Valois

ヴァロワ家

シャルル・ド・ヴァロワ Charles de Valois

生没
1270年3月12日~1325年12月16日
出身
フランス王国ヴァンセンヌ
没地
フランス王国ペレ
フィリップ3世
イザベッラ・ダラゴーナ
マルグリット・ダンジュー
カトリーヌ1世・ド・クルトネー
マオー・ド・シャティヨン
イザベル・ド・ヴァロワ
フィリップ6世
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
シャルル2世・ダランソン
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
ブランシュ・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル・ド・ヴァロワは、13世紀~14世紀のフランスの男性。

年表

1301年11月1日

フィレンツェに入る。

埋葬地

 フランス王国、サン・ドニ大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース

参考文献

 『メディチ家』

フィリップ6世 Philippe VI

生没
1293年~1350年8月22日
出身
フランス王国ノジャン=ル=ロワ又はクーロム?
没地
フランス王国ウール=エ=ロワール、クーロンブ修道院
シャルル・ド・ヴァロワ
マルグリット・ダンジュー
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
ブランシュ・デヴルー
ジャン2世
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
フィリップ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 フィリップ6世は、13世紀~14世紀のフランスの男性。

在位

 フランス王 1328年~1350年

埋葬地

 フランス王国、サン・ドニ大聖堂

外部リンク

 Wikipédia

シャルル2世・ダランソン Charles II d'Alençon

生没
1297年~1346年8月26日
シャルル・ド・ヴァロワ
マルグリット・ダンジュー
ジャンヌ・ド・ジョワニー
マリア・デ・ラ・セルダ
シャルル3世・ダランソン
フィリップ・ダランソン
ピエール2世・ダランソン
イザベル・ダランソン
ロベール・ダランソン
イザベル・ダランソン

概要

 シャルル2世・ダランソンは、13世紀~14世紀のフランスの男性。

外部リンク

 Wikipédia

ジャン2世 Jean II

生没
1319年4月16日~1364年4月8日
出身
フランス王国ル・マン
没地
イングランド王国ロンドン、サヴォイ・パレス
フィリップ6世
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
ボンヌ・ド・リュクサンブール
オーヴェルニュ女伯ジャンヌ1世
ブランシュ・ド・ヴァロワ
シャルル5世
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
アニェス・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
イザベッラ・ディ・ヴァロワ
ブランシュ・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ

概要

 ジャン2世は、14世紀のフランスの男性。

在位

 フランス王 1350年~1364年

埋葬地

 フランス王国、サン・ドニ大聖堂

外部リンク

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ピエール2世・ダランソン Pierre II d'Alençon

生没
1340年~1404年9月20日
シャルル2世・ダランソン
マリア・デ・ラ・セルダ
マリー・シャマイヤール
マリー・ダランソン
ピエール・ダランソン
ジャン・ダランソン
マリー・ダランソン
ジャンヌ・ダランソン
カトリーヌ・ダランソン
マグリット・ダランソン
ジャン1世・ダランソン
ピエール・ダランソン

概要

 ピエール2世・ダランソンは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

外部リンク

 Wikipédia

シャルル5世 Charles V

生没
1338年1月21日~1380年9月16日
出身
フランス王国ヴァンセンヌ城
没地
フランス王国ボテ・シュル・マルヌ
ジャン2世
ボンヌ・ド・リュクサンブール
ジャンヌ・ド・ブルボン
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
ボンヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
シャルル6世
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ1世・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル5世は、14世紀のフランスの男性。

在位

 フランス王 1350年~1364年

埋葬地

 フランス王国、サン・ドニ大聖堂

外部リンク

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フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ Philippe II de Bourgogne

生没
1342年1月15日~1404年4月27日
出身
フランス王国ポントワーズ
没地
ブルゴーニュ領ネーデルラント、ハレ
ジャン2世
ボンヌ・ド・リュクサンブール
フランドル女伯マルグリット3世
ジャン1世・ド・ブルゴーニュ
シャルル・ド・ブルゴーニュ
マルグリット・ド・ブルゴーニュ
ルイ・ド・ブルゴーニュ
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ
ボンヌ・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ
マリー・ド・ブルゴーニュ
フィリップ・ド・ブルゴーニュ

概要

 フィリップ2世・ド・ブルゴーニュは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

在位

 ブルゴーニュ公 1363年~1404年

埋葬地

 ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院

外部リンク

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イザベッラ・ディ・ヴァロワ Isabella di Valois

生没
1348年10月1日~1372年9月11日
出身
フランス王国ヴァンセンヌ
没地
パヴィア
ジャン2世
ボンヌ・ド・リュクサンブール
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
アッツォーネ・ヴィスコンティ
カルロ・ヴィスコンティ

概要

 イザベッラ・ディ・ヴァロワは、14世紀の女性。

年表

1348年10月1日

ヴァンセンヌ城にて、生。

1372年9月11日

パヴィアにて、死。

埋葬地

チェーザレ・ボルジア数

 子ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Isabelle de Valois

外部リンク

 世界帝王事典
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャン1世・ダランソン Jean I d'Alençon

生没
1385年~1415年10月25日
ピエール2世・ダランソン
マリー・シャマイヤール
マリー・ド・ブルターニュ
ピエール・ダランソン
ジャン2世・ダランソン
マリー・ダランソン
ジャンヌ・ダランソン
シャルロット・ダランソン
ピエール・ダランソン
マグリット・ダランソン
ルネ・ダランソン

概要

 ジャン1世・ダランソンは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

外部リンク

 Wikipédia

シャルル6世 Charles VI

生没
1368年12月3日~1422年10月21日
出身
フランス王国パリ
没地
フランス王国パリ
シャルル5世
ジャンヌ・ド・ブルボン
イザボー・ド・バヴィエール
シャルル・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
ミシェル・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
シャルル7世
フィリップ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル6世は、14世紀~15世紀のフランスの男性。

在位

 フランス王 1368年~1380年

埋葬地

 フランス王国、サン・ドニ大聖堂

外部リンク

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ルイ1世・ド・ヴァロワ Louis I de Valois

生没
1372年~1407年
シャルル5世
ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
シャルル1世・ド・ヴァロワ
ジャン1世・ダングレーム

概要

 ルイ1世・ド・ヴァロワは、14世紀~15世紀の男性。

在位

 トゥーレーヌ公 1386年1392年
 オルレアン公 1392年~1407年

チェーザレ・ボルジア数

 子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 ルイ・ドルレアン(Louis d'Orléans

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『快楽の中世史』
 『ルネサンスの女たち』

ジャン1世・ド・ブルゴーニュ Jean I de Bourgogne

生没
1371年5月28日~1419年9月10日
出身
ブルゴーニュ公国ディジョン
没地
フランス王国モントロー
フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ
フランドル女伯マルグリット3世
マルグリット・ド・バヴィエール
マルグリット・ド・ブルゴーニュ
マリー・ド・ブルゴーニュ
イザベル・ド・ブルゴーニュ
フィリップ・ル・ボン
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ
アンヌ・ド・ブルゴーニュ
アニェス・ド・ブルゴーニュ
ギー・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ
フィリポット・ド・ブルゴーニュ
ジャン・ド・ブルゴーニュ

概要

 ジャン1世・ド・ブルゴーニュは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

在位

 ブルゴーニュ公 1404年~1419年

埋葬地

 ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院

外部リンク

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ジャン2世・ダランソン Jean II d'Alençon

生没
1409年3月2日~1476年9月8日
出身
フランス王国エセ
没地
フランス王国パリ
ジャン1世・ダランソン
マリー・ド・ブルターニュ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マリー・ダルマニャック
カトリーヌ・ダランソン
ルネ・ダランソン

概要

 ジャン2世・ダランソンは、15世紀のフランスの男性。

外部リンク

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シャルル1世・ド・ヴァロワ Charles I de Valois

生没
1394年11月24日~1465年1月5日
ルイ1世・ド・ヴァロワ
ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
イザベル・ド・ヴァロワ
ポンヌ・ダルマニャック
マリー・ド・クレーヴ
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ12世
アンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル1世・ド・ヴァロワは、14世紀~15世紀の男性。

在位

 アングレーム伯
 オルレアン公 1407年~1465年
  次代:ルイ12世

年表

1447年8月18日

内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。

しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。

この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。

フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワは自分の母ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート侯ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。

1447年9月25日

オルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、アスティを占領。

1447年10月半ば

アスティを根拠地としてアレッサンドリアを攻撃するなどミラノ領侵攻を本格化させるオルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、シャルル7世軍、バルトロメオ・コッレオーニ(1400年~1475年)指揮のミラノアンブロジアーナ共和国軍に敗れる。

1460年1月

ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。

チェーザレ・ボルジア数

 子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 シャルル・ドルレアン、オルレアン公シャルル、Charles d'Orléans

外部リンク

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 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『快楽の中世史』
 『イタリア史』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ジャン1世・ダングレーム Jean I d'Angoulême

生没
1400年~1467年4月30日
ルイ1世・ド・ヴァロワ
ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
マルグリット・ド・ロアン
ルイ・ダングレーム
シャルル2世・ダングレーム
ジャンヌ・ダングレーム

概要

 ジャン1世・ダングレームは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

在位

 アングレーム伯 1407年~1467年

外部リンク

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フィリップ・ル・ボン Philippe le Bon

生没
1396年7月31日~1467年6月15日
出身
ブルゴーニュ公国ディジョン
没地
ブルゴーニュ公国ブリュージュ
ジャン1世・ド・ブルゴーニュ
マルグリット・ド・バヴィエール
ミシェル・ド・フランス
ボンヌ・ダルトワ
イザベル・ド・ポルチュガル
シャルル・ル・テメレール
マリー・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ

概要

 フィリップ・ル・ボンは、14世紀~15世紀のフランスの男性。

在位

 ブルゴーニュ公 1419年~1467年
  次代:シャルル・ル・テメレール

年表

1435年9月21日

シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン(1396年~1467年:在位1419年~1467年)の封建的臣従義務を一代限り免除し主権者として承認することで和約し(アラスの和)、フィリップ・ル・ボンを制肘下に入れる。但し、フィリップ・ル・ボンと結ぶイングランドはシャルル7世の優位を認めるこの和に抵抗し戦いを続行。

1435年

ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの捕虜となっていた(1431年~1432年、1435年~)ルネ・ダンジューに代わり、その妻Isabella(?~1453年)、ナポリに入る。

1438年5月19日

フィリップ・ル・ボンから釈放された(1437年)ルネ・ダンジュー、小軍と共にようやく海路ナポリ領に入る。

1463年12月22日

ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら諸侯の抗争に難渋するルイ11世は、フランチェスコ1世・スフォルツァの求めに応じてジェノヴァの支配権を委譲。

1464年12月

ルイ11世の弟ベリ公シャルル・ド・フランス(1446年~1472年:在位1461年~1465年)とブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら大諸侯、公益同盟を結成してルイ11世に反乱。間もなく戦争状態に入る。

1467年6月15日

死。

埋葬地

 ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院

別表記

 フィリップ善良公、フィリップ3世、Philip the Good

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『快楽の中世史』
 『世界大百科事典』
 『ハプスブルク家』
 『服飾の中世』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ルネ・ダランソン René d'Alençon

生没
1454年~1492年11月1日
没地
フランス王国アランソン城
ジャン2世・ダランソン
マリー・ダルマニャック
マルグリット・ダルクール
マルグリット・ド・ロレーヌ
シャルル4世・ダランソン
フランソワーズ・ダランソン
アンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 ルネ・ダランソンは、15世紀のフランスの男性。

外部リンク

 ウィキペディア

ヨランド・ド・ヴァロワ Yolande de Valois

生没
1434年9月23日~1478年8月23日
シャルル7世
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア

概要

 ヨランド・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Treccani.it
 Wikipedia

シャルル・ド・フランス Charles de France

生没
1446年12月26日~1472年3月24日
シャルル7世
マリー・ダンジュー

概要

 シャルル・ド・フランスは、15世紀の男性。

在位

 ベリ公 1461年~1465年

年表

1464年12月

ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら大諸侯と公益同盟を結成して兄ルイ11世に反乱。間もなく戦争状態に入る。

1465年10月5日

この日及び1465年10月29日ルイ11世、反乱大諸侯に担がれている弟の彼にノルマンディを与えるなどの譲歩を含む協定をパリ南東コンフラン及びサン・モールで公益同盟と結び、戦争を締結させる。公益同盟解体。

1472年3月

死。彼の死により、公領は本領に再併合される。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マリー・ド・ヴァロワ Marie de Valois

生没
1457年~1493年
シャルル1世・ド・ヴァロワ
マリア・フォン・クレーフェ
ジャン・ド・フォワ
ジェルメーヌ・ド・フォワ
ガストン・ド・フォワ

概要

 マリー・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 マリー・ドルレアン

外部リンク

 Famille de Carné
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 Wikipedia

アンヌ・ド・ヴァロワ Anne de Valois

生没
1464年~1491年
シャルル1世・ド・ヴァロワ
マリー・ド・クレーヴ

概要

 アンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Genealogy.EU
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

シャルル2世・ダングレーム Charles II d'Angoulême

生没
1459年~1496年1月1日
ジャン1世・ダングレーム
マルグリット・ド・ロアン
ルイーザ・ディ・サヴォイア
マグリット・ド・ナヴァール
フランソワ1世

概要

 シャルル2世・ダングレームは、15世紀のフランスの男性。

在位

 アングレーム伯 1467年~1496年

埋葬地

 フランス王国、アングレーム大聖堂

別表記

 シャルル・ドルレアン、Charles d'Orléans

外部リンク

 ウィキペディア

シャルル・ル・テメレール Charles le Téméraire

生没
1433年~1477年
フィリップ・ル・ボン
マルガレーテ
マリー・ド・ブルゴーニュ

概要

 シャルル・ル・テメレールは、15世紀の男性。

在位

 シャロレー伯
 ブルゴーニュ公 1467年~1477年
  先代:フィリップ・ル・ボン

年表

1467年6月15日

フィリップ・ル・ボン、死(1396年~:在位1419年~)——子シャロレー伯シャルル・ル・テメレール(1433年~1477年)、ブルゴーニュ公となる(在位1467年~1477年)。

1474年10月

ルイ11世フリードリヒ3世の支援を得たスイス誓約同盟、シャルル・ル・テメレールに対して戦端を開く(ブルゴーニュ戦争:1474年~1477年)。

1475年7月

イングランド王Edward IV、ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールから十分な支援を得られず、ルイ12世(1462年~1515年:オルレアン公1465年~1498年:フランス王在位1498年~1515年)の勧誘に応じて終身年金を得ることを条件にアミアン 近郊ピキニーで協定を結ぶ。間もなくフランスから撤退。

1476年6月22日

スイス誓約同盟軍、1476年3月2日スイス西部ヴォーのグランソンでの戦いに続き、この日、ベルン西方ムルテン郊外でシャルル・ル・テメレールの大軍を破る。

1477年1月5日

シャルル・ル・テメレール、フランス北東部ナンシーの戦いで敗れ、戦死(1433年~:在位1467年~)。ブルゴーニュ戦争、終結(1474年~1477年)。

フランス王国統一の最大の障害となっていたブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、王国統一、急速に進展:ルイ11世は公領(本領)を併合し、公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(1457年~1482年)はフランシュ=コンテ、ネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)のみを継承。

1477年

ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、公へのメディチ銀行ブールジュ支店の巨額の貸付、回収不能になる。支店の経営危機、深刻化。

別表記

 シャルル豪胆公、シャルル勇胆公、シャルル突進公、シャルル大胆公、シャルル・テメレール

外部リンク

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 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア史Ⅴ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『ハプスブルク家』
 『服飾の中世』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』

アンヌ・ド・ヴァロワ Anne de Valois

生没
1492年10月30日~1562年10月18日
出身
フランス王国アランソン
没地
モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート
ルネ・ダランソン
マルグリット・ド・ロレーヌ
グリエルモ9世・パレオロゴ
マリーア・パレオロガ
マルゲリータ・パレオロガ
ボニファチオ4世・パレオロゴ

概要

 アンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀~16世紀の女性。

埋葬地

 モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院

別表記

 アンヌ・ダランソン

外部リンク

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 Genealogy.EU

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ジャンヌ・ド・ヴァロワ Jeanne de Valois

生没
1464年4月23日~1505年2月4日
ルイ11世
カルロッタ・ディ・サヴォイア
ルイ12世

概要

 ジャンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1498年8月16日

教皇アレクサンデル6世により、ルイ12世との婚姻の無効を承認される。

別表記

 ジャンヌ・ドゥ・ヴァロワ、Jeanne de France

外部リンク

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 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

クロード・ド・フランス Claude de France

生没
1499年~1524年
ルイ12世
アンヌ・ド・ブルターニュ
フランソワ1世
ルイーズ・ド・ヴァロワ
シャルロット・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・ヴァロワ
アンリ2世
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
マグリット・ド・ヴァロワ

概要

 クロード・ド・フランスは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1504年9月22日

ルイ12世マクシミリアン1世マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。

1506年5月21日

1504年9月のブロワでの協定でフェリペ1世の子カール5世と結婚することになっていたルイ12世の娘クロード・ド・フランスは、ルイ12世の従兄弟フランソワ・ダングレーム(1494年~1547年:在位1515年~1547年)と婚約。

1514年1月9日

アンヌ・ド・ブルターニュ死。——クロード・ド・フランス、ブルターニュ公領を相続。

1514年5月18日

ルイ12世と故アンヌ・ド・ブルターニュの娘クロード・ド・フランスルイ12世の親族フランソワ・ダングレームと結婚。

1524年

フランソワ1世の妻クロード・ド・フランス死。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 ウィキペディア
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 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ルネ・ド・フランス Renée de France

生没
1510年10月25日~1574年6月12日
ルイ12世
アンヌ・ド・ブルターニュ
エルコーレ2世・デステ
アンナ・デステ
アルフォンソ2世・デステ
ルクレツィア・デステ
ルイジ・デステ

概要

 ルネ・ド・フランスは、16世紀の女性。

年表

1510年10月25日

生。

1528年6月28日

協定に基づきパリでエルコーレ2世・デステと結婚。

1528年11月12~30日

レッジョ、モデナ、フェッラーラで次々に盛大な祝典が開かれる。

1536年3月下旬

この頃?、J. Calvin、バーゼルを離れ、フェッラーラに入る。

1540年

聖餐を受けることを拒否。

1554年9月7日

アンリ2世の異端審問官Mathieu Oryに有罪とされ、拘禁刑を科される。

1554年9月13日

フェッラーラの古城に軟禁され、カトリックに回帰し、この日釈放される。しかし、J. Calvinらとの交流は続ける。

1560年

フランスの私領地モンタルジへ移り、ユグノー教徒たちと住む。

1574年6月12日

死。

チェーザレ・ボルジア数

 夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 レナータ・ディ・フランチア(Lenata di Francia)、ルネ・ディ・フランチア

外部リンク

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 世界帝王事典
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 JDA's Family Tree
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史Ⅴ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia

マグリット・ド・ナヴァール Marguerite de Navarre

生没
1492年~1549年
シャルル2世・ダングレーム
シャルル・ダランソン
ナヴァール王アンリ・ダルブレ
ジャンヌ・ダルブレ

概要

 マグリット・ド・ナヴァールは、15世紀~16世紀の女性。人文主義者や宗教改革者の保護者(「フランス・ルネサンスの母」)で自らも人文主義者

年表

1492年4月11日

フランス中西部アングレームに生。

外部リンク

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 Genealogy.EU

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

マリー・ド・ブルゴーニュ Marie de Bourgogne

生没
1457年2月13日~1482年3月27日
シャルル・ル・テメレール
マクシミリアン1世
フェリペ1世
マルグリット・ドートリッシュ

概要

 マリー・ド・ブルゴーニュは、15世紀の女性。

年表

1477年1月5日

シャルル・ル・テメレール、フランス北東部ナンシーの戦いで敗れ、戦死。ブルゴーニュ戦争、終結(1474年~1477年)。

フランス王国統一の最大の障害となっていたブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、王国統一、急速に進展:ルイ11世は公領(本領)を併合し、公の娘マリー・ド・ブルゴーニュはフランシュ=コンテ、ネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)のみを継承。

1477年8月19日

フリードリヒ3世の長子マクシミリアン1世と結婚。フランシュ=コンテとネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)、ハプスブルク家領となる。

1479年8月7日

フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世、フランス北部のGuinegatteの戦いでルイ11世の軍を破り、妻マリー・ド・ブルゴーニュの相続領を守る。

別表記

 マリードブルゴーニュ、マリア

外部リンク

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 Genealogy.EU
 kleio.org
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『ハプスブルク家』
 『服飾の中世』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois

生没
1523年6月5日~1574年9月15日
出身
サン=ジェルマン=アン=レー
没地
サヴォイア公国トリノ
フランソワ1世
クロード・ド・フランス
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイア

概要

 マグリット・ド・ヴァロワは、16世紀の女性。

年表

1550年

ベリー公となる。

別表記

 Marguerite de France

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フランソワ2世 François II

生没
1544年~1560年
アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス
メアリー・スチュアート

概要

 フランソワ2世は、16世紀の男性、フランス王。

在位

 フランス王 1559年~1560年
  先代:アンリ2世
  次代:シャルル9世

年表

1548年7月7日

結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。

1558年4月24日

アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。

1558年11月17日

メアリー1世死。

エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る。

これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。

1558年11月29日

スコットランド議会、メアリー・スチュアートの夫フランソワ2世に配偶者王位継承権を認める。

1559年7月10日

アンリ2世死。王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る。

15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。

1560年12月5日

フランソワ2世死。

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参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

シャルル9世 Charles IX

生没
1550年~1574年
アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 シャルル9世は、16世紀のフランスの男性。

在位

 フランス王 1560年~1574年
  先代:フランソワ2世
  次代:アンリ3世

年表

1560年12月5日

フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——弟シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。

これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。

1562年1月17日

カトリーヌ・メディシス、シャルル9世の名で、ユグノーの説教礼拝を都市市壁外で自由に許し、市壁内でも私邸内に限って認める勅令を発する(一月王令)。しかし高等法院がこの勅令の登録を拒否し、ギーズ一門がこれを断乎排斥する姿勢を固めるなど、カトリック・ユグノー両派の融和を狙うカトリーヌ・メディシスの企図に反し両派の対立、さらに深まる。

1565年6月14日~7月2日

カトリーヌ・メディシス、シャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。

1572年8月23日~8月24日

サン・バルテルミーの虐殺:Henri de NavarreMarguerite de Franceの結婚祝賀行事でパリに留まっていた各地のユグノー貴族・指導者たち、カトリーヌ・メディシスの巧みで強い教唆を受けたシャルル9世の命により、夜半からギーズ一門の兵士と暴徒に襲撃・虐殺される。Henri de Navarreは難を免れパリから逃亡するが、G. de Colignyがサン・バルテルミーの祭日の未明、ギーズ公Henri de Lorraine自身に率いられた彼の手の者により真っ先に刺殺される(1519年~)など犠牲者は3~4千名にのぼり、ユグノーは主な指導者を全て失う。

さらに組織的弾圧・殺戮が各地に広まり、犠牲者は1万名ののぼって「キリスト磔刑以来の虐殺」と評される事態の中、ユグノーは民衆を中心として組織的抵抗を続ける(第4次(フランス)宗教戦争(~1573年))。

この虐殺に驚愕し危機感を深めるユグノーの間に、この暴政を行う王に対する反抗を正統化する論拠を、まず聖書の中に、次いで聖書の枠を超えて広く求める動きが直ちに生じ、Monarchomachi(暴君放伐論派:モナルコマキ)と総称されることになる政治理論家が生成。

1572年

1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。

1574年5月30日

シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファヌ・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファヌ・バートリ:在位~1586年))。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『服飾の中世』

アンリ3世 Henri III

生没
1551年~1589年
アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 アンリ3世は、16世紀の男性。

在位

 ポーランド王 1573年~1574年
 フランス王 1574年~1589年
  先代:シャルル9世

年表

1568年8月

カトリック・ユグノー両派の融和・共存策を断念したカトリーヌ・メディシス、王総代理官アンリ3世(1551年~1589年:ポーランド王在位1573年~1574年:フランス王1574年~1589年)にLouis I de BourbonG. de Colignyを奇襲させるが失敗に終わる。後者らLa Rochelleに籠城し第3次(フランス)宗教戦争、始まる(~1570年)。

1569年8月

教皇軍とフィレンツェ軍、トゥール近郊でアンリ3世指揮のフランス王軍(カトリック軍)と合流。間もなくポワティエ防衛戦に参加。

1574年5月30日

シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファヌ・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファヌ・バートリ:在位~1586年))。

別表記

 Henryk

外部リンク

 Genealogy.EU

参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『中世の食卓から』
 『服飾の中世』

マグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois

生没
1553年5月14日~1615年5月27日
アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ4世

概要

 マグリット・ド・ヴァロワは、16世紀~17世紀の女性。

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参考文献

 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

クロード・ド・ヴァロワ Claude de Valois

生没
1547年11月12日~1575年2月21日
アンリ2世
カトリーヌ・ド・メディシス
シャルル2世・ド・ロレーヌ
アンリ・ド・ロレーヌ
クリスティーヌ・ド・ロレーヌ
シャルル・ド・ロレーヌ
アントワネット・ド・ロレーヌ
アンヌ・ド・ロレーヌ
フランソワ・ド・ロレーヌ
カトリーヌ・ド・ロレーヌ
エリザベート・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ロレーヌ

概要

 クロード・ド・ヴァロワは、16世紀のフランスの女性。

外部リンク

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記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2021年10月30日