シャルル・ド・ヴァロワ Charles de Valois
- 生没
- 1270年3月12日~1325年12月16日
- 出身
- フランス王国ヴァンセンヌ
- 没地
- フランス王国ペレ
- 父
- フィリップ3世
- 母
- イザベッラ・ダラゴーナ
- 妻
- マルグリット・ダンジュー
カトリーヌ1世・ド・クルトネー
マオー・ド・シャティヨン - 子
- イザベル・ド・ヴァロワ
フィリップ6世
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
シャルル2世・ダランソン
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
ブランシュ・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
概要
シャルル・ド・ヴァロワは、13世紀から14世紀のフランスの男性。
年表
1301年11月1日
フィレンツェに入る。
埋葬地
サン・ドニ大聖堂
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
フィリップ6世 Philippe VI
- 生没
- 1293年~1350年8月22日
- 出身
- フランス王国ノジャン=ル=ロワ又はクーロム?
- 没地
- フランス王国ウール=エ=ロワール、クーロンブ修道院
- 父
- シャルル・ド・ヴァロワ
- 母
- マルグリット・ダンジュー
- 妻
- ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
ブランシュ・デヴルー - 子
- ジャン2世
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
フィリップ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
概要
フィリップ6世は、13世紀から14世紀のフランスの男性。
在位
フランス王 1328年~1350年
埋葬地
サン・ドニ大聖堂
外部リンク
シャルル2世・ダランソン Charles II d'Alençon
- 生没
- 1297年~1346年8月26日
- 父
- シャルル・ド・ヴァロワ
- 母
- マルグリット・ダンジュー
- 妻
- ジャンヌ・ド・ジョワニー
マリア・デ・ラ・セルダ - 子
- シャルル3世・ダランソン
フィリップ・ダランソン
ピエール2世・ダランソン
イザベル・ダランソン
ロベール・ダランソン
イザベル・ダランソン
概要
シャルル2世・ダランソンは、13世紀から14世紀のフランスの男性。
外部リンク
ジャン2世 Jean II
- 生没
- 1319年4月16日~1364年4月8日
- 出身
- フランス王国ル・マン
- 没地
- イングランド王国ロンドン、サヴォイ・パレス
- 父
- フィリップ6世
- 母
- ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
- 妻
- ボンヌ・ド・リュクサンブール
オーヴェルニュ女伯ジャンヌ1世 - 子
- ブランシュ・ド・ヴァロワ
シャルル5世
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ルイ1世・ダンジュー
ジャン・ド・ヴァロワ
フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
アニェス・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
イザベッラ・ディ・ヴァロワ
ブランシュ・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
概要
ジャン2世は、14世紀のフランスの男性。
在位
フランス王 1350年~1364年
埋葬地
サン・ドニ大聖堂
外部リンク
ピエール2世・ダランソン Pierre II d'Alençon
- 生没
- 1340年~1404年9月20日
- 父
- シャルル2世・ダランソン
- 母
- マリア・デ・ラ・セルダ
- 妻
- マリー・シャマイヤール
- 子
- マリー・ダランソン
ピエール・ダランソン
ジャン・ダランソン
マリー・ダランソン
ジャンヌ・ダランソン
カトリーヌ・ダランソン
マグリット・ダランソン
ジャン1世・ダランソン
ピエール・ダランソン
概要
ピエール2世・ダランソンは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
外部リンク
シャルル5世 Charles V
- 生没
- 1338年1月21日~1380年9月16日
- 出身
- フランス王国ヴァンセンヌ城
- 没地
- フランス王国ボテ・シュル・マルヌ
- 父
- ジャン2世
- 母
- ボンヌ・ド・リュクサンブール
- 妻
- ジャンヌ・ド・ブルボン
- 子
- ジャンヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
ボンヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
シャルル6世
マリー・ド・ヴァロワ
ルイ1世・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
概要
シャルル5世は、14世紀のフランスの男性。
在位
フランス王 1350年~1364年
埋葬地
サン・ドニ大聖堂
外部リンク
ルイ1世・ダンジュー Louis I d'Anjou
- 生没
- 1339年7月23日~1384年9月20日
- 出身
- フランス王国ヴァンセンヌ
- 没地
- ナポリ王国ビシェーリエ
- 父
- ジャン2世
- 母
- ボンヌ・ド・リュクサンブール
- 妻
- マリー・ド・ブロワ
- 子
- マリー・ダンジュー
ルイ2世・ダンジュー
シャルル・ダンジュー
概要
ルイ1世・ダンジューは、14世紀の男性。ヴァロワ=アンジュー家の祖。ナポリ王ジョヴァンナ1世・ダンジオの養子となり、対立教皇クレメンス7世の支持を取り付けて南イタリアに進出。
在位
カラブリア公 1380年~1382年7月27日
年表
1365年
ウルバヌス5世から祝福された剣を拝受。
1371年
1384年9月
ナポリ王カルロ3世・ダンジオとビシェーリエで戦闘。
1384年9月13日
夜、カルロ3世・ダンジオ軍が城郭を越えてビシェーリエを略奪。この際、ルイ1世・ダンジューは負傷。
1384年9月20日
ビシェーリエ城にて、死。
外部リンク
フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ Philippe II de Bourgogne
- 生没
- 1342年1月15日~1404年4月27日
- 出身
- フランス王国ポントワーズ
- 没地
- ブルゴーニュ領ネーデルラント、ハレ
- 父
- ジャン2世
- 母
- ボンヌ・ド・リュクサンブール
- 妻
- フランドル女伯マルグリット3世
- 子
- ジャン1世・ド・ブルゴーニュ
シャルル・ド・ブルゴーニュ
マルグリット・ド・ブルゴーニュ
ルイ・ド・ブルゴーニュ
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ
ボンヌ・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ
マリー・ド・ブルゴーニュ
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
概要
フィリップ2世・ド・ブルゴーニュは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
在位
ブルゴーニュ公 1363年~1404年
埋葬地
ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院
外部リンク
イザベッラ・ディ・ヴァロワ Isabella di Valois
- 生没
- 1348年10月1日~1372年9月11日
- 出身
- フランス王国ヴァンセンヌ
- 没地
- パヴィア
- 父
- ジャン2世
- 母
- ボンヌ・ド・リュクサンブール
- 夫
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
- 子
- ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
アッツォーネ・ヴィスコンティ
カルロ・ヴィスコンティ
概要
イザベッラ・ディ・ヴァロワは、14世紀の女性。
年表
埋葬地
別表記
Isabelle de Valois
外部リンク
世界帝王事典
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
kleio.org
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジャン1世・ダランソン Jean I d'Alençon
- 生没
- 1385年~1415年10月25日
- 父
- ピエール2世・ダランソン
- 母
- マリー・シャマイヤール
- 妻
- マリー・ド・ブルターニュ
- 子
- ピエール・ダランソン
ジャン2世・ダランソン
マリー・ダランソン
ジャンヌ・ダランソン
シャルロット・ダランソン
ピエール・ダランソン
マグリット・ダランソン
ルネ・ダランソン
概要
ジャン1世・ダランソンは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
外部リンク
シャルル6世 Charles VI
- 生没
- 1368年12月3日~1422年10月21日
- 出身
- フランス王国パリ
- 没地
- フランス王国パリ
- 父
- シャルル5世
- 母
- ジャンヌ・ド・ブルボン
- 妻
- イザボー・ド・バヴィエール
- 子
- シャルル・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
イザベル・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
ミシェル・ド・ヴァロワ
ルイ・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
シャルル7世
フィリップ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
概要
シャルル6世は、14世紀から15世紀のフランスの男性。
在位
フランス王 1368年~1380年
年表
埋葬地
サン・ドニ大聖堂
外部リンク
ルイ1世・ド・ヴァロワ Louis I de Valois
- 生没
- 1372年~1407年
- 父
- シャルル5世
- 妻
- ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
- 子
- シャルル1世・ド・ヴァロワ
ジャン1世・ダングレーム
概要
ルイ1世・ド・ヴァロワは、14世紀から15世紀の男性。
在位
トゥーレーヌ公 1386年1392年
オルレアン公 1392年~1407年
別表記
ルイ・ドルレアン(Louis d'Orléans)
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
kleio.org
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『快楽の中世史』
『ルネサンスの女たち』
ルイ2世・ダンジュー Louis II d'Anjou
- 生没
- 1377年10月5日~1417年4月29日
- 出身
- フランス王国トゥールーズ
- 没地
- フランス王国アンジュー、アンジェ城
- 父
- ルイ1世・ダンジュー
- 母
- マリー・ド・ブロワ
- 妻
- ヨランド・ダラゴン
- 子
- ルイ3世・ダンジュー
マリー・ダンジュー
ルネ・ダンジュー
ヨランド・ダンジュー
シャルル・ダンジュー
概要
ルイ2世・ダンジューは、14世紀から15世紀の男性。
在位
カラブリア公 1382年7月27日~1384年9月20日
外部リンク
ジャン1世・ド・ブルゴーニュ Jean I de Bourgogne
- 生没
- 1371年5月28日~1419年9月10日
- 出身
- ブルゴーニュ公国ディジョン
- 没地
- フランス王国モントロー
- 父
- フィリップ2世・ド・ブルゴーニュ
- 母
- フランドル女伯マルグリット3世
- 妻
- マルグリット・ド・バヴィエール
- 子
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ
マリー・ド・ブルゴーニュ
イザベル・ド・ブルゴーニュ
フィリップ・ル・ボン
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ
アンヌ・ド・ブルゴーニュ
アニェス・ド・ブルゴーニュ
ギー・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ
フィリポット・ド・ブルゴーニュ
ジャン・ド・ブルゴーニュ
概要
ジャン1世・ド・ブルゴーニュは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
在位
ブルゴーニュ公 1404年~1419年
埋葬地
ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院
外部リンク
ジャン2世・ダランソン Jean II d'Alençon
- 生没
- 1409年3月2日~1476年9月8日
- 出身
- フランス王国エセ
- 没地
- フランス王国パリ
- 父
- ジャン1世・ダランソン
- 母
- マリー・ド・ブルターニュ
- 妻
- ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マリー・ダルマニャック - 子
- カトリーヌ・ダランソン
ルネ・ダランソン
概要
ジャン2世・ダランソンは、15世紀のフランスの男性。
外部リンク
シャルル1世・ド・ヴァロワ Charles I de Valois
- 生没
- 1394年11月24日~1465年1月5日
- 父
- ルイ1世・ド・ヴァロワ
- 母
- ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
- 妻
- イザベル・ド・ヴァロワ
ポンヌ・ダルマニャック
マリア・フォン・クレーフェ - 子
- マリー・ド・ヴァロワ
ルイ12世
アンヌ・ド・ヴァロワ
概要
シャルル1世・ド・ヴァロワは、14世紀から15世紀の男性。
在位
アングレーム伯
オルレアン公 1407年~1465年
次代:ルイ12世
年表
1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンもフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアはフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワは自分の母ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート侯ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。
1447年9月25日
オルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、アスティを占領。
1447年10月半ば
アスティを根拠地としてアレッサンドリアを攻撃するなどミラノ領侵攻を本格化させるオルレアン公シャルル1世・ド・ヴァロワ軍、シャルル7世軍、バルトロメオ・コッレオーニ(1400年~1475年)指揮のミラノ=アンブロジアーナ共和国軍に敗れる。
1460年1月
ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。
別表記
シャルル・ドルレアン、オルレアン公シャルル、Charles d'Orléans
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Famille de Carné
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『快楽の中世史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ジャン1世・ダングレーム Jean I d'Angoulême
- 生没
- 1400年~1467年4月30日
- 父
- ルイ1世・ド・ヴァロワ
- 母
- ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ
- 妻
- マルグリット・ド・ロアン
- 子
- ルイ・ダングレーム
シャルル2世・ダングレーム
ジャンヌ・ダングレーム
概要
ジャン1世・ダングレームは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
在位
アングレーム伯 1407年~1467年
外部リンク
フィリップ・ル・ボン Philippe le Bon
- 生没
- 1396年7月31日~1467年6月15日
- 出身
- ブルゴーニュ公国ディジョン
- 没地
- ブルゴーニュ公国ブリュージュ
- 父
- ジャン1世・ド・ブルゴーニュ
- 母
- マルグリット・ド・バヴィエール
- 妻
- ミシェル・ド・フランス
ボンヌ・ダルトワ
イザベル・ド・ポルチュガル - 子
- シャルル・ル・テメレール
マリー・ド・ブルゴーニュ
アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ
概要
フィリップ・ル・ボンは、14世紀から15世紀のフランスの男性。
在位
ブルゴーニュ公 1419年~1467年
次代:シャルル・ル・テメレール
年表
1435年9月21日
シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン(1396年~1467年:在位1419年~1467年)の封建的臣従義務を一代限り免除し主権者として承認することで和約し(アラスの和)、フィリップ・ル・ボンを制肘下に入れる。但し、フィリップ・ル・ボンと結ぶイングランドはシャルル7世の優位を認めるこの和に抵抗し戦いを続行。
1435年
ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの捕虜となっていた(1431年~1432年、1435年~)ルネ・ダンジューに代わり、その妻Isabella(?~1453年)、ナポリに入る。
1438年5月19日
フィリップ・ル・ボンから釈放された(1437年)ルネ・ダンジュー、小軍と共にようやく海路ナポリ領に入る。
1461年
1463年12月22日
ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら諸侯の抗争に難渋するルイ11世は、フランチェスコ1世・スフォルツァの求めに応じてジェノヴァの支配権を委譲。
1464年12月
ルイ11世の弟ベリ公シャルル・ド・フランス(1446年~1472年:在位1461年~1465年)とブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら大諸侯、公益同盟を結成してルイ11世に反乱。間もなく戦争状態に入る。
1467年6月15日
死。
埋葬地
ブルゴーニュ公国ディジョン、シャンモル修道院
別表記
フィリップ善良公、フィリップ3世、Philip the Good
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
kleio.org
参考文献
『快楽の中世史』
『世界大百科事典』
『ハプスブルク家』
『服飾の中世』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルネ・ダランソン René d'Alençon
- 生没
- 1454年~1492年11月1日
- 没地
- フランス王国アランソン城
- 父
- ジャン2世・ダランソン
- 母
- マリー・ダルマニャック
- 妻
- マルグリット・ダルクール
マルグリット・ド・ロレーヌ - 子
- シャルル4世・ダランソン
フランソワーズ・ダランソン
アンヌ・ド・ヴァロワ
概要
ルネ・ダランソンは、15世紀のフランスの男性。
外部リンク
ヨランド・ド・ヴァロワ Yolande de Valois
- 生没
- 1434年9月23日~1478年8月23日
- 父
- シャルル7世
- 夫
- アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
概要
ヨランド・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。
外部リンク
シャルル・ド・フランス Charles de France
- 生没
- 1446年12月26日~1472年3月24日
- 父
- シャルル7世
- 母
- マリー・ダンジュー
概要
シャルル・ド・フランスは、15世紀の男性。
在位
ベリー公 1461年~1465年
年表
1464年12月
ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら大諸侯と公益同盟を結成して兄ルイ11世に反乱。間もなく戦争状態に入る。
1465年10月5日
この日及び1465年10月29日ルイ11世、反乱大諸侯に担がれている弟の彼にノルマンディを与えるなどの譲歩を含む協定をパリ南東コンフラン及びサン・モールで公益同盟と結び、戦争を締結させる。公益同盟解体。
1472年3月
死。彼の死により、公領は本領に再併合される。
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マリー・ド・ヴァロワ Marie de Valois
- 生没
- 1457年~1493年
- 父
- シャルル1世・ド・ヴァロワ
- 母
- マリア・フォン・クレーフェ
- 夫
- ジャン・ド・フォワ
- 子
- ジェルメーヌ・ド・フォワ
ガストン・ド・フォワ
概要
マリー・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。
別表記
マリー・ドルレアン
外部リンク
Famille de Carné
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
Wikipedia
アンヌ・ド・ヴァロワ Anne de Valois
- 生没
- 1464年~1491年
- 父
- シャルル1世・ド・ヴァロワ
- 母
- マリア・フォン・クレーフェ
概要
アンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀の女性。
外部リンク
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
シャルル2世・ダングレーム Charles II d'Angoulême
- 生没
- 1459年~1496年1月1日
- 父
- ジャン1世・ダングレーム
- 母
- マルグリット・ド・ロアン
- 妻
- ルイーザ・ディ・サヴォイア
- 子
- マルグリット・ド・ナヴァル
フランソワ1世
概要
シャルル2世・ダングレームは、15世紀のフランスの男性。
在位
アングレーム伯 1467年~1496年
埋葬地
アングレーム大聖堂
別表記
シャルル・ドルレアン、Charles d'Orléans
外部リンク
ジャン・ダンジュー Jean d'Anjou
- 生没
- 1425年~1470年12月16日
- 出身
- ロレーヌ公国ナンシー
- 没地
- カタルーニャ君主国バルセロナ
- 父
- ルネ・ダンジュー
- 母
- イザベル・ド・ロレーヌ
- 妻
- マリー・ド・ブルボン
- 子
- ニコラ1世・ダンジュー
概要
ジャン・ダンジューは、15世紀の男性。
在位
カラブリア公 1435年2月2日~1470年12月16日
ロレーヌ公ジャン2世 1453年~1470年
次代:ニコラ1世・ダンジュー
年表
1425年
ロレーヌ公国ナンシーにて、生(1426年頃)。
1458年5月初め
シャルル7世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンのジェノヴァ攻略を阻むべく、彼によりナポリから放逐されたルネ・ダンジューの子ジャン・ダンジューを総督としてジェノヴァに派遣。1458年5月11日頃からジャン・ダンジューはジェノヴァを統治し軍を指揮。
1459年10月5日
シャルル7世のジェノヴァ総督ジャン・ダンジューは、ナポリ王国内部のアンジュー家系領主たちの反フェッランテ・ダラゴーナの動向と呼応しつつ、この日頃、水軍を率いてナポリ湾に現われる。
1460年7月7日
ピウス2世及びフランチェスコ1世・スフォルツァからの援軍を含むフェッランテ・ダラゴーナ指揮の軍、ジャン・ダンジュー指揮の軍とナポリ近郊サルノで激戦の後、完敗。フェッランテ・ダラゴーナは辛うじてナポリ市内に逃げ帰る。
1460年7月22/27日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァの弟アレッサンドロ・スフォルツァ及びウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。
間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。
1461年7月2日
シジスモンド・マラテスタ指揮の軍とジャン・ダンジュー軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に勝利。
1462年8月18日
フォッジャ近郊トローイアでフェッランテ・ダラゴーナ及びアレッサンドロ・スフォルツァ指揮の軍に敗北。
1462年10月13日
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナと和平を結ぶ。
1463年9月
傭兵隊長で自軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノを初め領主らも離れ始めて孤立し、イスキア島へ逃げる。
1464年春
イスキア島からフランス王国プロヴァンスに逃げ帰る。
埋葬地
バルセロナ、サンタ・エウラリア大聖堂
別表記
Giovanni d'Angio
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イタリア史』
ヨランド・ダンジュー Yolande d'Anjou
- 生没
- 1428年11月2日~1483年3月23日
- 出身
- ロレーヌ公国ナンシー
- 没地
- ロレーヌ公国ナンシー
- 父
- ルネ・ダンジュー
- 母
- イザベル・ド・ロレーヌ
- 夫
- フェリー2世・ド・ヴォーデモン
- 子
- ルネ2世・ド・ロレーヌ
ニコラ・ド・ロレーヌ
ピエール・ド・ロレーヌ
ジャンヌ・ド・ロレーヌ
ヨランド・ド・ロレーヌ
マルグリット・ド・ロレーヌ
概要
ヨランド・ダンジューは、15世紀のフランスの女性。
在位
ロレーヌ公 1473年
バル公 1480年~1483年
外部リンク
シャルル・ル・テメレール Charles le Téméraire
- 生没
- 1433年~1477年
- 父
- フィリップ・ル・ボン
- 妻
- マルガレーテ
- 子
- マリー・ド・ブルゴーニュ
概要
シャルル・ル・テメレールは、15世紀の男性。
在位
シャロレー伯
ブルゴーニュ公 1467年~1477年
先代:フィリップ・ル・ボン
年表
1467年6月15日
フィリップ・ル・ボン、死(1396年~:在位1419年~)——子シャロレー伯シャルル・ル・テメレール(1433年~1477年)、ブルゴーニュ公となる(在位1467年~1477年)。
1474年10月
ルイ11世とフリードリヒ3世の支援を得たスイス誓約同盟、シャルル・ル・テメレールに対して戦端を開く(ブルゴーニュ戦争:1474年~1477年)。
1475年7月
イングランド王Edward IV、ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールから十分な支援を得られず、ルイ12世(1462年~1515年:オルレアン公1465年~1498年:フランス王在位1498年~1515年)の勧誘に応じて終身年金を得ることを条件にアミアン 近郊ピキニーで協定を結ぶ。間もなくフランスから撤退。
1476年6月22日
スイス誓約同盟軍、1476年3月2日スイス西部ヴォーのグランソンでの戦いに続き、この日、ベルン西方ムルテン郊外でシャルル・ル・テメレールの大軍を破る。
1477年1月5日
シャルル・ル・テメレール、フランス北東部ナンシーの戦いで敗れ、戦死(1433年~:在位1467年~)。ブルゴーニュ戦争、終結(1474年~1477年)。
フランス王国統一の最大の障害となっていたブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、王国統一、急速に進展:ルイ11世は公領(本領)を併合し、公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(1457年~1482年)はフランシュ=コンテ、ネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)のみを継承。
1477年
ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、公へのメディチ銀行ブールジュ支店の巨額の貸付、回収不能になる。支店の経営危機、深刻化。
別表記
シャルル豪胆公、シャルル勇胆公、シャルル突進公、シャルル大胆公、シャルル・テメレール
外部リンク
ウィキペディア
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Genealogy.EU
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『イタリア史Ⅴ』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『快楽の中世史』
『君主論』
『世界大百科事典』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『ハプスブルク家』
『服飾の中世』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
アンヌ・ド・ヴァロワ Anne de Valois
- 生没
- 1492年10月30日~1562年10月18日
- 出身
- フランス王国アランソン
- 没地
- モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート
- 父
- ルネ・ダランソン
- 母
- マルグリット・ド・ロレーヌ
- 夫
- グリエルモ9世・パレオロゴ
- 子
- マリーア・パレオロガ
マルゲリータ・パレオロガ
ボニファチオ4世・パレオロゴ
概要
アンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀から16世紀の女性。
埋葬地
モンフェッラート侯国カザーレ・モンフェッラート、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
別表記
アンヌ・ダランソン
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
マルグリット・ド・ナヴァル Marguerite de Navarre
- 生没
- 1492年4月11日~1549年12月21日
- 出身
- フランス王国アングレーム
- 没地
- ナヴァラ王国オド
- 父
- シャルル2世・ダングレーム
- 母
- ルイーザ・ディ・サヴォイア
- 夫
- シャルル4世・ダランソン
アンリ・ダルブレ - 子
- ジャンヌ・ダルブレ
概要
マルグリット・ド・ナヴァルは、15世紀から16世紀の女性。人文主義者や宗教改革者の保護者(「フランス・ルネサンスの母」)で自らも人文主義者。
在位
ベリー公 1517年~1549年
年表
1492年4月11日
フランス中西部アングレームに生。
1509年
シャルル4世・ダランソンと結婚。
1527年1月24日
サン=ジェルマン=アン=レー城にて、アンリ・ダルブレと結婚。
1549年12月21日
オドにて、死(1549年12月11日)。
肖像
埋葬地
レスカー大聖堂
別表記
マグリット・ド・ナヴァール
外部リンク
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界大百科事典』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
マリー・ド・ブルゴーニュ Marie de Bourgogne
- 生没
- 1457年2月13日~1482年3月27日
- 父
- シャルル・ル・テメレール
- 夫
- マクシミリアン1世
- 子
- フェリペ1世
マルグリット・ドートリッシュ
概要
マリー・ド・ブルゴーニュは、15世紀の女性。
年表
1477年1月5日
シャルル・ル・テメレール、フランス北東部ナンシーの戦いで敗れ、戦死。ブルゴーニュ戦争、終結(1474年~1477年)。
フランス王国統一の最大の障害となっていたブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、王国統一、急速に進展:ルイ11世は公領(本領)を併合し、公の娘マリー・ド・ブルゴーニュはフランシュ=コンテ、ネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)のみを継承。
1477年8月19日
フリードリヒ3世の長子マクシミリアン1世と結婚。フランシュ=コンテとネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)、ハプスブルク家領となる。
1479年8月7日
フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世、フランス北部のGuinegatteの戦いでルイ11世の軍を破り、妻マリー・ド・ブルゴーニュの相続領を守る。
別表記
マリードブルゴーニュ、マリア
外部リンク
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The Medici Archive Project
Treccani.it
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『ハプスブルク家』
『服飾の中世』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジャンヌ・ド・ヴァロワ Jeanne de Valois
- 生没
- 1464年4月23日~1505年2月4日
- 出身
- フランス王国ノジャン=ル=ロワ
- 没地
- フランス王国ブールジュ
- 父
- ルイ11世
- 母
- カルロッタ・ディ・サヴォイア
- 夫
- ルイ12世
概要
ジャンヌ・ド・ヴァロワは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。ブールジュにおいてフランシスコ会のアノンシアード(受胎告知)女子修道会を創立。18世紀に教皇ベネディクトゥス14世により福者に、20世紀にピウス12世により聖者に列せられている。
在位
ベリー公 1498年~1505年
年表
1498年8月16日
教皇アレクサンデル6世により、ルイ12世との婚姻の無効を承認される。
1499年3月13日
ベリー公爵領の首都ブールジュに到着。
1502年
フランシスコ会士ガブリエル・マリア・ニコラの助力を得てアノンシアード修道会をブールジュに設立。
別表記
ジャンヌ・ドゥ・ヴァロワ、Jeanne de France
外部リンク
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参考文献
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
クロード・ド・フランス Claude de France
- 生没
- 1499年10月13日~1524年7月20日
- 出身
- フランス王国ロモランタン=ラントネー
- 没地
- フランス王国ブロワ城
- 父
- ルイ12世
- 母
- アンヌ・ド・ブルターニュ
- 夫
- フランソワ1世
- 子
- ルイーズ・ド・ヴァロワ
シャルロット・ド・ヴァロワ
フランソワ・ド・ヴァロワ
アンリ2世
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
概要
クロード・ド・フランスは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1506年5月21日
1504年9月のブロワ条約でフェリペ1世の子カール5世と結婚することになっていたが、再従弟フランソワ・ダングレームと婚約。
1514年1月9日
母アンヌ・ド・ブルターニュ、死。
ブルターニュ公領を相続。
1514年5月18日
フランソワ・ダングレームと結婚。
1517年5月10日
フィリップ・ド・リュクサンブール枢機卿の手により、フランス王妃として戴冠。
1524年7月20日
ブロワ城にて、死。
埋葬地
フランス、サン=ドニ大聖堂
別表記
Claudia
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参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界大百科事典』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルネ・ド・フランス Renée de France
- 生没
- 1510年10月25日~1574年6月12日
- 父
- ルイ12世
- 母
- アンヌ・ド・ブルターニュ
- 夫
- エルコーレ2世・デステ
- 子
- アンナ・デステ
アルフォンソ2世・デステ
ルクレツィア・デステ
ルイジ・デステ
概要
ルネ・ド・フランスは、16世紀の女性。
年表
1510年10月25日
生。
1528年6月28日
協定に基づきパリでエルコーレ2世・デステと結婚。
1528年11月12~30日
レッジョ、モデナ、フェッラーラで次々に盛大な祝典が開かれる。
1536年3月下旬
この頃?、J. Calvin、バーゼルを離れ、フェッラーラに入る。
1540年
聖餐を受けることを拒否。
1554年9月7日
アンリ2世の異端審問官Mathieu Oryに有罪とされ、拘禁刑を科される。
1554年9月13日
フェッラーラの古城に軟禁され、カトリックに回帰し、この日釈放される。しかし、J. Calvinらとの交流は続ける。
1560年
フランスの私領地モンタルジへ移り、ユグノー教徒たちと住む。
1574年6月12日
死。
肖像
別表記
レナータ・ディ・フランチア(Lenata di Francia)、ルネ・ディ・フランチア
外部リンク
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世界帝王事典
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JDA's Family Tree
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
マルグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois
- 生没
- 1523年6月5日~1574年9月15日
- 出身
- フランス王国サン=ジェルマン=アン=レー
- 没地
- サヴォイア公国トリノ
- 父
- フランソワ1世
- 母
- クロード・ド・フランス
- 夫
- エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
- 子
- カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイア
概要
マグリット・ド・ヴァロワは、16世紀の女性。
在位
ベリー公 1550年~1574年
年表
1550年
ベリー公となる。
別表記
Marguerite de France
外部リンク
フランソワ2世 François II
- 生没
- 1544年~1560年
- 父
- アンリ2世
- 母
- カトリーヌ・ド・メディシス
- 妻
- メアリー・スチュアート
概要
フランソワ2世は、16世紀の男性、フランス王。
在位
フランス王 1559年~1560年
年表
1548年7月7日
結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。
1558年4月24日
アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。
1558年11月17日
朝メアリー1世死。
これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。
1558年11月29日
スコットランド議会、メアリー・スチュアートの夫フランソワ2世に配偶者王位継承権を認める。
1559年7月10日
アンリ2世死。王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る。
15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。
1560年12月5日
フランソワ2世死。
外部リンク
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Genealogy.EU
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
シャルル9世 Charles IX
- 生没
- 1550年~1574年
- 父
- アンリ2世
- 母
- カトリーヌ・ド・メディシス
概要
シャルル9世は、16世紀のフランスの男性。
在位
フランス王 1560年~1574年
年表
1560年12月5日
フランソワ2世死(1544年~:在位1559年~)——弟シャルル9世(1550年~1574年)、フランス王に即位し、シャルル9世を名乗る(在位1560年~1574年)。母后カトリーヌ・メディシス、10歳の幼王の事実上の摂政として実権を掌握。
これにより、前王妃メアリー・スチュアートの外戚ギーズ一門の権勢、崩壊。
1562年1月17日
カトリーヌ・メディシス、シャルル9世の名で、ユグノーの説教礼拝を都市市壁外で自由に許し、市壁内でも私邸内に限って認める勅令を発する(一月王令)。しかし高等法院がこの勅令の登録を拒否し、ギーズ一門がこれを断乎排斥する姿勢を固めるなど、カトリック・ユグノー両派の融和を狙うカトリーヌ・メディシスの企図に反し両派の対立、さらに深まる。
1565年6月14日~7月2日
カトリーヌ・メディシス、シャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。
1572年
1572年8月23日~8月24日
サン・バルテルミーの虐殺:Henri de NavarreとMarguerite de Franceの結婚祝賀行事でパリに留まっていた各地のユグノー貴族・指導者たち、カトリーヌ・メディシスの巧みで強い教唆を受けたシャルル9世の命により、夜半からギーズ一門の兵士と暴徒に襲撃・虐殺される。Henri de Navarreは難を免れパリから逃亡するが、G. de Colignyがサン・バルテルミーの祭日の未明、ギーズ公Henri de Lorraine自身に率いられた彼の手の者により真っ先に刺殺される(1519年~)など犠牲者は3~4千名にのぼり、ユグノーは主な指導者を全て失う。
さらに組織的弾圧・殺戮が各地に広まり、犠牲者は1万名ののぼって「キリスト磔刑以来の虐殺」と評される事態の中、ユグノーは民衆を中心として組織的抵抗を続ける(第4次(フランス)宗教戦争(~1573年))。
この虐殺に驚愕し危機感を深めるユグノーの間に、この暴政を行う王に対する反抗を正統化する論拠を、まず聖書の中に、次いで聖書の枠を超えて広く求める動きが直ちに生じ、Monarchomachi(暴君放伐論派:モナルコマキ)と総称されることになる政治理論家が生成。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世とマクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleでLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世・マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1574年5月30日
シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファン・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファン・バートリ:在位~1586年))。
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『服飾の中世』
アンリ3世 Henri III
- 生没
- 1551年~1589年
- 父
- アンリ2世
- 母
- カトリーヌ・ド・メディシス
概要
アンリ3世は、16世紀の男性。
在位
ポーランド王 1573年~1574年
フランス王 1574年~1589年
年表
1568年8月
カトリック・ユグノー両派の融和・共存策を断念したカトリーヌ・メディシス、王総代理官アンリ3世(1551年~1589年:ポーランド王在位1573年~1574年:フランス王1574年~1589年)にLouis I de BourbonとG. de Colignyを奇襲させるが失敗に終わる。後者らLa Rochelleに籠城し第3次(フランス)宗教戦争、始まる(~1570年)。
1569年8月
教皇軍とフィレンツェ軍、トゥール近郊でアンリ3世指揮のフランス王軍(カトリック軍)と合流。間もなくポワティエ防衛戦に参加。
1574年5月30日
シャルル9世死(1550年~:在位1560年~)。——弟・王総代理官(在位1567年~)・ポーランド王アンリ3世、この王位を捨てて(在位1573年~)フランス王に即位し、アンリ3世を名乗る(在位~1589年)——(ポーランド王に、翌1575年12月12日トランシルヴァニア公ステファン・バートリ(1533年~1586年)が選出されその翌1576年5月1日クラクフで戴冠(王名ステファン・バートリ:在位~1586年))。
別表記
Henryk
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス舞踊紀行』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『中世の食卓から』
『服飾の中世』
マルグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois
- 生没
- 1553年5月14日~1615年5月27日
- 父
- アンリ2世
- 母
- カトリーヌ・ド・メディシス
- 夫
- アンリ4世
概要
マグリット・ド・ヴァロワは、16世紀から17世紀の女性。
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
クロード・ド・ヴァロワ Claude de Valois
- 生没
- 1547年11月12日~1575年2月21日
- 父
- アンリ2世
- 母
- カトリーヌ・ド・メディシス
- 夫
- シャルル2世・ド・ロレーヌ
- 子
- アンリ・ド・ロレーヌ
クリスティーヌ・ド・ロレーヌ
シャルル・ド・ロレーヌ
アントワネット・ド・ロレーヌ
アンヌ・ド・ロレーヌ
フランソワ・ド・ロレーヌ
カトリーヌ・ド・ロレーヌ
エリザベート・ド・ロレーヌ
クロード・ド・ロレーヌ
概要
クロード・ド・ヴァロワは、16世紀のフランスの女性。
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年9月24日