィアーノ、Ottaviano
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
ルクレツィア・デ・メディチ Lucrezia de' Medici
- 生没
- 1470年8月4日~1553年11月
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 夫
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 子
- カテリーナ・サルヴィアーティ
ルイーザ・サルヴィアーティ
エレーナ・サルヴィアーティ
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
ベルナルド・サルヴィアーティ
マリーア・サルヴィアーティ
フランチェスカ・サルヴィアーティ
アラマンノ・サルヴィアーティ
概要
ルクレツィア・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Geneanet
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
Wikipedia
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・イル・ファトゥオ Piero il Fatuo
- 生没
- 1472年2月15日~1503年12月28日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ガリリャーノ川
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 妻
- アルフォンシーナ・オルシーニ
- 子
- ロレンツォ・デ・メディチ
クラリーチェ・デ・メディチ
概要
ピエロ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1472年2月15日
ロレンツォ・イル・マニーフィコの長男ピエロ・イル・ファトゥオ。
1487年2月25日
ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようとするインノケンティウス8世と、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコ、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボ(1449年~1519年)と、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・デ・メディチ(1473年~1519年)の結婚を取り決める。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ、長男ピエロ・イル・ファトゥオと、ローマの有力貴族オルシーニ家の娘でロレンツォ・イル・マニーフィコの妻クラリーチェ・オルシーニの従妹アルフォンシーナ・オルシーニ(1472年~1520年)との結婚を代理人誓約の形で取り決める。
これらの婚姻政策により、メディチ家は教皇庁及びローマ貴族との結びつきを強め、ロレンツォ・イル・マニーフィコは事実上の君主の地位をフィレンツェ内外でさらに固める。
加えてロレンツォ・イル・マニーフィコ、次男ジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿にすべく、密かに教皇庁内で工作を始める。
1492年4月13日、4月16日
長子ピエロ・イル・ファトゥオがロレンツォ・イル・マニーフィコの公職を、その継承資格年齢に達していないにも拘らず継承することを、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。これによってピエロ・イル・ファトゥオ、スムーズにロレンツォ・イル・マニーフィコの後を継ぐ。
1492年8月10/11日
すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年~1503年)。
この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
ピエロ・イル・ファトゥオらフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、アレクサンデル6世の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年9月3日
父インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオとフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニ(?~1496年)に売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。
この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナ・アルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナ、アルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。
1493年4月25日
アレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナとピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1494年
ピエロ・イル・ファトゥオ、シャルル8世の使節に対し、伝統的な親フランス政策を転換してナポリを支持し防衛すると表明。
1494年6月
シャルル8世により、ピエロ・イル・ファトゥオの政策転換への対抗策として駐シャルル8世宮廷大使及びメディチ銀行リヨン支店支配人を追放される。
1494年9月
ロマーニャにいるカラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナ指揮のナポリ軍と合流させるため、フィレンツェ共和国軍を送る。
1494年夏~初秋
メディチ一族及びメディチ派有力貴族の内部にもナポリ支持政策に反対してピエロ・イル・ファトゥオから離反し、親フランスの動きを示す者が生じるなど、市民の間にメディチ支配を逃れようとの動き広まる。ピエロ・イル・ファトゥオは、この動きを促進している者として、ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1430/1431年~1476/1477年)の子ロレンツォ・イル・ポポラーノ(1463年~1503年)とジョヴァンニ・イル・ポポラーノ(1467年~1498年)を市外に追放。両名はフランスに逃亡。
1494年10月26~末日
親フランス派が市内で大勢を占める中、ピエロ・イル・ファトゥオは、公的な権限のないまま独断でサルザーナ近くのシャルル8世の陣に交渉に向かう。
交渉の過程で、領内ピサ、リヴォルノ、Sarzanello、サルザーナ、ピエトラサンタの難攻不落の要塞の放棄、巨額の軍資金の支払い、などシャルル8世の要求を全て受容。市内に不満と怒り強まり、ピエロを祖国の裏切り者と呼ぶ声が上がり始める。
1494年11月4日
シニョーリアは、コンシーリオ・デル・セタンタを召集し、対策を諮問。ピエロ・カッポーニ(1446年~1496年)がピエロ・イル・ファトゥオを支配者として相応しくないと断定し、彼の幼稚な専制支配を終わらせて市民の自由を回復せよと強調するなど、メディチ派の有力者たちがメディチ支配に公然と反抗し始める。
1494年11月5日
百人委員会は、前日のコンシーリオ・デル・セタンタでのピエロ・カッポーニの発言に基づき、ジローラモ・サヴォナローラ、ピエロ・カッポーニなど5名の使節をシャルル8世の元に派遣し、反フランス政策への転換はピエロ・イル・ファトゥオ個人の責任であること、ピエロ・イル・ファトゥオをフィレンツェの公式の代表とは認めないこと、を言明してピエロ・イル・ファトゥオを慰撫することを決議。5名の使節出発。ジローラモ・サヴォナローラは、初めて政治の全面に登場。
1494年11月
この頃、ピエロ・イル・ファトゥオによって追放されてシャルル8世の陣にいたロレンツォ・イル・ポポラーノとジョヴァンニ・イル・ポポラーノが市内に戻り、反メディチ支配の気運なお高まる。
1494年11月8日
市内の状況を知ったピエロ・イル・ファトゥオは、急ぎ市内に戻る。
1494年11月9日
メディチ家支配体制崩壊:シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオに出頭命令を下す。しかし、武装した従者を率いてきたピエロ・イル・ファトゥオのヴェッキオ宮殿への立ち入りを禁止。ヴェッキオ宮殿の塔の鐘を鳴らして急を告げ、市民をシニョーリア広場に召集。反メディチを叫ぶ群衆市内に溢れ、ピエロ・イル・ファトゥオの帰途を妨害。
ピエロ・イル・ファトゥオ、辛うじてメディチ宮殿に帰着。市外にいた手兵を引き入れて抵抗しようと目論む。
シニョーリア、メディチ派への加担者を絞首刑に処し、祖国への反逆者ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチを捕らえるか殺害した者に賞金を与えるとの布告を流す。
夕刻、ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチは、少数の忠臣と共にボローニャへ逃亡。メディチ家支配体制、崩壊。
1494年11月17日
シャルル8世は、軍と共に厳かに市内に入り、自身はメディチ宮殿に投宿。自身に譲歩したピエロ・イル・ファトゥオを復辟させ、自身をピエロ・イル・ファトゥオの上に立つ大君主と見なすよう要求。
ジローラモ・サヴォナローラを除くピエロ・カッポーニら4名の代表団は、シャルル8世の脅迫的要求を拒否。交渉決裂。市内にフランス軍による略奪、蛮行の不安、恐怖広まる。
1494年11月20日
シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオを反逆者と宣言し、彼の身柄をシニョーリアに引き渡した者に賞金を与えると公式に布告。
1494年11月25日
シャルル8世は、先の要求を緩和。ピエロ・カッポーニら代表団と、ナポリ制圧後可能な限り速やかにピサをフィレンツェに返還すること、フィレンツェは彼にナポリ制圧のための多額の軍事金12万ドゥカーティを3回に分割して支払うこと、ピエロ・イル・ファトゥオ及びその兄弟をフィレンツェから追放しその財産を没収すること、などについて合意し、協定。
1495年6月12日
シャルル8世、軍にトスカーナ各地で略奪の限りを尽くさせながらピエロ・イル・ファトゥオを伴ってシエナに入る。必要なものを提供すると申し出るフィレンツェの使節に対して全領土を提供せよと威嚇。ピエロ・イル・ファトゥオの襲撃を警戒する市民、武器を取って臨戦態勢に入る。
1495年6月17日
シエナ領に入らずポッジボンシで待機していたジローラモ・サヴォナローラ、到着したシャルル8世と会見。1494年11月25日の約束を守ってフィレンツェのものを全て返還しピエロ・イル・ファトゥオ勢力を排除しなければ神にすぐ、重く罰せられるだろうと説諭。
以後ポッジボンシで一度、ピサ方面に向かうシャルル8世を追ってカステルフィオレンティーノで一度、会見し同様に説諭。
しかしシャルル8世からはピエロ・イル・ファトゥオ支援の中止のみを回答される。
1495年
この頃ピエロ・イル・ファトゥオ、ペルージア周辺のフィレンツェ領境で軍を整える。
1497年4月27~28日
ピエロ・イル・ファトゥオは、自分が軍を率いて城門に迫ればフィレンツェ市内の支持者や市民が決起して自分を迎え入れるであろうと期待し、ヴェネツィアの指揮官バルトロメオ・ダルヴィアーノ(1455年~1515年)の支援を得、1200余の兵を率いて城門に迫る。しかししないに期待した動きが全く見られず、何事もなせずに退却。
これをもってピエロ・イル・ファトゥオによる自身の復辟の策動が終わり、フィレンツェ市内のメディチ派も急速に衰退し始める。
代わって反メディチ、反ジローラモ・サヴォナローラの貴族の勢力が顕著に増大。
1498年10月末
バルトロメオ・ダルヴィアーノやグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・デ・メディチ(1479年~1516年)兄弟が従う。
1501年
ラッファエーレ・デ・パッツィ司教と共にローマ出発。
1501年
シエナ境界に到着。
1502年6月
この頃、アレッツォに入り市民に歓迎される。
1503年12月28日
ルイ12世軍の陣にいたピエロ・イル・ファトゥオは、ガリリャーノ川で溺死。
別表記
ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、ピエーロ、ピエロ2世、ピエートロ、Pier de' Medici
関連項目
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
そらのお城
Genealogy.EU
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
THE BORGIAS wiki
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
マッダレーナ・デ・メディチ Maddalena de' Medici
- 生没
- 1473年7月25日~1519年12月2日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 夫
- フランチェスケット・チーボ
- 子
- インノチェンツォ・チーボ
ロレンツォ・チーボ
カテリーナ・チーボ
概要
マッダレーナ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1488年1月20日
フランチェスケット・チーボとの結婚式が、ヴァティカン宮殿で行われる。
外部リンク
世界帝王事典
JDA's Family Tree
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ルイーザ・デ・メディチ Luisa de' Medici
- 生没
- 1477年~1488年
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 夫
- ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ
概要
ルイーザ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの女性。
別表記
ルイジア
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの歴史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジュリアーノ・デ・メディチ Giuliano de' Medici
- 生没
- 1479年3月12日~1516年3月17日
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 妻
- フィリベルタ・ディ・サヴォイア
- 子
- イッポーリト・デ・メディチ
概要
ジュリアーノ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
教会の旗手 1513年8月~1516年
ヌムール公 1515年~1516年
先代:ガストン・ド・フォワ
次代:ロレンツォ・デ・メディチ
年表
1498年10月末
バルトロメオ・ダルヴィアーノやグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟が従う。
1501年4月
この時にはボローニャにいる。
1501年5月
チェーザレ・ボルジア軍に参加するべくボローニャを出発するが、ロイアーノでチェーザレ・ボルジアに止められる。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家、オルシーニ家、パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1511年1月3日
Otto、メディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ・ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟と交流する者を全て反逆者とみなすと布告。
1512年8月下旬
ボローニャに結集していたラモン・デ・カルドナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。
1512年9月1日
ピエロ・ソデリーニの解任が公式に告示されると共に、夕刻、ジュリアーノ・デ・メディチが市内に入り、メディチ家の18年ぶりの復帰始まる。
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:ジュリアーノ・デ・メディチとその兄ピエロ・イル・ファトゥオの子ロレンツォ・デ・メディチ(1492年~1519年:ウルビーノ公在位1516年~1519年)を襲撃する陰謀がピエトロ・パオロ・ボスコリ(1478年~1513年)とアゴスティーノ・カッポーニ(1471年~1513年)を中心とする若者20名ほどによって企まれていたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。1513年2月22~23日深夜、両名は処刑される。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グイッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
1513年8月13日
レオ10世、教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。
1513年8月
この頃レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチを教会の旗手に任命。かつ彼をカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイア(1498年~1524年)と結婚させることに決める。
1513年12月
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ローマに着き、ジュリアーノ・デ・メディチに仕える(~1516年末)。
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、マクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1515年1月
レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世の即位祝賀使節としてフランスに行き、その叔母でカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚し、ヌムール公の称号を受ける。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係生ずる。
1515年6月29日
レオ10世は、弟ジュリアーノ・デ・メディチを教会軍総司令官に任命。しかし病身の彼は実質上、任務を果たせず。
1515年7月17日
レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。
この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。
1516年3月17日
ジュリアーノ・デ・メディチ死。妻フィリベルタ・ディ・サヴォイアは間もなくその母(すなわちフランソワ1世の母)ルイズ・ド・サヴォワのもとに帰る。これによりメディチ家とフランス王室の婚姻関係消滅。
別表記
Giuliano di Lorenzo de' Medici
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イコノロジー研究』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネッサンス夜話』
『The Life of Cesare Borgia』
マリーア・デ・メディチ Maria de' Medici
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
参考文献
『メディチ家の人びと』
コンテッシナ・デ・メディチ Contessina de' Medici
- 生没
- 1478年1月16日~1515年6月29日
- 出身
- ピストイア
- 没地
- ローマ
- 父
- ロレンツォ・イル・マニーフィコ
- 母
- クラリーチェ・オルシーニ
- 夫
- ピエロ・リドルフィ
- 子
- ルイジ・リドルフィ
エミーリア・リドルフィ
クラリーチェ・リドルフィ
ニッコロ・リドルフィ
ピエロ・リドルフィ
フランチェスコ・リドルフィ
ロレンツォ・リドルフィ
概要
コンテッシナ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1494年5月24日
ピエロ・リドルフィと結婚。
1495年8月28日
ルイジ・リドルフィを出産。
1497年
エミーリア・リドルフィを出産。
1499年
クラリーチェ・リドルフィを出産。
1501年7月16日
ニッコロ・リドルフィを出産。
1503年9月6日
ロレンツォ・リドルフィを出産。
埋葬地
別表記
ラ・コンテッシーナ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
クレメンス7世 Clemens VII
- 生没
- 1478年5月26日~1534年9月25日
- 父
- ジュリアーノ・デ・メディチ
- 母
- フィオレッタ・ゴリーニ
- 女
- シモネッタ
- 子
- アレッサンドロ・デ・メディチ
概要
ジューリオ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。第219代教皇クレメンス7世。
在位
フィレンツェ大司教 1513年5月9日~1523年11月19日
枢機卿(任命レオ10世) 1513年9月23日~1523年
サンタ・マリア・イン・ドムニカ助祭枢機卿 1513年9月29日~1517年6月26日
アルビ司教 1513年11月21日~1515年未着任
ラヴォール司教 1514年~1514年
ナルボンヌ大司教 1515年2月14日~1523年11月19日
ビトント教区長 1517年2月8日~1517年2月27日
教皇庁副尚書院長 1517年3月9日~1523年11月19日
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1517年6月26日~1517年7月6日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1517年7月6日~1523年11月19日
アルベンガ教区長 1517年11月19日~1518年5月5日
ボローニャ司教 1518年1月8日~1518年3月3日
アンブラン教区長 1518年7月5日~1518年7月30日
アスコリ・ピチェーノ教区長 1518年7月30日~1518年9月3日
枢機卿団カメルレンゴ 1519年1月10日~1520年1月11日
エゲル司教 1520年9月12日~1523年6月18日
ウスター教区長 1521年6月7日~1522年9月26日
第219代教皇 1523年11月19日~1534年9月25日
年表
1478年4月26日(日)
父ジュリアーノ・デ・メディチ、死。
1478年5月26日
生。
1494年11月10日
ボローニャ到着。
1513年4月23日
レオ10世は、1513年4月8日?死亡した大司教コジモ・デ・パッツィの後任に従弟(=パッツィ家の陰謀(1478年)によって殺害された叔父ジュリアーノ・デ・メディチの庶出の子)ジューリオ・デ・メディチ(1478年~)を任命。
1513年9月23日
レオ10世、従弟ジューリオ・デ・メディチ及び甥インノチェンツォ・チーボ、同族ロレンツォ・プッチ、自分の秘書でかつての家庭教師ベルナルド・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナの3名を新たに枢機卿に任命。
1519年5月4日
レオ10世、ジューリオ・デ・メディチにフィレンツェの支配にあたらせながら彼を通してローマからフィレンツェを支配。
しかしレオ10世の意に従いながらもジューリオ・デ・メディチ、自ら絶対君主化して集権的支配を行なっていたロレンツォ・デ・メディチに対してメディチ派貴族の中にさえ憤懣・反発が強まり離反者が生じていたことを考慮し、宥和策をとり始める。
1521年11月19日
プロスペロ・コロンナやペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。
以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。
1522年1月9日
カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る。
この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。
枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。
1522年5月下旬
フランチェスコ・ソデリーニの軍事行動と結んでジューリオ・デ・メディチを1522年6月19日殺害しピエロ・ソデリーニを終身正義の旗手として復帰させることなどを企んでいた陰謀発覚し、首謀者の内Iacopo da Diacceto、Luigi di Tommaso Alamanniは逮捕されるが、ツァノービ・ブォンデルモンティ、Luigi di Piero Alamanni、A. Brucioliはヴェネツィアに逃亡。後正式に追放処分を下される。
1523年4月27日
フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチの教皇庁内での力、とみに強まる。
1523年11月18日
枢機卿ジューリオ・デ・メディチ、新教皇に選出される(1523年11月19日)。
1523年11月26日
教皇クレメンス7世として、就任。
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロレンツォ・モレッリ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
1524年1月24日
クレメンス7世、トマス・ウルジーを終身教皇特使に任命。
1524年1~2月
この頃?、教皇クレメンス7世、フランソワ1世などキリスト教君主間の戦いには介入しないと言明しながら秘密裡にカール5世に多額の軍資金を送り、フィレンツェに対してもカール5世を支援するよう指令。
1524年
1524年4月6日
フランチェスコ・グイッチャルディーニ、クレメンス7世によりロマーニャ総督に任命される。
1524年4月10日
カール5世のイタリアにおける覇権確立を恐れたクレメンス7世、フランソワ1世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃に敵対する方針を変更することを内心密かに決め、この日フランソワ1世の使節に自分は決してカール5世に与するものではないと言明。
1524年4月14日
クレメンス7世、カール5世から出された前年8月の前教皇ハドリアヌス6世との同盟の更新の要求に対し、オスマン・トルコに対して団結すべきキリスト教世界の父としてキリスト教君主間の戦いには中立を保つと改めて宣言し、間接的に拒絶の姿勢を示す。
1524年5月
この月?、クレメンス7世は、コルトーナの枢機卿シルヴィオ・パッセリーニ(1459年~1529年)にフィレンツェの直接の統治を委ね、彼を介して間接的にフィレンツェを支配。この措置にメディチ派の貴族にも不満生ずる。
1524年6月24日
クレメンス7世、「神愛オラトリオ会」のメンバーGaetano da Thiene(1480年~1547年)、G. P. Carafaらが信仰生活のローマ教会内部における改革を目指して1524年設立した「テアティノ修道会」を公認。
1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1524年8月12日
クレメンス7世、カール5世の使節が伝えた前年8月の同盟の更新と軍資金提供の要求を明確に拒絶。
1524年11月9日
クレメンス7世、フランソワ1世のもとに使節Gian Matteo Gibertoを送り、この日、彼のミラノ及びパヴィア攻撃に反対しないことを伝える。
1524年12月初旬
この頃までにクレメンス7世、カール5世陣営にあったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレに対して、アルフォンソ1世・デステからフランソワ1世陣営への物資輸送の安全を期すよう指令。1524年12月10日物資はジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの保護の下、輸送される。
1524年12月12日
クレメンス7世、フランソワ1世と、自分は彼に敵対する者に軍を与えず、彼のミラノ領有を認め、彼は教会領及びメディチ家の支配するフィレンツェを防衛することを秘密裡に協定。
1524年
ミケランジェロ、クレメンス7世の命によりメディチ家の図書館ラウレンツィアーナ図書館を着工(~1534年)。
1525年2月26日
パヴィアにおけるフランソワ1世の敗北、捕囚の報をローマで得たクレメンス7世、夢にも思わなかった事態に呆然。イタリアの諸権力者、諸国もカール5世のイタリアにおける覇権の脅威に脅え始める。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアはカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年3月
パヴィアでのカール5世軍の勝利を見て彼に対抗すればロマーニャの教会領をことごとく失いかねないばかりかフィレンツェでのメディチ支配も危うくなると感じたクレメンス7世と、自軍の兵士への報酬やフランソワ1世の身柄の取り扱いについてクレメンス7世との折衝を望むCharles de Lannoyは、秘密裡に折衝。クレメンス7世はヴェネツィアを折衝に引き入れようと試みるが、カール5世の覇権を嫌うヴェネツィアはCharles de Lannoyの求める金の支払いも嫌ってこの試みに乗らず。
1525年4月1日
クレメンス7世とCharles de Lannoyは、クレメンス7世とカール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世はCharles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。
1525年5月5日
この頃?、クレメンス7世、1525年4月1日協定の一部条項の批准を躊躇うカール5世のもとに、その真意を探ると共に協定の全面的批准を促すべく使節として枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣することに決める。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスやシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世とフランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1525年6月10日
ルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世び教書(1525年5月17日付)に基づき、ルター派追求の異端審問委員会を設置するよう命令。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyとフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1525年
ポーランド王ジグムント1世に祝福された剣を授与。
1526年3月末~4月初旬
クレメンス7世及びヴェネツィア、それぞれフランソワ1世のもとに使節を送り、マドリード協定は強制的に締結させられたもので無効であると伝えると共に、彼の協定についての真意を確認しながら協同でカール5世に反抗するよう勧奨。フランソワ1世は協定に拘束される意志のないことを伝える。
加えてクレメンス7世、戦争は不可避と見、フィレンツェの防備を固めるべくスペイン人軍事技術者Pedro Navarraをフィレンツェに派遣。
1526年4月20日
クレメンス7世は、フィレンツェ人ロベルト・アッチャイウオリをフランソワ1世の宮廷駐在大使に任命し、フランソワ1世との関係の緊密化を図る。
1526年5月9日
百人委員会、クレメンス7世の指示に基づいてニッコロ・マキアヴェッリが起草した市壁管理委員会設置案を承認。これによりCinque Procuratori delle Mura(市壁管理五人会)が設置される。
1526年5月22日
コニャック同盟:クレメンス7世、ヴェネツィア、フランソワ1世及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァは、共にカール5世と戦うこと、ミラノ、ジェノヴァ、ナポリなどカール5世の配下の地を攻撃・奪還すること、ミラノはフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに、ジェノヴァとナポリはフランソワ1世に与えることなどについて合意し、フランス・アングレームのコニャックで秘密裡に同盟を締結。直ちに同盟軍を起こす。
1526年5月22日
フィレンツェはクレメンス7世の一存によりコニャック同盟の庇護を受けることになり、事実上の加盟国とみなされる。
1526年6月17日
カール5世に与するシエナ政府の転覆を狙うクレメンス7世、小軍(教皇軍・フィレンツェ軍)をシエナ市壁下に送る。
1526年6月下旬~7月初旬
コニャック同盟軍(クレメンス7世軍、ヴェネツィア軍、フィレンツェ軍)は、カール5世軍の包囲するミラノを目指して進撃を開始。
1526年7月8日
コニャック同盟陣営、同盟をローマで盛大華麗な儀式をもって公表。
1526年7月19日
全く行動を起こさないフランソワ1世にヴェネツィア、フィレンツェなどコニャック同盟諸国が苛立つ中、クレメンス7世、フランソワ1世のもとに特使を送り、同盟の義務に従って軍を派遣するよう求める。しかし約束を得ただけで無駄に終わる。
1526年7月25日
シエナ政府の転覆を狙う教皇軍、フィレンツェ軍は、期待していた市内での反乱が生じないばかりか親教皇派が追放されたため撤退。クレメンス7世の企図は失敗に終わる。
1526年8月20日
クレメンス7世と、ローマにおけるその最後の強敵でカール5世と結んだコロンナ一族との抗争について、クレメンス7世とヴェスパシアーノ・コロンナ及びカール5世のナポリ総督代理ウク・デ・モンカーダ(1476年頃~1528年)との間で、クレメンス7世はコロンナ家領を侵攻しないこと、コロンナ家はその軍をローマ近郊からナポリに撤退させることなどについて協定。
1526年9月17日
オスマン・トルコ軍の脅威的進撃に対処し得ないクレメンス7世への不満、非難が広まる中、カール5世は、クレメンス7世を非難し公会議開催を求める宣言文をグラナダで公表。この中で、クレメンス7世を自分から長年得てきた支持を忘れて自分に敵対しているのみならず、この世における神の代理人の地位にありながら人間の血の犠牲の上に世俗の財物、領地を保持し、キリスト教世界を守るべき任務を放置してキリスト教徒攻撃に力を注ぎ、異教徒によるキリスト教徒攻撃を許しているとルター派さながらにクレメンス7世を弾劾した上で、公会議によるクレメンス7世の審査を求める。
1526年9月20~21日
コロンナ一族は、ウク・デ・モンカーダ指揮の軍と共にローマを急襲しヴァティカン宮殿を略奪。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃亡。かねてからクレメンス7世に敵対していた枢機卿ポンペーオ・コロンナがクレメンス7世を廃して教皇位を襲うための行動と広く信じられる。
1526年9月21日
やむなくウク・デ・モンカーダと、4ヶ月間の休戦、ロンバルディアにある教皇軍のポー河以南への撤退、コロンナ家の赦免、カール5世軍、コロンナ家軍のローマ及び教会領からナポリへの撤退などを協定。
この後、クレメンス7世、直ちに密かに軍を集め、コロンナ家領及びナポリへの侵攻態勢を整えると共にコロンナ一族を教会に対する反逆者と宣言し、ポンペーオ・コロンナの枢機卿位を剥奪。
他方でクレメンス7世、ロンバルディアの同盟軍に書簡を送り、4ヶ月の休戦期間終了後はこれまで以上にカール5世と戦うと告げる。
1526年
この頃までにクレメンス7世、自分のコニャック同盟軍結成以来何の行動も起こさないフランソワ1世に書簡を送り特使を送って支援を求める。しかし言葉以外何の反応も得られず、クレメンス7世及びフィレンツェなどイタリア諸国の孤立感、深まる。
1526年10月6日
カール5世、枢機卿たちに書簡を送り、クレメンス7世を9月の宣言文同様に非難した上で、クレメンス7世が公会議を召集、開催しないなら代わって枢機卿たちが法的権限に従ってそれを行うよう求める。
1526年10月7日
クレメンス7世、9月21日の協定に従い、自分のコニャック同盟軍内全権代理・前線総監フランチェスコ・グイッチャルディーニに命じて自軍を同盟軍から離し、ポー河以南に撤退させる。しかし、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレと共になるべく多くの兵を密かに残せとも命ずる。
1526年11月
この頃、ナポリでペスト蔓延し始め、以後3年余続く。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世、カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステにカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グイッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1527年2~3月
クレメンス7世、R. di Ceriら指揮の陸軍に引き続きアクイラ、Tagliacozzoなどコロンナ家領を攻撃させると共に、アンジュー家のナポリ継承請求権を継承するVaudémont伯Régnier指揮の艦隊(教皇軍、ヴェネツィア軍、フランソワ1世軍)にCastellammare di Stabia、Torre del Greco、Sorrentoなどナポリ湾岸各地を、さらにサレルノを攻撃、占領させる。
1527年3月15/16日
軍資金に窮して自軍の兵士の憤懣、脱走を止められない中でシャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍の南下を見たクレメンス7世、やむなくCharles de Lannoyと8ヶ月間の休戦協定を結び、自軍のナポリ領及びコロンナ家領からの撤退、コロンナ家の赦免、ポンペーオ・コロンナの枢機卿への復位、カール5世軍への資金の提供、カール5世軍の教会領及びフィレンツェ領からの撤退、ヴェネツィア及びフランスによる本協定承認後のカール5世軍のイタリアからの撤退を約定。
これによりクレメンス7世は形式上コニャック同盟から離脱。
1527年3月31日
クレメンス7世及びCharles de Lannoyから1527年3月15/16日の休戦協定を通告され、教会領から撤退するよう指示されたシャルル・ド・ブルボンは、協定を否認し撤退を拒絶。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年4月25日
クレメンス7世は、フランソワ1世及びヴェネツィアと新たに協定を結び、コニャック同盟に再加入。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニ、ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボ、イッポーリト・デ・メディチがフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年
3月15/16日の協定を信じてすでにローマ防衛態勢を解除していたクレメンス7世は、シャルル・ド・ブルボンのローマ進軍、接近を知って急ぎR. di Ceriに防衛軍を組織させる。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボとイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年4月28日
フィレンツェがコニャック同盟に正式に加入。
1527年5月6日
ローマ劫掠:シャルル・ド・ブルボン指揮のカール5世軍は、R. di Ceri指揮のローマ防衛軍を破って市街に突入。シャルル・ド・ブルボン自身は戦死するが、軍は略奪、破壊、放火、殺戮の限りを尽くしながらヴァティカン宮殿をも激しく襲う。クレメンス7世は急ぎ枢機卿13名らと共にサンタンジェロ城塞に逃げ、そのまま捕囚同然の身となる。
1527年5月11日
フィレンツェに、カール5世軍によるローマ劫掠、クレメンス7世捕囚の報、届く。
1527年5月16日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、オルヴィエートに到着し、グイド・ランゴーニ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzolo、Luigi Pisaniらコニャック同盟軍指揮官とクレメンス7世救出策を協議。ローマ進軍、クレメンス7世救出とそれらによるフィレンツェ防衛の弱体化、フィレンツェ政体転覆の危険などについて議論紛糾し、行動は停滞。
1527年5月17日
メディチ家支配体制再崩壊:シルヴィオ・パッセリーニ、クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
1527年5月18日
ヘンリー8世とフランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。
1527年5~6月初旬
この頃?、ヴェネツィア軍は、防衛態勢を欠いた教皇領の保全という名分を掲げてラヴェンナを、次いでチェルヴィアを占領、支配。
1527年6月6日
期待していたコニャック同盟軍による救出、解放に見込みはないと判断したクレメンス7世、屈服し、カール5世軍より示された、カール5世に巨額の資金を3回に分割して支払うこと、2回目を支払った時点でガエタまたはナポリで13名の枢機卿と共に釈放されること、サンタンジェロ城初めオスティア、チヴィタヴェッキア、チヴィタ・カステッラーナの各城塞をカール5世軍に明け渡しピアチェンツァ、パルマ、モデナをカール5世に委譲すること、コロンナ家を赦免することなどの条項を受諾。
これによりカール5世軍がサンタンジェロ城に入り、クレメンス7世初め枢機卿らは文字通りの捕囚となる。
1527年6月
イタリア全土で食糧不足が深刻化すると共にペストが蔓延し始め、サンタンジェロ城の教皇付きの者の中にもペストによる死者が出始める。
1527年8月3~18日
ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。
1527年8月中旬
イタリア全土にペスト蔓延。とりわけローマ、フィレンツェ、ナポリなどで大流行。サンタンジェロ城の内部でも死者が続き、教皇ら、嘆願して8月13日?スペイン兵の看視の下で一時ベルヴェデーレ宮に移される。
ローマ占領カール5世軍の兵士たちは、ペストが猖獗を極めるローマを避けてナルニ、テルニ、スポレートなどに疎開し、略奪を続ける。
1527年10月30日
カール5世の総督ウク・デ・モンカーダは、ローマでクレメンス7世と、クレメンス7世はカール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1527年12月7/8日
クレメンス7世、ウク・デ・モンカーダとの身柄釈放協定(1527年10月30日)を信じず、商人に変装して単身サンタンジェロ城を脱出。Luigi Gonzaga(1500年~1532年)に伴われてMontefiascoへ、さらにオルヴィエートへ逃亡。
1528年2月9日
ニッコロ・カッポーニ、サン・マルコの修道士たちやピアニョーニの助言、勧奨を受け、故ジローラモ・サヴォナローラの説教に従ってキリストをフィレンツェの王とするようコンシーリオ・マッジョーレに提案。1100名の評議員の内1082名の賛成を得て採択される。
ピアニョーニの若者ら、教会や家々のメディチ家紋章、クレメンス7世の像などを撤去、破壊。
クレメンス7世のローマ逃亡(1527年12月)の頃よりすでにメディチ派との融和策をとり始めていたニッコロ・カッポーニ、市内のこれら反メディチの動向に不満を高めているクレメンス7世を慰撫するための特使を派遣することなどを考えるが、強い反メディチ感情に押されて実行できずに終わる。Baldassarre Carducciを指導者とするアッラビアーティなどからクレメンス7世と内通しているとのニッコロ・カッポーニ批判が市内で高まり、広がる。
1528年6月10日
ニッコロ・カッポーニ、アッラビアーティの過激な動向に反発して連合した貴族、有力市民、メディチ派、共和政穏健派などの支持を得、一般の予測に反して、アッラビアーティのBaldassarre Carducciなどを破り正義の旗手に再選される。
再選後もクレメンス7世の反フィレンツェ感情を和らげるため彼及び彼の側近との接触、文通を続けたニッコロ・カッポーニは、市内の根強い反メディチ感情の反発を受け、十人委員会の了承を受けずにそれらを行うことを禁止される。但しニッコロ・カッポーニはなお密かに側近との文通を続ける。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1528年8月18~19日
かねてからくすぶっていた正義の旗手の権限は過大だとする不満がニッコロ・カッポーニのクレメンス7世慰撫策への反発と結びついて正義の旗手の権限縮小の動きが活発化し、コンシーリオ・マッジョーレの選出する2年任期の20名の補佐官と過去及び現在の十人委員会とからなるプラティカを設置してこれが通常の政務を担当することに決まる。これによりニッコロ・カッポーニは政治的に対立する者たちからさらに大きく制約される。
1528年10月6日
クレメンス7世、ヴィテルボを発ち、略奪、破壊とペストによって甚だしく荒廃し人口も半減したローマに戻る。
以後、クレメンス7世、アルフォンソ1世・デステへの復讐、フェッラーラ、モデナ、レッジョの奪還を策すと共に、フランソワ1世に対してイタリアで圧倒的な優位を占めつつあるカール5世との和解の方途を探り始める。
1528年
クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世とカール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしとプラティカなどで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。
1529年
クレメンス7世死亡の噂が広まり、市内は異常な歓喜に包まれる。
1529年初旬
クレメンス7世、ペストに似た熱病に罹り、一時重態に陥る。
1529年1月10日
重病のクレメンス7世、イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
1529年1~2月
快癒したクレメンス7世はカール5世との接近工作を続け、カール5世もクレメンス7世に極めて融和的な書簡を送り、それをクレメンス7世が1529年2月8日枢機卿会議で公開するなど、両者の和解、接近の動き活発化する。
1529年2月18日
クレメンス7世とカール5世の和解、提携が進む中、フィレンツェも両者の和解、提携することが最善とするニッコロ・カッポーニの見解が、市内の反メディチ意識、伝統的親フランス感情によって排斥され、この日コンシーリオ・マッジョーレに正義の旗手辞任を申し出るが、受理されず。しかし、彼への信望、弱まる。
1529年4月15日
十人委員会は、クレメンス7世、メディチ家と敵対してきたマラテスタ・バリオーニを来る6月1日から1年間、フィレンツェ軍の総指揮官として雇うことを決め、コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。
この頃?、同じくクレメンス7世の宿敵ナポレオーネ・オルシーニを軍指揮官として雇うことも同様に決める。
1529年4月16日
ニッコロ・カッポーニ、クレメンス7世との秘密折衝の進展を報告するローマ教皇庁からの密書を紛失。これがアッラビアーティなど反ニッコロ・カッポーニ派の手に入り、前年に禁じられたクレメンス7世との折衝を行っていたニッコロ・カッポーニを追及する声、一気に高まる。ニッコロ・カッポーニ支持、反対の両派、それぞれ集会を開いて気勢を上げる。
1529年4月17日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、クレメンス7世との秘密折衝の件でニッコロ・カッポーニを召喚、審問。反ニッコロ・カッポーニ派は最大の反逆罪の嫌疑でニッコロ・カッポーニを拷問にかけるよう主張し、ニッコロ・カッポーニは辛うじて無実を主張。審議中、Ottimatiを中心とするピエロ・サルヴィアーティ指導のニッコロ・カッポーニ支持者は、武装してシニョーリア広場に集合。Ottoは武装した者の広場からの退出を命令。
ニッコロ・カッポーニ処刑の声が挙がる中、彼の支持者たち、民衆暴動の発生を恐れて彼の正義の旗手辞任を了承。コンシーリオ・デリ・オッタンタは、新正義の旗手を翌18日に選出すると市内に布告。
1529年4月18日
クレメンス7世、布告を出してペルージアを含む教会領の領民が他国の傭兵となることを禁止。
1529年4月18日
コンシーリオ・マッジョーレ、正義の旗手の任期を8ヶ月に短縮すること、ニッコロ・カッポーニの事例の再発防止のため外交権をほとんど奪うなど正義の旗手の権限を大幅に縮小すること、を決めた後、アッラビアーティの指導者の1人でニッコロ・カッポーニの政敵Baldassarre Carducciの同族Francesco Carducci(1465年~1530年)を正義の旗手に選出。
以後、新正義の旗手の下、フィレンツェのクレメンス7世との対決姿勢、強まる。
1529年4月20日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、ニッコロ・カッポーニの弁明を聞いた上、彼の反逆罪の嫌疑を否認し、クレメンス7世との折衝禁止令に反した罪についてのみ保釈金を課すと共に5年間のフィレンツェ領内禁足を命ずる。
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1529年7月上旬~下旬
クレメンス7世、フィレンツェ軍が防衛を分担しているペルージアに対して、自分に敵対する軍隊は全て撤退せよとの布告を繰り返し発する。
1529年7月16日
バルセロナ協定によってカール5世との関係を確立したクレメンス7世、婚姻不成立の訴えに関してヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナをローマに召喚する令状に署名。
1529年7月23日
クレメンス7世、ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇使節法廷を休廷させ、審議の場をローマに移す。
列強の王たちの中でただ一人、一貫してローマ教会、教皇に忠節を尽くし、その守護に励んで信仰の擁護者の称号を与えられ(1521年)ていたヘンリー8世、自身の婚姻不成立の訴えに関するクレメンス7世の一連の対応に激しく反発し、敵意を燃やす。民心も、これまで反発していた婚姻不成立問題を超えてローマ教会、クレメンス7世の態度に反発し、ヘンリー8世の下に集まる。
1529年8月12日
カール5世、クレメンス7世から正式に神聖ローマ皇帝の冠を受けるべく海路ジェノヴァに着き、初めてイタリアの地を踏む。この地でカンブレーの和の成立の報を得る。
1529年8月23日
フィレンツェ使節団は、イッポーリト・デ・メディチを含むクレメンス7世の使節団を初めイタリア諸国のほとんどの使節団がすでに滞在しているジェノヴァにようやく到着。
1529年8月24日
クレメンス7世の使節団の強い要求に従って一旦はフィレンツェ使節団の接見を拒否したカール5世、アンドレア・ドーリアの要請をいれ、クレメンス7世の使節の一人の同席の下でようやく接見。これまでの誠意と今後の恭順、協調を言上した上、クレメンス7世こそフィレンツェの自由とカール5世自身にとって最大の敵であると力説し、フィリベール・ド・シャロン指揮のフィレンツェ攻略軍の進撃を止めるよう懇請する使節団に対し、クレメンス7世の名誉を認めぬ限り交渉の余地はないと断言し、仲介するから直ちにクレメンス7世と和解交渉を開始せよと命ずる。
1529年8月30日
カール5世はジェノヴァを発ちピアチェンツァに向かう。彼を追ったフィレンツェの使節ラッファエーレ・ジローラミ、ルイジ・アラマンニに対して、クレメンス7世の使節と合意の上、1529年8月24日の第一回会見の主張を繰り返す。
1529年10月7日
ジェノヴァに着いたカール5世からイタリアに長く滞在できないことを理由にローマでではなくボローニャでの戴冠を申し込まれたクレメンス7世、慣例を破ることに反対する側近を押し切り、やむなくローマを出発。トスカーナを避け、ロマーニャ経由でボローニャに向かう。
1529年10月17日
ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えをクレメンス7世に認めさせることに失敗したトマス・ウルジー、イングランド法管轄下の訴訟を外国で行なうことを禁じたActs of Praemunire(上訴禁止法:1393年)に違反したかどで訴追され、失脚(在位1515年~)。
1529年10月24日
クレメンス7世、ボローニャに着き、カール5世を待つ。
1529年10月下旬~11月初頭
この頃?、アルフォンソ1世・デステ、自らカール5世のもとに赴いて懸命に恭順、忠節の意を表し、受け入れられる。フェッラーラ、モデナ、レッジョの領有を巡るクレメンス7世のアルフォンソ1世・デステに対する敵意も考慮して彼を回避していたクレメンス7世は、旅程を変えてモデナに入る。
1529年11月3/4日
宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。
1529年11月5日
ボローニャ会談:カール5世、クレメンス7世の待つボローニャに着き、両者、直ちに会談を始める。以後、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟、(2)アルフォンソ1世・デステの支配するフェッラーラ、モデナ、レッジョに対するクレメンス7世の要求権、(3)カール5世とフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ及びヴェネツィアとの和解などにつき断続的に会見を繰り返す。
この会見の帰趨次第で自己の運命が決まることを察知したイタリア諸国の君侯ないしはその使節たち、続々とボローニャに参集し、自国に有利な取り成しを得るべく画策。
1529年
クレメンス7世とカール5世、(1)フィレンツェ攻略、メディチ家のフィレンツェ復辟について確認し、ロンバルディアで和平がなればその地のカール5世の軍をフィレンツェ攻撃に投入することで合意。(2)フェッラーラ、モデナ、レッジョ問題についてはすでに内心でこれをアルフォンソ1世・デステに与えることを決意しているカール5世が巧みにクレメンス7世を説得し、カール5世の検討に委ねることに決める。
1529年11月23日
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、クレメンス7世に呼ばれてボローニャに着く。
1529年11月29日
フィリベール・ド・シャロンは、フィレンツェ攻略に必要として求めたものの内、資金はクレメンス7世から継続的に与えるとの約束を得、軍はこの時すでにヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと和解することを決意したカール5世からそれによって不要となるロンバルディア駐在の軍を与えるとの約束を得、ボローニャからフィレンツェ市外の戦線に帰着。
1529年12月23日
スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識したカール5世、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、カール5世にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。カール5世はフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ3世・ディ・サヴォイア、フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステはカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1529年
カンブレーの和、イタリア戦争小康状態に
1529年
1530年1月3~7日
フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、プラティカでは意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。プラティカもこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。
1530年1月下旬
クレメンス7世、ボローニャに派遣されてきたフィレンツェの使節ルイジ・ソデリーニ(1476年~1530年)、Andreuolo Niccoliniに、フィレンツェの反抗、敵対及びフィレンツェ政府、政体そのものへの反発、敵意を激しい言葉で一方的に浴びせる。
カール5世、新たな妥協案を提示するのでなければ会見の必要はないとしてフィレンツェ使節の接見を拒否。
1530年2月8日
プラティカは、平和的交渉で成果を得られる展望はないとしてクレメンス7世との和解を断念。しかしカール5世及びフィリベール・ド・シャロンとの接触は求め続ける。
1530年2月22/23日
カール5世、ボローニャでクレメンス7世よりロンゴバルド王(イタリア王)の冠を受ける。
1530年2月24日
カール5世、30回目の誕生日のこの日、ボローニャでクレメンス7世より神聖ローマ皇帝の冠を受ける。
1530年3月2日
クレメンス7世に強く拒絶されてボローニャを訪ねられなかったアルフォンソ1世・デステ、カール5世の仲介により、ようやくクレメンス7世からフェッラーラ~ボローニャ間の通行の安全を保障される。1530年3月7日ボローニャに着く。
1530年3月21日
帰国する前にイタリアにおける争乱の芽を摘み取りたいカール5世、フェッラーラ、モデナ、レッジョの帰属問題につき、近く自身が裁定を下すこと、その時までこれらの地を自身ないし自身の配下の者の管轄下に置くことをクレメンス7世とアルフォンソ1世・デステに同意させる。
1530年3月31日
クレメンス7世、ボローニャを発ちローマに向かう。
1530年4月6/9日
クレメンス7世、ローマに帰着。
1530年6月9日
1529年12月Ottoからボローニャにおけるクレメンス7世の側近としての言動などを説明するよう召喚されながら書面で弁明し、1530年3月諸島に叛徒と宣告されていたフランチェスコ・グイッチャルディーニが改めて叛徒として全財産の没収を宣告されたのを初めフランチェスコ・ヴェットーリ、Iacopo Tornabuoni(1472年~1543年)も同じ宣告を受ける。
1530年6月21日
フィレンツェの十人委員会の委員Iacopo Gherardi、Andrea Tebaldiらが参画しているクレメンス7世毒殺の陰謀を聞き知ったマラテスタ・バリオーニ、カール5世軍陣営に通報。
ペルージアを追われてフィレンツェ軍指揮官に留まった後もフィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世に使者を送って接触を持ち続けると共に、この年4月からはフランソワ1世の宮廷にも使者を送って彼にはその言葉に反してフィレンツェ支援の意図がないことを感得していたマラテスタ・バリオーニは、自身のペルージア復辟の意図を実現するにはカール5世、クレメンス7世側につくのが有利と判断していたが、この陰謀の通報により、フィリベール・ド・シャロン及びクレメンス7世の信頼を得始める。
1530年6月下旬
クレメンス7世を自陣に引き入れてカール5世に対抗させたいフランソワ1世、子息が釈放されたから約束のフィレンツェ支援をと催促するBaldassarre Carducciに、カール5世の全ヨーロッパ制覇を防ぐために自分とクレメンス7世、ヘンリー8世、フィレンツェの同盟が必要だと説き、これを実現するためフィレンツェはクレメンス7世と和解せよと指示。
1530年7月初旬
すでにこの頃までにクレメンス7世の財政、長期にわたる戦費の支出のために危機状態に陥る。
1530年7月末
この頃ローマで、クレメンス7世の代理、フィリベール・ド・シャロンの使者及びマラテスタ・バリオーニの使者により、マラテスタ・バリオーニのカール5世・クレメンス7世陣営への寝返りの密議が纏まる。
1530年8月9日
有力貴族を含む共和政派、反カール5世集会を開いて市内の警護を開始。これをメディチ派が妨害。
シニョーリアは、全市民に武装解除と商店の開店を指令すると共に全政治犯の釈放令を発してメディチ派の被逮捕者を釈放。さらにカール5世陣営との和議の使節としてロレンツォ・ストロッツィ、ピエルフランチェスコ・ポルティナーリ、バルド・アルトヴィッティ、ヤコポ・モレッリを、クレメンス7世への使節としてバルトロメオ・カヴァルカンティを指名。
1530年8月12日
フィレンツェ共和政の消滅:カール5世の陣営で、フィレンツェの政体は4ヶ月以内にカール5世が決めること、フィレンツェはカール5世軍にその兵を満足させるに足る軍資金を支払うこと、フィレンツェの領土を保全し外国軍隊はそこから撤退すること、マラテスタ・バリオーニとステファノ・コロンナはカール5世に代わって市内を警護すること、これまでのフィレンツェの反メディチ、クレメンス7世の罪は問われず、指導者及び市民は処罰されないことなどを内容とする和平(降伏)協定が調印される。これによりフィレンツェ共和政、実質上、歴史から消える。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリ、フランチェスコ・グイッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手、ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1530年
アウクスブルクの信仰告白認可
1531年1月29日
メディチ派内部に対してさえ非寛容な専断をなし過ぎたため解任された(1530年末)バッチオ・ヴァローリに代わってクレメンス7世によりその全権代理に任命されたカプア大司教Nikolaus von Schönberg着任。
1531年2月17日
バーリアは、クレメンス7世の全権代理Nikolaus von Schönbergの強い支持により、アレッサンドロ・デ・メディチを自らの一員として加えると共に、彼の全官職への就任権、全官職人事への介入権及びSua Eccelenza(陛下)の呼称を承認。
1531年3月
クレメンス7世、キリスト教国家の全聖職者に対し、民衆にオスマン・トルコの脅威、その攻撃の危機を説くよう指令。
1531年4月25日
クレメンス7世、前年に繰り返して公会議開催を求めてきたカール5世に対し、フランソワ1世の反対の続く限り応じられないと書面で回答。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1531年8月23日
クレメンス7世、ローマのAntonio Blado (d'Asola)(1490年~1567年に教皇庁財務院の後見・監督の下でニッコロ・マキアヴェッリの君主論、Discorsi及びIstorie fiorentineを出版する特許を与える。
1531年12月20日
クレメンス7世、Bernardo di Giuntaにニッコロ・マキアヴェッリの君主論、Discorsi及びIstorie fiorentineをニッコロ・マキアヴェッリの遺族の同意を得た上、彼の祖国フィレンツェで出版する特許を与える。
1531年12月28日
クレメンス7世、枢機卿及び諸国の大使、使節を招集し、オスマン・トルコ対策について協議。しかしオスマン・トルコと戦うことになりたくないヴェネツィアやフェッラーラの大使は参加せず。
1531年
シュマルカルデン新教同盟結成
1532年1月初旬
クレメンス7世、オスマン・トルコ軍の攻撃に備えてアンコーナを初め教会領の各地の港湾を強化すること、カール5世、フェルディナンドのオスマン・トルコ対策に資金援助を行うことを決めると共に、これらを支援するようキリスト教諸国の君侯に呼びかける。
1532年1月15日
イングランド「宗教改革議会」、ヘンリー8世の側近Thomas Cromwell(1485年頃~)が作成した、王国内の聖職者がその禄から得る初年度の収入の約3分の1を教皇の上納することを制限する「初年度収入税上納制限法」案を承認し、イングランドにおける教皇権力への攻撃を開始。但し、これに対するクレメンス7世の破門による制裁は無視することなど強硬な方針を定めるこの法の発効時期をヘンリー8世の裁断に任せることにより、彼の婚姻解消問題へのクレメンス7世の対応を窺う。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ、Matteo Niccolini、Robert Pucci、パッラ・ルチェッライ、ヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Dini、ジャンフランチェスコ・リドルフィ、Giuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1532年5月27日
クレメンス7世、故マラテスタ・バリオーニの子リドルフォ・バリオーニ(1518年~1554年)と甥ジャンパオロ・バリオーニをペルージアから追放した上、叛徒と宣告し、その封土、城塞を全て没収して教会領とする。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世、フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1532年10月4日
スレイマン1世の撤退によってその侵攻の脅威を免れて以来クレメンス7世と再び会見することを求め、同意を得たカール5世、会見地ボローニャに向かってウィーンを出発。
1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリン(1507年頃~1536年)やトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世とフランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1532年12月8日
クレメンス7世、カール5世との会見のためローマからボローニャに着く。
1532年12月15~20日
クレメンス7世とカール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスとフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世がメディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年2月24日
クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1533年3月10日
クレメンス7世、ボローニャを発ち、ロマーニャ、マルケ両地方を経て、1533年4月3日ローマ着。
1533年5月3日
クレメンス7世とフランソワ1世の2名の全権使節François de TournonとG. de Gramont、アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世とフランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。
1533年5月23日
1533年1月10日ヘンリー8世にってカンタベリー大司教に任命されクレメンス7世の承認を得て1533年3月30日公式に叙階されたThomas Cranner(1489年~:在位~1553年)、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は無効と宣言。
1533年7月9日
もはやクレメンス7世が自分とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻を無効と認める可能性はないと見たヘンリー8世、1532年1月議会の制定した「初年度収入税上納制限法」を発効させる。
1533年7月11日
クレメンス7世、ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1533年9月26日
クレメンス7世、フランソワ1世の使節の勧めに従い、ヘンリー8世破門の発行を1ヶ月延期。
1533年10月11日
カルロ・ディ・サヴォイアがカール5世の圧力を受けてクレメンス7世・フランソワ1世会談の自領ニースでの開催を断ってきたためにその会談の場とされたマルセイユに、この日クレメンス7世、リヴォルノから海路到着し、1533年10月12日14名の枢機卿と60名余の高位聖職者を伴って市外に入る。
1533年10月13日
フランソワ1世、王妃レオノール・デ・アウストリアと2名の王子を初め200名に上る上級貴族を伴ってマルセイユに着く。
以後、クレメンス7世とフランソワ1世、この地で秘密裡に会見を繰り返す。クレメンス7世はフランソワ1世にミラノへの進出を認め、フランソワ1世はクレメンス7世に自国での異端の撲滅を約束か?
1533年10月27日
クレメンス7世とフランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスとアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世、メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。
1533年10月31日
クレメンス7世、フランソワ1世の要請を容れ、ヘンリー8世破門の発行をさらに1ヶ月延期。
1533年11月7日
クレメンス7世、フランソワ1世の強い要請の下、カール5世陣営の枢機卿の反対を押し切ってフランソワ1世の推す4名を枢機卿に任命。
1533年
ヘンリー8世がキャサリンを離別、ローマと対立激化
1533年
イワン4世雷帝即位(-84)
1534年3月23/24日
クレメンス7世、秘密枢機卿会議でヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は有効であることを改めて最終的に確認し、ヘンリー8世にその婚姻に復帰するよう命令。(この報、1534年4月4日ロンドンに届く)。
1534年6月27日
アレッサンドロ・デ・メディチ、ルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グイッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
1534年6月
クレメンス7世が重病ですでに日常の業務の遂行もままならない状態にあることが明らかになる。
クレメンス7世、フィレンツェ内外の敵に備える堅固な城塞の構築を指令するなど自身亡き後のメディチ家によるフィレンツェ支配体制の保全、強化に腐心。
1534年7月29日
この日?、クレメンス7世、フィレンツェに城塞(Fortezza da Basso)構築を進めるための富裕市民税を設けさせる。
1534年9月25/26日
クレメンス7世死。構築を支持したフィレンツェの城塞(Fortezza da Basso)はなお未完。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1534年11月1日
従兄弟リドルフォ・バリオーニとジャンパオロ・バリオーニ、クレメンス7世の死を機に小軍を率いてペルージアを襲撃し、教皇使節・テッラチーナ司教Cinzio Filomardi(?~)を殺害し政庁宮を占拠。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチ、クレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グイッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
1535年7月20日
パウルス3世、クレメンス7世によるS. Paolo (Paulus)律修聖職者会(バルナバ会)公認(1533年)を追認。
肖像
埋葬地
任命した枢機卿
1529年1月10日 | イッポーリト・デ・メディチ |
本名
ジューリオ・デ・メディチ、Giulio de' Medici
別表記
クレメンス七世、ジュリオ・デ・メディチ、クレメンテ7世、Clemente VII
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
そらのお城
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『銀色のフィレンツェ』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ハプスブルク家』
『マキアヴェリ』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『ルネッサンス夜話』
『ローマ教皇検死録』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lost Girls』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ヴィンチェンツォ・デ・メディチ Vincenzo de' Medici
- 生没
- 1485年~
- 父
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
- 母
- セミラミーデ・ダッピアーノ
概要
ヴィンチェンツォ・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ Pierfrancesco de' Medici
- 生没
- 1487年~1525年
- 父
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
- 母
- セミラミーデ・ダッピアーノ
- 妻
- マリーア・ソデリーニ
- 子
- ロレンツィーノ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
ラウドミア・デ・メディチ
マッダレーナ・デ・メディチ
概要
ピエルフランチェスコ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のフィレンツェの男性。
年表
1511年
マリーア・ソデリーニと結婚。
別表記
ピエルフランチェスコ・イル・ジョーヴァネ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アヴェラルド・デ・メディチ Averardo de' Medici
- 生没
- 1488年~1495年
- 父
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
- 母
- セミラミーデ・ダッピアーノ
概要
アヴェラルド・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ラウドミア・デ・メディチ Laudomia de' Medici
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
- 母
- セミラミーデ・ダッピアーノ
- 夫
- フランチェスコ・サルヴィアーティ
- 子
- ジュリアーノ・サルヴィアーティ
概要
ラウドミア・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1502年
フランチェスコ・サルヴィアーティと結婚。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジネヴラ・デ・メディチ Ginevra de' Medici
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ロレンツォ・イル・ポポラーノ
- 母
- セミラミーデ・ダッピアーノ
- 夫
- ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィ
- 子
- ルカ・デリ・アルビッツィ
ロレンツォ・デリ・アルビッツィ
ベネデット・デリ・アルビッツィ
フランチェスコ・デリ・アルビッツィ
概要
ジネヴラ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1508年
ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィと結婚。
1511年10月11日
ルカ・デリ・アルビッツィを出産。
1512年11月3日
ロレンツォ・デリ・アルビッツィを出産。
1516年
フランチェスコ・デリ・アルビッツィを出産。
ベルナルド・デ・メディチ Bernardo de' Medici
- 生没
- 1???年~1576年以後
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- オッタヴィオ・デ・メディチ
- 母
- バルトロメア・ジューニ
- 妻
- ジューリア・デ・メディチ
概要
ベルナルド・デ・メディチは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。
1552年11月末
ユリウス3世、ナポリのペドロ・デ・トレドのもとに特使ベルナルド・デ・メディチを送り、シエナへの進軍を待つよう説得。
1559年
ジューリア・デ・メディチと結婚。
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
レオ11世 Leo XI
- 生没
- 1535年6月2日~1605年4月27日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- オッタヴィオ・デ・メディチ
- 母
- フランチェスカ・サルヴィアーティ
概要
アレッサンドロ・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの男性、聖職者。第232代教皇レオ11世。
在位
フィレンツェ大司教 1574年1月15日~1605年4月1日
第232代教皇 1605年4月1日~1605年4月27日
年表
1564年5月1日
コジモ1世・デ・メディチ、公の名称と重要人事事件などの最高指揮権とを保持しながらも、通常の政務の実権を長子フランチェスコ1世・デ・メディチに委譲。
1564年6月11日
この日以降、摂政的な位置を占める。
1574年
フィレンツェ大司教となる。
1605年4月1日
教皇に即位。
本名
アレッサンドロ・デ・メディチ、Alessandro de' Medici
別表記
Ottaviano
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Find A Grave
Genealogy.EU
参考文献
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
クラリーチェ・デ・メディチ Clarice de' Medici
- 生没
- 1493年~1528年
- 父
- ピエロ・イル・ファトゥオ
- 母
- アルフォンシーナ・オルシーニ
- 夫
- フィリッポ・ストロッツィ
- 子
- ピエロ・ストロッツィ
ヴィンチェンツォ・ストロッツィ
マリーア・ストロッツィ
レオーネ・ストロッツィ
ロベルト・ストロッツィ
ジューリオ・ストロッツィ
ロレンツォ・ストロッツィ
アレッサンドロ・ストロッツィ
ルイジア・ストロッツィ
マッダレーナ・ストロッツィ
概要
クラリーチェ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のフィレンツェの女性。
年表
別表記
クラリッサ、Clarissa
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
イッポーリト・デ・メディチ Ippolito de' Medici
- 生没
- 1511年4月19日~1535年8月10日
- 父
- ジュリアーノ・デ・メディチ
- 母
- パシフィカ・ブランディーニ
- 子
- アスドルバーレ
概要
イッポーリト・デ・メディチは、16世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1529年1月10日~1535年8月10日
サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1529年1月10日~1532年7月3日
アヴィニョン大司教 1529年1月10日~1535年8月10日
カザーレ・モンフェッラート教区長 1529年11月15日~1531年3月6日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1532年7月3日~1535年8月10日
教皇庁副尚書院長 1532年7月3日~1535年8月10日
モンレアーレ教区長 1532年7月26日~1535年8月10日
レッチェ教区長 1534年4月20日~1535年2月26日
年表
1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボとイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年5月17日
メディチ家支配体制再崩壊:シルヴィオ・パッセリーニ、クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニ、ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボ、イッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。
1527年10月30日
カール5世の総督ウク・デ・モンカーダは、ローマでクレメンス7世と、クレメンス7世はカール5世に、ナポリ及びミラノ問題に関して敵対しないこと、ナポリ及びカール5世の全領地における十分の一税を与えること、巨額の軍資金を与えること、人質としてイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを渡すことなどと共にクレメンス7世を1527年12月9日に釈放することを協定。
1529年1月10日
重病のクレメンス7世、イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
1529年8月23日
フィレンツェ使節団は、イッポーリト・デ・メディチを含むクレメンス7世の使節団を初めイタリア諸国のほとんどの使節団がすでに滞在しているジェノヴァにようやく到着。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世、フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1535年3~5月半ば
亡命者たち(貴族・枢機卿と共和政派)、アレッサンドロ・デ・メディチに代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立することで一致し、使者を次々とバルセロナのカール5世のもとに派遣。アレッサンドロ・デ・メディチは「降伏協定」(1530年)を遵守せず、パルラメントを悪用して「自由」を抑圧し専横を欲しいままにしている。このような「暴政」は支持するに値しないとそれぞれカール5世ないしその側近に訴える。
1534年バルバロッサに奪われたチュニスの攻略問題に専心しているカール5世は、フィレンツェ問題については亡命者たちの訴えを聞きおくに留める一方、アレッサンドロ・デ・メディチに後日ナポリに来て亡命者たちの主張について自分に直接、弁明せよとの指示を送る。
アレッサンドロ・デ・メディチは、亡命貴族(ストロッツィ家、サルヴィアーティ家)やロレンツォ・リドルフィ(1503年~1576年)などを次々に反逆者と宣告しその財産の没収を宣言。
1535年8月10日
亡命者たちがイッポーリト・デ・メディチ自身をチュニスのカール5世のもとに送ってアレッサンドロ・デ・メディチの専横を訴えイッポーリト・デ・メディチ擁立を支持するよう求めることに決めたのに従い、カール5世のもとに旅立とうとしていたイッポーリト・デ・メディチ、この日、ラツィオのフォンディ近在Itriのジューリア・ゴンザーガのもとで死(1511年~)。アレッサンドロ・デ・メディチの指示による毒殺との噂が流れる。
肖像
別表記
イッポリート、イッポリト、イッポーリット、イッポーリト・メーディチ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
そらのお城
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『ルネッサンス夜話』
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジュリアーノ・デ・メディチ Giuliano de' Medici
- 生没
- 1520年~1588年7月28日
- 父
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
- 母
- マリーア・ソデリーニ
概要
ジュリアーノ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
GCatholic.com
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ラウドミア・デ・メディチ Laudomia de' Medici
- 生没
- 1518年~1558年以降
- 父
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
- 母
- マリーア・ソデリーニ
- 夫
- アラマンノ・サルヴィアーティ
ピエロ・ストロッツィ - 子
- フィリッポ・ストロッツィ
クララ・ストロッツィ
スキピオーネ・ストロッツィ
概要
ラウドミア・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
別表記
ラウドミア・デイ・メディチ
外部リンク
参考文献
『銀色のフィレンツェ』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マッダレーナ・デ・メディチ Maddalena de' Medici
- 生没
- 1???年~1588年
- 父
- ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
- 母
- マリーア・ソデリーニ
- 夫
- ロベルト・ストロッツィ
概要
マッダレーナ・デ・メディチは、16世紀のフィレンツェの女性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アレッサンドロ・デ・メディチ Alessandro de' Medici
- 生没
- 1510年7月22日~1537年1月6日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ロレンツォ・デ・メディチ
- 妻
- タッデア・マラスピーナ
マルゲリータ・ディ・パルマ - 女
- アンナ・ダ・マッサ
- 子
- ジューリオ・デ・メディチ
ジューリア・デ・メディチ
ポルツィア・デ・メディチ
概要
アレッサンドロ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ公。
在位
メディチ家当主 1529年~1537年
フィレンツェ元首 1531年~1532年
フィレンツェ公 1532年~1537年
年表
1510年7月22日
1527年5月17日
メディチ家支配体制再崩壊:シルヴィオ・パッセリーニ、クレメンス7世より預けられたイッポーリト・デ・メディチとアレッサンドロ・デ・メディチを伴い、安全を保障されてフィレンツェを退出しシエナ方面に向かう。メディチ家支配、また崩壊(1513年~)。
1529年1月10日
重病のクレメンス7世、イッポーリト・デ・メディチを枢機卿に任命。メディチ家の当主にはアレッサンドロ・デ・メディチを当てると共に、この頃、彼のフィレンツェ復辟を託する書簡をカール5世に送る。
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1531年2月17日
バーリアは、クレメンス7世の全権代理Nikolaus von Schönbergの強い支持により、アレッサンドロ・デ・メディチを自らの一員として加えると共に、彼の全官職への就任権、全官職人事への介入権及びSua Eccelenza(陛下)の呼称を承認。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1531年7月5日
カール5世の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマの婚約者としてカール5世と共にブリュッセルにあったアレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェに帰着。
1531年7月6日
アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿で全官職者を前に、1530年10月28日付のカール5世の勅書——アレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのCapo(元首)とし、彼に後継男子なき時はその地位をカール5世自身が継ぐものとする、フィレンツェのこれまでの反抗を許し、その自由と特権とを再び認める、フィレンツェの全官職は1527年以前と同様に選出される——を読み上げる。
1532年4月27日
君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentina(フィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリ、Prinzivalle della Stufa、フィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。
コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。
以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。
1534年6月27日
アレッサンドロ・デ・メディチ、ルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グイッチャルディーニ兄弟にクレメンス7世亡き後のフィレンツェ支配体制の保全策を諮問。
1534年6月29日
フランチェスコ・グイッチャルディーニ、アレッサンドロ・デ・メディチに、敵対派の動きは激化してもその支配権は揺らぐまいと楽観的予測を伝えると共に、カール5世による支持・保護を力説し公知させることが肝心だと勧告。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチ、クレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・グイッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
1534年
この頃から1535年にかけてアレッサンドロ・デ・メディチに対する貴族・上層有産層の抵抗次第に強まり、アレッサンドロ・デ・メディチによる彼らの追放・財産没収、続く。
1535年3~5月半ば
亡命者たち(貴族・枢機卿と共和政派)、アレッサンドロ・デ・メディチに代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立することで一致し、使者を次々とバルセロナのカール5世のもとに派遣。アレッサンドロ・デ・メディチは「降伏協定」(1530年)を遵守せず、パルラメントを悪用して「自由」を抑圧し専横を欲しいままにしている。このような「暴政」は支持するに値しないとそれぞれカール5世ないしその側近に訴える。
1534年バルバロッサに奪われたチュニスの攻略問題に専心しているカール5世は、フィレンツェ問題については亡命者たちの訴えを聞きおくに留める一方、アレッサンドロ・デ・メディチに後日ナポリに来て亡命者たちの主張について自分に直接、弁明せよとの指示を送る。
アレッサンドロ・デ・メディチは、亡命貴族(ストロッツィ家、サルヴィアーティ家)やロレンツォ・リドルフィ(1503年~1576年)などを次々に反逆者と宣告しその財産の没収を宣言。
1535年8月10日
亡命者たちがイッポーリト・デ・メディチ自身をチュニスのカール5世のもとに送ってアレッサンドロ・デ・メディチの専横を訴えイッポーリト・デ・メディチ擁立を支持するよう求めることに決めたのに従い、カール5世のもとに旅立とうとしていたイッポーリト・デ・メディチ、この日、ラツィオのフォンディ近在Itriのジューリア・ゴンザーガのもとで死(1511年~)。アレッサンドロ・デ・メディチの指示による毒殺との噂が流れる。
1535年9月10日
ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。
1535年
亡命者たち、ナポリのカール5世のもとに行きアレッサンドロ・デ・メディチの暴政を訴えるが、共和政とその下での自由を標榜する共和制派と、貴族寡頭政とその下での自らの地位・特権の保全を目指す貴族・枢機卿の主張の対立が顕著になる。
彼らをフランソワ1世のもとに走らせたくないカール5世、彼らを留めながらアレッサンドロ・デ・メディチを通しての自身によるフィレンツェ支配を強化する方途を探る。
1535年12月11日
マルゲリータ・ディ・パルマと結婚。
1535年12月21日
アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェを発ってナポリに向かう。
1536年1月3日
アレッサンドロ・デ・メディチ、騎兵3百と共にフランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、Robert Pucciら腹心を従えてナポリに入り、カール5世の歓迎を受ける。
以後アレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世とその幕閣に多大の金品を供与して歓心を買いながら、パルラメントの召集・バーリアの設置はフィレンツェの伝統に従っていること、一部貴族の処断はフィレンツェ防衛上当然必要な措置であること、などを彼らに力説し、自分の施政に関する亡命者たちのカール5世への訴えの不当性を強調。
1536年2月
カール5世とアレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのSignore(統治者)として公認し、アレッサンドロ・デ・メディチに自分の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)を嫁がせ、アレッサンドロ・デ・メディチはカール5世に巨額の軍資金を供与することで合意。
他方カール5世、亡命者たちにフィレンツェへの帰国の安全、没収財産の返還、通常の市民と同等の公職の享受、を保証すると明言するが、亡命者たちはこれに応じずに終わる。
1536年2月29日
アレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世自身の出席も得てマルゲリータ・ディ・パルマとの盛大な結婚式を挙げる。数日後アレッサンドロ・デ・メディチ、ナポリを発って揚々とフィレンツェへの帰途に着く。
1536年6月13日
アレッサンドロ・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式、続いてその祝賀行事、壮大華麗に繰り広げられる。
1537年1月6日
深夜、アレッサンドロ・デ・メディチは、傍系一族で日頃の放蕩仲間ロレンツィーノ・デ・メディチから、思いを寄せている女性とメディチ宮殿の彼の自室で合わせてやると巧みに誘い入れられ、彼とその従者に刺殺される。
1537年1月7日
早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。
夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。
直ちにインノチェンツォ・チーボはチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。
夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。
1537年3月13日
アレッサンドロ・デ・メディチの葬儀、サン・ロレンツォ教会でコジモ1世・デ・メディチも出席して執り行われる。
肖像
墓
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『銀色のフィレンツェ』
『世界大百科事典』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネッサンス夜話』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lost Girls』
カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Medicis
- 生没
- 1519年4月13日~1589年1月5日
- 父
- ロレンツォ・デ・メディチ
- 母
- マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ
- 夫
- アンリ2世
- 子
- フランソワ2世
シャルル9世
アンリ3世
マルグリット・ド・ヴァロワ
クロード・ド・ヴァロワ
概要
カトリーヌ・ド・メディシスは、16世紀の女性。
年表
1519年4月13日
ロレンツォ・デ・メディチと妻マドレーヌ・ド・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュの間に娘カトリーヌ・ド・メディシス生(~1589年)。
1526年12月上旬
この頃?、クレメンス7世、カール5世に与するアルフォンソ1世・デステを自陣に引き入れるためやむなく、彼をコニャック同盟軍の総指揮官とすること、彼の子息エルコーレ2世・デステにカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)を与えること、彼にモデナを返還することなどの和解条項をフランチェスコ・グイッチャルディーニを介して提示するが受容されずに終わる。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1532年12月15~20日
クレメンス7世とカール5世、ボローニャで断続的に会見。カール5世は、(19ドイツの宗教上の対立を解決する唯一の策としての公会議の即時開催、(2)ジェノヴァ及びミラノをフランソワ1世から防衛するためのイタリア同盟の締結、(3)ミラノ防衛のためのカトリーヌ・ド・メディシスとフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとの結婚を提案。
クレメンス7世は、(1)についてはキリスト教君主、諸侯、都市の事前の了解が必要との口実で回答を引き延ばし、(3)についてはフランソワ1世との合意を盾に回答を渋るなど、会見はカール5世の意を満たさぬ状態を続ける。但しカール5世は、3についてはフランソワ1世がメディチ家などとの婚姻を重視することはあるまいと楽観。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年5月3日
クレメンス7世とフランソワ1世の2名の全権使節François de TournonとG. de Gramont、アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世とフランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。
1533年10月27日
クレメンス7世とフランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスとアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世、メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。
1533年
アンリ2世と結婚。
1544年9月
クレピーの和の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、フランソワ1世宮廷に特使を送って祝意を表させ、カトリーヌ・ド・メディシスにも表敬させるが、特使は冷遇されてすぐ帰国。
1547年3月31日
フランソワ1世死——第二子アンリ2世(1519年~)、フランス王に即位し、アンリ2世を名乗る。
これに伴いカトリーヌ・メディシス、フランス王妃となる。
1548年
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、Henri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・Lorge伯Gabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシス、Elisabeth de France、メアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1560年12月5日
フランソワ2世死——弟シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。
これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。
1561年1月28日
ヴァロワ王家・王権を安定させる唯一の法と王の下にカトリックとユグノーを融和・共存させようと狙うカトリーヌ・メディシス、全国の高等法院に親書を送り、信仰上の理由で捕らえられている者の釈放と宗教裁判による異端追放の延期を命ずる(オルレアンの勅令)。
1561年9月
カトリーヌ・メディシス、ポワシーでカトリック・ユグノー両派の宗教会議を主催。しかしD. Laynez、Charles de Guiseらカトリック代表とT. de Bèzeらユグノー代表との論争、決裂。
1562年1月17日
カトリーヌ・メディシス、シャルル9世の名で、ユグノーの説教礼拝を都市市壁外で自由に許し、市壁内でも私邸内に限って認める勅令を発する(一月王令)。しかし高等法院がこの勅令の登録を拒否し、ギーズ一門がこれを断乎排斥する姿勢を固めるなど、カトリック・ユグノー両派の融和を狙うカトリーヌ・メディシスの企図に反し両派の対立、さらに深まる。
1562年8月8日
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、カトー・カンブレジの和(1559年)では故アンリ2世から取り戻せなかった地点の内、ピネローロなどを除くトリノ、キエーリ、キヴァッソ、ヴィッラノーヴァ・ダスティの返還をカトリーヌ・メディシスに認めさせることに、フランスの宗教的・政治的混乱を利用し妃マルグリット・ド・ヴァロワの助力を得ながら成功(ブロワ協定)。
1562年12月12日
フランス勢力、軍と共にトリノを最終的に撤退。
1563年3月19日
カトリーヌ・メディシス、全ての臣下に信仰の自由を認め、上級貴族には自宅における家族・家臣の礼拝の自由を、一般市民・農民には大法官管轄区に設置された教会堂における礼拝の自由を認めるがパリでは新教の礼拝を一切、認めないことなどを内容とする新旧両派和解のための勅令をアンボワーズで発布(アンボワーズ和解王令)。第1次(フランス)宗教戦争、終わる(1562年~)。
1565年6月14日~7月2日
カトリーヌ・メディシス、シャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。
1568年8月
カトリック・ユグノー両派の融和・共存策を断念したカトリーヌ・メディシス、王総代理官アンリ3世にLouis I de BourbonとG. de Colignyを奇襲させるが失敗に終わる。後者らLa Rochelleに籠城し第3次(フランス)宗教戦争、始まる(~1570年)。
1572年8月23日~8月24日
サン・バルテルミーの虐殺:Henri de NavarreとMarguerite de Franceの結婚祝賀行事でパリに留まっていた各地のユグノー貴族・指導者たち、カトリーヌ・メディシスの巧みで強い教唆を受けたシャルル9世の命により、夜半からギーズ一門の兵士と暴徒に襲撃・虐殺される。Henri de Navarreは難を免れパリから逃亡するが、G. de Colignyがサン・バルテルミーの祭日の未明、ギーズ公Henri de Lorraine自身に率いられた彼の手の者により真っ先に刺殺される(1519年~)など犠牲者は3~4千名にのぼり、ユグノーは主な指導者を全て失う。
さらに組織的弾圧・殺戮が各地に広まり、犠牲者は1万名ののぼって「キリスト磔刑以来の虐殺」と評される事態の中、ユグノーは民衆を中心として組織的抵抗を続ける(第4次(フランス)宗教戦争(~1573年))。
この虐殺に驚愕し危機感を深めるユグノーの間に、この暴政を行う王に対する反抗を正統化する論拠を、まず聖書の中に、次いで聖書の枠を超えて広く求める動きが直ちに生じ、Monarchomachi(暴君放伐論派:モナルコマキ)と総称されることになる政治理論家が生成。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世とマクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleでLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世・マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1572年
サン・バルテルミーの虐殺、新旧両教の対立激化。
1573年3月7日
レパント沖の海戦(1571年)による勝利後、一方で同盟国スペイン・フェリペ2世と東地中海における相互の地位などを巡って両立困難な状態に陥り、他方で、水軍を再建して再び立ち向かう姿勢を見せるオスマン・トルコの前に孤立し始めたヴェネツィア、カトリーヌ・メディシスの仲介でオスマン・トルコと、オスマン・トルコのキプロス島及びダルマシアの領有(1540年~)の継続、相互の特権付与、などを含む単独講和をイスタンブール(コンスタンティノープル)で締結。
外部リンク
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世界帝王事典
そらのお城
歴史データベース
Genealogy.EU
参考文献
『イタリア史』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界悪女大全』
『中世の食卓から』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『馬車の文化史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ローマ教皇検死録』
マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ Maria Lucrecia de' Medici
- 生没
- 1540年4月3日~1557年11月19日
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
概要
マリーア・ルクレツィア・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
年表
1556年
アルフォンソ2世・デステと婚約。
外部リンク
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Famille de Carné
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスコ1世・デ・メディチ Francesco de' Medici
- 生没
- 1541年3月25日~1587年10月19日
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
- 妻
- ジョヴァンナ・ダズブルゴ
ビアンカ・カッペッロ - 子
- エレオノーラ・デ・メディチ
ローモラ・デ・メディチ
イザベッラ・デ・メディチ
アナ・デ・メディチ
マリー・ド・メディシス
フィリッポ・デ・メディチ
アントーニオ・デ・メディチ
概要
フランチェスコ1世・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性、トスカーナ大公。
在位
トスカーナ大公 1574年~1587年
年表
1541年3月25日
コジモ1世・デ・メディチの長子フランチェスコ1世・デ・メディチ生(~1587年)。
1548年
コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァのフェリペ2世のもとに長子フランチェスコ1世・デ・メディチを名代として送り、巨額の金品を貢納。
1564年5月1日
コジモ1世・デ・メディチ、公の名称と重要人事事件などの最高指揮権とを保持しながらも、通常の政務の実権を長子フランチェスコ1世・デ・メディチに委譲。1564年6月11日以降アレッサンドロ・デ・メディチは摂政的な位置を占める。
1565年12月16日
1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。
この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィッツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。
1565年12月18日
ジョヴァンナ・ダズブルゴと結婚。
1574年4月21日
コジモ1世・デ・メディチ、近郊カステッロの別荘で死——長子フランチェスコ1世・デ・メディチ(1541年~1587年)、フランチェスコ1世・デ・メディチとしてトスカーナ大公となる(在位1574年~1587年)。(但し、マクシミリアン2世は翌1575年11月2日ようやくトスカーナ大公の称号を承認)。
1584年6月30日
ナポレオーネ・カンビにルチア・ガニョランティの持参金として千スクードをジューリオ・カッチーニに支払うよう命ずる。
肖像
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
参考文献
『愛の年代記』
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Bibliotechina Grassoccia』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ Isabella Romola de' Medici
- 生没
- 1542年~1576年
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
- 夫
- パオロ・ジョルダーノ・オルシーニ
概要
イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
年表
1558年9月3日(土)
結婚式。
外部リンク
参考文献
『愛の年代記』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルクレツィア・デ・メディチ Lucrezia de' Medici
- 生没
- 1544年2月14日~1561年4月21日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
- 夫
- アルフォンソ2世・デステ
概要
ルクレツィア・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
年表
1558年6月18日
コジモ1世・デ・メディチ、フェリペ2世とエルコーレ2世・デステの和解(1558年5月)の保障として娘ルクレツィア・デ・メディチ(1545年~1561年)をエルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステに与え、この日、その結婚式をフィレンツェで盛大に挙行。
1558年7月3日(日)
結婚。
1561年4月21日
フェッラーラにて、死。
墓
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
そらのお城
Genealogy.EU
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アントーニオ・デ・メディチ Antonio de' Medici
- 生没
- 1545年~
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
概要
アントーニオ・デ・メディチは、16世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
ピエロ・デ・メディチ Piero de' Medici
- 生没
- 1546年8月10日~1547年6月10日
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
概要
生まれて直ぐ死亡している。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
ガルツィア・デ・メディチ Garzia de' Medici
- 生没
- 1547年7月1日~1562年12月12日
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
概要
ガルツィア・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性。
年表
1562年12月12日
病死。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フェルディナンド1世・デ・メディチ Ferdinand de' Medici
- 生没
- 1549年7月30日~1609年2月22日
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- エレオノーラ・ディ・トレド
- 妻
- クリスティーヌ・ド・ロレーヌ
- 子
- コジモ2世・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
エレオノーラ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
カルロ・デ・メディチ
マッダレーナ・デ・メディチ
ロレンツォ・ディ・フェルディナンド・デ・メディチ
クラウディア・デ・メディチ
概要
フェルディナンド1世・デ・メディチは、16世紀から17世紀の男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1563年1月6日~1588年
任命した教皇:ピウス4世
年表
1549年7月30日
コジモ1世・デ・メディチの第二子フェルディナンド1世・デ・メディチ生(1549年~1609年:枢機卿在位1563年~1588年:トスカーナ大公在位1587年~1609年)。
肖像
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
Genealogy.EU
kleio.org
The Cardinals of the Holy Roman Church
Web Gallery of Art
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lost Girls』
ピエトロ・デ・メディチ Pietro de' Medici
- 生没
- 1554年~1604年
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 妻
- エレオノーラ・ディ・トレド
ベアトリーチェ・メネセス - 子
- コジモ・デ・メディチ
概要
ピエトロ・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
年表
1571年4月21日
結婚。
別表記
ピエロ
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『愛の年代記』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヴィルジーニア・デ・メディチ Virginia de' Medici
- 生没
- 1568年~1615年
- 父
- コジモ1世・デ・メディチ
- 母
- カミッラ・マルテッリ
- 夫
- チェーザレ・デステ
- 子
- ジューリア・デステ
アルフォンソ3世・デステ
ルイジ・デステ
ラウラ・デステ
カテリーナ・デステ
イッポーリト・デステ
ニッコロ・デステ
ボルソ・デステ
フォレスト・デステ
アンジェラ・デステ
概要
ヴィルジーニア・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
年表
別表記
ヴィルギニア
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Geni.com
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ジューリオ・デ・メディチ Giulio de' Medici
- 生没
- ?~1600年
- 父
- アレッサンドロ・デ・メディチ
- 母
- アンナ・ダ・マッサ
概要
ジューリオ・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
年表
1537年1月7日
早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。
夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。
直ちにインノチェンツォ・チーボはチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチを後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。
夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチをDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリもフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジューリア・デ・メディチ Giulia de' Medici
- 父
- アレッサンドロ・デ・メディチ
- 母
- アンナ・ダ・マッサ
- 夫
- フランチェスコ・カンテルモ
ベルナルド・デ・メディチ
年表
1559年
ベルナルド・デ・メディチと結婚。
外部リンク
Public Broadcasting Service
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
ポルツィア・デ・メディチ Porzia de' Medici
- 生没
- 1538年~1565年
- 父
- アレッサンドロ・デ・メディチ
- 母
- アンナ・ダ・マッサ
概要
ポルツィア・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
エレオノーラ・デ・メディチ Eleonora de' Medici
- 生没
- 1567年2月28日~1611年9月9日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- カヴリアーナ
- 父
- フランチェスコ1世・デ・メディチ
- 母
- ジョヴァンナ・ダズブルゴ
- 夫
- ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
概要
エレオノーラ・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
年表
1567年2月28日
フィレンツェで誕生。(1565年、1566年3月1日、1567年)
1580年
結婚相手としてヴィンチェンツォ・ゴンザーガが選ばれる。しかしゴンザーガ家から、百万ドゥカートもの莫大な持参金と、宮廷及び外交官の間において上席を占めることを要求される。
1581年3月2日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガはマルゲリータ・ファルネーゼと結婚。
1583年5月26日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガとマルゲリータ・ファルネーゼが離婚。
1583年
再び、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガとの縁談が持ち上がる。今度は、どちらの外交官が宮廷において上席を占めるかは持ち出されず、前回よりももっと少ない額の持参金をメディチ家が提示。また、前回恥をかかされた復讐のためか、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの男性能力を証明することを要求。
1584年4月29日(日)
マントヴァでヴィンチェンツォ・ゴンザーガと結婚。持参金は30万スクード。
1584年6月
花婿のヴィンチェンツォ・ゴンザーガと共にヴェネツィアを公式訪問、大歓迎を受ける。
1611年9月9日
カヴリアーナで死去。(1611年9月19日)
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Famille de Carné
Find A Grave
Genealogy
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
The Medici Archive Project
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
マリー・ド・メディシス Marie de Médicis
- 生没
- 1573年~1642年
- 父
- フランチェスコ1世・デ・メディチ
- 母
- ジョヴァンナ・ダズブルゴ
- 夫
- アンリ4世
- 子
- ルイ13世
エリザベト
ガストン
アンリエット・マリー
概要
マリー・ド・メディシスは、16世紀から17世紀の女性。
年表
別表記
マリ・ドゥ・メディシス、マリア・ド・メディチ、Maria
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『馬車の文化史』
『服飾の中世』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス舞踊紀行』
『Pompeo Caccini and Euridice』
フェルディナンド2世・デ・メディチ Ferdinando II de' Medici
- 生没
- 1610年7月14日~1670年5月23日
- 父
- コジモ2世・デ・メディチ
- 母
- マリーア・マッダレーナ・ダウストリア
- 妻
- ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ
- 子
- コジモ3世・デ・メディチ
概要
フェルディナンド2世・デ・メディチは、17世紀~18世紀のイタリアの男性。
在位
第5代トスカーナ大公 1621年~1670年
年表
外部リンク
マルゲリータ・デ・メディチ Margherita de' Medici
- 生没
- 1612年3月31日~1679年2月6日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- パルマ
- 父
- コジモ2世・デ・メディチ
- 母
- マリーア・マッダレーナ・ダウストリア
- 夫
- オドアルド1世・ファルネーゼ
- 子
- カテリーナ・ファルネーゼ
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
オラツィオ・ファルネーゼ
カテリーナ・ファルネーゼ
マリーア・マッダレーナ・ファルネーゼ
ピエトロ・ファルネーゼ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
概要
マルゲリータ・デ・メディチは、17世紀のイタリアの女性。
外部リンク
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ Anna Maria Luisa de' Medici
- 生没
- 1667年8月11日~1743年2月18日
- 父
- コジモ3世・デ・メディチ
- 母
- マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス
概要
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチは、17世紀~18世紀のイタリアの女性。
別表記
アンナ・マリーア・ルドヴィーカ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
パオロ・デ・メディチ Paolo de' Medici
- 生没
- 1???年~1340年10月27日以降
- 子
- パガーノ・デ・メディチ
概要
パオロ・デ・メディチは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
パガーノ・デ・メディチ Pagano de' Medici
- 生没
- 13??年~1399年頃
- 父
- パオロ・デ・メディチ
- 子
- フランシスコロ・デ・メディチ
パオロ・デ・メディチ
ヤコピーノ・デ・メディチ
ヴァレンテ・デ・メディチ
ジョヴァノロ・デ・メディチ
概要
パガーノ・デ・メディチは、14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコピーノ・デ・メディチ Jacopino de' Medici
- 生没
- 13??年~1411年以降
- 父
- パガーノ・デ・メディチ
- 子
- ジョヴァンニーノ・デ・メディチ
クリストフォロ・デ・メディチ
ガスパーレ・デ・メディチ
ガルヴァーノ・デ・メディチ
概要
ヤコピーノ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
クリストフォロ・デ・メディチ Cristoforo de' Medici
- 生没
- 1???年~1415年11月4日以降
- 父
- ヤコピーノ・デ・メディチ
- 子
- ガブリエーレ・デ・メディチ
ヤコポ・デ・メディチ
パガーノ・デ・メディチ
概要
クリストフォロ・デ・メディチは、14~15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・デ・メディチ Jacopo de' Medici
- 生没
- 1???年~1447年以降
- 父
- クリストフォロ・デ・メディチ
- 子
- クリストフォロ・デ・メディチ
概要
ヤコポ・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
クリストフォロ・デ・メディチ Cristoforo de' Medici
- 生没
- 1???年~1463年11月3日以降
- 父
- ヤコポ・デ・メディチ
- 子
- ジャン・ヤコポ・デ・メディチ
概要
クリストフォロ・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ Gian Jacopo de' Medici
- 生没
- 1???年~1470年12月30日以降
- 父
- クリストフォロ・デ・メディチ
- 妻
- クラーラ・ライノルディ
- 子
- ベルナルディーノ・デ・メディチ
概要
ジャン・ヤコポ・デ・メディチは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ベルナルディーノ・デ・メディチ Bernardino de' Medici
- 生没
- 1???年~1519年
- 父
- ジャン・ヤコポ・デ・メディチ
- 母
- キアラ・ライノルディ
- 妻
- クレーリア・セルベッローニ
- 子
- ジャン・ヤコポ・デ・メディチ
ピウス4世
マルゲリータ・デ・メディチ
キアラ・デ・メディチ
アウグスト・デ・メディチ
概要
ベルナルディーノ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1496年11月10日
クレーリア・セルベッローニとの結婚契約書に署名。
別表記
Bernardino Medici di Nosigia
外部リンク
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ Gian Jacopo de' Medici
- 生没
- 1498年1月25日~1555年11月8日
- 父
- ベルナルディーノ・デ・メディチ
- 母
- クレーリア・セルベッローニ
- 妻
- マルツィア・オルシーニ
概要
ジャン・ヤコポ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1554年8月2日
夜ジャン・ヤコポ・デ・メディチを迎え全市を挙げて盛大な戦勝祝賀行事が繰り広げられる。
1554年12月24/25日
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ、全軍を挙げてシエナを攻撃するが市内に入城できず。
1555年4月17日
1554年来のジャン・ヤコポ・デ・メディチ軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していたアンリ2世からの援軍も得られないでいるシエナ、特使Niccolò Sergardi、Camillo d' Elei、Lelio Pecci、Agostino Bardiをコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)カール5世の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用でカール5世軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。
1555年4月21日~5月2日
モンルックの君主Blaise de Lasseren de Massancome(1502年頃~1577年)指揮のアンリ2世軍、シエナ市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共にシエナを去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。
間もなく代わってジャン・ヤコポ・デ・メディチ麾下のカール5世軍が市内に入り、シエナは実質上コジモ1世・デ・メディチの支配下に陥る。
1555年6月16日
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ、ピエロ・ストロッツィらアンリ2世軍のみ残るポルト・エルコーレなどを制圧。ピエロ・ストロッツィは逃亡するが、ポルト・エルコーレに留まっていたシエナの亡命者は捕えられ、指導者はフィレンツェに送られて斬首される。
別表記
Gian Giacomo Medici (il Medeghino)
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マルゲリータ・デ・メディチ Margherita de' Medici
- 生没
- 1510年~1547年頃
- 父
- ベルナルディーノ・デ・メディチ
- 母
- クレーリア・セルベッローニ
- 夫
- ジベルト2世・ボッロメオ
- 子
- フェデリーコ・ボッロメオ
ヴィタリアーノ・ボッロメオ
カルロ・ボッロメオ
カミッラ・ボッロメオ
ジローニマ・ボッロメオ
イザベッラ・ボッロメオ
概要
マルゲリータ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの女性。
年表
1529年
ジベルト2世・ボッロメオと結婚。
外部リンク
アントーニオ・デ・メディチ Antonio de' Medici
概要
アントーニオ・デ・メディチは、15世紀頃のフィレンツェの男性。
年表
1480年11月20日
フェッランテ・ダラゴーナの勧告に従い、シクストゥス4世に謝罪し許しを乞うフランチェスコ・ソデリーニ、ルイジ・グイッチャルディーニ、ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ、ピエロ・ミネルベッティ、グイダントーニオ・ヴェスプッチ、ジーノ・カッポーニ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ドメニコ・パンドルフィーニ、ヤコポ・ランフレディーニ、ピエロ・メッリーニ、アントーニオ・デ・メディチら12名からなる使節団をローマに送る。
1480年12月3日
フィレンツェ使節団は、ようやくシクストゥス4世に謁見を許され、その前で地にひれ伏して謝罪(1480年12月13日)。キリスト教徒としての不従順は、政治的な正当防衛だったと釈明し、自分たちの大聖堂や政庁で冒涜され辱められたのだという点について念を押した。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年8月16日