Savoia

サヴォイア家

アメーデオ8世・ディ・サヴォイア Amedeo VIII di Savoia

生没
1383年9月4日~1451年1月6/7日
アメデーオ7世 ・ディ・サヴォイア
ボンヌ・ド・ベリー
マリー・ド・ブルゴーニュ
マリーア・ディ・サヴォイア
アメデーオ ・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
マルゲリータ ・ディ・サヴォイア
フィリッポ ・ディ・サヴォイア
概要

 アメーデオ8世・ディ・サヴォイアは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、聖職者。対立教皇フェリクス5世。

在位

 第1代サヴォイア公アメーデオ8世 1416年~1440年
  次代:ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
 対立教皇フェリクス5世 1439年~1449年
 枢機卿 1449年4月23日~1451年1月6/7日
     任命した教皇:ニコラウス5世

年表

1426年7月
ヴェネツィアと同盟を結び、ヴェネツィア・フィレンツェ陣営に加わる。
1427年12月2日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティからVercelliを貰い、娘マリーア・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結婚しかつその子にミラノを継承させることをトリノで約定し、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営から離れる。
1439年11月5日
バーゼルの分離公会議、アメーデオ8世・ディ・サヴォイアを対立教皇フェリクス5世として選出(在位1439年~1449年)。
1440年1月6日
1439年11月フェリクス5世として対立教皇に即位したアメーデオ8世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公位を退く(在位1416年~)——ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア(1413年~)、サヴォイア公となる(在位1465年)。
1441年6月24日
対立教皇フェリクス5世の戴冠式、バーゼルで盛大に挙行される。
1449年1月18日
ニコラウス5世フェリクス5世に対し、ローザンヌ分離公会議とその支持者への財産没収、破門、処罰、停職処分を中止し、フェリクス5世には枢機卿として他の枢機卿に勝る高位を与え、フェリクス5世の任命した枢機卿にはそれぞれに応分の高位を与えるとの勅書を送る。
1449年4月7日
フェリクス5世、対立教皇位を辞す(在位1439年~)。
1451年1月6/7日
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア死(1383年~:サヴォイア公在位1416年~1440年:対立教皇在位1439年~1449年:枢機卿在位1449年~)。

紋章

別表記

 アミーデオ、サヴォイア公爵アマデウス、フェリックス5世、Amideoil Pacifico

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ローマ教皇検死録』

アメーデオ9世・ディ・サヴォイア Amedeo IX di Savoia


生没
1435年2月1日~1472年3月30日
出身;トノン=レ=バン
没地
ヴェルチェッリ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ヨランド・ド・ヴァロワ
アンナ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
フィリベルト1世・ディ・サヴォイア
カルロ1世・ディ・サヴォイア
概要

 アメーデオ9世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第3代サヴォイア公 1465年~1472年
  先代:ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
  次代:フィリベルト1世・ディ・サヴォイア

年表

1465年1月29日
サヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア死(1413年~:在位1440年~)——長子アメーデオ9世・ディ・サヴォイア(1435年~)、サヴォイア公となる(在位~1472年)。
1468年7月6日
1472年3月30日
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア死(1435年~:在位1465年~)——1471年死去した長子に次ぐ子フィリベルト1世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公となる(在位~1482年)。
1496年4月16日
サヴォイア公カルロ2世・ディ・サヴォイア死。——アメーデオ9世・ディ・サヴォイアの弟フィリッポ2世・ディ・サヴォイア(1443年~)、サヴォイア公となる(在位~1497年)。

別表記

 サヴォイア公アメデオ9世、イル・ベアート(il beato)

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』

ボーナ・ディ・サヴォイア Bona di Savoia

生没
1449年8月10日~1503年11月17日
出身
アヴィリアーナ
没地
フォッサーノ
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
アントーニオ・タッシーノ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
エルメス・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
アンナ・マリーア・スフォルツァ
概要

 ボーナ・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀のイタリアの女性、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの妻。夫の死に際して、息子ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる。しかしそれは表向きで、実際には書記官のチッコ・シモネッタがミラノ公国の実権を握っていた。煩わしい国事よりも、愛人であるフェッラーラ人の従者アントーニオ・タッシーノとの時間を過ごすことの方が彼女にとっては重要であり、チッコ・シモネッタが持ってくる事案にむしろすすんで認可を下していたようである。

年表

1449年8月10日
アヴィリアーナで生。
1468年7月6日
1469年6月20日
1469年
1470年5月10日
1471年3月上旬
1472年4月5日
1472年
1476年7月21日
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺害され、息子ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政となる(-1480)。
フランチェスコ1世・スフォルツァ以来の忠臣チッコ・シモネッタが補佐、実権を握る(-1479)。
1476年12月30日(月)
ミラノで秘密評議会宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタ主導の寡頭政治体制をこれによって認めている。
1477年1月1日
ミラノでチェルソ・マッフェイ宛書簡をしたためる。内容は、教皇シクストゥス4世に夫に死後の赦免を与えてくれるよう懇願。
1477年1月29日
ジローラモ・リアリオ宛てに手紙をしたためる。継子カテリーナ・スフォルツァと持参金に関して、亡夫ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの取り決めの履行を約束。
1477年2月24日
スフォルツァ城で、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガを調停役、ロベルト・サンセヴェリーノを立会人とし、義兄たちスフォルツァ・マリーア・スフォルツァルドヴィーコ・イル・モーロアスカーニオ・マリーア・スフォルツァオッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァとの協定に調印する。ミラノ公国の摂政、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見と認められる。一方、義兄たち1人1人には年収1万2千5百ドゥカートと、百名の精鋭騎兵中隊の指揮権が与えられ、かつて義兄たちが所有していながら、故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァによって奪われた城や領地を返還することを約束。
1477年3月16日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ暗殺に刺激されたジェノヴァが、フィエスキ家を中心にミラノ支配に対して反乱。ミラノの摂政ボーナは大軍をジェノヴァに送る。
1477年4月8日
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとボーナ・ディ・サヴォイアはパルマの役人宛てに手紙をしたためる。イーモラからミラノカテリーナ・スフォルツァの随行団が来るので迎える準備をするよう指示。
1477年4月30日
ミラノ軍がジェノヴァの反乱を鎮圧。元ドージェのプロスペロ・アドルノをミラノ総督としてジェノヴァを統治(-1478)。
1477年5月半ば
1477年5月15日
ローマ駐在外交官宛に手紙をしたためる。前イーモラ領主タッデオ・マンフレディの非常識な主張について。
ミラノにて、パルマ司教サグラモロ・サグラモリ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオ襲撃が発覚したことについて同情を述べ、教皇の思慮を信頼すると伝える。
1477年5月23日
ミラノにて、ボーナ・ディ・サヴォイアとジャン・ガレアッツォ・スフォルツァヴェネツィア駐在外交官宛に手紙をしたためる。ジローラモ・リアリオの要望によりイーモラ周辺に配置しておかなければならなかった騎兵をギアラダッダに移動させることになったが、ヴェネツィア共和国政府はこの事実を邪推しないように。
1477年5月25日
1477年6月1日
1477年11月9日
継子カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。「全ての母親が愛する娘に対して感じるのと同じように、あなたがお元気だと聞くと嬉しさで満たされます。」
1478年3月27日
ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノは、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
1478年6月25日
シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。
1478年8月7日
ジェノヴァのプロスペロ・アドルノによる反乱鎮圧に送られたミラノ軍が、ジェノヴァ軍に破れる。
これに対しボーナは、アドルノ家の宿敵フレゴーソ家のバッティスタ2世・フレゴーソを、彼の独立のドージェとしてジェノヴァを統治することを認めかつ周辺の城塞を与えた上で市内に送り込む。
1478年11月25日
バッティスタ2世・フレゴーソが、アドルノ陣営の内部の分裂を利してプロスペロ・アドルノら首脳を追放し、自らドージェとなる。ミラノのジェノヴァ支配終わる(1464-1478)。
1479年4月7日
継子カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。「出産後に会いに来たいとのこと了解しました。」
1479年8月10日
教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シジスモンド・デステに任せてトルトーナに向かう。
エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。
1479年9月7日
1479年9月8日
ミラノ公国領の都市に、ルドヴィーコ・イル・モーロが友好的に帰還したことを伝える手紙を出す。
1479年9月10日
チッコ・シモネッタの逮捕を命ずる(1479年9月11日)。
以後、公式にはボーナ・ディ・サヴォイアが摂政の地位にあったが、ルドヴィーコ・イル・モーロが次第にミラノの実権を掌握。
1479年
特にボーナ・ディ・サヴォイア付きの秘書であったバルトロメオ・カルコが、チッコ・シモネッタに代わって長官に就く。
アントーニオ・タッシーノの父ガブリエーレ・タッシーノは、チッコ・シモネッタの側近だったオルフェオ・リカーヴォに代わって秘密評議会議員に任命される。ガブリエーレ・タッシーノとアントーニオ・タッシーノ父子は、チッコ・シモネッタとオルフェオ・リカーヴォからの押収でかなりの利益を得る。
ルドヴィーコ・イル・モーロが財政改革のために増税した時、市民の不満を聞き不正を是正するため毎週金曜日に聴取会を開いたのはボーナ・ディ・サヴォイアだった。
1480年2月21日
この日付の手紙で、ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政職は表面上のものだという噂を否定。
1480年10月7日
アントーニオ・タッシーノがボーナ・ディ・サヴォイアを巻き込んだミラノ公国の権力奪取を計画したとして、ルドヴィーコ・イル・モーロミラノジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの承諾なしにバルトロメオ・カルコ含む大臣たちを逮捕し、スフォルツァ城のロッチェッタに投獄。
1480年10月
アントーニオ・タッシーノはフェッラーラへ追放。
ボーナ・ディ・サヴォイアは孤立。
1480年10月31日
ルドヴィーコ・イル・モーロがボーナ・ディ・サヴォイアに忠実な臣下を解雇し、自分が選んだ者たちに代える。
1480年11月2日
寡婦の経済的権利と引き換えに、公爵の保護を放棄。アッビアーテグラッソへ向け、ミラノ出発。
1491年1月22日(土)
フランスからミラノに帰っており、新婚のルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステを迎える。
1492年9月15日
ミラノに到着したイザベッラ・デステを、スフォルツァ城の彼女が宿泊する部屋にて、娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァと貴婦人たちと共に迎える。
1494年12月1日
パヴィアにて、キアラ・ゴンザーガの訪問を受ける。
1495年1月
スフォルツァ城に住んでいたが、ミラノ大聖堂そばのミラノ公宮殿に居を移す。
1496年
フランスのアンボワーズに住む。
1499年12月
サヴォイア公国に帰る。
1503年11月17日
フォッサーノにて、死(1503年11月23日、1504年1月8日)。

埋葬

 サン・ジュリアーノ・ア・サヴィリアーノ教会

別表記

 ボナ・デ・サヴォイア

外部リンク

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 GENEALOGIE DELLE DINASTIE NOBILI ITALIANE
 Genealogy.EU
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 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Malta Genealogy
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood

エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア Emanuele Filiberto di Savoia

生没
1528年~1580年
マグリット・ド・ヴァロワ
カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイア
概要

 エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは、16世紀の男性。

年表

1553年7月
この月までにカール5世軍、フランドルにおけるアンリ2世の主要な要塞テルアーヌを長期の包囲戦の末、占領。さらにこの月カール5世軍、1553年6月23日フランドル総督・軍総指揮官に任じられたCarlo II (il Buono)の子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)指揮の下で包囲してきたエダンを占領。この包囲に抗したアンリ2世軍の指揮官・カストロ公・(故パウルス3世の孫)Orazio Farnese、戦死(1531年~:在位1549年~)。
1553年8月16日
Carlo II (il Buono)、ピエモンテの自領を回復できないまま死(1486年~:在位1504年~)——エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)、サヴォイア公となる(在位~1580年)。
1557年6月7日
メアリー1世フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1559年4月3日
アンリ2世フェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアHenri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・LorgeGabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシスElisabeth de Franceメアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1559年7月10日
パリにて、マグリット・ド・ヴァロワと結婚。
1562年8月8日
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、カトー・カンブレジの和(1559年)では故アンリ2世から取り戻せなかった地点の内、ピネローロなどを除くトリノ、キエーリ、キヴァッソ、ヴィッラノーヴァ・ダスティの返還をカトリーヌ・メディシスに認めさせることに、フランスの宗教的・政治的混乱を利用し妃マグリット・ド・ヴァロワの助力を得ながら成功(ブロワ協定)。
1563年2月7日
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

外部リンク

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参考文献

 『愛の年代記』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア Ludovico di Savoia

生没
1413年2月21日~1465年1月29日
出身
ジュネーヴ
没地
リヨン
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
アンナ・ディ・チプロ
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ボーナ・ディ・サヴォイア
カルロッタ・ディ・サヴォイア
マリーア・ディ・サヴォイア
概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第2代サヴォイア公 1440年~1465年
  先代:アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
  次代:アメーデオ9世・ディ・サヴォイア

年表

1440年1月6日
1439年11月フェリクス5世として対立教皇に即位したアメーデオ8世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公位を退く(在位1416年~)——ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア(1413年~)、サヴォイア公となる(在位1465年)。
1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワ(1394年~1465年:オルレアン公在位1407年~1465年)は自分の母ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート候ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。
1449年12月末
フランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノ継承請求者の一人ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと和をもって後方の安全を確保した上でミラノ包囲、兵糧攻め態勢を固め狭めようと図る。
1450年1月20日
この日までにフランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノの包囲、兵糧攻めをますます狭める一方、ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと、パヴィア、アレッサンドリア及びノヴァーラの城塞を譲ることなどを約して協定し、後方の安全を確保。
1451年3月6日
この日?、ヴェネツィアとナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、同盟を結び、反ミラノ、反フィレンツェの方針をさらに進め、それぞれの領国からのフィレンツェ商人の追放も決める。間もなくこの同盟にサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア、モンフェッラート候ジョヴァンニ及びシエナが加入。
1465年1月29日
サヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア死(1413年~:在位1440年~)——長子アメーデオ9世・ディ・サヴォイア(1435年~)、サヴォイア公となる(在位~1472年)。

別表記

 第2代サヴォイア公ロドヴィーコ、サヴォイ公ルイ

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ルイーザ・ディ・サヴォイア Luisa di Savoia

生没
1476年~1531年
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
シャルル・ダングレーム
フランソワ1世
概要

 ルイーザ・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1523年8月上旬~9月下旬
フランソワ1世、母后ルイーザ・ディ・サヴォイア(1476年~1531年)を摂政に任命し、強大な軍を結集して自らイタリアに侵攻する態勢を整える。
1523年9月11日
1521年死亡した妻シュザンヌ・ド・ボージューの遺領をフランソワ1世とその母后ルイーザ・ディ・サヴォイアから要求されて両者と対立していたブルボン公シャルル・ド・ブルボン(1490年~1527年)は、カール5世陣営に投じ、両者と決定的に敵対。
これによりフランソワ1世は、軍を指揮して自らイタリアに侵攻することを断念し、指揮を提督Guillaume de Bonnivetに委ねる。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年6月10日
ルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世び教書(1525年5月17日付)に基づき、ルター派追求の異端審問委員会を設置するよう命令。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1525年8月30日
ルイーザ・ディ・サヴォイアフランソワ1世の名でヘンリー8世と対カール5世協定を結ぶことに成功し、フランスの支配領はたとえフランソワ1世の救出・解放のためでもカール5世に委譲しないことを条件として、ヘンリー8世からフランソワ1世の救出・解放に尽力するとの約束を得る。
1525年12月
ルイーザ・ディ・サヴォイアスレイマン1世のもとに特使を送り、自筆の書簡で息子フランソワ1世の救出・解放に助力するよう懇請。
1526年2月
ルイーザ・ディ・サヴォイアが1525年12月スレイマン1世のもとに送った特使、フランソワ1世の救出・解放を援助するとのスレイマン1世の書簡を持って帰る。
1527年
1529年7月7日
この日頃、カール5世の叔母、かつての後見人マルグリット・ドートリッシュ(1480年~1530年:ネーデルラント総督在位1507年~1515年、1519年~1530年)とフランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイア、それぞれカンブレーに着き、直ちに和平交渉に入る。
1529年8月5日
カンブレーの和(貴婦人の和):マルグリット・ドートリッシュルイーザ・ディ・サヴォイアは、カール5世フランソワ1世から巨額の身代金を得てその2人の子息を釈放すること、フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、アルトワ、TournayArrasへの継承請求権を放棄すること、カール5世はブルゴーニュを要求しないこと、フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられること、フランソワ1世カール5世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚することなどを協定。
これにより、イタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
1531年9月22日
ルイーザ・ディ・サヴォイア死(1476年~)。

別表記

 ルイズ・ド・サヴォワ、Louise de Savoie

外部リンク

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 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

クラウディオ・ディ・サヴォイア Claudio di Savoia

生没
~1582年
ベルナルディーノ・ディ・サヴォイア
マリーア・ゴンディ
概要

 クラウディオ・ディ・サヴォイアは、16世紀頃のイタリアの男性。

在位

 パンカリエーリ伯

別表記

 ピアンカリエリ伯

外部リンク

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 GENEALOGIE DELLE FAMIGLIE NOBILI ITALIANE

参考文献

 『愛の年代記』

マリーア・ディ・サヴォイア Maria di Savoia

生没
~1511年11月27日
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
概要

 マリーア・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀の女性。

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア Ludovico di Savoia

生没
1436年4月1日/6月5日~1482年8月
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
シャルロット・ド・リュジニャン
概要

 ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

別表記

 ルイジ

外部リンク

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 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』

フィリベルタ・ディ・サヴォイア Filiberta di Savoia

生没
1498年~1524年
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ルイズ・ド・サヴォワ
ジュリアーノ・デ・メディチ
概要

 フィリベルタ・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1513年8月
この頃レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチ教会の旗手に任命。かつ彼をカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイア(1498年~1524年)と結婚させることに決める。
1515年1月
レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世の即位祝賀使節としてフランスに行き、その叔母でカルロ・ディ・サヴォイアの妹フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚し、ヌムール公の称号を受ける。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係生ずる。
1516年3月17日
ジュリアーノ・デ・メディチ死。妻フィリベルタ・ディ・サヴォイアは間もなくその母(すなわちフランソワ1世の母)ルイズ・ド・サヴォワのもとに帰る。これによりメディチ家とフランス王室の婚姻関係消滅。

外部リンク

 世界帝王事典
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マリーア・ディ・サヴォイア Maria di Savoia

生没
1411年~1469年
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
概要

 マリーア・ディ・サヴォイアは、15世紀のイタリアの女性。彼女のために建てられた城の一画に閉じ込められたまま暮らし、仕えるのは全員女であった。夫に握られた手は洗わないほど夫を愛したと伝えられている。

年表

1428年10月29日

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
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 Treccani.it

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』

カルロッタ・ディ・サヴォイア Carlotta di Savoia

生没
1441年~1483年
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
ルイ11世
アンヌ・ド・フランス
シャルル8世
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
概要

 カルロッタ・ディ・サヴォイアは、15世紀の女性。

年表

1468年7月6日

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『イタリア史』

カルロ1世・ディ・サヴォイア Carlo I di Savoia

生没
1468年3月29日~1490年3月13日
出身
カリニャーノ
没地
ピネローロ
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・パレオロガ
カルロ2世・ディ・サヴォイア
概要

 カルロ1世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1482年~1490年
  先代:フィリベルト1世・ディ・サヴォイア
  次代:カルロ2世・ディ・サヴォイア

年表

1482年4月22日
1490年3月14日

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

カルロ2世・ディ・サヴォイア Carlo II di Savoia

生没
1488年~1496年
出身
カリニャーノ
没地
ピネローロ
カルロ1世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・パレオロガ
概要

 カルロ2世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第6代サヴォイア公カルロ2世 1490年~1496年
  先代:カルロ1世・ディ・サヴォイア
  次代:フィリッポ2世・ディ・サヴォイア

年表

1490年3月14日
カルロ1世・ディ・サヴォイア死(1468年~:在位1482年~)——カルロ2世・ディ・サヴォイア(1489年~)、サヴォイア公となる(在位~1496年)。
1496年4月16日
サヴォイア公カルロ2世・ディ・サヴォイア死。——アメーデオ9世・ディ・サヴォイアの弟フィリッポ2世・ディ・サヴォイア(1443年~)、サヴォイア公となる(在位~1497年)。

別表記

 カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ・ディ・サヴォイア、Carlo II Giovanni Amedeo

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

フィリベルト1世・ディ・サヴォイア Filiberto I di Savoia

生没
1465年8月7日~1482年9月22日
出身
シャンベリ
没地
リヨン
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
概要

 フィリベルト1世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 第4代サヴォイア公 1472年~1482年
  先代:アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
  次代:カルロ1世・ディ・サヴォイア

年表

1472年3月30日
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア死(1435年~:在位1465年~)——1471年死去した長子に次ぐ子フィリベルト1世・ディ・サヴォイア、サヴォイア公となる(在位~1482年)。
1482年4月22日
フィリベルト1世・ディ・サヴォイア死(1465年~:在位1472年~)——カルロ1世・ディ・サヴォイア(1468年~)サヴォイア公となる(在位~1490年)。

別表記

 il Cacciatore

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

フィリベルト2世・ディ・サヴォイア Filiberto II di Savoia

生没
1480年4月10日~1504年9月10日
出身
ポン・ダン
没地
ポン・ダン
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ヨランダ・ディ・サヴォイア
マルグリット・ドートリッシュ
概要

 フィリベルト2世・ディ・サヴォイアは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1497年~1504年
先代:フィリッポ2世・ディ・サヴォイア

年表

1497年11月7日
サヴォイア公フィリッポ2世・ディ・サヴォイア死。サヴォイア公となる。
1499年10月6日
ミラノに入城したフランス王ルイ12世へ、戦勝の祝いのため伺候。
1504年9月10日
死。

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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『The Life of Cesare Borgia

フィリッポ2世・ディ・サヴォイア Filippo II di Savoia

生没
1443年2月5日~1497年11月7日
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アンヌ・ド・リュジニャン
マルグリット・ド・ブルボン
クロディーヌ・ド・ブロス
フィリベルタ・ディ・サヴォイア
ルイーザ・ディ・サヴォイア
フィリベルト2世・ディ・サヴォイア
フィリップ・ド・サヴォワ
概要

 フィリッポ2世・ディ・サヴォイアは、15世紀の男性。

在位

 サヴォイア公 1496年~1497年
  先代:カルロ2世・ディ・サヴォイア
  次代:フィリベルト2世・ディ・サヴォイア

年表

1496年4月16日
サヴォイア公カルロ2世・ディ・サヴォイア死。サヴォイア公となる。
1497年11月7日
死。

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

アンナ・ディ・サヴォイア Anna di Savoia

生没
1455年6月1日~1480年3月9日
没地
sepolta a Chambéry
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
ヨランド・ド・ヴァロワ
フェデリーコ・ダラゴーナ
概要

 アンナ・ディ・サヴォイアは、15世紀の女性。

年表

1455年6月1日
誕生。
1478年9月11日
1480年3月9日
sepolta a Chambéryで没。

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フィリップ・ド・サヴォワ Philippe de Savoie

生没
1490年~1533年11月25日
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ジャック・ド・サヴォワ
概要

 フィリップ・ド・サヴォワは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1528年~1533年
  次代:ジャック・ド・サヴォワ

外部リンク

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ジャック・ド・サヴォワ Jacques de Savoie

生没
1531年10月12日~1585年6月15日
フィリップ・ド・サヴォワ
アンナ・デステ
概要

 ジャック・ド・サヴォワは、16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1533年~1585年
  先代:フィリップ・ド・サヴォワ

チェーザレ・ボルジア数

 妻アンナ・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月2日