Petrucci

ペトルッチ家

アントネッロ・ペトルッチ Antonello Petrucci

生没
1420年代~
出身
テアーノ
没地
ナポリ
エリザベッタ・ヴァッサッロ
フランチェスコ・ペトルッチ
ジョヴァンニ・ペトルッチ
概要

 アントネッロ・ペトルッチは、ナポリフェッランテ・ダラゴーナの秘書。

年表

1450年
1450年代にナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンに書記長として雇用される。
14??年
ナポリフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵に叙される。
1486年8月13日
マルコ・コッポラの結婚式のためカステル・ヌオーヴォに招待され、大広間に兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして妻エリザベッタ・ヴァッサッロと共に逮捕され投獄され、また私財を没収される。
息子カリノーラ伯フランチェスコ・ペトルッチは結婚式に参列せず、領地のカリノーラで逮捕され、抵抗することなくナポリに連行される。
1486年8月16日
少なくとも5人の子がおり、内4人は加担していなかったことが明白だったため、この日釈放される。

別表記

 アントネロ、Antonello d'Aversa

外部リンク

 Treccani
 Treccani
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』

ボルゲーゼ・ペトルッチ Borghese Petrucci

生没
1490年~1526年
出身
シエナ
没地
ナポリ
パンドルフォ・ペトルッチ
ヴィットーリア・トデスキーニ
概要

 ボルゲーゼ・ペトルッチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 シエナの君主 1512年~1516年
  先代:パンドルフォ・ペトルッチ

年表

1512年5月21日
パンドルフォ・ペトルッチ死。——ボルゲーゼ・ペトルッチシエナの君主となる(在位1512年~1516年)。
ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していたマクシミリアン1世ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。
1516年3月10日
シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチロレンツォ・デ・メディチシエナの傭兵隊長とする。
1517年4月初旬
レオ10世より追放された(1516年3月)シエナの前君主ボルゲーゼ・ペトルッチの弟・枢機卿アルフォンソ・ペトルッチ(1492年~1517年)、他の枢機卿4名を誘ってレオ10世毒殺の陰謀を練っていたが発覚。
レオ10世から一切を許すとの言質を与えられて、5月19日、ヴァティカン宮殿に出頭したところを捕らえられ、1517年6月22日聖職位剥奪の上、1517年7月4日サンタンジェロ城で絞殺され、彼の秘書、協力者2名も、1517年6月27日処刑される。他の4名の枢機卿の内2名は聖職を剥奪され、2名は大金を払って特赦される。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史Ⅴ』
 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

チェーザレ・ペトルッチ Cesare Petrucci

概要

 チェーザレ・ペトルッチは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1478年3月~4月

年表

1478年4月26日
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

別表記

 チェーザレ・デ・ペトルッツィ

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ラッファエーレ・ペトルッチ Raffaele Petrucci

生没
1472年~1522年12月11日
出身
シエナ
没地
ローマ
ヤコポ・ペトルッチ
概要

 ラッファエーレ・ペトルッチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1517年7月1日~
     任命した教皇:レオ10世

別表記

 ラファエロ・ペトルッチ

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アルフォンソ・ペトルッチ Alfonso Petrucci

生没
1491/92年~1517年7月16日
パンドルフォ・ペトルッチ
概要

 アルフォンソ・ペトルッチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1511年3月10日~1517年7月16日
     任命した教皇:ユリウス2世

年表

1517年4月初旬
レオ10世より追放された(1516年3月)シエナの前君主ボルゲーゼ・ペトルッチの弟・枢機卿アルフォンソ・ペトルッチ(1492年~1517年)、他の枢機卿4名を誘ってレオ10世毒殺の陰謀を練っていたが発覚。
レオ10世から一切を許すとの言質を与えられて、5月19日、ヴァティカン宮殿に出頭したところを捕らえられ、1517年6月22日聖職位剥奪の上、1517年7月4日サンタンジェロ城で絞殺され、彼の秘書、協力者2名も、1517年6月27日処刑される。他の4名の枢機卿の内2名は聖職を剥奪され、2名は大金を払って特赦される。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

フランチェスカ・ペトルッチ Francesca Petrucci

パンドルフォ・ペトルッチ
オラーツィオ・バリオーニ
参考文献

 『イタリア史Ⅴ』

ヤコポ・ペトルッチ Jacopo Petrucci

生没
~1497年
バルトロメオ・ペトルッチ
ラッファエーレ・ペトルッチ
概要

 ヤコポ・ペトルッチは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 Giacoppo Petrucci

バルトロメオ・ペトルッチ Bartolomeo Petrucci

パンドルフォ・ペトルッチ
ヤコポ・ペトルッチ

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月22日