Savoia

サヴォイア家

トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア Tommaso II di Savoia

生没
1199年~1259年2月1日
出身
モンメリアン城
没地
サヴォイア伯国シャンベリ
トンマーゾ1世・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・ド・ジュネーヴ
ジャンヌ・ド・エノー
ベアトリーチェ・フィエスキ
トンマーゾ・ディ・サヴォイア
トンマーゾ3世・ディ・サヴォイア
アメデーオ5世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイア
エレオノーラ・ディ・サヴォイア
アリーチェ・ディ・サヴォイア

概要

 トンマーゾ2世・ディ・サヴォイアは、12世紀~13世紀のイタリアの男性。

年表

1237年4月2日

ジャンヌ・ド・エノーと結婚。

1245年

ベアトリーチェ・フィエスキと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

トンマーゾ3世・ディ・サヴォイア Tommaso III di Savoia

生没
1248年8月~1282年5月16日
没地
サン・ジネージオ
トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・フィエスキ
グヤ・ド・シャロン
フィリッポ1世・ディ・サヴォイア
ピエトロ・ディ・サヴォイア
トンマーゾ・ディ・サヴォイア
グリエルモ・ディ・サヴォイア
アメーデオ・ディ・サヴォイア
ランチェッロット・ディ・サヴォイア
フランチェスコ・ディ・サヴォイア
ニコラ・ディ・サヴォイア

概要

 トンマーゾ3世・ディ・サヴォイアは、13世紀のイタリアの男性。

年表

1272年5月

グヤ・ド・シャロンと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アメデーオ5世・ディ・サヴォイア Amedeo V di Savoia

生没
1249年9月4日~1323年10月16日
出身
ボルゲット
没地
アヴィニョン
トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・フィエスキ
シビラ・ド・ボジェ
マリー・ド・ブラバン
ボーナ・ディ・サヴォイア
エレオノーラ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンニ・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
マルゲリータ・ディ・サヴォイア
エドアルド1世・ディ・サヴォイア
アニェーゼ・ディ・サヴォイア
アイモーネ1世・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
カテリーナ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア

概要

 アメデーオ5世・ディ・サヴォイアは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

年表

1272年7月5日

シビラ・ド・ボジェと結婚。

1297年4月

マリー・ド・ブラバンと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

フィリッポ1世・ディ・サヴォイア Filippo I di Savoia

生没
1274年~1334年9月23日
出身
スーザ
トンマーゾ3世・ディ・サヴォイア
グヤ・ド・シャロン
イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン
カトリーヌ・ラ・トゥール・デュ・パン
マリーア・ディ・サヴォイア
マルゲリータ・ディ・サヴォイア
アリーチェ・ディ・サヴォイア
ベトリーチェ・ディ・サヴォイア
エレオノーラ・ディ・サヴォイア
ヤコポ1世・ディ・サヴォイア
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア
アメーデオ・ディ・サヴォイア
トンマーゾ・ディ・サヴォイア
エドアルド・ディ・サヴォイア
イザベッラ・ディ・サヴォイア
アニェーゼ・ディ・サヴォイア
アイモーネ・ディ・サヴォイア
リナルド・ディ・サヴォイア
アントーニオ・ディ・サヴォイア
ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
アンセルモ・ディ・サヴォイア
エンリケッタ・フランチェスカ・ディ・サヴォイア

概要

 フィリッポ1世・ディ・サヴォイアは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

年表

1301年2月2日

ローマにて、イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンと結婚。

1312年5月7日以降

マルグリット・ド・ボジューと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アイモーネ1世・ディ・サヴォイア Aimone I di Savoia

生没
1291年12月15日~1343年6月22日
出身
ブール・カン・ブレス
没地
モンメリアン城
アメデーオ5世・ディ・サヴォイア
シビラ・ド・ボジェ
ヨランダ・パレオロガ
アメデーオ6世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンニ・ディ・サヴォイア
カテリーナ・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ウンベルト・ディ・サヴォイア
オッジェーロ・ディ・サヴォイア
アメデーオ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンニ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
ドナータ・ディ・サヴォイア

概要

 アイモーネ1世・ディ・サヴォイアは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

年表

1330年5月1日

カザーレ・モンフェッラートにて、ヨランダ・パレオロガと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ヤコポ1世・ディ・サヴォイア Jacopo I di Savoia

生没
1315年1月6日~1367年5月14日
没地
ピネローロ
フィリッポ1世・ディ・サヴォイア
カトリーヌ・ラ・トゥール・デュ・パン
ベアトリーチェ・デステ
シビッラ・デル・バルツォ
マルグリット・ド・ボジュー
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
アメーデオ1世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイア
アントーニオ・ディ・サヴォイア
ブラケットー・ディ・サヴォイア

概要

 ヤコポ1世・ディ・サヴォイアは、14世紀のイタリアの男性。

年表

1315年1月6日

生(1315年1月16日)。

1338年1月

ベアトリーチェ・デステと結婚。

1339年6月9日

シビッラ・デル・バルツォと結婚。

1362年7月16日

マルグリット・ド・ボジューとの結婚契約書を結ぶ。

1367年7月18日

教皇により、マルグリット・ド・ボジューと結婚を許可される。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アメデーオ6世・ディ・サヴォイア Amedeo VI di Savoia

生没
1334年1月4日~1383年3月1日
出身
サヴォイア伯国シャンベリ
没地
サント・ステファノ
アイモーネ1世・ディ・サヴォイア
ヨランダ・パレオロガ
ボンヌ・ド・ブルボン
アメデーオ7世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アントーニオ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア

概要

 アメデーオ6世・ディ・サヴォイアは、14世紀のイタリアの男性。

年表

1355年8月

パリにて、ボンヌ・ド・ブルボンと代理結婚。

1355年9月

シャンベリにて、ボンヌ・ド・ブルボンと結婚。

1364年

ウルバヌス5世から黄金の薔薇を拝受。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイア Ludovico I di Savoia

生没
13??年~1418年12月11日
没地
サヴォイア公国トリノ
ヤコポ1世・ディ・サヴォイア
マルグリット・ド・ボジュー
ボーナ・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アツァーノ・ザッカーリア・ディ・サヴォイア

概要

 ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイアは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1403年7月24日

ボーナ・ディ・サヴォイアと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アメデーオ7世・ディ・サヴォイア Amedeo VII di Savoia

生没
1360年2月24日~1391年11月1日
出身
サヴォイア伯国シャンベリ
没地
トノン・レ・バン
アメデーオ6世・ディ・サヴォイア
ボンヌ・ド・ブルボン
ボンヌ・ド・ベリー
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
ボーナ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア
ウンベルト・ディ・サヴォイア
ジョヴァンネッタ・ディ・サヴォイア

概要

 アメデーオ7世・ディ・サヴォイアは、14世紀のイタリアの男性。

年表

1372年5月7日

ヴァランスにて、ボンヌ・ド・ベリーとの結婚契約書を結ぶ。

1377年1月18日

パリにて、ボンヌ・ド・ベリーと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア Ludovico di Savoia

生没
1390年頃~1459年
ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイア
アリス・ド・モンベル
フランチェスコ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ルチア・ディ・サヴォイア
バルバーラ・ディ・サヴォイア
アリーチェ・ディ・サヴォイア

概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、庶子。

在位

 パンカリエーリ領主 1407年~

年表

1412年11月3日

アリス・ド・モンベルと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アメーデオ8世・ディ・サヴォイア Amedeo VIII di Savoia

生没
1383年9月4日~1451年1月7日
出身
シャンベリ
アメデーオ7世・ディ・サヴォイア
ボンヌ・ド・ベリー
マリー・ド・ブルゴーニュ
マリーア・ディ・サヴォイア
アメデーオ・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
マルゲリータ・ディ・サヴォイア
フィリッポ・ディ・サヴォイア

概要

 アメーデオ8世・ディ・サヴォイアは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、聖職者。対立教皇フェリクス5世。

在位

 第1代サヴォイア公アメーデオ8世 1416年~1440年
 対立教皇フェリクス5世 1439年~1449年
 枢機卿 1449年4月23日~1451年1月7日
     任命した教皇:ニコラウス5世

年表

1426年7月

ヴェネツィアと同盟を結び、ヴェネツィア・フィレンツェ陣営に加わる。

1427年12月2日

フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティからVercelliを貰い、娘マリーア・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結婚しかつその子にミラノを継承させることをトリノで約定し、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営から離れる。

1439年11月5日

バーゼルの分離公会議、アメーデオ8世・ディ・サヴォイアを対立教皇フェリクス5世として選出(在位1439年~1449年)。

1440年1月6日

1439年11月フェリクス5世として対立教皇に即位したアメーデオ8世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公位を退く(在位1416年~)——ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア(1413年~)、サヴォイア公となる(在位1465年)。

1441年6月24日

対立教皇フェリクス5世の戴冠式、バーゼルで盛大に挙行される。

1449年1月18日

ニコラウス5世フェリクス5世に対し、ローザンヌ分離公会議とその支持者への財産没収、破門、処罰、停職処分を中止し、フェリクス5世には枢機卿として他の枢機卿に勝る高位を与え、フェリクス5世の任命した枢機卿にはそれぞれに応分の高位を与えるとの勅書を送る。

1449年4月7日

フェリクス5世、対立教皇位を辞す(在位1439年~)。

1451年1月7日

死(1451年1月6日)。

紋章

別表記

 アミーデオ、サヴォイア公爵アマデウス、フェリックス5世、Amideoil Pacifico

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ローマ教皇検死録』

ボーナ・ディ・サヴォイア Bona di Savoia

生没
1388年10月11日~1432年3月4日
没地
ストゥピニジ城
アメデーオ7世・ディ・サヴォイア
ボンヌ・ド・ベリー
ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイア

概要

 ボーナ・ディ・サヴォイアは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。

年表

1403年7月24日

ルドヴィーコ1世・ディ・サヴォイアと結婚。

外部リンク

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フランチェスコ・ディ・サヴォイア Francesco di Savoia

生没
14??年~1503年1月1日以前
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アリス・ド・モンベル
カトリーヌ・ド・セセル
マリーア・ディ・サヴォイア
クラウディオ・ディ・サヴォイア
アンニーバレ・ディ・サヴォイア
ベルナルディーノ・ディ・サヴォイア

概要

 フランチェスコ・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 パンカリエーリ領主

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

マリーア・ディ・サヴォイア Maria di Savoia

生没
1411年~1469年
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ

概要

 マリーア・ディ・サヴォイアは、15世紀のイタリアの女性。彼女のために建てられた城の一画に閉じ込められたまま暮らし、仕えるのは全員女であった。夫に握られた手は洗わないほど夫を愛したと伝えられている。

年表

1428年10月29日

36歳のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結婚。

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参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア Ludovico di Savoia

生没
1413年2月21日~1465年1月29日
出身
サヴォイア公国ジュネーヴ
没地
フランス王国リヨン
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
マリー・ド・ブルゴーニュ
アンヌ・ド・リュジニャン
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
マルゲリータ・ディ・サヴォイア
ジアーノ・ディ・サヴォイア
カルロッタ・ディ・サヴォイア
アイモーネ・ディ・サヴォイア
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ヤコポ・ディ・サヴォイア
アニェーゼ・ディ・サヴォイア
ピエトロ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンニ・ルイジ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
ボーナ・ディ・サヴォイア
ヤコポ・ディ・サヴォイア
アンナ・ディ・サヴォイア
フランチェスコ・ディ・サヴォイア

概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第2代サヴォイア公 1440年~1465年

年表

1440年1月6日

1439年11月フェリクス5世として対立教皇に即位したアメーデオ8世・ディ・サヴォイアサヴォイア公位を退く(在位1416年~)——ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア(1413年~)、サヴォイア公となる(在位1465年)。

1447年8月18日

内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。

しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。

この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。

フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワ(1394年~1465年:オルレアン公在位1407年~1465年)は自分の母ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート侯ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。

1449年12月末

フランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノ継承請求者の一人ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと和をもって後方の安全を確保した上でミラノ包囲、兵糧攻め態勢を固め狭めようと図る。

1450年1月20日

この日までにフランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノの包囲、兵糧攻めをますます狭める一方、ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと、パヴィア、アレッサンドリア及びノヴァーラの城塞を譲ることなどを約して協定し、後方の安全を確保。

1451年3月6日

この日?、ヴェネツィアとナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、同盟を結び、反ミラノ、反フィレンツェの方針をさらに進め、それぞれの領国からのフィレンツェ商人の追放も決める。間もなくこの同盟にサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアモンフェッラート侯ジョヴァンニ及びシエナが加入。

1465年1月29日

サヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア死(1413年~:在位1440年~)——長子アメーデオ9世・ディ・サヴォイア(1435年~)、サヴォイア公となる(在位~1472年)。

埋葬地

 ジュネーブ、聖フランチェスコ教会

別表記

 第2代サヴォイア公ロドヴィーコ、サヴォイ公ルイ

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

クラウディオ・ディ・サヴォイア Claudio di Savoia

生没
14??年~1521年1月7日少し前
フランチェスコ・ディ・サヴォイア
カトリーヌ・ド・セセル
イッポーリタ・ボッロメオ
ベルナルディーノ1世・ディ・サヴォイア
アントーニオ・ルイジ・ディ・サヴォイア

概要

 クラウディオ・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 パンカリエーリ領主

年表

1476年

イッポーリタ・ボッロメオと結婚(1478年)。

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アメーデオ9世・ディ・サヴォイア Amedeo IX di Savoia


生没
1435年2月1日~1472年3月30日
出身
トノン・レ・バン
没地
ヴェルチェッリ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ヨランド・ド・ヴァロワ
アンナ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
フィリベルト1世・ディ・サヴォイア
カルロ1世・ディ・サヴォイア

概要

 アメーデオ9世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第3代サヴォイア公 1465年~1472年

年表

1465年1月29日

サヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア死(1413年~:在位1440年~)——長子アメーデオ9世・ディ・サヴォイア(1435年~)、サヴォイア公となる(在位~1472年)。

1468年7月6日

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァアメーデオ9世・ディ・サヴォイア及びルイ11世の妻カルロッタ・ディ・サヴォイアの妹ボーナ・ディ・サヴォイア(1449年~1503年)と結婚。

1472年3月30日

アメーデオ9世・ディ・サヴォイア死(1435年~:在位1465年~)——1471年死去した長子に次ぐ子フィリベルト1世・ディ・サヴォイアサヴォイア公となる(在位~1482年)。

1496年4月16日

サヴォイア公カルロ2世・ディ・サヴォイア死。——アメーデオ9世・ディ・サヴォイアの弟フィリッポ2世・ディ・サヴォイア(1443年~)、サヴォイア公となる(在位~1497年)。

別表記

 サヴォイア公アメデオ9世、イル・ベアート(il beato

外部リンク

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 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア Ludovico di Savoia

生没
1436年4月1日/6月5日~1482年8月
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
シャルロット・ド・リュジニャン

概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

別表記

 ルイジ

外部リンク

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 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』

フィリッポ2世・ディ・サヴォイア Filippo II di Savoia

生没
1443年2月5日~1497年11月7日
出身
サヴォイア公国シャンベリ
没地
サヴォイア公国シャンベリ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アンヌ・ド・リュジニャン
マルグリット・ド・ブルボン
クロディーヌ・ド・ブロス
ルイーザ・ディ・サヴォイア
ジローラモ・ディ・サヴォイア
フィリベルト2世・ディ・サヴォイア
カルロ3世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
フィリップ・ド・サヴォワ
アッサロンネ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンニ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
フィリベルタ・ディ・サヴォイア
レナート・ディ・サヴォイア
アントーニア・ディ・サヴォイア
マルゲリータ・ディ・サヴォイア
フィリッピーナ・ディ・サヴォイア
クラウディーナ・ディ・サヴォイア
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア
ミケーレ・ディ・サヴォイア

概要

 フィリッポ2世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1496年~1497年

戦歴

 フォルノーヴォの戦いフランス王国

年表

1443年2月5日

シャンベリにて、生(1438年2月5日、1443年11月15日)。

1496年4月16日

サヴォイア公カルロ2世・ディ・サヴォイア死。サヴォイア公となる。

1497年11月7日

死。

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ボーナ・ディ・サヴォイア Bona di Savoia

生没
1449年8月10日~1503年11月17日
出身
アヴィリアーナ
没地
フォッサーノ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
アントーニオ・タッシーノ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
エルメス・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
アンナ・マリーア・スフォルツァ

概要

 ボーナ・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、サヴォイア公女。18歳でガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと結婚し、2男2女をもうける。
 夫の死に際して、長男ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる。しかしそれは表向きで、実際には書記官のチッコ・シモネッタミラノ公国の実権を握っていた。煩わしい国事よりも、愛人であるフェッラーラ人の従者アントーニオ・タッシーノとの時間を過ごすことの方が彼女にとっては重要であり、チッコ・シモネッタが持ってくる事案にむしろすすんで認可を下していたようである。享年54歳。

年表

1449年8月10日

アヴィリアーナで生。

1468年7月6日

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと結婚。

1469年6月20日

アッビアーテグラッソにて、長男ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァを出産。

1469年

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァから、ノヴァーラを封土としてもらう。

1470年5月10日

パヴィアにて、次男エルメス・スフォルツァを出産。

1471年3月上旬

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに従い、フィレンツェを訪問。

1472年4月5日

パヴィアにて、長女ビアンカ・マリーア・スフォルツァを出産。

1472年

ノヴァーラを息子エルメス・スフォルツァに移譲。

1476年7月21日

ミラノにて、次女アンナ・マリーア・スフォルツァを出産。

1476年12月26日(木)

サント・ステファノの日。夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺害され、息子ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる(-1480)。

フランチェスコ1世・スフォルツァ以来の忠臣チッコ・シモネッタが補佐、実権を握る(-1479)。

1476年12月30日(月)

ミラノで秘密評議会宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタ主導の寡頭政治体制をこれによって認めている。

1477年1月1日

ミラノでチェルソ・マッフェイ宛書簡をしたためる。内容は、教皇シクストゥス4世に夫に死後の赦免を与えてくれるよう懇願。

1477年1月29日

ジローラモ・リアリオ宛てに手紙をしたためる。継子カテリーナ・スフォルツァと持参金に関して、亡夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの取り決めの履行を約束。

1477年2月24日

スフォルツァ城で、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガを調停役、ロベルト・サンセヴェリーノを立会人とし、義兄たちスフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァとの協定に調印する。ミラノ公国の摂政、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見と認められる。一方、義兄たち1人1人には年収1万2千5百ドゥカートと、百名の精鋭騎兵中隊の指揮権が与えられ、かつて義兄たちが所有していながら、故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァによって奪われた城や領地を返還することを約束。

1477年3月16日

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ暗殺に刺激されたジェノヴァが、フィエスキ家を中心にミラノ支配に対して反乱。ミラノの摂政ボーナは大軍をジェノヴァに送る。

1477年4月8日

ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとボーナ・ディ・サヴォイアはパルマの役人宛てに手紙をしたためる。イーモラからミラノカテリーナ・スフォルツァの随行団が来るので迎える準備をするよう指示。

1477年4月30日

ミラノ軍がジェノヴァの反乱を鎮圧。元ドージェのプロスペロ・アドルノをミラノ総督としてジェノヴァを統治(-1478)。

1477年5月半ば

スフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァとの協定を更新。

1477年5月15日

ローマ駐在外交官宛に手紙をしたためる。前イーモラ領主タッデオ・マンフレディの非常識な主張について。

ミラノにて、パルマ司教サグラモロ・サグラモリ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオ襲撃が発覚したことについて同情を述べ、教皇の思慮を信頼すると伝える。

1477年5月23日

ミラノにて、ボーナ・ディ・サヴォイアとジャン・ガレアッツォ・スフォルツァヴェネツィア駐在外交官宛に手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオの要望によりイーモラ周辺に配置しておかなければならなかった騎兵をギアラダッダに移動させることになったが、ヴェネツィア共和国政府はこの事実を邪推しないように。

1477年5月25日

ミラノで故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの弟スフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロおよびアスカーニオ・マリーア・スフォルツァによる、幼公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと摂政ボーナ・ディ・サヴォイアを排してスフォルツァ・マリーア・スフォルツァをミラノ公とする企み露見。

1477年6月1日

義兄たちの追放処分を決定。スフォルツァ・マリーア・スフォルツァバーリへ、ルドヴィーコ・イル・モーロはピサへ、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァペルージアへ。

1477年11月9日

継子カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。「全ての母親が愛する娘に対して感じるのと同じように、あなたがお元気だと聞くと嬉しさで満たされます。」

1478年3月27日

ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノは、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。

1478年6月25日

シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。

1478年8月7日

ジェノヴァのプロスペロ・アドルノによる反乱鎮圧に送られたミラノ軍が、ジェノヴァ軍に破れる。

これに対しボーナは、アドルノ家の宿敵フレゴーソ家のバッティスタ2世・フレゴーソを、彼の独立のドージェとしてジェノヴァを統治することを認めかつ周辺の城塞を与えた上で市内に送り込む。

1478年11月25日

バッティスタ2世・フレゴーソが、アドルノ陣営の内部の分裂を利してプロスペロ・アドルノら首脳を追放し、自らドージェとなる。ミラノのジェノヴァ支配終わる(1464-1478)。

1479年4月7日

継子カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。「出産後に会いに来たいとのこと了解しました。」

1479年8月10日

教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。

この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シジスモンド・デステに任せてトルトーナに向かう。

エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。

1479年9月7日

ルドヴィーコ・イル・モーロスフォルツェスコ城に受け入れる。

1479年9月8日

ミラノ公国領の都市に、ルドヴィーコ・イル・モーロが友好的に帰還したことを伝える手紙を出す。

1479年9月10日

チッコ・シモネッタの逮捕を命ずる(1479年9月11日)。

以後、公式にはボーナ・ディ・サヴォイアが摂政の地位にあったが、ルドヴィーコ・イル・モーロが次第にミラノの実権を掌握。

1479年

特にボーナ・ディ・サヴォイア付きの秘書であったバルトロメオ・カルコが、チッコ・シモネッタに代わって長官に就く。

アントーニオ・タッシーノの父ガブリエーレ・タッシーノは、チッコ・シモネッタの側近だったオルフェオ・リカーヴォに代わって秘密評議会議員に任命される。ガブリエーレ・タッシーノとアントーニオ・タッシーノ父子は、チッコ・シモネッタとオルフェオ・リカーヴォからの押収でかなりの利益を得る。

ルドヴィーコ・イル・モーロが財政改革のために増税した時、市民の不満を聞き不正を是正するため毎週金曜日に聴取会を開いたのはボーナ・ディ・サヴォイアだった。

1480年2月21日

この日付の手紙で、ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政職は表面上のものだという噂を否定。

1480年10月7日

アントーニオ・タッシーノがボーナ・ディ・サヴォイアを巻き込んだミラノ公国の権力奪取を計画したとして、ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの承諾なしにバルトロメオ・カルコ含む大臣たちを逮捕し、スフォルツェスコ城のロッチェッタに投獄。

1480年10月

アントーニオ・タッシーノはフェッラーラへ追放。

ボーナ・ディ・サヴォイアは孤立。

1480年10月31日

ルドヴィーコ・イル・モーロがボーナ・ディ・サヴォイアに忠実な臣下を解雇し、自分が選んだ者たちに代える。

1480年11月2日

寡婦の経済的権利と引き換えに、公爵の保護を放棄。アッビアーテグラッソへ向け、ミラノ出発。

1491年1月22日(土)

フランスからミラノに帰っており、新婚のルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステを迎える。

1492年9月15日

ミラノに到着したイザベッラ・デステを、スフォルツェスコ城の彼女が宿泊する部屋にて、娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァと貴婦人たちと共に迎える。

1494年12月1日

パヴィアにて、キアラ・ゴンザーガの訪問を受ける。

1495年1月

スフォルツェスコ城に住んでいたが、ミラノ大聖堂そばのミラノ公宮殿に居を移す。

1496年

フランスのアンボワーズに住む。

1499年12月

サヴォイア公国に帰る。

1503年11月17日

フォッサーノにて、死(1503年11月23日、1504年1月8日)。

埋葬地

 サン・ジュリアーノ・ア・サヴィリアーノ教会

別表記

 ボナ・デ・サヴォイア

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参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood

カルロッタ・ディ・サヴォイア Carlotta di Savoia

生没
1441年~1483年12月1日
没地
フランス王国アンボワーズ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アンヌ・ド・リュジニャン
ルイ11世
ルイ・ド・フランス
ジョアシャン・ド・フランス
ルイーズ・ド・フランス
アンヌ・ド・フランス
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・フランス
シャルル8世
フランソワ・ド・フランス

概要

 カルロッタ・ディ・サヴォイアは、15世紀の女性。

年表

1451年2月14日

ルイ・ド・ヴァロワと結婚。

1458年10月18日

長男ルイ・ド・フランスを出産。

1459年7月15日

次男ジョアシャン・ド・フランスを出産。

1459年11月29日

次男ジョアシャン・ド・フランス、死。

1460年

長男ルイ・ド・フランス、死。

1460年7月

長女ルイーズ・ド・フランスを出産。

1460年

長女ルイーズ・ド・フランス、死。

1461年4月

次女アンヌ・ド・フランスを出産。

1464年4月23日

三女ジャンヌ・ド・ヴァロワを出産。

1466年12月4日

三男フランソワ・ド・フランスを出産。

三男フランソワ・ド・フランス、死。

1470年6月30日

四男シャルル8世を出産。

1472年9月3日

五男フランソワ・ド・フランスを出産。

1473年7月

五男フランソワ・ド・フランス、死。

埋葬地

 フランス、クレリ=サン=タンドレ僧会教会

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ベルナルディーノ1世・ディ・サヴォイア Bernardino I di Savoia

生没
1???年~1526年12月25日
クラウディオ・ディ・サヴォイア
イッポーリタ・ボッロメオ
ヴィオランテ・アドルノ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
フィリッポ・ディ・サヴォイア
クラウディオ・ディ・サヴォイア
カルロ・ディ・サヴォイア
フランチェスコ・ディ・サヴォイア

概要

 ベルナルディーノ1世・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀頃のイタリアの男性。

在位

 パンカリエーリ領主

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アンナ・ディ・サヴォイア Anna di Savoia

生没
1455年6月1日~1480年3月9日
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ヨランド・ド・ヴァロワ
フェデリーコ・ダラゴーナ
カルロッタ・ダラゴーナ

概要

 アンナ・ディ・サヴォイアは、15世紀の女性。

年表

1455年6月1日

誕生。

1478年9月11日

ミラノにて、フェデリーコ・ダラゴーナと結婚。

1480年3月9日

死。

埋葬地

 シャンベリ

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マリーア・ディ・サヴォイア Maria di Savoia

生没
1???年~1511年11月27日
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア

概要

 マリーア・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀の女性。

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参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

フィリベルト1世・ディ・サヴォイア Filiberto I di Savoia

生没
1465年8月7日~1482年9月22日
出身
サヴォイア公国シャンベリ
没地
リヨン
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ

概要

 フィリベルト1世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第4代サヴォイア公 1472年~1482年

年表

1472年3月30日

アメーデオ9世・ディ・サヴォイア、死。

1475年

シクストゥス4世から祝福された剣を拝受。

1482年4月22日

死。

別表記

 il Cacciatore

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

カルロ1世・ディ・サヴォイア Carlo I di Savoia

生没
1468年3月29日~1490年3月13日
出身
カリニャーノ
没地
ピネローロ
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・パレオロガ
カルロ2世・ディ・サヴォイア

概要

 カルロ1世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1482年~1490年

年表

外部リンク

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ルイーザ・ディ・サヴォイア Luisa di Savoia

生没
1476年9月11日~1531年9月22日
出身
サヴォイア公国ポン=ダン城
没地
フランス王国グレ=シュル=ロワン
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
マルグリット・ド・ブルボン
シャルル2世・ダングレーム
マルグリット・ド・ナヴァル
フランソワ1世

概要

 ルイーザ・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1476年9月11日

ポン=ダン城にて、生。

1483年4月24日

マルグリット・ド・ブルボン、死。

母方の叔父ピエール2世・ド・ブルボンと父方の伯母アンヌ・ド・フランスが後見人となり、ブルボン公の居城であるムーランで養育される。

1488年2月16日

パリにて、シャルル2世・ダングレームと結婚。

1492年4月11日

アングレームにて、マルグリット・ド・ナヴァルを出産。

1494年9月12日

コニャックにて、フランソワ1世を出産。

1496年1月1日

シャルル2世・ダングレーム、死。

1497年11月7日

フィリッポ2世・ディ・サヴォイア、死。

1498年4月7日

フランス王シャルル8世、死。

1515年1月1日

フランス王ルイ12世、死。

1523年8月上旬~9月下旬

自らイタリアに侵攻する態勢を整える息子フランソワ1世により、摂政に任命される。

1525年3月7日~半ば頃

パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。

カール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝える。

クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。

1525年6月10日

クレメンス7世び教書(1525年5月17日付)に基づき、ルター派追求の異端審問委員会を設置するよう命令。

1525年7~8月

フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイア、クレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。

1525年8月30日

フランソワ1世の名でヘンリー8世と対カール5世協定を結ぶことに成功し、フランスの支配領はたとえフランソワ1世の救出・解放のためでもカール5世に委譲しないことを条件として、ヘンリー8世からフランソワ1世の救出・解放に尽力するとの約束を得る。

1525年12月

スレイマン1世のもとに特使を送り、自筆の書簡で息子フランソワ1世の救出・解放に助力するよう懇請。

1526年2月

スレイマン1世のもとに送った特使、フランソワ1世の救出・解放を援助するとのスレイマン1世の書簡を持って帰る。

1527年

フランソワ1世シャルル・ド・ブルボンの所領の大部分を没収し、ルイーザ・ディ・サヴォイアに与える。

1529年7月7日

この日頃、カール5世の叔母、かつての後見人マルグリット・ドートリッシュフランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイア、それぞれカンブレーに着き、直ちに和平交渉に入る。

1529年8月5日

カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュとルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世フランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、TournayArrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。

これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。

1531年9月22日

死。

1531年10月19日

フランス、サン=ドニ大聖堂に埋葬される。

別表記

 ルイーズ・ド・サヴォワ、ルイズ・ド・サヴォワ、Louise de Savoie

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 Treccani
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

フィリベルト2世・ディ・サヴォイア Filiberto II di Savoia

生没
1480年4月10日~1504年9月10日
出身
ポン・ダン
没地
ポン・ダン
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
マルグリット・ド・ブルボン
ヨランダ・ディ・サヴォイア
マルグリット・ドートリッシュ

概要

 フィリベルト2世・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1497年~1504年

年表

1497年11月7日

サヴォイア公フィリッポ2世・ディ・サヴォイア死。サヴォイア公となる。

1499年10月6日

ミラノに入城したフランス王ルイ12世へ、戦勝の祝いのため伺候。

1504年9月10日

死。

外部リンク

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『The Life of Cesare Borgia

カルロ3世・ディ・サヴォイア Carlo III di Savoia

生没
1486年10月10日~1553年8月17日
出身
シャゼ
没地
ヴェルチェッリ
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
クロディーヌ・ド・ブロス
ベアトリス・デ・アヴィシュ
アドリアーノ・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
カテリーナ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
イザベッラ・ディ・サヴォイア
エマヌエーレ・ディ・サヴォイア
エマヌエーレ・ディ・サヴォイア
ジャンマリーア・ディ・サヴォイア

概要

 カルロ3世・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 第9代サヴォイア公 1504年~1553年

年表

1521年3月26日

ヴィッラフランカにて、ベアトリス・デ・アヴィシュと結婚。

1536年11月29日

カール5世によりフェデリーコ2世・ゴンザーガモンフェッラート侯位の継承を承認される。

ゴンザーガ家と同様モンフェッラートの継承権を主張して争ってきたため、カール5世のこの裁定・承認に強い不満を抱くが沈黙。

別表記

 Carlo IIil Buono

外部リンク

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フィリップ・ド・サヴォワ Philippe de Savoie

生没
1490年~1533年11月25日
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ジャック・ド・サヴォワ

概要

 フィリップ・ド・サヴォワは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1528年~1533年
  次代:ジャック・ド・サヴォワ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

フィリベルタ・ディ・サヴォイア Filiberta di Savoia

生没
1498年~1524年
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ルイズ・ド・サヴォワ
ジュリアーノ・デ・メディチ

概要

 フィリベルタ・ディ・サヴォイアは、15世紀から16世紀の男性。

年表

1513年8月

この頃レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチ教会の旗手に任命。かつ彼をカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイア(1498年~1524年)と結婚させることに決める。

1515年1月

レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世の即位祝賀使節としてフランスに行き、その叔母でカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚し、ヌムール公の称号を受ける。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係生ずる。

1516年3月17日

ジュリアーノ・デ・メディチ死。妻フィリベルタ・ディ・サヴォイアは間もなくその母(すなわちフランソワ1世の母)ルイズ・ド・サヴォワのもとに帰る。これによりメディチ家とフランス王室の婚姻関係消滅。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

クラウディオ・ディ・サヴォイア Claudio di Savoia

生没
1???年~1582年
ベルナルディーノ1世・ディ・サヴォイア
ヴィオランテ・アドルノ
マリーア・ゴンディ

概要

 クラウディオ・ディ・サヴォイアは、16世紀頃のイタリアの男性。

在位

 パンカリエーリ伯

年表

1569年8月13日

遺言書を作成。

1582年

死(1579年以降)。

別表記

 ピアンカリエリ伯

外部リンク

 Genealogy.EU
 GENEALOGIE DELLE FAMIGLIE NOBILI ITALIANE
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『愛の年代記』

カルロ2世・ディ・サヴォイア Carlo II di Savoia

生没
1488年~1496年
出身
カリニャーノ
没地
ピネローロ
カルロ1世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・パレオロガ

概要

 カルロ2世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第6代サヴォイア公カルロ2世 1490年~1496年

年表

1490年3月14日

カルロ1世・ディ・サヴォイア、死。

1496年4月16日

死。

別表記

 カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ・ディ・サヴォイア、Carlo II Giovanni Amedeo

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア Emanuele Filiberto di Savoia

生没
1528年7月8日~1580年8月30日
出身
サヴォイア公国シャンベリ
没地
サヴォイア公国トリノ
カルロ3世・ディ・サヴォイア
ベアトリス・デ・アヴィシュ
マルグリット・ド・ヴァロワ
カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイア

概要

 エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは、16世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1553年~1580年

年表

1553年7月

この月までにカール5世軍、フランドルにおけるアンリ2世の主要な要塞テルアーヌを長期の包囲戦の末、占領。さらにこの月カール5世軍、1553年6月23日フランドル総督・軍総指揮官に任じられたカルロ3世・ディ・サヴォイアの子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮の下で包囲してきたエダンを占領。この包囲に抗したアンリ2世軍の指揮官・カストロ公・(故パウルス3世の孫)Orazio Farnese、戦死(1531年~:在位1549年~)。

1553年8月16日

カルロ3世・ディ・サヴォイア、ピエモンテの自領を回復できないまま死(1486年~:在位1504年~)——子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、サヴォイア公となる。

1557年6月7日

メアリー1世フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。

1557年8月10日

フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。

1559年4月3日

アンリ2世フェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。

この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。

シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン・ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。

フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。

1559年6月30日

アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、Henri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de Franceメアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。

1559年7月10日

パリにて、マルグリット・ド・ヴァロワと結婚。

1562年8月8日

エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、カトー・カンブレジの和(1559年)では故アンリ2世から取り戻せなかった地点の内、ピネローロなどを除くトリノ、キエーリ、キヴァッソ、ヴィッラノーヴァ・ダスティの返還をカトリーヌ・メディシスに認めさせることに、フランスの宗教的・政治的混乱を利用し妃マルグリット・ド・ヴァロワの助力を得ながら成功(ブロワ協定)。

1563年2月7日

エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア・マルグリット・ド・ヴァロワ夫妻、トリノに入る。エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアはかねてからの意図通りこの地をサヴォイア公国の首都と確定。

1571年5月20日

対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。

この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、パルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャック・ド・サヴォワ Jacques de Savoie

生没
1531年10月12日~1585年6月15日
フィリップ・ド・サヴォワ
アンナ・デステ

概要

 ジャック・ド・サヴォワは、16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1533年~1585年
  先代:フィリップ・ド・サヴォワ

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

記載日

更新日

 2023年9月21日